風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年01月

1月16日(土) 箴言18章

「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう。」 箴言18章14節

 20節に、「人は口の結ぶ実によって腹を満たし、唇のもたらすものによって飽き足りる」とあり、語る言葉が人生に与える影響の大きさを示しています。その場合、一般に、「口は禍のもと」といったマイナス面を強調する表現が多く語られます。17章28節の「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる」という言葉も、それを示しています。

 一方、21節の「死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう」という言葉は、前節と併せて、言葉によって健康や幸福という実を結ぶ、その恵みに与ることも出来るということを示しています。

 知恵をもって語る人の特徴は、まず、言葉数が少ない人でしょう。10章19節に、「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する」と記されている通りです。その人は、語る前によく考えます。

 12章18,19節に、「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬」とありました。害を与えるつもりはなくても、不適切な言葉で人を傷つけておいて、しかも自分が何を言って相手を傷つけたのか、思い出すことも出来ないというのが、「軽率な一言」です。

 それによって、人を癒すどころか、さらに問題を悪化させ、共に傷つくようなことさえあります。その意味で、言葉には「諸刃の剣」という面があります。

 また、知恵ある人は、「聞くに早く、話すに遅く」(ヤコブ書1章19節)をモットーにしているでしょう。13節の「聞き従う前に口答えする者、無知と恥は彼のため」という格言は、よく喋るけれども人の話は聞かないという、人の一般的な弱点を的確に示しています。

 特に、議論の中で自分の意見を強く主張する際に表れ、相手の言葉の途中に自分の言葉を挟むというような仕方で反論の機会を奪ってしまい、その結果、自分の意見が通ったとしても、皆の感情を害して、協力的に物事を進めることが出来なくなってしまうということを、自戒をこめて記しておきます。

 ところで、唇は心にあるものを表現します。言葉遣い、表現の仕方によって、その人の心のありようを窺うことも出来ます。私たちはしばしば、置かれている境遇の苦楽と、心で感じる幸不幸を混同してしまいますが、マイナス状況にいるから不幸、豊かさの中にあるから幸福などとは、必ずしも言えません。

 「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合うほうがよい」(15章17節)、「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」(17章1節)という言葉も、そのことを教えています。

 冒頭の「人の霊は病にも耐える力がある」という言葉は(14節)、重い病を患い、また重い障害があっても、それによく耐え、その重さに打ち勝っている人がいるということを示しています。

 15章15節に、「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」という言葉があり、「貧しい人」とは、虐げられて貧しくされた人々のことでした。そんなマイナス状況に耐えて打ち勝つ勇気や力を、朗らかな心、即ち喜びや平安に満ちた心が与えてくれるというのです。

 順調にことが進むときには、特に知恵や力を必要としないかもしれませんが、困難な状況に陥ったときに、どのようにその状況に立ち向かい、困難を克服して前進することが出来るのか、工夫し努力する精神的な力、経験に基づく知恵が必要です。そのような知恵や力は、簡単に手に入れることが出来ません。

 「沈み込んだ霊」(14節)というように、むしろ、現実に押しつぶされ、立ち上がる力もないという状況に陥ることさえあります。肉体的な病にはよく忍耐することが出来ても、精神的霊的な苦痛を耐え忍ぶのはとても難しいものです。主に依り頼み、そこから真に立ち上がる力を授けて頂きましょう(イザヤ書40章29~31節、エレミヤ書31章25節、マタイ11章28節)。

 パウロが、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ書5章22,23節)と言っています。自分の思うままに生きるのではなく、主を信じ、主に従って生きるとき、私たちの内に、私たちと共におられる主の御霊が豊かな実を結ばせてくださるというのです。

 私たちの心が絶えず朗らかで、困難な状況にも耐え、それを克服することが出来るように、聖霊に満たされましょう。その導きに喜んで従いましょう。

 主よ、使徒パウロが、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを倣い覚えた」と言い、さらに、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。・・いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と語っています。私たちにもその知恵と力を授けてください。そして霊の実が豊かに実りますように。 アーメン




1月15日(金) 箴言17章

「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる。」 箴言17章17節

 1節に、「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりもよい」という言葉があります。「いけにえの肉で家を満たす」とは、神にささげられたいけにえの肉の一部が下げ渡されて食卓に乗せられることを示しています。ご馳走がテーブル一杯に並んでいても、そこに争いがあるなら、一切れのパンを囲んで団欒のある家庭の方がよいということになります。

 ご馳走が一杯並ぶ食卓で豊かな団欒のある家庭というのが一番よいのかもしれませんが、まず願うのは、ご馳走ではなく、家族が仲良く平安に過ごすことと教えているわけです。15章17節の、「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」も、同じテーマです。

 日本を代表する伝道者の羽鳥明先生は、ご両親の仲が悪くてケンカが絶えず、そのため親子の心も通わず、少年時代に人生を儚んで自殺を図られたことがあるそうです。そしてそのことが、主イエスを信じる一つの要因になったという話をなさったのを思い出します。先生は、学友に誘われて教会に行き、クリスチャンになられました。

