風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年11月

11月30日(水) マルコ福音書8章

「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」 マルコによる福音書8章24節

 22節以下に、「ベトサイダで盲人をいやす」という小見出しのつけられた段落があります。マルコにだけ記されている奇跡物語です。

 アラム語で「漁師の家」という意味を持つ「ベトサイダ」の町に主イエスがやって来たということが伝わって、主イエスのもとに人々が一人の盲人を連れて来ました。そして、彼に触れて頂きたいと主イエスに願います(22節)。この「願う」というのは、パラカレオーという言葉で、「慰める、励ます」とも訳されます。この言葉の名詞形は、パラクレートス、ヨハネ福音書14章16節で「弁護者、助け主」と訳される言葉です。

 それは、聖霊に対する呼び名ですが、第一ヨハネ書2章1節では、御父のもとにおられる主イエスを「弁護者、正しい方」と呼んでいます。主イエスは、前に耳が聞こえず舌のまわらなかった人を癒されたように、ここでも目の見えない人の癒しを懇願されて、助け主、癒し主としてお働きくださるわけです。
 
 主イエスは、盲人の手を取って町の外に出て行き、それから、目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました(23節)。目に唾をつけた後、両手をその人の頭に置かれました。それは、病を癒し、神の祝福を与える行為です(5章23節、6章5節、7章32節、8章23節、10章16節、16章18節)。

 耳が聞こえない人を癒されるとき、「エッファタ」と仰いましたが、今回は、「何か見えるか」とお尋ねになりました(23節)。すると、冒頭の言葉(24節)のとおり、盲人は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言いました。

 ここで、この盲人は、かつて視力があった人であるということが分かります。というのは、「見えるようになって」というのはアナブレポウという動詞ですが、ブレポウが「見る」という意味、アナは接頭辞で、「上に(up)」という意味と、「再び(re)」という意味があります。「上に」と採れば、「見上げる(look up)」という意味になります。口語訳は、「顔を上げて」と訳していますので、これを「上に」の意味に捉えたわけです。
 
 一方、「再び」と採れば、「視力の回復(see again)」という意味になります。新共同訳、新改訳のように、「見えるようになって」と訳しているのは、再び見えるようになったととらえているといってよいのではないでしょうか。
 
 実際、初めて視力を得た人であれば、見えて来たものが人なのか、木なのかを判断したり、また、動いているのを「歩く」と表現することなど、瞬時に出来るものではないでしょう。だから、かつて見えていたものが、何らかの理由で視力を失って、それがまた見えるようになったということですね。
 
 しかし、すっかりはっきり見えるようになったわけではありませんでした。人が木のように見えているというのです。しかし、歩いているのが分かるので、それが木ではなく、人が見えるといったわけです。それで25節、「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えて来ていやされ、何でもはっきり見えるようになった」と記されています。

 主イエスが二度目に手を置かれて、はっきり見えるようになったというのですが、ここに、「よく見えて来て」、「いやされ」、「何でもはっきり見えるようになった」と、三つの動詞が用いられていて、最初の二つはアオリスト(不定過去)形、三つめの「はっきり見えるようになった」は未完了形、何でもはっきり見えるようになった状態が今も続いているということで、視力の回復、癒しが段階を追って徐々になされたということが示されます。

 癒しが徐々に行われたということは、それがとても難しい問題であったということ、しかし、それを癒す奇跡的な力を発揮されたということでしょう。

 ここで、視力というのは、単にモノを見るということだけではない、見ることで、その向こうにあるものを見ようとするというものでもあるということが分かります。25節の言葉で、「よく見えて来て」というのはディアブレポウ、look through、penetrate by vision見抜く、見通すという意味があります。よく見て、一心に見つめて見抜くことから、分かる、理解出来るようになるということにもなるでしょう。

 17,18節で主イエスが弟子たちに、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と仰っていましたが、ここでこの盲人は、繰り返し主に手を置いて頂くことで、自分に触れてくださるお方がどなたなのか、はっきり分かるようになった、視力が回復されただけでなく、霊的な目が開かれた、霊的な理解力も与えられたということではないでしょうか。

 この盲人は、視力を失ったことで気力を失い、希望を失って、人々によって主イエスのところに連れて来られたのでしょうけれども、主イエスは彼を人々の間から村の外へ連れ出し、彼と一対一となられて、彼に繰り返し触れてくださいました。それによって視力を回復しただけでなく、気力を取り戻し、希望が与えられ、意気揚々と家に帰ることが出来るようになりました。

 その時主イエスは彼に、「村に入ってはいけない」と仰いました。村に入らずに家に帰ることが出来るのかというところですが、これは、真の視力、霊的な理解力を持たない人々のところで何を見せ、何を語っても、それを正しく受け取ることは出来ないということでしょう。奇跡を見ることで信仰を得るということにはならないということです。

 真の視力、霊的な理解力をお与えくださるのは主イエスであり、この盲人が人々の間から、一人主イエスに連れ出されたように、主イエスとの個人的な交わりを持つ必要があるということではないでしょうか。マタイ6章6節に言われているように、所謂、密室で祈るということです。

 それとともに、帰るべきところがある、魂の真のホームともいうべき神の家、キリストを中心とした、二人三人が主イエスの御名によって集う教会に帰って来るということでしょう。私たちの信仰生活には、そのような教会での交わりと、個人的な密室での交わりが必要だ、それによって、私たちの信仰的な理解は広げられ、深められていくということではないでしょうか。

 御言葉により、御霊の導きに与って、主イエスのこと、そして、主イエスが説かれた神の御国のことが、はっきり見えるようにならせていただきましょう。

 主よ、今日も御言葉に耳を傾ける恵みのときをお与えくださり、ありがとうございます。私たちの耳を開いて、聴くべき御言葉をしっかりと聴き取らせてください。私たちの目を開いて、この世の現実の向こうに、主の御業をはっきりと見させてください。また、将来に向けて、上からのビジョン、幻を見させてください。密室での主との個人的な交わりと、教会での信仰の交わりとが、共に豊かに祝されますように。 アーメン



