風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年05月

5月11日(水) エレミヤ書17章

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」 エレミヤ書17章7,8節

 17章の最初の段落(1~4節)では、バアルの祭壇やアシェラ像という異教の神々を祀るユダの人々の罪が指摘されています。その罪は、鉄のペン、ダイヤモンドのたがねで碑文に刻むように、民の心、意識に深く刻み込まれていて、容易に消し去ることが出来ません(1節)。それゆえ、富と宝を敵に奪われ(3節)、嗣業の地を失い、敵の奴隷とされる(4節)と、その罰が記されていました。

 次の段落(5~8節)は、新共同訳聖書では「主に信頼する人」という小見出しのつけられています。ここでは、「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人は」と語られ(5節)、一方、「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」と言われます(7節)。

 イザヤも、「人間に頼るのをやめよ」(イザヤ書2章22節)、「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」(同31章3節)と語っていました。それは、主に信頼せず、他国の軍事力に頼ることで、国の危機に際して、主の保護を受けられなくなってしまうくことだったのです。

 エレミヤは、あるいは、ヨシヤ王の宗教改革のことを言っているのかも知れません。確かに、それは主を喜ばせるものだったでしょう。そのこともあって、国力を増大させることが出来ました。しかし、ヨシヤを信仰の対象にすることは出来ません。メギドで戦死したのは、「神の口から出たネコ(エジプトのファラオ)の言葉を聞かなかった」(歴代誌下35章22節)からで、その背後にヨシヤの高ぶりが窺えます。

 それが、「荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする」と言われています(6節)。それが、生ける水の源である神から離れ去り(12節、2章13節)、その保護を受けられなくなってしまった結果なのです。

 それに対して、主に信頼する人は、冒頭の言葉(7,8節)のとおり、主がその人のよりどころとなり、それゆえ、「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」という祝福に与ることが出来るのです。

 このことについて、詩編1編にも同様の対比があります。そこでは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(同2節)が幸いとされています。そして、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」(同3節)と詠われていて、与えられる祝福も酷似していることから、主を信頼するとは、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむことと読んでもよさそうです。

 このように、主を信頼する者とそうでない者との相違は歴然というところですが、事態はそんなに単純でないことは、エレミヤも知っています。12章2,3節で、「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます」と語っていました。

 ここに来て、エレミヤがこのように語るのは、主が15章19節で、「もし、あなたが軽率に言葉をはかず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」と語られたので、彼の信仰が目覚めたということを示しているのではないでしょうか。あるいは、主を信頼するという言葉を語ることで、もう一度、エレミヤ自身の信仰が奮い立たせられているといっても良いのかも知れません。

 使徒パウロが、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント書4章17,18節)と記しています。

 そのころパウロが見、また味わっていた艱難は、決して「一時の軽い」ものではなかったと思いますが(同11章23節以下)、パウロはしかし、それによって心萎えてしまうことはありませんでした。彼の目には、永遠の重い栄光が見えていたからです。

 それこそ、エレミヤが「水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と語っている祝福の姿ではないでしょうか。

 主を信頼して、その教えを絶えず口ずさみましょう。主に堅くつながり、豊かに実を結ぶ枝となるよう、手入れしていただきましょう。 

 主よ、私たちに信仰の恵みをお与えくださり、感謝致します。絶えず感謝と喜びをもって、御言葉を聴き、信仰の言葉を昼も夜も口ずさみます。私たちの耳を開いてください。御心を弁えることが出来ますように。キリストの言葉を豊かに宿らせてください。御名の栄光をあらわし、主にあって実を結ぶことが出来ますように。 アーメン




5月10日(火) エレミヤ書16章

「『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。」 エレミヤ書16章15節

 14節以下の段落には、「新しい出エジプト」という小見出しがつけられています。これは、前の段落で民が神の裁きにより、「わたしはお前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する」(13節)と言われていたことを受けて、バランスを取るかのような配置です。

 まず14節で、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』とは言わず」と言い、続けて冒頭の言葉(15節)のとおり、「『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる」と告げています。

 イスラエルの人々は、かつてはエジプトの奴隷でしたが、主の憐れみにより、モーセに率いられてエジプトを脱出し、40年間荒れ野を旅した後、約束の地に導き入れられ、自分たちの国を建設することが出来ました。そこでなされた主なる神の偉大な御業を記念するため、過越祭、七週祭、仮庵祭が定められました(レビ記23章)。十戒は、そのときに与えられました(出エジプト記20章)。

 ここで、人々が自分たちの主なる神を呼ぶのに、「エジプトから導き上られた主」というのではなく、、「北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主」というようになるというのです。「北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られる」とは、第二の出エジプトというべき出来事で、バビロンの捕囚の苦しみから解放されて、エルサレムに帰ることが出来るということです。

 15章2節に、「捕囚に定められた者は、捕囚に」とありました。疫病や剣、飢えに定められたとは、死を意味したことでしょう。しかし、捕囚に定められた者には、希望があります。「生きて虜囚の辱を受けず」とは東条英機陸相の戦陣訓の一節ですが、しかし、生きていればこそ、明日に希望を持ち、新たな恵みを味わうことが出来ます。

