風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年10月

10月31日(月) マタイ福音書6章

「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」 マタイによる福音書6章12節

 6章の始めに、「善行」(1節)についての教えが記されています。イスラエルにおいて、「施し」(1節以下)、「祈り」(5節以下)、「断食」(16節以下)は、律法の枠を超えた善行と考えられていたようで、これらの善行を行うことで、その人は信心深い人であると、人々が評価してくれるという面があったわけです。

 ところで、「善行」と訳されているのは、「義(ディカイオシュネー)」という言葉です。つまり、神との関係を示すものです。ただ、ヘブライ語で「義」を意味する「ツェデク、ツェダカー」という言葉が、70人訳(セプチュアギンタ:ギリシア語訳旧約聖書)において、「エレエモシュネー(施し)」(2節参照)と訳されることがあります。それを反映してか、1節の「ディカイオシュネー」を「エレエモシュネー」と置き換えている写本があります。

 ということは、1節が18節までの表題ではなく、4節までの「施し」についての表題だったということになりそうです。それが、「偽善者」をキーワードに、「祈り」と「断食」についての教えもここに集められ、そこで、1節の「エレエモシュネー」が「デシカイオシュネー」に置き換えられたという解釈も成り立ちそうです。

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(1節)という言葉で、善行によって天の父の報いをいただくことが出来るということが示されます。

 しかしながら、注意しないと、その報いが受け取れないことになるというわけです。それは、「見てもらおうとして、人の前で善行を」した場合です。主イエスは、善を行うことを問題にしているのではありません。善行の動機が、人に「見てもらおうとして」、即ち人の好評価を期待するという偽善的なものでないかということを問うておられるのです。

 「施し」(2節)が偽善的にならないように、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)と言われています。これはどういうことでしょうか。実際には、右手が何かを知っているわけではありません。手が何をしているのか、知っているのは自分自身です。

 その意味で、右の手のしていることを左の手が知らないということは、自分が無意識でしている、習慣的に行っていて、いちいち認識しないというようなことでしょう。施しは困窮者の支援のため人されるのであって、そのことで自分に見返りがあるとは考えない、報いを全く期待しないということです。

 「義」なるものは、神様から頂く恵みです。私たちは、神の恵みなしに生きることが出来ません。何が出来るからといって、神様にそれを自分の手柄として誇るわけにはいきません。それは、神の恵みであり、神の賜物によるのですから、ただ、神に感謝して栄光を神に帰し、「なすべきことをしただけです」と報告するのみです。そうすることで、ますます主の恵みに与るのです。

 冒頭の言葉(12節)は、「主の祈り」(6章9~13節)と呼ばれる祈りの一節です。主イエスが、「こう祈りなさい」と言われて教えてくださったので、主の祈りと呼ばれています。あるいは、主イエスがいつも祈っておられたご自身の祈りだから、そのように呼ばれているとも考えられています。

 冒頭の祈りは、主の祈りの中で、5つ目の祈りです。そして、14,15節に、この祈りを解説するように、人の過ちを赦すと、天の父もお赦しくださる、赦さなければ、天の父もお赦しにならないと語られています。これは、解説されなければ分からないほど、解釈困難な言葉とも思われませんし、誤解を生むような微妙な言い回しとも考えられません。

 他の祈りの言葉にはこのような解説がつけられていないということから、この5番目の「罪の赦しを祈る祈り」が、主の祈りの中で最も心を込めて祈られるべき祈り、主の祈りの鍵ともなる祈りであるということを示していると考えてよいでしょう。

 しかし、この祈りには、心に引っかかるものを感じさせるところがあります。それは、「自分に負い目のある人を赦しましたように」という部分です。これは、他者を赦すことが、神に赦される条件だということなのでしょうか。神は私たちを無条件に赦して下さるということではないのかという疑問が生じるのです。

 「赦しましたように」というのは、原文ギリシア語ではアオリスト(不定過去)形ですが、主イエスが用いておられたアラム語には過去形と現在形の区別はないので、私たちも赦しますから、私たちの罪をお赦しくださいという、少し受け取りやすい言葉になるという解釈もあります。神が赦してくだされば、私たちも赦しますという意味に受け取ろうということです。

 しかし、さらに正直にいうならば、神の赦しが前であれ後であれ、私たちは他者の罪を赦すことが出来るのだろうかという疑問があります。神が私たちの罪を赦すという福音は、既に受け取りました。しかし、私たちは友の罪を赦すことが出来ないのです。赦さなければならないことは分かっています。そうすべきだと思っています。けれども、感情がそれを許さないのです。

 だから、この祈りを素直に祈ることが出来ないということが起こるのです。実際に、この言葉を祈れずに、口をつぐんでしまうと言われるのを聞いたことがあります。どうすればよいのでしょうか。どう考えればよいのでしょうか。

 神は、私たちの思いをよくご存じです。いかに赦せない者であるかをご存知です。そして、私たちの必要が何であるのかをご存じです(8節参照)。だからこそ、主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださったのです。赦せない罪を、赦してくださいと祈るのです。

 主イエスは、赦さなくてよいと仰っているわけではありません。私は友の罪が赦せませんが、私の罪は赦してくださいと祈るのではありません。主の祈りを通して、友の罪を赦すという奇跡に導かれることを願うのです。赦せるようにしてくださいと祈るのです。

 主イエスはこの祈りによって、神との関係と隣人との関係が別々のものではないということを教えておられるのではないでしょうか。まさしく、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することと、自分のように隣人を愛するということは、表裏一体の関係にあるのです。だから、神の赦しを祈り求める心で、隣人を赦す心をも祈り求めるのです。

 岩渕まことさんの「願い」という歌に、「愛することを学びながら、赦せる心育てながら、言葉遊びにならぬように、真実と呼ばれる小道をずっと歩いてゆきたい、それが願い」という歌詞があります。アーメンです。私たちが自分で力んで、歯軋りしながらというのではなく、神の愛の奇跡が私たちの心に起こることを祈り願いましょう。そうして、神の義が私たちの内に実を結ぶ恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、あなたは私たちの心をご存じです。人の評価を気にして、善いところを人に見せようとします。そして、友の負い目、過ちを赦すことが出来ません。主イエスが神との正しい関係に生きること、友を赦すことが必要なことを教えていてくださいます。どうぞ主の恵みのうちを歩み、友の赦しを実現させてください。友を赦し、友に赦されることを通して、神の赦しの真実、真の恵みに豊かに与らせてください。 アーメン






