風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年07月

7月31日(日)主日礼拝説教

7月31日(日)主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「信仰による義」
聖書 フィリピ書3章1~11節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/


ご覧ください。



 

7月31日(日) エゼキエル書41章

「入り口の上まで、また神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた。」 エゼキエル書41章17,18節

 エゼキエルは神の幻の中でエルサレムの都の新しい神殿に導かれ(40章2節)、いよいよ、神殿の最も神聖な場所にやって参りました。拝殿(聖所)に入り(1節)、さらにその奥の至聖所の前に進みます(4節)。

 ソロモンの神殿では、エゼキエルが拝殿と呼んでいる聖所に、七つ枝の燭台と香の祭壇、パンを置く聖卓がありました(列王記上7章48,49節)。そして、至聖所には契約の箱が安置されていました(同6章19節、8章6節)。そして、至聖所を守るように高さ十アンマのケルビムが2体据えられていました(同6章23節以下)。エゼキエルの見た新しい神殿には、まだ何も置かれていないようです。

 冒頭の言葉(17,18節)に、「神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた」という報告があります。これは、ソロモンの神殿にも見られたものです(列王記上6,7章参照)。

 なつめやしの実は食用で栄養価が高く、甘味料としても貴重なものです。この木は、太陽の灼熱にも霜が降りる寒冷にも耐えますが、生育に多量の水分を必要とするため、河川や湖沼の岸辺に好んで生息するので、荒れ地で水の所在を示す徴ともなります(出エジプト記15章27節)。

 また、木の美しさと相俟って、なつめやしは繁栄や優美さの象徴とされています(詩編92編13節、雅歌7章8,9節など)。なつめやしはヘブライ語で「タマル」と言いますが、これは、女性の名前としてもよく知られています(創世記38章6節など)。

 ケルビムは、「ケルブ」(詩編18編11節)の複数形で、人間の顔、獅子の体、鷲の翼を持つ天的な存在として、描かれています。サムエル記下22章11節(詩編18編11節)には、「(主は)ケルビムを駆って飛び、風の翼に乗って現れる」と記されており、神が移動されるときの乗り物として、神の臨在を表していると考えられます。

 また、神はエデンの園の中央にある命の木を守るために、園の東にケルビムを置かれました(創世記3章24節)。神殿の壁に刻まれた模様で、ケルビムの顔がなつめやしの方を向いているというのは(18,19節)、ケルビムがなつめやしを守っているということでしょう。つまり、創世記との関連で考えると、なつめやしが命の木の象徴とされていることになります。

 かつてエデンの園は、神が人を連れて来て住まわせ、神と相見え、交わることが出来るようにされた場所でした(創世記2章8,15節以下)。ところが、人は神に背いて罪を犯し(同3章1節以下)、そこを追い出されてしまいました(同23節)。その後、神と相見え、交わる場所は、至聖所に限定され、しかも、大祭司として選ばれた者が一年に一度しか入れない場所になっていました(レビ記16章参照)。

 勿論、神が至聖所から外に出ることが出来ないということではありません。神は、どこにでもおられます。しかしながら、いつでも、どこででもお会い出来るという存在でもありません。至聖所が拝殿の奥に配置され、それを聖所(拝殿)、内庭、内壁、外庭、外壁で守っているのは、それは汚れた人間が汚れたままで清い神と触れ合い、打たれてしまうことがないためです。

 つまり、そのような神殿の構造は、主なる神は他と完全に区別されるべき聖なる方、だれも並び立つこのとできない絶対者であるということを示しているわけです。そもそも、「至聖所」とは「聖の中の聖、聖にして聖なるもの」(コーデシュ・ハッケダシーム)という言葉です。 

 しかしながら、主イエスが十字架にかかって死んでくださったとき、神殿の垂れ幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節ほか)。それは、私たちが神に近づく道を開くことでした。主イエスがご自身を贖いの供え物として、私たちを罪の呪いから解放してくださり、主イエスを信じる者が神の子として、神と親しく交わることが出来るようにしてくださったのです。

 ヘブライ人への手紙の記者は、垂れ幕とはキリストご自身の肉のことで、主がご自分の肉を裂いて新しい生きた道が開かれたのだから、主を信頼して、真心から神に近づこうと奨めています(ヘブライ書10章19節以下参照)。

 主の御言葉に従い、絶えず十字架の主を仰ぎ、信仰をもって神に近づきましょう。その恵みに与りましょう。

 主よ、御子イエスが十字架において、私たちのためにご自身の命をもって贖いの代価を支払われ、救いの道を開いてくださいました。今、主との親しい交わりに招いていてくださることを感謝致します。招きに応じ、十字架の主を仰ぎつつ御前に進みます。御言葉と祈りを通して、絶えず新たに主の恵みを味わわせてください。 アーメン







