風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年10月

10月21日(金) ゼカリヤ書13章

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」 ゼカリヤ書13章1節

 冒頭の言葉(1節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれ」ます。「その日」というのは、12章2節の、「エルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする」日のことであり、同9節の、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」日のことです。

 「泉が開かれる」ということですから、井戸が掘られたというのではありません。また、雨水を貯めておく池を造るということでもありません。罪、汚れを洗い清める水が泉となって湧き上るのです。この水の源は神ご自身です。神が、あらゆる罪と汚れを洗い清める泉を開いてくださるのです。

 その清い水の流れは、この地から、「数々の偶像」(2節)、即ち異教の神々を取り除き、また、異教の神々に仕える偽の預言者たちを追い払います(2節)。それでもなお預言をする者があれば、両親から「主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない」(3節)と言われ、処刑されます。それは、申命記13章2節以下に規定されているとおりです。

 ゆえに、彼らは預言者のユニホームである毛皮の外套をまとわなくなり(4節)、「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ」(5節)と言って、処刑を免れようとするのです。そうして、偶像と偽りの預言者が排除されることにより、主の支配が確立するその日が到来するのです。

 因みに、アモスが「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を買い、いちじく桑を栽培する者だ」(アモス書7章14節)と言いましたが、それは、職業的預言者ではないという宣言であり、にもかかわらず、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」(同15節)と、預言者としての使命を託されたことを明らかにしています。

 また、「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」(7節)と主が言われます。これは、主の民を養い、正しく導くべき指導者たちが、その使命を果たさないばかりか、異教の神々を礼拝して神を怒らせたゆえ、退けられたということです。

 11章15節の「愚かな羊飼い」、同17節の「無用な羊飼い」と呼ばれる人たちのことです。そして8節に、「この地の何処でもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る」とあります。民の三分の二は、この悪しき指導者たちと共に裁かれるということです。つまり、指導者たちだけでなく、民も自ら、神に背いていたわけです。

 しかし、民の三分の一は残され、神と民との間で、「彼こそわたしの民」、「主こそわたしの神」と呼び合う新しい契約が結ばれます(9節、エレミヤ書31章31,33節)。「銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す」と言われていますから、民は火のような試練を通って清められ、神の民とされるわけです。

 あらためてゼカリヤに与えられた本章の託宣は、エゼキエル書47章の「命の水」の預言を思い出させます。神殿の敷居の下から湧き上った水が川となり、アラバの海に注いで水を清め、すべての生き物が生き返り、魚も非常に多くなるというものでした。清い水の働きが神殿から始まり、すべてのものを清めると考えてもよいでしょう。

 ゼカリヤ書でも、この清める泉が開かれたのは、異教の神々を祀り、偽の礼拝を行わせる預言者や悪の指導者たちのいたエルサレムの町を清めるためで、その神殿から神の清めの働きが始まると示されているわけです。

 またこの託宣は、主イエスとサマリアの女性の対話を思い出させます(ヨハネ福音書4章参照)。主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(4章14節)。もちろんこれは、飲み水のことではありません。彼女に永遠の命を与える水であり、そしてそれは、まことの礼拝をするために与えられる真理の御霊のことです(4章23,24節)。

 そのことが表現を変えて、ヨハネ福音書7章37,38節にも、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られ、そして、「イエスは、ご自分を信じる人が受けようとしている霊について言われたのである」(同39節)と解説されています。

 主イエスによってもたらされた永遠の命の水たる真理の御霊は、今や私たちのところにまで流れてきています。誰でも、その水を飲むことが出来ます。そして、イエス・キリストを信じる者は、罪が赦されます。神の子とされます。永遠の命が与えられます。聖霊の賜物を受けます。神の愛と計画を知り、その使命に生きる者となります。神との間に親しい交わりが開かれます。

 主は私たちの祈りを聞いてくださり、「彼こそわたしの民」と言われます。すべてが主の恵みです。私たちも喜んで、「主こそわたしたちの神」と主をほめたたえ、「わたしの民」と呼んでくださる主の御声に耳を傾けながら、日々歩ませていただきましょう。

 主よ、今日も御言葉をくださってありがとうございます。主イエスを信じる信仰を通して、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれました。主よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御霊の働きにより、私たちを主が望まれるようなものに造り変えてください。 アーメン





10月20日(木) ゼカリヤ書12章

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」 ゼカリヤ書12章10節

 12章に、「エルサレムの救いと浄化」という小見出しがつけられています。主は、「わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」(2節)と言われました。エルサレムが全世界の民に包囲されます。周囲のすべての民のエルサレムに対する敵対心は、神に対する反抗であることを示しています。

 しかし、神に反抗することは、おのが身に神の裁きを招くことです。「その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う」(3節)とは、そのことです。

 エルサレムを取り巻く民の中にユダの人々もいます。主は、ユダの人々の目を開かれました(4節)。すると、彼らは「エルサレムの住民はわれらの神、万軍の主のゆえに、わたしの力だ」(5節)と心に言います。エルサレムに反抗する群れの中にいたユダの民が、エルサレム側に寝返ったかたちです。

 主はユダの民を薪や松明のようにして、エルサレムを取り巻く周囲の人々に燃え移らせ、すべてのものを焼き尽くさせます。さながら、豊臣方(西軍)であった小早川秀明が徳川方(東軍)に寝返り、大谷吉継隊に攻めかかり、壊滅させたことで戦況は東軍優位に傾き、関ヶ原の戦いは一日で決着してしまったといった状況を思い浮かべます。

 これは、主なる神がご自分に敵対するものをすべて打ち滅ぼそうとしておられるのではなく、ご自分のもとに立ち返るよう呼び掛けておられるということではないでしょうか。だから、ユダの家の人々の目が開かれるようになさったのです。

 10節以下には、エルサレムの住民への言葉が記されています。まず、冒頭の言葉(10節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」と言われます。そうすると、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」というのです。

