風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年06月

6月30日(木) エゼキエル書10章

「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。」 エゼキエル書10章18節

 エゼキエルは、エルサレム神殿でケルビムの頭上の大空の上に、サファイヤの石のようで、形は王座のように見えるものを、幻で見せられます(1節)。

 ケルビムは、主なる神の乗り物とされています(サムエル記下22章11節、詩編18編11節など)。神の掟の箱(契約の箱とも言う)の蓋の両端に、一対のケルビムの像が取り付けられていました。この箱の蓋を贖いの座として、神がそこに臨在を表わすと言われています(出エジプト記25章22節)。

 また、出エジプト記24章10節には、「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた」と記されています。つまり、1節の記述は、ケルビムの上に座しておられる神の姿を描写しているようです。

 ソロモンの建てた神殿の壁面や扉などには、ケルビムの浮き彫りが施されていました(列王記上6章29節以下)。それは、エデンの園の命の木に至る道を守るためにケルビムと剣の炎が置かれたように(創世記3章24節)、神殿をケルビムが守るということを表わしています。

 神が亜麻布をまとった御使い、それは9章で腰に筆入れを下げていた方ですが、彼に、「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」(2節)と言われます。

 「燃える炭火」ということでは、王なる万軍の主を仰ぎ見たイザヤが(イザヤ書6章1節以下)、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(イザヤ書6章5節)というと、セラフィムの一人が祭壇から炭火を取ってきて(同6節)、火をイザヤの口に触れさせ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(同7節)といったという出来事を思い出します。

 炭火はその時、罪を自覚し、告白するイザヤを赦し、清めるという働きをしました。同様に、亜麻布をまとった御使いによって額に印のつけられた人々(9章4節)の上にまかれた炭火は、彼らを赦し清める働きをしたことでしょう。しかし、主の忌み嫌う偶像礼拝を行って主を怒らせた人々には(8章7節以下)、ソドムとゴモラの上に降った硫黄の火のごとく(創世記19章24,25節)、主の裁きの火となります。主を畏れなければなりません。

 かつて、ソロモンがエルサレムに神殿を建て上げ、神に奉献する賛美がなされたとき、雲が神殿に満ち、神の栄光に包まれました(歴代誌下5章13,14節)。今再び、エゼキエルの前で、神殿が雲で満たされ、庭に主の栄光の輝きが満ちました(4節)。それはしかし、エルサレムの町に神の栄光が与えられ、町を復興することが出来るといった意味のものではありませんでした。

 神殿を満たした主の栄光が、その敷居の上から出て、ケルビムの上に留まりました(18節)。そして、ケルビムは翼を広げてその地から上り、神殿の東の門の入り口に止まったのです(19節)。つまり、主の栄光が神殿、そしてエルサレムを離れようとしているということです。

 エゼキエルは、ケルビムの有様を9~14節に描写していますが、これは、1章5節以下に記された四つの顔を持つ生き物によく似ています。そしてエゼキエルは、20節に、「これがケバル川の河畔で、わたしがイスラエルの神のもとにいるのを見たあの生き物である。わたしは、それがケルビムであることを知った」と記しています。ということは、エゼキエルはそれまで、ケルビムについて、よく知らなかったということでしょうか。

 祭司の家系に育った者として、ケルビムについても教えを受けていたはずでしょうけれども、それまで見聞きしていたものと、ここに示されたケルビムとが、随分違っていたということかも知れません。また、上記の通り、エルサレム神殿の装飾や契約の箱の贖いの座とケルビムが結びついていて、捕囚の地バビロンでケルビムを見ることが信じられなかったのかも知れません。

 いずれにせよ、1章で見た四つの顔をした生き物が、エルサレムの神殿の庭に主の栄光の輝きを満たした主なる神の臨在を現わしたケルビムであることを、悟ったのです。そしてそれは、単にケルビムを認識したということに留まりません。

 というのは、ケバル川の河畔でそのケルビムを見たのであり(1章5節)、今エゼキエルは幻の中で、主の栄光が神殿を離れて飛び去ろうとしている様子を見ているからです(19,22節)。つまり、エルサレムを離れた主の栄光がバビロンに来ていること、主が捕囚の民と共におられるということを、エゼキエルは悟ったわけです。

 エルサレムの都やそこに建てられている神殿、あるいはまた、王の存在がイスラエルの希望なのではなく、主の臨在、主が共にいてくださるということが、真の希望なのです。主に対する真実な信仰が失われ、神殿にさえ主の忌み嫌われる悪が満ちたので(8章参照)、栄光がエルサレムを去り、ケバル川の畔でエルサレムのために嘆き悲しんでいるエゼキエルのもとにやって来たのです。

 第一コリント書3章16節に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。また、同6章19節に、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と言われています。

 パウロはまた、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ書2章19,20節)と言っています。

 主イエスは、「インマヌエル」、即ち「神は我々と共におられる」と唱えられるお方だと、マタイ福音書1章23節に記されています。イエス・キリストを救い主、主と信じる者の内に主が住まわれ、聖霊において宿り、わたしたちの体を神の宮、神殿とされています。そのことをコロサイ書1章27節で、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と言っています。

 主の臨在、主が共におられるということが真の希望だと先に記しました。それが新約聖書で明言されているわけです。主を信じる信仰に堅く立ち、私たちの内にお住まいくださっている聖霊の導きに従って主の道をまっすぐに歩みましょう。 

 主よ、私は罪人です。私の罪を赦し、清い火をもって清めてください。私の内に歓迎いたします。私の心の中心にお座りください。絶えず、清い愛と恵みの光で私の心を照らし、平安と喜びに満たしてください。日々御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って、主の真理の道、命の道をまっすぐに歩ませてください。 アーメン






6月29日(水) エゼキエル書9章

「主は彼に言われた。『都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ』。」 エゼキエル書9章4節

 神は、「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」と大声で呼ばわられます(1節)。すると、6人の男たちが、都を突き崩す道具を手にしてやって来ました。

 そこに、亜麻布をまとい、腰に筆入れを着けた人物がいました(2節)。新共同訳は「そのうちの一人は」といって、6人中一人としていますが(口語訳、岩波訳も)、新改訳は「もう一人の人が・・彼らの中にいた」といって、7番目の人物のように記しています。どちらの訳も可能だろうと思われ、7人の御使いの内、一人は筆入れ、残りは破壊する道具を持ってやって来たと考えたいと思います。

