風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年04月

4月20日(水) イザヤ書62章

「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」 イザヤ書62章1節

 62章も、エルサレムの回復がうたわれています。シオン、神の都エルサレムは、「捨てられた女」と呼ばれました。神の都としての栄光を失い、長い間「荒廃」したままだったからです(4節、60章14,15節)。しかし主は、失意落胆の中にいるイスラエルの民に呼びかけ、救いを約束されます。

 かつて、イスラエルの民はバビロンにおいて、捕囚として大変な苦難を味わいました。エルサレムの都から遠く離され、神殿は破壊されてしまいました。この苦しみから誰が解放してくれるのでしょうか。そもそも、バビロンの神マルドゥク(エレミヤ書50章2節)やネボ(イザヤ46章1節)は、イスラエルの神、主に優っているのではないでしょうか。

 そのような嘆きの中にいた民に神の慰めの言葉を告げたのが、第二イザヤです(40章1節以下)。彼は、バビロンの神々は、人間が造ったもので、語ることも動くことも出来ず、薪として燃やしたとき、暖かさを与えてくれるだけのものと皮肉ります(44章9節以下)。預言者がそう語る背景に、バビロンの人々が捕囚の民を嘲り、おのが神を誇るということがあったのでしょう。

 その後、ペルシアがバビロンを倒し、イスラエルの民は帰国を果たします。それは、民にとって、夢を見ているのではないかという出来事でした(詩編126編1節)。キュロス王が救い主、メシアに見えました(45章1節など)。けれども、帰国を果たすことが出来たものの、未だ約束の地は彼らに祝福をもたらしてはいません。むしろ、みすぼらしく貧しい生活を余儀なくされ、苦闘しています。

 かつて主は第二イザヤの召命記事で、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」といい(42章2節)、また、捕囚の民の苦しみに寄り添い、癒すお方として御自分のことを、「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のように喘ぎ、激しく息を吸い、また息を吐く」と言われていました(同14節)。主なる神は、黙して語らない中に救いの業を進められるお方であることを示していたのです。

 しかし、帰還したイスラエルの民は、その沈黙を救いの徴とは見ることが出来ませんでした。むしろ、救いを求める民の声に神が応えられない、神は私たちを見捨てたのではないかという疑いが広がって来ました(64章9節以下、11節参照)。その声に応えるように語られているのが、冒頭の言葉(1節)です。

 預言者が、「彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」、つまり、神とイスラエルとの関係が正され、その救いが実現し、それを、諸国の人々が見るようになるまで、語り続けると言います。そこに、神の御言葉に対する預言者の確信があります。

 そのときイスラエルは、「捨てられた女」(アズバ:60章15節、54章6節参照。ヨシャファト王の母の名[列王記上22章42節])ではなく、「夫を持つもの」(ベウラー)と呼ばれます(4節)。イスラエルにとって、主なる神が、花嫁を守る花婿となってくださるのです。

 「荒廃」(シェマーマー)は、54章1節のように「不妊」を意味するものと解釈されます。「望まれる者」(ヘフツィ・バハ)は「わたしの喜びは彼女にある」という言葉で(口語訳、新改訳、岩波訳「わが望みは彼女に」。マナセ王の母の名[列王記下21章1節])、主がエルサレムとの関係を回復するのを喜びとされるということでしょう。

 さらに12節で、「彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ、あなたは尋ね求められる女、捨てられることのない都と呼ばれる」と言われています。「聖なる民」は申命記7章6節、「贖われた者」は出エジプト記15章13節と、古い契約を思わせる用語で新しい関係が始まることを伺わせます。2節に「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれる」とあったとおり、それは、主なる神の一方的な恵みであることを示しています。

 黙示録21章2節に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整え、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とあります。同9節にも、「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せて上げよう」と言い、それが、聖なる都エルサレムのことと、同10節に記されています。

 ヨハネ3章29節の洗礼者ヨハネの言葉と併せ、教会は、聖なる都、新しいエルサレムのひな形といってよいでしょう。主なる神は私たちに救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせ、輝きの冠をかぶらせ、宝石で飾ってくださいます(61章10節)。

 見えるところでは、未だ困難の中かも知れません。神が沈黙しているとしか思えないかも知れません。、あるいは眠っておられるように見えるかも知れません(マルコ4章38節参照)。けれども、常に共にいてくださる主に平安を見出し、希望と喜びをお与えくださる主の恵みを、「口を閉ざさず」人々に告げ知らせていきたいと思います。

 主よ、御言葉と祈りを通して、常に主との親しい交わりにお導きくださり、有り難うございます。主の深い御心に触れ、心が主の平安で包まれます。聖霊に満たされ、力を受けて、その恵みを喜びと感謝をもって、人々に告げ知らせることが出来ますように。 アーメン




4月19日(火) イザヤ書61章

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人によい知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」 イザヤ書61章1節

 1~3節に、預言者の召命について記されています。それは、神殿の再建に着手したものの、すぐに行き詰まってしまい、意気消沈していたエルサレムの人々に希望を与えるためです。神殿再建が行き詰まったのは、エルサレムの状況が余りにも悪かったからです。その状況は、ハガイ書1章1~11節からうかがい知ることが出来ます。

 ハガイの預言から、エルサレムの人々の生活はあまりに貧しく、衣食住という基本的生活の確立に忙しくて、神殿建設にまでは、とても手が回らなくなっていたのです。その上、干ばつに襲われて不作となれば、神殿建築の事業はすぐにも頓挫してしまったことでしょう。