11月29日(火) マルコ福音書7章

「そこでイエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』」 マルコによる福音書7章29節

 24節に、「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」と記されています。「ティルス」は、口語訳では「ツロ」と呼ばれていました。これは、シリアの国、フェニキア地方にある地中海沿岸の町です。ガリラヤの湖のほとりゲネサレトからおよそ60㎞、随分遠くまで足を伸ばされたものです。「だれにも知られたくないと思っておられた」(24節)と記されているように、主イエスは、ひっそりと過ごすために、ティルスまで来られたのです。
 
 そこに一人の女性がやって来ます。26節に、「女はギリシア人でシリア・フェニキヤの生まれであった」と紹介されています。この女性が主イエスを訪ねてやって来たのは、幼い娘に取りついた悪霊を追い出してくれるよう頼むためでした(25節)。主イエスの評判を聞き、苦しんでいる娘のために主イエスのもとを訪ね、願いを聞いてもらおうと思ったのでしょう。
 
 ところが、主イエスは自分の前でひれ伏している女性に、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と答えられます(27節)。ここで、「子供たち」とはユダヤ人のこと、「小犬」とは異邦人のことを指していると考えられます。

 あなたのような異邦人ではなく、神に選ばれたユダヤ人に十分食べさせなければならない。そのために自分はやって来たんだ。ティルスの町に来たのは、人目を避けて休むためであって、異邦人のために働くことは考えていないといって、主イエスは、この女性の要請をはねつけられたかたちです。

 しかし、それが主イエスの本心だとは思えません。「小犬」とは、家族に可愛がられているペットのことです。そこで、「まず」最初に「子供たち」と言われるユダヤ人に、それから「子犬」と呼ぶ異邦人にという、世界宣教の順序が示されます。

 しかしながら、女性はそれに満足しませんでした。順番が回ってくるのをゆっくり待つ余裕はそのとき、彼女にもその娘にもなかったわけです。彼女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言います(28節)。主イエスが「小犬」といわれた言葉を差別と考えて、悲しんでいるわけではありません。腹を立て、主イエスに食ってかかっているわけでもありません。

 主イエスの言葉を受け取り、そこからもう一度、主に自分の思いを伝えます。自分は、主人に「待て」と言われれば、そのとおりにするしかない「小犬」です。ご主人のものを取り上げて、「腹が減っているのだから、先に食べさせろ」と要求出来る立場のものでないことは、十分承知しています。

 その時女性は、主イエスが、「先ず子供たち、それから小犬」と仰ったのを聞きながら、食卓の下にいる小犬が、子どものこぼしたパン屑を食べるという情景を思い浮かべたのではないでしょうか。

 順番を待たなければ食べられないというのではなく、主イエスがユダヤの人々のために用意している恵みの働きそのものがとても豊かなので、待っていなくても食卓の下に一杯こぼれ落ちて来る。下に落ちているものなら、小犬が頂いてもよいだろう。食卓で子どもと一緒に食べたいとか、先に食べさせろというのではない。子どもが下にこぼしたその余りもので自分たちは十分だということです。

 なんとウイットに富んだ言葉でしょうか。驚くべき想像力です。それこそ、汚れた霊などではない、聖霊の導きと言わざるを得ないようなことでしょう。

 女性の言葉を聞かれた主イエスは、冒頭の言葉(29節)のとおり、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われました。ここで、「それほど言うなら、よろしい」という言葉をリビングバイブルは、「実に見上げたものです」と訳しています。

 原文を直訳すると、「この言葉に従って」という言葉遣いですが、岩波訳は、「そう言われては〔かなわない〕」と訳しています。この言葉遣いは、主イエスがこの女性の言葉に脱帽しているものだと解釈しているわけです。これは、主イエスがこの女性の信仰や謙遜さに心動かされた言葉でしょう。そのような信仰が、異邦の女性から示されるとは、思っても見なかったということかも知れません。

 このことで、主イエスが見たいと思っておられる信仰とはどのようなものなのかということが示されます。ユダヤ人は、確かに神に選ばれた民ですが、それは、彼らに選ばれる資格、値打ちがあったからではありません。取るに足りない、エジプトで奴隷として苦しめられていた民を神が憐れみ、御自分の民とされたのです(申命記7章6節以下)。

 そのことを、彼らは恩知らずにも忘れてしまっていたのでしょう。恵みをいただいて当たり前、自分たちには、神の恵みに与る資格がある、権利があると考えるようになっていたのです。

 ところが、神から遠くに離れていると思っていた異邦人女性が、驚くほど豊かな主の憐れみに信頼する姿を見せました。女性のその実に見上げた信仰の言葉を受けて、その信仰の言葉に従って、主イエスは、「わたしもあなたに言いましょう。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と仰ったわけです。即ち、もう既に彼女の願いは聞かれ、主の業がその娘の上になされているというのです。

 主の足もとにひれ伏し、謙遜の限りを尽くしつつその憐れみにすがる女性に、『実に見上げた信仰』を見て主イエスは喜ばれ、栄光の御業を見せてくださいました。私たちも、どんなマイナス状況もプラスに変えることのおできになる主の恵みの豊かさをたたえる信仰の告白、賛美の祈りをささげましょう。

 主よ、この異邦の女性は、困難な状況の中で、主イエスの御前にひれ伏しつつ、その恵み深さにひたすら信頼し、大胆に憐れみを求めました。 私たちもこの女性に倣い、恵みの源なる主の御顔を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。御心に従います。御名の栄光を現してください。主の恵みと聖霊の導きが豊かにありますように。 アーメン



 

11月28日(月) マルコ福音書6章

「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」 マルコによる福音書6章4節

 主イエスが故郷ナザレの町にお帰りになりました(1節)。その目的は明言されていませんが、神の国の福音を携え、故郷の人々にそれを伝えるためでしょう。安息日になったので、会堂で教え始められたところ、人々はその教えに驚嘆し、「」この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)と言います。