 冒頭の言葉(4節)のとおり、主なる神は筆入れを持っている御使いに、「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」と命じられました。

 他の6人の御使いたちには、「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。老人も若者も、おとめも子どもも人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ」(5,6節)と言われます。

 エルサレムの罪のゆえに嘆き悲しむ者の額に印がつけられ、その印がない者は、神の御使いに打たれるのです。

 かつて、イスラエルがエジプトを脱出するとき、エジプト人の家と区別をするために、家の鴨居に小羊の血で印をつけました。その印のつけられた家は、神の使いが災いを下さずに過ぎ越し、印のない家に入って、その初子を打ちました(出エジプト記12章参照)。しかし、今度はイスラエルの民が打たれることになります。

 最初の過越によって、イスラエルが生まれました(紀元前1400年頃)。それから800年後(紀元前592年頃、8章1節参照)、二度目の過越によってイスラエルの歴史にピリオドが打たれるのです。 

 その幻を見せられたとき、エゼキエルは、「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」(8節)と、神に助けを求めて執り成し祈ります。つまり、エゼキエルは、印を押される者、即ちこの災いを免れることの出来る者が一人もいないのではないかと考えたのでしょう。だから、「イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」と尋ねるのです。

 8章で見たとおり、エルサレムの都には、神を怒らせる異教の偶像が満ちていました。ですから、その町に住む民が神に打たれても文句が言える立場でないことは、百も承知の上です。主が御使いたちに「慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない」(5節)と命じられる言葉も聞いていました。

 それでもなお、エゼキエルは神の憐れみを求めて、祈らずにはいられませんでした。このことは、アブラハムがソドム、ゴモラのために、そこに住んでいるロトとその家族のために、執り成した祈りを思い出させます(創世記18章16節以下)。

 その祈りに対して主は、「イスラエルとユダの家の罪はあまりに大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている」(9節)、「それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する」(10節)と答えられました。 

 そうこうしているうちに腰に筆入れをつけている者が戻って来て、「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました」(11節)と報告します。9章はここで終わりです。印が付けられた者がいるのかどうか報告されていません。けれども、もし印を付ける者が一人もいなかったならば、わざわざ、「あなたが命じられたとおりに致しました」と報告されることもないように思われます。

 かつて、預言者エリヤに神が、「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(列王記上19章18節)と言われたことがあります。これは、エリヤが、自分以外にはまことの神を礼拝する者は一人も残っていないと考えて意気消沈していたのを、主なる神が励ましを与えた言葉です。

 ダビデが北イスラエルに80万の兵士を数えていて(サムエル記下24章9節)、女こども、高齢者を含めると,人口が250万ほどにもなろうかと考えると、バアルにひざまずかなかった者が7千人というのは,いかにも少数です。それは、アハブ王が妻イゼベルと共にバアル信仰を押し進めてきたからです。それでも、バアルに膝を屈めなかった者が七千人いたというところに、希望があります。

 7千は7×10の三乗です。7も10も、イスラエルにおいては完全数といわれ、完全数を4つも掛け合わせるということは、神にとってそれは十分な数ということになります。 

 額に印のつけられた人の数は不明ですが、しかし、神のご計画は、すべてを滅ぼし尽くすということではない、憐れみ救うというところにあること、神と心を一つにする者を残そうとしておられることが示されます。エルサレムのために執り成すエゼキエルとユダの長老たちの祈りを受けて、憐れみ深い神は、相当の者たちを残されたのではないでしょうか。

 我が国の自殺者数は、2003年をピークに2012年から減少に転じているものの、自殺者白書によれば、年間2万5千人余の方が自ら命を落としています。その理由について、健康の問題が60%、経済問題が25%などと分析されています。

 死因に見る自殺者の割合は、10代前半で死因の3位(12%)、10代後半では2位(30%)、20代~40代前半はトップ(20代は50%以上、30代は40%前後、40代前半は25%)、40代後半は2位(20%)、50代は3位(10%前後)などとなっています。60代前半は4位(5%)となっています。10歳未満、65歳以降は、ランキング上位に入っていません。

 即ち、ローティーンから徐々に問題が深刻になって20代で最大になり、40代後半から減少していき、60代後半は、他の死因の方が圧倒的に多くなるという状況です。これは、我が国の明日を担うべき若者たちが、いかに現状を悲観的に見ているかということの表れで、当然のことながら、対策を急がなければなりません。特に、私たち宗教者の果たすべき役割は小さくないと思います。

 我が国の若者たちが健康な日々を送ることが出来るように、経済的な必要が満たされるように、将来に希望の持てる国となるように、武力によらず国際的平和の構築に貢献する国となるように、国のリーダーの周囲に神を畏れる人々が配置されるように、共に祈りましょう。

 主よ、日本を憐れんでください。あなたの深い愛と憐れみが、我が国に豊かに注がれますように。国の指導者たちの周りに神を畏れる者たちを置き、舵取りを誤ることがないようにしてください。主の愛と平和が人々の心に満たされますように。健やかな日々を過ごせますように。すべての必要が満たされますように。今日もこの日の糧をお与えください。私たちは、あなたの口から出る一つ一つの言葉で生かされています。感謝です。 アーメン




6月28日(火) エゼキエル書8章

「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っているはなはだ忌まわしいことを見るか。」 エゼキエル書8章6節

 1節に、「第6年の6月5日のこと」、とあります。「第6年」は、文脈から、ヨヤキン王が捕囚となってから(1章2節参照)、即ち第一次バビロン捕囚(紀元前597年)が起こってから6年目ということ、「6月」は、現在の9~10月ですから、紀元前592年の秋ごろに、エゼキエルが見た有様ということです。

 エゼキエルの前に、ユダの長老たちが座っています(1節)。これは、エルサレムから長老たちがやって来たということではありません。彼らは、エゼキエルと一緒に捕囚となった長老たちです。彼らは、エルサレムの都とそこに建てられた神殿が、今どうなっているのかということを、エゼキエルに尋ねるためにやって来たのでしょう。

 長老たちにとって、エルサレムの都は彼らが帰るべき故郷であり、神殿は神がそこにおられるというしるしです。ゼデキヤ王の御世、エルサレムの都が安泰であるならば、捕囚の民は、イスラエルに帰る希望を持つことが出来ます。もし、都が破壊され、国が滅びてしまえば、彼らは戻る家を失うことになるわけです。

