風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年07月

7月22日(金) エゼキエル書32章

「『これは嘆きの歌。彼らは悲しんでこれを歌う。国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う。彼らはエジプトとそのすべての軍勢のために悲しんでこの歌をうたう』と、主なる神は言われる。」 エゼキエル書32章16節

 32章冒頭に、「第12年の12月1日」(1節)とあります。これは紀元前585年3月頃のことです。エルサレムが陥落したのは紀元前587年ですから、既にその知らせがバビロンにいるエゼキエルら捕囚民のもとに届いていたはずです。この預言は、その後に語られました。

 かつて、捕囚民の中には、ゼデキヤ王とイスラエルの民がエジプトなどの支援を受けて、バビロンを打ち破ってくれることを期待する人々がおりました。それによって、自分たちも帰国を果たすことが出来ると考えていたのです。ところが、エルサレムの都に期待した神風は吹きませんでした。エルサレムは陥落し、町は焼かれ、神殿も破壊されてしまったのです(列王記下25章)。

 エゼキエルはここで、エジプトの王ファラオのために嘆きの歌をうたって言えと命じられます(2節)。

 それは、百獣の王たる「若獅子」になぞらえられるエジプトのファラオは、実は川の中で暴れ回る「水中のわに」のようだと言われます(2節)。「わに」と訳されている原語は、「タンニーム(ジャッカル)」という言葉ですが、それを「タンニーン(わに、蛇、竜)」と読み替えたものです(29章3節も同様)。神に敵対する怪獣というところでしょうか。

 だから、「水中のわに」なるエジプトを、網で捕らえ(3節)、野に投げ捨て、地上の獣に食べて飽かせ(4節)、肉を山に捨て、谷を満たし(5節)、同様に流れ出た血を山に注ぎ、谷間を満たし(6節)、天体が光を失ってエジプトの地を闇で覆う(7,8節)というのです。

 血の災い、暗闇の災いというのは、出エジプトの際に襲った災いを思わせます(出エジプト記7章14節以下、10章21節以下)。出エジプトの際には、それらの災いの後に、主がエジプトのすべての初子を打たれるという最後の災いが臨みました。今回も、エジプトを滅ぼす最後の災いとして、エルサレムを陥落させた「バビロンの王の剣」がエジプトに臨みます(11節)。

 エジプトには人も家畜もいなくなり(13節)、荒れるにまかされます(15節)。そして、それらのことが起こったとき、人々は主こそ神であられることを知るようになり(15節)、2節以下の「嘆きの歌」が歌われるようになるというのです(16節)。 

 ところで、捕囚の民は、この歌をどのような思いで聞いていたのでしょうか。このときはまだ、エジプトがバビロンとの戦いに敗れてしまったわけではありません。滅んでしまってはいません。エルサレムは破壊されたとしても、エジプトさえ健在ならば、まだエルサレムの町は再建出来る、エジプトが倒されることなどあり得ないと考えて、一縷の望みを抱いていたのでしょうか。

 それとも、エルサレムが破壊されてしまった以上、自分たちにもはや希望はない、エジプトがどうなろうと、それは知ったことではないと思っていたでしょうか。あるいはまた、エルサレムのための嘆きにエジプトのための嘆きが加えられて、いよいよ絶望的になっていたでしょうか。

 捕囚とされているイスラエルの民は、今このように諸国の民に向かって語られる神の託宣を聞きながら、大切なことを学ばされています。それは、イスラエルの神は、世界の主であられるということであり、また、世界の歴史の背後に、イスラエルの神の御手が働いているということです。

 そしてそれは、神がイスラエルの民の都合のよいように働かれるということではありません。イスラエルの民だけでなく、世界中で蔑ろにされている神の秩序、神の平和を回復するために、時にイスラエルを選び、あるときはエジプト、またあるときはバビロンを選んで用いられるということです。そして、神の意に沿わなければ、いかに神の選びの民であっても、はたまたどんな大国といえども、主の御前から退けられてしまうということです。

 ただ、主なる神が、「人の子よ、エジプトの王ファラオに向かって嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい」(2節)と語っておられますが、捕囚としてバビロンにいるエゼキエルが、エジプトのファラオに直接この歌を届け、神の託宣を告げることは不可能でしょう。

 これは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民に向かって、神の裁きの言葉がエジプトの上に成就して、この言葉を語られたお方が主なる神であられることをイスラエルの民が知るようにと、ここに記されているのです。

 そしてそれは、今まさにエゼキエルの歌う嘆きの歌を聴いているイスラエルの民が、今ここで神の御言葉に耳を傾け、悔い改めて心から主の御言葉に従い、歩み出すならば、かつて、イスラエルの民を神の選びの民、宝の民としてエジプトから脱出させられた神は(出エジプト記19章5,6節)、バビロンからの解放をお与えくださり、イスラエルを再建させてくださるでしょう。

 それは、イスラエルを神の道具として大きく用いられるためです。そして、そのためにこそ、主の御言葉が預言者エゼキエルに臨んでいるのです。私たちも、日毎に主の御言葉を心に留め、御心に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、日ごとに御言葉を聴かせてください。御言葉を姿見として、おのが信仰の姿勢を省み、絶えず正しい道に戻らせてください。主の御心を悟り、御業に励む者としてください。聖霊に満たし、力を受けて地の果てまで主の深い愛と憐れみの証し人として用いてください。 アーメン



7月21日(木) エゼキエル書31章

「もはや、水のほとりの木もすべて丈を高くしえず、梢を雲の間に伸ばしえず、水に潤う木も、高ぶってそびえ立つことはできない。彼らはすべて死に渡され、穴に下る人の子らと共に地の深き所へ行く。」 エゼキエル書31章14節