 そこで、冒頭の言葉(1節)のとおり、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた」と告げて、自分は、主から油が注がれて預言者として立てられ、主なる神の霊が自分を通して語っておられるというのです。

 ここで、原文を直訳すると、「主なるヤハウェの霊がわたしの上にある。というのは、主はわたしに油を注いだからだ」となります。前にも学んだように、「ヤハウェ(YHWH)」は、通常「主(アドナイ)」と訳されますが、「主なる主」ではおかしいため、「主なる神」という訳出されたようです。

 油注ぎについて、具体的には、先輩預言者から油を注がれて、預言者に任命されたということでしょうか(列王記上19章16,19節、列王記下2章13,15節参照)。それを、主の霊が自分の上に降ったことによってオーソライズされたので、自分の油注ぎ、即ち、預言者への任命は、主からのものだというのです。

 今日、ある人を牧師として任命するとき、先ず、その人を牧師として招聘するかどうか、総会を開いて協議します。その際、その人が神によって立てられた教職者であるのか、その人がその教会の牧師としてふさわしいかどうかを判断し、協議して結論を得るのです。その人が神に召され、当該教会の牧師として立てられた者であるという、ある意味で証明不可能な個人的事柄を、総会決議をもって承認するわけです。

 しかし、その人物の人柄、教養、知識経験がいかに素晴らしいものでも、それで、牧師の職務が全うできるというものではありません。そして、神はあえて無学な者、無力な者、無に等しい者を選ばれたといいます(第一コリント書1章26節以下)。

 神がその人を召されたということは、その働きが神のためのものであり、それは、神の導き、神の助けなしに、完遂することは出来ないということです。だから、この牧師の職務が主にあって全うされていくように、祝福と導きを祈る按手式を行うのです。

 そしてそれは、牧師個人のための儀式ではありません。伝道・牧会の任務を委嘱するといいましたように、その働きの責任は、教会全体にあるのです。

 それを示すものとして、10節に、「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。云々」と記されています。これは、預言者がイスラエル全体を代表して、感謝の賛美を歌っているのです。ということは、イスラエル全体に主の霊の働きがあり、預言者が代表して油注ぎを受けたといってもよいでしょう。

 預言者が召されたのは、「貧しい人によい知らせを伝えさせるため」です。「貧しい人」(アナウィーム:複数形)は、単に経済的な貧しさだけでなく、惨めな状態に置かれている人、抑圧されている人をも意味するものでしょう。「打ち砕かれた心」、「捕らわれ人」、「つながれている人」など、負債を返せないために投獄され、奴隷のような状態にある者の労苦を示す言葉が、それを示します。

 1節最後の行にある「解放」(ペカ・コーハ)という言葉は、「目を開くこと」という意味の言葉で、この箇所以外には出て来ません。その意味で、この「解放」は、暗闇に光が射すというような、精神的な苦痛から解き放たれることを暗示しています。ここに、当時のイスラエルの民が置かれていた状況を見ることが出来るようです。預言者は、失望落胆している民に、主の救いの計画が示し、希望を与えようとしているのです。

 主イエスがナザレの会堂でこの箇所(1~3節)を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました(ルカ4章17節以下、21節)。これにより、主イエスが神から遣わされたメシアであり、主イエスの到来により、預言が実現したのだと告げておられるのです。

 主イエスの贖いの業によって救いの恵みに与った者として、私たちも、「主は救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花嫁の表に輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」と賛美させて頂きましょう。

 主よ、罪の闇の中にいた私たちを救いに導き、聖霊をあたえて賛美の心をまとわせてくださり、心から感謝します。日々主の御言葉に与り、その恵みを多くの人々に語り伝えるために立ち上がり、光を放つことが出来ますように。いつも全力を注いで、主の業に励む者としてください。御国が来ますように。御心がなされますように。 アーメン



4月18日(月) イザヤ書60章

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」 イザヤ書60章1節

 60~62章は、第三イザヤと呼ばれる預言(56~66章)の中心的な部分を構成していると言われます。60章は、前章20節の、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる」という言葉に導かれるかたちで、語り出されています。

 捕囚からエルサレムに帰還を果たしたイスラエルの民は、ペルシア王キュロスによる解放が、第二イザヤが告げていた預言を直ちに完成するものではないということを、思い知らされていました。それは、帰国の一年後に始められた神殿再建の働きが(エズラ記3章8節以下)、中断を余儀なくされてしまうからです(同4章)。

 神殿再建もままならず、経済的にも大変厳しい状況の中で、主の手は短い、主の耳は鈍い(59章1節参照)、私たちの断食は顧みられない(58章3節)という不満の思いが、イスラエルの民の間に蔓延していたのです。

 それに対して本章は、第二イザヤのメッセージを語り直し、強調するものとなっています。たとえば、4節の、「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る」は、49章18節で、「目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る」と告げられていました。

 また、16節後半の、「こうして、あなたは知るようになる。主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者、ヤコブの力ある者であることを」も、49章26節で、「すべて肉なる者は知るようになる。わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う、ヤコブの力ある者であることを」と語られていたものです。

 その救いの到来を、闇の中に現われる光として語っているのが、冒頭の言葉(1節)と2節です。「闇」(ホーシェク)、「暗黒」(アラーフェル)は、無知や罪、不幸、破壊などを象徴する言葉です。