10月30日(日) マタイ福音書5章

「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」 マタイによる福音書5章8節

 5章から、「山上の説教」(5~7章)と呼ばれる、主イエスの御言葉集が始まります。その最初の部分に、八つの「幸い」(マカリオスの複数形)が語られています。ギリシア語原典では、「幸いである」が最初に語られています。それを強調して訳せば、「おめでとう、心の貧しい人々」ということになるでしょう。

 ところで、ここに8つの祝福の言葉が重ねられています。「心の貧しい人々」(3節),「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)、「憐れみ深い人々」(7節)、「心の清い人々」(8節)、「平和を実現する人々」(9節)、「義のために迫害される人々」(10節)という人々への祝福ですが、、これを聞いて、自分のこととして嬉しくなった方、感動をもってその祝福を受け止めたという方が、どれほどおられるでしょうか。

 中でも、冒頭の言葉(8節)は、6番目に語られた「幸い」の言葉ですが、この言葉を聞いて、これは自分のことだと思える人がおられるでしょうか。むしろ、人前でそのように胸を張って主張することが出来る人はほとんどいないと言った方がよいのかも知れません。

 しかしながら、主イエスが、この祝福を受けるのはとても難しいと思われながら語られたはずはありません。むしろ、すべての人がこの祝福を受けるようにと思っておられるはずです。

 ローマ書3章9節以下で、詩編14編1~3節を引用しながら、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあると語っています。ユダヤ人に、ギリシア人に代表される異邦人を「罪人」として蔑む資格はありません。聖書は明確に、「正しい者はいない。一人もいない」と言っています。ですから、「私の心は清い」と自ら言う者は嘘つきということになりますね。

 しかし、ローマ書3章22~24節には、「即ち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と記されています。

 イエス・キリストがご自身の命をもって贖ってくださったので、私たちは清い存在とされたわけです。ですから、主イエスの十字架の前に、「私は清くない」と思っているというのは、かえって不信仰ということになるでしょう。

 「清い」というのは、罪を犯したことがないということではありません。火で精錬して不純物を取り除いたり、アルコールで消毒して汚れを清めるという言葉です。私たち人間の中で、過ちを犯さない人などいません。そう考えれば、清さとは、神の御前での素直さということでしょう。罪が示されたときに、それを素直に悔い改めること、恵みが差し出されたときに、それを喜んで受け取ることです。

 あらためて、心の清い人は神を見るという祝福の言葉が語られていますが、これは、神から見られるということでもあるでしょう。神は絶えず私たちをご覧くださっています。私たちが過ちを犯している暗闇も、神の御前に隠れてはいません。

 しかし、暗闇の中にいる私たちには、神が見えません。そして、神も見ておられないかのように思い違いをしているわけです。しかし、心清められて、心すすがれて神を見たとき、神はずっと見ておられたということに気づかされました。そして、主のまなざしの意味を悟ります。

 ルカ福音書22章61節に、三度主イエスを知らないと否んだペトロを、主が振り向いて見つめられたと記されています。そのまなざしはしかし、ペトロに対する憐れみに満ちていたと思います。決して怒りや嘲り、蔑みというようなものではなかったでしょう。「あなたの信仰がなくならないように祈った」(同22章31,32節参照)と言われた主イエスの深い御愛が込められたまなざしでした。

 主の目は、鶏が二度目に鳴いてペトロの方を振り向かれる前から、ペトロの心に向けられていました。だからこそ、鶏が鳴いたとき、正しくペトロの方を向かれたのです。そして、ペトロが主のまなざしに気がつくために、鶏が鳴くように図られたのです。

 主の計らいどおり、鶏の鳴き声でペトロの目が覚めました。ペトロは、主イエスの御言葉を思い出したのです(同61節)。そして、主の御愛が胸に迫りました。ペトロが外に出て激しく泣いたのは、そのためでしょう(同62節)。

 御自分を否んだペトロを贖うために、主は十字架にかかられました。亡くなられ、葬られましたが、三日目に甦られました。そして、主はペトロにもう一度使命を授けられました(ヨハネ福音書21章15節以下)。三度の否定に対して、三度、「わたしを愛しているか」と問いかけ、そして、「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。ここに、赦しと愛が示されます。ペトロはそれを受け取って立ち上がったのです。

 私たちも、同じ恵みに生かされています。主は私たちのすべてをご存じです。絶えず共におられ、私たちに目を注いでいてくださいます。そのまなざしは、愛と恵みに満ちています。そのことに気づくとき、私たちは恐れと不安から解放されます。

 そもそも、三度とは、文字通り3回というより、何度も何度もということではないでしょうか。私たちは、言葉と振る舞いで、どれだけ主を否んで来たことでしょう。主に背いたことでしょうか。そういう私たちに、主イエスはその都度、わたしを愛しているかと問うてくださり、そして、改めて、役割を与えてくださるのです。

 聖霊を通して、御言葉によって心すすがれ、いつも目をあげて主を仰ぎましょう。主のご愛に感謝しましょう。導きに従い、主の御業のために用いられる者となりましょう。

 主よ、御子キリストの十字架の死によって私たちを贖い、心を清めてくださり、感謝致します。いつもあなたから見守られていることを知り、私たちも瞬間瞬間、主を拝することが出来ますように。そして、委ねられた使命に励む者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン





10月29日(土) マタイ福音書4章

「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた。」 マタイによる福音書4章7節

 バプテスマを受けて(3章13節以下)公生涯に入られる主イエスを待ち受けていたのは、悪魔の誘惑でした(1節以下)。そこで、神の子とはいかなる者であるかということが試されました。悪魔は、神の子であれば、これくらいのことは出来るだろう、本当に神の子であるかどうか、証拠を見せろと迫ったわけです。

 第一の誘惑は、空腹となった主イエスに、石をパンに変えて食べるがよいというものでした(3節)。全能の神の子ならば、それくらいのことは朝飯前だろうということです。また、40日に及ぶ断食の後の空腹という非常事態なのだから(2節)、食物を得るのに手段を選ばず、奇跡を行うということも許されるだろうという考えでしょう。

 第二のものは、神殿の屋根から飛び降りて、御使いが支えるかどうか試せというものでした(6節)。この誘惑には、とても巧妙な罠が仕掛けられています。それは、聖書の言葉が用いられているからです。悪魔は、詩編91編11,12節を引用しながら、この御言葉が真実であるかどうか、そしてまた、この御言葉を信じているかどうか、証拠を見せるようにと迫るのです。

 第三は、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて(8節)、悪魔をひれ伏して拝むなら、それを与えようというものです(9節)。力と富を得て、神の国を作れということでしょうか。 私たちが権力や富を追い求めるなら、悪魔の誘惑に陥ってしまうことでしょうね。