 ダビデの家とエルサレムの住民が主なる神を刺し貫いたとは、主が遣わした預言者を殺したということであり、それによって主を刺し貫こうとしたのだと言われているわけです。そこで、憐れみと祈りの霊が注がれて、彼らはおのが罪に気づかされ、その愚かな業を嘆き悲しむのです。

 11節に、「その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」と記されています。メギド平野とは、メギドから東に広がるイズレエル平野のことでしょう。メギドは交通の要衝で、軍事的、商業的に重要な場所でした。ソロモンはこの地の戦略上の重要性を考えて、強力な要塞都市を建設しました(列王記上9章15節)。

 メギドにおける嘆きで思い起こすのは、神殿修復の際に発見した律法の書に従い、徹底的な宗教改革を行ったヨシヤ王がエジプトのファラオ・ネコと戦って殺された場所だということです。もしここでヨシヤ王が戦うことを回避していれば、そして、長く生きて宗教改革を徹底していれば、国の行く末は違ったものになったかも知れません。そのことを嘆く声が高く上がったように、エルサレムにおいて大きな嘆きが起こるということです。

 「ハダド・リモンの嘆き」とありますが、「ハダド」は「雷・嵐」を意味するアラムの神の名です。「リモン」は「吠え掛かる者」という意味のアッカド語に由来する名前ということですが、列王記下5章に、 襟者によって思い皮膚病を清めてもらったナアマン将軍が、「わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」(同5章18節)と言います。リモンはアラムの神だということです。

 「ハダド・リモン」というのは、ハダドとリモンが同一視されていたからでしょう。「メギド平野におけるハダド・リモンの嘆き」ということは、ハダド・リモンを祀る聖所か祠がメギドの傍にあったということでしょう。ヨシヤの宗教改革のさなか、ハダド・リモンを祀る聖所がメギドの傍にあったということは、神に反抗し、神の胸を刺し貫く行為がなされていたわけです。

 そのことを嘆く声が、ヨシヤ王を悼んで嘆くよりもさらに高く大きく、エルサレムで上がるということです。その声は、部族ごと、氏族ごと、男女別々に上げられると言われます。それは、その嘆きが公式発言としてなされるというより、一人ひとり個人的な痛み、嘆きとして声が上げられているということなのでしょう。ゆえに大きな嘆きになっているのです。

 ダビデの家の氏族と言われた後にナタンの家の氏族と言われていますが、この「ナタン」はダビデの子(サムエル記下5章14節)でしょう。それは、レビの家の氏族と言った後、レビの長男ゲルションの一氏族であるシムイの氏族(民数記3章21節)を上げていることから判断されます。つまり、ダビデ王とその子孫に代表される政治的指導者とレビとその子孫に代表される宗教的指導者の氏族たちが嘆くと言っています。

 彼らがエルサレムの民に、そしてイスラエルの国に罪を犯させ、神に背いてその胸を刺し貫くような愚かな振る舞いに及んだので、北はアッシリア、南はバビロンに滅ぼされ、捕囚とされるという結果を招いたわけです。

 おのが罪に気づき、嘆き悲しむとは、悔い改めの表現です。悔い改めとは、後悔するというよりも、方向を転換することです。背を向けていた神に顔を向けること、耳を閉ざしていた神の御言葉に耳を傾けること、背いていた神に従うようになることです。 

 ここに言われる独り子を失った嘆き、初子の死の悲しみとは、イエス・キリストの死を指しています。ヨハネ福音書19章37節に、「また、聖書の別のところに、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」とあります。これは、十字架のイエスがやりでわき腹を刺されたのは、ゼカリヤ書12章10節の預言が実現したことだと言っているのです。

 つまり、自分たちの罪のために死なれた神の独り子イエス・キリストの死を見つめて、彼らは嘆き悲しむ、即ち、悔い改めをするということです。民が悔い改めて神の下に帰ってくること、それが神の計画なのです。これこそ、偽りの神々の策略に対するまことの神の勝利なのです。

 憐れみと祈りの霊を注がれて、悔い改めに導かれた民は、自分の罪を悔い、悲しむと共に、その罪を自ら背負い、死んでくださった主イエスの贖いに心から感謝することでしょう。さらに憐れみと祈りの霊は、十字架につけられたキリストを宣べ伝える伝道の力、証しの力を与えるでしょう(使徒言行録1章8節、第一コリント書1章23節、2章2,4節)。

 主の霊は私たちの内に住まい、私たちを神の神殿、聖霊の宮とされます(第一コリント書6章19節)。主の霊の働きによって、自由にされます(第二コリント書3章17節)。顔の覆いが除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます(同18節)。

 私たちを神の子とし、神を「アッバ、父よ」と呼ばせてくださいます(ローマ書8章15,16節)。神の子として天の御国を受け継ぐ保証となってくださいます(エフェソ書1勝13,14節)。私たちのために呻きをもって執り成し、万事が益となるようにしてくださいます(ローマ署8章26,28節)。

 霊的な賜物をお与えくださいます(第一コリント書12章1,4節)。一人一人に霊の働きが現れるのは、教会全体の益となるためです(同7節)。そして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実を結ばせてくださいます(ガラテヤ書5章22,23節)。

 絶えず聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 主よ、私たちの霊の目を開き、私たちがどこにいるのか、何をしているのか、気づかせてくださいますように。偽り、背きの罪を離れ、真理の神に立ち返ることが出来ますように。御言葉と御霊によって内なる人を清め、キリストの贖いという尊い代価を払って買い取ってくださった私たちの体で、神の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン





10月19日(水) ゼカリヤ書11章

「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」  ゼカリヤ書11章12節

 11章は、10章に続いて羊飼いについての言及があります。新共同訳聖書では、4節以下の段落に「悪い羊飼い」という小見出しをつけています。レバノンの杉、見事な大木、バシャンの樫の木、人を寄せつけなかった森は、いずれも称賛の言葉というより、人の高ぶりを示す預言者的な表現です。ゆえに、焼き尽くされ、荒れ果て、倒されるのです。

