風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年03月

3月22日(火) イザヤ書33章

「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」 イザヤ書33章22節

 1節に、「災いだ、略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者は」とあります。冒頭の「災いだ」(ホーイ)という言葉は、旧約聖書中に51回用いられていますが、列王記下13章30節で、老預言者の言葉として語られる以外は、すべて預言書で用いられています。

 28章から本章までに6回(28章1節、29章1,15節、30章1節、31章1節、33章1節)、「ホーイ」で始まる段落があり、意図的にここに配置されたかのようです。これは、「ああ」という慨嘆の言葉(間投詞)ですが、単に不幸だというようなことではなく、むしろ、「呪われよ」という意味の、神の裁きを示す言葉遣いではないでしょうか。

 これまで、イスラエルに対して「災いだ」と語られて来ましたが、本章でその対象が、イスラエルの敵に代わります。「略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者」とは、ヒゼキヤの代にエルサレムの都に攻め寄せたアッシリアのことを言っているようです。岩波訳は1節以下の段落に、「アッシリアへの処罰」という小見出しを付けています。

 ヒゼキヤ王の治世第14年(紀元前701年)にアッシリア王センナケリブが南ユダに大軍を送り込み、町々をことごとく撃破し(列王記下18章13節)、エルサレムに迫ります。9節で、「レバノンは辱められて、枯れ、シャロンは荒れ地となり、バシャンとカルメルは裸になる」というのは、アッシリアによって、善きものがすべて奪われてしまったという表現でしょう。

 それを見たヒゼキヤはアッシリアに使者を遣わし、朝貢を条件に和睦を申し入れると、センナケリブは、その条件を提示しました(同14節)。そこでヒゼキヤは条件通りに貢ぎを贈りました(同15,16節)。それで、問題が解決されるはずでした。

 ところが、貢ぎを受け取ったアッシリアの王センナケリブは、ヒゼキヤを欺いて大軍でエルサレムを包囲し、エルサレムの都の無条件降伏を迫りました(同17節以下)。だから、「略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者」(1節)と言われるのです。

 それに対してヒゼキヤは、「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」(2節)と、祈りの手を上げます。自分たちの力ではアッシリアに対抗することは出来ず、大群に取り囲まれて万策尽きたという状況で、しかしながら、イスラエルには、なお頼るべきお方があるということを示しています。

 そして、まさに「苦しいときの神頼み」というかたちの祈りであるにも拘わらず、主は耳を傾け、応えてくださいます。10節に、「今や、わたしは身を起こすと主は言われる。今や、わたしは立ち上がり、今や、自らを高くする」と言われるとおりです。そして、主は焼き尽す火となられ、イスラエルを苦しめる者を焼き尽されるのです(11,12節)。

 列王記下19章1節以下、ヒゼキヤがイザヤに執り成しを願い、主なる神は、クシュの王が戦いを交えようと軍を進めているという噂をアッシリアの王に聞かせます(同7,9節(。アッシリアの王は、クシュとの戦いに備えるため、すぐにイスラエルを全面降伏させようと、さらに脅迫します(同10節以下)。

 それを受けて、ヒゼキヤは生ける神である主に救いを求めて祈りました(同15節以下)。絶体絶命の危機において、ヒゼキヤの信仰が研ぎ澄まされたようです。主はその願いに応え、主の御使いを送って、アッシリア18万5千の大軍を一夜にして全滅させられました(同35節)。

 17節以下は、この一連の災いの預言のまとめの部分です。ここに描かれるのは、終わりの日の都エルサレムの様子です。「安らかな住まい、移されることのない天幕。その杭は永遠に抜かれることなく、一本の綱も断たれることはない」(20節)と、神の幕屋が永遠に固く据えられています。

 そこには、多くの川、幅広い流れがあると言われます(21節)。エゼキエル書47章の、神殿の敷居の下から湧き上がった命の水の豊かな流れや、黙示録22章の都の大通りの中央を流れる命の水の川を思わせます。詩編の記者が、「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に」と詠っています(詩編46編5節)。

 「魯をこぐ舟はそこを通らず、威容を誇る船もそこを過ぎることはない」(21節)と言われます、「魯をこぐ舟」、「威容を誇る船」とは、ローマのガレー船のような戦艦を思わせるもので、イスラエルに対して横暴に振る舞ったアッシリアのような大国を示しているようです。しかし、人々に安らぎを与える命の水の川は、そのようなものが通る場所ではないというのです。

 そして冒頭の言葉(22節)のとおり、「まことに、主は我らを正しく裁かれる方、主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる」と言われます。かつて、イスラエルの民は、不信仰、不従順によって神の怒りを招き、国の滅亡と捕囚という災いを味わわなければなりませんでした。

 しかるに神は、イスラエルに憐れみの御手を伸べられ、神の霊を遣わして、新しい神の民を創造されるのです。主なる神ご自身がその国の王となられます。もはや、大国の横暴に怯えることも、重税に苦しめられることもありません。神が正義と公正をもって統治される国には、いたるところ真理と慈しみが満ちています。

 主を心の王座にお迎えし、恵みに与らせて頂くため、すべてを主の御手に明け渡し、十字架の血潮によって洗い清めて頂きましょう。

 主よ、あなたの豊かな栄光に従い、霊により私たちの内なる人を強め、信仰をもって心の内にキリストを住まわせ、私たちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように。キリストの愛の広さ,長さ,高さ,深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知り、ついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるように。 アーメン