7月30日(土) エゼキエル書40章

「彼が内庭を測ると、長さは百アンマ、幅も百アンマの正方形であり、神殿の前には祭壇があった。」 エゼキエル書40章47節

 1節の、「我々が捕囚になってから25年、都が破壊されてから14年目」とは、紀元前573年のことで、それは、エゼキエルが預言者として召されて20年後ということになります(1章1節以下参照)。「その年の初めの月の十日」、即ち3~4月ごろのこと、エゼキエルに主の手が臨み(1節)、幻によってイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に降ろされました(2節)。

 イスラエルの高い山は、エルサレムを指しています。エゼキエルはそこに、神殿の幻を見ます(5節以下)。この幻が、本書の末尾、48章まで続いています。

 かつて、エルサレム神殿に異教の偶像が祀られていて、そのために神の栄光がエルサレムを去ったのをエゼキエルは見ていました(8~11章)。そして、エルサレムの都が陥落し(33章21節以下、列王記下25章1節以下)、神殿は焼き払われ(列王記下25章9節)、祭具なども奪われてしまいました(同13節以下)。

 祭司の家系に生まれ、祭司となるべく備えていたエゼキエルにとって、神殿が偶像礼拝によって汚されていること、それゆえに神の裁きを受け、焼き払われてしまうというのは、悔やんでも悔やみきれない思いだったのではないでしょうか。

 ところが今、エルサレムに建設された新しい神殿が見せられたのです。その神殿は周囲を分厚い壁に囲まれており(5節)、門が東(6節)と北(20節)、南(24節)にあります。門の手前に階段があり(6節)、それを7段上がって門から入ると通路の両側に三つずつ控えの間があります(7節以下、10節)。そこに守衛が配置されていたのでしょう。そこを抜けると、外庭があります(17節)。

 そして、その庭の一段高くなっているところに内庭があります(19,23,27節)。手前の階段を8段上がって(31節)、門を入ると内庭があります(28節)。内壁という記述がありませんが、門があることから、内庭は壁に囲まれているということになります。その内庭の一段高いところに拝殿(聖所)があります(41章1節)。

 冒頭の言葉(47節)によれば、内庭の拝殿の前に祭壇が置かれています。この祭壇で贖いの犠牲をささげてから、神殿の最も重要な場所=拝殿へと近づくのです。ここから10段の階段を上がったところが拝殿の玄関の間、神殿の廊です(49節)。この廊を通って聖所へと入ります。

 エゼキエルは、神殿の西を除く三方にある門の構造や、壁に沿って設けられた神殿で働く者たちの控え室の構造などを、一つ一つ丁寧に調べながら、階段を上がって、次第に拝殿=聖所に近づいて来ました。ここに記されている神殿の構造や大きさなどは、祭司の家に生まれたエゼキエルにとって、どれほど興奮することだったでしょうか。それは、神によって建てられた新しい神殿なのです。

 神殿が厚い外壁で囲われ、そして、内壁で外庭と内庭が分けられ、内庭の中に拝殿=聖所が置かれているという構造は、神の神聖を侵すことは出来ないことを示します。神殿の造りの緻密さ、精巧さは、神の御業の素晴らしさを物語っています。そして、7段上って外庭、8段上って内庭、10段上って拝殿と、順次、階段を上って神域に近づくのは、神に近づくときの心の高まりを表しているといってよいでしょう。

 エゼキエル自身が、実際に再建された新しいエルサレムの神殿で礼拝することは考えられません。彼は今、バビロンに捕囚となっています。そして、ペルシアの王キュロスによってイスラエルの民が捕囚から解放されるのは、BC538年です。つまり、これからなお35年という長い年月が必要なのです。

 この幻を見ているとき、エゼキエルは既に50歳になっていました。けれども、神殿の幻が与えられたというのは、神がイスラエルの民と共におられるという徴であり、そして、もう一度、まことの神を礼拝する民が再建されるということを意味しています。

 8章以下で、イスラエルの罪のために、神がエルサレムの都を離れられることを告げていたように、ここでは、神が再びエルサレムを神の都として選ばれたこと、そこに神殿が築かれて、主なる神を礼拝することが新生イスラエルの中心となるべきことを告げるのです。これは、37章25節以下に告げられていたことを、より詳しく述べているというところです。 

 この幻が示されてから、イスラエルの民が捕囚から解放されるのに35年余り、第二神殿が完成するまで50年以上の年月がかかりました。エゼキエルは、自分に示された幻、それを告げる預言の言葉の実現を目の当たりにするのはできません。けれども、詳細な配置図、その寸法が記されることにより、捕囚からの解放、神殿の再建が主なる神によって具体的に実行されるということが、ここに明示されているのです。