 通常であれば、驚きは賞賛に変わるのでしょうけれども、そのときの人々の評価はむしろ侮蔑的なものでした。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここでわれわれと一緒に住んでいるではないか」(3節)というところに、それが表れています。

 主イエスを「大工」というのは、マルコだけです。マタイは、父ヨセフが大工であったと言い(マタイ13章55節)、ルカは、職業についての発言を削除しています(ルカ4章22節)。「大工」と約されている「テクトーン」という言葉は、木工だけでなく、金属、石などを加工するあらゆる職人を指す用語です。

 農機具を作ったり、屋根や門を修理する便利屋のような職人を指しているのではないかと言われます。マタイ11章30節の「わたしの軛は負いやすく」も、文字通り、主イエスが作った軛は使い易いという意味に解する人もいます。
 
 ここで、「ヨセフの息子」ではなく、「マリアの息子」と呼ばれているのは、ユダヤにおいて、大変珍しいことです。ルカ4章22節では、「ヨセフの子」と言われています。「マリアの息子」というのは、父ヨセフが早くに亡くなっていることを示すものだという解釈があります。であれば、主イエスは、母や弟妹を養う責任を負わされたのです。弟たちが家計を支えられるようになって、主イエスは公生涯に入られたのでしょう。

 また、弟たちの名や姉妹たちの存在も記されて、故郷の人々がこの家族について、よく知っていることが示されます。そして、そのように小さいころからその育ちをよく知っている「イエスちゃん」が、何を偉そうにしゃべっているのかという評価でしょう。そのようにして、安息日に会堂で語られた驚くべき主イエスの教えを、神の言葉として真剣に聴くことが出来ないようにしてしまうのです。

 それに対して、主イエスが冒頭の言葉(4節)を語られました。ただ、故郷で敬われないのは、預言者だけの問題ではありません。多かれ少なかれ、誰もが味わうことではないでしょうか。人の心理というのはなかなか複雑で、単純に成功を喜んではくれません。

 自分よりも下に見ていた者の功績を素直に認めることが出来なかったりします。小さな成功に喜んでいると、そのくらいは誰でも出来ると言ってしまいます。人に出来ないでっかいことをやってから喜べと言いたくなります。いわば、やっかみですね。

 勿論、主イエスはここで、心理的なことを仰っているわけではありません。主イエスの権威ある言葉、力ある御業が故郷の者たちを不信仰へと駆り立てる結果となっているからです。「人々の不信仰に驚かれた」(6節)と記されています。神の言葉、神の御業を受け入れることを拒むので、主イエスは奇跡を行うことが出来なかったのです。

 この話には、もうひとつ考えるべきことがあると思います。というのは、マルコが福音書を記したのはAD66年ごろという想定があります。そのころ、教会の中心人物の中に主イエスの兄弟たちが入っていました。一人はヤコブで、12使徒の一人ゼベダイの子ヤコブ殉教後、エルサレム教会の柱と目されるようになっています(使徒言行録12章17節、15章13節、ガラテヤ書1章19節)。また、ユダの名も知られています(ユダ書1節)。

 彼らが書いたとされる手紙を読む限り、主イエスの兄弟たちは熱心なキリスト者であり、よき指導者とされています。当然、彼らは主イエスに尊敬以上の信仰を持っていると思われます。それが、「親戚や家族の間」では敬われないとされているのは、どういうことなのでしょうか。

 最初はそうだったと言いたいのでしょうね。それもそうかも知れません。律法学者たちが主イエスを、「ベルゼブルに憑りつかれている」と非難していたとき(4章22節)、身内の者も、「あの男は気が変になっている」と言われて、主イエスを取り押さえに来たと記されていました(同21節)。

 しかし、さらに重要なことは、彼らが教会で重要な役割を果たすのは、主イエスの家族だったから、兄弟姉妹だったからというのではありません。そうではなく、主イエスを信じる信仰のゆえであり、主イエスの僕として教会に仕え、人々に仕えているからであるということです。

 ヤコブは、「神と主イエス・キリストの僕」と言い(ヤコブ書1章1節)、ユダも、「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟」と言っています(ユダ書1節)。彼らにかく言わしめる信仰の導き、主イエスとの信仰による出会い、十字架にかかられた後、三日目に甦られた主イエスとの出会いがあって(第一コリント書15章7節)、真の神の家族とされたということでしょう。

 めいめいが、謙って日々主イエスの御言葉を聴き、その御業に触れて、信仰の確信に堅く立つことが出来るよう、主の恵みと導きを祈ります。

 主よ、イエスは主であるという信仰に私たちを導きいれてくださり、心から感謝します。そこには聖霊の導きと働きがありました。御前に謙って絶えず御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って前進させてください。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実を豊かに結ぶことが出来ますように。 アーメン






11月27日(日) マルコ福音書5章

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 マルコによる福音書5章34節

 5章には、悪霊につかれたゲラサ人の解放(1~20節)と、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の病と死の力からの救い(21~43節)が記されています。ゲラサ人の地方の(1節)「レギオン」(9節)という汚れた霊に取り憑かれた男が、解放されて(15節)、主イエスの御業をデカポリス地方に言い広めたことは(20節)、異邦人の地での伝道の始まりを示しています。

 21節以下の段落は、ヤイロの娘の病の癒し(21~24節、35~43節)に、長血の女の癒しの話(25~34節)が割り込むかたちになっています。長血の女性の癒しのために、ヤイロの家に向かう主イエスの足が留められたため、娘は亡くなってしまいますが(35節)、主イエスは娘を生き返らせ(41節)、死に打ち勝つ神の力をお示しになりました。

 今日は、その話の間に挿入された長血の女の癒しの話で、その女性の信仰に注目します。主イエスの周りに大勢の群集が押し迫っていたとき(24節)、そこに紛れ込んで、後ろからそっとイエスの服に触れた女性がいました(27節)。それは、12年間も出血が止まらない女性でした。それは婦人科の病気だったようです。

