「わたしはあなたをわが民の中に、金を試す者として立てた。彼らの道を試し、知るがよい。」 エレミヤ書6章27節
1節以下に、エルサレムへの裁きが宣告されます。「災いと大いなる破壊が北から迫っている」と言われていることから、神がバビロンを、エルサレムを裁く器として用いられることが分かります。テコアは、エルサレム東南の丘陵にある、預言者アモスの故郷です。ベト・ケレムは、エルサレムの西方にあったと考えられています。角笛やのろしは、戦いの合図で、いよいよ戦いがエルサレムに臨むということです。
その合図を受けて、「羊飼いが、その群れと共にやって来る」(3節)と言われます。「羊飼い」(ローイーム)は、2章8節で「指導者」と訳されています。つまり、王が軍隊と共にやって来るということです。「彼女」たるエルサレムに向かって陣を敷きます。6節には、周辺の木が切り倒され、土塁を築く材料とされることが記されます。
神は、「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て、荒れ果てて人の住まない地とする」(8節)と言われています。つまり、バビロンがエルサレムを陥落させることが神の御心で、その災いを神の懲らしめとして、民が神の御前に悔い改めることを願っておられるのです。そうでなければ、徹底的な裁きが臨み、エルサレムの都が、人の住まない荒れ野になってしまいます。これは、まさに最後通牒なのです。
その合図を受けて、「羊飼いが、その群れと共にやって来る」(3節)と言われます。「羊飼い」(ローイーム)は、2章8節で「指導者」と訳されています。つまり、王が軍隊と共にやって来るということです。「彼女」たるエルサレムに向かって陣を敷きます。6節には、周辺の木が切り倒され、土塁を築く材料とされることが記されます。
神は、「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て、荒れ果てて人の住まない地とする」(8節)と言われています。つまり、バビロンがエルサレムを陥落させることが神の御心で、その災いを神の懲らしめとして、民が神の御前に悔い改めることを願っておられるのです。そうでなければ、徹底的な裁きが臨み、エルサレムの都が、人の住まない荒れ野になってしまいます。これは、まさに最後通牒なのです。
しかしながら、民はエレミヤの言葉に耳を貸しません。「誰に向かって語り、警告すれば聞き入れるのだろうか」(10節)とはそのことを示します。御言葉を語っても、民は主を侮り、それを受け入れようとしないのです(10節)。
「耳は無割礼」について、使徒言行録7章51節でステファノが、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と語っていました。神の御告げに耳をふさぎ、預言者を嘲る行為は、無割礼の者、即ち、神の民ではないというしるしというわけです。
神の警告を嘲笑され、受け止めようとしないなら、語っても無駄です。けれども、だんまりを決め込もうとすると、今度は主が、「それを注ぎ出せ、通りにいる幼子、若者の集いに」(11節)と言われるので、エレミヤは徒労感で疲れ果ててしまいます。
民の中には、エレミヤの預言を聞き、アッシリアに打ち勝ったバビロン帝国の台頭に不安を抱く者も少なからずいたと思われますが、そんな時、預言者から祭司に至るまで、民を欺いて、「平和、平和」(シャローム、シャローム)と言います(13,14節)。つまり、大丈夫、心配することはないというのです。
本当に大丈夫なら、本当に「平和」であるなら、確かに何の心配もありません。しかし、たとえば重傷で一刻の猶予もならないというときに、適切な治療をせず包帯を巻いて、もう大丈夫というだけであれば、それは、自分の無知無能ぶりをさらしているのだと、主が言われています(15節)。それは、神の裁きを前に、まことの癒し主である主に尋ね、その御言葉に聴き従うことなしに、真の癒しを得ることは出来ないということです。
主イエスが、汚れた霊に取りつかれた子どもを癒されたことがあります(マルコ福音書9章14節以下)。初め、主イエスが不在で、弟子たちが霊を追い出そうとしましたが、出来ませんでした。なぜ出来なかったのか議論しているところに主イエスがお戻りになり、事情を聞かれます。そのとき主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(同23節)と言われました。そして、霊を追い出してしまわれました。
後から弟子たちが、「なぜ、わたしたちは追い出せなかったのでしょうか」(同28節)と尋ねると、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」(29節)と言われました。
ここで主イエスは、祈りさえすれば、信仰のあるクリスチャンなら誰でも、霊を追い出せるという、悪霊追放のノウハウを仰っておられるのではありません。弟子たちは、勿論祈って霊を追い出そうとしたことでしょう。彼らは主イエスを信じる者でしょう。けれども、その時彼らは、汚れた霊を追い出すことが出来なかったのです。
祈りという「方法」で霊を追い出すということではなく、祈りを聞かれる主が、汚れた霊を追い出してくださるということです。主イエスこそ、なんでもお出来になる方であると信じてお頼りする、主に問題を委ねる、それが信じる者の態度、祈りの姿勢ということでしょう。
冒頭の言葉(27節)で神はエレミヤに、「わたしはあなたをわが民の中に、金を試す者として立てた」と言われました。金鉱石を600度を越える温度で溶かし、そこから不純物を取り除いて純金を取り出します。1トンの鉱石から採れる純金は僅か40グラムです。エレミヤの預言が、金を試す火のような役割りを果たすということです。
それは、イスラエルにとって、厳しい言葉が語られるということです。彼らがその言葉の前に謙り、聴き従うならば、信仰が清められ、高められることでしょう。もし聴き従わないならば、彼らの信仰は「青銅や鉄の滓」のように、つまり、捨てられて当然のものということが表されるということです。
エレミヤは、彼の語る預言の言葉が、民に受け入れられず、むしろ侮られていることを、痛みに感じていました。しかし、その痛みは、神ご自身の痛みであり、悲しみでした。民がご自身を信頼せず、その道に歩まない「滓」のような存在であることが、いよいよ明らかになったからです。
16節に、「さまざまな道に立って、眺めよ」とあります。口語訳は「分かれ道に立って、よく見」、新改訳は「四つ辻に立って見渡し」と訳しています。「幸いに至る道」を見出して、「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」というのです。
私たちにとって、主イエスこそ、その道です。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。この道を主と共に歩んで、永遠の安息に入らせていただきましょう。
主よ、私たちはあなたの深い憐れみによって主を信じる信仰に導かれ、バプテスマを受けて主の教会に加えられました。恵みと導きに感謝致します。委ねられた務めは、主イエスの証人として、キリストを知るという知識の香りを周囲に漂わせることです。神に献げられる良い香りとして用いられるように、私たちを御言葉と御霊を通して、清めてください。御心が行われますように。御国が来ますように。 アーメン