 31章には、預言者エゼキエルに臨んだ、エジプトに対して語られる5番目の主の言葉が記されています。2節で「お前の偉大さはだれと比べられよう」と述べた後、3節以下、エジプトのファラオとその軍勢の偉大さが、レバノンの杉の木にたとえて語られています。以前、エゼキエルは、イスラエルのことをレバノン杉にたとえていました(17章3,22,23節)。

 エジプトを示すレバノン杉は、その丈の高さについて、「雲間にとどいた」(3節)、「野のすべての木より高くなり」(5節)と言い、枝の美しさについて、「神の園の杉もこれに及ばず、樅の木も、その大枝に比べえず、すずかけの木もその若枝と競いえず、神の園のどの木も美しさを比べえなかった」(8節)と詠っています。

 それほどに成長したのは、「水がそれを育て、淵がそれを大きくした」(4節)からと説明されます。「淵」(テホーム)は、創世記1章2節で「深淵」と訳される太初の海のことです。地下深くに太初の海があり、木の根がそこにまで達したので、それほどに成長することができたというわけです。

 この3~9節は、ご覧のとおり詩文であり、預言の言葉とは別に、本来エジプトを讃える歌としてよく知られていたのではないかと考えられています。「神の園エデンのすべての木もうらやんだ」(9節)とは、エジプトが神でもあるかのように詠っているようです。

 この預言が主から与えられたのは、「第11年の3月1日」(1節)で、30章20節以下に記されている第4の預言から2ヶ月後、即ち紀元前587年6月ごろのことです。それは、イスラエルがバビロンによって、まさに滅ぼされようとしているときでした。このことから、「神の園エデンのすべての木もうらやんだ」(9節)という表現は、そのとき、イスラエルがエジプトを頼りとしていたということを指しているようにも思われます。

 古代エジプトは、今の科学技術をもってしても驚くほどの高い文明や土木技術を有していました。ナイル川流域の古代遺跡は、3000年以上の時の流れを超えて今もその文明の高さ、美しさを物語っています。

 そんなエジプト帝国が、なぜ倒れたのでしょうか。政治的に、歴史的に、民俗学的に、様々な分析が出来るのでしょうけれども、聖書は、「彼の丈は高くされ、その梢を雲の間に伸ばしたので、心は驕り高ぶった」(10節)とその理由を語っています。

 丈が高くなること、即ち、国が偉大になることが問題なのではありません。心の驕り高ぶりが問題なのです。このことは、ティルスに対する託宣の中でも繰り返し語られていました(26~28章参照)。「神は、高慢の者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ書4章6節、第一ペトロ書5章5節、箴言3章34節)のです。

 神はここにエジプトの驕りを裁き、杉の大木を切り倒されます(12節)。その嘆きは、大木が倒されたことだけにとどまりません。この大木の周りには、木陰を求めて多くの民らが憩っていました。枝に巣をかけている鳥や根本で子を産む獣もいました(6節)。熱い日射を避ける憩いの場、雨露をしのぐ宿り場として木陰を提供していた杉の大木が失われることは、その木のもとで恵みを受けていたものたちにとって大問題です。

 どんなに大きな嘆きとなったことでしょう。エジプトを頼り、その力を背景としてバビロンに反旗を翻したイスラエルにとっても、自分たちの盾となってくれるはずのエジプトが切り倒されてしまえば、イスラエルもエジプトと同様の目に遭わされることでしょう。

 かくて、杉の木が切り倒されたことは、他の木々にも試金石となります。ゆえに、「もはや水のほとりの木もすべて丈を高くしえず、梢を雲の間に伸ばしえず、水に潤う木も、高ぶってそびえ立つことはできない。彼らはすべて死に渡され、穴に下る人の子らと共に地の深き所へ行く」(14節)と語られているわけです。

 あらためて、偉大さで賞賛を受けるということは、それを賞賛するものたちに対する責任を負っているという点で、恐れを感じます。

 ドイツ語で賜物を「ガーベ(gabe)」というそうです。そして、「上に」を意味する「アウフ(auf)」をつけて「アウフガーベ(aufgabe)」といえば、[使命、課題」を意味する言葉になるそうです。上(神)からの賜物は、使命を果たすための課題ということでしょう。

 あらゆるものに優る恵みを受けたエジプトには、多大な課題、使命が神から託されていたというわけです。どこまでも謙遜で職務に忠実であることが、神から求められているということです。 

 しかしながら、誰がこのような責任を果たし得るでしょうか。誰にも出来はしません。ただ一人を除いては。それは、主イエス・キリストです。主は、神の独り子ですが、ご自分を無にして人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順であられました(フィリピ2章6節以下参照)。その翼のもとにすべてのものを集め、神の国に入ることの出来る道を開いてくださったのです。

 私たちも主に倣い、自分に委ねられた使命のため、喜び感謝して励ませていただきたい、そして、神に命じられたことを果たし終えたとき、「わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ福音書17章10節)と報告する僕になりたいと思います。

 主よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地上にも行われますように。私たちを清め、御言葉に従っておのが十字架を負い、主の御足跡に続いて歩む者とならせてください。 アーメン





7月20日(水) エゼキエル書30章

「わたしはバビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる。わたしがバビロンの王の手に剣を与え、彼がそれをエジプトの地に伸ばすとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 エゼキエル書30章25節

 「主の言葉がわたしに臨んだ」(1節)という言葉は、エジプトに対する主の託宣として記されている29~32章に7回登場しますが、その中で唯一、ここでは日付が記されていません。2節に、「その日は近い、主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である」と、エジプトを含む周辺諸国の裁きの近いことを告げています。それがいつ告げられたのかは分かりません。

 エジプトと共に裁かれる諸国として、クシュ(4,5,9節、エチオピア)、プト(5節、リビア)、リディア(5節、小アジア西部地域)、クブ(5節、リビア方面)の名が挙げられています。これらは、6節にあるとおり、エジプトを支え、協力している諸国ということでしょう。