 3節の「見事な牧場」という言葉について、原語に「牧場」という言葉はなく、「栄光、輝き、威厳」(アッデレト)という言葉が、「羊飼いたちの泣き叫ぶ声」という言葉からの類推で「見事な牧場」という訳語になったのでしょう。口語訳は「栄え」と訳し、新改訳は「ヨルダンの密林」との関連で「みごとな木々」と訳しています。

 いずれにせよ、ユダの指導者たちの高ぶりによって国が破壊されること、住処を荒らされて獅子が吠えるように、主なる神の裁きが羊飼い樽ユダの指導者たちの上にふりかかり、泣き叫ぶことになると告げられているのです。

 羊飼いは、牧草のあるところや飲み水のある泉などへ羊を導き、羊を養い育てるという務めをします。羊は弱い動物で、ユダの荒れ野において、羊飼いなしに生きることはなかなか困難です。また、羊は自分がよい羊飼いになることは出来ません。

 羊を憐れまない羊飼いが(5節)、良い羊飼いであるはずがありません。ここで預言者ゼカリヤは、王や祭司など政治的、宗教的な指導者たちのことを羊飼いと呼び、イスラエルの民を羊と呼んでいます。

 5節の「買い取る者」は異国の王で、イスラエルの民を奴隷とするということでしょう。「罪を着せられず」というのは、彼らがイスラエルの民を裁く道具として用いられるからです。羊を売るのは、羊を食い物にする悪い羊飼いで、私腹を肥やすためにそうしていると言われます。

 良い羊飼いは、絶えず羊のことを心にかけます。羊飼いは、「好意」と「一致」という二本の杖を手に持っています(7節)。好意は、小さい者に関心を払い、契約を結んで神の民とし、彼らに恵みを与えようとすることです。また、一致とは、分かれているものが一つになることです。そして、良い羊飼いは、悪い羊飼いを取り除きます(8節)。この良い羊飼いとは、主なる神のことです。

 9章16節で「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い、その民を羊のように養われる」と言い、10章3節には、「万軍の主は御自分の羊の群れ、ユダの家を顧み、彼らを輝かしい軍馬のようにされる」とあり、同8節にも、「わたしは彼らを贖い、口笛を吹いて集める。彼らはかつてのように再び多くなる」と記されています。

 ところが、羊たちが良い羊飼いを好むとは限りません。ここではむしろ、悪い羊飼いを退けた良い羊飼いを嫌っています(8節後半)。良い指導者よりも自分たちにとって都合のよい指導者を、まことの神よりも偽りの神々を慕うのです。

 そのため、良い羊飼いに見限られ、「わたしはお前たちを飼わない。死ぬべき者は死ね。消え去るべき者は消え去れ」(9節)、「わたしは『好意』というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした」(10節)と言われます。即ち、神の支配から切り離されて、バビロン捕囚の憂き目を見ることになったわけです。

 14節には、「わたしは『一致』というわたしのもう一つの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした」という言葉があります。これは、ソロモン王の罪により、イスラエルが、北と南に分断されたことを示しています。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(マルコ3章24節)と主イエスが教えられたとおり、神との契約が無効にされた南北イスラエルは、滅亡への道を突き進んでしまったわけです。

 冒頭の言葉(12節)に、「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を払え」とあります。羊が羊飼いに賃金を払うというのは、前代未聞の出来事ですが、「好意」という杖が折られた後、即ち契約を無効にした後に賃金を支払うというのですから、賃金が支払われて契約解除、謂わば解雇金といったものです。「支払わない」となれば、懲戒解雇を意味するといってよいでしょう。

 そして、銀30シェケルが量り与えられました。主はゼカリヤに、「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」と言われるので、ゼカリヤはそれを取って、鋳物師に投げ与えました(13節)。

 銀30シェケルは、イスカリオテのユダに支払われた、主イエスを売り渡す代価でした(マタイ福音書26章15節)。後にユダは後悔して、銀貨を返そうとし(同27章3節)、神殿に投げ込みます(同5節)。祭司たちはそれで陶器職人の畑を買いました(同6,7節)。ここに、ゼカリヤの預言が成就したのです。

 主イエスは、自分を殺そうとする者のために執り成して祈り、神に罪の赦しを請いました(ルカ福音書23章34節)。そして、十字架で贖いの死を遂げられました。主イエスこそ、実に「羊のために命を捨てる」良い羊飼いなのです(ヨハネ福音書10章11節)。

 私たちは、良い羊飼いなる主イエスに、「好意」と「一致」の杖で導いていただきましょう。主が共におられれば、災いをおそれることもありません。その杖が私たちに力を与えるからです(詩編23編4節)。

 主よ、元来あなたの囲いの中にいなかった私たちをもその群れに加えてくださり、恵みと平安にあずからせて頂くことが出来たことを、心から感謝致します。絶えずあなたの御声を聞かせてください。永遠の命の御言葉に常に耳を傾けます。あらゆる誘惑や罠から私たちを守ってくださり、死に至るまで忠実に歩ませてください。 アーメン




10月18日(火) ゼカリヤ書10章

「彼らは苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ。ナイルの深みはすべて干上がり、アッシリアの高ぶりは引き降ろされ、エジプトの王笏は失われる。」 ゼカリヤ書10章11節

 1節に、「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる」とあります。この言葉は、続く2節で、「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」と語られている言葉との関連で、収穫をもたらす雨をだれに祈り願うのかと、イスラエルの民に訴えているのです。

 「テラフィム」は、創世記31章19節で「家の守り神」と訳されています。士師記17章5節の表現では、主なる神のこととして礼拝しています。しかし、サムエル記上15章23節では「偶像」と訳されています。ここに、はっきり主なる神と区別されたわけです。

 2節の「テラフィム」は、偶像の代表のようにして語られています。そして、テラフィムを初めとする偶像に依り頼んで雨を祈り求めること、また占い師に将来の夢幻を尋ねるのは、真の神に依り頼まず、人の作った偶像や、占い師など偽りの指導者に道を求める人々は、羊飼いのない羊のように空しくさまようことになるのです。