 そして、私たちのような異邦人が神を礼拝する新しいイスラエルの民とされるために、主イエスが十字架に贖いの供え物としてご自分を献げてくださいました。それゆえ私たちは、主イエスに感謝して、毎日曜日に主なる神に礼拝を献げるため、教会に集うのです。

 拝殿(聖所)には、私たちの祈りを象徴する香壇と、御言葉を象徴するパンを置く机が置かれています。御言葉と祈りを通して至聖所に進み、そこで主の御顔を拝し、主との親しい交わりを持たせていただくのです。

 毎日、聖書を開きましょう。賛美しましょう。祈りましょう。神の御声を聴きましょう。

 主よ、私たちの日毎の礼拝を祝福してください。静かに祈る時を祝福してください。心から主を誉め讃えることが出来ますように。 アーメン





7月29日(金) エゼキエル書39章

「今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。」 エゼキエル書39章25節

 38章に続き、39章にも、「メシェクとトバルの総首長ゴグ」(1節)に対する預言が語られています。「メシェクとトバル」はキリキア地方の町であり、総首長ゴグとは、キリキア地方をも支配下に治めていたバビロンの王ネブカドレツァルを指していると思われますが、城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、イスラエルを襲って来る敵の総称だろうと、前章で学びました。

 神はゴグを徹底的に裁かれます(3節以下)。イスラエルに攻め寄せた軍隊は、山や野で倒れ、猛禽や野の獣の餌食となります(4,5節)。彼らの国マゴグと海岸地方には、火を送ると言われます(6節)。

 民は、廃棄された武器を薪として7年間燃やし続けます(9,10節)。そして、侵入者たちの埋葬には7ヶ月を要し、谷が死者で埋め尽くされると言います(11節以下)。戦いに動員された人の多さ、そこで使用された武器の多さを知らされます。そして、悪の勢力は完全に敗北し、滅んでしまいました。

 かくて、イスラエルに終末的な平和が訪れるわけです。薪として燃やされた武器には、イスラエルの民が持っていたものも含まれているのでしょう。

 冒頭の言葉(25節)に、「ヤコブの繁栄を回復する」という言葉があります。これは、象徴的な意味を持つ言葉です。イサクの子ヤコブは、かつて長子の権と父の祝福を、双子の兄エサウから奪い取り(創世記25章27節以下、27章1節以下)、その怒りを買っため(同27章41節)、叔父(母リベカの兄)ラバンの住む、遠いハランの地に逃れます(同43節)。

 ベエルシェバからハランまで約800㎞、故郷を離れて一人、徒歩で北の国への逃避行です。それは、どんなに心細いものだったでしょうか。「後悔先に立たず」とはまさにこのことか、と思い知らされたことでしょう。

 ところが、ヤコブは一日歩いて野宿したルズ(エルサレムの北20㎞、アイの西にある町、ヘブライ語で「アーモンド」の意)で、神の幻を見、神の声を聴きました。それは、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」という約束でした(同28章15節)。

 ヤコブはその場所に記念碑を立てて油を注ぎ、そこをベテル(「神の家」という意味)と名付けました(同16節以下、19節)。神が、孤独と不安の闇に包まれていた荒れ野を、神のお住まいになる祝福の家に変えてくださったということ、更にいえば、孤独だと思っていたけれども、神がいつも一緒にいてくださったということに気づかされたということです。

 そして、約束どおり神はヤコブを祝福されたので、旅に出たときには無一物でしたが、やがて二人の妻に二人の側女、12人の息子、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやロバなどを持つ者となったのです(同29,30章、32章15,16,23節)。それは、神がヤコブに一方的にお与えになった恵みの賜物です。

 ヤコブに、それを受け取る資格や権利があったわけではありません。むしろ、ヤコブのしたことは、神から裁かれるようなことでした。だから、ヤコブは故郷のベエルシェバを離れ、ハランで苦しい経験をしなければなりませんでしたし、母リベカの死に目には立ち会えませんでした。しかし、神はその苦しみを顧みて、ヤコブに恵みをお与えになったのです。

 今ここで預言者エゼキエルが、「ヤコブの繁栄を回復する」と告げているのは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民の苦しみを神が顧み、ヤコブに約束されたとおり、神が民と共にいて、守り、そして、イスラエルの地に連れ帰ってくださるという、希望に満ちた約束なのです。