3月21日(月) イザヤ書32章

「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。」 イザヤ書32章15節

 1節の「見よ、正義によって一人の王が統治し」という言葉は、かつて、メシアの到来を指しているという解釈がありましたが、後半の「高官たちは、公平をもって支配する」という言葉から、正義(ツェデク)と公平(ミシュパート)をもって政治を行うのが、理想的な指導者であるという表現だと考えられるようになりました。

 「一人の王が統治する」というのは、あるいは具体的な人物を考えているのかもしれません。イザヤが存命中ということであれば、それは、ヒゼキヤ王のことではないかと思われます。また、イザヤの死後に登場して来るヨシヤ王を指すという解釈もあります。

 ただ、ヒゼキヤもヨシヤも、所謂、理想的な王、メシアのような王ではありませんでした。ヒゼキヤはアッシリアと対抗するためにエジプトと結んだこと(30,31章)、また、晩年はバビロンと通じたことでイザヤの批判を受けています(列王記下20章12節以下、16~18節)。

 ヨシヤ王は、徹底的な宗教改革を行った結果、祝福を受けて国力を回復します。ところが、それが奢りとなったのか、バビロンと戦うアッシリアを支援しようとカルケミシュに向けて出陣したエジプト軍に対し、メギドで無用の戦いを仕掛けて、残念なことに、ヨシヤはそこで戦死してしまいました(歴代誌下35章20節以下、22,24節)。

 その後、ユダはエジプトの支配下に置かれ(歴下36章1節以下)、次にバビロンの支配下に移されます(同6節以下)。9節以下に、「憂いなき女たち」に対する預言がありますが、これは、14節の「宮殿は捨てられ」という言葉から、エルサレムに住む人々を指していることが分かります。

 1年余りぶどうの収穫がないこと(10節)、美しい畑が茨といらくさに覆われるということ(13節)で、都が荒れ果てたままになることが描かれ、それを14節で具体的に、「宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ、見張りの塔のある砦の丘は、とこしえに裸の山となり」と語っています。ヨシヤ王の死後、南ユダは力を失い、急速に滅びの坂を転がり落ちてしまうのです。

 イザヤは恐らく、これをヨシヤ王の後のこととしてではなく、神に信頼するのではなく、エジプト、即ち人の力に頼ろうとしたヒゼキヤ王のときに起こることとして、ここに預言しているものと思われます。

 ところが、冒頭の言葉(15節)のとおり、「ついに、我々の上に、霊が天から注がれる」という言葉が突然語り出され、ここに、最後に神の霊の賜物が注ぎ与えられること、それによってイスラエルの運命の転換がなされることが示されます。それは上から、つまり、イスラエルに神の救いが与えられるのが、神の御心だということです。

 エルサレムの都が神に捨てられ、荒れ廃れるという苦しみを味わった後、神の霊が降ってきて、ここに新しい命が注ぎ込まれます。霊は、生命を与える神の力です。この霊の力で、「荒れ野は園となり、園は森と見なされ」るようになります。

 それは、復興というよりも、再創造といってよいでしょう(詩編104編29,30節参照)。そこには、霊の力により、正義と公平が宿ります(16節)。それは1節で、イスラエルの指導者のあるべき姿として示されていたものです。

 正義と公平によって、平和が造り出され、安らかな信頼が生み出されると言います(17節)。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)と預言されていましたが、神は、上より神の霊を注がれ、その預言を自ら実現してくださいます。

 それは、かつて人が神に背いて追い出されたエデンの園を、再びイスラエルの民のために創造されたと言えばよいのでしょう。そこでは、人が神を心から信頼し、人と人との間に、人と自然の間に、真の平和があるのです。

 このことは、ヨエル書3章の預言に通じています。そして、新約の時代、ペンテコステの日に聖霊が使徒たちの上に降り、彼らが大胆に福音を語り出して、3000人もの人々が信仰に入りましたが(使徒言行録2章1節以下4,41節)、ペトロはその説教の中でヨエル書の預言を引用しながら、ペンテコステの日に起こったのは、ヨエルの預言の成就であると語りました(同16節以下)。

 この聖霊の力により、血筋、民族によらず、信仰によって、あらゆる国民が神の民となる道が開かれたのです。我が国にも、天から霊が注がれ、荒れ野が園に、園が森と見なされるような神の恵みに満たされるときが到来するよう、祈ります。

 主よ、どうか私たちに、日本全国の教会の上に、聖霊を注いでください。主イエスを信じる者ひとりひとりが、十字架の主イエスを仰ぎ、その血潮によって清められ、聖霊に満たされて、御言葉に生き、力強く福音を証しすることが出来ますように。 アーメン




3月20日(日) イザヤ書31章

「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」 イザヤ書31章3節

 「災いだ」(ホーイ:間投詞・悲嘆の声「ああ!」)という言葉が1節冒頭にあります。これは、イザヤ書中に21回(第一イザヤに18回)用いられており、神の御心に背く者たちへの裁きが告げられることを示しています。そして、この言葉はここで、「助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者」と言われる南ユダの王ヒゼキヤに向けられています。

 この背景は、18~20章で学んだように、エチオピアの王シャバコがエジプトを征服してファラオになったとき、ヒゼキヤがパレスティナ諸国と共にエジプトに助力を依頼し、アッシリアに反旗を翻したことにあります。「馬を支えとする」とは、馬が戦車や騎兵など戦争に用いられるもので、エジプトの軍事力に頼ることを言います。

 もしも、列王記下18章6節に記されているとおり、「彼(ヒゼキヤ)は主を堅く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」ということであれば、ここでイザヤから「災いだ」と言われることはなかったでしょう。

 確かにヒゼキヤは、主を信じ、その御言葉を行うことに意を用いた善い王だったかも知れません。ですから、ペリシテなどとは違い、イザヤの指導もあって、エジプトとの同盟に積極的に参加してはいなかったのかも知れません。