 始終出血があるというだけでも気分の優れないものですが、この病気が辛かったのは、出血が宗教的に、「汚れ」とされることです(レビ記15章19節以下、特に同25節以下)。その規定は、この女性を清潔な環境に隔離するためのものと考えることも出来るのですが、しかし「汚れ」と言われる以上、差別的な扱いを受けることになったのではないかと思われます。

 そこで、この女性は、何とか病気を治そうと努力しましたが、財産を失っただけで何の役にも立たなかったということです(26節)。そういう状況でしたから、この女性が主イエスのことを聞いたとき、これが最後の望みという思いもあったのではないでしょうか。

 しかも、彼女は一途にそのことを思っていたようです。というのは、28節に、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思っていた」と記されていますが、ここで、「思っていた」と訳されている言葉は、未完了形の動詞が使われているからです。これは、動作が継続していて完了していないこと、つまり、「思い続けている」ということになります。

 さらに、「思う」と訳されていますが、これは「話す」(レゴウ)という意味の動詞で、「思う」というニュアンスではないと思われます。「汚れ」と言われる病気の身の上ですから、他人との接触がはばかられますが、にも拘わらず、自分を理解してくれる人には、主イエスの衣に触れて癒していただこうと思っている、と繰り返し語っていたという情景を思い描きます。

 それを実行する日が来ました。うまい具合に、大群衆が主イエスを取り巻いていて、誰が誰だか判別できないような状況です。こっそり近づき、こっそり触り、そしてこっそり抜け出すには、絶好の状態です。彼女はそのようにして、そっと主イエスの衣に触れたところ、たちどころに病気がよくなりました(29節)。人に語っていたとおりの状況になったのです。

 ところが、主イエスがそれにお気づきになり、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)と、ご自分に触った者をお探しになります。そのとき、弟子たちが、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」(31節)と主に問います。つまり、誰もが主イエスの触れようとして押し迫っているのだから、一人を探し出すのはナンセンスだということでしょう。

 勿論 、主イエスは誰がどのように触れたのかを、一人ひとりきちんと感じ取っておられたということではないでしょう。主イエスの内から力が出て行ったことに気づかれたということですから(30節)、主イエスから力を引き出す触れ方をした人がいたということです。だから、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)という問いに応答する人を、主イエスは探しておられるのです。

 「触れたのはだれか」と探されたとき、女性は一目散に逃げようとしませんでした。彼女は、自分の身に起こったことに驚き、そしてご自分に触れた者は誰かとお探しになる主イエスの言葉を聴いて、畏れを感じました。黙って逃げ出すことはできないと思ったのでしょう。否、逃げてはいけないと考えたかも知れません。それは、女性が主イエスに、「神」を感じているからです。

 彼女は、主イエスの前に進み出て、ありのままをすべて話しました(33節)。そのとき、主イエスが女性に対して語られたのが、冒頭の言葉(34節)です。主イエスは女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。ここで、「あなたの信仰」と呼ばれたのは、いくつかのことが考えられます。一つは、前述のとおり、主イエスの服に触れれば癒していただけると、繰り返し話していたことです。

 その一途な思いが信仰と受け止められたと見ることが出来ます。しかしさらに大切なのは、主イエスの前に進み出て、「すべてをありのまま」申し上げたということです。その心は、神を畏れる心でした。主イエスはその心を「信仰」と言われたのではないでしょうか。

 つまり、病気がよくなりさえすればよいというのではないのです。主イエスとどのように向き合い、交わりを持つかということが大切だというのです。だから、「治った」(セラペウオウ)というのではなく、「救った」(ソウゾウ)という言い方になるのです。実は、女性が、「いやしていただける」と言っていたという箇所も、原文は、「救われる」(ソウゾウ)という言葉が用いられていました。

 さらに、「安心して行きなさい」も、直訳は、「平和の中へ行きなさい」(フパゲ・エイス・エイレーネーン)という言葉で、神に救っていただいた者として、魂の平安という以上に、家族、隣人との平和な交わりの中にお帰りなさいという主イエスの思いを、そこに読み込んでもよいだろうと思います。

 そのようにして、主イエスは救いに与った私たちをも、平和の交わりへと遣わしておられるのです。主の御声に耳を傾け、信仰をもってそれに応答しましょう。

 天のお父様、主イエスを信じる信仰による救いを感謝します。いつも、主への畏れの心をもって、その御衣に触れるほどに近くおらせてください。平和の源なる主の恵みにより、私たちの家族がいつも平和でありますように。絶えず平安な心で過ごせますように。 アーメン






11月27日(日)主日礼拝説教

11月27日(日)主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「目からウロコ」
聖書 使徒言行録9章1~19節a


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラム、礼拝説教動画を掲載しました。
②「フォトレポート」に本日の写真を掲載しました。
③「今週の報告」を更新しました。
④「お知らせ」は随時更新しています。
⑤「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/

ご覧ください。











 

11月26日(土) マルコ福音書4章

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。」 マルコによる福音書4章28節

 26~29節は、主イエスが語られたたとえ話の中で唯一、マルコ福音書だけにしか記されていないものです。マタイ福音書は、このたとえ話の場所に、「毒麦のたとえ」と呼ばれるたとえ話を入れており(マタイ福音書13章24~30節)、それは、マルコ福音書に記されているとえ話の発展というか、あるいはその解釈の方向性を示していると考えることが出来るかも知れません。

 いずれにせよ、冒頭の言葉(28節)で、「土はひとりでに実を結ばせるのであり」というのは、種が実を結ぶのは大地の力によるのであって、人間の労作などというものではないということです。人が手を出して引っ張ってやる必要などありません。ここで、「ひとりでに」というのは、原語で「アウトマテー」といいます。これは、「人手によらず、自ずから、オートマティックに」という意味の言葉です。

 同じ言葉が、使徒言行録12章10節、投獄されていたペトロを天使が起こし、鎖が外れ、衛兵のいる詰所の前を通過し、町に通じる鉄の門の所まで来ると、その「門がひとりでに開いたので」と記されているところに用いられています。この時代に自動ドアがあるはずはありませんが、まるで自動ドアのように、その鉄の扉が開いたということです。