 ここであらためて教えられるのは、その恵みをお与えになる主なる神との交わりです。私たちに必要なのは、国土や財産ではなくて、共にいてお守りくださる神ご自身です。

 神は、「わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」(28,29節)と言われます。

 神の御顔を仰ぐことを楽しみとし、私たちのうちにお住まい下さる御霊なる神との祈りと御言葉による交わりが何よりも嬉しいこととなるように、信仰の道に精進したいと思います。

 インマヌエルなる主よ、御名のとおり、常に私たちと共にいて、私たちを守り、御国に連れて行ってくださるという御約束を感謝します。どうぞ御言葉どおりこの身になりますように。そうして、主こそ神であることをすべての民が知るようにしてください。 アーメン





7月28日(木) エゼキエル書38章

「主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。」 エゼキエル書38章3節

 38,39章には、マゴグのゴグに対する預言が記されています。マゴグについて、創世記10章2節、歴代誌上1章5節に、ヤフェトの子孫と記されています。カスピ海と黒海の間のコーカサス地方のどこかにあったと考えられています。

 「メシェクとトバルの総首長」(2,3節)ということから、エゼキエルの時代、それらの町があるキリキアを支配していたのはバビロンだから、マゴグがバビロン、ゴグはネブカドレツァルということになりそうです。

 これまで何度もバビロンとネブカドレツァルに言及してきたエゼキエルが、ここでそれをマゴグとゴグと言い換える理由はよく分かりませんが、エゼキエル書中にバビロンの裁きについては全く触れられていないので、あるいは、バビロンの捕囚とされているエゼキエルが、バビロンの裁きをその名前で記すことはできなかったということかも知れません。

 37章において、「枯れた骨の復活」の幻を通して、神の民イスラエルの回復が語られました。この預言は実際に、ペルシアのキュロス王により、捕囚から解放されてエルサレムに戻り、神殿を建て直し、国を復興することが出来ました(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 そのとき、バビロンを滅ぼして新しい盟主となったペルシアの他、イスラエルの脅威となる国々が周囲に存在しています。そうした脅威に対して、イスラエルは「囲いのない国」、「城壁もかんぬきも門もない」、つまり、自分で自分を守る術を持たない国です。しかしながら、イスラエルの国は、そこで安らかに生活することが出来るというのです(11節)。

 彼らはバビロンによって攻め落とされ、一度エルサレムの都は廃虚にされました。けれども、再び建て直されて人が住むようになり、家畜や財産を持つようになると言われるのです(12節)。

 周囲の脅威が取り除かれたのではありません。攻めて来る国がなくなったからでもありません。城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、襲ってくる敵があります。それが、マゴグです。

 上で見たように、それがバビロンを示すものであるとすれば、それは実現不可能です。というのも、捕囚の民が解放されてバビロンからエルサレムに戻ることができたのは、ペルシアによってバビロンが滅ぼされたからです。だから、バビロンがまだ「城壁もかんぬきも門も」ないエルサレムに攻め上って来ることはあり得ないのです。

 ということは、どこと名指ししているのではなく、無防備に見えるエルサレムを襲い、戦利品を奪って欲しいままに略奪しようとしてやって来るものの総称をマゴグと呼び、その指導者・王をゴグと呼んでいると考えたらよいでしょう。

 黙示録20章8,9節に、「(サタンが)地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ」と記されています。エゼキエルの預言が、ここに黙示として提示されているようです。

 マゴグとゴグが併記されるのは、エゼキエル書38章2節と黙示録20章8節の2箇所だけです。こう見ると、歴史的事実を指すというよりも、両者とも終末的黙示的な預言と言ってもよいのかも知れません。 

 ところで、襲って来る者がいる。しかし今、自分で自分を守る術がない。そのようなとき、どうしますか。とりあえず、頑丈な城壁を築きたいと思うでしょう。より強力な軍備を持ちたいと考えるかもしれません。

 かつて、北朝鮮が核で武装するなら、その対抗上、韓国に核兵器の配備をと、非核三原則の国是に反することを日本の国務大臣が言って、物議を醸したというニュースが流れたことがありました。今はむしろ、日本も核を保有すべきだという考え方をする政治家も、決して少なくないと思われます。そう考えるのが当然なのでしょうか。そうすべきなのでしょうか。

 北朝鮮による拉致被害というのは、まさに、囲いのない国で安らかに生活していた日本人に目をつけた、非道な行為です。それについて、国として、毅然とした対応を求めるのは当然と言わざるを得ません。ただ、70年前、アメリカの経済封鎖により、我が国は太平洋戦争へと突き進みました。それと同じ愚を繰り返さないよう、慎重に対応して欲しいと思います。