 イスラエルの民がバビロン捕囚の憂き目を見るのは、彼らの罪と悪のゆえであり(11,12節)、神は、「わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる」と言われます(18節)。現実には、第一次バビロン捕囚(列王記下24章14節以下)が紀元前597年、第二次バビロン捕囚(同25章6,11節)が前587年に起こり、ペルシアのキュロス王による解放が前538年のことですから、先の者は60年間、後の者たちは50年間、捕囚として過ごしました。

 「人生50年」と考えると、バビロンに捕囚として引いて行かれた第一世代がエルサレムに帰って来くるとは、なかなか考え難いことでしょう。帰国を果たせるのは、子あるいは孫ということになります。とき満ちて解放の恵みを味わうまで、民が神の言葉に耳を傾け、落ち着いて捕囚の地で家庭を築き、子をなし、孫を持つようにと、イスラエルの民に求めておられるわけです(29章4節以下参照)。

 19~20節に、「あなたのもとに、国々は地の果てから来て言うでしょう。『我々の先祖が自分のものとしたのは、偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか』」、とあります。バビロンから解放されるのは、イスラエルの民だけではなく、様々な国の人々がいます。彼らは、偶像の空しさを知り、天と地を造られたまことの神を求めてやってくるのです。

 エレミヤは、31章で「新しい契約」について語ります。この契約は、イエス・キリストの十字架の贖いによって実現しました。そして、主イエスを信じる者は誰にでも、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。今日、私たちもその恵みに与ったのです。まさに、「あなたのもとに、国々は地の果てから来て言う」という御言葉が、ここに成就しているのです。

 イスラエルの不従順の結果、神の恵みと憐れみがイスラエルの民から異邦の民にまで広げられました(ローマ書11章30~32節)。イスラエルが捕囚から解放されるのと同様、私たちが神の子とされることも、まさに一方的な神の恵みでした。

 この恵みに感謝し、日々新たな思いで神の前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、恵みと導きを感謝します。絶えず新しい聖霊の油を受け、心に喜びと感謝の火を燃やし、周りの人々に主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。日々新しい恵みを受けて、絶えず新しいほめ歌を歌わせてください。軽率に言葉を吐かず、熟慮して、信仰に基づく言葉で語ることが出来ますように。 アーメン



5月9日(月) エレミヤ書15章

「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。」 エレミヤ書15章19節

 1節で、「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」と、災いを下す決定はもはや変更されないことを確言されます。

 モーセは、荒れ野の旅において神の前に呟き、背いて怒りを買ったイスラエルの民のために、何度も執り成しの祈りをし、神はその祈りを聞いて災いを思い返されていました(民数記11章、14章、17章など)。

 また、ミツパで聖会を開いていたイスラエルにペリシテ軍が襲いかかろうとしたのを、サムエルの執り成しを受けて、主がペリシテを討たれ、サムエルの時代を通じてペリシテが抑えられたということが、サムエル記上7章5節以下、13節に記されています。

 イスラエルを代表する執り成しの祈り手二人の、イスラエルのための執り成しの祈りを聞いて下さらないということは、もはや神が災いを下されるのを止めることは出来ないということです。

 主は、疫病か、剣か、飢えか、捕囚によって、イスラエルを罰すると言われます(2節)。最初の三つは、14章12節にも挙げられていました。そしてこれらは、民の命を奪うものです。最後に「捕囚」と言われ、それは過酷な運命に違いありませんし、国が滅びることではありますが、しかし、民は捕囚の地で生きることになります。彼らがやがてイスラエルを再建するのですが、今はまだ、そのことが明らかにはされていません。

 エレミヤの告げるこの預言はまったく不人気で、「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている」(10節)と言われるほどに民の間に物議を醸し、それによって迫害を受けました(15節参照)。

 ここに来てエレミヤは、「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)と、あのヨブのように、自分の運命を呪う言葉を口にします(ヨブ記3章1節以下参照)。そう語るのは、1章19節で、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と言われた主の言葉が履行されていないとエレミヤが考えたからでしょう。

 新共同訳、口語訳は、11節をエレミヤの言葉としていますが、原文は、冒頭に「主は言われる(アーマル・アドナイ)」と記されています。つまり、11~14節は、エレミヤが主の言葉を引用して語ったことと解釈すべきではないでしょうか。であれば、訳文が少々違ってきます。

 岩波訳によれば、11節は、「ヤハウェは言われた、『必ずわたしは、よきことのために、あなたを解き放つ。必ずわたしは、災いのときに、また苦難のときに、敵をして、あなたに執り成しをさせる」とされます。新改訳もほぼ同様です。この言葉によると、エレミヤは上記1章19節とともに、11~14節の言葉の実現を求めて、現状を訴えていることになります。

 そして、神がこの御言葉の約束をいつ実行してくださるのか、いつまでも果たされないのは、もしや神に見捨てられたのか、神に欺かれたのか、とさえ考えてしまったのです。18節に、「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」と語っています。

 ここで、「当てにならない流れ」とは、パレスティナに見られる水の流れていない川(「ワーディ」という)のことです。神を「生ける水の源」(2章13節)と呼んでいたのに、ワーディのようだと言わなければならないのは、なんと皮肉なことでしょう。

 16節の、「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」という言葉は、恐らく、エレミヤの召命の出来事を指していると思われます。1章6節では、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、預言者就任を拒む姿勢を見せていました。