 長老たちの求めに応じ、エゼキエルが神に託宣を求めたのでしょう。そのときエゼキエルに神の御手が下り、エルサレム神殿の幻を見せられます(1,3節)。「そこには、激怒を起こさせる像が収められて」いました(3節)。

 「激怒を起こさせる像」とは、「ねたみを引き起こすねたみの偶像」(口語訳)という意味の、主に妬みを起こさせる異教の偶像のことです。それはアシェラの像であろうという学者がいます。岩波訳の脚注には、「シリアなどの神殿や宮殿の入り口から出土する神像や精霊像を思わせる」と記されています。

 また、「北に面する内側の門」(3節)とは、王宮につながる門のことです。そこに偶像の祭壇が置かれているということは(5節参照)、この偶像をそこに設置したのは、イスラエルの王自身であるということを示しているのでしょう。

 次に見せられたのは、主の神殿で行われている偶像礼拝です(7節以下)。壁一面に偶像が掘り込まれています(10節)。そこにイスラエルの長老が70人います(11節)。70は、完全数の7と10を掛け合わせた数であり、また、出エジプトの際に、民の指導者として集めた長老の数です(民数記11章16節)。

 中心に、「シャファンの子ヤアザンヤ」が立っています(11節)。シャファンは、ヨシヤ王の書記官で(列王記下22章3節以下)、彼はヨシヤ王の右腕として神の律法に基づく宗教改革を推進しました。ところが、その子ヤアザンヤは、偶像礼拝の中心人物になっています。この強いコントラストによって、エルサレムがいかに堕落しているかということを際立たせています。

 また、神殿の北に面した門の入り口では、「女たちがタンムズ神のために泣きながら座って」います(14節)。タンムズ神はバビロンの神です。また、聖所の入り口で、太陽を拝んでいる25人ほどの人がいます(16節)。それは、祭司たちのことでしょう。彼らは「主の聖所を背にし、顔を東に向けていた」(16節)と記されています。

 かくて、王や長老、女たち、そして祭司たちまでもが、まことの神に背いて異教の神々を拝んでいます。それも、エルサレムの神殿で、偶像礼拝が行われているというのです。

 冒頭の言葉(6節)のとおり、神はエゼキエルに、「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか」と言われました。

 岩波訳は、「イスラエルの家がここで行っていることは大それた忌まわしい行為であって、わが聖所からかけ離れたことだ」と記しています。また新改訳は、「イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか」と訳しています。

 主なる神以外に神なるものはありません。イスラエルの民が異教の神々を拝むのは、まことの神を遠ざけ、あるいは、神の聖所から遠ざかる行為です。神を遠ざけ、主の聖所から遠ざかったということは、神の恵みと保護を受けることが出来ない、否、受けなくても良いといっていることになります。ゆえに、エルサレムは滅ぼされてしまうわけです。

 これは、昔話ではありません。私たちの礼拝の姿勢、その心が問われているのです。私たちが霊と真理によって礼拝をささげるとき(ヨハネ福音書4章23,24節)、主なる神は私たちと共にいてくださり、守りと導きをお与えくださるのです。

 つまり、私たちに希望を与えるのは、聖地エルサレムの神殿や、そこで献げられる犠牲の供え物などではなく、まことの神ご自身です。私たちの助けは、天と地を造られた主なる神のもとから来るのです(詩編121編)。

 神は私たちのために、御子キリストをこの世にお遣わしになりました。救いの恵みに与ったものとして、絶えず主イエスを仰ぎ、御言葉を豊かに心に宿らせましょう。そして、主に向かって心から賞め歌いましょう。

 主よ、どうか私たちを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださいますように。すべての災いを遠ざけて、私たちを見守り、私たちの魂を守ってくださいますように。私たちの出で立つのも帰るのも、見守ってくださいますように。あなたなしに、しっかり立ち、正しく歩むことは出来ないからです。恵みの御手の下に留まり、主と共に歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン





6月27日(月) エゼキエル書7章

「わたしは彼らから顔をそむける。彼らはわたしの宝を汚し、乱暴な者が襲いかかって汚す。」 エゼキエル書7章22節

 7章には、「終わりが来る」(2,3,6節)、「怒りを送る」(3,8,12,14節)、「災いが来る」(5,26節)、「時は来た」(7,12節)、「その日が来る」(7,10,12節)などという、神の裁きの言葉、イスラエルの終末が今にも到来することを示す言葉が、繰り返し語られています。

 冒頭の言葉(22節)の中に、「宝」(ツァーファン)という言葉があります。これは、「隠す、蓄える、保護する」などという意味の言葉です。口語訳や新改訳は、これを「聖所」と訳しています。24節に、「彼らの聖所は汚される」という言葉があり、「汚す」という言葉との関連で、「ツァーファン」がエルサレムの聖所(ミクダシュ)、神殿のことを指していると考えての翻訳でしょう。

 一方、岩波訳も「ツァーファン」を「宝物」と訳し、それに「イスラエルの民のこと」という注釈をつけています。出エジプト記19章5節に、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」とあり、神がイスラエルの民を「わたしの宝」と呼んでおられます(申命記7章6節、14章2節、詩編135編4節参照)。

 紀元前597年にバビロンに連れて来られた捕囚の民にとって、神がエルサレムの都におられ、バビロンの縄目から解放してくれる王をダビデの子孫から立ててくれるということが、最後の望みでした。

 しかしながら、神は、「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に、町にいる者は飢えと疫病が滅ぼす」(15節)と言われます。すなわち、剣や疫病、飢饉によって、彼らが一縷の望みとしていた神の都エルサレムの民、そして神殿が滅ぼされるというわけです。これは、エレミヤ書15章2節にも預言されていたことです。

 イスラエルの民は、諸外国の圧力や、飢饉、疫病といった災害が起こると、自分の力で何とか解決しようとしますが、なんともなりません。かつては、苦しみの中から呼ばわると、神が助けてくださいました(列王記下19章14節以下、詩編34編7節、50編15節など)。けれども、今は、神ご自身が敵となられ、彼らは神によって苦しめられているのです(エレミヤ書21章5節、哀歌2章4,5節)。

 彼らは、このような事態を何とかしてもらおうと、憎むべき忌まわしい偶像を造り(20節)、礼拝をささげます。イスラエルの民がまことの神に背き、神のもとを離れて異郷の神々を慕う偶像礼拝を行っていることが、この苦しみの原因であるのに、その原因に目を向けようとせず、対処療法的に、「溺れる者は藁をもつかむ」と言われるとおり、手当たり次第、あらゆるものに手を伸ばしているのです。