 闇の中に現われる光というイメージは、9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」、42章16節の「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする」にもあります。イザヤが一貫して語り継いでいるメッセージということが出来るでしょう。ただ、9章では、その栄光は異邦人のガリラヤに輝くとされていますが(8章23節)、ここでは、シオン、エルサレムを巡り照らしています。

 「起きよ」(クーミー)は、打ちひしがれ、うずくまっている人々が栄光の主に向かって目を上げ、立ち上がるよう促し、「光を放て」(オーリー)は、栄光に包まれている姿を人々に見せなさいということでしょう。主イエスが、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか(マルコ4章21節)と語られた言葉を思い起こさせる表現です。

 しかし、どうしてうずくまっている人が立ち上がり、その栄光を現すことが出来るのでしょうか。そういう希望も喜びもないので、うずくまっているのではないでしょうか。

 「光を放つ」ことの出来る根拠は、彼らのうちにあるのではありません。原典には、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」の前に、「キー」という単語があります。「キー」は、「なぜならば(because)」と訳される、理由や根拠を示す接続語です。「昇る」と訳されている言葉(ボー:「来る、行く」の意)も、「輝く」という言葉(ザーラー:「太陽が昇る、照り輝く」の意)も、完了形が用いられています。

 つまり、既にあなたの光はやって来た、既に主の栄光があなたを照らしているということです。それだから、立ち上がって、その輝かしい栄光に包まれたあなたの姿を、私たちに見せなさいというのです。光と栄光の組み合わせは、58章8節にもありました。第三イザヤのキーワードといってよいでしょう。

 ただ、この預言は、直ちに実現したとは言い難いものです。イスラエルは、この後もペルシアの支配下に置かれ、次はギリシア、続いてシリア、それからローマの支配を受けることになります。1947年の国連決議(パレスティナ分割統治)に基づき、翌年、イスラエル国家が独立、誕生しますが、主の栄光とはほど遠い有様です。

 しかし、確かに主の栄光がエルサレムに訪れました。神の御子イエス・キリストの到来です。6節に、「ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」とありますが、黄金、乳香、没薬を携えた占星術の学者たちが東の方かららくだに乗って、乳飲み子の主イエスの下にやって来ました(マタイ2章1節以下、11節)。

 ヨハネも1章のロゴス賛歌の中で、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1章14節)と記しています。

 主イエスを通して、主の栄光が私たちの上に輝いているのです。「起きよ、光を放て」と、私たちにも命じられているのです。

 主よ、あなたの豊かな憐れみによって、私たちはあなたの栄光に包まれています。聖霊の力を受けて立ち上がらせてください。世の光として、主の栄光を輝かせてください。多くの人々が主イエスへと集まり、その恵みと真理に与りますように。 アーメン




4月17日(日) イザヤ書59章

「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕、主を支えるのは主の恵みの御業。」 イザヤ書59章16節

 ペルシア王キュロスによって捕囚から解放され、意気揚々と帰国した民は、神殿再建や独立運動が遅々として進まないことに業を煮やし、「主の救いの手は短くて、自分たちには届かない」、「神の耳は遠くて、私たちの祈りが聞かれない」と嘆いていたのでしょう。

 前章3節の、「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」という不満にも、それが表われていました。

 けれども、そのような嘆きに対して預言者は、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1,2節)と語り、民の苦難の原因が、イスラエルの民の罪にあること、それによって救いが妨げられていることを示しています。

 ということは、自分たちの罪を棚に上げて、あるいは自覚せずに、苦難の原因を神の所為にしようとする責任転嫁こそ、民の罪を如実に示すものだということでしょう。

 預言者は、イスラエルの民を「お前たち」(2節以下)、「彼ら」(5節以下)と呼んで、その罪を指摘してきましたが、9節以下では、「わたしたち」になります。これは、預言者がイスラエルの民の罪を自分自身のこととしているのです。

 預言者は、民と共に神の御前に立ち、「主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく」(13節)とその罪を告白して、ここに神の憐れみと赦しを請うているのです。

 主イエスが十字架の上で語られた最初の言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)でした。自分を殺そうとしている者のために赦しを父に請う祈りで、感動を禁じえません。とはいえ、ここで主イエスは私たち罪人のことを「彼ら」と呼び、ご自身とは区別しておられます。

 ところが、主イエスが息を引き取られる前に叫ばれたのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、すなわち、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした(マルコ福音書15章34,37節)。つまり、民の罪をご自身の身に負われ、見捨てられたのは「彼ら」ではなく、「わたし」であると言い表しておられるのです。

 この主イエスの執り成しと贖いのゆえに、私たちの罪は赦され、永遠の命が授けられ、神の子として天の御国に受け入れられる者としていただいたのです。

 このことが冒頭の言葉(16節)で、「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業」と語られています。いかに預言者といえども、神の御前に自らを義とすることは出来ません。程度の差はあれ、預言者もイスラエルの民も、罪ある存在であることに変わりはありません。

 ですから、主なる神は独り子キリストをこの世に送り、人の子として生まれさせ、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(第二コリント書5章21節)。即ち、この世に救いをもたらすのは、まさに「主の御腕の力であり、主の恵みの御業」以外の何ものでもないということです。

 使徒言行録4章12節に、聖霊に満たされたペトロが、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(主イエスの)名のほか、人間には与えられていないのです」と語っているとおりです。

 そして、そのことを信じるのであれば、私たちも聖霊の力に満たされ、主イエスの証人として、キリストの福音を告げ知らせて参りましょう。主イエスを信じる信仰以外に、私たちを救うものはないからであり、そして、「主(イエス)を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ書10章11節)からです。