 聖書は、そこに神がおられるというのです。マゴグの王ゴグに対して、冒頭の言葉(3節)で、「わたしはお前に立ち向かう」と言われました。神は、イスラエルが囲いのない国、城壁やかんぬきや門がない国であることをご存知です。そして、そのような中で安らかに生活している民に目をつけて、略奪をほしいままにしようと目論む者がいることもご存知です。そこで神がゴグに立ち向かい、イスラエルを守ってくださるというのです。

 神様が味方してくだされば、それ以上に心強いことはありません。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ書8章31節)と、パウロが語っているとおりです。

 主イエスは、「わたしは羊の門である」と言われ(ヨハネ10章7節)、また、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(同11節)と言われました。主イエスが私たちの囲い、閂のある門となり、私たちを守るために命を捨ててくださるというのです。

 どんなときにも主に信頼し、御言葉に聴き従いましょう。軍事力によらず対話と協調で国政平和に貢献する国であり続けるよう、為政者たちのために祈りましょう。

 私たちの羊飼いとして、囲いとなり、門となってくださる主なる神様、心から感謝し、御名を褒め称えます。今日も私たちを御名のゆえに正しい道に導いてくださることを感謝します。私たちが道を外れないよう、絶えずお守ください。為政者たちが真理の道、平和の道を歩む舵取りをすることができるよう、お導きください。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン





7月27日(水) エゼキエル書37章

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」 エゼキエル書37章4,5節

 37章には、預言者エゼキエルが主の霊に導かれて見た幻が記されています。

 そのときエゼキエルが見たのは、無数の骨でいっぱいになっている谷でした(1節)。その骨は、「甚だしく枯れていた」と言われます(2節)。触っただけで壊れてしまうような状況ということです。主なる神はこれを、「これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『われわれの骨は枯れた。われわれの望みはうせ、われわれは滅びる』と」と解説しておられます(11節)。

 この言葉から、エゼキエルがこの幻を見たのは、エルサレムが陥落したという報告が届いた第12年10月5日(紀元前585年1月ごろ、33章21節以下を参照)以降だと思われます。つまり、バビロンで奴隷生活を送っている捕囚民にとって、エルサレムが陥落したという報せは、すべての希望が断たれたことを意味していたのです。

 彼らは、エルサレムには壮麗な神殿があり、そこに主なる神がおられて、最後にはイスラエルを救ってくださるに違いないと考えていました。そしてまた、エジプトが、バビロンを滅ぼしてくれるものと期待していたのではないでしょうか。

 しかし、エジプトの援軍はエルサレムに届かず、イスラエルのために神風は吹かないまま、ついに命運つきたかたちで都が陥落し、ゼデキヤ王は捕虜となってしまったのです(列王記下25章1節以下)。その報せを受けた捕囚の民は、まさに生ける屍というような精神状態になっているわけです。

 主は預言者エゼキエルに、冒頭の言葉(4節)のとおり、その骨に向かって、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語らせます。神の御言葉こそ、私たちの道の光であり、その歩みを照らす灯です(詩編119編105節)。御言葉は私たちに命を得させます(同119編25,107節)。

 私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません(第二コリント4章8,9節)。神が前からも後ろからも私を囲み、御手を私たちの上に置いて恵みを与えてくださるからです(詩編139編5節)。

 主はさらに続けて、「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る」(5節)と語らせられました。初めに神が人間をお創りになるとき、土の塵で人を形づくられた後、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となりました(創世記2章7節)。枯れた骨に霊を吹き込むというのは、もう一度神の息を吹き込んで、枯れた骨を生き返らせようとされることです。

 エゼキエルが主の命じられたとおり預言すると、骨が組み合わされ、筋と肉が生じ、皮膚が覆いました(7,8節)。さらに霊に預言すると、霊が彼らの中に入り、生き返りました(9,10節)。この幻は、希望を失い、落胆していた民が、新たな希望を与えられ、御言葉に聴き従う真の神の民が再創造されるということを示しています。

 主イエスがお甦りになって弟子たちにそのお姿をお見せになったとき、彼らに息を吹きかけながら、「聖霊を受けなさい」、と言われました(ヨハネ福音書20章22節)。これは、神が命の息を吹き込まれて人が生きる者となったことになぞらえ、主の弟子たちが聖霊の息吹を受けて、世界宣教の使命に生きる者とされたことを示しているのです(同21節、使徒言行録1章8節参照)。

 私たちの真の希望は、まさしく主なる神にあります。主が御言葉を通して、私たちに信仰を与えてくださいます(ローマ書10章17節)。希望を与えてくださいます。それにより、苦難をさえ喜びとすることが出来ます。それは、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(同5章1~5節)。

 聖霊は、私たちの救いの保証であり(第二コリント書1章22節、私たちが神の子とされていることを、証明してくださいます(ガラテヤ書4章6節)。また、弱い私たちのために呻きをもって執り成し(ローマ書8章26節)、それによって万事が益となるようにされます(同8章28節)。