 イスラエルは、ソロモン王以後、異教の神々を慕い求めて道を誤り、まことの神を悲しませました(列王記上11章)。その結果、国は分裂し(同12章)、そして、亡国と捕囚という塗炭の苦しみを味わわなければなりませんでした(列王記下17章、25章)。

 国を再建するにあたり、あらためてその信仰を問い、主に恵みを祈り求めよというのです。そして6節で、「わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」と約束されました。

 ここに、ユダだけでなく、「ヨセフの家を救う」と、北イスラエル王国の救いが告げられています。北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民はアッシリアの各地に散らされました(列王記げ17章6節)。主なる神は、バビロンのユダの民だけでなく、アッシリアから北イスラエルの人々をも、「わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す」と言われます。

 「彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」ということは、かつて彼らはその罪のゆえに主を怒らせましたが、亡国と捕囚の苦しみの中で主を求めたゆえに、主が憐れみをもってその祈りに答え、捕囚の地から贖い出してくださるというのです。 

 冒頭の言葉(11節)で、「苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ」というのは、出エジプトの出来事を思い起こさせるものです。かつて神は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、追って来たエジプト軍に悲鳴を上げたとき、葦の海(紅海)を二つに分けて民を対岸へ逃れさせました(出エジプト記14章)。

 それからの40年間の荒れ野の生活でも、民はたびたび苦難や危機を経験しましたが、そのたびに神は民を守り、助けました(申命記29章参照)。そのようにして彼らは信仰の養いを受け、約束の地カナンへ導き入れられて、国を建てることが出来たのです。

 ユダとイスラエルの民がエジプトの地から帰り、アッシリアから呼び集められるのが(10節)、第二の出エジプトとしてここに語られているということは、彼らのために神の守りと助けが用意され、国を再興することが出来ると約束されているのです。

 勿論それは平坦な道ではありません。冒頭の言葉のとおり、彼らの前に苦しみの海、波立つ海があって、彼らの行く手を遮っているのです。けれども、民は海を渡ることが出来ます。遮る海を打つことが出来ます(4章6節以下も参照)。

 ここでいう海とは、葦の海などではなく、様々な苦しみ、試練を指しているようです。その苦難を通して開かれる恵みの世界があること、その試練を通らなければ味わうことが出来ない信仰の世界があるということを教えられます。

 苦しみがあれば神に訴え、悲しみがあれば神に嘆き、呻いて祈りを捧げます。そして、訴え、嘆き、呻いてささげた祈りが神に聞かれ、やがて喜びや感謝の賛美に導かれる恵みを味わうのです。こうして、私たちの主なる神は、慰めと希望の源なるお方であり、どんなマイナスもプラスに変えてくださるお方であるという信仰に導かれてゆきます(ローマ書15章5,13節、8章26,28節)。

 主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖を向こう岸に向かっている時、何度か嵐に遭遇しました。しかし、どんな嵐が襲って来ても、向こう岸に渡ることが出来ました。それは、弟子たちの信仰のゆえなどではなく、向こう岸に渡ることが主の御旨だからであり、そして、主イエスが弟子たちと共におられたからです(マルコ福音書4章35節以下など)。

 どんなときにも思い煩わないで、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けましょう。あらゆる人知を超える神の平和、平安が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ書4章6,7節)。主を信じ、御言葉に立って前進させていただきましょう。

 主よ、あなたこそ真の羊飼いであられ、深い憐れみをもって私たちを命の道に導いてくださいます。苦しみの海を通ることがあっても、あなたが私たちと共にいて波立つ海を打たれ、私たちは主にあって力を受けます。私たちは主の御名において歩み続けます。その恵みと慈しみのゆえに心から感謝します。いよいよ御名があがめられますように。 アーメン





10月17日(月) ゼカリヤ書9章

「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。」 ゼカリヤ書9章11節

 9章には、まず諸国民に対する裁きが記されます。1~4節にはシリア、フェニキアの町に対する託宣で、それらの町が交易などで集めた富や力を、海に投げ込み、町を火で焼くと言われます(4節)。また5~7節はペリシテの町に対する託宣で、ペリシテ人の高ぶりを絶つと語られます(7節)。

 人を高ぶらせ、奢らせるものが取り除かれたとき、驚くべきことに、「その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エクロンはエブス人のようになる」と言われています(7節)。ダビデはエブス人の町エルサレムを陥落させて「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、9節)。けれども、エブス人は滅ぼし尽くされたのではなく、ユダの民の中に吸収されたようです(同24章16節参照)。

 即ち、神は、御自分の支配を、力ではなく平和をもって打ち立てられるということです。それゆえ、地上から戦乱はなくなり、イスラエルに平和が訪れます。だから、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」と言われ(9節)、「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を立つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」と記されるのです(10節)。

 冒頭の言葉(11節)で、「捕らわれ人を水のない穴から解き放つ」というのは、イスラエルの父祖ヤコブの11番目の息子ヨセフの身の上に起こった出来事を思い出させます。ヨセフは、父ヤコブの寵愛を一身に受けました。ヨセフはそれを鼻にかけていたので、10人の兄たちの妬みを買い(創世記37章1節以下)、空の井戸に投げ込まれます(同12節以下)。

 空井戸ですから、水がありません(同24節)。また、食べ物もありません。そのままなら、飢えと渇きで死んでしまうことでしょう。しかし、長兄ルベンが、弟を殺すのはやめて、イシュマエル人に売ってしまおうと提案します(同27節)。ところが、そう話し合っている間にミディアン人が通りかかり、ヨセフを井戸から引き出し、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまいました。ルベンが提案したとおりの成り行きになったわけです(同28節)。

 イシュマエル人は、ヨセフをエジプトに連れて行き、ファラオの宮廷役人で侍従長ポティファルに売られ、奴隷として働かされることになります(同28,36節)。それは大変な道ですが、まずは死を免れることが出来ました。

 エジプトでも困難なところを通りましたが(同39章参照)、どこでも主はヨセフを祝福されて(39章2,21節)、ファラオの家来たちの夢解きをしたことから(同40章)、ファラオの見た夢を解くことになり(同41章1節以下)、ついにエジプトの宰相に任じられるようになります(同41節以下)。