 それをここで、「わたしはそれをむさぼり食べました」と語って、預言者として嫌々働いて来たのではない、むしろ喜んで仕えて来たことを、「あなたはご存じのはずです」(15節)と言い、故に、「わたしを思い起こし、わたしを顧み、わたしを迫害する者に復讐してください」と願うのです。つまり、喜び躍っているはずの心に、神に対する不信や不満が燻っているわけです。

 神から見捨てられたと考えているエレミヤに、冒頭の言葉(19節)のとおり、「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と主は言われます。神は決してエレミヤを見捨ててはいないゆえに、主への信仰とその使命に固く立つように、招いているのです。

 「帰ろうとする」、「帰らせ」は、「向く、帰る(シューブ)」という言葉です。エレミヤは、民に向かい、神に対か得るように、神の方を正しく向くようにと呼びかけていました(4章1節など)。いつの間にか、エレミヤもずれてしまっていたのでしょうか。

 けれども、イスラエルの民の罪をおのが罪として告白したエレミヤに対し、改めて神のもとに帰れと言われているのではないかとも思われます。そしてそれは、捕囚とされる人々に対しても、悔い改めを呼びかける言葉として告げられているのではないでしょうか。

 御言葉を聴いたとき、心燃やされて立ち上がっても、この世の現実にぶつかってその炎が吹き消され、情熱が冷めてしまうというのは、私たちがよく経験するところです。「あなたが軽率に言葉を履かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」と言われているごとく、私たちの心から御霊の火を消さないように、むしろ新たな御霊の油が注がれるように、信仰に固く立ち、信仰の言葉を語りましょう。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存知です。いつも心が聖霊に満たされ、喜び、心躍らせて主にお仕えすることが出来ますように。絶えず御言葉に基づく信仰の言葉を語らせてください。常にあなたが共にいて、私たちを助けてくださることを信じ、感謝ます。御心が行われますように。 アーメン




近況報告

先日、診察に行ってきました。
経過は順調です。
また、ステロイドの量を減らします。
これでひと月様子を見て順調ならば、その後、ステロイドがゼロになります。

2年前の今頃は体調が下り坂で、1週間後に入院してました。
半年前、病状が出たとき、早めに対処できたので、ここまで順調にやって来ることが出来ました。

また病状が現れるようなら、これまで試したことのない薬を処方しようと言われました。
そうならないようにしたいと思います。
頑張ります!

手指のこわばりもないので、ありがたいです。



今日は5月9日(月)、語呂合わせで黒板の日です。
全国黒板工業連盟が16年前、黒板の良さをPRするために制定したのだそうです。

35年ほど前は、中学校の教員でした。
勤めていた学校の木造校舎が、鉄筋に建て変わリました。
黒板も綺麗な緑色のボードになりました。
でも、緑板と言わず黒板と呼んでました。

黒板の工業連盟があること、全国で33社が加盟し、賛助会員が15社あるということを、今日初めて知りました。
グリーンの黒板の商品名が「緑板」ではなくて、スチール・グリーン黒板ということも。
もう、真っ黒の黒板は製造されていないようです。
需要がないということですね。







 

5月8日(日) エレミヤ書14章

「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」 エレミヤ書14章14節

 1節に、「干ばつに見舞われたとき」とあります。イスラエルはこれまで度々干ばつに見舞われました(創世記12章10節、26章1節、41章54,57節、ルツ記1章1節など)。その度に、イスラエルの民は主なる神に救いを求めたことでしょう。

 けれども、今回エレミヤに臨んだ主の言葉は、「ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる」(2節)というものでした。即ち、今回エルサレムが干ばつに見舞われたのは、神によるということです。

 エレミヤは、「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく、あなたに対して罪を犯しました」(7節)と、エレミヤ自身がイスラエルの一員として罪責を告白しています。

 「御名にふさわしく行ってください」と語り、続く8節で、「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ」と呼びかけ、「なぜあなたは、とまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください」(9節)と、主の憐れみを願い求めます。

 2章13節に、「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」という言葉がありました。救いを求める声に神が答えてくださらないのは、イスラエルの民が、生ける水の源である主を捨てたからです。それこそ、干ばつを招いた行為だったのです。

 11,12節に、「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」と記されています。

 この民のために祈ってはならないというのは、7章16節、11章14節についで3度目です。3度目の正直ということでしょうか。神は、イスラエルの祈りを聞かず、献げ物をも喜ばず、「剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」という決意をされたのです。

 エレミヤが、偽りの預言者たちがイスラエルの民に告げた言葉を取り上げて、「預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と」(13節)と主に告げます。

 冒頭の言葉(14節)は、それに対する主の答えです。主は、『預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない」と言われました。

 「わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」(12節)と言われる主の言葉が真実なら、そして勿論、主は常に真実であられるので(申命記32章4節、詩編89編9節、イザヤ書25章9節など)、「お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない」(13節)という預言者たちの言葉は、まさに「偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって」語られたことになります。

 ただ、イスラエルの民にとって、滅びを語るエレミヤの預言と、主の名によって「確かな平和を与える」と語る預言者たちの預言、どちらが真実な主の言葉であるか、見分けがつくでしょうか。預言者たちの預言が真実であれば、真に幸いですが、エレミヤの預言が真実であれば、イスラエルに災いが下されます。