 けれども、それでは何の解決にもなりません。むしろ、問題をますます深刻にするだけです。民の罪により、ご自身の「宝」を汚された主なる神は、彼らの家を奪い取らせ、力ある者の誇りを挫き、そうして、彼らの聖所を汚すと言われています(24節)。

 これは、イスラエルの民によって汚されたエルサレムの都を、荒れるにまかされるということでしょう。けれどもそれは、滅ぼし尽くすことを目的としているのではありません。むしろ、彼らの背きの原因を取り除き、彼らが真に目覚めて主なる神のもとに立ち帰ることを期待しておられるのではないでしょうか(6章8節)。

 主の祈りのはじめに、「御名が崇められますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「あなたの名前が聖とされますように」となります。「聖とされるように」と祈るということは、御名が汚されているということです。誰が汚したのかと言えば、それは、この祈りを祈る私自身です。

 御名が汚されたとは、神が冒涜されたということです。ですから、御名を聖とするということは、御名を汚した者を裁くということになります。そこで、私が冒涜の罪を犯して主の御名を汚しましたので、私を裁いて御名を聖別してくださいと祈るのです。

 このように主の御前に跪き、悔い改めの祈りをささげるとき、主は親しく聞いて、「子よ、安かれ、汝の罪、赦されたり」と仰せくださるのではないでしょうか。そして、その赦しのために、神の御子が私の身代わりに裁かれ、死なれたのです。

 高ぶりを捨て、主の御前に謙りましょう。御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従いましょう。 
 
 主よ、私たちを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前から私たちを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私たちに味わわせ、自由の霊によって支えてください。主にある喜びと平和が、常に豊かにありますように。 アーメン





6月26日(日) エゼキエル書6章

「そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」 エゼキエル書6章10節

 主の言葉がエゼキエルに臨み(1節)、「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して、言え」(2,3節)と命じ、イスラエルの山と丘、川と谷に築かれていた聖なる高台、祭壇、香炉台、偶像など、異教の礼拝が営まれていたところを荒らして廃墟とされ(3~6節)、異教の神を拝んでいた人々を剣と飢饉と疫病で死に至らせると告げられます(7節以下、11節、5章12節、7章15節も参照)。

 偶像とは、人が彫刻し、あるいは鋳造した神の像のことです。しかし、まことの神は、人が神の像を造ることを厭われます(出エジプト記20章3~7節、34章17節、レビ記26章1節など)。それは、創造主なる神と被造物なる人間の立場を逆転させ、神を自分の思い通りにしようとすることだからです。

 まことの神を離れて異教の神を礼拝することを、姦淫と呼ばれます(9節、出エジプト記34章15節、申命記31章16節など)。神は、イスラエルの民に愛されること、礼拝されることを求めておられるのであり(出エジプト記23章25節、申命記6章4,5節など)、その御心は、イスラエルの民が神に信頼し、御言葉に従って歩み、恵みを得、平安で豊かな生活を送ることにあるのです。

 剣と飢饉と疫病によって多くの民が死に至る中で、諸国に散らされる人々がいます(8節)。そのとき、「剣を逃れたものを諸国民の間に残しておく」(8節)と言われます。

 エレミヤ書52章30節には、バビロンに捕囚として連れ去られた人の総数が4600人と記されています。列王記下24章14節には、「すべての高官とすべての勇士1万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去った」と記されており、数字が合いませんが、いずれにせよ、剣や飢饉、疫病で命を落とした者たちのほうが圧倒的に多く、残された者は一握りということになります。

 かつて、出エジプトの民は、兵役に就くことの出来る男性だけで、60万人余いました(民数記1章46節、26章51節)。さらに、ダビデのときには、イスラエルに80万、ユダに50万、合わせて130万の戦士がいたのです(サムエル記下24章9節)。

 その一握りの者たちが、捕囚として連れ去られた地で、まことの神を思い起こします(9節)。そして、冒頭の言葉(10節)によれば、何故自分たちが亡国の憂き目に遭い、捕囚とされたのか、理由を悟るようになるということです。

 6章の中に、「わたしが主であることを知るようになる」という言葉が4度出て来ます(7,10,13,14節)。神は、イスラエルの民がこのまことの知識に到達することを願っておられ、そのために神の民の生き残る道を造られたとも言えそうです。

 それはしかし、苦難を伴う道でした。国を失い、多くの同胞を失い、異国で異教の民に奴隷として仕えなければならなかったのです。あるいは、死んでしまったほうがよかったとも思えるような苦しみを味わい、屈辱的な経験をしたことでしょう。

 しかるに神は、深い愛のゆえに、民を滅ぼし尽くそうとはなさらず、救いの道を備えられます。それは、イスラエルの民が捕囚として連れ去られたバビロンの地で、神を離れ去る姦淫の心、偶像に惹かれる姦淫の目を打ち砕かれるということです。

 そのことを通して、イスラエルが亡国と捕囚という苦しみを味わわなければならなくなったのは、この偶像礼拝の罪の故であったと知るようになるのです(10節)。そうして、イスラエルの民が主なる神に立ち帰り、霊とまことによる礼拝が始まるならば、彼らの苦しみは、いわば産みの苦しみということになり、その苦しみはやがて、大きな喜びに変えられます(ヨハネ福音書16章21節)。

 前章でも学んだように、イスラエルの民の味わった苦しみは、彼らを愛してやまなかった主なる神ご自身の苦しみでもあります。即ち、愛する者に背かれる苦しみであり、そして、愛する者をその罪のゆえに罰しなければならない苦しみです。

 そして、主なる神は、独り子の主イエスに全人類の罪を背負わせ、十字架につけてしまわれました。その死により、私たちは贖われ、命に与ったのです。

 主を知るとは、主なる神についての知識を得ることではなく、まさに主がお与えくださった永遠の命に与ること、その恵みを味わうことなのです(同17章2,3節)。

 絶えず主を仰ぎましょう。御言葉に聴き従いましょう。 

 主よ、あなたから離れる姦淫の心、異教の偶像に惹かれる姦淫の目を打ち砕いてください。絶えず主に目を注ぎ、心から主を礼拝させてください。御霊の導きにより、新しい歌をもって主をほめたたえさせてください。御子キリストが私たちを罪から贖い出し、神の子とする信仰の道を開いてくださったからです。いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン





