「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。」 エゼキエル書10章18節
エゼキエルは、エルサレム神殿でケルビムの頭上の大空の上に、サファイヤの石のようで、形は王座のように見えるものを、幻で見せられます(1節)。
ケルビムは、主なる神の乗り物とされています(サムエル記下22章11節、詩編18編11節など)。神の掟の箱(契約の箱とも言う)の蓋の両端に、一対のケルビムの像が取り付けられていました。この箱の蓋を贖いの座として、神がそこに臨在を表わすと言われています(出エジプト記25章22節)。
ケルビムは、主なる神の乗り物とされています(サムエル記下22章11節、詩編18編11節など)。神の掟の箱(契約の箱とも言う)の蓋の両端に、一対のケルビムの像が取り付けられていました。この箱の蓋を贖いの座として、神がそこに臨在を表わすと言われています(出エジプト記25章22節)。
また、出エジプト記24章10節には、「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた」と記されています。つまり、1節の記述は、ケルビムの上に座しておられる神の姿を描写しているようです。
ソロモンの建てた神殿の壁面や扉などには、ケルビムの浮き彫りが施されていました(列王記上6章29節以下)。それは、エデンの園の命の木に至る道を守るためにケルビムと剣の炎が置かれたように(創世記3章24節)、神殿をケルビムが守るということを表わしています。
神が亜麻布をまとった御使い、それは9章で腰に筆入れを下げていた方ですが、彼に、「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」(2節)と言われます。
「燃える炭火」ということでは、王なる万軍の主を仰ぎ見たイザヤが(イザヤ書6章1節以下)、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(イザヤ書6章5節)というと、セラフィムの一人が祭壇から炭火を取ってきて(同6節)、火をイザヤの口に触れさせ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(同7節)といったという出来事を思い出します。
炭火はその時、罪を自覚し、告白するイザヤを赦し、清めるという働きをしました。同様に、亜麻布をまとった御使いによって額に印のつけられた人々(9章4節)の上にまかれた炭火は、彼らを赦し清める働きをしたことでしょう。しかし、主の忌み嫌う偶像礼拝を行って主を怒らせた人々には(8章7節以下)、ソドムとゴモラの上に降った硫黄の火のごとく(創世記19章24,25節)、主の裁きの火となります。主を畏れなければなりません。
かつて、ソロモンがエルサレムに神殿を建て上げ、神に奉献する賛美がなされたとき、雲が神殿に満ち、神の栄光に包まれました(歴代誌下5章13,14節)。今再び、エゼキエルの前で、神殿が雲で満たされ、庭に主の栄光の輝きが満ちました(4節)。それはしかし、エルサレムの町に神の栄光が与えられ、町を復興することが出来るといった意味のものではありませんでした。
神殿を満たした主の栄光が、その敷居の上から出て、ケルビムの上に留まりました(18節)。そして、ケルビムは翼を広げてその地から上り、神殿の東の門の入り口に止まったのです(19節)。つまり、主の栄光が神殿、そしてエルサレムを離れようとしているということです。
エゼキエルは、ケルビムの有様を9~14節に描写していますが、これは、1章5節以下に記された四つの顔を持つ生き物によく似ています。そしてエゼキエルは、20節に、「これがケバル川の河畔で、わたしがイスラエルの神のもとにいるのを見たあの生き物である。わたしは、それがケルビムであることを知った」と記しています。ということは、エゼキエルはそれまで、ケルビムについて、よく知らなかったということでしょうか。
祭司の家系に育った者として、ケルビムについても教えを受けていたはずでしょうけれども、それまで見聞きしていたものと、ここに示されたケルビムとが、随分違っていたということかも知れません。また、上記の通り、エルサレム神殿の装飾や契約の箱の贖いの座とケルビムが結びついていて、捕囚の地バビロンでケルビムを見ることが信じられなかったのかも知れません。
いずれにせよ、1章で見た四つの顔をした生き物が、エルサレムの神殿の庭に主の栄光の輝きを満たした主なる神の臨在を現わしたケルビムであることを、悟ったのです。そしてそれは、単にケルビムを認識したということに留まりません。
というのは、ケバル川の河畔でそのケルビムを見たのであり(1章5節)、今エゼキエルは幻の中で、主の栄光が神殿を離れて飛び去ろうとしている様子を見ているからです(19,22節)。つまり、エルサレムを離れた主の栄光がバビロンに来ていること、主が捕囚の民と共におられるということを、エゼキエルは悟ったわけです。
エルサレムの都やそこに建てられている神殿、あるいはまた、王の存在がイスラエルの希望なのではなく、主の臨在、主が共にいてくださるということが、真の希望なのです。主に対する真実な信仰が失われ、神殿にさえ主の忌み嫌われる悪が満ちたので(8章参照)、栄光がエルサレムを去り、ケバル川の畔でエルサレムのために嘆き悲しんでいるエゼキエルのもとにやって来たのです。
第一コリント書3章16節に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。また、同6章19節に、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と言われています。
パウロはまた、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ書2章19,20節)と言っています。
主イエスは、「インマヌエル」、即ち「神は我々と共におられる」と唱えられるお方だと、マタイ福音書1章23節に記されています。イエス・キリストを救い主、主と信じる者の内に主が住まわれ、聖霊において宿り、わたしたちの体を神の宮、神殿とされています。そのことをコロサイ書1章27節で、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と言っています。
主の臨在、主が共におられるということが真の希望だと先に記しました。それが新約聖書で明言されているわけです。主を信じる信仰に堅く立ち、私たちの内にお住まいくださっている聖霊の導きに従って主の道をまっすぐに歩みましょう。
主よ、私は罪人です。私の罪を赦し、清い火をもって清めてください。私の内に歓迎いたします。私の心の中心にお座りください。絶えず、清い愛と恵みの光で私の心を照らし、平安と喜びに満たしてください。日々御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って、主の真理の道、命の道をまっすぐに歩ませてください。 アーメン