 そのように、畑に蒔かれた種は、土の力で実を結んでいるのであって、ヒトが苦労したからといって、特別に早く収穫出来るようになったり、驚くほどたくさん結実したりということにはならない、そのような収穫を自分の手柄にすることは出来ないということではないでしょうか。

 これは勿論、農家の方々は何の苦労もなく、収穫の恵みを受けているということを言っているのではありません。何もせずに放っておいて、収穫を期待することはできません。肥えた土を作り、耕し、種をまき、水をやり、雑草を抜き、肥料をやりして、大切に育てます。

 そうしたからといって、豊作になるとは限りません。日照りもあれば、大風や大雨もあります。病虫害もありますし、放っておけば、すぐに雑草がはびこります。そして、人間の努力などひと吹きで破壊する、自然の驚異が襲って来ます。台風が頻繁に襲ってくる秋になる前に収穫できるように改良をして、早生の品種を作り出しても、限度があります。工業製品を作るようなわけにはいかないのです。

 その意味でこのたとえ話は、実際に農作業に携わっている人が、自然の力の前に謙虚にならざるを得ない経験に基づいて語った言葉ではないかと思われます。その自然の力を象徴的に「土」と言い、豊かな実が出来るのは、土の力だ、自然の恵みなのだ。人が思い上がって、自分の努力だなどと言っていれば、そうでないということをいやというほど思い知らされるだろう。収穫は恵みなのだから、ただ感謝するんだと言っているようです。

 主イエスはこのたとえを、「神の国は次のようなものである」といって語り始められました。神の国とは、神が支配しておられるところということです。ということは、種が成長して収穫に至るのは、すべて神の支配によると読むことが出来ます。

 「土」を「神」と読み替えて、考えてみればよいでしょう。どんな仕事が出来ても、どんなに成果が上がっても、それは、神がご自分の力をそこに働かせてくださったからであり、ゆえに、必要な協力者が与えられたり、不思議に条件が整えられたり、タイミングよく出来事が組み合わされたりして、そのプロジェクトが成功したのではないでしょうか。

 パウロが、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(第一コリント書3章6節)と語っているのは、このことを理解しているからと言えるのではないでしょうか。確かに、大事を一人の力で成し遂げることはできません。

 神は私たちを愛し、豊かな恵みを与えようとしておられるのです。今、私たちの目に苦労としか見えなくても、困難にふさがれているように思われても、そこを通ることによって、私たちが耕されるということがあるでしょう。あるいは、麦の根付きをよくするための麦踏みということもあるでしょう。困難も私たちを愛する神の御手のうちと考えることが出来る人は幸いです。

 納得いかない人は、神に叫びましょう。訴えましょう。平安に導かれるまで、御言葉が示されるまで、祈りましょう。主なる神は、私たちの呻きをさえ受け止めてくださいます(ローマ書8章23節以下、26,27節)。そして、神が必ず豊かな収穫の恵みに与らせてくださると信じましょう。万事が益となるように共に働いてくださるからです。

 天のお父様、天地万物を創造され、独り子をお与えになったほどに私たちを愛していてくださる主を信じる信仰に導かれたことを、心より感謝します。様々なことですぐに思い煩って平安を失い、夜眠ることの出来なくなる私たちです。しかし、あなたは愛する者に眠りを与えると約束されました。あなたを信頼して休むことを学ばせてください。 アーメン



11月25日(金) マルコ福音書3章

「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」 マルコによる福音書3章19節

 主イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せ(13節)、そこから12人を任命して、彼らを使徒と名付けられました(14節)。「山」(ト・ホロス)には定冠詞(the mountain)がつけられています。山と言えば富士山というように、だれもがよく知っている山のことです。聖書にも様々な山が登場してきますが、なんと言ってもシナイ半島の南に位置するシナイ山、神の山ホレブでしょう。

 マルコは13節の「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」という言葉を、出エジプト記19章20節の「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山に呼び寄せられたので、モーセは登って行った」という出来事に重ね合わせて記したように思われます。 

 選ばれた12人は、シモン・ペトロ、ヤコブとヨハネ、アンデレという漁師がいれば、ローマに仕える徴税人レビ(マタイ)、それとは逆に、ローマに抵抗する熱心党に属していたシモンもいます。

 最後のイスカリオテのユダですが、イスカリオテとは、カリオテの人(イシュ)という言葉が訛ったものだろうと考えられています。このカリオテが地名だとすると、その場所は分かっていませんが、ユダヤの地方だったと言われます。であれば、ペトロを初めガリラヤ出身の弟子たちの中で、唯一、ユダヤ地方からの使徒選出ということになります。

 また、ラテン語の「シカリウス」(短剣を隠し持つ男)が訛ったものではないかという考えもあります。だとすると、ユダは熱心党の中のもっとも過激なグループに属していたことになりますが、主イエスの時代にシカリウスが存在したという証拠は、まだ見つかっていません。シカリウスが登場したのは、もっと後の時代のことでした。

 「12」は完全数と言われ、12人はイスラエル12部族を象徴しています(マタイ19章28節参照)。「任命する」というのは、「作る」(ポイエオウ)という意味の言葉が用いられています。つまり、使徒として任命された12人は、神がご自分の民を新しく作られるしるしなのです。主イエスは彼らに、あらゆる人々に新しい神の民となるよう呼びかける使命を授けられたのです。

 ここに上げられた12人に共通の特徴を見つけることは困難です。上記のとおり、出身地も、職業も、政治的な関心の持ち方も様々です。誰が一番偉いかと議論していたとされる彼らですが(9章33節以下)、彼らの背景を考えると、どの土俵で一番を競っていたのかと疑わざるを得ないような、つまり、かみ合う議論が出来ていたとは到底考えられないような状況です。

 最後のユダに、「このユダがイエスを裏切ったのである」という解説がついています。確かにユダは祭司長らに主イエスを引き渡す手引きをし、金をもらうことになります(14章10,11節、43節以下)。