 罪を悔い改め、主なる神と新しい契約を結んだ者に、主の霊が上から注がれ、語るべき福音の言葉がは、私たちの口に授けられます(20,21節、ローマ書10章8節)。主を仰ぎ、主の細き御声に絶えず耳を傾けましょう。

 主よ、あなたは憐れみと慈しみに富み、私たちを贖う者として、御子イエスをこの世にお遣わしになられました。その偉大な救いの御業のゆえに御名を崇め、感謝と賛美をささげます。私たちを聖霊で満たし、主の福音を大胆に伝え、その恵みを感謝とともに証しすることが出来ますように。主の僕、その恵みの通りよき管として用いてください。 アーメン





4月16日(土) イザヤ書58章

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」 イザヤ書58章6,7節

 1節に、「喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを、ヤコブの家に、その罪を告げよ」と言われます。「喉をからして叫べ」と言われるのは、国中にその声を響かせよということと、民が神に立ち帰るよう繰り返し叫ぶことが要求されているわけです。それは、民が預言者の声に素直に耳を傾ける状況ではないということではないでしょうか。

 イスラエルの民の「背き」とは、3節で、民が神に向かって、「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」と不満を述べたことで明らかにされたものです。自分の振る舞いを自ら義とし、神がそれを認めるようにと要求しているわけです。

 断食は、一年に一度、7月10日の贖罪日、神の裁きを心に留め、悔い改める日に行うよう定められました(レビ記16章、23章27節以下参照、ここに「苦行」と記されているのが、断食のことです)。やがてこれに、エルサレムの陥落を悲しむ日や神殿の破壊を憶える日、総督ゲダルヤの死を悼む日などが加わって、年に4回、断食日が設けられることになりました(列王記下25章参照)。

 ゼカリヤ書7章5節に、「五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか」という主の嘆きの言葉があります。繰り返される苦行、断食が、真に神を礼拝するためではなく、人々が自分の考え、自分たちのやり方で儀式を行い、願い事をして、それで神を礼拝し、断食したつもりになっているというのです。

 バビロン捕囚からの解放後、終末の到来への期待が起こり、苦難から解放される終末を熱望する気運が高まりました。それなのに、自分たちの期待する終末が訪れません。神はどうして期待に応えてくださらないのかという深刻な問いがそこにあったと思われます。エルサレムに戻って来た民の生活は以前苦しく、都の再建もままならないという状況が続いていたのです。

 それで、断食して主の到来を求めているのに、その労苦に目を留められないのは何故なのかというわけです。その答えを求めて苦行する機会が増え、なかなか答えが与えられないので、ますます熱心に断食が行われるようになったといってもよいでしょう。

 それに対して、冒頭の言葉(6,7節)が語られています。神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そうでなければ、1節以下にいわれる罪の宣告を受けます。冒頭の言葉に対する対応が、祝福と呪いの分水嶺ということです。

 「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(6,7節)、それが神の選ばれる断食だというのは、「ヤコブの家」(1節)、イスラエルの民が神の望まれる正義と公正の実現を切望することだと示されます。 

 これは、マタイ25章31節以下の、主イエスが最後の審判者としておいでになり、すべての民を、祝福に与る人と、呪いを受ける人に分けられるという記事を思い起こさせます。主イエスは、弱い人、助けを必要としている人への対応が、御自分に対する対応であること(40,45節)、祝福される者は、主に対してよい対応をしたとは考えておらず(同37節以下)、一方、呪われる者は、したつもりでいる(同41節以下)と語られました。

 神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そのことについて、8節では、「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る」と記され、11節では、「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」と約束されます。

 光と水は、人が生きていく上で、欠かすことの出来ないものです。そして、ただその必要なものが与えられるというだけではなく、「あなたの光は曙のように射し出で」(8節)、「あなたは潤された園、水の涸れない泉」(11節)といわれるように、どの人から溢れ出て、隣人にその恵みを広げる祝福の源となるのです(創世記12章2,3節参照)。

 日々主を尋ね求め、主の道を知ろうと望みましょう。恵みの業(正義:ツェダカー)を行い、神の裁き(公正:ミシュパート)を捨てない民として、主の正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望みましょう(2節)。 

 主よ、私たちの内を御言葉の光で照らしてください。御言葉に癒しがあり、命があるからです。私たちに語りかけれらる御言葉を通して御心をわきまえ、神の望まれる業を行うものとならせてください。キリストを心の中心にお迎えします。聖霊の力を受け、主の福音を語り伝えさせてください。命の水が私たちの腹から川となって流れ出ますように。 アーメン



4月15日(金) イザヤ書57章

「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」 イザヤ書57章15節

 57章は、前半13節までに、まじないや異教の偶像により頼む者に対する裁きの言葉が記され、後半14節以下には、へりくだり、心の砕かれた者への祝福の言葉が記されています。このように記されているということは、裁きか祝福か、どちらかを選びなさいということですし、当然のことながら、裁きではなく、祝福を受けなさいと勧めているわけです。

 こう語られる背景を考えると、少々暗澹たる思いになります。というのは、イスラエルがバビロン捕囚の憂き目を見たのは、神の命に背いて異教の偶像を祀り、呪いや口寄せに頼って、その怒りを買ったためだったからです。

 50年の奴隷の苦しみから解放され、帰国が許された民が、またもや、異教の偶像に依り頼み、占いや呪いを行っているのであれば、イスラエルを憐れみ、ペルシア王キュロスをたてて彼らを解放してくださった神の恵みが無駄になってしまいます。