 5節の「その他の同盟国」というのは、「契約の地の子ら」(ブネー・エレツ・ハッブリート)という言葉です。素直に読めば、アブラハムの子らに与えられると約束された「カナンの地」(創世記17章7,8節)のことを指していると思われます。つまり、エジプトとその周辺諸国と共に、神の民イスラエルも裁かれると読めます。

 20節に、「第11年の1月7日」とあります。これは、29章1節の日付からほぼ3ヶ月後、第一次バビロン捕囚(紀元前597年)から10年が経過した、紀元前587年4月ごろのことです。

 それは、バビロンによってエルサレムの都が包囲されて1年3ヶ月(23章1節、列王記下25章1節以下参照)、いよいよ都がバビロンの手に落ち、徹底的に破壊される直前の時期です。すでに捕囚となっている人々にとっても、今エルサレムに残っている人々にとっても、最も不安と動揺が大きい時期です。

 当時、イスラエルの民は、ゼデキヤ王の要請によってエジプトが援軍を送ってくれることに最後の望みをかけていました。自力でバビロンに対抗することは到底出来ないけれども、エジプトが加勢してくれるならば、周辺諸国と力を合わせれば、バビロンから独立することも可能なのではないかと。

 しかるに神は、この希望を完全に打ち砕かれました(20,23章も参照)。預言者エゼキエルは、彼らの期待とは全く逆の託宣を告げます。冒頭の言葉(25節)にあるとおり、神は、「バビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる」と語られたのです。

 それは、思い上がっているエジプトを打つためであり(4,6,8節以下、18節)、そして異教の神々を慕って偶像礼拝を行い、まことの神に頼らず、人を頼みとするイスラエルを裁くためです(5,6節、上述のとおり)。

 神は、このことを通して、主こそ神であることを知らしめようとしておられます(8,19,25,26節)。イスラエルもエジプトも、バビロンも、謙遜と従順が求められているのです。バビロンが強いので、エジプトに勝ち、滅ぼすことが出来ると言われているのではありません。神がバビロンの王の腕を強くし、ファラオの腕を弱くされるのです。つまり、すべては神の御腕にかかっているわけです。

 イスラエルは、南にエジプト、北にバビロンという強国があり、それらに挟まれています。自分の腕でその圧力を跳ね返すことが出来ないとき、あるときは南のエジプトに、あるときは北のバビロンに援軍を要請して、その場を凌いで来ました。それだけでなく、それらの国々の異教の神を祀ることさえして来ました(8章など参照)。神はそのようなイスラエルの政治、信仰の姿勢が裁かれているのです。

 周りに強いものがいて、自分の腕の力が弱いのは、不安でしょう。何とかしなければと思うでしょう。そのための策を練るでしょう。しかしながら、腕の力を強くされるのも弱くされるのも神であられるならば、力の弱いことは問題ではありません。そのようにされている神に信頼するかどうかが問題なのです。

 それゆえ、ここでイスラエルがバビロンから解放されるためにすべきことは、エジプトに信頼するということではありません。バビロンが神の器としてパレスティナを打ち、エジプトを打つために用いられていることを認め、神に背いた罪を神の御前に悔い改めるべきなのです。

 使徒パウロは、自分のとげを取り除いてくれるように三度主に願いました(第二コリント書12章8節)。「三度」とは、何度も、繰り返しという表現で、神が答えてくださるまで、真剣に祈ったということでしょう。あるいはまた、主イエスのゲッセマネでの三度の祈りになぞらえたのかも知れません。トゲが取り除かれることで、もっと宣教の業に励むことが出来ると考えていたのです。

 しかしながら、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と答ええられました(同12章9節)。弱さがあるからこそ主を信頼し、主がそこで力を発揮して下さるということであり、そのとき、主が神であることが明らかにされるということです。

 それを聞いたパウロは、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と語り(同9,10節)、その信仰が強められています。

 問題があるとき、まず祈りましょう。解決が自分の手に余るとき、祈りましょう。信じられないで不安になるとき、祈りましょう。神に訴え、叫びましょう。主が解決してくださいます。万事を益に変えられるのです。

 主よ、今日も私たちと共にいてください。私たちの問題に触れてください。弱い私たちの心に触れてください。私たちの問題に目を留め、解決を与えてくださる主を信じます。私たちの言葉にならない呻きを、聖霊が呻きをもって執り成してくださり、主がすべてをプラスにしてくださることを感謝します。御名があがめられますように。 アーメン







7月19日(火) エゼキエル書29章

「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 エゼキエル書29章21節

 29章から32章まで、エジプトに対する預言が、それが語られた日付つきで記されています。最も早いのが29章1節の「第10年の10月12日」、すなわち紀元前587年1月ごろ、そして最も遅いのが29章17節の「第27年の1月1日」、すなわち紀元前571年4月ごろのことです。

 ここに、約16年の開きがありますが、預言者は度々、エジプトに対する神の裁きを予告しているわけです。神の預言は、文字通りに実行されるということよりも、その預言を聞いた人々が今までの生き方を反省し、神の導きに従って方向転換することを求めて、その悔い改めのために語られる、という側面があります。

 最も遅く語られた17節以下の箇所に、バビロンの王ネブカドレツァルは、ティルスと戦って報酬を得なかったから、彼にエジプトを報酬として与えると記されています(18~20節)。そして驚くべきことには、彼らがエジプトを報酬として与えられるのは、「彼らが、わたしに代わって、このことをしたからである」(20節)と、主なる神が語っておられるのです。

 この背景には、神がティルスの裁きを預言され(26~28章)、にもかかわらず悔い改めようともしなかったティルスを、バビロンが攻撃したということがあります。ティルスは本土と沖合い数百メートルにある島からなり、南北に走る隊商路と、外国との交易に適したよい港を有して、富み栄えていました。バビロンは13年に亘って攻撃を加えましたが、沖合いの島で防備を固めたティルスを陥落させることが出来ませんでした。