 けれどもイザヤは、「助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとしている」とヒゼキヤを批判し、それは、「イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない」(1節)ことだと断じています。2節の「災いをもたらす者の家」、「悪を行う者」とはいずれもイスラエルのことで、「災いをもたらす」、「悪を行う」とは、神に聞き従おうとしないこと、所謂、不信仰な振る舞いをしているということです。

 2節の初めに、「しかし、主は知恵に富む方」と記されています。これは、ヒゼキヤらがエジプトに助力を頼むことを、知恵ある振る舞いと考えていることを予想させ、そのことに対する批判が込められているといってよいでしょう。

 冒頭の言葉(3節)のとおり、「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」と言い、エジプトに頼ることが、むしろ愚かな選択であることを示します。

 これはしかし、ひとりヒゼキヤだけの問題ではありません。エジプト人が神でないこと、馬が霊でないことは、百も承知です。けれども、神が霊であるということは、不信仰な者にとってそれは、目には見えず、手で触れることも出来ない不確かなものという表現であり、それは、無きに等しいものということにさえなります。

 パウロが、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント書4章18節)と言っていますが、私たちもそのように宣言することが出来るでしょうか。実際、見えないものに目を注ぐというのは、言うほど容易いことではありません。どうしても、見えるところに左右され、状況に振り回されてしまいます。

 「霊」(ルーアッハ)は「息、風」とも訳されます。神が人を造られたとき、御自分の命の息を吹き入れて、人は生きる者となりました(創世記2章7節)。ですから、霊は命を与えるもので、その命を受けなければ、肉なるものは生きることが出来ません。つまり、人や馬、すべての生物は、創造主なる神なしには存在し得ないといっているわけです。

 目に見えない神に頼るよりも、見える人間の力を頼りとする方がよいということであるならば、神の助けを期待することは出来ません。むしろ、「主が御手を伸ばされると、助けを与える者(エジプト)はつまずき、助けを受けている者(イスラエル)は倒れ、皆共に滅びる」(3節後半)という結果を招いてしまいます。

 エジプトの軍勢がアッシリアに撃破されて、ヒゼキヤはエジプトの助力を得られずにエルサレムに閉じ込められ、ユダの各地の要塞が次々と陥落し、ついに降伏を余儀なくされました。それが、列王記下18章13,14節に記されているところです。 

 真に恐るべきは、万物の創造主であり、審判者であられる神です。もしも、信仰の目が開かれたなら、大漁の奇跡を見て主イエスの神性に接したペトロが、自分の罪深さを示されて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5章8節)と語ったように、私たちも、神の前に立つことの出来ない者であることを悟るでしょう。

 けれども、その悟りを得たペトロに主イエスは、「恐れることはない」と言われ、そして、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と、その使命を授けられました(同10節)。主イエスをまことの神として認め、畏れること、そこから主の僕としての使命が始まるということです。

 神の慈しみと厳しさを考えましょう(ローマ書11章22節)。主の慈しみの御手のもとに留まりましょう。御言葉に聴き従いましょう。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。

 主よ、私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来ますように。心の目を開き、神の招きによってどのような希望が与えられているか、私たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、そしてまた、私たちに対して絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか、悟らせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン




3月19日(土) イザヤ書30章

「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。」 イザヤ書30章21節

 アッシリアの王サルゴンの死を契機に、パレスティナ諸国に独立の気運が高まり、エジプトに使いして助力を依頼します。ユダのヒゼキヤ王もこの同盟に加担し、アッシリアへの朝貢を中止しました。そのことについて、イザヤは「災いだ、背く子らは」と語り(1節)、この同盟が神から出たものでなく、その意味ではイザヤに知らせず、政治的に行われたということを物語っています。

 6節に、「ネゲブの獣についての託宣」とあります。ネゲブはユダ南方の荒れ野です。「ネゲブの獣」という表現で、エジプトとパレスティナを結ぶ場所が人の生存を脅かす獣の住処であることを示しており、それによって、エジプトとの同盟を結ぶため、「富をろばの背に、宝をらくだのこぶに載せて、ほえたける雌獅子や雄獅子、蝮や、飛び回る炎の蛇が住む」(6節)荒地を行くのは危険であり、また無益なことである、というのです。

 これは、エジプトとユダ王国との交流を妨げるために、アッシリアが海沿いの道を封鎖していて、それでシナイ半島を横断するという、あまり使われず、危険の多い南方ルートを選んで密使を送ったということかも知れません。

 イスラエルの神は、エジプトではなく、主ご自身を頼りとするように、「お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と告げられます(15節)。

 これは、7章4,9節で、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と、ヒゼキヤの父アハズに告げられた言葉を思い起こします。アハズは、神に信頼するよりアッシリアに貢ぎ物を贈り、アラム・エフライム連合軍の攻撃に対しました(列王記下16章5節以下、8節)。

 ヒゼキヤも、イザヤの告げる声に耳を貸そうとせず(15節)、「馬」、「速い馬」を求めます(16節)。それは本来、戦いのためのものです。エジプトの武力を頼みとして、アッシリアに対抗しようとしているわけです。

 しかしながら、ここでは、「逃げよう」と語られて、エジプトとの同盟があてにならず、かえって状況を悪くしてしまう結果になると告げられているわけです。実際、アッシリアの武力の前にエジプト軍も撃破され、ユダの町も次々と占領されました。そのとき、20万もの人々が捕虜としてアッシリアに連行されたそうです。