 ここで悪魔は、まるで義の試験官であるかのように私たちを試すことがあると示されます。悪魔にその証拠を見せることが出来たとして、何が起こるのでしょうか。それを目撃した人々は、主イエスの力を賞賛し、どうすればそのような奇跡が行えるのかと考えるでしょう。信仰が必要だと言われると、自分もそのような信仰の確信を持つことが出来るだろうかと考えるでしょう。それはあたかも信仰的なことのように見えます。

 しかし、考えて見ましょう。その奇跡を行ってみせることが出来なければ、神が神でなくなるのでしょうか。神の子として、悪魔に奇跡を行って見せなければならないのでしょうか。私たちは、奇跡が行えるかどうかでその信仰が問われるのでしょうか。神は、そのような信仰者となるように期待しておられるのでしょうか。

 悪魔は、主イエスが神の言葉に従うことを求めているのではなく、自分の言葉に従うことを求めています。だからこそ、第三の誘惑で、自分をひれ伏して拝めと言っているのです。これが、悪魔の本音なのです。しかしながら、言うまでもなく、悪魔に従い、悪魔をひれ伏し拝む者が神の子であるはずがありません。

 また、第二の誘惑で悪魔が引用した詩編の御言葉は、確かに御使いが守ることを約束しています。しかしながら、御使いが本当に守るかどうか、屋根から飛び降りて試すというのは、信仰の行動ではありません。試さなければ不安であるというのは、むしろ不信仰を表明していることでしょう。やれば出来るということを示そうというのは、神の栄誉を求めることではなく、自分の信仰の力を誇示することでしょう。

 主イエスはここで、天使が自分の足を支える奇跡が起こるかどうか試す必要はありませんでした。主イエスは確かに父なる神を信頼し、その守りの中におられたのです。

 だから、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節、申命記8章3節)、「あなたの神である主を試してはならない」(7節、申命記6章16節)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10節、申命記6章13節)という神の御言葉で悪魔の誘惑を退けられました。

 これらの誘惑が一番力強く迫ってきたのは、十字架上でのことでした。悪魔が祭司長たちをして、「お前が神の子なら、十字架から降りて見せろ」と嘲り、ののしらせたのです(27章40節以下)。主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(27章46節)。罪と死の力の前に打ちのめされた絶望の叫びと見えます。

 しかし、主イエスが十字架で死ぬことが神の御心でした。それが、神が神であられること、神の子が神の子であるということを示すことだったのです。ゆえに、十字架を目撃した百人隊長らが、「本当に、この人は神の子だった」(27章54節)と、告白しているわけです。

 十字架の上では、特に何の奇跡も起こりませんでした。けれども、主イエスの十字架の死を通して、私たちの罪を赦し贖う救いの御業を完成するという、最も大いなる奇跡がなされたのです。ここに、神の愛があります。ここに、私たちに対する神の愛の奇跡が示されました。

 私たちは、重い病の癒し、回復、大きな夢の実現などのために神の奇跡を期待し、熱心に祈り求めることがあります。そしてそれは、悪いこととは思いません。しかしながら、神は私たちの願望の僕ではありません。私たちの必要をご存じであり、最善をなしてくださる主を信頼すること、謙って全能の主に聴き従うことが求められています。

 主イエスは、公生涯の初めから十字架の死に至るまで、父なる神に信頼され、御心に従順に歩まれましたから(フィリピ書2章8節)、「天使たちが来てイエスに仕えた」(11節,マルコ1章13節)、つまり、食事の世話を含め、あらゆる奉仕をもって父なる神がどれほど神の子に配慮しておられるかを示したのです。

 御自分の命を捨てて贖いの業を成し遂げるためにこの世においでくださった主イエスを信じましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。聴き取ったところに従って歩みましょう。主なる神がその一歩一歩を守り支えてくださいます。主の恵みと平安に与ることが出来るでしょう。
 
 主よ、絶えず御名を崇めさせてください。御心をこの地に行ってください。私たちの心を占領してください。あなたは愛だからです。私たちに与えられた聖霊によって,あなたの愛が心に注がれています。その恵みのゆえに、苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを経験させていただくからです。キリストにある喜びと平和が、全世界に拡げられますように。 アーメン





10月28日(金) マタイ福音書3章

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」 マタイ福音書による3章11節

 主イエスのメシア=キリストとしての働きが始まる前に、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が登場して来ます(1節)。彼は、らくだの毛衣に革の帯を締めていました(4節)。そのいでたちは、旧約時代の偉大な預言者エリヤのようです(列王記下1章8節)。

 エリヤは、450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者をカルメル山に集めて対決し、勝利しました(列王記上18章)。主なる神がエリヤの祈りに応えて、天から火を降らせたのです。エリヤはその前に旱魃を預言し、3年もの間、雨が降りませんでした(同17章1節,18章1節)。対決後、旱魃が終わりました(同18章41節以下)。それによって、主こそ雨と実りをもたらすお方であるということが、はっきりと示されたのです。

 3節には、イザヤ書40章3節が引用されていますが、よく似た言葉がマラキ書3章1節にもあります。さらに同3章23節には、「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。マタイは洗礼者ヨハネのことを、ここに語られている預言者エリヤの再来として描いていると言ってよいと思います。

 洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ります(2節)。「悔い改める」(メタノエオー)とは、「思いを変えるchange one's mind、方向を転換する」という意味です。

 「天の国は近づいた」と語られていますが、ユダヤの人々は、神への畏れから、そして、「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という十戒の規定から、神という代わりに天と言ったり、天の国と言ったりします。

 また、聖書で語られる「天国」というのは、人が死んでから行くところというのではありません。神が支配しているところ、神の支配が及んでいるところを天の国、神の国と言っています。つまり、天の国が近づいたというのは、神の支配が近づいたということです。神を信じる者にとって、神の支配が近づいたということは、神ならぬものの支配が終わり、その縄目から解放されることです。

 ヨハネは、どこに天の国、神の支配を見つけたのでしょうか。それは、冒頭の言葉(11節)にいう、彼の後から来られる方の存在です。それは誰のことでしょうか。14節の言葉から、それは主イエスのことだと分かります。主イエスが来られたことで、「天の国は近づいた」と語ったわけです。

 ということは、「悔い改めよ」というのは、主イエスの方を向きなさい、主イエスの言葉を聴いて思いを変えなさい、主イエスに従いなさいと言っていることになります。というのは、冒頭の言葉(11節)で、「わたし(洗礼者ヨハネ)の後から来る方(主イエス)は、わたしよりも優れている。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」と言われているからです。

 主イエスが授けるという「火のバプテスマ」は、前後の文脈から、神による裁きを意味しています。一方、「聖霊によるバプテスマ」は、神による救いを示していることになります。キリストが最後の審判者として、悔い改めた者には聖霊のバプテスマ、悔い改めなかった者には火のバプテスマを授けるというわけです。