 1節に、「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても、気づく者はない」とあります。「神に従ったあの人」とは、「義人」(ハッツァッディーク:the righteous man)という言葉です。新共同訳は、この「義人」について、第二イザヤのような預言者を指していると考えて、「神に従ったあの人」という訳語にしているのでしょう。

 また、「神の慈しみに生きる人」は、直訳すると、「愛の人々」(アヌシェイ・ヘセド)になります(岩波訳「愛の人」)。これは、第二イザヤの指導に従っていた人々のことかも知れません。新改訳は「誠実な人々」と訳しています。義人と呼ばれる預言者や、その指導に従う慈しみ深い人々がいなくなっても、誰も心にかけない、気づかない状況というのは、決してよいものであるはずがありません。

 だから、もう一度裁かれなければならないようなことになるのです。しかしながら、神に従い、神の慈しみに生きる人々、真実に歩む人々には「平和が訪れ」、「横たわって憩う」(2節)と言われます。つまり、悲惨な死を迎えながら、それは、地が裁かれる前に神の平和の内に迎えられ、安らかに憩うことが出来るということです。

 一方、神に従う者に聞かず、その慈しみに生きる人々を苦しませた人々、異教の神々に迷った人々に対して主なる神は、「わたしがとこしえに沈黙していると思って、わたしを畏れないのか」と言われ(11節)、「助けを求めて叫んでも、お前の偶像の一群はお前を救いはしない。風がそれらすべてを巻き上げ、一息でそれらを吹き去るであろう」(13節)と語られました。

 しかしそれは、イスラエルの民が神の前に罪を悔いて謙り、砕かれた心で神の前にひれ伏すことを、主が願っておられるということなのです。冒頭の言葉(15節)のとおり、主は、この世の罪から離れて、ひとり、高く聖なる所に住んでおられますが、しかし、永遠のかなたにおられるというのではありません。「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」(15節)、と言われます。

 「(聖なる所に)住む」、「(共に)ある」は、いずれも「腰を下ろす、落ち着く、住む」(シャーカン)という言葉で、ここから「幕屋」(ミシュカン)という言葉が出来、また、後のユダヤ教にとって重要な用語となる「神の臨在」(シェキーナー)という言葉も生まれました。「高く聖なる所」に住まわれる主が、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」のいるこの地に低く降って共に住まわれ、そこにご自身の臨在を現されるのです。

 ペトロが、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)と語っています。「自分を低くする」は、正確には、「低くされなさい」という言葉です。神の力強い御手で押さえつけられなさいと言えばよいでしょうか。

 つまり、理不尽と思えるほどに低くされ、あるいは辱められ、苦しめられたとき、それを神の御手によると考えて身を任せなさいということです。続けて、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(同7節)と語っているのは、そのことでしょう。

 イスラエルが捕囚の辱め、苦しみを受けたのは、そのことによって謙り、心砕かれるため、そして、その人々と共に主が住まわれ、彼らを高く引き上げ、神の栄光を見せてくださるためだということです。

 主は、「わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民の内の嘆く人々のために、わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす」(18,19節)と言われます。

 主の招きに応え、謙って御前に進みましょう。御言葉に耳を傾け、その恵みに与りましょう。御霊の導きに従い、御心を行うものとならせていただきましょう。 

 主よ、私たちは驕り高ぶる者であり、また神に背き、従わない者でした。それゆえに苦しみ、悲しみを味わうことがありました。然るに神は、私たちを憐れみ、恵みを味わわせてくださいました。今、あなたが私たちと共に住み、私たちの内にいてくださることを感謝します。絶えず御前に謙り、御言葉に耳の開かれた者としてください。目が開かれて、あなたの御業を拝させてください。私たちの体、生活、教会の交わりをとおして、主の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン





4月14日(木) イザヤ書56章

「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」 イザヤ書56章7節

 56章から66章までは、第三イザヤと言われ、第二イザヤの弟子の筆とする学者がいます。預言の内容から、第三イザヤの活動期は、バビロン捕囚からの解放後、エルサレムに第二神殿が建てられた紀元前520~515年頃と考えられています。

 というのは、第二イザヤと第三イザヤには、類似性があるものの、第三イザヤには、第二イザヤに見られなかった神殿礼拝への言及、祭儀への関心、安息日を守ることなどが出て来るからです。それは、エルサレムの神殿が再建され、神殿で祭儀が再開されたこと、捕囚期以来、安息日を守ることが民族のアイデンティティーとして大切にされて来たと考えられます。

 冒頭の言葉(7節)で、「彼ら」と言われているのは、6節の「主のもとに集ってきた異邦人」のことです。3節前半に、「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と」と記されていました。つまり、主が、ユダヤ人と異邦人の区別はないと言われたということになります。

 ということは、主の民であるか否かの区別は、いかなる血筋や民族に属する者であるかで判別されるのではなく、その人の善い行い、即ち、「正義を守り、恵みの業を行う」(1節)人であるか、また、「安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人」(2節)かということで見極められるということです。

 詩編1編1,2節の、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」という言葉も、同じ消息を表わしているでしょう。

 3節後半には、「宦官も言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」とあり、続く4,5節で、「宦官が、わたしの安息日を守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」と約束されています。

 かくて、「会衆に加わる資格」を定めた申命記23章2~9節の規定が廃棄されました。6節で、異邦人が主の民とされる条件が、「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を守るなら」と記されています。