 「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」(20節)とありますが、これは、エジプトの奴隷から解放されたことを記念する過越の食事を思わせます。そして今、あらためてアッシリア・バビロンという災いと苦しみを味わっていることが示されます。それが、神に信頼せず、人に依り頼んでことの解決を図ろうとした罪の結果でした。

 けれども、神は彼らにただ「災いのパン、苦しみの水」をお与えになったわけではありません。それによって信仰に目覚めさせ、「主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる」(19節)と語られます。その恵みは、霊の目が開かれることで、「あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」(20節)と言われます。

 彼らの耳も開かれて、神が語りかけられる声を聞きます。神は、冒頭の言葉(21節)のとおり、「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と指示されます。御言葉どおり主を信じてその道を行くということは、「銀で覆った像と金をはり付けた像を汚」(22節)すこと、即ち、異教の神々に依り頼まないこと、目に見えるもの、人の手で造られたものを捨て去ることです。

 そうすると、主が「地に蒔く種に雨を与えられる」ので、「穀物は豊かに実る」ようになり、「家畜は広い牧場で草をは」む(23節)という祝福に与るのです。「主は恵みを与えようとしてあなたを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」(18節)と告げられるとおりです。

 主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命なのです。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われ(ヨハネ福音書14章6節)、また、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(同10章10節)と言われました。

 信仰の目が開かれて絶えず十字架の主を仰ぎ、信仰の耳が開かれて常に主の御声に聴き従い、右にも左にも逸れずまっすぐに、真理であり、命であられる主の道を進みましょう。

 主よ、心の目が開かれて、主の御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいますように。あらゆる覆いが取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきますように。主の御声に耳を傾け、御言葉の導きにまっすぐに従うことが出来ますように。 アーメン




3月18日(金) イザヤ書29章

「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブに向かって、こう言われる。『もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない』。」 イザヤ書29章22節

 「アリエルよ、アリエルよ、ダビデが陣を張った都よ」と、1節にあります。「アリエル」について、「ダビデが陣を張った都」と言われていることから、エルサレムの都をそのように呼んでいるということになります。何故、エルサレムをアリエルと呼ぶのか、以前にもそのように呼ばれていたのか、よく分かりません。

 この町は、もともとエブス人の町で、シオン(要害)と呼ばれて難攻不落を誇っていましたが、ダビデは周囲に陣を張り(1節)、水汲みのトンネルを通って町に入り、陥落させました(サムエル記下5章6節以下)。

 その後、ダビデはこの町に先ず王宮を建て(同5章11,12節)、続いて、神の幕屋を建てて神の箱を運び上げました(同6章17節)。それから、その子ソロモンがここに壮麗な神殿を建てました(列王記上6章)。ゆえにエルサレムは、神の都と呼ばれました(詩編48編2,6節など)。

 しかるに、今度は、主なる神がエルサレムに向かって陣を張り、この町を攻められます(3節)。2節に、「アリエルには嘆きと、ため息が臨み、祭壇の炉のようになる」と言われています。「祭壇の炉」と訳されているのが、「アリエル」で、供え物を焼いて献げる祭壇を意味します。これは、エルサレムが祭壇で、その住民が神への供え物として焼かれるということでしょうか。

 エルサレムが主なる神によって攻められる理由は、エルサレムの指導者たちが心迷い、目が閉ざされているからです(9節以下)。これは、紀元前701年にアッシリア軍がエルサレムの城壁まで押し寄せてきたときのことを物語っているのかも知れません(列王記下18章13節以下)。

 当時、南ユダのヒゼキヤ王がエジプトと同盟を結び、アッシリアに反旗を翻したのです。このような、神に頼らず人に頼ろうとしている振る舞いを、目が見えず、酒に酔っているようなものと断じているのではないでしょうか。13節で、「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚えこんだからだ」と言っているのは、そのことだと思います。

 しかし、神はエルサレムを顧み、神の御使いを送ってアッシリア軍を打ち、一夜のうちに全滅させられました(同19章35節)。これはイザヤが、「アリエルを群がって攻撃する国はすべて、夢か夜の幻のようになる。彼女を攻撃し、取り囲み、苦しめる者はすべて」と、7節に語っている通りです。

 アッシリア軍の全滅は、列王記の記事に拠れば、それはヒゼキヤの信仰のゆえというようにいうことになりそうですが、むしろアッシリアの王センナケリブとその使者ラブシャケの高ぶりが原因であり、それゆえに南ユダを神が憐れんでくださった結果であると思われます。

 17節以下に、「イスラエルの回復」が述べられます。その日には、聞こえなかった者が書物の言葉すら聞き取り、見えなかった者が見えるようになり、苦しんでいた者が喜び祝い、貧しい人々が喜び躍ると言われます(18,19節)。

 そして冒頭の言葉(22節)に、「アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家に向かって、こう言われる。『もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない』」と記されています。「アブラハムを贖われた」とは、アブラハムを御自分のものとされたということです。

 跡継ぎのないまま年を重ねていたアブラハムは、神に「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と語りかけられて、アラム・ナハライムのハランを出立し、約束の地カナンに導かれました(創世記11章27節以下、12章1節以下)。そこに嗣業の地を得、子孫が与えられたのです(同21章、23章)。

 であれば、この預言は、エルサレムが陥落し、国が滅びてバビロンの捕囚となり、幾多の苦しみ、辱めを味わったイスラエルの民が、神の憐れみにより解放されて帰国を果たし、神殿と町を再建してその恥を雪ぐということを示しているのではないでしょうか。イスラエルの民は、その不信仰のゆえに恥を被りましたが、神の憐れみにより、その縄目からの解放に与ることが出来ました。