 けれども、主イエスが捕らえられようとしたとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいました(14章50節)。弟子の筆頭と見なされていたペトロは、大祭司の家の中庭まで入り込みましたが、そこで、イエスの仲間ではないと、3度否定してしまいます(14章66節以下)。結局、主イエスが十字架にかかられるとき、誰も主イエスに従ってはいなかったという不名誉な結果を共有することになってしまいました。

 彼らが特別な存在だから、「十二人」に選ばれたわけではありません。また、選ばれれば、特別な存在になれるということでもなかったわけです。もちろん彼らは、最初から裏切り者ではありませんでした。裏切ることになる直前まで、自分が裏切り者になろうとは考えてもいなかったでしょう。

 行けと言われれば行き、来いと言われれば来、せよと言われれば喜んでする、主イエスに従う人々でした。主イエスを信じ、主イエスに従うほかには、何の取り柄もない人々と申し上げてもよかったでしょう。ですから、主イエスを見捨てて逃げてしまった後、彼らは自分自身をどれほど惨めに思ったことでしょう。

 裏切り者とされたユダは、主イエスを捕えさせた後、姿を消してしまいます。マルコ福音書には、その後のことが全く記されていません。 マタイは、彼の死を自害としています(マタイ27章5節)。ルカは使徒言行録で、不正を働いて得た土地にまっさかさまに落ちたという、神の罰を思わせる表現をしています(使徒1章18節)。ヨハネには、マルコ同様、ユダの死の報告はありません。

 それぞれの視点で福音書は描いているので、多少の違いは当然あるところですが、しかし、マタイと使徒言行録は、自害か事故(神罰)かということで、全く違った死に方になっており、どちらを信用することも出来ない状況です。

 さらに、パウロが、「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(第一コリント書15章5,6節)と記しています。これは、主イエスが復活されて、姿を現された人々のリストです。もしも、ユダが自害にせよ、事故にせよ、死んでいたのであれば、ケファに現れた後、「十二人」に現れたというのは間違いで、「死んだユダを除く十一人に現れた」というはずです。

 パウロが正しければ、主イエスが復活して姿を現されたとき、ユダは存命だったということになります。そして、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」という言葉があります(ローマ書11章29節)。「招き」とは、「クレーシス」という言葉で、口語訳、新改訳は「召し、召命」と訳しています。この言葉から、裏切ったから、見捨てて逃げたからといって、神の賜物と任命が取り消されるわけではないと読めます。

 ユダ以外は、新しい神の国として建てられるキリストの教会で、主を証しする使徒としての使命を果たすよう、聖霊の力を受けました(使徒言行録1章5節、8節、16節以下、2章など)。ユダについても、ローマ書の御言葉に照らして、神の憐れみが彼の上に注がれたと信じます。

 同じ主の深い愛と憐れみに与っている私たちです。神の慈しみにとどまり、聖霊の力をいただいて、委ねられている福音宣教の使命を全うすることが出来るように、御言葉に耳を傾け、熱心に祈りましょう。

 天のお父様、あなたの深いご愛を感謝致します。「12人」は期待を裏切りました。しかし、主イエスの恵みは、彼らの裏切りの罪以上に力あるものです。死と罪の呪いを打ち破られたからです。新しい命に生かされた私たちが、主のものとして歩み続けることが出来ますように、その使命を全うすることが出来ますように。御心を地にもなさせたまえ。 アーメン





11月24日(木) マルコ福音書2章

「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。」 マルコによる福音書2章15節

 2章には、中風の男の癒し(1~12節)、徴税人レビを弟子として、食事を共にしたこと(13~17節)、ファリサイ派の人々らと断食についての問答(18~22節)、安息日を巡る論争(23~28節)が記されています。

 福音書には、主イエスの食事の場面がよく登場します。それは、主イエスが食事の席を大事にしておられたということです。また、一緒に席に着いた弟子たちにとっても、印象深い出来事、また話がそこでなされたわけです。13節以下の段落も、そうした食事の場面で起こった出来事を記録したものです。

 主イエスが湖の畔に「出て行かれ」(エクセルコマイのアオリスト[不定過去]形)、そばに「集まって来た」(エルコマイの未完了形) 群衆を「教えられ」(ディダスコーの未完了形)ました(13節)。この言葉遣いは、湖の畔を歩いていると、人々が続々とやって来たので、彼らを繰り返し教えられたという状況を示しています。

 やがて、収税所の所に来ます(14節)。湖の畔を通る幹線道路に収税所がもうけられ、通行税を徴収していたのでしょう。そこに、アルファイの子レビという徴税人が座っていました。主イエスはレビに、「わたしに従いなさい」(14節)と声をかけると、レビは立ち上がって、主イエスに従う者、即ち弟子となりました。

 冒頭の言葉(15節)に、「食事の席に着いておられた」とありますが、「席に着く」と訳された言葉(原語:カタケイマイ)は、「横たわる、臥す」という意味で、非常にくつろいだ宴会での食事の表現に用いられます。およそ、形式ばった儀式的な会食などではなく、親しい者が集う、和やかな楽しげな食事の席を想像します。

 その席に、多くの徴税人や罪人が同席していると記されています。それは、レビが彼らを招いたということでしょう。レビ自身、徴税を生業としていたからです(14節)。徴税人は、当時、ローマの手先となって同胞から税金を取り立てるということで、異邦人といつも交わっていること、信仰なき異邦人に仕えていることにより、罪人とされていました。

 しかも、徴税人は入札制度で一番多く税を納めると請け負った者が指名されたので、不正な取立てが横行していました。そのため、ユダヤ人だけでなく、ローマ人からも軽蔑されるという有様だったようです。ユダヤ人にとって、好んでなりたい職業ではない、むしろ、なりたくない職業ナンバーワンであろうかと思われます。ということは、そのような職業についている人々には、そうせざるを得ない事情というものがあったものと想像されます。

 レビが徴税人となった理由について、「レビ」という名前が神殿で祭司たちに仕えるレビ族を想像させるところから、宗教家の家に生まれた者ではないかと思われます。並行箇所のマタイは、この徴税人の名を、「マタイ」と記しています(マタイ9章9節)。マタイが記した福音書だから、包み隠さず「マタイ」と名乗っていますが、他の福音書著者は、むしろ家柄を示す「レビ」を、あだ名として採用したのではないでしょうか。