6月25日(土) エゼキエル書5章

「人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげを剃り、その毛を秤にかけて分けなさい。」 エゼキエル書5章1節

 4章に続いて、神によるイスラエルの民の裁きが語られます。それは、民の三分の一が疫病、三分の一は剣で殺され、残りは諸国に離散させられるというものです(12節、エレミヤ書15章2節など)。捕囚を免れた者たちは、皆、大変過酷な運命を味わわされたのです。

 13節で神は、「わたしは彼らに向かって怒れるだけ怒り、憤りに身をまかせて、恨みを晴らす」と言われています。それは、エルサレムの民が神に背き、その裁きを拒んで主に聴き従おうとしなかったからです(6節)。「お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所を汚した」(11節)と言われるとおりです。

 そこで、親がわが子を食べ、子がその親を食べるという忌まわしいことが起こり(10節)、あらゆる裁きをもってイスラエルを神の民からそり落とし、憐れみの目をかけず、同情もしないとさえ告げられています(11節)。

 それをイスラエルの民に告げるのに、エゼキエルに奇妙なことをさせます。それは、冒頭の言葉(1節)のとおり、髪の毛とひげをそり落とすことでした。そして、その毛を秤にかけて三分の一づつに分け、一つは都の中で火で燃やし、一つは剣で打ち、残りは風に乗せて散らさせます(2節)。エゼキエルの髪の毛とひげが、イスラエルの民に降りかかる運命を象徴していたわけです。

 しかし、髪の毛とひげをそることは、ユダヤ人にとっては屈辱的なことでした。特に、祭司の家に生まれたエゼキエルにとって、それは律法で禁じられている、身を汚すことだったのです(レビ記21章5節)。5節に、「これはエルサレムのことである」と告げられています。神の選びの民イスラエル、その都エルサレムが、神の御前に惨めな恥ずべき姿になっていることを、剃毛によって示したわけです。

 また、イスラエルには死者を悼み、嘆きを表すために、剃髪する習慣がありました。ですから、イスラエルの民が神に裁かれることを悼み、嘆くように主が命じられているとも考えられます。これは、二者択一というより、様々な意味がそこに込められているということだろうと思います。

 もしかすると、エゼキエルに剃髪の恥を負わせ、おのが民の裁きを示すように命じられた神ご自身が、民の死を悼み、苦しんでおられることも、そこに表わされているのかも知れません。イスラエルはご自分が憐れみによって選び分け、愛を注いで守り導いて来た民ですから、それを裁いて滅ぼしてしまうことを何とも思わないという神ではありません。

 神に聴き従わない背きの罪、神ならぬ者を神として拝み、頼りにならないものに依り頼もうとするのは、自ら滅びを招く愚かなことです。危機に際し、「溺れる者は藁をもつかむ」ものですが、しかし、藁では何の役にも立ちません。

 神は、民を裁きたくて裁くのではなく、裁かざるを得なくてそうしている、つまり、民を愛すればこその裁きであり、それゆえに、愛すればこそ苦しむのです。それは、イスラエルの民を裁き滅ぼしてしまうためではなく、悔い改めて真に信頼に足るお方のもとに立ち帰らせるためです。

 放蕩息子は、生前贈与された父親の財産を好き勝手に使い果たして身を持ち崩し(ルカ15章31節以下)、飢えを凌ぐため豚飼いとなり、の餌で腹を満たしたいと思うほどになります。そこで我に返り、父親の元に戻る決心をしました。父親が財産の生前贈与を認めたのは、それこそ裁きでしょう。

 父親の庇護を離れるとどうなるか、息子は身をもって味わったのです。そして、父親は息子の帰りを、自分のはらわたが痛むような思いで待ち続けていました。息子の苦しみは父親の痛みでもあったのです。ゆえに、帰って来た息子を喜び迎え、持てるすべてのものを彼に与えます。

 この例え話が示しているのは、主イエスの十字架です。神は、放蕩息子のごとき私たちを愛して、その罪を赦し、神の子として受け入れてくださいました。そして、その罪の呪いを独り子のキリストに負わせられたのです。主イエスの十字架の苦しみは、神ご自身の苦しみです。そしてそれは、罪人の私を愛するがゆえの苦しみなのです。

 エフェソ書5章8節に、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」とあります。それをリビングバイブルは、「あなたがたの心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい」と意訳しています。主の愛を受けた者としてそのことを態度で示し、周囲の人々に主の愛を証ししましょう。

 主よ、十字架の主を仰ぎます。キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストの死は、神が私たちを愛してくださったからこそであり、神の愛に生きる者になるようにと、強く促されます。今日も、あなたの御言葉に耳を傾けます。御心をわきまえさせてください。御言葉を行う者とならせてください。主の愛の証人となることが出来ますように。 アーメン





6月24日(金) エゼキエル書4章

「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。」 エゼキエル書4章4節

 ケバル川の畔にいるエゼキエルに神の言葉が臨みました。それは、煉瓦を一つ取り、そこにエルサレムを刻むこと(1節)、その周りに堡塁を築き、陣営を敷くこと(2節)、即ち、エルサレムの都が包囲されるというしるしでした(3節)。それは、紀元前587年に起こった2回目のエルサレム包囲のことでしょう。

 エゼキエルは鉄板を用意して、自分とエルサレムの都を刻んだレンガとの間に置き、鉄の壁の外から都に顔を向けます。これは、エゼキエルが神ご自身を表わし、鉄の壁は、エルサレムの都が神の臨在と栄光から切り離されてしまったことを表わしています。そして、鉄の壁と顔を都に向けるという視線によって、神が都を怒りによって裁こうとしていることを示しているわけです。

 続いて神は、冒頭の言葉(4節)のとおり、「イスラエルの家の罪を負わねばならない」と言われ、左脇を下にして390日(5節)、右脇を下にして40日(6節)、横たわるようにと言われます。

 イスラエルの家の罪のために390日、ユダの家の罪のために40日と言われていますが、なぜそのような日数になるのかよく分かりません。ギリシア語訳旧約聖書(70人訳)は、390日を190日としています。イスラエルの家の罪ということで、ソロモンの死後、ヤロブアムの即位からアッシリアに滅ぼされるまでの年数を数えたということでしょうか。しかし、ユダの40日は意味不明です。