 憐れみと慈しみに富む主なる神は、私たちにも信仰によって神の子とされる恵みをお与えくださいました。「彼はその子らと共に、民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする」(23節)と言われます。「聖とする」(カーダシュ)をギリシア語で「ハギアゾウ」といい、これは、主の祈りで「あがめる」と訳されています。「わが名を聖とする」は、主を崇めるということです。

 恵み深い主に依り頼み、日々その御言葉に耳を傾け、絶えず御霊の導きに従い、喜びと感謝をもって常に真理の道を歩ませて頂きましょう。

 主よ、私は主イエスの十字架と復活に示された主の深い愛と憐れみのゆえに罪赦され、神の子とされました。主イエスは今も生きて、私の心の内に、私と共におられます。その御言葉を慕い求めて、御前に進みます。絶えず、命の言葉をもって養い、真理の道に進ませてください。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン




3月17日(木) イザヤ書28章

「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって、麗しい冠、輝く花輪となられる。」 イザヤ書28章5節

 1節に、「災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は」とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、「冠」は、北イスラエルの首都サマリアを指します。4節の「肥沃な谷にある丘を飾っているその麗しい輝き」もサマリアのことを指しているといってよいでしょう。

 ところが、3節で、「エフライムの酔いどれの誇る冠を、御足で踏みにじられる」と言われます。宴会の客が身につけていた花の冠が、いつしか投げ落とされ、踏みにじられてしまうように、サマリアの町、そして北イスラエルは、「激しく降る雹、破壊をもたらす大風、激しく押し流す洪水のよう」(2節)な主の御手によって、地に投げ倒されてしまうのです。

 北イスラエルの指導者たちは、真の神に聴き従わず、空しい偶像に迷って主の怒りを招き、滅ぼされてしまいました(列王記上12章25節以下、13章33,34節、17章7節以下など参照)。つまり、真の神に依り頼まず、偶像を礼拝し、またシリアとの連合に依り頼もうとする姿勢を、ときの徴を見分けることが出来ずに酔っ払ってふらふらしている「酔いどれ」と断罪しているわけです。

 7節で「彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき、濃い酒のゆえに迷う」というのは、「エフライムの酔いどれ」(1節)のように、「彼らもまた」(7節)ということで、これは、サマリアの人々ではなく、南ユダ、エルサレムの住民のことを指しています。

 さらに、「祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき、ぶどう酒に飲まれてしまう」(7節)と、民を指導すべき祭司や預言者たちまでも、まともな判断が出来なくなっているという様子を思い浮かべます。指導者がそのような有様であるならば、北イスラエルに災いが臨んだように、南ユダ、エルサレムにも災いが及ぶことになるということで、全く嘆かわしい状況です。

 つまり、イザヤの目には、南ユダ王国の指導者も、サマリアの指導者と同様、まことの神に信頼せず、あるときはアッシリア、またあるときはエジプト、エチオピア(クシュ)、あるいはバビロンと、国を守る算段のために右顧左眄している様子が、道に迷っていると映っていて、だから、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたように、南ユダも「踏みにじられる」というわけです(18節)。

 10節の、「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ。カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ」という言葉は、祭司、預言者たちが酒に酔っているような状況で語った「異言」(第一コリント13章1節、14章2,7,9節等参照)のようなものでしょうか。意味不明な言葉は耳障りで騒がしいだけということです。

 それに対して、主なる神は、「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」(12節)と語っておられますが、しかし、ユダの民、エルサレムの祭司、預言者たちはそれを聞こうとしません。ゆえに、主の御声が、10節の祭司たちと同じ言葉になっています。つまり、主の御言葉は彼らにとって、「どもる唇と異国の言葉」(11節)、即ち「異言」としか思えなかったわけです。

 彼らには、神の言葉を「聞く耳」がなかったため(マルコ4章9節参照)、「彼らは歩むとき、つまずいて倒れ、打ち砕かれ、罠にかかって捕えられる」(13節)ことになるのです。

 5~6節は、1節以下の「災い」の宣告とは全く対照的な、救いの宣言になっています。冒頭の言葉(5節)で、「民の残りの者」という言葉は、災いの到来から逃げ延びた人々、あるいは、捕囚となって生き延びた人々のこと、特にここでは、南ユダの人々だけでなく、北イスラエルの民の中にも「残りの者」がいるということを示唆しています。

 神は、御自分が選ばれた神の民イスラエルが、その指導者の罪のゆえに全く滅び去るのを看過されず、憐れみをもって臨まれます。そして、万軍の主ご自身が、「麗しい冠、輝く花輪」(5節)、即ちエルサレムの誇る冠となられるのです。

 それを16節では、「一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い石だ。信ずる者は慌てることはない」と言っています。これは、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」(詩編118編22節)という御言葉を思わせる発言です。

 そして、この詩編の言葉が主イエスによって引用され(マタイ福音書21章42節)、「家を建てる者」とは当時の指導者たち、そして、「石」とは主イエスのことと考えられています。

 主イエスを信じ、その御言葉に聴き従うことが出来る者は幸いです。主が私たちの麗しい冠、輝く花輪となってくださるからです。

 主よ、御言葉を聞くだけで終わる者ではなく、聞いて行う者とならせていただくことが出来ますように。主に信頼し、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰に導いてください。 アーメン




3月16日(水) イザヤ書27章

「そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」 イザヤ書27章5節

 27章は、「イザヤの黙示録」(24~27章)の最後の章で、ここに、「その日」という言葉が4度語られます(1,2,12,13節)。
 
 最初の「その日」は1節で、主が逃げる蛇レビヤタンを罰し、海にいる龍を殺すと語られます。「レビヤタン」は、わにのような怪獣で(ヨブ記40章25節以下参照)、海に住んでいます(詩編104編26節)。主に罰を受け、殺されるという表現から、神に逆らう悪しき存在で、悪魔、悪霊の象徴と考えられています。