 入信されたときは、特にお父様の反対が強かったそうです。けれども、後にご両親も、信仰に導かれました。また、共産党に入り、地下活動をしていた弟さんも救われ、歌のなかった家庭に歌が、笑いのなかった家庭に笑いが満ち溢れるようになったと言われていました。先生の家族を変えたもの、それは主イエスを信じる信仰であり、その信仰に先生を導かれた神の愛です。

 「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる」と、冒頭の言葉(17節)に記されています。友に対する接し方についても、様々なことが言われています。16章28節の「陰口は友情を裂く」、17章9節の「前言を翻す者は友情を裂く」という言葉は、友情がいかに傷つきやすいか、また、人間には、そのように友情を傷つける言動をするという傾向があることを示しています。

 また、「貧乏な者は友にさえ嫌われるが、金持ちを愛する者は多い」(14章20節)、「友の振りをする友もあり」(18章24節)などは、友を自分の利益のために利用しようという、下心のある様子を表しています。

 それに対して「苦難の時の兄弟」(17節)という表現は、真の友情とは、どのようなときにも、特に苦難のときに、友を兄弟のように愛することであると教えています。

 サウル王は、自分自身や息子の王位を危うくする存在は、取り除くべきだとして、ダビデを抹殺しようとするようになりましたが(サムエル記上18章8,9,15,17,28,29節、19章1節以下)、次期王位継承者たるヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛し(同18章1節)、父サウルに対し、ダビデをかばい続けます(19章4節以下、20章27節以下)。

 父サウルがダビデの命を狙って出陣したとき、荒れ野にいたダビデのもとを訪ね、神に頼るようにダビデを励まし、「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ」と語っています(同23章16,17節)。ここに、「どのようなときにも、友を愛する」という実例を見ることが出来ます。

 苦しみを分け合ってこそ本当の友、兄弟というわけです。今日のように家庭や社会が様々な危機に直面し、互いの絆が弱く、希薄になりつつある時代には、一層この言葉に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。

 讃美歌中の讃美歌ともいうべき、新生讃美歌431番「慈しみ深き」の2節に、「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈めるときも、祈りに応えて慰めたまわん」とあります。確かに、主イエスこそどんな時にも愛してくれるよき友です。

 主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われ(ヨハネ福音書15章13節)、そして、「私はあなたがたを友と呼ぶ」と仰ってくださいます(同15節)。そして、その言葉の通りに、私たちを愛し、私たちの身代わりに命を捨てられ、贖いの業を成し遂げてくださいました。

 主イエスに罪を赦され、神の子どもとして頂いた者として、主を喜び、その御名を賞め歌いつつ、主のご愛に支えられて友を愛し、家族の交わりを大切にしましょう。 

 主よ、私たちのために御子イエスをこの世に遣わし、十字架の死によって、贖いの業を完成してくださいました。私たちに注がれている大きなご愛のゆえに、心から感謝致します。愛と恵みに心満たされ、私たちも友を愛し、真実な神の家族の交わりを豊かにもたせて頂くことが出来ますように。 アーメン



1月14日(木) 箴言16章

「主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。」 箴言16章4節

 16章から、ソロモンの格言集(10~22章)の第二部(16~22章)になります。第一部(10~15章)が、知恵ある者と愚かな者を対照する格言が集められていたのに対し、第二部には、同義的な格言が集められています。

 ここで目についたのは、王についての格言(10,12~15節)です。ソロモン以後、王がその知恵をもって主を畏れ、神に従って歩んでいれば、王座は堅く立てられたのでしょう(12節)。しかし、彼らは神に背く道を歩み、その怒りを招いてしまいました。捕囚期後、改めて大切な指針としてこれらを採用したのでしょう。

 冒頭の言葉(4節)で、「御旨」(マアネ)という言葉は、1節で、「答えるべきこと」と訳されています。「御旨にそって」を直訳すれば「彼(主)の答えに対して」となり、そこから新改訳、岩波訳は「ご自分の目的のために」と訳しています。つまり、すべて、目的があって創造されたということで、神に逆らう者さえも、その目的に従って創られたということです。

 創世記1章31節に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。「極めて良かった」とは、完璧であると訳してもよいところでしょう。それは、当然のことながら、造られたものが完全性を有しているということではありません。それぞれが神の御心に従って、創造の目的に完全に適合するように造られたという意味です。

 それにしても、何故、逆らう者を造られたのでしょうか。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ福音書13章7節)と主イエスがペトロにお語りになったように、今は分からなくても、やがてその意味をはっきりと悟らせて頂くときが来るのでしょう。

 このことについて、コヘレトの言葉3章1節に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と言い、そして、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(同11節)と語っています。

 そこに、「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」(同2~8節)と、相反する「時」を対にして列挙しています。

 それらはすべて、神の計画によって定められているので、それを変えようとするのは無駄なこと、骨折り損のくたびれ儲けということだというのです(9節)。そしてその時々に、「永遠」という神の世界、神のタイミングを思う心が、私たちに与えられているというわけです。