 「バプテスマ」とは、水に浸すという意味のギリシャ語の動詞「バプティゾー」から出た言葉で、文字通りには「水に浸す儀式」ということになります。

 バプテスマについて使徒パウロが、「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と語っています(ローマ書6章4節)。

 つまり、主イエスを信じ、主イエスに従う者たちは、水のバプテスマによって古い自分に死んでキリストと共に葬られ、聖霊による新しい命を与えられて主イエスと共に生きる者とされたのです。

 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(ローマ書6章12,13節)。 

 主よ、私たちを主イエスを信じる信仰に導いてくださり、感謝致します。信仰により、聖霊によるバプテスマを授けられたことを感謝します。いつも聖霊に満たされ、感謝と賛美に溢れた生活をおくらせてください。聖霊の力を受けて主イエスの証人としての使命を全うすることが出来ますように。 アーメン


10月27日(木) マタイ福音書2章

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」 マタイによる福音書2章18節

 2章には、ユダヤ人の王として生まれた主イエスを拝むため、東方の占星術の学者たちがベツレヘムを訪れたこと(1節以下)、ヨセフ一家がヘロデ王の手を逃れてエジプトへ行ったこと(13節以下)、帰国してナザレという町に住むようになったこと(19節以下)が記されています。そしてそれは、旧約聖書の預言の実現であると説明されています(6,15,18,23節)。

 エジプトへの逃避行について、それは勿論、手放しで喜べる状況などではありません。ヘロデの暴虐な行為から難を避けるための行動です。したくないといってすませることが出来ません。主イエスが生まれたベツレヘム周辺の2歳以下の男児が、一人残らず殺されたのです(16節)。天使の御告げ(13節)に従わなければ、主イエスも殺されていたでしょう。

 この悲劇について、エレミヤが語った預言の言葉が実現したと言われています(17節)。冒頭の言葉(18節)がエレミヤの預言とされるもので、エレミヤ書31章15節の引用文です。エレミヤ書31章には、イスラエルの民が味わうバビロン捕囚(紀元前597年~538年)の苦しみからの解放、特に、主なる神とイスラエルの民との「新しい契約」が語られています。

 新約の教会は冒頭の言葉を、主イエスの受難に関する預言の言葉として聞き直したわけです。預言がなされていたということは、しかし、神が悲劇を起こすように予定していたということではありません。神の計画が進むためには、このような犠牲がつきものということでもないでしょう。だから、預言されていたのだから、仕方がないということでもありません。

 もし自分がそこで殺された子どもの親ならば、神を呪うことさえするでしょう。どんな説明を受けても、到底納得することは出来ないでしょう。そんなことは起こってよいはずがありません。誰であれ、そのようなことをしてよいはずもありません。

 そこに起こった出来事は、神がなさりたくて起こしたものではありません。むしろ、神の救いの計画を妨げようと悪しき力が働き、御子イエスを亡き者とするために起こした事件です。神は悪しき力によって御子イエスが奪われることがないように、守り導いてくださったのです。

 それは、御子イエス一人を守ることではありません。ヘロデの犠牲となった2歳以下の男児やそれを悼む母親たちをはじめ、すべての民を救う神の救いの計画が実現するためです。引用されたエレミヤの次の預言で、「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる」と語られています。

 やがて主イエスは、すべての民を救う命の道を開くため、十字架で贖いの死を遂げられます。なぜ、罪のない神の子が十字架で死ななければならないのでしょうか。それは、その方法以外に、神の愛を示し、救いの御業を完成する道がなかったからです。

 ヘロデほどではないにせよ、自己中心で神に背き、罪を繰り返す私たちが救われるためには、キリストの死による贖い以外に道がなかったのです。救い主が私たちの罪のために苦しみを受けること、木にかけられ、呪いの死を受けられることも、預言されていたことでした。神は、御自分の独り子を犠牲にして、すべての人々を救うご計画を立てられ、実行されたのです。

 この贖いの業を実現するため、即ち十字架で犠牲の死を遂げるために、その日まで主イエスは守られていたのです。なぜ神は、多くの幼子の命を守ってくださらず、慰めを拒むほどの悲しみを親たちに与えることを許されたのか、理由を説明出来ません。

 けれども、その苦しみは、十字架に死なれたキリストによって深く慰められ、その魂はキリストによって救われたと信じます。そして今、様々な苦しみの中にある方々のためにも、このキリストの下に癒しがあり、慰めがあり、苦しみから解放される道が用意されていると信じます。

 東方の占星術の学者たちが星に導かれて主イエスと出会いましたが(9節)、彼らは別の道、即ち占星術に頼るのではなく、神の御言葉に従って生きる道を選んで家路につきました(12節)。それにより、悪しき権力者ヘロデのところに戻らないようにされました。

 私たちも、インマヌエルと唱えられる主イエスと共に、御言葉に従って生きる道を歩むため、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従いましょう。

 主よ、御子イエスは私たちの苦しみを担い、病いを知っていてくださいます。キリストを通して、平和・平安が与えられ、癒しを頂きました。なお苦しみの中にある人々に平安を与え、解放を与え、癒しを与えてください。主とともに、命の道、救いの道を歩ませてください。全世界の救い主キリストによる平和と喜びが、すべての人々の上にありますように。 アーメン




10月26日(水) マタイ福音書1章

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」 マタイによる福音書1章1節

 今日から、新約聖書の1ページ目、マタイによる福音書の1章を読み始めます。1日1章ずつ、来年7月までの
およそ八ヶ月で新約聖書を読み通します。ご一緒に、通読してみませんか。

 マタイ福音書は、マルコ福音書を下敷きとして、マタイとルカの共通資料、マタイ独自の資料を加えて執筆編集されました。執筆されたのは紀元80年代のシリアで、ユダヤ的特色が多く見られることから、著者はギリシア語に堪能なユダヤ教出身のキリスト者と推定されています。伝統的には、イエスの直弟子の一人で徴税人であったマタイが著者だと信じられてきました。 ここでは便宜上、著者をマタイと呼ぶことにします。

 初めに、「イエス・キリストの系図」が記されています。聖書は神様からのラブレターと言われますが、カタカナの名前が羅列されているこの部分を読んで、神の愛を理解するというのは、易しくないかも知れません。むしろ、これが聖書かと幻滅して、読むのを辞めてしまったという話を聞いたことがあります。

 マタイが福音書の書き出しに系図を置いたのは、主イエスが歴史上の人物であることを明らかにするためであり、イスラエルの歴史の頂点に立つお方であること、主イエスの誕生が、決して突然の思いがけない出来事などではないことを明らかにするためです。

