「お前はテーベに勝っているか。ナイルのほとりに座し、水に囲まれ、海を砦とし、水を城壁としていたあの町に。」 ナホム書3章8節
ニネベの滅亡を語るナホムの預言の中に、冒頭の言葉(8節)のとおり、エジプトの「テーベ」の名が出て来ました。原文には「ノ・アモン」と記されています。「ノ」はエジプト語で「町」を意味し、「アモン」はエジプトの最高の太陽神アメンのことです。つまり、「ノ・アモン」とは、「アメン(神)の町」という意味です。テーベには、アメン神を祀る総本山のカルナック神殿があります。
テーベは、カイロの南約500キロに位置し、紀元前2000年から紀元前662年まで、エジプト王国の首都として栄えました。世界史上最初の大都市と言ってもよいほどで、カルナックやルクソールの遺跡が、往時の繁栄ぶりを今に伝えています。
テーベは、カイロの南約500キロに位置し、紀元前2000年から紀元前662年まで、エジプト王国の首都として栄えました。世界史上最初の大都市と言ってもよいほどで、カルナックやルクソールの遺跡が、往時の繁栄ぶりを今に伝えています。
テーベは、両側に険しい崖がそびえるナイル川の渓谷にあり、ナイルから水を引いて周囲に堀や水路をめぐらし、街を防衛するようにしていました(8節)。その上、クシュ、プト、リビアといった周辺の国々と同盟を結び、テーベの町は幾重にも守られていたのです(9節)。
このように、長く繁栄を誇り、難攻不落と思われていた町も、滅ぼされるときが来ました(10節)。預言者ナホムは、テーベが陥落させられたことについて、同時代を生きていた者として、はっきり知っていたと思われます。そして、アッシリアの都ニネベは、「テーベに勝っているか」と尋ねるのです。
実は、このテーベを陥落させたのが、アッシリアの王アシュルバニパルでした。ですから、その意味で、軍事力などは確かに、ニネベがテーベに勝っているということになるでしょう。しかし、ここで預言者が問題にしているのは、そのような力のことではありません。
1節に、「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち、人を餌食にすることをやめない」と記されていました。これは、アッシリア軍が、テーベやその他の町に対して行ったことと思われます。また、4節で、「呪文を唱えるあでやかな遊女の果てしない淫行のゆえに」と言われますが、これは、ニネベの女神イシュタル礼拝と関わりがあると言われます。
メソポタミア・アッシリアの優れた文化、文明、軍事力、その中核をなす異教の偶像礼拝のゆえに、多くの国々がそのとりことなったわけです。そして、19節にも、「お前の悪にだれもが常に悩まされてきたからだ」と記されています。1章11節の「主に対して悪事をたくらみ、よこしまなことを謀る者があなたの中から出た」という言葉も、それを指していると言ってよいでしょう。
それゆえ5節に、「見よ、わたしはお前に立ち向かうと、万軍の主は言われる」と記されています(2章14節も)。つまり、主がニネベを打たれるのです。そして事実、紀元前612年に、ニネベはバビロニア軍によって陥落させられてしまいました。
かつては繁栄を誇り、難攻不落と思われたエジプトの都テーベがアッシリアによって滅ぼされたように、どんなに権力、武力を誇っていても、悪事によって神の怒りを買ったニネベの都は、滅ぼされることになってしまったのです。
ニネベの都が陥落すると、アッシリアはハランに遷都します。ハランが紀元前609年にバビロン軍に占領されると、今度はカルケミシュに遷都します。このとき、エジプトのファラオ・ネコがアッシリアを支援するため、出陣しました(列王記下23章29節)。アッシリア軍と合流してハラン奪回を試みますが、失敗。 その後、紀元前605年にカルケミシュにバビロン軍が攻め寄せ、アッシリア・エジプト連合軍を撃破しました。
かくて、アッシリア帝国は歴史の舞台から姿を消すことになりました。 この戦いに敗れたエジプト軍は、シリア・ハマトでの戦いにも敗れ、それ以来、近東への足がかりを失ってしまいました。
この預言はしかし、ニネベに向かって語られたのではありません。むしろ、ユダの人々に向けて語られたのです。ユダの人々はこの言葉をどのように聞くべきだったのでしょうか。自分たちを苦しめていたアッシリアが主に打たれたと喜ぶだけでよかったわけではないでしょう。
何故、自分たちがアッシリアに苦しめられていたのか、その原因を省みる必要があります。「お前はテーベに勝っているか」という言葉を、自分自身に適応することです。すべての人々に、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(ミカ6章8節)ことが求められているのです。
山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中に、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(同5章20節)という言葉があります。私たちの義は、律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っているでしょうか。神の前に、「私の義は、彼らの義に勝っている」と、胸を張ることが出来るでしょうか。
誰も、神の御前に自分で自分を義とすることが出来る者、自分の義を誇ることの出来る者はいないでしょう。しかし、主イエスを信じる者は、その信仰によって神の義を頂くのです。そして、その神の義によって、すべてのものに勝るのです。ハレルヤ!
主よ、あなたはニネベを裁かれました。どうか、わが国を憐れんでください。平和と正義の名で剣を抜き、銃を取るような国にならないように、守り導いてください。正義を行い、慈しみを愛し、謙って神と共に歩み、世界の平和に仕える国とならせてください。 アーメン