 考えてみれば、確かに順風のときよりも逆風のときに、上手く行っているときよりも行き詰っているときに、私たちは神を思い、その助けを求めます。考えられないような悲劇に見舞われたときには、「神も仏もあるものか」とさえ思います。

 何故、愛の神がそのような悲劇を許されるのか、理解に苦しむことがありますけれども、神がおられるからこそ、その悲しみの淵から救い出され、慰めを受け、癒されるという恵みをも味わうのです。そのようにして私たちの心は鍛えられ、強くされていきます。

 ハバクク書1章6節に、「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」、とあります。このカルデア人とは、バビロン帝国のことで、彼らによってイスラエルの国は滅ぼされ、民は捕囚となりました。

 しかし、エレミヤ書32章37,38節に、「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という預言通りに、イスラエルの民は捕囚から解放され、ペルシア王キュロスによってエルサレム神殿の再建が許されます(歴代誌下36章22節以下)。

 バビロン捕囚という荒れ野を通らなければ、イスラエルの高慢を砕くことが出来なかったということであり、その苦しみを味わったからこそ、もう一度、神の御言葉に従順に聴き従うという信仰の態度を学ぶことが出来たわけです。「彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とにとって幸いとなる」(エレミヤ書32章39節)というのは、そのことです。
 
 神は、どんなマイナス状況であっても、万事を働かせて益とすることのお出来になる方です(ローマ書8章28節)。神を信頼し、一切をその御手に委ねて歩むことが出来れば、災いの日はいつの間にか、幸いの日に変えられていることでしょう。

 主よ、天地万物を創造されたあなたが、一切を御手の内に統べ治めておられると信じ、感謝致します。苦難をも誇りとすると語ったパウロの信仰を私にも与えてください。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すからです。希望をもって絶えず祈り、賛美をささげることが出来ますように。 アーメン



1月13日(水) 箴言15章

「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。」 箴言15章15節

 ソロモンの格言集(10~22章)の第一部(10~15章)の最後の章です。ここまで、知恵ある者の正しさ、その祝福と、愚かな者の邪悪さ、その罰が、対照的に語られていました。

 ここでは、第一部を包括するように、「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる」(1節)と言い、知恵をもって語り(2,7節)、父祖の言い伝えを守り(5,31~33節)、親切な言葉を用いるように教えています(26節)。

 7節に、「知恵ある人の唇は知識を振りまく。愚か者の心は定まらない」とあって、「知恵ある人の唇」と「愚か者の心」が対比されています。唇で語る言葉とその心には密接な関係があること、それゆえ、語る言葉によってその人の心が判断出来ることを示しています。

 主イエスが、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」(ルカ福音書6章43,44節)と言われています。確かに、実によって、それが何の木であるのかが分かります。

 それに続けて、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(同45節)と語られました。

 実で木が分かるように、語る言葉でその人が分かるということで、箴言の知恵がここに示されます。知恵をもって柔らかく親切な言葉で、良い知らせをもたらす者になりたいものです。 

 また、言葉と同様に、顔の表情も、その人の心のうちを表します。13節に、「心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ」と言われています。喜んでいる人の顔は明るいです。そして、沈んでいる顔は、その人の心の痛みを示しています。その痛みが癒されなければ、「霊は沈み込む」と言われるように、体と心の健康を害してしまうでしょう。

 12章25節の「心配は人をうなだれさせる」、17章22節の「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」、18章14節の「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」という言葉なども、それを示しています。

 殉教目前のステファノが、最高法院に引き出されて証言台に立たされたとき、その顔は、決死の覚悟で強張っていたというのでなく、天使の顔のように見えたと言われます(使徒言行録6章15節)。その心境は、同5章41節の「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」というところでしょう。

 そして、主に委ねられた使命を果たし終え、意気揚々と天に凱旋しようという、気分の晴れ晴れとしたステファノの様子を思い浮かべます。そのときステファノは、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言っています(同7章56節)。その顔の輝きは、神の右に立つ人の子イエス・キリストの姿をはっきりと見ていたからだったというわけです。

 そして、神の右に座しておられる主イエスが(ローマ書8章34節、コロサイ書3章1節など)、立ち上がっておられるということは、命を懸けて最高法院で福音のメッセージを語っているステファノを、主が立ち上がって賞賛しておられた(スタンディングオヴェーション)ということではないでしょうか。

 冒頭の言葉(15節)に、「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」とあります。これは、心を暗くさせるような災いに襲われても、心が朗らかならば、いつも宴会のような喜びがあるということでしょう。

 原文を直訳すると、「貧しい人はすべての日々が悪、しかし、心がよい人は絶えず祝宴」となります。「貧しい人」(アーニー)には、「悩む、弱い」という意味もあり、口語訳、新改訳、岩波訳は、「悩んでいる者」と訳しています。また、岩波訳の注に「単に経済的な事柄が問題なのではない。人生の様々な困難の中で打ちひしがれている人をいう」と記されています。

 打ちひしがれている人を立ち上がらせるのは、容易に出来ることではありません。どのようにすれば、災いに襲われても打ちひしがれず、心が朗らかでいられるでしょうか。それは、私たちの力で出来るものではありません。主が私たちを支え、力づけてくださるからこそ、立ち上がることが出来、万事を益となるようにしてくださるからこそ、災いの中でも、心が平安で、朗らかにしておられるのです。