 主イエスはイスラエルが歴史を貫いて待望してきたメシア=キリストであり、イスラエルの歴史は、主イエスが登場されるのを目標に積み重ねられてきということ、ゆえに、主イエスの誕生は決して思いがけない偶然の出来事などではないということが、この系図を通して示されています。

 最初に、冒頭の言葉(1節)のとおり、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記されています。

 原文を見ると、文頭に「系図」(ビブロス・ゲネセオース:「系図の本」の意)と記されています。この言葉は、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)に2度(創世記2章4節、5章1節)登場します。それは、単なる系図ではなく、天地創造、人間創造の過程を示す箇所です。

 18節で「誕生」と訳されているゲネシスは、1節の「系図」と同じ言葉です。ということは、福音書の最初にこの言葉を置いて、イエス・キリストの誕生によって新しい時代が創造されるということを示そうとしているといってもよいでしょう。

 アブラハムは、旧約聖書の創世記12章以下に登場して来る、今からおよそ4000年前の人物で、イスラエルの父祖と言われます。彼は、神によって祝福の基として選び出されました(創世記12章2節)。

 祝福の基とは、彼が神に祝福されて大いなる人物となること、そして、アブラハムの祝福を通して、地上のすべての氏族が祝福に入るようにされることです。主イエスがアブラハムの子であるということは、主イエスを通して、すべての氏族が祝福に入るようになるということを意味します。

 ダビデは、サムエル記上16章以下に登場する、今から3000年ほど前に現れた、イスラエル史上最も尊敬されている王です。彼は少年時代、羊を飼う仕事をしていました。また、竪琴を巧みに奏する名手でした。また、たくさんの詩を作った詩人でもあります。詩編の多くの詩にダビデの名がついています。

 主イエスがダビデの子というのは、どういうことでしょうか。預言者イザヤは、ダビデの子孫からメシアが生まれるという預言を語っています(イザヤ書11章1節以下)。ここから、メシアをダビデの子と呼ぶ習慣が生まれました。

 マタイは、主イエスこそイザヤの預言していたメシア=キリストであるということを明らかにしようとして、ダビデの子と呼んでいるのです。メシアとは、油注がれた者という意味です。そして、メシアをギリシア語に訳すとキリストになります。つまり、メシアとキリストは同じ意味です。

 2節以下、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と系図が記されています。一人ずつを取り上げていく暇はありません。これを一纏めにして、17節に、「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」と記されています。

 これによると、アブラハムからキリストに至るイスラエルの歴史が、三つに区分されています。アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロンへの移住まで、そして、バビロンに移住してからキリストまでという区分です。そしてそれぞれが14代ずつであるというのです。これは単なる数字ではありません。「14」は、「7」という完全数の倍数です。

 それからもう一つ、昔、イスラエルではヘブライ語のアルファベットを数字代わりに用いていました。Aが1、Bが2といった具合です。「ダビデ」はヘブライ語でDWDと書きます。その数字は、Dが4、そしてWは6です。4+6+4で、合計は14になります。

 完全数「7」の倍数であり、ダビデというアルファベットの数である「14」で、イエス・キリストの系図が三つに区分されるということですから、この系図も、主イエスが神によって立てられたダビデの子・メシア=キリストであるということを明示していることになります。

 今、イスラエルの歴史が三つに区分されていると申しました。一つ目の区切りはダビデ、二つ目の区切りは、バビロンへの移住です。アブラハムからダビデまでという最初の区分は、神がアブラハムに約束した祝福が実現するイスラエル王国が形成されるときです。次の区分は、ダビデの子ソロモンからバビロン捕囚までで、絶頂から転げ落ちる王国崩壊の時期です。そして、捕囚からキリストが登場するまでの、いわば暗黒のときがありました。

 この三つがいずれも14代であるということは、そのすべてが神の全き支配の中にあったということを示しており、こうして、神の救いの計画が実現したのだという表現であるということが出来ます。

 この系図が人為的なものであるということは、特に第二区分の「ヨラムはウジヤを」(8節)、「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」(11節)と記されているところで分かります。というのも、ヨラムとウジヤの間に、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの三人が省略されており、ヨシヤとエコンヤの間にも、エルヤキム改めヨヤキムが省略されているからです。省略しなければ、14代になりません。

 ヨラムの子孫が系図から省かれることになったのは、彼の妻アタルヤのゆえでしょう。アタルヤは北イスラエルの王アハブの娘(列王記下8章16節)、オムリの孫娘(同26節)です。

 イエフの謀反で北イスラエルの王ヨラムと皇太后イゼベルが殺され、そして南ユダの王でアタルヤの子アハズヤが殺されましたが(同9,10章)、息子アハズヤの死を知ったアタルヤは、王族を滅ぼして自らユダの支配者となろうとしました(同11章)。その咎で、アタルヤの子孫3代が系図から外されたかたちです。

 一方、ヨヤキムが外された理由はよく分かりません。父ヨシヤがメギドで戦死した後(同23章29節)、王として選び出されたヨシヤの子ヨアハズが(同30節)、エジプトのファラオ・ネコによって3ヶ月で退位させられ(同33節)、代わって王となったのがヨヤキムでした(同34節)。神の意に背いてヨシヤが殺されたこと(歴代誌下35章22節)、また、エジプトの傀儡で王となった者は認めないという考えから、省略されることになったのでしょうか。

 神の救いの計画は、上り調子に実現したのではありませんでした。むしろ、ダビデ王朝が崩壊し、主だった者が奴隷としてバビロンに連れて行かれ、イスラエルが滅亡したところで、神の救いの計画が潰えてしまったかに思われました。悪魔サタンにしてみれば、これでメシア誕生を阻止出来たというかのごとき出来事だったわけですが、しkし、それによって神の計画を妨げることは出来なかったのです。

 むしろ、暗黒だからこそ、その暗黒の中で主を求め、救いを求める者が起こされます。そして、主なる神はその祈りに応えて、救いの道を開くためにメシア=キリストを送ってくださったのです。ここにも、万事をプラスに変えられる神の御業を見ることが出来ます。

 主よ、主イエスこそ、道であり、真理であり、命であられます。私たちも主イエスが開かれた御国への道を歩む者としてくださり、感謝致します。聖霊と御言葉によって私たちを御旨に適うように取り扱い、あなたの深い御愛を証しするキリストのよき薫りとしてください。御心がこの地になされますように。 アーメン





10月25日(火) マラキ書3章

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。かならず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書3章10節