 ヨハネ黙示録21章1節で、新天新地では、「もはや海もなくなった」と言われていますが、これは、美しい海が干上がってしまうというようなことではなく、旧約テキストとの関連で、海に住む悪しきレビヤタンが滅ぼされるという意味に解釈すべきでしょう。となれば、イザヤの語る「その日」とは、過去の歴史的な出来事を指しているのではなく、世の終わりに主がご自身の主権をもって行動される日を指している、ということになります。

 2番目の「その日」は2節で、「見事なぶどう畑について喜び歌え」と言われます。イザヤは5章にも「ぶどう畑の歌」を記していますが、それは、喜びの歌ではなく、ぶどう畑を呪う歌でした。同7節には、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」とありました。そして、イスラエルが主なる神の期待を裏切り、悪を行うので見捨てられ、茨やおどろが生い茂るようになると言われていたのです(同6節)。

 しかるに、その日には、「常に水を注ぎ」(3節)、「茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたし(主なる神)は進み出て、彼らを焼き尽くす」(4節)と言われます。それで、「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」(6節)というのですから、5章で歌われていた呪いが祝福に変えられ、喜びの歌となっているわけです。

 第3の「その日」は12節で、「ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人よ、あなたたちはひとりひとり拾い集められる」と言われます。

 ここで、「エジプトの大河」と言えば、ナイル川のことでしょう。しかし、そこに用いられているのは、「ワーディー、谷川、急流」という意味の言葉です。「エジプトの大河」ではなく、「エジプトの川」というときには、ナイルではなく、イスラエルとエジプトの間の国境線を流れるワーディー・アル・アリーシュのことを指しています。

 創世記15章18節で、主なる神がアブラハムと契約を結んで、「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」と言われているのが、それです。用語的に考えれば、大河ではなく、口語訳、新改訳などと同様、「エジプトの川と訳すべきでしょう。
 
 アブラハムとの間に結ばれたこの契約、エジプトの川から大河ユーフラテスまでがアブラハムの子孫、イスラエルの嗣業の地となるということは、ダビデ・ソロモンの時代にも実現しませんでした。世の終わりの日に、神に背く悪しきものが滅ぼされた後、それが完成するということでしょうか。

 その際、神はすべてのものを打たれ、そこから麦粒を集めるようにイスラエルだけを大切に拾い集められ、その他のものは、籾殻や麦わらとして、燃える火に投げ込んでしまわれるということでしょう。 

 最後は13節で、「その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、アッシリアの地に失われて行った者も、エジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」と語られています。

 「アッシリアの地に失われて行った者」といえば、アッシリアに滅ぼされて連行された北イスラエルの民のこと(列王記下17章6節)と考えられますが、「エジプトの地に追いやられた」というのは、いつの出来事なのでしょうか。

 あるいは、バビロンによるエルサレム陥落後、立てられた総督ゲダルヤを撃ち殺し、バビロンの報復を恐れてエジプトに逃れたという出来事(列王記下25章25,26節、エレミヤ書40章13節以下、43章7節)を指しているのかも知れません。

 その後、ギリシア・アレキサンダー大王がエジプトにアレキサンドリアを設けたころ(紀元前332年頃)、その地には多くのユダヤ人が居住していました。公用語はギリシア語だったので、その地の人々はやがて母国語のヘブライ語を忘れるようになったため、ギリシア語訳の聖書が必要となり、それで、70人訳(セプチュアギンタ)と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書が作られることになりました。

 70人訳には、ヘブライ語原典にはない「外典」(「続編付き新共同訳聖書」に「続編」として付けられている文書)と呼ばれる文書が含まれています。これは、預言者マラキの時代から主イエスが登場されるまでの中間時代に記されたもので、カトリック教会は、これも第2正典として受け入れていますが、プロテスタント教会はそれを認めていません。

 話をもとに戻して、アッシリア、そしてエジプトに追いやられていた人々が「聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」、つまり、アッシリアやエジプトに代表される様々な国地域に散らされているイスラエルの人々を呼び集め、神を礼拝する民を再建するというのです。

 このように語られる「その日」を迎えるために、冒頭の言葉(5節)で主なる神が民に向かい、「わたしと和解するがよい」と、繰り返し呼びかけておられます。そういえば、ローマ書12章1節で、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」という言葉の「憐れみ」は、原文では複数形が用いられていました。憐れみの豊かさの表現なのでしょうけれども、繰り返し憐れみをもって呼びかけられ、勧められているとも読めます。

 パウロはガラテヤ書3章7節で、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と言います。つまり、憐れみによって呼びかけられ、信仰をもってその呼びかけに応答した者がアブラハムの子、真のイスラエルだということになります。終わりの日には、世界中のアブラハムの子らが神の御前に集められるのです。

 主の呼びかけに従い、主と和解して呪いを祝福に変えていただき、主を礼拝する神の民として造り上げて頂きましょう。

 主よ、あなたの深い憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与らせていただきました。御言葉と聖霊の導きにより心強められ、御前に聖なる者となり、清い生活をすることが出来ますように。私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。 アーメン




3月15日(火) イザヤ書26章

「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。」 イザヤ書26章19節

 1~6節の段落には「勝利の歌」という小見出しがつけられていますが、内容的には、4節の「主に信頼せよ」という戒めが、この段落の中心テーマでしょう。

 1節に、「我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」とありますが、城壁と堡塁で都が守られるわけではありません。5節には、「主は高いところに住まう者を引きおろし、築き上げられた都を打ち倒し、地に打ち倒して、塵に伏させる」と記されているからです。