 かつて、松江で伝道しておられた英国人宣教師バックストン先生が、いつもにこやかな顔をしておられるのを見て、仏教の僧侶が感銘を受け、それがもとで道を求めてキリスト教の信仰に入るという出来事があったそうです。

 ステファノやバックストン先生とまでは行かなくても、主イエスから与えられた信仰の喜びを、顔色でも証し出来るような者にならせていただくことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。そのために、いつも主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って恵みのうちを歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちの生活には、憂いが満ちています。思いがけないことで喜びが奪われます。どうか、いつも私たちの心に、喜びと平安を与えてください。主が共にいて、私たちを助けてください。キリストの言葉が、私たちの内に豊かに宿りますように。そのために、御子を、そして聖霊をお遣わしくださった父なる神の御愛を感謝します。 アーメン



1月12日(火) 箴言14章

「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれを壊す。」 箴言14章1節

 冒頭の言葉(1節)で、「知恵ある女は家庭を築く」という言葉は、9章1節にも、「知恵は家を建て」とありました。原文で比較すると、「女」という言葉を除けば、二つは全く同じ文章です。

 岩波訳に、「原文では、『知恵』の次に来る『女たち』は、後代の挿入語で、『ハクモート(知恵)』を複数形にとり説明したものらしい。この語を削除すると、9章1節前半と同一の文」という注釈がつけられています。

 この岩波訳の注釈が正しければ、「知恵は家を建て、無知は自分の手でそれを壊す」という言葉になります。

 「家庭」とは、「(彼女の)家」という言葉で、それはまず建物のことを指していると思われます。地震などでも壊れない丈夫な家を建てるのには、確かに知恵が必要です。知恵があってもそれを正確に用いないのであれば、無意味です。

 以前起こった耐震強度の偽装事件などは、まさに知恵を正しく用いなかった、その意味で無知なる者の仕業と言わざるを得ません。それを見抜けなかったチェック機構にも、大きな問題があります。

 丈夫に建てられた家に住まう家族の憩いの場が「家庭」です。それは、男と女が結婚すれば夫婦になりますが、「夫になる」ことと「夫である」ことは、必ずしも同じではありません。夫になることは簡単ですが、夫であり続けるためには、努力や工夫が必要です。

 子どもが出来れば、父となり、母となります。しかし、父であり、母であるためには、子どもを育てる知恵が必要です。知恵をもって共に住まう努力や工夫をしなければ、「無知な男、女は、自分の手でそれを壊す」という結果を招いてしまいます。

 親が離婚した結果、子どもたちは、両方の親から見捨てられる不安を持ち、学業成績が悪く、成人してからの社会的地位も低く、自分の結婚も失敗に終わりやすいなどの影響を与えてしまうといったことが、多くの国の調査で確認されています。つまり、家族間、世代間に、悪影響が連鎖してしまうわけです。

 共に住み、共に生きるためには、苦労や犠牲はつき物です。しかしそれは、豊かな恵みを生み出す苦労です。4節に、「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」とあります。畑を耕したり、麦を脱穀して粉に挽くのに、牛の力は重宝です。しかし、生き物は世話をしてやらなければなりません。それは、苦労を伴います。その苦労を嫌っていては、牛は飼えません。

 家族の関係、友達との関係、職場などの人間関係など、皆そうでしょう。お互いに深入りしないように適当に付き合うことにすると、面倒なことも少ないかもしれませんが、それで深い信頼関係を築き、真実な交わりを作るというのは、困難です。そして、ちょっと難しい問題が生じれば、その関係は崩れてしまいます。苦楽を共にするからこそ、共感が生まれ、その関係が豊かなものになるのです。

 9節の「無知な者は不遜で互いをなじる。正しい人は互いに受け入れる」も、そのことを言っているのでしょう。 問題を相手の所為にしてなじり合っているだけで、関係をよくすることは不可能です。

 ここで、「不遜で、互いをなじる」というのは、「賠償・償いの供え物」(アーシャーム)を「嘲る」(ヤーリーツ:「ルーツ」ヒフィル・未完了・3人称単数)という言葉です。関係を回復しようとする行為、そのための供え物を嘲るのは、確かに愚かと言わざるを得ないでしょう。

 また、「互いに受け入れる」は、「喜び、恵み、好意」(ラーツォーン)という言葉です。岩波訳は「実直な者たちの間には、満足がある」とし、「祭儀の場における神と人、人と人との出会いの喜びがある、の意味であろうか」という注を付けています。 

 23節の、「どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす」という言葉も、4節と同じ意味に受け止めることが出来ます。さらに言えば、苦労してこその利益というものがあるでしょう。

 冬が来なければ、春も来ないと言いますか。英語に「no cross, no crown」(十字架なしに、王冠なし=苦難なくして栄光なし)という諺があります。苦労が報われたとき、その感動は何にも変えることは出来ません。その感動を得んがために、今の苦労を耐え忍ぶのです。