 そのため、取るべきものは殆どなく、兵士に報酬を与えられず、骨折り損のくたびれ儲けになってしまったというわけです。そして、ティルス攻撃をさせたのが主なる神であり、バビロンは主のためにそれを行ったので、ティルスの代わりにエジプトを報酬としてバビロンに与えると言われているということでしょう。

 エジプトが裁かれるのは、彼らが思い上がり、「ナイル川はわたしのもの、わたしが自分のために造ったものだ」と言っているからです(3節)。ナイル川はエジプトに豊かな富をもたらし、優れた文明を育みました。言うまでもなく、エジプトがナイル川を造ったのではなく、ナイル川がエジプトを造ったのです。

 ナイル川を神がエジプトの民に授けられた豊かな賜物、タラントンであると考えてみれば(マタイ福音書25章14節以下)、この物語は私たちに対する警告として聴くべきです。

 神がご自分のご計画を進めるためには、異教の民バビロンをさえ用いることが出来ます。つまり、神の支配は、世界の全地に及んでいるということです。そして、それぞれに悔い改めが勧告され、聴き従うことが求められます。

 今、ティルスを打ち、そしてまたエジプトを打つために神の道具として用いられているバビロンも、神を畏れ、謙って神に聴き従うものとならなければ、今度はバビロンが裁かれることになります。神に用いられていることで思い上がらず、主に栄光を帰しつつ働かせていただきましょう。

 エジプトが裁かれる日、冒頭の言葉(21節)のとおり、「わたしはイスラエルのために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる」(21節)と、主なる神は言われます。「角」(ケレン)は、力や権威を象徴的に表現するものです。

 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる」(詩編75編11節という言葉もあります。ここでは、バビロン捕囚によって断ち切られたダビデ王朝を再び回復させ、新たな王が立てられるという表現として語られています。

 詩編132編17節で、「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える」と言われているとおりです。その意味でこれは、エレミヤ書23章5節などと同様、エゼキエルによるメシヤ誕生の預言が、ここに語られているものといってよいでしょう。

 「その日」がいつのことになるのか明示されてはいませんが、エゼキエルに主の言葉が望んでからおよそ11年後、バビロンがエジプトを攻略して6年ほど経過した561年、ヨヤキンがバビロンの王に情けをかけられて出獄し、王と共に食事をする特権に与りました(列王記下25章27節以下)。

 そして、ペルシア王キュロスによってバビロンから解放されたとき、ヨヤキンの孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)が総督として民を率いてエルサレムに帰還しました(エズラ記2章)。そして、エルサレムに第二神殿を再建したのです(同3章)。しかしながら、その後、ダビデの子孫がイスラエルの王となることはありませんでした。

 けれども、エゼキエルの預言した「その日」が実現する日が来ます。それは、ヨヤキン(エコンヤ)から数えて十四代目、メシアと呼ばれるイエスの誕生によって成就したのです(マタイ福音書1章12節以下、16,17節)。

 主の告げられた言葉は必ず実現します(ルカ1章20,45節)。主の御前に謙り、御言葉に耳を傾けましょう。御言葉に従いましょう。 

 主よ、計り知れない深い愛と憐れみにより、独り子キリストをこの世に遣わし、贖いの供え物として十字架につけ、私たちの救いの道をお開きくださって、心から感謝致します。また、御霊の賜物を授け、主の御業のために用いてくださることを感謝致します。常に聖霊に満たしてください。御業のために用いてください。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン




7月18日(月) エゼキエル書28章

「お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。」 エゼキエル書28章3節

 ティルスに対する託宣(26~28章)の最後の章で、ここには王に対する託宣が記されています(2節)。冒頭の言葉(3節)では、ティルスの王に対して、「ダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない」、と言われています(3節)。

 ダニエル書1章17節に、「この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」と言われています。註解書に、「古代世界における伝説的な賢人であり、ツロ(ティルスのこと)より少し北のラス・シャムラで発掘されたウガリット語の文献の中でも言及されている」とありました。

 そんなダニエルよりも賢いと言われるティルスの王は、知恵を用いて国際貿易で大きな利益を上げ、金銀を宝庫に蓄えることが出来ました(4節)。

 しかし、彼は、愚かさを示したと言われます。それは、「取引に知恵を大いに働かせて富を増し加え」た結果、高慢になってしまい(5節)、さらには、「わたしは神だ」と思い上がり(2,6節)、自分が人間に過ぎないという真実を認めることが出来なくなっているからです。その意味で、「ダニエルよりも賢く」というのは、思い上がって自分を神であるかのように思っていることを皮肉った表現ではないでしょうか。

 これはしかし、ソロモン王のことを言っているようでもあります。「何でも願うがよい」(列王記上3章5節)と言われた主に、ソロモンは「民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください」(同9節)と求め、知恵に満ちた賢明な心と共に(同12節)、富と栄光が与えられ、「生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない」(同13節)と言われました。 

 その結果、イスラエルは繁栄を極め、交易によって莫大な富が得られるようになりました(同9章26節以下、10章14節以下)。しかしながら、それによって彼の心は迷い、多くの外国の女を愛して700人の王妃と300人の側室を迎え(同11章1節以下)、后らのために数多くの異教の神々を祀る施設を設けました(同5節以下)。ソロモンを戒めるため、主は二度姿を現されましたが、ソロモンは聞く耳を持ちませんでした(同9,10節)。 

 13節を見ると、ティルスの王はエデンの園にいたとあり、そして14節では、「お前を翼を広げて覆うケルブとして造った」と言われます。ケルブの複数形がケルビムです。創世記3章に、聖書で最初にケルビムが登場して来る記事があります。