 390日は、ソロモンによるエルサレムの神殿奉献(紀元前960年頃)からバビロンによる神殿破壊(紀元前587年)までの年数を表わしているものでしょう。

 そして、390日と40日を加えた430日は、イスラエルの民がかつてエジプトの奴隷として苦しみを受けた年数であり(出エジプト記12章40節)、それとの関連で、40日は、イスラエルの民が荒れ野を彷徨った年数にもあたります(民数記14章34節)。

 イスラエルの家の罪を背負って430日も横たわるということは、かつてイスラエルの民がエジプトで430年の奴隷生活を送ったように、今イスラエルの民は、バビロンで奴隷生活を送らねばならないこと、そしてそれは、イスラエルの家の罪の故であるということが、このようなかたちで明確に示されているわけです。

 ただ、390日の間、縄がかけられて、「寝返りを打つことができなくなる」と言われているので(8節)、これはどんなに大変なことでしょう。全く身動き出来ないように縛り上げられたならば、それは、想像を超えた苦しみを味わわねばならないでしょう。実際、その姿勢のまま1年以上も過ごすのは、不可能なのではないでしょうか。

 さらに、一日20シェケル(約230グラム)の食糧と(10節)、水六分の一ヒン(約0.64リットル)で(11節)、一年余を健康的に過ごすことも不可能なことでしょう。

 特に、パンを人糞で焼けと命じられたときには(12節)、「わたしは我が身を汚したことがありません」(13節)と、その命令に従うことについての拒否感を口にします。祭司の家に育った者として、『仰せの通りにいたします』ということが出来なかったのです。 それに対して、「牛糞を用いることをわたしは許す」(15節)と主は言われました。それが当時の燃料だったのです。

 あらためて、エゼキエルが身を横たえていたのは、昼間など一定の時間だけ、また、そのような少量の食事は、人々の前に姿を現している際の公務上のもので、それとは別に私的な食事を摂っていただろうと思われます。とはいえ、それでも大きな苦痛を伴うものだったことは明らかです。

 左脇を下にして390日、右脇を下にして40日という期間、来る日も来る日も同じ姿勢を続け、そうしている間は少量の食糧で過ごすエゼキエルは、身をもってイスラエルとユダの家の罪の重さを体験させられたわけですし、それを見た人々は、自分たちが神に犯した罪の大きさ、そして神の裁きの厳しさを思い知らされることになったのではないでしょうか。

 ただ、イスラエルの民は430年の奴隷生活の後、エジプトの軛から解放され、約束の地に入ることが出来ました。ということは、ここに言われる390日と40日、合わせて430日が経過した後には、第二の出エジプトを経験するということでしょう。

 主は既にエレミヤによって、「バビロンに70年のときが満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレミヤ書29章10節)と語っておられました。

 「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負わねばならない」(4節)、「彼らの罪の年数を、日の数にして、390日と定める」(5節)と言われて、エゼキエルはそれに従順に聞き従うことが求められています。それは、イスラエルが神の御言葉に聞き従えば、バビロンの奴隷生活から解放されることになるという神のメッセージなのです。

 その意味では、従順を学び、解放の恵みに与るための産みの苦しみの期間を、主に信頼し、主に期待して待ち望めということにもなるでしょう。神は、闇に光を灯し、憂いを笑いに変えられるお方です。罪が赦され、すべてが一新されるときが来るのです。憐れみの主を仰ぎましょう。

 主よ、闇が地を覆い、先が全く見えない状況では、私たちは倦み疲れ、躓き倒れてしまいます。けれども、あなたは、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられるお方です。私たちはあなたに望みを置きます。鷲のように翼を張って上ることができるよう、新しい力に与らせてください。聖霊の風に乗せて舞い上がらせてください。御名が崇められますように。 アーメン






6月23日(木) エゼキエル書3章

「主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。」 エゼキエル書3章27節

 神はエゼキエルに、「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」と言って(1節)、巻物を食べさせます。その巻物には、「表にも裏にも文字が記されて」いました(2章10節)。通常、開いた面の裏側に文字が記されていることはありません。両面に記されているということは、エゼキエルに与えられた、民に告げるべき預言の言葉、民に伝えたい神の御言葉が、非常に多いということでしょう。

 また、巻物は食べられるものとも思われませんが、エゼキエルは、主が命じられたとおりに口を開いて、それを食べました。それは、捕囚のイスラエルの民は、神に反逆し(2章3節)、恥知らずで強情といわれますが(同4節)、エゼキエルは神に従う者であるということを示すためのパフォーマンスでしょう。

 エゼキエルが食べると、「それは蜜のように口に甘かった」(3節)と言われます。巻物に記されていたのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(2章10節)でした。神に従うのは、苦労を避けて通れるということを意味しません。けれども、苦いと思われる神の言葉を記した巻物が、口に甘かったということは、神に従う者に与えられる神の恵みがあるということでしょう。

 申命記8章3節に、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と言われます。

 私たちが生きるために、食べ物が必要です。マナを初め、必要なものはすべて、主の口から出るすべての言葉によって民に与えられたのです。主なる神はここでエゼキエルに御言葉を記した巻物を食べさせ、主の預言者としての必要な力を得させたということでしょう。

 エゼキエルは、神に遣わされてテル・アビブに住む捕囚の民のもとに行きます(15節)。「テル・アビブ」とは、「洪水の丘」という意味のアッカド語のヘブライ語音写です。それは、洪水の跡を残す荒れ地だったのではないでしょうか。そのような場所が捕囚民に居住地として提供されたわけです。

 エゼキエルはそこで、七日間を呆然として過ごします(15節)。これは、ヨブの友人が彼の災難を聞いて慰めに来て、あまりの苦しみの激しさに七日間、話しかけることも出来なかったという記事を思い出させます(ヨブ記2章11節以下)。

 御言葉を受け、聖霊の力で引き上げられた(12節)エゼキエルの目に、同胞が何の希望もなく、奴隷として使役されている様子が映ります。彼らに何を語ったらよいのか、何をしたらよいのかという思いになったのかも知れません。それは特に、彼らは神に反逆して頑なになっているので、エゼキエルの言葉を聞こうとはしないと神ご自身が仰っているからです(3章7節)。

 14節で、エゼキエルが、「苦々しく、怒りの燃える心をもって出て行った」というのは、捕囚の苦しみを味わっている同胞が、神に心閉ざし、頑なになって御言葉を聞こうとしないということについて、捕囚の苦しみの中にいる同胞への同情と、しかし、彼らに厳しい裁きの言葉を告げなければならない責任など、様々な思いに板挟みになっている様子が窺えます。