 私たちは、主が語られる御言葉を聴き、主に信頼して、信仰生活を歩みます。今日は聖書を読む気分になれない、今日は気持ちが乗らないので祈れない、賛美しないというのは、信仰の態度ではありません。それは、自分の感情を主とし、神としていることです。

 家を建てるための知恵とは、何よりも主を畏れることです。それは、神の前に自分の弱さや愚かさを認め、おのれを空しくして、何事も神に尋ね求めるという姿勢をとることです。その時、御自分の内に知恵と知識のあらゆる宝を隠しておられる主イエスが、聖霊によって必要な知恵と力をお与えくださり、その知恵と力によって、丈夫な「家庭」を築き上げさせてくださるのです。

 真の知恵である主イエスに信頼して日々御言葉に耳を傾け、常に聖霊の導きに従いつつ歩ませて頂きましょう。 

 主よ、あなたは、「知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。どうか私たちに、真の知恵を与えてください。あなたの知恵によって、立派な家庭、社会、そして教会を、築き上げることが出来ますように。 アーメン

1月11日(月) 箴言13章

「富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。」 箴言13章7節

 冒頭の言葉(7節)は、その文字面を眺めていると、確かに「人は見かけによらない」という思いが伝わって来ます。ぼろを着てても、大金持ちかもしれません。きらびやかな服を着て、すごい高級車を乗り回していても、台所は火の車かもしれません。ところが、私たちはその外見で人を判断します。そして、私たちも外見を飾ろうとします。だから、自分の内面の貧しさに気づかないでいたりします。

 経済のことでなく、精神的なこと、霊的なこととして考えて、自分が内面の貧しさに気づけば、豊かになろうとして努力するでしょう。謙虚になり、謙遜になって学ぼうとすると、どんなことからも豊かに学ぶことが出来ます。貧しさを自覚するからこそ、熱心に学ぼうとし、そうすると、本当に心豊かに生きることが出来るでしょう。

 水戸黄門は、ちりめん問屋のご隠居という姿で世直しの旅をします。そうして、行く先々の悪を懲らしめます。「この紋所が目に入らぬか」と印籠を出したところから、ちりめん問屋のご隠居が、天下の副将軍に戻ります。その圧倒的な権力の前に、悪人が平伏します。勧善懲悪の単純なドラマが視聴率を稼ぐというのは、世の中に様々な悪が、それも権力者による悪がはびこっているからでしょう。

 権力を持っている者が、将来を見通す見識を持って、正しい政治を行い、経済を導き、幼子、若者たちによい教育を施すならば、黄門様はいなくてもよいということになるでしょう。ところで、権力者だけじゃなくて、私たちは、明日が見えるでしょうか。明後日が見えるでしょうか。

 私たちが、自分の持っているもので幸福か不幸かが決まるなら、誰もが幸福になれるものを手に入れようと躍起になるでしょう。それを手に入れ損なった人は、不幸が確定するというような図式になりますね。でも、私たちに幸福を約束してくれる「モノ」など、ありません。

 確かに、欲しいと思っていたモノが手に入ったとき、嬉しいです。長い間待ち続けてやっと手に入れたときなど、その喜びは一入です。けれども、そんな喜びや感動は、時とともに失せ去ります。モノが与えてくれる喜びは、その程度のものでしょう。

 人間関係を考えて見ましょう。お互いに生きている者同士ですから、自分の思い通りになる関係などあり得ません。互いに山あり、谷ありです。順風のときもあれば、逆風のときもあります。笑うときや涙するとき、悲しいとき、憤るときなど、様々な思いや感情をその時々に共有しながら、共にすごした長い年月が、やがて思い出となり、かけがえのない宝となります。

 聖書が語る豊かな「命」とは、まさにそのような、呼べば答え、打てば響く、生きた関係を指しています。呼んでも返事せず、反応しない。相手を無視してしまうなら、その関係は死んでいます。命がないわけです。お互いの関係を喜び合うために知恵を出し、我慢したり忍耐したり、時には少し諦めたりしながら、工夫して共に過ごすことをしなければ、深い豊かな関係、喜びや満足は生まれて来ません。

 日野原重明氏が、命とは私たちが持っている時間で、人が生きていく上で大切なのは「こころ」。自分以外のために、自分の時間を使おうとすることだと仰っているのは、そのことでしょう(日野原重明『いのちのおはなし』講談社刊)。

 そう考えてみると、神様は、私たちを神の子として喜び迎えるために、独り子キリストを犠牲にして、なんと長い間我慢を重ね、忍耐していてくださることでしょうか。神様の深い愛と憐れみがあればこそ、その強い思いがあるからこそ、私たちは今、主イエスを信じる信仰に導かれ、救いの恵みをいただくことが出来たのです。