 「わたしの契約を守る」というのが、旧約の律法をすべてきちんと守るということを意味するなら、それは、誰にも出来はしないでしょう(ローマ書3章20節参照)。主が愛と憐れみをもって私たち異邦人をも主の民となるように招き、導いてくださるからこそ、「主に仕え、主の名を愛し、その僕となる」ことが私たちの喜びであり、幸いとなるのです。

 エフェソ書2章に、「キリストによってわたしたち両方(ユダヤ人と異邦人)の者が一つに結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています」(同14,18~20節)と言われいて、それは、イザヤが遠く望んでいたことでしょう。

 主のもとに集ってきた異邦人が主の民とされることを、冒頭の言葉では、「聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と語ります。「聖なる山」とはエルサレムのことで、「わたしの祈りの家」はそこに建てられた神殿のことです。

 主イエスが神殿の境内に入って商人たちを追い払われたとき、7節の御言葉を引用されながら、祈りの家を強盗の巣にしてしまった、と言われました。それは、神殿を神への祈りをささげるという目的以外に利用しているということです。

 「祈りの家」とはしかし、建物のことだけではありません。祈りをささげる人々の集まりという意味でもあります。「祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」とは、祈りの家の一員になるということだからです。逆に言えば、私たちが祈るとき、決して一人で神の前にいるのではなく、神の家の喜びの祝いに連なっていることになるのです。

 私たちは、「すべての民の祈りの家」と言われるような、すべての民のために祈りの手を挙げること、また、すべての民と共に神の御前に祈りをささげる恵みと喜びに共に与るものとなることが期待され、求められています。

 ダビデは、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩編23編5節)と詠いました。神が共にいてくださる喜びと平安の表現です。箴言15章15節にも、「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」、と言われています。

 私たちと共にいて、私たちの祈りに絶えず耳を傾けてくださる主に信頼し、御言葉と祈りによる交わりをとおして、絶えず宴会の喜びに与らせて頂きましょう。

 主よ、どんな時にも祈りへ、御言葉へと導き、祈りの家の喜びの祝いに連なることができますように。祈りの交わりを広く外に向かって開くことが出来ますように。共に主に仕え、主の御名を愛します。私たちを主の僕として用いてください。御名が崇められますように。この地に御心が行われますように。 アーメン




4月13日(水) イザヤ書55章

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」 イザヤ書55章6節

 55章は、第二イザヤ(40~55章)の締めくくりの章です。この章は、「真に福音的な章」と称する学者もあるほどに、重要な箇所ということが出来ます。

 冒頭に「ああ!」(ホーイ)という、嘆きや裁きの際に用いられる間投詞がありますが、新共同訳は訳出していません。ここでは、強く注意を促す「さあ」といった意味で用いられています。

 主なる神は先ず、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)と招かれます。「銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」というのですから、これらは神から与えられる一方的な恵みであることが示されます。

 その言葉に続いて、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と言います。異教の偶像への献金や、そのための労働を揶揄する言葉、また、エルサレムへの帰還を促す預言者の言葉に耳を貸さず、バビロンに留まろうとする者たちに、命の糧ならぬ地上の富、霊的な欠乏を満たすことの出来ない金のために労するのかと質す言葉です。

 そして3節で、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と語ります。捕囚生活でも、水とパンは提供されたでしょう。しかし、イスラエルの民が生きるためには、彼らを活き活きと生かす心の栄養が必要だったのです。主は、御自分に聞き従うすべての者に、生きるために必要なすべてのものを豊かにお与えくださるというわけです。

 主イエスが荒れ野でサタンから、石をパンに変えて空腹を満たしたらどうかと試みられたとき、「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と、申命記8章3節を引用して、誘惑を退けられました(マタイ4章3,4節)。

 これは、霊的なものは神から、しかし空腹を満たすためにはパンが必要、ということではありません。主イエスは、御自分の体の欲求のために神の力を用いることはなさいませんでした。イザヤと同様、必要なものはすべて、神が語られる御言葉によって与えられると言われたのです。

 それから、冒頭の預言者の言葉(6節)で、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」と命じ、すぐに「呼び求めよ、近くいますうちに」とたたみかけます。捕囚から解放され、改めて契約を結ぼうと言われる今、主が近くにおられ、見いだし得るときなのです。

 かつてイスラエルは、「主に信頼せよ」(30章15節参照)という預言者の言葉に耳を傾けず、異教の偶像に頼り、エジプトやバビロンを当てにして難局を乗り切ろうとした結果、主なる神の保護を受けることが出来なくなり、亡国の憂き目を見ることになりました。今改めて、「わたしのもとに来なさい」と招かれる主の言葉を聞き、悔い改めて主のもとに帰るために、この機会を逃してはならないというのです。

 8節に、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」、と言われています。神の思いと人の思い、神の道と人の道の隔絶が詠われています。それは特に、苦難の主の僕の歌に示されるとおり、人の想像をはるかに超えた方法で神は人をお救いになるということです。

 だから、人と神の思いが異なり、道が異なるのは当然なので、私たちは私たちの道を行くという話ではなくて、主なる神と私たちの思いが異なり、神の道と私たちの道が異なっているので、神の御心のうちに留まり、神の道を歩むために、主を尋ね求め、神に立ち帰れと言われているのです。

 牧師になる前、「わたしの考えとお前の考えは違う」という言葉を、直接耳で聞くように聞いたことがあります。ひらめいた言葉といってもよいのかもしれません。そのとき、それは当たり前だ、神と私の考えが違って当然だと思いました。