 主の御言葉を聞きましょう。心を聖霊に満たして頂きましょう。

 主よ、絶えず私たちに御言葉を与えてください。私たちの心を聖霊で満たしてください。主は、求める者によいものを、特に聖霊をお与えくださると約束してくださいました。約束通り、求めたものは既に与えられたことを信じて感謝します。 アーメン





7月26日(火) エゼキエル書36章

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」 エゼキエル書36章26節

 36章では、イスラエルの山々の繁栄の回復が語られます。これは、35章でセイル山に向かって、裁きの預言が語られていたことに対応しています。それは、セイル山と表現されたエドムが、イスラエルに対して悪をなしたことに対する神の裁きでした。

 また、前に6章でイスラエルの山々に対する裁きの預言を読みました。6章と36章をあわせて読むと、神の御心が伝わってきます。

 イスラエルの民は、神の宝の民、祭司の王国、聖なる国民として選ばれました(出エジプト記19章5,6節)。彼らは、イスラエルを選ばれた主なる神こそ、唯一、真の神であることを全世界に示さなければなりませんでした。その方法は、神の御声に聴き従うということです。

 イスラエルが裁かれたのは、この使命を疎かにし、かえって異教の神々を祀るという背きの罪を犯し、派閥争いで流血の事態を生じていたからです。そのことを17節で、「イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した」と記しています。それゆえ、神の憤りが彼らの上に注がれたのです(18節)。

 その結果、イスラエルの民は国々の中に散らされ、諸国に追いやられました(19節)。即ち、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、それぞれ捕囚とされてしまいました。エルサレムに残された者も、その後、エジプトなどへ四散させられてしまったのです。

 そういう経験をしたから、イスラエルが主なる神の御前に悔い改めたというわけではありません。「彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した」(20節)と言われるとおりです。

 ところが、ここから思いがけない展開を迎えます。神の裁きを受けて四散させられてなお悔い改めず、御名を汚しているイスラエルを、さらに厳しく裁いて滅ぼしてしまおうとはなさらないのです。その時主なる神は、「わたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ」(21節)と言われました。

 そこで、「わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる」(22,23節)と、イスラエルの家に告げさせられます。

 即ち、神に背き続け、繰り返し罪を行ったイスラエルの民を、もう一度主なる神の選びの民としてたてることで、ご自身の名を聖とされるというわけです。それは、民が主なる神が聖なる方であることを示すことができるようになったからというのではなく、主ご自身がイニシアティブをとって民に主の御名が聖であることを表させるというのです。

 それは、イスラエルの民の内側からの変革です。そのためにまず、清い水が振り掛けられます(25節)。それは、イスラエルの罪を清める水です。そして、冒頭の言葉(26節)のとおり、心が変えられるように、新しい霊、即ち、新しい命が授けられます。頑なで真理を悟ることも信仰を保つこともできなかったイスラエルの民が、主なる神に聴き従う柔らかな心を持つようになるのです。

 主は彼らを先祖に与えた地に住まわせ、イスラエルの家が主の民となり、主がイスラエルの神となられます(28節、11章19節参照)。それは、イスラエルと主なる神との間に新しい契約が結ばれるということです。それが、イスラエルの家を主の民とされる神の御業ですが、そのためには、イスラエルの家は亡国と捕囚という苦難を通らなければならなかったのです。

 主イエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)と言われ、さらに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同5節)と言われました。これは、エゼキエルが語った言葉が、主イエスによって確認されているようです。

 今、捕囚の苦しみの中にいる民にとって、この預言は大きな希望を与えたことでしょう。辛いことがあっても、希望があれば乗り越えることが出来ます。辛いとき、私たちは十字架の主イエスを仰ぎます。主イエスが私たちを癒し、慰め、助けてくださいます。

 「辛い」という漢字と「幸せ」という漢字をよく見てください。よく似ていますね。「辛い」という字の上に十字架を置くと「幸せ」という字になるのです。辛い人が主の十字架を仰ぐと幸せになるという、偶然などという言葉では済ませられない、キリストの福音が示される文字ですね。

 私たちに新しい心を与え、新しい霊を授けてくださる主を信頼し、絶えずその御声を聴きましょう。

 主よ、私たちに新しい心を授けてください。石のように冷たく固い心ではなく、柔らかなみずみずしい心、人の痛みの分かる心を授けてください。キリストの愛が人々の心を満たしますように。全世界に、キリストによる平和がありますように。 アーメン