 それは、蛇が人間に善悪の知識の木の実を食べさせるとき、神のように善悪を知るものとなる、つまり、神のように賢い者となると誘惑ましたした。知識の木の実を食べた結果、神のように賢くなるどころか、神との交わりが断たれ、エデンの園を追放されてしまいます。そして神は、命の木の実を食べて永遠に生きる者となることがないよう、命の木に至る道を、ケルビムときらめく剣の炎に守らせられました(創世記3章24節)。

 ということは、アダムたちから命の木を守るようにという使命を仰せつかったケルビムが、おのが知恵と美しさに心昂ぶり、「わたしは神だ」と言い出して、神に裁かれているという状況が思い浮かびます。

 確かに、優れた知恵をもっていれば、この世において、様々な工夫やアイデアで大きな業績を上げ、莫大な富と力を手にすることが出来るでしょう(4,5節)。ただ、そのような工夫や努力、成し遂げた成果に目を奪われていて、その知恵をお与え下さった神を忘れてしまいます。

 聖書は、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1章7節など)と語ります。真の知恵を神から授かった者は、当然、主なる神を畏れることを知っているわけで、その人間が、「わたしは神だ」、「自分の心は神の心のようだ」などと思うはずがないのです。それなのに、他人と比べて優れた知恵を持っていると、自分が人間に過ぎないことを忘れてしまうのです。

 同じ箴言に、「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている」という言葉があります(11章22節)。金の輪は美しいものだけれども、それを豚の鼻輪にするのは不釣合いです。ですから、対句の「美しい女性に知性が欠けている」というのは、美しい女性に知性が欠けていて、不釣合いだということになります。

 豚が鼻に金の輪を飾り、美しい女に知性が欠けているという組み合わせから、文字通り自分の美しさを鼻にかけている女性は、豚が金の花輪をしているようで、およそ知性に欠けているという意味に読めばよいのでしょう。

 そしてこれは、女性の美だけを語っているものではないでしょう。自分の知恵の豊かさを鼻にかけたり、財産の多さを鼻にかけたりと、自分の持ち物を過信する者たちの愚かさを語っているのです。それは、いかにも不釣合いなので、神に取り上げられてしまうのです。豚に真珠を投げ与えるべきではないからです(マタイ福音書7章6節)。

 私たちにすべての賜物をお与えくださった主の恵みを忘れず、賜物を生かして用い、主にあって豊かな実を結ぶ人生を歩ませて頂きましょう。その原点は、主を畏れること、主を愛すること、主を信じることです。

 主よ、私たちが持っているもので、本当に私たちのものといえるものは一つもありません。それらは皆、委ねられた使命のために用いるようにと、あなたから預かっているものです。主にあって豊かな実を結ぶ人生を歩むことが出来るよう、日々御言葉を賜り、その導きに忠実に従うことが出来ますように。 アーメン





7月17日(日) エゼキエル書27章

「海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き、王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。」 エゼキエル書27章35節

 前章に続き、27章にも、ティルスに対する預言が記されています。

 3節から25節まで、ティルスの繁栄ぶりが、詩の形で描かれています。それは、一艘の大変美しい船でいかなる交易をしたのかということを歌う詩です。ティルスは、「わたしの姿は美しさの極み」(3節)と自ら歌うほど、富み栄えていました。そして、彼らが追い求めた船の強さと美しさ(5~7節)、船員の技術の高さ(8,9節)、他国の人々が憧れる戦士の強さ、美しさ(10節)が歌われます。

 その詩の中に、詩を分断する形で散文(11~24節)がはめ込まれています。これは、詩の形で描かれたティルスの交易品の豊かさ、交易範囲の広さなどを具体的に説明するものです。その交易品の豊富さ、質の良さから、ティルスがその時、どれほど繁栄していたのかということを窺い知ることが出来ます。その豊かさ、美しさに引き寄せられて、世界中の国々がティルスと貿易を行います。それゆえ、賞賛の声はますます高まりました。

 その意味で、「美しさの極み」を手に入れようとする努力は、決して悪いものではないでしょう。けれども、一旦それを手に入れると、往々にして努力が驕りに、精進が傲慢に変わることがあります。「わたしの姿は美しさの極み」と自ら言うのはその表われでしょう。だから、エルサレムの裁き=滅びを見て、嘲り笑いもするわけです(26章2節)。

 ところが、事態が一変します。世界中のよい商品を満載したティルスの船が大海原に漕ぎ出したとき、東風が船を打ち砕き(26節)、すべてのものが海の藻屑となってしまいました(27節)。

 最強の船は、少々の嵐にはびくともしなかったでしょう。最高の操船技術を持った船員たちは、嵐を乗り切る術を知っていたでしょう。しかし、どんなに最高の材料と技術で作られた優秀な船でも、船員の豊富な経験や最高の技術をもってしても、到底及び得ない大自然の力があるのです。

 彼らがこの危険を回避出来なかったのは、その心に驕りがあったからです。それゆえ、想定を超える危機に対する備えを怠って、最高の材料と技術で造られた優秀な船と船荷、経験豊富な船員たちを一度にすべて失う結果になってしまいました。

 冒頭の言葉(35節)のごとく、海沿いの国々の住民は最強の船が沈んだこと、最高の技術が風に打ち砕かれたことにあらためて驚き、王たちは恐れました(28節以下参照)。彼らは、人の手に負えないものがあることを具体的に学びました。これは、その力の前に、人が人生航路を進んでいくためには、知識や経験、能力だけでなく、まことの神に対する信仰が必要だと教えているのです。

 エルサレムの滅亡を嘲り笑って滅びを招いたティルスは、本当は海沿いの諸国の住民と王たちのごとく、神の選びの民の滅亡を驚き、恐れなければならなかったのです。そこから、神への信仰を新たにすべきだったのです。