 高校受験のときから牧師になることを目指していましたが、大学を卒業するころ、召しを感じられず、違う職業を選ばざるを得ませんでした。そのため、何かにつけて後ろめたさを覚えていました。そうして、いつしか聖書を読む楽しさを忘れ、祈る喜びも失っていたのです。ですから、その言葉を耳にして、もう神の道を歩めないということかとさえ思いました。

 けれども、やがてその言葉は、「お前は自分の夢を壊し、自分の計画とは違う道を歩んでいると思っているかもしれないけれども、その道を歩ませることこそが神の思い、神の計画なのだ」という意味ではないかと思えるようになったのです。

 神は、もう二度と神の道を歩ませないということで、そのように言われたのではありません。私たちがどこにいても、何をしていても、神は傍におられ、尋ねれば見出し、呼び求めれば答えてくださるのです。主の御言葉に信頼し、その道を歩み続けたとき、神は私に、神の御言葉の教師となるようにという使命を与え、その道に導いてくださいました。

 以来、主は分かれ道に立つ度に御言葉を示し、進むべき道を教えてくださいます。道を外れそうになっても、その都度、正しい道に呼び戻してくださいました。今あるは、実に神の恵みです(第一コリント書15章10節)。それ以外の何ものでもありません。

 これからも主を畏れ、日々その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと願っています。

 主よ、今日もあなたの憐れみに支えられ、主の道を歩ませて頂いています。あなたに聞くこと梨に、その道を歩むことは出来ません。あなたの御言葉こそ、私たちの足の灯火、道を照らす命の光です。絶えず、御言葉の悟りを与えてください。真理に従って歩むことが出来ますように。 アーメン

 



4月12日(火) イザヤ書54章

「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。」 イザヤ書54章2節

 1節に、「喜び歌え」(ラーニー)、「歓声をあげ」(ピツヒー・リナー:「突然歌い出せ」という意)、「喜び歌え」(ツァハリー:「叫べ」という意)という命令形(2人称単数)の言葉が並んでいます。こう命じられるのは、「不妊の女、子を産まなかった女」、「産みの苦しみをしたことのない女」です。

 当時のイスラエルでは、子を産まない女は祝福から漏れていると見られていました。身籠った女奴隷ハガルが不妊の女主人サラを軽んじたことや(創世記16章4節)、ヤコブの妻ラケルが男の子を産んで、「神が恥をすすいでくださった」と言ったこと(同30章23節)などが、それを裏付けています(サムエル記上1章も参照)。

 1節で、「不妊の女、産みの苦しみをしたことのない女」と言われるのは、エルサレムのことです。バビロンに滅ぼされて神殿は焼かれ、城壁は崩され、多くの住民は捕囚となり、残りの民も四散して、町は荒れ果てたままにされていました。まさに、神の都が周囲から辱めを受けていたのです。

 それがここで「喜び歌え」と命じられるのは、神がその恥を雪いでくださり、繁栄が回復されるということです。「夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなる」とは、そのことを言うのです。

 「夫に捨てられた女」(ショーメイマー)は、「夫ある女」(ベウラー)との対比による意訳で、もともと、「荒れ果てた、荒廃した」という言葉です。バビロンに滅ぼされ、荒れ廃れる前のエルサレムは、夫ある女、神の保護の下にあった都でした。神の御前から捨て去られることになったのは、彼らが主に背き、その目に悪とされることを行って、主の怒りを買ったからです(列王記下24章20節、歴代誌下36章15,16節)。

 不妊の女、夫に捨てられた女が子を持つというのは、通常あり得ない話です。しかも、夫ある女より多くの子を持つというのです。つまり、エルサレムは、神の深い憐れみにより、かつての繁栄を取り戻すだけでなく、それ以上に豊かに繁栄するようになると言われるのです。

 主なる神は、続けて冒頭の言葉(2節)の通り、「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て」と命じられます。子どもが多くなり、その場所が必要だからです。

 51章2節に、「あなたたちを産んだ母サラに目を注げ」と言われていましたが、サラは、不妊の女と言われていました(創世記11章30節)。しかも、90歳という高齢となっていましたが、息子イサクを産みました(同21章1節以下)。アブラハムとサラは、生まれたイサクのために、テントを広げる必要があったでしょう。

 イサクとは、「笑い」という意味の名前です(創世記17章19節)。彼らははじめ、神の言葉が信じられず、ひそかに笑いました(同17章17節、18章12節)。それは、嘲りを込めた、しかし、寂しく悲しい笑いでした。ところが、イサクが生まれたことで、彼らは心から喜び笑うことが出来たのです(同21章6節)。

 イザヤがこの預言を語ったとき、バビロンにいる捕囚の民は、喜び歌う気になれたでしょうか。エルサレムに戻り、広く場所をとる備えを始めたでしょうか。実際、気落ちしている者を励まし、立たせるのは、簡単なことではありません。イスラエルの人々がこの言葉で奮い立つことが出来たとすれば、それは、まさにこれが神の言葉だからであり、そこに聖霊の力が働いたからです。

 神は今、私たちにも、この言葉で語りかけられます。「天幕に場所を広く取り」とは、神様の御声に聴き従う心の大きさのことであり、それは即ち、私たちが神様をどれほど大きな存在と考えているかということでもあります。

 口では、天地万物を造り、その一切を御手の内に支配しておられる神と言いながら、私たちの生活の中には、どれほどの場所も用意されていない状態、言い換えれば、現実の生活の中でどれほども神に期待しないという状態になってしまってはいないでしょうか。