 そのことで、エジプトが飢饉から守られただけでなく、ヤコブ一族も飢饉から救われ(同42章以下参照)、その子孫は400年を超える奴隷生活の後、モーセに率いられてエジプトを脱出しました(出エジプト記1章8節以下、12章40節以下)。エジプトでの生活を始めたとき70名だったヤコブの家族は(創世記46章27節)、エジプトを脱出したとき、成人男子だけで60万を超える大民族となりました(民数記1章45,46節)。

 預言者ゼカリヤが活動していた時代、捕囚から解放されたものの、いまだイスラエルに戻って来ていない民も少なくありませんでした。むしろ、帰国した方が圧倒的に少ないという状況でした。それは、帰国しても困難が待っているだけで、バビロンにいる方がまだましであると考えられたからです。

 そこで、神は彼らのために、ロバに乗る平和の王、勝利を与える者を遣わされます(9節)。神によって繁栄が回復されます。失ったものが2倍になって戻って来ると約束されています(12節)。神は私たちのために恵みを備えて、私たちが神のもとに帰るのを待っておられるのです。「砦に帰れ」(12節)という御言葉に聞き従うことを、神は求めておられるのです。

 あらためて、「水のない穴」とは、御言葉を聞くことの出来ないところとも考えられます。水は、神の御言葉を指しています(詩編1編2,3節、エフェソ書5章26節、ヨハネ福音書4章参照)。私たちは、いつも水のある広い場所、神と共にいて、その御言葉を聴くことの出来るところにいたいと思います。

 私には、神の御言葉を聴く資格があるとか、神の共にいるのが当然というのではありません。「あなたと結んだ契約の血のゆえに」と言われるとおり、主イエスが十字架で流された贖いの血によって結ばれた新しい契約によって救いの恵みに与り、神の宝の民としていただいたのです(16節、出エジプト記19章5,6節、第一ペトロ書2章9節)。

 主イエスは、まさにロバに乗ってこられた平和の王で、死に打ち勝って甦られ、今も生きて私たちを守り導いてくださいます。それは、私たちの行いによるのではなく、神の賜物であり、一方的に授けられた神の恵みです(エフェソ書2章8,9節)。神が招いてくださるからこそ、神の御前に立つことが出来、主の御声を聴くことが許されるのです。

 日々主の御前に進み、いのちの言葉を戴きましょう。聖霊に満たされ、心から主をほめ歌いましょう。上からの力を受けて、キリストの証人としての使命を全うしましょう。 

 主よ、いつも共におらせてください。御言葉を聞かせてください。御言葉に聴き従うことが出来ますように。弱い私たちを常に聖霊で満たし、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰によって歩ませてください。主の恵みを信じます。 アーメン



10月16日(日) ゼカリヤ書8章

「あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき、平和をもたらす裁きをせよ。」 ゼカリヤ書8章16節

 8章は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民によって神の国イスラエルを再興されることが約束され、イスラエルを祝福する預言の言葉です。その中で、「勇気を出せ」、「恐れてはならない」と繰り返し言われます(9,13,15節)。

 これは、同時期に活動した預言者ハガイも語っていたことです(ハガイ書2章4,5節)。そこには、帰国を果たすことは出来たものの、神殿を建て直し、エルサレムの都を復興するまでには、なお多くの困難があるということが伺えます。

 8章の主の言葉が、7章1節と同時期(「ダレイオス王の第4年」)のものであれば、神殿の工事が終わるまでまだ2年もかかります(「この神殿は、ダレイオス王の治世第6年のアダルの月の23日に完成した」エズラ記6章15節)。

 主は、復興されるエルサレムについて、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」(4,5節)と言われます。

 ということは、帰国した民の中には、老爺や老婆、わらべやおとめが殆どいない、いても数が極めて少ないということを示しています。それは、バビロンからエルサレムまで長距離を旅し、荒れた町を復興するのは困難だからであり、幼子を抱えた世代の人々は、生活が不安定になることを望まないからです。

 そう考えると、バビロンから帰国したのは、若者が中心であったと言ってよいでしょう。高齢者が座し、幼子の声が満ちるというビジョンを通して、神は、神殿や城壁などといった建造物だけでなく、あらゆる世代が町に住む社会全体の復興を約束して、苦難の中にいる帰国の民を励ましているのです。

 そして、国を建て直すのに必要なのは、「真実」(エメト)であること、「正義」(ミシュパート:公正)が行われることであると、冒頭の言葉(16節)で語られています。それは特に、7章10節に語られていたとおり、やもめや孤児、寄留者、貧しい者らに対して示されなければならないものです。

 昔も今も、国の為政者によって真実が歪められ、不正が行われ、そのために国民、特に弱い立場にいる人々が苦しめられるという構図には、変わりがありません。

 沖縄に米軍基地の74%が集中しているというのは、数字の読み方に偏りがあります。米軍が占有している基地の面積は、全国で1028㎢、そのうち沖縄は229㎢、全体の22.7%です。しかし、沖縄本島に占める基地面積は、本島面積の18%にもなります。

 米軍基地が2番目に多く存在する神奈川県の基地面積は21㎢、県面積の0.8%、米軍基地面積が全国2位の青森県では24㎢、県面積の0.3%です。また、有事に共用にされる土地という点では、北海道が全国1位で345㎢です。しかしこれは、北海道面積の0.5%足らずです。

 沖縄では、有事の際に共用となる土地は更に増えるのです。これらは、沖縄にどれだけ大きな負担を強いているか、よく分かる数字だと思います。国は、この状況を改善すべきです。

 真実を行うというのは、国だけの問題ではありません。10年前の悲惨な飲酒運転による事故で、飲酒運転に対する厳罰化がなされ、飲酒運転追放の運動が全国的に展開されましたが、一行に飲酒運転による事故が減りません。法令遵守意識(コンプライアンス)がないからです。