 そして、これは私たちも同様です。人々の苦難を知るとき、さらに謙虚になって、苦しみから救ってくださる主に向かい、共に助けを求めて叫ぶ者とならせて頂かなければなりません。また、私たちの人生にも、様々な嵐が襲って来ます。中には、自分たちの力ではどうにも対処出来ないというようなことも起こります。そのときに、私たちには、助けを求めるお方が、私たちの傍に、私たちと共にいてくださるのです。

 向こう岸に渡ろうと言われて舟に乗り込まれた主イエスと弟子たちの一行は(マルコ福音書4章35節以下)、湖の真ん中で突然の嵐に遭いました(同37節)。弟子たちは、眠っておられる主イエスを叩き起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同38節)と訴えました。起き上がられた主イエスは、風を叱り、湖に命じて「黙れ、静まれ」と言われ、すっかり凪にされました(同39節)。

 私たちの主こそ、「仰せによって嵐を起こし、波を高くされ」るお方であり(詩編107編25節)、そして、「嵐に働きかけて沈黙させられ」、波をおさめられるお方(同29節)なのです。

 「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」(同31節)。ハレルヤ!アーメン!

 主なる神よ、世界各地にある紛争、政情不安を鎮めてください。共に主の十字架を仰がせてください。まことの主を畏れることを学ばせてください。全世界に主の平和と喜びがありますように。神の子らが平和の御業のために用いられますように。 アーメン






7月17日(日)主日礼拝説教

7月17日(日)主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「聖霊の導き」
聖書 フィリピ2章12~18節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①礼拝説教の頁に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②今週の報告を更新しました。
③お知らせは随時更新しています。
④今日の御言葉は毎日更新しています。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/


どうぞご覧ください。






 

7月16日(土) エゼキエル書26章

「人の子よ、ティルスがエルサレムを嘲る。『ああ、諸国民の門であったお前は打ち破られ、わたしのものになった。わたしは富み、お前は廃れる。』」 エゼキエル書26章2節

 26~28章には、ティルス(口語訳:ツロ)に対する預言が記されています。ティルスは、イスラエルの隣国フェニキアの主要都市です。地中海沿岸のこの町は、沖合い数百メートルにある島とあわせて、交易によい港を備えており、陸路東方ペルシャなどから運ばれてきた商品などを、海路スペインにまで運ぶという、陸と海の要衝の地でした。

 ティルスの東にはレバノンの山々が峰を連ね、そこにレバノン杉がうっそうと茂り、森をなしていました。レバノン杉は堅牢で腐食し難いということで、重宝されました。エジプトのピラミッド建造のため、大量に伐採されたといいます。また、紫の染色と青銅細工という工芸技術も優れていました。

 ダビデが王となった時、ティルスの王は使節を遣わして杉材に木工、石工を送り、ダビデの王宮を建てて同盟を結びました(サムエル記下5章11節)。その後、ソロモンは神殿や王宮を建てるため、建築資材と共に技術者の派遣を要請し、ティルスの王はそれに応じています(列王記上5章15節以下、7章13節以下、歴代誌下2章2節以下)。同盟関係が次世代に引き継がれ、より強固にされたわけです。

 東にレバノンの山々、西は地中海、そして本土と沖合いの島の両方によい港があるため、本土が攻められたときは島に逃れればよく、島は四方が海で陥落させることはなかなか困難です。このような防衛上の有利さと、国際貿易によって得られる莫大な富によって、小さな都市ですが、大変大きな影響力を持っていました。

 それが過剰な自信となったのか、ティルスは冒頭の言葉(2節)のとおり、「ああ、諸国民の門であったお前は打ち破られ、わたしのものになった。わたしは富み、お前は廃れる」(2節)とエルサレムを嘲ります。1節に、「第十一年、その月の第一日」とあり、「その月」がいつかは不明ですが、恐らく紀元前597年の終わりか596年の初め、エルサレムが陥落し、その報告がエゼキエルらのもとに届いた直後のことだと思われます。

 かつての同盟国に対するそのような利己的な発言に対して、「ティルスよ、わたしがお前に立ち向かう。わたしは、海が波を巻き起こすように、多くの国々をお前に立ち向かわせる。彼らはティルスの城門を倒し、塔を破壊する。わたしはその土くれまでぬぐい去り、ティルスを裸の岩にする」と、ティルスを裁く主の言葉がエゼキエルに告げられます(3節以下)。神の裁きが、他国による攻撃というかたちで表されるのです。

 実際、エルサレムが陥落した後、続いてティルスがバビロンによって攻撃を受け、難攻不落の要塞島で13年にも及ぶ猛攻にも耐えました。しかし、それがフェニキヤ帝国の最後でした。ティルスは残された島で海運を続け、繁栄もしましたが、最後は、ギリシアのアレクサンダーによって滅ぼされました。

 エルサレムを嘲笑ったティルスが、ここで神が預言者を通して告げられた通り、「ああ、あなたは滅びてしまった。海のかなたから来て住み着き、誉れある町となったのに」(17節)と嘆きの歌をうたわれる対象となったのです。

 競争相手を打ち負かし、大きな富を獲得することは快感かもしれません。一時期、勝ち組、負け組という言葉が多用され、激しい競争を勝ち抜くことが善と考えられていたところがあります。それによって、持てるものと持たざるものとの格差が拡大しました。しかしながら、貪欲に富を獲得するために競争相手を食い潰すというやり方を続けていって、本当に生き残れるのでしょうか。

 食物連鎖の上位にいる強いものは、下位の弱いものがいなくなれば生存できません。草食動物は、肉食動物がいなくても生きていけます。しかし、肉食獣は、肉を提供する草食動物によって生かされているわけです。勿論、草食動物も、餌となる植物を食い尽くしてしまえば、死滅を免れません。草食動物は、植物によって生かされているわけです。それを忘れて奢り高ぶるものは、自滅の道を辿っているのです。