 エゼキエルが神に聴き、神に従うのは、彼が特別に従順だったからでしょうか。真剣に神を求める者だったからでしょうか。はっきりとは言い切れませんが、彼も五十歩百歩、特別に他のイスラエル人と特別に違うという存在ではなかったのではないかと思います。

 ただ、特別な神の憐れみによって神の幻を見、聖霊の力を受けました。それによって、苦しみの中から、また、希望を持てず無気力になってうずくまっていたところから、立ち上がることが出来たのです。もしも、エゼキエルと他のイスラエル人とを分けるとすれば、差し出された神の御手、そこにある神の憐れみを、彼は確かに受け取ったという点です。 

 七日の後、主の言葉がエゼキエルに臨み(16節)、「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない」と告げられます(17節)。彼は、イスラエルの民に危機が臨むのを警告する責任を、主から与えられました。

 民に臨む危機とは、主が民を裁き、罰を与えるということです(18節)。そのためにエゼキエルが見張りとされ、民に警告を与える務めが与えられたということは、神は民を裁きたいのではなく、悔い改めに導きたい、裁きたいのではなく、むしろ救いを与えたいと思っておられるということです。つまり、エゼキエルを預言者として立てられたのは、神の深い愛によるということです。

 エゼキエルは主から、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心に納め、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」(10節)と命じられていましたが、あらためて、「わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない」(17節)と告げられます。

 イスラエルの背きの罪とは、神の語られる御言葉を聞こうとしないで、神ではないものの声に耳を傾けていたということでしょう。だから、エゼキエルに対して、繰り返し主の言葉を聞くようにと命じられ、従うことを求められるわけです。

 主なる神が冒頭の言葉(27節)で、「聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい」と言われました。神の御心は、私たちが神の御言葉を聞き入れて、その導きと恵みに与ることであるのは、明白です。

 神は、エゼキエルの舌を上顎につかせ、物が言えないようにし(26節)、また、口を開いて神の御言葉を告げ知らせられます(27節)。エゼキエル自身がまず、どんな時にも神に従って歩み、預言者として神が語らせるまま、ただそれだけを語るように、徹底的に訓練され、整えられているのです。

 主はそのようなエゼキエルの徹底的に神に仕え、徹底的に主に従う生き方、歩む姿を通して、イスラエルの民に御自身の御心を明らかにしようとしておられるのです。

 共に神の御言葉に心から耳を傾け、共に御旨に従って歩ませていただきたいと願います。

 主よ、どうぞ私たちの耳を開いてください。主の御声を聞くことが出来ますように。困難の中でも、素直に従う信仰を与えてください。御心を行う者となることが出来ますように。キリストにある恵みと平和が、日本全土に拡げられますように。ここを神の御国としてください。 アーメン





6月22日(水) エゼキエル書2章

「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」 エゼキエル書2章6節

 神の顕現に接して御前にひれ伏しているエゼキエルに、神が語りかけられました。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(1節)。ここで、エゼキエルは「人の子」(ベン・アーダーム)と呼ばれています。この表現は、人、人間一般を指して用いられます。しかし、エゼキエル書においては、エゼキエルの呼び名として用いられていて、神の御前にある人の小ささ、弱さを示すものであろうと考えられます。

 「自分の足で立て」と命じられますが、霊がエゼキエルの中に入って立たせたと報告されます(2節)。それは、実際に立ち上がったというよりも、神のために働く預言者として召されたということを表しているのです。立候補すれば預言者になれるわけではありません。人が推薦したり、選挙したりしてなるものでもありません。神ご自身が預言者として選ばれ、神の霊によって立てられるのです。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)というのは、そのことを言っているわけです。

 神はエゼキエルに、「わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」(3節)、「恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす」(4節)と言われます。遣わされるのは、「主なる神はこう言われる」(4節)と告げさせるためです。

 「主なる神はこう言われる」というその内容は、まだ明らかにされてはいません。まったくの白紙といってよいでしょう。何を語らなければならないのか、今はまだ分かりません。預言者が口を開くのは、自分が語りたいかどうかではありません。神の言葉に同意したから、それに得心がいったからというのでもありません。まさに、神の語られた言葉を、ただそのまま告げ知らせるだけなのです。

 そして、この務めは、決して楽なものではありません。なぜなら、エゼキエルが神の言葉を告げ知らせる相手は、「わたし(主なる神)に逆らった反逆の民」(3節)であり、「恥知らずで、強情な人々」(4節)なのです。ゆえに主は、冒頭の言葉(6節)のとおり、「あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」と言われます。

 これは、恥知らずの民を恐れることなどない、強情な人々など恐れるに足りないということではありません。あざみと茨に押しつけられるのです。蠍の上に座らされるのです。即ち、酷いことをされるということでしょう。痛い目に遭わされるということでしょう。誰が怖がらないでいられましょうか。誰が進んでそんなところに行きたいと思うでしょうか。

 「主がこう言われる」と、語るよう命じられる御言葉をそのまま告げ知らせるとき、エゼキエルにはそのような苦痛や危険が待ち受けているというわけです。恐れに満たされることでしょう。逃げ出したい思いに駆られることでしょう。

 しかしながら、エゼキエルには、この使命を拒むことは許されていません。「あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(8節)と言われるのです。彼には、主の御言葉に従うほか、進むべき道はありません。たとえ口に苦くても、それを呑み込むしかないのです。ここに、預言者として務めを果たす厳しさを思います。

 「口を開いて食べなさい」と言われて差し出されたのは、巻物でした(9節)。その巻物を開くと、表にも裏にも文字が記されており、「それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(10節)でした。巻物といえば、エレミヤがバルクに書き記させた預言のことを思い出します(エレミヤ書36章2節以下)。

 エレミヤはその巻物を、神殿で人々に読んで聞かせるようにさせました(同5節以下、8節)。それを聞いた役人たちがヨヤキム王に読み聞かせました(同20節以下)。ヨヤキム王は、その巻物をすべて暖炉で燃やしてしまいました(同23節)。

 エレミヤが巻物に書かせた言葉は「哀歌」などではなかったと思いますが、ヨヤキムはそれを悲しい思いで聞いたのではないでしょうか。それは、イスラエルの背きの罪を糾弾し、バビロンがイスラエルを滅ぼすと告げるものだったからです(同29節)。 