 ということは、イスラエルにおいて、尊敬を集める家柄だったわけです。しかし、「レビ」は宗教に真実を見出せず、そのような家の宗教に対する反発から、宗教的に、また社会的にも最も嫌われる職業ともいうべき徴税人になったのではないかと、私は考えています。

 ですから、そのレビが主イエスの、「わたしに従いなさい」という招きに応じたというのは(14節)、彼が主イエスに真理を見出したからではないでしょうか。なるべくしてなった務めではなかったので、レビ自身、徴税人の仕事に苦しいものを感じていたのではないかとも思われます。それゆえ、主イエスの招きは、彼にとって真の救いだったのです。

 そして、仲間たちを主イエスとの食事に招待したのです。すると、その招きに大勢の徴税人が集まりました。主イエスは彼らを軽蔑されませんでした。忌み嫌われませんでした。「レビ」とその仲間たちはそこに安心して座っていることが出来たのです。主イエスが彼らの職業を認めて、頑張りなさいと励ましたとは思いません。そうではありませんが、彼らに対する深い理解と同情をもっておられたのだと思います。

 人は、誰と出会い、交際するかによって、生き方が変わることがあります。徴税人たちは主イエスから、その務めをやめるようにと勧告されてはいません。しかしながら、たとえば、あのザアカイという徴税人のように、財産の半分は貧しい人に施し、不正に取り立てていたものは4倍にして返すという行動に導かれます(ルカ福音書19章1~10節)。それは、全財産を放出することになったのではないでしょうか。

 ザアカイがもし、それ以後も徴税人を続けるなら、不正な取立てをすることはなくなったでしょう。あるいは、お金が第一、人を見下すためという目的を失って、徴税人を続ける理由がなくなってしまったかもしれません。実際、レビは、徴税人をやめて主イエスに従う者となります(14節)。彼らは、主イエスとの交わりの中で、生き方を変えるように自分の内側から促しを受けたわけです。

 私たちも、罪人として主イエスの招きに与りました。主イエスのそばで親しい導きと交わりをいただいています。私のような者にも、主の御用をするようにという促しがありました。導きに従って今日まで歩いて来ました。色々なことを経験してきました。すべてが恵みです。

 主よ、私たちは御子キリストに招かれ、救いの恵みに与りました。導きを心から感謝しています。この恵みを無駄にせず、絶えず主と共に歩ませてください。御言葉に耳を傾け、御霊の助けと導きを受けつつ主の御旨を行い、主に喜ばれる者となることが出来ますように。 アーメン





11月23日(水) マルコ福音書1章

「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」  マルコによる福音書1章3節

 今日からマルコ福音書です。マルコ福音書は、紀元66年頃、シリアあたりで著述されたものだろうと思われます。著者は、伝統的にエルサレム教会の家の提供者マリアの子で、マルコと呼ばれていたヨハネのことだと考えられて来ました(使徒言行録12章12節)。しかし、パレスティナの地理に疎いような面が多々見られることなどから、マルコ=ヨハネが著者であるとは、考え難いところです。

 マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まります(1節)。ギリシャ語原文では、「初め」(アルケー)という言葉が一番初めに書かれており、これは、「初めに、神は天地を創造された」という創世記の始まり方を意識したのではないかと思われます。

 「神の子イエス・キリストの福音」とは、イエス・キリストについての福音というだけでなく、イエス・キリストによってもたらされた、即ち、主イエスの存在と、あらゆる言辞と行為とによる福音ということです。「神の子」という称号は、3章11節、5章7節で汚れた霊によって用いられ、そして15章39節では、主イエスの死を見届けた百人隊長が信仰を表明するように宣言しています。

 また、「福音」(エウアンゲリオン)とは、「喜びの音信」という意味ですが、中でも、勝利を収めたという喜びの音信を言い表す言葉です。旧約聖書では、「良い知らせを伝える」((メバッセール・トーブ、イザヤ書52章7節、61章1節、40章9節など)という動詞形の言葉でそれを表しています(因みに、70人訳聖書はその箇所に「エウアンゲリゾマイ」という動詞を用いています)。

 まず、旧約聖書の言葉が引用されます(2,3節)。それを、「預言者イザヤの書」と言っていますが、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」(2節)は、出エジプト記23章20節、マラキ書3章1節からの引用です。そして、冒頭の言葉(3節)がイザヤ書40章3節からの引用です。

 その引用された言葉のとおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れたと、4節に記されています。ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。その活動は旧約聖書の預言を成就するためであり、ヨハネはメシアなる主の先駆けとして、主の道を整えるために荒れ野に登場したのです。

 勿論、荒れ野に人は住めません。生活を支えるものがなく、むしろ命を脅かす獣などが出現する場所だからです。なぜ、荒れ野なのでしょうか。それは、象徴的な意味があるようです。

 それはまず、生活の場から退き、神の御声に聴きなさいということでしょう。冒頭の「主の道を整え、道筋をまっすぐにせよ」(3節)という言葉は、御言葉を片手間で聴くことは出来ないということを示しているように思います。そのために、ヨハネは人々に悔い改めを迫るのです。悔い改めとは、思いを変えること(change of mind)であり、信仰において神の下に帰るということです。

 また、荒れ野は、神が新しいことを始められる場所です。イザヤ書43章19節に、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」と言われています。

 かつて、エジプトを脱出したイスラエルの民が、40年過ごしたのがシナイの荒れ野でした(申命記1章3節、2章7節、29章4節など)。確かに荒れ野は水も食料もなく、民は神の御前に不平を鳴らしましたが(出エジプト記16,17章、民数記11章など)、主なる神はその訴えに応えて、天からマナを降らせ、岩から水を出させ、うずらの肉をお与えになりました。

 荒れ野は、主が共におられて、その恵みを味わわせられる場所でした。エレミヤ書に、「民の中で、剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける」(エレミヤ書31章2節)という言葉がありますが、まさに命を脅かされる荒れ野を通らなければ、味わうことの出来ない恵みがあるということです。

