「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」 マルコによる福音書8章24節
22節以下に、「ベトサイダで盲人をいやす」という小見出しのつけられた段落があります。マルコにだけ記されている奇跡物語です。
22節以下に、「ベトサイダで盲人をいやす」という小見出しのつけられた段落があります。マルコにだけ記されている奇跡物語です。
アラム語で「漁師の家」という意味を持つ「ベトサイダ」の町に主イエスがやって来たということが伝わって、主イエスのもとに人々が一人の盲人を連れて来ました。そして、彼に触れて頂きたいと主イエスに願います(22節)。この「願う」というのは、パラカレオーという言葉で、「慰める、励ます」とも訳されます。この言葉の名詞形は、パラクレートス、ヨハネ福音書14章16節で「弁護者、助け主」と訳される言葉です。
それは、聖霊に対する呼び名ですが、第一ヨハネ書2章1節では、御父のもとにおられる主イエスを「弁護者、正しい方」と呼んでいます。主イエスは、前に耳が聞こえず舌のまわらなかった人を癒されたように、ここでも目の見えない人の癒しを懇願されて、助け主、癒し主としてお働きくださるわけです。
それは、聖霊に対する呼び名ですが、第一ヨハネ書2章1節では、御父のもとにおられる主イエスを「弁護者、正しい方」と呼んでいます。主イエスは、前に耳が聞こえず舌のまわらなかった人を癒されたように、ここでも目の見えない人の癒しを懇願されて、助け主、癒し主としてお働きくださるわけです。
主イエスは、盲人の手を取って町の外に出て行き、それから、目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました(23節)。目に唾をつけた後、両手をその人の頭に置かれました。それは、病を癒し、神の祝福を与える行為です(5章23節、6章5節、7章32節、8章23節、10章16節、16章18節)。
耳が聞こえない人を癒されるとき、「エッファタ」と仰いましたが、今回は、「何か見えるか」とお尋ねになりました(23節)。すると、冒頭の言葉(24節)のとおり、盲人は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言いました。
ここで、この盲人は、かつて視力があった人であるということが分かります。というのは、「見えるようになって」というのはアナブレポウという動詞ですが、ブレポウが「見る」という意味、アナは接頭辞で、「上に(up)」という意味と、「再び(re)」という意味があります。「上に」と採れば、「見上げる(look up)」という意味になります。口語訳は、「顔を上げて」と訳していますので、これを「上に」の意味に捉えたわけです。
一方、「再び」と採れば、「視力の回復(see again)」という意味になります。新共同訳、新改訳のように、「見えるようになって」と訳しているのは、再び見えるようになったととらえているといってよいのではないでしょうか。
実際、初めて視力を得た人であれば、見えて来たものが人なのか、木なのかを判断したり、また、動いているのを「歩く」と表現することなど、瞬時に出来るものではないでしょう。だから、かつて見えていたものが、何らかの理由で視力を失って、それがまた見えるようになったということですね。
しかし、すっかりはっきり見えるようになったわけではありませんでした。人が木のように見えているというのです。しかし、歩いているのが分かるので、それが木ではなく、人が見えるといったわけです。それで25節、「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えて来ていやされ、何でもはっきり見えるようになった」と記されています。
主イエスが二度目に手を置かれて、はっきり見えるようになったというのですが、ここに、「よく見えて来て」、「いやされ」、「何でもはっきり見えるようになった」と、三つの動詞が用いられていて、最初の二つはアオリスト(不定過去)形、三つめの「はっきり見えるようになった」は未完了形、何でもはっきり見えるようになった状態が今も続いているということで、視力の回復、癒しが段階を追って徐々になされたということが示されます。
癒しが徐々に行われたということは、それがとても難しい問題であったということ、しかし、それを癒す奇跡的な力を発揮されたということでしょう。
ここで、視力というのは、単にモノを見るということだけではない、見ることで、その向こうにあるものを見ようとするというものでもあるということが分かります。25節の言葉で、「よく見えて来て」というのはディアブレポウ、look through、penetrate by vision見抜く、見通すという意味があります。よく見て、一心に見つめて見抜くことから、分かる、理解出来るようになるということにもなるでしょう。
17,18節で主イエスが弟子たちに、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と仰っていましたが、ここでこの盲人は、繰り返し主に手を置いて頂くことで、自分に触れてくださるお方がどなたなのか、はっきり分かるようになった、視力が回復されただけでなく、霊的な目が開かれた、霊的な理解力も与えられたということではないでしょうか。
この盲人は、視力を失ったことで気力を失い、希望を失って、人々によって主イエスのところに連れて来られたのでしょうけれども、主イエスは彼を人々の間から村の外へ連れ出し、彼と一対一となられて、彼に繰り返し触れてくださいました。それによって視力を回復しただけでなく、気力を取り戻し、希望が与えられ、意気揚々と家に帰ることが出来るようになりました。
その時主イエスは彼に、「村に入ってはいけない」と仰いました。村に入らずに家に帰ることが出来るのかというところですが、これは、真の視力、霊的な理解力を持たない人々のところで何を見せ、何を語っても、それを正しく受け取ることは出来ないということでしょう。奇跡を見ることで信仰を得るということにはならないということです。
真の視力、霊的な理解力をお与えくださるのは主イエスであり、この盲人が人々の間から、一人主イエスに連れ出されたように、主イエスとの個人的な交わりを持つ必要があるということではないでしょうか。マタイ6章6節に言われているように、所謂、密室で祈るということです。
それとともに、帰るべきところがある、魂の真のホームともいうべき神の家、キリストを中心とした、二人三人が主イエスの御名によって集う教会に帰って来るということでしょう。私たちの信仰生活には、そのような教会での交わりと、個人的な密室での交わりが必要だ、それによって、私たちの信仰的な理解は広げられ、深められていくということではないでしょうか。
御言葉により、御霊の導きに与って、主イエスのこと、そして、主イエスが説かれた神の御国のことが、はっきり見えるようにならせていただきましょう。
主よ、今日も御言葉に耳を傾ける恵みのときをお与えくださり、ありがとうございます。私たちの耳を開いて、聴くべき御言葉をしっかりと聴き取らせてください。私たちの目を開いて、この世の現実の向こうに、主の御業をはっきりと見させてください。また、将来に向けて、上からのビジョン、幻を見させてください。密室での主との個人的な交わりと、教会での信仰の交わりとが、共に豊かに祝されますように。 アーメン