 現在、自分たちの快適な生活のために自然を破壊し続けている人間は、それによって自分の首を絞めていることに気づき始めてはいます。地球温暖化に拍車をかける化石燃料の使用を減らし、温暖効果ガスの排出を抑える必要があるでしょう。森林伐採なども、きちんとした歯止めがなければ、自滅するしかなくなるかも知れません。

 温暖効果ガスの排出を減らす切り札として、原子力発電へのシフトが行われて来ましたが、東日本震災と津波による事故で、温暖効果ガス排出よりもさらに深刻な放射能汚染と向き合わされることになりました。事故から5年余りが経過した今も、15万人余りの方々が避難生活を続けておられます。原発事故のなかった阪神淡路大震災などとは、全く違う状況です。

 日本の国土に、地震や津波、火山の噴火などの天災から完全に安全な場所などありません。未来に禍根を残さないために、快適さを追い求めていく生活を改め、この日本にすべての人が健康に住み続けられる生活へ、視点を変え、考え方を変えていく必要があるでしょう。

 互いに謙り、互いに尊敬し、信頼し合える関係を、私たちの周囲から町、地域、国、そして世界に拡げていきたいものです。

 神様、私たちに知恵を与えてください。聖霊の導きに与らせてください。人と人との間に、民と民との間に、国と国との間に、神の愛が働きますように。私たちが共に神の愛に生きることが出来ますように。神の平和を共に生きることが出来ますように。 アーメン






7月15日(金) エゼキエル書25章

「お前はわたしの聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったことを、あはは、と言って嘲った。」 エゼキエル書25章3節

 25~32章には、周辺諸国に対する預言が記されています。25章は、アンモン人(1節以下)、モアブ(8節以下)、エドム(12節以下)、ペリシテ(15節以下)に対する神の裁きが、預言として語られています。

 冒頭の言葉(3節)は、エルサレムの町がバビロンによって破壊され、神殿が荒らされたときに、アンモンがそれを見て嘲り笑ったと、その罪状が述べられています。その他の国々の罪状も同じようなものです(6,12,15節)。

 主なる神は、真の神に背いた罪でイスラエルを裁かれました。しかし、それを嘲り喜ぶアンモンに対して(3,6節)、彼らもイスラエルと同じように憂き目を見ることが記されています(4,7節)。

 アンモンは、ヨルダン川東部ギレアドの地でイスラエルと国境を接しており、「ラバ」(5節)がその首都です。アンモン人は、ロトの娘が産んだ「ベン・アミ」の子孫です(創世記19章38節)。つまり、イスラエルとアンモンは、本来、親族関係にあるということです。

 だからということでしょうか、イスラエルとアンモンは、同盟を結んだこともあります。息子アブサロムの反逆で都を逃げ出したダビデの下に、アンモン人ナハシュの子が援助に現れました(サムエル下17章27節)。ダビデの抱えた30人の勇士の一人にアンモン人がいます(サムエル下23章37節)。

 ダビデの子ソロモンは、アンモンの王女を妻に迎えています(列王上11章1節、14章21節)。この頃は、友好的な関係にあったものと考えられます。けれども、その後イスラエルとアンモンは、概ね利害関係によって離合集散を繰り返しています。

 イスラエルと国境を接していたアンモンにとって、イスラエルの滅亡ということは、笑っていられる対岸の火事ではなかったはずです。あるいは、バビロンの側について、イスラエルを嘲笑していたのでしょうか。そして、イスラエルの領土の一部を我が物に出来ると考えていたのでしょうか。

 しかし、イスラエルの裁きに対する同情心のないアンモンの人々の態度を、神は裁かれます。主なる神は、単にイスラエルの神であるばかりでなく、あらゆる国民の神でもあられます。ですから、主こそが真の神であるということを、アンモン人も、おのが国の滅亡を通して知るようになると言われるのです(7節)。

 このことで、かつて神がアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12章2,3節)と言われた言葉を思い出します。

 地上のすべての氏族を祝福すべきイスラエル、あらゆる種族の祝福の源となるべきイスラエルが、神の祝福を自ら呪いに変えてしまいました。しかし、イスラエルを呪う者は神に呪われるのです。

 私たちも、他者の成功がなかなか素直に喜べません。隣に蔵が建つとこちらの腹が立つと言います。むしろ、隣人の不幸を見て喜ぶ傾向があります。人の悪い噂をすることが好きです。それこそ、今日のアンモンではないでしょうか。

 イスラエルを笑うアンモンが神に裁かれた、いい気味だと、その不幸を嘲笑っているなら、神の手が私の上にも置かれているということを忘れているのです。

 それ以上に、神の恵みに与っている者として、隣人の祝福を祈る責任、隣人に福音を語り告げる使命があることを忘れているのです。そうであれば、隣人が災いにあったことの責任を、神に問われることになりはしないでしょうか。

 使徒ペトロが、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ書3章9節)と語っています。アブラハムに告げられた「祝福の源」を言い換えたものといってよいでしょう。アブラハムの子は、神の恵みを受け、その恵みを分かち合う者となることが期待されています(ルカ福音書19章9節参照)。

 私たちも、主の救いに与った者として、祝福を受け継ぐために召されたという使命を自覚し、「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求め」ましょう(第一ペトロ3章10,11節)。

 主なる神よ、どうか私たちを祝福してください。祝福の地境を広げてください。私たちの町静岡が、静岡県、東海地方、中部圏、そして全日本が、主の祝福で満たされますように。キリストの平和がありますように。皆が健康でありますように。事業が守られますように。すべての必要が満たされますように。そうして、御名の栄光が拝せられますように。 アーメン