 マラキ書3章は、旧約聖書最後の章です。

 1節に、「見よ、わたしは使者を送る」と言います。「使者」はマルアーキー(my messenger)という言葉で、1章1節の「マラキ」と同じ言葉です。つまり、「見よ、わたしはマラキを遣わす」と訳すことも出来ます。確かに主はマラキを使者としてイスラエルの民に遣わしておられます。

 その後に、「契約の使者」(マルアフ・ハッブリート:messenger of the covenant)という言葉があり、「あなたたちが喜びとしている契約の使者がやって来る」と言います。そして、その使者は、「あなたたちが待望している主」(アドーン)とも呼ばれています。最初の「使者」は、「契約の使者」の道備え、待望の主の到来を告げ知らせるため、遣わされるということでしょう。

 イスラエルの民は契約の使者の到来を喜びとし、待望しているのかも知れませんが、その使者は彼らが期待するメッセージを伝えてくれるのでしょうか。というのも、「彼の来る日にだれが身を支えうるか。彼が現れるとき、誰が耐えうるか」(2節)と言われているからです。この後の文言を考えると、「待望している主」、「喜びとしている契約の使者」とは、文字通りというよりもむしろ皮肉を込めたものと考えざるを得ません。

 2章17節に、「裁きの神はどこにおられるのか」とイスラエルの民が言っているとされていますが、イスラエルの民がその到来を期待していなかったというか、存在を信じていなかった「裁きの神」として、待望の主、契約の使者が来られるということです。5節に、「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する」というとおりです。

 「裁きの神」(エロヘーイ・ハッミシュパート)は、精錬する火としてレビの子らを清め、金銀のようにその汚れを除きます(3節)。彼らが献げ物を正しく献げる者となるため、主を正しく礼拝するためです。5節の「裁き」も「ハッミシュパート:the justice)で、律法に背いて呪術を行い、姦淫し、偽り近い、雇い人の賃金を不正に奪い、寡婦、孤児、寄留者を苦しめ、主を畏れぬ者らを告発して、イスラエルに正義を確立されるのです。

 新共同訳聖書は、6節以下の段落に「悔い改めの勧告」という小見出しをつけています。そして7節に、「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる」と記されています。聖書の告げる悔い改めとは、主なる神に立ち帰ること、主の御言葉に耳を傾け、その声に従うことです。

 8節に、十分の一の献げ物と献納物において、神を偽っているという告発があります。即ち、神のものを盗んでいるというのです。レビ記27章30節以下、申命記14章22節以下に、すべての収入の十分の一を神に献げるようにと命じられています。

 十分の一を献げることになった原点は、アブラハムがいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに対して、すべての物の十分の一を贈ったことでしょう(創世記14章20節)。また、ベテルで祝福の約束を受けたヤコブが、約束が成就した暁には十分の一を献げるという誓願を立てています(同28章30,31節)。

 イスラエルの民が献げた「十分の一」は、レビの子らの分となりました(民数記18章21,24節)。それは、彼らが嗣業の土地を持たないからと説明されています(同23,24節)。そして、レビの子らが受けたものの十分の一を主に献げます(同26節)。そしてそれは、祭司アロンに与えられます(同28節)。そして、その中から最上のもの、聖なる部分を選んで主への献納物としなければなりません(同29節)。

 また、イスラエルの民が献げる「献納物」とは、祭司やレビ人たちの生計のために分けられる「奉納物」,「礼物」と言われる雄羊の献げ物の一部分で(出エジプト記29章26節以下)、「イスラエルの人々が主に対する献納物として,和解の献げ物のうちから献げる物である」(同28節)と規定されています(レビ記7章32~36節、民数記5章9節など参照)。

 「十分の一の献げ物と献納物において」主のものを盗んでいたのは(7節で「偽る」と訳されたカーバーは、「盗む、奪う」という語)、1章、2章の記述からすれば、イスラエルの民だけでなく、祭司たちも同様でしょう。祭司を筆頭にすべての民が「掟」(ホーク:定め、掟、律法)と言われる主の教えを守っていなかったのです。

 彼らがそれを守れなかったのは、理由のないことではなかったと思われます。というのは、冒頭の言葉(10節)に「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」と記されています。ということは、その当時、天から雨が降らず、旱魃による不作が続いていたのではないかと想像されます。

 また11節には、「食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにする」とありますから、イナゴなどの害虫による被害に絶えず見舞われていたのでしょう。旱魃にイナゴの害、まさに泣き面に蜂の状態です。

 そのような状況の中で食うや食わずの生活をしているような人々が、わずかに収穫できたものや、次期の収穫に備えて蓄えているようなもの、また、家畜の産んだ初子などを神の前に携えて来るのは、言うほど容易なことではなかったと思います。

 しかるに神は、冒頭の言葉(10節)のとおり、十分の一と献納物は神のものだから、まず神の倉に納めよ、そうすれば、旱魃や害虫などによる被害から守ろう、そのとおりになるかどうか試してご覧と言われるのです。

 主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ福音書6章25節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と教えておられます。

 これらの御言葉で語られているのは、神とその御言葉を信じるかということです。神の愛に対する信頼があれば、その言葉に従うことが出来るでしょう。そうすれば、大きな恵みを味わうことが出来るというのです。

 ダビデ王が、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23編4節)と語ることが出来たのは、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う」(同1,2節)羊飼いなる主への信頼、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる」(同5節)という信仰があったからです。

 すべてのものは神のものです。確かに、収入は自分の労働に対する報酬で、どのように使おうと個人の自由でしょう。けれども、働くために必要な知恵や力、健康、そして職場があることなどは、報酬ではありません。家族があること、家庭の暖かい交わりも、報酬ではありません。

 十分の一の献げ物と献納物を主にささげるのは、すべてが主の所有物であると信じることです。そしてまた、主の豊かな恵みに対する感謝と喜びを表明することでもあります。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)。

 いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように,あらゆる恵みをわたしたちに満ちあふれさせることがお出来になる方に信頼し(同9章8節)、喜びと感謝をもって主の教えに聴き従いましょう。

 主よ、私たちはあなたの恵みによって常に守られ、支えられています。ご自身の栄光の富に応じて,キリスト・イエスによってわたしたちの必要をすべて満たしてくださる主の御言葉に従い、献げることにおいても豊かな恵みを味わうことが出来ますように。 アーメン






10月24日(月) マラキ書2章

「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや、既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。」 マラキ書2章2節

 2章は最初の段落(1~9節)に、祭司への警告が語られています。彼らは、主の御前にいけにえをささげ(1章7節以下参照)、また人々に真理を語り教える務めを担っています(6,7節)。しかし、いつのころからか、それがおざなりになってしまいました(1章12,13節、2章8節)。