 そのとき、預言者たちに欺かれたと悟っても、もはや手遅れということになってしまいます。しかし、預言者たちの数の上から、そして語られる言葉から、エレミヤの預言を真実と受け止めることは、決して容易いものではありません。常日頃から、主の御言葉を聴き、その御心をわきまえる訓練が必要でしょう。

 主イエスが、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ福音書7章16,17節)と言われました。

 さらに、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同37,38節)と語られました。

 絶えず主の御言葉に耳を傾け、主が約束された「生きた水が川となって流れ出るようになる」という恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、私たちは生ける水の源であるあなたを離れて、生きることは出来ません。絶えず私たちを御言葉と御霊によって、正しい道に導いてください。主がお与えくださる命の水に与り、私たちの内から永遠の命に至る水が泉となってわき上がりますように。聖霊に満たされて、主の恵みを証するものと慣らせてください。弱い私たちを試みに遭わせないでください。悪しきものから絶えずお救いください。御名が崇められますように。 アーメン




5月7日(土) エレミヤ書13章

「あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。」 エレミヤ書13章17節

 主なる神がエレミヤに、「麻の帯を買い、それを腰に締めよ」(1節)と言われます(1節)。エレミヤはその通りにします(2節)。次に、「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」(4節)と命じられます。エレミヤはその通りにしました(5節)。

 暫くして、「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい」(6節)と告げられます(6節)。エレミヤは言われたとおりに出かけて行き、帯を取り出しました。すると、それは腐ってしまっていました(7節)。

 これは、エレミヤに与えられた最初の行動預言(19章10節以下、27~28章参照)で、その行動が神から与えられた預言になっているものです。8節以下に、その意味が解説されています。帯はイスラエルで、神の民として名声、栄誉、威光を示そうと思ったのだが、傲慢にも彼らが聴き従わないので、神にとって全く役に立たないものになったというわけです(10節)。

 帯を「ユーフラテス(原語:ペラート)」に行って隠せと言われていますが(4節)、行動預言として、千㎞以上も離れているユーフラテス河畔に隠すところを民衆に見てもらい、さらにもう一度行って、それを掘り出すのを見せるというのは、想像しにくいところです。ギリシア語訳旧約聖書(アクィラ訳)などから、アナトトの北数㎞のところにあるアイン・ファラーでそれを行い、それをユーフラテスに見立てたのではないかと思われます。

 これは、イスラエルの民がバビロンに連行され、そこで異教の神々に仕えて駄目になったということではなく、ヒゼキヤの代にアッシリアに降伏し、賠償金を支払ったことがありますが、そうした折りに、アッシリアの宗教に大きな影響を受け、それ以降、主なる神に従わなくなったことを言っているものと思われます(11節)。

 既に裁きは確定し、災いが降されることになったので、執り成すこと能わずと言われておりました(11章11節以下、14節)。その災いは、異教の神々によって役立たずにされたイスラエルの民を、主の嗣業の地から抜き取って捕囚の地ユーフラテスへ連れ去ることです。

 そのことについて、12節以下に改めて理由が示されます。主が、「かめにぶどう酒を満たすべきだ」と言われるのに、イスラエルの民は、「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」と応えるだろうと言われます(12節)。ヘブライ語の「かめ」(ネベル)と「愚か」(ナバル)が似ていることから、掛詞として、大酒飲みの愚か者という意味が込められているのでしょう。

 「かめにぶどう酒を満たすべきだ」とは、酒飲みが酒席で戯れに自分たちを「かめ」に譬えて語ったことわざと言われます(岩波訳注参照)。ここでは、王や祭司、預言者を含め、イスラエルの民が神に聴き従わず、おのが欲を満たすことに営々としていることを表し、その結果、神の怒りの杯を飲み干さなければならなくなったわけです。そして、神の怒りが注がれたかめは、回復不可能なまでに粉微塵に砕かれるのです(14節)。

 15節以下は、あらためてイスラエルの民を悔い改めへと招いているかのようです。ただしかし、そのときエレミヤは、民がその言葉に耳を傾けると期待していたとは思えません。彼らの前に横たわっているのは、「光」ではなく、「死の陰」(詩編23編4節参照)であり、「暗黒」です(16節)。

 民は愚かにも、自分たちに運命が破滅的であることを悟らず、前途に栄光が待ち受けているように思い上がっていて、災いを語る預言者の言葉に耳を傾けません。だから、結局、滅びを刈り取らなければならないのです。冒頭の言葉(17節)で、預言者が嘆き、涙するのは、同胞に災いが下されるからですが、やがて民も、おのが傲慢さ、愚かさを悟って嘆き、涙するときがやって来ます。しかしながら、それはもはや後の祭りです。

 それが、18節で語られる、王と太后への告知で明らかになります。この「王と太后」とは、列王記下24章8節に記されているヨヤキン王とその母ネフシュタのことでしょう。王冠が頭から落ちたとは、即位後三ヶ月でバビロン軍に包囲され(同10節)、退位させられたということです(15節)。バビロンの王ネブカドネツァルは、ヨヤキンの代わりにマタンヤを傀儡の王としました(同17節)。

 エルサレムが包囲されたということは、南ユダの町々はバビロンに攻め落とされたということで、それが、「ネゲブの町々は閉じられて開く者はなく」(19節)と言われています。そして、「ユダはすべて捕囚となり、ことごとく連れ去られ」(同)ます。