7月25日(月) エゼキエル書35章

「お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。」 エゼキエル書35章11節

 35章には、セイル山に対する託宣が記されています。セイル山とはエドムのことであり(創世記36章8節)、そこにエサウの子孫エドム人が住んでいました。エサウがエドムと呼ばれた所以は、ヤコブのレンズ豆を、その「赤いもの(アドム)」を食べさせて欲しいと願ったからと、創世記25章30節に説明されています。エドムはイスラエルと国境を接する死海の南東部、セイルの山地に住んでいました。

 エドムに対する裁きについて、25章12~14節に既に語られていましたが、ここでは、36章でイスラエルの回復が語られるのに対比する目的で、エドム全地が裁かれ、廃墟となると告げられます。それは、彼らがバビロン軍の尻馬に乗ってエルサレムを滅ぼすことに加担し(5節、オバデヤ書10,14節参照)、イスラエルをおのが領土にしようと狙って(10節、36章2,5節)、略奪を繰り返しているからです。

 そのことで、イスラエルを裁くため、神はバビロンを御自分の器として用いられますが、エドムは神に選ばれた器ではなかったということが示されます。神は冒頭の言葉(11節)のとおり、彼らの憎しみと妬みによる悪行に応じ、エドムに対して同じように行うと言われます(11節、オバデヤ書15節参照)。

 エドムがイスラエルに対して敵意、憎しみを持っていることは理解出来ます。もともとはイサクの双子の兄弟エサウとヤコブの問題でした。兄エサウ(=エドム)は弟ヤコブ(=イスラエル)によって長子の権を奪われ(創世記25章27節以下)、次いで神の祝福を奪われました(27章)。エサウはヤコブを必ず殺すと決意する事態になりました(27章41節以下)。

 その後、兄弟は和解したようですが(33章)、イスラエルに対する憎しみが絶えず心の底に宿っていたのではないでしょうか。

 ダビデ時代、イスラエルは銅山と紅海(アカバ湾)に出る港を手に入れるためにエドムを侵略し、支配しました(サムエル記下8章13,14節)。列王記上9章26節にエツヨン・ゲベルという地名が出て来ますが、ここには銅の精錬所がありました。ここで青銅を作り、神殿や宮殿の建築に用いたのです。また、ソロモンはここに良い港を作りました。

 かつて、出エジプトの民が、エジプトから約束の地カナンに入るために、ここを通ったことがあり、陸路でも重要な宿営の町でした(民数記33章35節)。つまり、ここは陸と海の要となる町だったわけです。

 このような侵略と支配に対してさらに憎悪が深まったことでしょう。ですから、バビロンがイスラエルに攻めてきたとき、エドムはバビロンの側についてエルサレム攻略を行ったわけです。それによって、積年の恨みを晴らしたかったことでしょう。

 けれども、そのような憎しみや妬みは、良いものを産み出しません。絶えず争いを産み出します。それは結局、自らの滅びとなってしまうのです。

 9.11同時多発テロ以降のアメリカとアフガン、イラクの戦争、現在にも続く紛争状態が、それを雄弁に物語っています。イスラエルとパレスティナの争いにシリアの内戦、そしてそれらにISという組織も絡んで、世界各地でテロが勃発するようになり、国際社会は混迷を深めています。

 やられたらやり返せという論理は分かりやすいけれども、そこに真理はありません。報復に報復が繰り返されるだけです。しかもそれは、拡大していくばかりです。勿論、神がそれを喜ばれるはずがありません。戦争によって神の祝福を勝ち取ることは出来ないのです。

 最近の北朝鮮の振舞いは常軌を逸していますが、近隣諸国を敵視して、自国の繁栄を勝ち取ることはできません。経済的にかなり厳しいものがあるでしょう。現在の国内情勢が分かりませんが、国民生活よりも軍事を最優先するというのは、かつての日本が一億玉砕と言っていたのと同じ状況ではないでしょうか。

 中国も、日本やASEAN諸国との間に領土問題、油田開発や領海の問題など、様々な摩擦を抱えています。背景に国内事情があるのかも知れませんが、他国に対して力をもって対峙しようとすれば、不慮の事態を招きかねません。

 我が国政府は、アメリカの要求に応え、東南アジアのそのような情勢を利用して、戦争する国作りを加速しようとしています。拉致被害者の救出をどうしようとしているのでしょうか。政府関係者の言動を見ていると、およそ、そのようなことは念頭にないと言わざるを得ない状況です。

 歴史に学ばずして、どうして平和な国際社会を作ることができるでしょうか。現在、日本には歴史的に類を見ない素晴らしい憲法が与えられています。すべての国が同様の憲法を持てば、世界中から戦争をなくすことができます。

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)とイザヤは預言しました。主の御言葉が実現するよう、祈りましょう。