 最近、服薬コンプライアンスという言葉があることを知りました。医療現場において、患者が処方どおりに服薬している場合、「コンプライアンス良好」といい、そうでない場合を「ノンコンプライアンス」というそうです。もしかすると、こんなところにも、真実に生きるという意識の欠如が表われているのかも知れません。

 私たちに求められているのは、思い上がらず虚勢を張らず、主なる神を信頼し、弱さは弱さのまま、足りなさは足りなさのまま、あるがままで神の前に立ち、自分の身の丈にあった真実、誠実な働きをすることです。そのとき、神はご自分の栄光の富に応じて、私たちに必要なものをすべて豊かに満たしてくださいます。

 主は、「四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる」(19節)と言われます。7章3節で、エルサレム陥落を記念して断食する悲しみの時を持つべきかという問いが提出されていましたが、それを大幅に拡大して、ユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時とすべきことを提案なされました。破壊された都に主が来られて真ん中に住まわれ、復興するからです(3節)。 

 だから、諸々の国の人々が、「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」(23節)と言うのです。

 主よ、わが国の政治、経済、教育など、あらゆる分野で真実と公正、平和が脅かされているように思われます。そうした中にあって、常に真実であられ,平和の源であられる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、正義を行う者となることが出来ますように。私たち自身も真実をもって語り合い、平和を創り出す者となることが出来ますように。 アーメン





10月15日(土) ゼカリヤ書7章

「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。」 ゼカリヤ書7章5節

 ダレイオス王の第4年9月4日(紀元前518年12月初旬ごろ)に,主の言葉がゼカリヤに臨みました(1節)。それは、「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみの時を持つべきでしょうか」(3節)と、ベテルが使者を遣わして尋ねさせた問いに対して、主がそれに答えられたものです。

 「五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか」というのは、バビロンによってエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、町が焼かれたこと(列王記下25章8節以下参照)を記念して、断食することを指しています。イスラエルの民は、捕囚の間、そして、バビロンから解放されてからも、エルサレムが陥落し、国が滅ぼされたことを悲しんでいたわけです。

 ベテルが従者たちを遣わしたというところ(2節)、口語訳は「ベテルの人々は」と訳していますが、「遣わす」が3人称単数形なので、ベテルの町がと考えた方がよいのでしょう。ただ、ベテルは北イスラエルにあった町で、信仰の一大中心地でした。国の分裂後、ヤロブアム王が金の子牛像を2体造り、その一つをベテルに置きました。

 北イスラエルの王たちは、このヤロブアムの偶像崇拝の罪を離れることがなかったと言われており、それが、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまう要因となりました。バビロンから解放された後、イスラエルに戻って来た者たちの中に、ベテルに住むようになった人々がいて、そこから町を代表して、その従者たちがゼカリヤのもとに遣わされたというのでしょう。

 彼らが祭司や預言者らに質問したのは、ダレイオス王の治世第2年に神殿建築が再開され(エズラ記4章24節、ハガイ書1,2章)、完成のときが近づいて来たからでしょう。そこで、なおエルサレム陥落を悼んで断食する必要があるのかと問うているわけです。この問いに対して、神がお答えになったのが、冒頭の言葉(5節)です。

 ここで神は、彼らがエルサレムが紀元前587年に陥落してから70年にも亘り、断食してきたことを認めておられますが、「果たして、真にわたしのために断食してきたか」と問われ、続けて、「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」(6節)と言われます。つまり、それは自己満足に過ぎないではないかと断じられたのです。

 神の都エルサレムが陥落し、神殿が破壊され、国が滅んでしまったことを悲しんで断食するというのは、信仰深さを表しているように見えます。しかし、そもそも神の都がバビロンに滅ぼされたのは、イスラエルの背きの罪と不信仰のためでした。その根本的な罪を悔い改める必要があります。ただ国が滅びたのを記念して断食し、悲しむ真似をするをするだけというのは本末転倒で、何の意味もなく、無益なことだというわけです。

 

 主は、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」と言われていたのに(9,10節)、イスラエルの民は、「耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉とを聞こうとしなかった」のです(11,12節)。

 神の御前に謙ることをよしとせず、御言葉に聴き従おうとしないならば、神の恵みは取り去られ、代わって神の怒りが臨むでしょう。かつてイスラエルの民が、「先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉とを聞こうとしなかった」ので、「こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた」(12節)と言われています。その結果、国は滅び、民は四散させられたのです(14節)

  私たちは、心から主なる神を愛し、その御言葉に聴き従わなければなりません。神が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物などではありません。謙って主の御声に聴き従うことです(サムエル記上15章22節、詩編51編18,19節など)。

 つまり、断食すべきかどうかということではなく、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」という9,10節の御言葉に耳を傾けるかどうか、主に聴き従うかどうかということなのです。

 これは、最も重要な掟とされている、神を全身全霊をもって愛することと、隣人を自分のように愛することという二つの掟(マタイ福音書22章37~39節)に、集約される内容でしょう。主イエスは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(同40節)と仰っています。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。

 この規定は、今も有効です。ルカ福音書10章25節以下で主イエスは、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(同25節)という質問に、この二つの掟を実行しなさい、そうすれば命が得られると教えておられます(同28節)。信仰により、主の恵みを受けて救われたからには、旧約の律法を行う必要はないということにはなりません。

 むしろ、恵みを味わったからこそ、喜んで主を礼拝し、隣人を愛しなさいと言われる主の御言葉に聴き従うのです。主の恵みは、それを知れば知るほど、私たちの心に、主への賛美と共に主に自らを献げる思いが湧き上がらせます。それが、私たちの為すべき礼拝だと、パウロは教えています(ローマ書12章1節参照)。

 パウロはまた、「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(同14章17節)と言っています。これは、神の国では、飲み食いなどはどうでもよいと言っているのではありません。主イエスも、共に飲み食いすることを大事にされました。神の国、神の支配の中で重要なのは、義と平和と喜びであり、それが聖霊によって与えられるのだと言っているのです。