 25章2節にも、「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とした」と記されていました。いかに堅牢な城を築くことが出来たとしても、その周りに堅固な堡塁を築いてはいても、神の守りがなくては、やがてそれは石塚となり、瓦礫の山になってしまうのです。

 アッシリアの脅威からエルサレムを守ったのは、城壁ではありません(列王記下19章)。そして、背きの罪から離れることが出来なかった結果、神の都はバビロン軍によって瓦礫の山とされてしまいました(同24章20節、25章参照)。

 詩編127編1節で、「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」と言われているとおりです。即ち、主なる神がおられて守って下さるからこそ、都が堅固にされるのです(25章4節)。

 そこで、求められるのが、主なる神に対する信頼です(4節)。主が建ててくださる家とは、私たちが主を礼拝する神殿、神がそこにお住まいくださる神の宮のことといってもよいでしょう。主は、御自分に信頼する者たちと共におられ、自ら堅固な城壁となって平和を授けられ(1,3節)、安んじて眠ることが出来るようにしてくださるわけです(詩編127編2節も参照)。

 7節以下の段落には、「復活を求める祈り」という小見出しがついています。それは、冒頭の言葉(19節)の、「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」というところからつけられたものでしょう。

 これはしかし、死んだ者が再び息を吹き返すという、所謂、蘇生を求める祈りではないでしょう。14節に、「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません」と語られています。であれば、「死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がる」というのは、神と民との関係を指していると考えるべきでしょう。
 
 放蕩息子のたとえの中で、父親が弟息子の帰宅を、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と喜び祝っています(ルカ福音書15章11節以下、24節)。この話の中で、息子は本当に死んでいたわけではありません。父親の財産の生前分与を要求して家を飛び出して行ったとき、弟息子の中では、親子の関係、また、長兄との関係は、、既に死んでいると言わざるを得ない状況だったのです。

 しかしながら、父親の方は、弟息子の帰宅を、首を長くして待っていました。見つけると走り寄って接吻し、最もよい服を着せ、履物を履かせ、指輪をはめてやりました。親子の関係が復活したのです。そうして、祝宴が開かれます。ここに弟息子は、改めて父親の深い愛を知りました。恵みを味わいました。

 そもそも、彼が本心に返ることが出来たのは、父親の愛のゆえです。父親は、雇い人にも有り余るほどに食物を与えていました。塵の中に住まい、死と隣り合わせに生きているような弟息子は、もう一度、父親の愛を思い出したのです。親子の契りが結べるとは考えず、それゆえ、雇い人のひとりとして入れてもらえるよう懇願するつもりでしたが、父の愛は、弟息子の思いをはるかに超えていたのです。

 かくて、再び親子の関係を取り戻すことが出来た弟息子は、心に平和を得、喜びと感謝に満たされ、今後、雇い人のひとり以上の働きをもって、父親と共に生きようと決意したことでしょう。

 たとえ話の中に描かれているこの父親こそ、私たちの罪を御自身の身に引き受け、十字架に死んでくださった主イエス・キリストです。その死によって、罪と死の力を打ち破ってくださいました(第一コリント書15章54節以下など)。この愛のゆえに、神の命が死を飲み込み、私たちは罪赦されて神の子とされ、新しい永遠の命に生かされるのです。

 どんな時にも主を信頼して、その御言葉に耳を傾け、主に従って生きる者とならせていただきましょう。

 主よ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送ることが出来ますように。光の子どもとして、何が主に喜ばれることかを吟味し、わきまえつつ、光のうちを歩んで主と交わりを持ち、豊かな実を結ぶことが出来ますように。 アーメン





3月14日(月) イザヤ書25章

「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」 イザヤ書25章7,8節

 25章は、イザヤの黙示録(24~27章)の一部で、その内容から、①「感謝の歌」(1~5節)、②「諸国民のための祝宴」(6~10a節)、③「モアブの滅亡」(10b~12節)に分けられます。

 1,2節に、「あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた」と言われています。

 これは、列王記下19章25節の、「お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを、わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を瓦礫の山とすることになった」という言葉によく似ています。

 それは、イザヤがヒゼキヤ王に語った預言の中で、主がアッシリアの王に告げたとされている言葉の一部分です。列王記によれば、アッシリアが北イスラエルを滅ぼした後(列王記下17章)、ユダの砦の町々をことごとく占領しました(同18章13節)。そして、エルサレムの都を大軍で包囲し、あと一歩で攻め落とすことが出来るところでした(同17節以下)。それは、主がアッシリアを、イスラエルを打つ道具として用いられたということです。

 4節の、「まことにあなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避けどころ、暑さを避ける陰となられる」という言葉は、弱い者、貧しい者を苦しめる強い国が撃たれ、弱い者らが救い出されることを示しており、思い上がったアッシリアが撃たれ(王下18章32節以下、19章35節以下)、それによって、アッシリアに苦しめられていた南ユダ、エルサレムの町は救いに与ることが出来るということになります。

 こうして、救いに与った民は、主こそ真の避けどころであると知るでしょう。そして、暴虐の限りを尽くしていた国々は、神を畏れ敬うことを学ぶでしょう。

 すべての民のための祝宴が、「この山」(6,7,10節)、即ちシオンで開かれます。そのとき、「主はこの山で、すべての民の顔を覆っていた布を滅ぼす」(7節)と言われます。「顔を覆っていた布」とは、8節の「涙、恥」との関連で、悲しみを意味していると解釈することが出来ます。

 あるいはまた、6章10節の「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」という御言葉との関連で、神の御顔を拝させない、御心を悟らせない、御言葉を聞かせないための覆いと考えることも出来ます。