 神は私たちに、小さくなれ、現実的になれ、と言われているのはでなく、神に信頼して、大きな者、繁栄する者となるようにと、神に期待して、神のための場所を拡大せよ言われるのです。それはまず、神を喜び祝うことから、始まります。神を賛美するとき、私たちの中で神が拡大(magnify)されるのです。

 そうすると、恵みに満たされ、平安に満たされ、喜びが溢れ出てくるでしょう。そして、その喜びを分かち合いたくなるでしょう。そうして、私たちの生活の中に、神の恵みにある喜びを分かち合う場が拡げられていきます。そこに、さらに新しい人を迎えたくなるでしょう。かくて、霊的に、質的に、そして量的にも、豊かに拡大、成長させていただくことになるでしょう。 

 主よ、私たちのあなたを信頼する心の杭を強固にしてください。主にあってビジョンの綱を長くすることが出来ますように。祝福され、恵みを受ける場所を広くすることが出来ますように。信じて祈る者の祈りに主が豊かに応えてくださると信じます。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン




4月11日(月) イザヤ書53章

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら背負った。」 イザヤ書53章11節

 52章13節~53章12節が、「主の僕の歌」の第4歌、最終の歌です。

 この歌は、「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(52章13節)という言葉で始まります。「栄える」(サーカル)は、「賢く振る舞う」という意味の言葉で、「成功する」とも訳されます(ヨシュア記1章7,8節参照)。ところが、続く14節には、「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」と記されており、その栄光を失ってしまったかのようです。53章2節でも、同様に語られています。

 15節に、「彼は多くの民を驚かせる」とあります。それは、主の僕が神の栄光を受けて高く上げられたからであり、しかしながら、見る影もないその姿を見たからという、二重の理由のゆえでしょう。これは、イスラエルが、バビロンによって壊滅させられたときの惨状と、その後、捕囚から解放されて自由にされたときの高揚感が、共に人々の驚きの対象になったのでしょう。

 「王たちも口を閉ざす」は、尊敬のしるしとしての表現で、「誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったから」と合わせて、捕囚のイスラエルの状況が突如として変化し、解放されて帰国することが出来たのを目の当たりにした驚きが示されています。

 53章2節に、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った」とあります。神の祝福を受けて成功する人が、十分に水を与えられて育つ植物にたとえられるように、ここでは、水分が十分得られずに干からびてしまう植物のように育つというのは、神の祝福が取り去られたということを語っているようです。

 そのために、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」(3節)ます。人々はその姿を見て、「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」(4節)と考えるのです。しかし、主の僕は、神に背く者たちの病を担い、その咎による痛みを負って、苦しんでいたのです(4節)。

 7節には、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」と記されて、ここに、この僕が自分の置かれた境遇を甘受し、黙々と歩んでいる様子が描かれています。

 「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」(9節)のは、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は臨まれ、彼は自らを償いの献げ物とした」(10節)からであると説明されます。つまり、主の僕の苦しみは、主なる神の御心によることであり、僕の死は、多くの人々の罪の償いの献げ物となるためだったというのです。

 最初に、「わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(52章12節)と語られていたのは、神の御心に従って人々から蔑まれ、見捨てられるほどに低くされた僕が、私たちの身代わりとして贖いの業を成し遂げたゆえに、神が僕に栄光を与え、高く上げられるということだったわけです。

 この「僕」について、学者たちの間に様々な議論がありますが、キリスト教会は伝統的に、この僕こそ、主イエス・キリストであると考えて来ました。主イエスは神の独り子であられますが、人となってこの地上に来られ、私たち人類の罪の身代わりに、十字架にかかって死なれました。

 当時のユダヤの指導者たちは、ゲッセマネの園で主イエスを捕らえた後(マルコ14章43節以下)、大祭司カイアファの屋敷に連れて行き、そこで主イエスが神を冒涜する者であると断じ、死罪を言い渡しました(同53節以下、64節)。その後、ローマ総督ピラトは、「十字架につけろ」と叫ぶ群集の声に負けて、主イエスを十字架につけることに同意しました(同15章14,15節)。

 主イエスは、二人の強盗と共に朝の9時に十字架につけられ(同25,27節)、午後3時過ぎに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んで、息を引き取られました(同34,37節)。そして、アリマタヤ出身のヨセフというサンヒドリンの議員の墓に葬られました(同43,46節)。

 主イエスの弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げてしまいました(同14章50節)。主イエスが十字架で死なれたとき、それが私たちの背きの罪のため、身代わりとなってその呪いを身に受けてくださるためだったと理解出来た者は、誰もいなかったのです。それはまさに8節で、「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」と言われている通りです。

 しかし、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(5節)のです。そして、神は、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であられたキリストを「高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのです(フィリピ書2章8,9節)。

 今日、地の果ての日本に福音が伝えられ、主イエスを信じる信仰に与る者が起こされているのは、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(11節)とあるように、甦られた主がそれを御覧になりたいと望まれたからであり、そして、その結果を喜んでいてくださるからです。

 主イエスをお喜ばせするため、福音を宣教する働きにさらに励んで参りましょう。

 主よ、私たちが救いに与り、約束された聖霊に満たされるため、御子キリストが罪の呪いを身代わりに受けてくださいました。この驚くべき恵みに心から感謝しています。この恵みを無駄にせず、今年度も伝道する教会、伝道する信徒として用いてください。御名が崇められますように。 アーメン




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