7月14日(木) エゼキエル書24章

「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。」 エゼキエル書24章16,17節

 1節始めに、「第九年の十月十日」と記されています。これは、ヨヤキンがバビロンの捕囚とされて第九年ということであり、それはまた、南ユダの王ゼデキヤの治世を示しています。20章1節に「第七年の五月」とあり、その時から2年4ヶ月が経過したことになります。

 その10月10日、バビロン軍がエルサレムに到着し、都を包囲して陣を敷きました(2節、列王記下25章1節)。いよいよ、エルサレム攻撃が始まります。第9年の10月10日とは、紀元前588年の1月頃のことです。

 3~5節は、鍋で美味しいシチューを作る様子が描かれています。それに対して、6節以下、「流血の都」(6節、22章2節)と言われるエルサレムを「災いだ」と言い、 都に流血があることを、「錆のついた鍋」と言い表します。錆がシチューを台無しにするため、錆を除こうとしても適わず(12節)、鍋も肉も焼けて使い物にならなくなります。

 鍋がエルサレム、錆が背きの罪、肉や骨はエルサレムの民、火はバビロン軍と考えれば、分かり易いでしょうか。 背きの罪によってエルサレムの民は主に裁かれ、バビロン軍の攻撃を受けて、神殿は破壊され、町は焼かれ、民は捕囚とされました。

 15節以下、エゼキエルの妻の死について、主の御言葉がエゼキエルに臨みました。冒頭の言葉(16節)で、「人の子よ、あなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る」と主が言われています。「あなたの目の喜び」とは、エゼキエルの妻のことを指しており、その表現から、夫婦の仲むつまじい様子を窺わせます。しかし、その妻がその日のうちに取り去られるというのです。

 それだけでとんでもないことですが、神はさらに厳しいことを要求されます。それは、妻の死を「あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」(16,17節)と言われるのです。

 人は、その愛する者を失ったとき喪に服し、嘆き苦しみ泣く時を過ごして、また、共に嘆き泣く者の涙を通して、心に慰めを得るものでしょう。ところが、エゼキエルはここで、主なる神からそれを禁じられてしまいました。彼がそれをどのように感じたのか、その思いなどは全く記されていませんが、主が語られた日の夕方、主の御言葉が現実となり、エゼキエルは告げられたとおりに行動します(18節)。

 当然、エゼキエルの周りにいる捕囚の民は、なぜエゼキエルは妻が死んだのに喪に服さないのかという疑問を抱き、それにはどんな意味があるのかと、エゼキエルに質問します(19節)。そこで、「『イスラエルの家の目の喜び、心の慕うものであるエルサレムの聖所が汚される。都に残されていた者たちは、剣によって滅ぼされる。しかし、そのために嘆いてはならない、泣いてはならない』と主が言われている」と答えるのです(20,21節)。

 真の神に背いて異教の神々を祀っているようなエルサレムの神殿(11章参照)が神によって汚され、偶像を慕う民が剣で滅ぼされるのは当然で、そのために泣くな、悲しむ必要はないということでしょう。しかしながら、それはイスラエルの象徴が失われることであり、そしてそのことは、イスラエルという国が完全に滅んでしまうということを意味するのです。それは、悲しみ泣くというよりも、絶望で一切の力を失ってしまうような出来事です。

 そうして神は、そのような出来事を通して、もう一度、主が神であることを捕囚の民は知るようになるというのです(24節)。これは、そのような出来事を通らなければ、不信仰のために、イスラエルの民は、まことの神を思い出すことが出来なくなっているということでしょう。

 これは、放蕩息子が持ち金をすべて無駄遣いしてしまった後(ルカ福音書15章11節以下、13節)、ひどい飢饉で食べるに困り(同14節)、豚の世話をしながら(同15節)、豚の食べるイナゴ豆で飢えをしのごうとしたときに(同16節)、我に返った(同17節)という物語を思わせます。

 ここで、「我に返る」とは、「自分自身に入る」(エイス・ヘアウトン・エルソーン)という言葉遣いで、本来の自分に戻るという表現でしょう。口語訳は「本心に立ちかえって」と訳していました。苦難を通して、本来あるべき姿、自分の戻るべきところを示されたということです。

 ですから、捕囚の民がエルサレムの聖所が汚されたゆえではなく、都が焼き滅ぼされたゆえでもなく、自らの不信仰を嘆き、泣くとき、神はそれを顧みてくださるのです。

 それにしても、預言者というものはなんと厳しい使命を担っていることでしょうか。自分の愛する妻の死をすら預言の道具とされ、自らの感情を表現することを禁じられ、そうして神の御言葉に完全に従うことが求められるのです。エゼキエルはその通りにしました。そして、彼の預言したとおりのことが、エルサレムの上になされました。

 勿論、自分が告げた預言が、そのとおり成就したということを、素直に喜ぶことが出来ません。それは、悲しみに悲しみを重ねることだっただからです。目の喜びを失う悲しみを心に持ちながら、神に従う姿を民に見せることで、捕囚の民がこれから、目に見えるものにではなく、見えない神に従うことを学ばせるのです。

 エゼキエルに対して御言葉に聴き従うことを求められた主なる神は、私たち人類の罪のために独り子イエスを犠牲にされたお方です。エゼキエルの悲しみがお分かりにならないお方ではありません。むしろ、分かり過ぎるくらいお分かりになっておられるお方です。

 どのようにしてかは分かりませんが、御言葉に忠実に従う預言者エゼキエルのために、主がその心に直接触れて、天来の慰めをお与えになったことでしょう。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ福音書5章4節)と言われるとおりです。

 悲しみを喜びに、呻きを賛美に変えてくださる主を信頼し、日々御顔を仰いで、その御言葉に耳を傾けましょう。 

 主よ、私は主の僕です。どんなときにも主に従うことが出来ますように。絶えず主を仰がせてください。いつも御声を聞かせてください。そのために、目を開き、耳を開き、何より心を清めてください。希望の源である主が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてください。 アーメン





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