 義とは、神との正しい関係を表しています。平和とは、他者との関係を表しています。神との関係が正しく、平和が支配しているところには喜びがあるでしょう。聖霊がそれを与え、導いてくださいます。

 聖霊によって与えられる義と平和と喜びに満ちた中で、共に飲み食いすることが出来るのは、実に幸せなことではないでしょうか。神の御前に謙り、飲むにも食べるにも、何をするにも神の栄光を表すように行いたいものです。

 日毎に主の御前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを祈り、御言葉を瞑想しましょう。主の導きに従い、御心を行う者とならせていただきましょう。 

 主よ、私たちを神の国にふさわしく、聖霊によって義と平和と喜びに満たし、導いてください。飲み食いに示される私たちの交わりを通して、神の栄光を表すことが出来ますように。御名が崇められますように。御国が来ますように。そして、御心がこの地にも行われますように。 アーメン






10月14日(金) ゼカリヤ書6章

「見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。」 ゼカリヤ書6章12節

 6章には第8の幻として、4両の戦車が登場して来ます(1節)。それは、数頭の馬に引かれた馬車です。最初の戦車には赤毛の馬、二番目は黒い馬、三番目は白い馬、そして四番目はまだらの強い馬がつけられていました(2,3節)。色々な色の馬は,第一の幻にも出て来ました(1章8節)。それは、地上を巡回するため遣わされたものでした(同10節)。

 数頭の馬に引かれた4両の戦車を見たゼカリヤが、これは何かと御使いに尋ねると(4節)、「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである」(5節)と答えました。天の四方の風は、第三の幻(2章5節以下)では、イスラエルの民を吹き散らしたものとして示されていました。ここでは、全地を主のものとするために、出て行くのです(5節)。

 6節に、「黒い馬は北の国に向かって出て行き、白い馬は西の方へ出て行き、まだらの馬は南の国に向かって出て行く」とあって、ここに「赤毛の馬」の記述がありません。何かの都合で抜け落ちてしまったのかも知れません。マソラ本文の脚注に、「赤い馬は東の地に向かって行く」という言葉をつけ加えることが勧められています。また、7節の「強い馬」は、3節の「まだらの強い馬」のことでしょう。

 8節に、「北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた」とあります。イスラエルはかつて、北東の強大国アッシリア、バビロンに苦しめられ、そして今はペルシアの支配を受けています。ここで、神の霊がとどまるというのを、新改訳は「わたしの怒りを静める」、口語訳は「わたしの心を静まらせてくれた」と訳しています。

 神の民を苦しめているものに対して、黒い馬に乗った神の御使いが勝利を収めたので、神の怒りが静められたという解釈です。新共同訳は、ほぼ直訳調です。かくて、北の国に打ち勝つというだけでなく、主の霊が留まるということで、そこに主を信じる信仰が植えつけられること、そして、それによって神の恵みが広げられることをも示しているようです。

 次いで、主の言葉がゼカリヤに臨みました(9節)。それは、帰還した捕囚の民から贈り物を受け取り、冠をつくってそれを大祭司ヨシュアの頭に載せることでした(10,11節)。ヨシュアに戴冠するということは、大祭司を王とするという意味になります。

 ただ、ペルシャによって捕囚の民は帰還を許されましたが、イスラエルは事実上ペルシャ帝国の支配下にありました。ですから、自分たちの王を立て、戴冠式を行うということは、当然、許されざることであり、それをすれば、ペルシアへの反抗とみなされたことでしょう。

 冒頭の言葉(12節)にあるように、彼は「若枝」と呼ばれます。これは、第4の幻(3章)の中で大祭司ヨシュアに対して、「わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる」(同8節)と語られていたことと矛盾するでしょう。マソラ本文脚注では、11節の「ヨツァダクの子、大祭司ヨシュア」を「シェアルティエルの子ゼルバベル」と読み替えるよう示唆しています。

 13節を見ると、「若枝」と言われた主の僕は、神殿を建て直して王座に座し、傍らの祭司との間に平和の計画があると言われます。つまり、戴冠されるのは、ヨシュアとゼルバベルどちらなのかということではなく、王と祭司両方の務めを担う者であるということです。

 イザヤ書4章2節、11章1,2節にも、主の若枝についての預言があります。その若枝とは、ダビデの子孫として生まれてくるメシアを表しています。今、指導者ゼルバベルと大祭司ヨシュアによって神殿建築が進められていますが、真の神殿を建てるのは、若枝なる主メシアであると、ここに宣言されました。

 14節に、「冠はヘレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の行為を記念するものとして、主の神殿に置かれる」とあります。主の神殿が建て直されるときまで、冠は神殿に置かれているわけです。「好意を記念する」とは、冠が、イスラエルの民が神の御言葉を信じる信仰の証しであり、メシアが来られて神殿を建て直し、神の国が堅く立てられることの徴であるということです。

 神殿を建て直すのはメシアが来られてからだというので、ゼルバベルやヨシュアの神殿再建の手が止まることはありません。むしろ反対です。主の若枝なるメシアが真の神殿を完成してくださると信じるからこそ、主が来られるまで、冠を安置するための神殿の完成を急ぎ、自分たちに与えられた使命を果たそうとするのです。

 ダビデの子孫として生まれてくるメシアとは、イエス・キリストのことです(マタイ1章1節、使徒言行録13章23節、ローマ書1章3,4節、第二テモテ書2章8節など)。確かにイエス・キリストは、神殿を建て直して王座に就かれる方です。

 主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)と言われました。それは、ご自分の体のことで、死からの甦りを語っておられたのです(同21,22節)。また、イエスの誕生を予告した天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げました。

 さらに、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブライ書4章14節)と記されています。かくて、神の子イエスは、真の神殿を建て、神の国を立てる真の王であり祭司であるメシア=キリストであり、罪と死の力を打ち破って復活され、天に昇られて神の右の座につかれたということは、 記念として主の神殿に置かれていた冠を戴かれたということです。