 それで、イスラエルの人々は涙をもって悔い改めるかといえば、そうはなりません。傀儡の王となったマタンヤあらためゼデキヤは、主の目に悪とされることをことごとく行い(列王記下24章19節)、その結果、神に捨て去られることになります(同20節)。彼はバビロンの王に反旗を翻し、破滅を迎えます(同25章1節以下)。

 「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか」(23節)という問いは、変えることは出来ないという答えを予想させます。そして、イスラエルの罪深さは変わらない、自らそれを変えることは出来ないと告げるのです(27節)。

 その背きの罪のゆえに、災いが降るのは確定しています。けれども、預言者が同胞イスラエルの民を思うに、憐れみの涙を禁じ得ないのだとすれば、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださる憐れみ豊かな神が(エフェソ書2章4節以下)、エレミヤの涙に目をつぶり、イスラエルの嘆きの声に耳を貸さないということがあるでしょうか。

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書49章15節)と言われる主です。

 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ書5章8節)。その深い憐れみが、私たちを真の悔い改めへと導くのです(同2章4節)。

 自分を変えることの出来ない私たちのため、キリストがすべての罰と呪いをその身に引き受けて死に、私たちを救ってくださいました。その豊かな憐れみに感謝しつつ、その導きのもとに留まり、キリストとともに歩ませていただきましょう。

 主よ、愚かな私たちを憐れみ、絶えず悔い改めへと導いてくださることを感謝致します。聞く耳を開かせてくださり、常に御言葉に耳を傾けさせてください。心の目を主に向け、御足跡に従って歩ませてください。この喜ばしい音信を、私たちの家族、隣人に語り伝えることが出来ますように。聖霊を通して、私たちの心に主の愛を満たしてください。 アーメン




5月6日(金) エレミヤ書12章

「もしこれらの民が、かつてバアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の間に立てられる。」 エレミヤ書12章16節

 エレミヤは、数々の問題を抱えて苦しんでいます。そのひとつは、イスラエルの民に神の裁きが下ることが確定し、彼らのために執り成すのを禁じられたことです(11章14節)。また、彼はアナトトの人々から命を狙われます(11章21節)。アナトトは彼の故郷です。預言をやめるか、それとも死かと迫られるのは、エレミヤの預言者としての活動が苦々しく、排除したいと思っているわけです。

 そのうえ、エレミヤを苦しくするのは、エレミヤがイスラエルの民の罪を糾弾しているにも拘らず、「神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしている」(1節)ように見える事実です。そして、その「神に逆らう者、欺く者」が、エレミヤを苦しめ、迫害している者であれば、その苦しみは一入です。

 「正しいのは、主よ、あなたです」(1節)と言いながら、「それでもあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」と尋ねているのは、その理屈が知りたいというよりも、この苦しみから救ってほしいという訴えでしょう。

 それに対する主の言葉は、「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか」(5節)という、エレミヤの問いに問いで返すものでした。即ち、これからもっと苦しくなるのに、この程度のことで弱音を吐いていてどうするのかと、エレミヤを叱咤激励するような言葉です。

 ということは、イスラエルの民に災いが下るという裁きが確定したので、もはや、民を教え導く預言者としての使命は終わった、これで預言者を辞めてよいというのではなく、裁かれる同胞と運命を共にしながら、その苦しみの中で、なおその使命を果たし続けることが求められているということになります。

 それは、エレミヤが神に召されたときに語られた、「わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの王やその高官たち、その祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出す」(1章18,19節)という言葉にもう一度耳を傾け、あらためて神に従うことが求められているわけです。

 7節で「わたしはわたしの家を捨て、わたしの嗣業を見放し、わたしの愛するものを敵の手に渡した」と語り、10節には、「多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし、わたしの所有地を踏みにじった」とあります。これは、列王記下24章1,2節に記されている、バビロンに反逆したためにネブカドネツァル王がアラムやモアブ、アンモンをしてユダを攻めさせた、紀元前602年の出来事を指すものと思われます。

 「わたしの家」、「わたしの嗣業」、「わたしの愛するもの」と呼ぶイスラエルを裁きの手に渡されたのです。それは、主のなさりたいことではなく、せざるを得ないことでしょう。そこに、主ご自身の痛みがあります。8節の、「わたしはそれを憎む」という言葉が主の悲しみ、痛みの一端を示しているようです。愛しているものを憎まなければならないのです。

 10,11節には、「うち捨てられた」という言葉が繰り返されています。原文では、「荒廃」を意味する名詞シェママーが2回、「荒れ果てた」という形容詞シャーメーム、「荒れ廃らせる」という動詞シャーメーム(ニファル形)が1回ずつ用いられています。徹底的に滅ぼそうとしておられる様子が、その言葉遣いに窺えます。

 しかるに神は、「わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて、彼らの地から抜き捨てる。また、ユダの家を彼らの間から抜き取る」(14節)と語られます。イスラエルの民は、神の裁きを受けて嗣業の地から抜き取られて捕囚となりますが、しかし、そこから再び、抜き取られ、元に戻される日が来るというのです。

 ここに、イスラエルを裁くために用いられた近隣の民を、「イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民」と呼ばれます。神がイスラエルを裁くための道具とされた御心を越えて、イスラエルの嗣業の地を我が物にしようとして、神がそれを邪な振る舞いだと仰っているのでしょう。そこで、彼らは自分たちの土地から抜き捨てられることになるというのです。