 神ご自身が、とことん自分のものを与え尽くして貧しくなられたお蔭で、私たちは豊かさを味わわせて頂いているわけです(第二コリント書8章9節)。
 
 神様との関係をいよいよ豊かにするために、絶えず主の呼びかけに応答出来るよう、御言葉を聴き、信仰の祈りと賛美をささげたいと思います。

 主よ、私たちはあなたによって人生の真の目的を知らされ、希望と平安に与り、キリストにある悔いのない生涯を歩ませて頂いています。そのためにあなたが払われた犠牲を思うと、どれほど感謝しても、感謝しきれるものではありません。ただ、あなたが望まれる人生を、まっすぐ歩み通すことが出来るように、日々御言葉に耳を傾けます。導いてください。 アーメン





1月10日(日) 箴言12章

「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。意志の弱い者は空を追う。」 箴言12章11節

 28章19節にも、冒頭の言葉(11節)と非常によく似た格言が記されていて、いずれも、勤勉に働くことを勧めています。ここに、「自分の土地を耕す」とありますが、畑を耕して作物を得ることは、神が初めの人アダムに授けられた仕事でした(創世記2章15節)。そこから、農耕に限らず、各自、自分に与えられた仕事に励みなさいと言われていると読むことが出来ます。

 マタイ福音書25章14節以下に、主イエスが語られた、「タラントン」のたとえが記されています。それは、主人がひとりの僕に5タラントン、別の僕に2タラントン、もう一人の僕には1タラントンを預けて商売をさせた、というものです(同15節)。

 1タラントンは当時のローマの貨幣で、6千デナリオンになります。1デナリオンは、当時の労働者の1日の賃金ですから、1タラントンは、およそ20年分の賃金と言ってよいほどの大金です。仮に、1デナリオンを5千円とすると、1タラントンは3千万円になります。

 現在、日本の企業の資本金を調べてみると、資本金3千万円以上の企業は、全体の11.1%、1億円以上の企業は、2.9%に過ぎません。つまり、1タラントンあれば、十分に商売が出来るということです。

 5タラントンを預けられた僕はそれを元手に10タラントン稼ぎました。2タラントンの者も同様でした。ところが、1タラントンの者は、商売に失敗して資本を減らすことになってはいけないと考え、地の中に隠しておきました。主人は、先の二人を忠実な僕と呼び、喜びました。しかし、最後の者には、怠け者の悪い僕と呼び、預けたものを取り上げて外に追い出してしまいました。

 ここで主人が期待したのは、主人の意を汲んで商売に精を出すことです。儲けを出すためには、いかによいものを安く仕入れ、それに付加価値をつけていかに高く売るかということですよね。どこによいものがあるか、お客はどのようなものを喜ぶか、日ごろから情報収集に努めなければならないでしょう。そのような工夫や努力を惜しんでいて、よい仕事は出来ません。

 1タラントンの者は、「失う恐れ」を理由に、何の努力も工夫もしませんでしたので、完全に主人の期待を裏切り、捨てられることになったのです。

 与えられた務めに喜びや誇りを感じられないというのは、悲しいでしょう。不平不満を持ちながら働くと、創意も工夫も生まれてきません。どんな仕事でも誇りを持って全力投球すれば、生き甲斐ともいうべき充足感、満足感を得ることでしょう。

 豊臣秀吉が百姓から太閤にまで出世することが出来たのは、時のひと、織田信長に取り立てられたからということですが、草履取りにせよ、厩番にせよ、台所の賄にせよ、与えられた仕事で主人の気に入られるように精一杯の努力と工夫を惜しまなかったからです。

 マタイ福音書13章44節に、天の国は畑に隠された宝のようなものというたとえがあります。宝を探そうとして、畑を掘ることはないでしょう。畑に隠された宝を見つけるのは、畑を耕す人です。

 その話では、畑を耕したのは、畑の持ち主ではありませんでした。つまり小作人だったわけです。その小作人は、宝を自分のものにするため、全財産をはたいて畑を買います。小作人に畑を売ってしまうということは、主人はその畑にたいした価値があるとも思っていないわけです。

 汗して畑を耕し、苦労して作物を育てた者だけが見出す宝があるのです。委ねられた仕事に喜びと誇りをもって誠心誠意努力する者が報われる世界、それが天の国だということも出来ます。それを見つけた人の心は喜びに溢れます。全財産を売り払っても、それを手に入れることを喜びとするというほどのものです。

 「はかり縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」と語った詩人のように(詩編16編6節)、神から与えられた土地、委ねられた務めがどのようなものであろうと、それを麗しい地、輝かしい嗣業と喜び、それを与えてくださった主に感謝と賛美をささげましょう。

 豊かな収穫を得ることが出来るように、必要な知恵も力も神が授けてくださいます。私たちが躓き倒れるようなことがあっても、必ず助け起こしてくださる神に信頼し、主を待ち望みましょう(詩編145編14~16節)。

 主よ、私たちはあなたの慈しみとまことにより、絶えず慰められ、励まされています。その御愛のうちを日々生かされて、平安と喜びに満たされています。主の御名はほむべきかな。ハレルヤ、アーメン!