 私たちの体は聖霊の宿られる神殿であり(第一コリント6章19節)、また、教会はキリストの体と言われます(同12章27節など)。キリストの教会を建て上げるため、めいめいが、自分に与えられた才能、能力、賜物を用いて主に仕え、また、愛をもって互いに仕え合って参りましょう。主が、教会という御自分の体を通して、その栄光を現してくださいます。

 よ、私たちは御子イエスの血によって贖われ、キリストの体なる教会を構成する一員とされました。私たちが互いに愛し合い、平和のきずなで結ばれて、互いに仕え合うことを通して、私たちの信仰の証しを御前に捧げることが出来ますように。主の愛を追い求め、教会を造り上げることが出来ますように。 アーメン

 



近況報告

新しい治療法を試し始めて6週間が経過しました。
血液検査の結果は、アミラーゼの値が標準値を超えた以外は、すべて標準値の範囲内でした。
炎症反応も正常値内です。
症状が少しずつよくなっていることもあり、新しい治療法が効果を現してきたのではないかという診断でした。
経過を細かく観察しながら、治療を継続していきます。
この治療によって、寛解の状態を持続できるようになることを目指します。
研究が進み、根治できる病気になることを祈り願っています。 



 

10月13日(木) ゼカリヤ書5章

「それは盗人の家に、わが名によって偽りの誓いをする者の家に入り、その家の中に宿り、梁も石もともに滅ぼし尽くす。」 ゼカリヤ書5章4節

 ゼカリヤは、一つの巻物が空を飛んでいるという幻を見ました(1節)。6番目の幻です。それは、長さ20アンマ(約9メートル)、幅10アンマ(約4.5メートル)という非常に大きな巻物でした(2節)。巻物がこんなに大きいのは、誰もがそれを読むことが出来るということでしょう。御使いが、「これは全地に向かって出て行く呪いである」とゼカリヤに教えます(3節)。

 一面には盗人に対する呪い、もう一面には偽って誓う者に対する呪いが書いてあると言います。盗みと偽りの誓いは、律法で禁止されています(出エジプト記20章15,16節、レビ記19章11,12節など)。そこで、冒頭の言葉(4節)にあるように、この禁止命令を破っている者の家に、この巻物が飛び込んで行って、そこに宿り、その家を、「梁も石ももろともに滅ぼし尽くす」というのですから、まさしく徹底的に裁きが行われるのです。

 総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアによって、神殿が再建され、都が建て直されようとしているとき、盗みや偽りが横行しているというのは、いったいどうしたことでしょうか。そのような罪が国中に蔓延していくようなら、神の祝福が取り去られ、国を滅ぼす結果を招くのではないでしょうか。

 その背景として、バビロンから帰還した人々の暮らしは未だ貧しく厳しいものがあるということ、また、治安を守る社会機構がきちんと構築されていないということが考えられます。しかし、盗みや偽りの誓いは、相手との信頼関係を壊す行為であり、それは、国、社会の再建を妨げるものです。

 それゆえ、警察が機能していなくても、神はそれを見過ごしにはされず、盗人の家、偽りの誓いをする者の家を見出し、呪いをもって裁きを下されるのです。この幻がここに語られたのは、神殿が建て直されるということは、社会を、国を建て直すことで、そこで、それを妨げる悪、罪は、神が呪われ、徹底的に取り除かれるということを表明するためでしょう。

 主イエスが山上の説教の中で、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と教えられたとおり、神の民とされた者は、隣人との平和に生きることが求められています。

 続く6節に、「エファ升」が出て来ました。第七の幻です。これは、1エファ(およそ23リットル)を測るための容器です。1斗缶が18リットルですから、エファ升はその一回り大きなもの、ということになります。その中に一人の女が座っていて(7節)、御使いはその女を、「邪悪そのもの」(リシュア=邪悪、不正、悪徳の意)と言いました(8節)。

 エファ升の中の邪悪ということで、「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい錘、正しい升、正しい容器を用いなさい」(レビ記19章35,36節)という規定を思い出します。こうした規定があるということは、不正な物差しや秤、そして升が用いられていたわけです。

 エファ升のことを、「全地を見る彼らの目」(6節)というのは、不正が全地のいたるところで行われているということであり、邪悪なこと、不正なことを行おうとして、いつでも機会を狙っているということを表わしているようです。

 御使いは升の中に女を投げ返し、鉛の重しで蓋をしました(8節)。そして、遠く「シンアルの地」(バビロンのこと)に築かれる神殿に運びました。これは、悪が神の御力によって封じ込められること、また不正を家から、町から遠ざけなければならないことを示しています。

 これもまた、家庭から、社会から、邪悪なもの、正しくないものを取り除きたいという、神のメッセージです。私たちは、いつも神との正しい関係を意識して、私たちの罪、私たちの弱さと戦うべきです。私たちの心という升の中に、「邪悪」を隠しているなら、清い生活、正しい生活を送ることが出来ません。

 けれども、自分一人で罪や弱さに勝利出来るとは思いません。だから祈るのです。御言葉を聴くのです。聖霊の助けをいただくのです。腐らず、開き直らず、何度でも神の前に立ち上がるのです。

 先に神は、大祭司ヨシュアの汚れた衣を脱がせ、新しい晴れ着を着せられました(3章4節)。そこに、キリストの贖いが表わされているということ、それは、キリストを着せていただいたということと学びました。

 更に、主の霊を求めましょう。主の霊のおられるところに自由があります。主の霊が私たちのうちに働いて、主の栄光を鏡のように映し出させ、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えてくださいます。その恵みと導きに共に与りましょう。そうして、神の子として平和の実現に励みましょう。

 主よ、あなたの御心は聖書の御言葉にはっきりと記されています。御心に従って歩むことが出来るように、助けてください。聖霊で満たしてください。御霊を通して注がれてくる神の愛を、しっかりと受け止めさせてください。罪と戦い、弱さと戦わせてください。主によって勝利を与えてください。あなたの憐れみの御手に信頼します。主の恵みと平和が私たちのうちに、そして隣人との間に,常に豊かにありますように。 アーメン





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