 ところが、驚くべきことに、「わたしは彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる」(15節)と言われます。神の憐れみがイスラエルだけでなく、「近隣の悪い民」にも及ぶというのです。それは、冒頭の言葉(16節)のとおり、周辺諸国の民が主の名によって、「主は生きておられる」と誓うことを確かに学ばせるためです。

 そして、「彼らはわたしの民の間に建てられる」と言います。「建てる」(バーナー)という言葉は、1章10節で「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と言われていました。そのためにエレミヤを用いるというのです。 かくて、イスラエルの不従順によって、主の憐れみが異邦人にも広げられることになります(ローマ書11章30節)。

 そのように、異邦の民をも憐れまれると告げられ、異教の神によらず、主によって、「主は生きておられる」と誓うことを確かに学ぶなら、主の民の間に建てられるということがここに記されるのは、「わたしの民、わたしの嗣業、わたしの愛するもの」と呼ばれたイスラエルの民こそ、その憐れみを受けて、主の名によって、「主は生きておられる」と誓うことを学び、主の民として堅く建てられることを、主が望んでおられるということでしょう。

 私たちも、主の深い憐れみによって救いの恵みに与り、主の民の間に共に建てられました。絶えず御前に謙り、主の御声に耳を傾けましょう。聖霊の導きに従って歩みましょう。主は生きておられます。 

 主よ、御名を崇めます。あなたの御国が来ますように。この地にも御心が行われますように。それこそが、私たちの希望であり、平安であり、喜びです。あなたの恵みと慈しみとに信頼します。絶えず慈しみの御手の下に留まらせてください。命の御言葉の光のうちを歩ませてください。 アーメン





5月5日(木) エレミヤ書11章

「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない。」 エレミヤ書11章14節

 2節で主なる神はエレミヤに、「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ」と言われ、そして、「この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる」(3節)と語らせます。6節、8節にも、「契約の言葉」は出て来ます。

 この「契約の言葉」というのは、これからエルサレムの住民と新しく結ぶ契約の言葉などではなく、かつて、シナイ山でモーセを通して結んだ契約のことです。4節に、「これらの言葉はわたしがあなたたちの先祖を、鉄の炉であるエジプトの地から導き出したとき、命令として与えたものである」と言われているからです。

 ヨシヤ王がその治世第18年(BC622年頃)に神殿の修復工事をさせていたとき、律法の書が見つけられました(列王記下22章8節)。ということは、長い間失われたままになっていて、その上、そのことに気づきもしなかったということです。王はエルサレムのすべての民に、律法の書を読み聞かせ、そこで改めて主の御前に契約を結び、契約の言葉を実行することを誓いました(同23章2,3節)。

 モーセの時代は、紀元前1300~1400年ごろです。それからヨシヤ王による契約まで、700~800年が経過したことになります。その間、いつ契約書である律法の書の所在が不明になったのか、よく分かりません。その意味で言えば、ダビデ・ソロモン以降、初めて主なる神とイスラエルの民との間で契約が取り交わされたといってよいのではないでしょうか。 

 契約の基本的な目的は、イスラエルの民が神の民となり、主なる神がイスラエルの神となることです(4節)。これは、旧約だけでなく、新しい契約でも同じです(31章33節)。旧約と新約の違いは、目的ではなく、契約の条件です。古い契約の条件は、「わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば」(4節)というように、イスラエルの民が神に聴き従い、律法をすべて守り行うということです。

 それに対して、新しい契約は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(31章33節)とあり、それは、神の言葉を信じること、心に豊かに宿らせることといってよいでしょう(コロサイ書3章16節)。それは、イエス・キリストを信じ(ヨハネ福音書1章1~3,11,12,14節)、イエス・キリストを心にお迎えすることです(黙示録3章20節)。

 申命記11章13節以下に、「祝福と呪い」について記されていて、その中で同27節に、「あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」と語られています。

 エレミヤに主の言葉が臨んで、「この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる」と告げられて、「アーメン、主よ」と応じているということは、申命記27章26節にも記される呪いの誓いをエレミヤに確認させたということです。そしてそれは、契約の言葉を守らなかったイスラエルの民に、神の呪いが及ぶことになったということで、それをエレミヤに確認させられたのです。 

 ヨシヤは、エジプト軍を迎え撃とうとして返り討ちに遭い、メギドで戦死してしまいました(列王記下23章29節)。歴代誌下35章22節には、神の声に耳を傾けなかったヨシヤの高ぶりがその原因であるように記されています。そして、ヨシヤ王の死後、彼の息子ヨアハズも、ヨアハズに代わって王位につけられたヨヤキムも、次に王となったその子ヨヤキンも、主の目に悪とされることを行いました(列王記下23章32,36節、24章9節)。

 その時代に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに攻め寄せ、イスラエルはバビロンに降伏して、エルサレムの高官や勇士1万人、職人らが捕囚となります(同10節以下)。ヨヤキンの叔父マタンヤがゼデキヤと改名して王となりますが、彼も主の目に悪とされることをことごとく行い、ついに、イスラエルは神の御前から捨てられる事態になります(同19,20節)。

 これが、9節以下に主が語られている事実で、神はイスラエルに、エルサレムの破壊とバビロン捕囚という災いを下されることが決定されたのです。神はエレミヤに冒頭の言葉(14節)の通り、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない」と言われます。