 今や、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神の救いの御業を始められます。かつてなかった新しいことが始まったのです。こうしてヨハネは、主イエスが始められる新しい業のために、人々を荒れ野に招き、主イエスのための道を整えるのです。

 主の御声に耳を傾けましょう。その導きを受けて、絶えず新しい主の恵みに与りましょう。恵みを無にしないよう、主の御業に励みましょう。 

 天のお父様、あなたの御声を聴くために、私たちも荒れ野に退きます。私たちにも、モーセのように、またエリヤのように、あなたの御声を聞かせてください。そこで開かれる主の恵みに与らせてください。御旨を弁え、主の御業に励む者としてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン





11月22日(火) マタイ福音書28章

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 マタイによる福音書28章19,20節

 28章には、主イエスの復活を巡る出来事が記されています。最初の段落(1~10節)は墓が空で、主の天使が主イエスの復活を告げたこと、すると主イエスが現れたことを語ります。次の段落(11~15節)では、番兵たちの報告を、イエスの遺体が弟子たちに盗まれたと言い広めるよう唆します。そして最後の段落(16~20節)は、弟子たちへの顕現の様子が記されています。

 マタイは、復活された主イエスの顕現の弟子たちへの顕現を、ガリラヤの山での出来事として記します(16節)。マルコはガリラヤでの顕現をほのめかすだけで終わり(マルコ16章7,8節)、ルカとヨハネは、エルサレムとその周辺でそれが起こったように伝えています。

 主イエスと出会った弟子たちは、そこで「ひれ伏し」ます(17節)。これは、「礼拝する」(プロスキュネオー)という言葉です。ところが、そこに「疑う者もいた」と言われます。復活の主とお会いすることは、疑いを赦さない類いのものではないということであり、礼拝する者は、主を信じる中で疑いの心を持つことがあるということを示しているようです。

 そういう弟子たちに対し、十字架の死という苦しみ、辱めを味わわれた主イエスが、天と地のすべての権威を授けられたお方として(18節)、彼らに使命を授けます。

 冒頭の言葉(19,20節)は、「大宣教命令」(Great Commission)と言われる、マタイの記す主イエスの遺言ともいうべきものです。これは、原文で見ると一つの文章です。主文は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マセーテウサテ・パンタ・タ・エスネー:make disciples of all the nations)で、「弟子にする(マセーテウオウ)」という動詞が命令形で記されています。

 そして、三つの現在分詞形の動詞があります。即ち、最初に「行く」(ポレウセンテス)という言葉、次は「バプテスマを授ける」(バプティゾンテス)という言葉、そして「教える」(ディダスコンテス)という言葉が、それぞれ現在分詞形で記されています。これらは、日本語聖書では命令形に訳されていますが、文法に即して訳せば、「行きながら」、「バプテスマを授けながら」、「教えながら」ということになります。

 つまり、すべての民を弟子にするというのは、①出て行くこと、②バプテスマを授けること、③教えることを通してなされるということです。ここで、「出て行く」とは、伝道するということでしょう。「バプテスマを授ける」とは、パンを裂くことと共に、礼拝の中心です。そして、「教える」とは文字通り、教育することです。

 そして、「弟子とする」という動詞は不定過去(アオリスト)時制ですから、これは過去に起こった一回的な出来事であることを示します。それに対して、三つの分詞は現在形ですから、これは継続的な働きかけということになります。つまり、弟子となるというのは生涯一度の出来事だけれども、そのためには、伝道と礼拝と教育は欠かすことが出来ない、これを継続しなければならないということになります。

 今日は特に、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉が迫って来ました。主イエスが、山上の説教を初め、この福音書を通して命じられたことはすべて守られなければならない、それを教えなさいと言われているわけです。

 「せよ」、「してはならない」と命じられていることは数々あります。主イエスが山上の説教を語られたとき、それを権威ある者としてお教えになったと記されていました(7章29節)。「権威ある者として」とは、それを実行、実現する力ある者としてということです。つまり、主イエスは、説教を語り、民をお教えになっただけではなく、自ら、それを実行、実現された方でした。

 であるならば、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主が言われるとき、律法学者のようにではなく、権威ある者として、御言葉を実行するように教えなければなりません。そしてその権威は、自らそれを実行、実現するところに示されなければなりません。

 山上の説教の中に、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とも言われています(5章19節)。

 しかしながら、いったい誰がこの務めをきちんと果たすことが出来るでしかょう。これを、自分の力でやり遂げよと言われるのであれば、みんなお手上げでしょう。それは、出来る相談ではありません。私たちが自分の力で神の御言葉を実行、実現できるはずがないからです。

 当然のことながら、主の助けが必要です。否、主がしてくださらなければ、私たちに何が出来るでしょう。だからこそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっているのです。主が共にいて、私たちを慰め、励まし、助けてくださいます。私たちが主にまったく信頼し、委ねて歩むとき、主が御力をもってそれを成し遂げてくださるのです。

 まさに、天と地の一切の権能を授かった(18節)権威あるお方として、私たちと共に行かれ、すべての者を礼拝へと導き、かつてガリラヤで弟子たちを教えられたように、今も私たちの守るべきことを教えてくださるでしょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせてくださり、感謝いたします。すべての民を弟子とするため、私たちを用いてください。誰よりもまず私たちが、主イエスの弟子にふさわしい者となりますように。御言葉と御霊によって絶えず取り扱ってください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート
  • ペシャワール会・中村哲 講演会
  • 日比恵三・平井陽子 Duo Concert
  • 7月23日(日)主日礼拝説教
  • 7月23日(日)主日礼拝案内
  • 近況報告
  • 7月16日(日)主日礼拝説教案内
  • 7月9日(日)主日礼拝説教
  • 7月9日(日)主日礼拝案内
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 7月2日(日)主日礼拝説教
  • 7月2日(日)主日礼拝案内
  • 7月の御言葉
  • 6月25日(日)主日礼拝説教
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