「『これは嘆きの歌。彼らは悲しんでこれを歌う。国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う。彼らはエジプトとそのすべての軍勢のために悲しんでこの歌をうたう』と、主なる神は言われる。」 エゼキエル書32章16節
32章冒頭に、「第12年の12月1日」(1節)とあります。これは紀元前585年3月頃のことです。エルサレムが陥落したのは紀元前587年ですから、既にその知らせがバビロンにいるエゼキエルら捕囚民のもとに届いていたはずです。この預言は、その後に語られました。
かつて、捕囚民の中には、ゼデキヤ王とイスラエルの民がエジプトなどの支援を受けて、バビロンを打ち破ってくれることを期待する人々がおりました。それによって、自分たちも帰国を果たすことが出来ると考えていたのです。ところが、エルサレムの都に期待した神風は吹きませんでした。エルサレムは陥落し、町は焼かれ、神殿も破壊されてしまったのです(列王記下25章)。
エゼキエルはここで、エジプトの王ファラオのために嘆きの歌をうたって言えと命じられます(2節)。
それは、百獣の王たる「若獅子」になぞらえられるエジプトのファラオは、実は川の中で暴れ回る「水中のわに」のようだと言われます(2節)。「わに」と訳されている原語は、「タンニーム(ジャッカル)」という言葉ですが、それを「タンニーン(わに、蛇、竜)」と読み替えたものです(29章3節も同様)。神に敵対する怪獣というところでしょうか。
だから、「水中のわに」なるエジプトを、網で捕らえ(3節)、野に投げ捨て、地上の獣に食べて飽かせ(4節)、肉を山に捨て、谷を満たし(5節)、同様に流れ出た血を山に注ぎ、谷間を満たし(6節)、天体が光を失ってエジプトの地を闇で覆う(7,8節)というのです。
血の災い、暗闇の災いというのは、出エジプトの際に襲った災いを思わせます(出エジプト記7章14節以下、10章21節以下)。出エジプトの際には、それらの災いの後に、主がエジプトのすべての初子を打たれるという最後の災いが臨みました。今回も、エジプトを滅ぼす最後の災いとして、エルサレムを陥落させた「バビロンの王の剣」がエジプトに臨みます(11節)。
エジプトには人も家畜もいなくなり(13節)、荒れるにまかされます(15節)。そして、それらのことが起こったとき、人々は主こそ神であられることを知るようになり(15節)、2節以下の「嘆きの歌」が歌われるようになるというのです(16節)。
ところで、捕囚の民は、この歌をどのような思いで聞いていたのでしょうか。このときはまだ、エジプトがバビロンとの戦いに敗れてしまったわけではありません。滅んでしまってはいません。エルサレムは破壊されたとしても、エジプトさえ健在ならば、まだエルサレムの町は再建出来る、エジプトが倒されることなどあり得ないと考えて、一縷の望みを抱いていたのでしょうか。
それとも、エルサレムが破壊されてしまった以上、自分たちにもはや希望はない、エジプトがどうなろうと、それは知ったことではないと思っていたでしょうか。あるいはまた、エルサレムのための嘆きにエジプトのための嘆きが加えられて、いよいよ絶望的になっていたでしょうか。
捕囚とされているイスラエルの民は、今このように諸国の民に向かって語られる神の託宣を聞きながら、大切なことを学ばされています。それは、イスラエルの神は、世界の主であられるということであり、また、世界の歴史の背後に、イスラエルの神の御手が働いているということです。
そしてそれは、神がイスラエルの民の都合のよいように働かれるということではありません。イスラエルの民だけでなく、世界中で蔑ろにされている神の秩序、神の平和を回復するために、時にイスラエルを選び、あるときはエジプト、またあるときはバビロンを選んで用いられるということです。そして、神の意に沿わなければ、いかに神の選びの民であっても、はたまたどんな大国といえども、主の御前から退けられてしまうということです。
ただ、主なる神が、「人の子よ、エジプトの王ファラオに向かって嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい」(2節)と語っておられますが、捕囚としてバビロンにいるエゼキエルが、エジプトのファラオに直接この歌を届け、神の託宣を告げることは不可能でしょう。
これは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民に向かって、神の裁きの言葉がエジプトの上に成就して、この言葉を語られたお方が主なる神であられることをイスラエルの民が知るようにと、ここに記されているのです。
そしてそれは、今まさにエゼキエルの歌う嘆きの歌を聴いているイスラエルの民が、今ここで神の御言葉に耳を傾け、悔い改めて心から主の御言葉に従い、歩み出すならば、かつて、イスラエルの民を神の選びの民、宝の民としてエジプトから脱出させられた神は(出エジプト記19章5,6節)、バビロンからの解放をお与えくださり、イスラエルを再建させてくださるでしょう。
それは、イスラエルを神の道具として大きく用いられるためです。そして、そのためにこそ、主の御言葉が預言者エゼキエルに臨んでいるのです。私たちも、日毎に主の御言葉を心に留め、御心に従って歩ませて頂きましょう。
主よ、日ごとに御言葉を聴かせてください。御言葉を姿見として、おのが信仰の姿勢を省み、絶えず正しい道に戻らせてください。主の御心を悟り、御業に励む者としてください。聖霊に満たし、力を受けて地の果てまで主の深い愛と憐れみの証し人として用いてください。 アーメン