 エゼキエルに与えられた巻物も、そこに書かれている言葉が嘆きの言葉、悲しみの言葉というよりjも、それを語り聞かせられた人々に嘆きや悲しみを与えるということでしょう。しかし、それが神への悔い改めにつながるというのではなく、かえって彼らをいよいよ頑なにして、エゼキエルにアザミと茨を押しつけ、サソリの上に座るようにさせるというのです。

 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ福音書8章20節)と言われ、また、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられます。

 私たちは、主イエスの深い愛によって救われました。使徒パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。

 「私ならば出来ます」という勇気も力もありませんが、主がせよと言われるのでしたら、「お言葉ですから、やってみましょう」と、従わせて頂きたいと思います(ルカ福音書5章5節参照)。知恵も力もないことは、主なる神のほうが先刻承知なのですから。

 主が「せよ」と言われるということは、そう命じられる主ご自身の権威、権能、権勢をもってそれを成し遂げてくださるということだと信じます。そのために、霊が私たちの中に入り、自分の足で立てるようにしてくださると信じます。信仰をもって主の御言葉を聴きましょう。

 主よ、信じます。信仰のない弱いわたしをお助けください。聖霊の満たしと導きに与り、力を頂いて主の証人としての使命を全うすることが出来ますように。聖霊によって語るべき言葉を示してください。なすべき務めに遣わしてください。願わくは、御名が崇められますように。御国が来ますように。キリストの平和と喜びが、日本全土にありますように。 アーメン




6月21日(火) エゼキエル書1章

「第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。」 エゼキエル書1章1節

 今日から、エゼキエル書を読み始めます。本書の著者エゼキエルについては、ここに記されている以外のことは、全く不明です。3節に、「祭司ブジの子エゼキエル」とあり、ユダヤの祭司職は世襲なので、エゼキエルも、幼いときから祭司となるための教育を受けて来たものと思われます。

 冒頭の言葉(1節)のはじめに、「第30年」とあるのは、恐らくエゼキエルの年齢を指しているものと考えられます。これは、祭司の家系に属する者が祭司に就任する年齢でした(民数記4章3節)。

 けれども、エゼキエルは現在、エルサレムの神殿にはいません。ケバル川の河畔に住み、バビロンの奴隷として働かされていました。ですから、もしかするとエゼキエルは、エルサレムに帰って、祭司として働きたいという夢も希望も、完全に失っていたかも知れません。ところが、そのケバル川河畔にいたエゼキエルに、神がご自身を顕されたのです。

 「それは、ヨヤキン王が捕囚となって第5年の、その月の5日のことであった」(2節)というのですから、紀元前593年の夏の頃ということになります。ということは、エゼキエルが25歳の時、エルサレムがバビロン軍に攻撃されて降伏し、エゼキエルは、ヨヤキン王らと共に囚われの身となり、バビロンに連れて来られたわけです。

 かつて、神はイスラエルを選ばれ、エルサレムに都を置かれました。そこに、ダビデの子ソロモンが、主なる神に礼拝をささげるための壮麗な神殿を建てました。けれども神は、一つの国、ひとつの町、一つの場所にだけ限定して御自身を顕わされるというのではなく、いつでも、どこにでもおいでになり、顕現されることがお出来になるのです。

 4節以下にその様子が記されています。彼の見た光景があまりにも荘厳で神々しく、とうてい言葉で表現し得ないようなことを、何とかその様子の一端だけでも言い表そうと努力した結果、非常に難解な文章になってしまっているのだと思います。しかし、伝えようとしていることは分かります。

 「四つの生き物」(5節)、あるいは、「四つの顔を持つ生き物」(15節)の傍らに、ひとつの車輪が見えました。「四つの顔を持つ生き物」は、ケルビムを象徴しているのだと思います。そして、車輪とは、契約の箱を象徴しているようです。

 かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放されたとき、神はイスラエルの内にあって共に旅するために、神の幕屋と共に契約の箱を作らせ、蓋を贖いの座としてその上にケルビムを置き、そこをご自分の臨在を表す場所、玉座と定められました(出エジプト記25章8節以下)。

 「生き物の霊が、車輪の中にあった」(21節)というのは、契約の箱の中に、契約のしるしとして十戒を記した石の板が入れられていたことに対応していると考えられます。

 このような光景が、今バビロンの捕囚とされているエゼキエルの眼前に鮮やかに表されたということは、このケバル川のほとりが神のいます場所、神に礼拝をささげるべき場所として選ばれたということを示していることになります。これは夢でしょうか、幻でしょうか。到底、現実のこととは思われません。しかし、エゼキエルにとって、これは大きな希望となりました。

 かつて、イザヤが神殿にいて、主なる神が高く天にある御座に座しておられるのを見ました(イザヤ書6章1節)。その時、主の衣の裾が神殿いっぱいに広がっていました。御座の上にはセラフィムがいて(同2節)、主を讃えていました(同3節)。エルサレムの神の宮と天の御座がつながっていたのです。 

 バビロンは、神のおられない、神に呪われた場所などではありません。また、一生の間、奴隷として、したくない仕事をしていなければならないということでもありません。エゼキエルのいるケバル川のほとりと天の御座がつなげられました。主なる神は今その捕囚の民の上におられ、エゼキエルを神の祭司として、神と人の間に立ち、神の言葉を語り、人々を執り成す務めに立てようとしておられるのです。

 捕囚としてバビロンに連れられて来て5年、30歳となった今、そのときが来ました。かつて、ヤコブがルズの地で天に届く梯子を幻で見、そこを「ベテル(=神の家)」と呼んだように(創世記28章10節以下参照)、今、神がケバル川のほとりを神の聖所とされ、その祭司として神に召されたことを、エゼキエルは知ったのです。

 私たちも信仰の目を開いて絶えず主の十字架を仰ぎ、耳を開いて主の御言葉を聞かせていただきたいと願います。今のような時代だからこそ、主の御声が聴かれなければなりません。聴いたところに従って、主の御業が進められる必要があります。

 日毎に主の御前に進み、主の御言葉に耳を傾けましょう。自分に語りかけられる主の御声を聴きましょう。そして、その身備置気にしたがった歩みましょう。 

 主よ、どうぞ御業のために、私たちを整え、用いてください。私たちに聞くべき御言葉を聞かせ、語るべき御言葉をお与えください。また、御言葉に従って行動することが出来ますように。そうして、御心がこの地になりますように。御名が崇められますように。 アーメン




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