 パウロは、「今日に至るまで、モーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(第二コリント書3章15,16節)と言い、旧約の律法が主イエスの顔に輝く神の栄光を見えなくしていること、復活の主を仰いだときに目からうろこが落ちる経験をすることが出来るということを、自分の経験に基づいて語っているわけです。

 8節にイザヤは、「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」と言っています。ヨハネの黙示録21章4節に、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われるのは、イザヤと同じ意見であるといってよいでしょう。

 歴史は、滅びに向かって動いているのではなく、人を悲しませ、嘆かせる「死」の滅びに向かって、つまり、私たちの救いの完成に向かって動いている、それが主の御計画だということです(9節、エフェソ書1章10節など参照)。

 「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(第一コリント書15章54~56節)と言われるとおり、甦られた主イエスを絶えず仰ぎ、神に感謝と賛美をささげましょう。

 死に打ち勝たれたお方は、万事を益とされるお方です。主に信頼して歩む私たちの労苦は決して無駄にならない、そのことを知っているはずだとパウロは言います(同58節)。共に主の業に励みましょう。周囲の人々に主の恵みを証ししましょう。十字架と復活の福音を告げ知らせましょう。

 主よ、ここに終わりの日の祝福を示してくださり、心から感謝致します。主イエスは十字架の死と復活を通して、罪の呪いと死の力に勝利されました。その力をもって私たちをも復活の恵みに与らせ、救いを完成してくださいます。その救いを祝って喜び躍ります。主の御名は誉むべきかな。私たちを御霊に満たし、主の証人としてお用いください。御名が崇められますように。ハレルヤ! アーメン





3月13日(日) イザヤ書24章

「月は辱められ、太陽は恥じる。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現されるとき。」 イザヤ書24章23節

 24~27章には、全世界が主なる神に裁かれる、世の終わりを思わせる記述が並んでおり、「イザヤの黙示録」と呼ばれています。24章の前半は旱魃による荒廃、後半(14節以下)は「ノアの洪水」(創世記6章以下参照)を思わせる神の裁きの始まりが記されています。

 そのような神の裁きが臨む理由について、5節に、「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を捨てたからだ」と記されています。

 ここに記される、地を汚す罪について、民数記35章33節において、それは人を殺して大地に血が流れることと示されます。また、エレミヤ書3章1節以下によれば、それは偶像礼拝をするというように告げています。いずれかというより、むしろ、双方の意味が込められていると考えるべきなのでしょう。

 ここに、「永遠の契約」とありますが、イスラエルとの契約ではなく、世界との契約ということでいうなら、創世記9章16節で、「神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と、神がノアとその家族に語られたものを指しているということになります。

 ノアとその家族に対して結ばれた「永遠の契約」は、神が一方的に宣言されたもので、特に人間が守るべき条項は何も記されていません。とはいえ、人が神との関係を蔑ろにし、他の神々に心を向けるようなことがあれば、それは、自ら主なる神との契約を捨てる行為ですから、その庇護を受けることが出来なくなります。ゆえに、滅びを刈り取ることになるわけです。

 然るに神は、すべてを滅ぼし尽くすようにはなさらず、わずかな者が残されます(6節)。これも、「ノアの洪水」物語と同じような展開です(創世記6章7,8節)。残された者たちは、声を上げ、主の威光を喜び歌います(14~16節)。実に、箱舟を出たノアとその家族が祭壇を築いて神を礼拝したことに通じるものです(創世記8章20節)。

 ノアの献げ物を受けて神が語られたのは、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(同21節)という言葉でした。「世界の一切の悪と罪を洪水をもって滅ぼしたので、もはや、大地が呪われることはあり得ない。ノアとその子孫は清く正しく生きることが出来る」と言われたのではありません。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」と言われたのです。

 これは、人間が自分の知恵や力、振る舞いで、神の救いを獲得することは出来ない、神の憐れみによらずして、神の救いに到達することの出来る者は独りもいない、ということでしょう。

 残された者たちの賛美を聞いて、イザヤは、「わたしは衰える、わたしは衰える。わたしは災いだ。欺く者が欺き、欺く者の欺きが欺く」と言います(16節)。これも、残された者は、神の救いを必要としないほど清い者などではないということでしょう。神の裁きの前に、「わたしは衰える、わたしは災いだ」と、おのが罪を認めざるを得ないのです。

 「その日が来れば」(21節)、神は天地の悪をことごとく罰し、滅ぼされ(21,22節)、そして、冒頭の言葉(23節)にあるごとく、「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前で栄光を現され」ます。そのとき、「月は辱められ、太陽は恥じる」と言われます。

 太陽が輝いている昼間、街灯をつけても何の意味もありません。月や太陽は、周辺諸国において、異教の神として仰がれるものです。しかしながら、本来、太陽も月も、神に創られたものです(創世記1章14節以下)。天地を創造された万軍の主なる神が、ご自身の栄光をシオンの山、エルサレムで現されるとき、月も太陽も、つまり異教の神々といわれるものは、恥じ入ることになるわけです。

 ヘブライ書13章20,21節に、「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」とあります。

 主イエス・キリストが十字架にかかられて、私たち人類の罪を贖い、三日目に甦られて罪と死の力を打ち破り、その栄光を現してくださったのです。主イエスを心の王座に迎え、心から主をほめ歌いましょう。

 主よ、私たちはキリストの十字架により贖われた罪人です。それは報酬ではなく、一方的な恵みです。いつも心の王座を主に明け渡し、主の御手にすべてを委ねて御言葉に聴き従い、御業を拝して感謝と賛美をささげさせてください。 アーメン





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