1月9日(土) 箴言11章

「高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。」 箴言11章2節

 冒頭の言葉(2節)で、「高慢」(ザードーン)については、箴言の別の箇所でも、「高慢に振舞えば争いになるばかりだ」(13章10節)、「躓きに先立つのは高慢な霊」(16章18節)などと語られています。もともと「高慢」の語源は、沸騰することを示す言葉から来ているそうで、常に自分が中心でなければおさまらない人間の心の状態を表しています。

 高慢、自惚れの心に支配されているときは、周りが見えなくなります。自分が他の人よりも一段上手だと考えているので、自分の業績を吹聴し、賛辞を受けることを好みますが、批判には耳を傾けません。自分よりも下だと思っている人を軽く見ているからです。つまり、高慢と他者への軽蔑が同居しているわけです。

 そうすると、自分よりよいものを認めることが困難になりますし、自分自身の弱さも認めようとしません。しかし、そうであるならば、その高慢は、自分の実像を正しく反映しておらず、すべての者が自分を高く評価してくれるはずだという錯覚に陥っているため、逆に、それらの人々から軽蔑されることになります。

 つまり、高慢に軽蔑が伴うのは、高慢になる者自身が他者を軽蔑するという意味であると同時に、高慢な者が他者から軽蔑されるということでもあります。22節の「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている」というのも、女性が美しさを鼻にかけている様子が、豚が金の鼻輪をしているようで、それは知性の欠けた高慢な姿だと軽蔑する表現です。

 他者と比較して優越感に浸るという心が高慢につながるとすれば、他者と比較して劣等感に苛まれ、自己嫌悪に陥るのは、同じ心の裏表のようなものです。自分より優れたものを持っていると思う者に対して妬みを持ち、卑屈にもなります。いずれも、自分や周りを正しく見ることが出来ない心の様の表われです。そしてそれは、私を愛し、この世を愛しておられる神が見えていないことです。

 それに対して、冒頭の言葉に用いられている「謙遜」(ツァヌーア)という言葉(形容詞・複数形:「謙遜な人々」)は、この箇所の他には、動詞形(ツァーナー:「へりくだる」)で一回しか出て来ないという、きわめて希な単語です。

 それはミカ書6章8節で、そこには、「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と記されています。

 ここで、「正義を行い、慈しみを愛し」とは、一人の生活でなすものではありません。隣人との関わりにおいて発揮されるものです。そして、その心は、「へりくだって神と共に歩む」ことを喜びます。そのような人を、主が求めておられるというわけです。

 今日の箇所では、「謙遜には知恵が伴う」と言われています。「知恵」の土台は主を畏れることですし(1章7節など)、真の知恵と知識の宝を有しておられるのは主イエスです(コロサイ書2章3節)。十字架において贖いを成し遂げてくださったキリストこそ、神の知恵であると、第一コリント書1章24,30節に記されています。

 謙遜に歩む者のために、知恵に満ちた主イエスが共に歩んでくださるという意味に解すれば、ミカ書で言われていた、「へりくだって神と共に歩む」という言葉と同じことが語られていることになります。つまり、謙る者のところに神の知恵であられる主イエスがおいでくださり、共に歩んでくださるので、謙遜には知恵が伴うことになるわけです。

 インマヌエル(「神は我々と共におられる」の意)と呼ばれる主イエスは、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました(マタイ1章23節、フィリピ2章6,7節)。主イエスの謙りにより、私たちの救いの道が開かれたのです。

 主を畏れ、主の御前に謙る者は、自分の弱さを知り、罪深さを知って、憐れみ深い主の御名を呼び、常に救いと導きを求めることでしょう。そうして、主の御名を呼び求める者はみな救われ(ローマ書10章13節)、神のお与えになる良い物、聖霊に満たされます(マタイ福音書7章11節、ルカ福音書11章13節)。

 主イエスは、インマヌエルと唱えられるべきお方です。絶えず主を求め、謙って御言葉に耳を傾け、常に聖霊に満たされて、心から賛美と感謝を主にお献げし、力強く主の愛と恵みを隣人に証ししましょう。

 主よ、あなたは真によいお方で、私たちに良い物を与え、良い物で満たしてくださいます。真に良い物とは、聖霊、霊なる神ご自身です。いつも聖霊に満たされて、詩と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心から賛美の歌を歌わせてください。御心を行わせてください。ただ、主の御名が崇められますように。 アーメン




1月8日(金) 箴言10章

「諭しを守る人は命の道を歩み、懲らしめを捨てる者は踏み誤る。」 箴言10章17節

 10章1節から22章16節までは、「ソロモンの格言集」(1節)で、2行一対の格言がほぼ無作為に並べられています。新共同訳聖書は、1節から22章16節まで、小見出しがつけられていませんので、この格言集がテーマ別などに編集されたりはしていないということが分かります。

 「ソロモン」の名がありますが、それを証拠づけるものはありません。王国時代に集められ、宮廷や学校、家庭で用いられていた格言が、捕囚期後に編集されたものと考えられています。それをソロモンに帰したのは、格言を集めることにソロモンの指示があったということでしょう。

 10章には、口、言葉に関する格言が目につきます。適切な言葉を語るかどうかで、生命を育むことにも、破滅を招くことにもなります。8節に、「知恵ある心は戒めを受け入れ、無知な唇は滅びに落とされる」とあります。言葉を適切に用いるためには、戒めを受け入れること、神に従うことが肝要です(11節参照)。