 民の貧しさを見て、最もよいものでなくても、第二、第三のもの、残りのものでもよいとしたのでしょうか。それで、盗んで来たものや足に傷のあるもの、病気にかかっているものであってもよいとしたのでしょうか(13節)。あるいは、自分たちの貧しい状況を変えてくださらないような神に、最もよいものをささげる必要などないと人々から言われたのかも知れません。

 とはいえ、群れの中に傷のない雄の動物を持っていながら、傷あるものを主に献げるのは、偽りを行うことでしょう(1章14節)。そして、それを許したということは、祭司たち自身の神を畏れる心が鈍くなり、礼拝する姿勢が既に崩れていたということを示しています。

 かつて、神はイスラエルの民をご自分の宝の民として選ばれました(出エジプト記19章4節、申命記7章6節)。それは、彼らに祝福を与えるためであり、そしてその祝福がイスラエルを通して異邦の民にも及ぶためでした。ところが、今は冒頭の言葉(2節)の如く、イスラエルの背きの罪のゆえに、祝福が呪いとなってしまっています。

 かつて、エジプトを脱出して約束の地を目指すイスラエルの民に恐れを抱いたモアブの王バラクが(民数記22章3節)、ユーフラテス流域のアマウ人の町ペトルから占いを生業とするベオルの子バラムを招き(同5節)、イスラエルを呪わせようとしました(同6節)。ところが主はバラムに、イスラエルの祝福を告げさせました(同23,24節)。モアブによる呪いを祝福に変えられたのです。

 しかるに今、主は祝福を呪いに変えると警告されます。イスラエルが主の道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせて、主の祝福を受けるに相応しくないと判断されたからです(8,9節)。  

 むしろ、異邦の民のほうが、主をあがめ、主の御前に香をたき、清い献げ物を献げていると言われているのです(1章11節)。勿論、重要なのは、どのようないけにえを献げたかというよりも、どのような心でそれをしたのか、ということです。主は、「潔白な手と清い心をもつ人、むなしいものに魂を奪われることなく、欺く者によって誓うことをしない人」を祝福し、恵みをお与えになります(詩編24編4,5節)。

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)という言葉もあります。

 主イエスは、貧しいやもめの献金を賞賛されました(ルカ福音書21章1節以下)。この女性の献げたレプトン銅貨2枚は、現在の50円硬貨二つというところでしょう。しかしそれは、この女性の生活費全部だったのです。

 たとえ傷のあるいけにえであっても、それが、最上のものを惜しんでとか、自分が先にとった残り物とかというのではなく、その人の献げられる最上のものであれば、精一杯の献げ物であれば、人は喜ばなくても、主はそれを喜ばれるでしょう。外面的には傷がなくても、病気でなくても、いとよきものを献げようという心からの献げ物でなければ、主は喜んでくださらないのではないでしょうか。

 主イエスの贖いによって救われ、神の民とされた私たちも、いかにして神の道に歩み、その聖なる御名にふさわしい栄光を神に帰するかということを学ぶ必要があります。私たちの信じる主は、畏れとおののきこそがふさわしい大いなる王であるということを知るべきです(5節、1章14節)。

 もう一度、主イエスを全地の大いなる王として崇めましょう。私たちを創り、私たちを贖い、私たちを愛し尽くされる主に、心からの賛美のいけにえを捧げましょう。私たちに御霊を注いで力を与え、主の証人としてお立てくださった主の使命を、喜んで果たしましょう。

 「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(詩編47編2,3節)。ハレルヤ!

 主よ、御名を崇めて感謝します。あなたこそまことの主、まことの神。あなたの他に私たちを救うことの出来るお方はありません。あなたにあって、命と平和を得ました。与えられている恵みを呪いに変えてしまわないように、御言葉に聴き、その導きに従って歩みます。いつも目を覚ましていることが出来ますように。 アーメン






10月23日(日) マラキ書1章

「今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを受け入れてくださるだろうかと、万軍の主は言われる。」 マラキ書1章9節

 いよいよ、旧約聖書の最後の書のマラキ書に入ります。マラキ書が執筆されたのは、その内容から、ハガイ、ゼカリヤよりも半世紀以上降った紀元前460年ごろ、エズラ、ネヘミヤと同時代のことだろうと想像されています。預言者マラキについては、マラキ書に書かれている内容以外のことは何も分かりません。

 「マラキ」という名は「私の使者」という意味であり、3章1節では、「マラキ」という言葉が普通名詞として、「わたしは使者を送る」と訳されています。こうしたことから、マラキとは固有名詞ではなく、3章1節からとられた役職名ではないかと考える学者もいます。そうであれば、彼が神からの託宣を受けて語る預言者であるということ以外に(1節)、この預言者個人について、その名前も含めて、確実に言えることは何もないということになります。

 紀元前460年ごろというのは、神殿は再建され(紀元前515年)、礼拝は定期的に守られているものの、城壁は破壊されたまま、都の回復はまだ程遠いといった状況でした。ペルシア帝国による支配は穏やかでしたが、その支配から独立することは出来ませんでした。また、生活が改善することもなかったようです。

 神殿が再建されれば、自分たちを取り巻いている生活環境や国際的な情勢など、状況が劇的に変化するのではと期待していたイスラエルの民は、次第に懐疑的になって来ていました。それは、神は本当にイスラエルを愛しておられるのだろうか(1章2節以下)、正義を行ってくださるのだろうか(3章13節以下)という問いです。このような状況の中に、預言者マラキが登場して来たのです。

 内容は、概ね警告であり、悔い改めて神に立ち返るようにとの勧告です。即ち、「わたしはあなたたちを愛してきた」という言葉に始まり(1章2節)、「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」と結んで(3章24節)、主との契約を忠実に履行せよと招いているのです。

 1章2節以下で愛を語られる主は、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(2,3節)と言われます。エサウとヤコブは、イスラエルの父祖アブラハムの子イサクの息子たちです(創世記25章19節以下、25,26節)。

 創世記25章23節に「一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とありますが、その理由は説明されません。ヤコブに対する神の愛は一方的なものです。エサウの子孫エドムはイスラエルに隷属し、時には反抗していましたが、やがて歴史の表舞台から姿を消します。「荒れ野のジャッカルのものとした」(3節)とは、砂漠の住民ナバテア人によって、その地から追い払われたことを指しています。

 エサウが憎まれ、表舞台から姿を消したのが、神に愛されているイスラエルに対する敵対行為をその理由としてなされたと考えると、それがまさに、主なる神がイスラエルを愛しておられる証拠ということにされているわけです。しかし、この愛はイスラエルへの慰め、希望として語られているのではなく、主の愛を軽んずるイスラエルに対して、エサウが憎まれたようにイスラエルも同じ道を行くことになると警告しているのです。