 主よ、どうかキリストにある平和が、全世界に実現しますように。キリスト教会が全世界の平和の道具として、主に用いられますように。私たちの心の中から、憎しみや妬みなどが追い出され、キリストの愛と平和が心を満たしますように。 アーメン






近況報告

先日、かかりつけの病院を受診しました。
血液検査の結果は良好、すべての項目が標準値内になりました。
寛解といってよい状況です。

それで、調子のよいときに内視鏡検査で異常がないか確認しようということになりました。
来月上旬、一日がかりで行います。
検査に一日かかるわけではありませんが、前準備に数時間かかりますし、検査の順番待ちで数時間待たされることもある(前回もそうでした)ので、あれこれ持ち込んで時間をつぶせるようにしようと思っています。

これからも健康管理に留意して、持病が発症しないようにしたいです。
皆様のお祈りに感謝しています。
引き続き宜しくお願いいたします。




7月24日(日) エゼキエル書34章

「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」 エゼキエル書34章23節

 34章には、牧者と呼ばれている、イスラエルの王をはじめ政治的、宗教的な指導者たちに対する裁きが記されています。
 
 詩編23編には、羊と牧者との素晴らしい信頼関係を見出します。それは、牧者が絶えず羊と共にいて、体をはって羊を守り、鞭と杖で羊を正しい道に導くからです。そこに詠われている牧者とは、主なる神ご自身のことです。

 そして主なる神は、王や祭司たち指導者をいわば副牧者として立て、ご自分の群れを彼らの手に託されたわけです。彼ら指導者は、羊の群れを託されて、それを守り養う務めを神から与えられていたわけです。

 けれども、彼らがその務めを果たさないどころか、自分自身を養うために群れを利用したと言われます。それは、羊の乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた羊を屠って食べて(3節)、自分自身を養ったということです(8節)。

 ところが、「弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した」(4節)と言われるごとく、牧者としての務めをまったく果たさないので、群れは野の獣の餌食となり、野に山に、散り散りになってしまいました(5節)。

 つまり、イスラエルの指導者たちがその地位を利用して利益を貪り、実際には指導者としての役割を果たしていなかったということになります。それは、羊の毛についた寄生虫のようなもので、民の指導者でも保護者でもなかったわけです。 

 そこで、神は群れを牧者たちから取り上げ、もはや牧者たちの餌食とはさせない(10節)、神自ら牧者となって、群れを探し(11節)、散らされた場所から救い出し(12節)、よい牧草地に導き、養うと言われるのです(13~16節)。即ち、神はもう一度、詩編23編に詠われているような、羊と牧者との間に素晴らしい信頼関係を回復したいと考えておられるのです。

 また、神は肥えた、強い羊をも裁かれます。彼らが小さいもの、弱いものを押しのけ、突き飛ばし、外へ追いやったからです(16節以下、21節)。指導者たちが神に裁かれていましたが、羊たち自身にも非難されるべき問題があったのです。

 神は、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16節)ために、冒頭の言葉(23節)のとおり、「一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」と言われました。これは、ダビデのように神の御心にかなう牧者が立てられ、その群れを牧するようになるという預言です。

 そして、主なる神は、ご自身の独り子、主イエス・キリストをダビデの子孫としてこの世に送り、牧者としてお立てになりました。主イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と言われ(ヨハネ福音書10章11節)、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)と仰られました。ここに、エゼキエルの語った預言が実現しています。

 そしてまた、主なる神は、御自分の羊の群れのために悪い獣をその土地から断ち(25節)、季節に従って雨を降らせ(26節)、野の木は実を結び、地は産物を生じるので、群れはそこで安んじていることが出来ます(27節)。

 これは、主なる神がその群れの神となり、彼らがその民となるという、神と群れとの契約があらためて結ばれたことを示しています(24,25節)。捕囚の民となったイスラエルに向かい、エゼキエルをとおして、ここに新しい契約についての神の言葉が語られています(エレミヤ書31章31節以下参照)。

 私たちの主は、一匹の迷い出た羊を見つけるまで探し、見つけると肩に担いで連れ戻してくださる方であり(ルカ福音書15章)、傷ついたものを宿に運び介抱される主(ルカ10章30節以下)です。今日も真の主を仰ぎ、主の御声に従って参りましょう。そこに癒しがあります。そこに平安があります。そこに力があります。

 主よ、御言葉を感謝します。今日も私たちの先に立ち、また私たちのしんがりを守って共に歩んでくださることを感謝します。私たちを上から恵みで覆い、下から強く支えてくださることを感謝します。いよいよ主の御名を崇めさせてください。主のご栄光を褒め称えさせてください。 アーメン




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