 預言者として、神と民との間の仲介者の役割を担い、主に立ち帰るよう民に告げ知らせていたエレミヤですが(4章1,2節参照)、神はここで、イスラエルのための執り成しの祈りは聞かないと言われます。繰り返し警告されたにも拘らず、イスラエルはそれを聞き入れず、神に背き続けたので、「恵みのとき、救いの日」(イザヤ書49章8節、第二コリント書6章2節)は過ぎ去り、今や呪いのとき、災いの日となってしまったのです。

 つまり、神とイスラエルとの間に交わされた契約が、イスラエルの背きの罪のゆえに破棄されることになったわけで、おのが民のために執り成すことも適わず、そして下された災いによって苦しむ民の叫びに、神は耳を閉ざされるということなので、エレミヤの預言者としての使命がここに終わったということを示しています。

 ただ、「彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない」と言われますが、それは永遠に聞かれないということではありません。捕囚となって50年後、神はイスラエルの民を贖い、捕囚の苦しみから彼らを解放されたのです。

 イスラエルの民は、自分でその罪を贖うことが出来たわけではありません。それは、神の深い憐れみのゆえでした。民を憐れまれる慈しみ深い神が、御自分の独り子を贖いの供え物とされたのです。イスラエルの民は、神の愛と計画を知らずに御子キリストを十字架につけましたが、その打ち傷によってすべての民は癒され、その死によってすべての罪、あらゆる不義から贖われたのです(イザヤ書53章5節)。ここに、神の愛があります。

 私たちも、主の深い憐れみのゆえに主イエスを信じる信仰に導かれ、救いの恵みに与りました。主イエスを私たちの神とし、私たちは主イエスの民、キリスト者とならせていただきました。主イエスに属する者として、忠実にその御声に耳を傾け、喜んで従っていきたいと思います。  

 主よ、御子イエスの十字架の贖いゆえに、私たちの呪いは取り除けられました。主イエスが呪われ、捨てられたゆえに、私たちは捨てられることがありません。この深い愛と恵みのゆえに、心から感謝致します。絶えず、喜びと感謝をもって祈りをささげ、御言葉に従って歩ませてください。御心がこの地になされますように。御国が来ますように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン

 





5月4日(水) エレミヤ書10章

「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される。」 エレミヤ書10章13節

 10章の前半16節までは、主なる神に背いて異教の偶像を拝む空しさを笑い(2~5,8,9,14,15節)、まことの神の力とその御業を誉め讃えています(6,7,10~13,16節)。12~16節は、51章15~19節で再び語られます。なお、11節は、紀元前5世紀頃のものと推測されるアラム語で記されており、後代の書記が欄外注として書いたものが後に本文に取り入れられたのではないかと想定されています(岩波訳脚注)。

 異教の神々の像は、木を彫って作られ(3節)、その上に金や銀の箔を張って飾られています(4節)。勿論、偶像が口を利いたり、歩き出したりすることはありません。エレミヤはそれを、「きゅうり畑のかかしのよう」と笑います(5節)。像を拝む人々も、実際に神に模して作られた木像が口を利き、歩き出すと考えていないでしょうし、それゆえ、彼らが拝んでいるのは、木像そのものではないと言うでしょう。

 しかし、美しい自然を写真に収めたり、絵に描いてストックするように、目に見えない神を描き、また像に刻むことは出来ません。神にかたちを与えることは、神を自分のものにしよう、自分のある思いの中に神を閉じ込めようとする行為にほかならないのではないでしょうか。

 ただ、像を作らなければよいということでもありません。かつて、ローマ・カトリック教会が免罪符を売り出したのは、教会堂を建て直す資金を集めるという自分たちの目的のために、神の救いの恵みを利用するという意味で、神を偶像化したと言わざるを得ません。

 その意味では、姿かたちであれ、御言葉であれ、御業であれ、私たちがそれを定義づけて表現しようとするとき、絵画や彫刻ばかりでなく、音楽にせよ、あるいはまた言葉でするにせよ、絶えず偶像化の危険が伴っていることになります。そのような罠に陥らないためには、常に神を畏れ、その御言葉に信仰をもって従順に聴き従うほかありません(詩編119編9節以下など)。

 エレミヤは神について、「あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方」(6節)と、その比類のなさを告げます。「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」(10節)であり、「御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を広げられた」(12節)、「万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主」(16節)と言います。

 一方、「天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る」(11節)と告げます。偶像礼拝の愚かさ、空しさを、このような呪詛の言葉にして教えているわけです。

 そして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される」と語ります。天地の創造者は、それらの地からの統治者であられるのです。

 イスラエル周辺では、天と地、稲妻や雨なども、神として礼拝する対象になりました。エレミヤは、それらはすべて神の被造物であり、まことの神は、御声をもってそれらのものを従わせておられると告げているわけです。

 1993年の秋、甲子園球場を舞台に、大きな集会が開かれた際、冒頭の言葉からテーマソングが造られました。日本全国から、毎日3万人以上の人々が詰め掛け、スタンドや球場内の席を埋めました。毎晩、何百人もの人々が主イエスを信じて救いに与りました。

 翌年には、米国の伝道者ビリー・グラハムが来日して、東京ドームで伝道集会が開催され、衛星放送で全国各地に同時配信されました。大きなスクリーンに映し出される集会の光景を見ながら、すごい時代になったなあと思ったものです。