 イスラエルが神の愛を軽んじている様が、6節以下に示されます。それは、祭司たちが汚れたパン、目のつぶれた動物、足が傷ついたり、病気である動物をいけにえとしてささげ、しかも、「主の食卓は軽んじられてもよい」(7、12節)、「主の食卓は汚されてもよい」(12節)といって、神の名を汚していることです。

 良いものはとっておいて、売り物にならず、役に立たないものを神にささげる。厳しい生活の中でそれはやむを得ないと考えることも出来るかもしれません。現実に、「主の食卓は軽んじられてもよい」などと公言する人は殆どいないでしょう。むしろ、申し訳なく思いながら、それが精一杯だと思ってするのではないでしょうか。

 けれども、冒頭の言葉(9節)を見てください。その献げ物をささげて、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うけれども、誰が神に受け入れてもらえるだろうかというのです。それが私たちの行っていることだと言われています。

 8節に、「それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうか」という言葉があります。勿論、そうはしないと、誰もが答えるでしょう。ここに、主なる神が総督よりも低い地位に置かれ、民の生活の必要の後回しにされている現実が浮き彫りになります。そして、当然それは、神が喜ばれる信仰の生活ではないのです。

 「日の出るところから日の入るところまで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる」(11節)とは、異国の民が純粋に創造主なる神をあがめ、真実な礼拝をささげているということです。

 それに対して、イスラエルの民が主なる神を軽んじ、冒涜し続けるなら、その礼拝は受け入れられず(13節)、むしろ、偽り者として神の呪いを受けることになります(14節)。 

 神に喜ばれるために、どうすればよいのでしょうか。神を畏れましょう。おのが罪を認め、神に赦しを願いましょう。そして、何よりも先ず、神の国と神の義とを求め(マタイ6章33節)、いとよきものを神にささげましょう(民数記18章29節,ローマ書12章1節)。そうすれば、神が私たちの必要を満たしてくださいます。

 主よ、私たちの不信仰をお赦しください。日毎に御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けさせてください。御心を教えてください。導きに従い、主の御業を行う知恵と力を与えてください。聖霊の満たしと導きが常に豊かにありますように。そうして、主の御名をあがめさせてください。 アーメン




10月22日(土) ゼカリヤ書14章

「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」 ゼカリヤ書14章9節

 ゼカリヤ書最後の章になりました。預言者ゼカリヤが見ているのは、厳しい状況です。2節に、「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となっていく」とあります。

 12章2節にも、「わたしはエルサレムを、周囲のすべてを酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」とあり、その時、主がエルサレムの住民の盾となり(同8節)、エルサレムに責めてくるあらゆる国を必ず滅ぼすと言われていました(同9節)。同じ事態の違った側面が描かれていると考えたらよいのでしょう。

 「民の残りの者が、都から全く断たれることはない」(2節)という言葉は、都にいた多くの者が断たれるということになるわけで、その状況の厳しさをあらためて思わされます。都が敵に囲まれ、その戦いで多くの人々が命を落とし、女性は犯され、戦利品が分配されます(1節)。つまり、この戦いで敵軍が勝利を収めているということです。

 しかし、ゼカリヤが見たのはそれだけではありませんでした。12章で語られていたように、主が国々と戦い(3節)、ついには、冒頭の言葉(9節)にあるように、地上をすべて治める王となられるのを見ています。エルサレム東のオリブ山が二つに裂け、東方への避難路ができます(4節)。それを通って逃げよと言われ(5節)、避難民に代わって主なる神が御使いたちと共に都にやって来られます(5節)。

 その日、太陽の光が失われ、冷えて凍てつくばかりでしたが、昼もなければ夜もない、神の栄光が常に輝き(7節)、エルサレムの都は命の水が湧き出て潤い、その川が東に西に流れ続けて海に至っています(8節)。

 これは、ヨハネの黙示録に記されている新しいエルサレムに似ています(黙示録21章23節、22章1,5節、11章15節など)。ということは、ゼカリヤの見ているのは、すぐにも実現するというものではなく、世の終りに訪れる主の日のことということになります。

 それがここに記されているのは、冒頭の言葉(9節)に記された、「その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」という主の日の到来を待ち望みつつ、今のこの苦難のときを、信仰に堅く立ち、恐れず勇気を出して歩みなさいと、エルサレムの民に励ましを与えているわけです。

 これらのゼカリヤの言葉を、確かに神によって与えられた預言の言葉であると信じることが出来た人には、希望が与えられたことでしょう。けれども、どれほどの人が、信仰によってこの言葉を聴くことが出来たでしょうか。むしろ、殆どの人がまともに聞こうとしなかったのではないかと思われます。

 厳しい現実の中で、希望の光を見出すのはなかなか困難です。このトンネルの向こうには必ず光の出口があると言われても、暗闇の袋小路に追い込まれているのではないか、底なしの淵に沈みこんでしまうのではないかという不安を拭い去ることが出来ないのです。

 恐れや不安を取り除く万能薬を作ることは出来ません。でも、不安や恐れを取り除いてくださる方はおられます。それは、私たちの救い主、主イエス・キリストです。

 主イエスは、十字架にかかられる直前、弟子たちに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14章1節)と言われ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と励まされました。

 また、主イエスが十字架で死なれ、葬られた後、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵を掛け、閉じこもっていた弟子たちのところに甦られた主イエスが立たれ、「あなたがたに平和があるように」(同20章19節)と仰いました。

 「心を騒がせるな、勇気を出せ。平和があるように」と語られる主の御言葉に耳を傾けましょう。主を信じる信仰は、自分で作り出せるものではありません。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章17節)と言われる通りです。聞いた言葉を信仰と結びつけることができるよう(ヘブライ書4章2節参照)、聖霊の導きを求めましょう。

 また、心の耳を開いていただきましょう。主こそ良い羊飼いであり、羊は羊飼いの声を聞き分け、従っていくことが出来るからです(ヨハネ福音書10章3,4節)。心の目を開いていただきましょう。神の御旨を深く悟ることが出来るからです(エフェソ書1章17節以下)。

 希望の源なる主よ、なかなか明るい希望の光を見出すことが困難な状況の中で、すべてを統べ治める全能の主を仰ぎ見ることが出来、そして勇気をもって神殿再建、エルサレム復興のために民を励ましたゼカリヤのように、私たちにも絶えず主を仰がせ、その御声に耳を傾けさせてください。主を信じる信仰に堅く立ち、主の御言葉に従うことが出来ますように。聖霊の満たしと導きに与らせてください。 アーメン






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