  「知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き」(1節)と語り始めて、両親が授けた知恵に聴き従う子は親の喜び、従わない愚かな子は嘆きとなることを示します。その知恵は、神を畏れることを基礎としているのですから(1章7節、9章10節)、神と神の御言葉を信じる信仰と言い換えてもよいでしょう。

 神を信じる信仰を土台として、知恵を授けるということは、親自身が神を信じる信仰の基礎の上にしっかりと立っていなければならないということになります。親と子の人間関係というものは、互いに選ぶことが出来ません。それは、神から恵みとして与えられたものです。

 親は、神から授けられた子どもを大切にし、子は、神が備えてくださった親を、尊ばなければなりません。そして、親子ともども、この関係を与えてくださった神を畏れ、御言葉に喜んで聴き従うのです。

 ソロモンは、この知恵、神を畏れ、その御言葉に従う信仰を、父ダビデから受け継いだでしょう(列王記上2章2節以下)。さらに、イスラエルの王として、民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、聞き分ける心、その知恵を神に求めました(同3章1節以下、9節)。

 神はその願いを喜ばれ、世に並ぶ者がないと言われるほどの知恵に満ちた賢明な心を彼に与えられただけでなく(同12節)、彼が求めなかった富と栄光、さらに長寿も、祝福として与えると言われました(同13,14節)。
 
 その結果、イスラエルはソロモンの知恵によって見事に統治され、そして豊かに繁栄します(同4,5章)。それを背景に、神殿と王宮の建築に取り掛かり(同5章15節以下、20年の歳月をかけて見事に成し遂げます(同9章10節)。それにより、ソロモンの名声はいよいよ高まり、絶頂期を迎えます(同10章)。
 
 ところが、「好事魔多し」のことわざの通り、ソロモンの名声に影が差します。それは、ソロモンが、ファラオの娘の他に、モアブ人、エドム人、ヘト人など外国人女性を愛したことです。彼には王妃が七百人、側室が三百人いました。同11章4節で、「彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」と断じています。

 カナンの住民と関係を持ってはならないという戒め(同2節、出エジプト記34章12節以下、16節)を破り、妻たちの願うままに異教の神々の神殿、礼拝場所をエルサレムに築いたのです。

 ソロモンの死後、その子レハブアムが王となりましたが(列王記上11章43節)、彼は長老たちの勧めに従わず、北イスラエルの代表ネバトの子ヤロブアムに厳しい回答をしたために(同12章1節以下、14,15節)、王国が分裂してしまいます(同16節以下)。それは、ソロモンが神に背いた結果、神がイスラエルに対して計らわれたことでした(同15節)。

 ソロモンは、「諭しを守る人は命の道を歩み、懲らしめを捨てる者は踏み誤る」(17節)という格言を知ってはいました。そして、実際にその両方を体験することになりました。諭しを守って豊かに繁栄する道と、諭しを捨てて国を分裂させる道です。

 かくて、ソロモンは父の喜びでしたが、母を嘆かせる者となりました(1節)。そして、その子レハブアムもソロモンに倣い、親を嘆かせる道を進みます。神に知恵を求め、あらゆる人に勝る知恵、知識を与えられたソロモンにして、この有様です。

 どんなに知恵に満ち、あらゆる知識に通じていても、それを正しく生かすことが出来なければ、宝の持ち腐れです。「腐っても鯛」とは言いますが、腐った鯛は、本当は始末に困るでしょう。だから、諭しに聴き従い、懲らしめを素直に受けなければなりません。そのとき、知恵が生き、説得力も増すのです(9章9節)。

 神を畏れ、御言葉を日々頂きましょう。人を豊かにするのは、主の祝福だからです(22節)。

 主よ、あなたの御言葉は私たちの道の光、私たちの歩みを照らす灯火です。御言葉のとおり、命を得させてください。あなたの定めはとこしえに私たちの嗣業、私たちの心の喜びだからです。御言葉の光によって、無知な私たちに理解を与えてください。人間となってこの世においでくださったキリストこそ、私たちの希望の光です。私たちの心に豊かにお宿りください。御名が崇められますように。 アーメン




近況報告

今日、病院を受診して来ました。

2週間ステロイドを服用した結果、炎症反応は正常値になりました。
そういえば、今朝は出血がなく、今まで血を見ていません。
これから少しずつステロイドを減らして、状況を見ることになりました。

ステロイドを服用し始めて、手指のこわばり、痛みがなくなったということと、血液検査でクレアチンキナーゼ(CK)の値が低いということで、やはり関節リューマチが疑われます。
ステロイドを減らして症状が出るようなら、整形のリューマチ外来で診てもらうことにしました。

 4週間後、また受診します。

 9月、10月の特別集会、12月のクリスマス、年末年始、行事が重なって無理があったのかも知れませんが、これから少し落ち着いて、体調管理に気をつけながら、毎日の務めに励みたいと思います。

 引き続き、お祈りをよろしくお願いします。

 
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