 神がその御力を表されるなら、日本国内でもっともっと大きな集会が催され、多くの人々に救いの御業が開かれるようになることでしょう。神の恵みが大雨のごとく降り注ぎ、いたるところで偉大な神の御業を見るようになるでしょう。

 そういうことが起こるのか、どのように起こされるのか、勿論定かではありません。期待したとおりになってもならなくても、わたしたちは万物の創造者にして支配者であられ、わたしたちをご自分の民に加えてくださった憐れみ豊かな、他に並び立つもののない絶対者なるお方を、主、わたしたちの神と信じ、キリストに従って歩ませていただいています。
 
 日々主を尋ね求め、御霊に満たされ、主の証人としての使命を果たすことが出来るように、祈りましょう。家族の救い、知人友人の救いを求めて祈りましょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、その家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と約束されているからです。

 主よ、あなたは御声をもって天地万物を創造し、御心のままにそれらを用いられます。この地に主の御業が表されますように。私たちの家族が、知人友人が救われますように。そのために私たちが用いられますように。喜びをもって御言葉に耳を傾け、導きに素直に従う信仰と、上よりの知恵を授けてください。御名が崇められますように。 アーメン



5月3日(火) エレミヤ書9章

「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしが喜ぶ、と主は言われる。」 エレミヤ書9章23節

 1節でエレミヤは、「荒れ野に旅人の宿を見いださせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ」と言います。エルサレムで預言者として活動してきたエレミヤは、しかし、イスラエルの民がその言葉に聞き従おうとせず、神に背いて悪事を重ねていることに、ほとほと愛想が尽きてしまったのです。

 3節には、「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても『押しのける者』であり、隣人はことごとく中傷して歩く」と言います。ここで、「押しのける者」は、原語で「アーコーブ・ヤアコーブ」と言い、族長ヤコブの名と通じています。

 ヤコブは、兄エサウの長子の権利を奪い(創世記25章27節以下)、父を騙して祝福を自分のものとします(同27章)。紆余曲折があった後、神はヤコブを祝福して、「イスラエル」という名を与えました(同32章29節)。それを念頭に、ヤコブ=イスラエルはすべて、押しのける者だと言っているのでしょう。

 だから、エルサレムを離れ、荒れ野を旅するキャラバンに着いて行きたかったのでしょう。けれども、エレミヤはエルサレムに留まって、神の御言葉を語り続けます。ここに、預言者としてのエレミヤの使命があります。そして、だからこそ悩みも深いのです。

 イスラエルは、自らの悪事ゆえに滅びを刈り取ることになります。11,12節はそれを示しています。この問答は、イスラエルの民がバビロンに捕囚として連行されてから、繰り返し彼らの間で交わされたことでしょう。

 けれども、神はイスラエルを完全に抹殺してしまおうとお考えになっていたのではありません。9節に、「山々で、悲しみ嘆く声を上げ、荒れ野の牧草地で、哀歌を歌え」と言い、16節でも、「万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ」と命じておられます。

 さらに19節で、「女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え、互いに哀歌を学べ」と告げます。イスラエルが滅びることを悲しみ、泣けというわけです。

 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」(第二コリント書7章10節)という御言葉もあります。国の滅びを悲しみ嘆く涙が、おのが罪を悔い改める涙となることを、神は願っておられるのではないでしょうか。

 6節で、「見よ、わたしは娘なるわが民を、火をもって溶かし、試す」と言われています。金属は、種類によって溶け出す温度が違います。温度によって分類された金属から、さらに熱によって不純物を取り除き、純度の高い金属を取り出します。神は、バビロン捕囚という試練を通して、イスラエルの民の信仰を純化、聖化しようとされるのです。

 しかしながら、試練に遭えば必ず信仰が純化されるというわけではありません。6章28節に、「彼らは皆、道を外れ、中傷して歩く。彼らは皆、青銅や鉄の滓、罠を仕掛けて人を滅ぼす者だ」と言われていました。金滓として捨てられるか、それとも純粋な金として取り出されるか、それは、冒頭の言葉(23節)の通り、イスラエルの民が目覚めて主を知る者となるかどうかにかかっています。

 そもそも2節で、「彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない、と主は言われる」と語られていました。ここで「知る」とは、主についての知識ではなく、主なる神と交わりを持つこと、主なる神を信頼することです。おのが知恵や力、富を頼みとして神を呼び求めなかった者たち(22節)、そしてまた、割礼を受けたことを拠って立つところとしている者たちに、あらためて主を頼みとし、主の御名を呼び求めるように教えているのです。

 「わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」(23節)とありますが、だれよりも主ご自身が、「この地に慈しみ(ヘセド)と正義(ミシュパート)と恵みの業(ツェダカー)を行」われるお方です。だから、主を信じて神の子とされた私たちにも、主の慈しみと正義と恵みの業に与り、その恵みに応えて生きるようにと言われているのです。

 「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ書12章11,12,14,15節)。 

 主よ、罪の中にいた私たちを命の御言葉の光で照らし、光の中を歩む者としてくださったことを心から感謝します。祈りと御言葉による交わりを通して、さらに深く主を知り、その導きに従う者となり、主が慈しみ、公正と正義をもって支配される神の国の実現のために、たゆまず祈り、励む者としてください。 アーメン



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