風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2016年01月

冬期休暇

明日から一週間、冬期休暇で静岡を離れます。
その間、「今日の御言葉」の更新が出来ません。
ご了承ください。
2月1日(月)に戻る予定です。
 

1月25日(月) 箴言27章

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。」 箴言27章1節

 冒頭の言葉(1節)の「誇る」(ティトゥハレール)と、2節の「ほめる」(エハレレハー)は、同じ語根(ハーラル)が用いられています。「ハーラル」は「輝く」という意味の言葉で、「誇る」は、「自分自身を輝かす」(ハーラルのヒトパエル形)ということで、自慢する、誇るという訳になっています。

 「一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(1節)という言葉について、『明日のことを誇る』という言葉の関連から、ルカ福音書12章16節以下で主イエスが語られた「『愚かな金持ち』のたとえ」という話を思い出します。

 豊作で喜んだ金持ちが、蔵を大きく建て替えて、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(同19節)と語るのを、神が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(20節)と言われました。何年先の保証を持ったつもりでも、命の保証はどこにもないわけです。

 ヤコブも、「あなたがたには自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ書4章14,15節)と記しています。

 山室軍平聖書注解全集『民衆の聖書15』の箴言20章1~4節の解説に、「あさましや思えば日々の別れかな、昨日の今日にまたも会わねば」という沢庵和尚の言葉や、「明日ありと思う心の徒桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という親鸞聖人の言葉が紹介されています。明日のことは分からないというのは、聖書の専売特許ではないということですね。

 そうだからといって、明日に計画を持っていてはいけないとか、明日のことを考える必要はない、ということではありません。神が私たちに永遠を思う心をお与えになったわけですし(コヘレト3章11節)、神の霊が注がれると、「老人は夢を見、若者は幻を見る」と言われます(ヨエル書3章1節)。
夢や幻によって、神が御心を啓示されますが、それは、明日を含む未来に関わることでしょう。

 また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)という言葉もあります。神が私たち心に働きかけて望みを抱かせ、実現に向けて働かせられるということです。これらの言葉は、神が明日に計画を持ち、それを私たちに示されると教えています。

 しかしながら、私たちは明日に生きることは出来ません。私たちは過去の思い出を持っていますし、明日に夢幻を持つことは出来ますが、しかし、過去に留まって生きることも、未来に先駆けて生きることも出来ません。私たちは常に「今」を生きているのです。明日に夢を持ちながら、過去の様々な経験や知識に学びながら、今日を生きるのです。

 主イエスが、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ福音書6章34節)と言われたのは、そのことでしょう。

 明日のことまで思い悩むのは、明日に計画を持ち、私たちを生かしておられる主なる神を信頼していないからです。明日のことを誇るのは、明日に計画を持ち、啓示してくださった神の栄誉を自分のものにしようとすることなのです。

 あらためて、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」(3章5~7節)との御言葉に耳を傾け、神の御前に謙り、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(マタイ福音書6章33節)て、御前に進みましょう。

 「『誇る者は主を誇れ』。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(第二コリント書10章17,18節)。

 主よ、私のうちに見張りを置き、唇の戸を守ってください。私の心が悪に傾くのを許さないでください。主よ、造られたものがすべてあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたを称え、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。主はすべての者に恵みを与え、造られたすべての者を憐れんでくださるからです。 アーメン



1月24日(日) 箴言26章

「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」 箴言26章12節

 26章は、三部に分けられます。第一部(1~12節)は「愚か者」についての格言、第二部(13~16節)は「怠け者」についての格言、そして第三部(17~28節)には「欺き」や「陰口」、「唇」、「うそをつく舌」など、発言に関する格言が並んでいます。

 第一部で、4節に「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな」とあり、続く5節には「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ」と記されていて、相矛盾した格言が肩を並べています。ということは、この二つは、絶対的な言葉ではないことを示しています。

 つまり、愚か者とされる人に対して、どんな場合でも一つの対応をとるというのではなく、ある時には、その無知にふさわしい答えをしてはならず、またある時には、その無知にふさわしい答えをしなければならないというわけです。であれば、ふさわしい答えをすべきなのか、そうすべきではないのか、いずれの対応をするべきかを弁える知恵を得る必要があるということになります。

 そうすると、ここに集められているその他の格言も、いずれも律法主義的に読まれるべきではなく、人を生かす言葉として、そのときどきに知恵をもって読まれなければならないわけです。

 「無知にふさわしい答えをするな」とは、「ネコに小判」、「馬の耳に念仏」といった言葉を連想しますが、「あなたが彼に似た者とならぬために」という言葉から、無知な人の相手をするな、愚か者の仲間になるなという意味になります。

 一方、「無知にふさわしい答えをせよ」とは、「彼が自分を賢者だと思い込まぬために」というのですから、彼の無知、言葉の誤りなどを正しく指摘してやりなさいという意味でしょう。

 「愚か者」シリーズの最後に、冒頭の言葉(12節)の通り、「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望を持てる」と記されています。賢者と思い込んでいる者よりも愚か者の方がまだましということは、「自分を賢者と思い込んでいる者」が、最上級の愚か者であるということになります。

 5節との関連で、愚か者の中には、自分の誤りや無知を指摘してくれる人の言葉を聞いて、自分が賢者だと思い込まないように出来る者がいると考えられます。であれば、自分が賢者だと思い込んでいる者は、他者の意見や忠告に耳を貸そうとしないということになります。それで、自分の無知を悟らず、その誤りを修正することが出来ないので、最も愚かな者ということになるわけです。

 16節にも、「怠け者は自分を賢者だと思い込む。聡明な答えのできる七人にもまさって」とあります。「七人」は完全数ですから、すべての賢者を意味すると解することが出来ます。怠け者は、自分の賢さが聡明な答えの出来るすべての賢者に勝るというのですから、自分が世界で一番の賢者と思い込むということですね。

 つまり、聡明な答えをする訓練や努力を怠り、そうした賢者の言葉に耳を傾けないということは、自分が一番の賢者だと思い込んでいるだけの怠け者であり、冒頭の言葉との関連で言えば、怠け者でいるよりも、愚か者と呼ばれる者の方がまだ希望が持てるということになるわけです。

 というのは、自分の知恵が足りないと自覚すれば、知恵を得るために努力するでしょう。そして、賢者の言葉に耳を傾けることが期待されるからです。

 「(偶像に供えられた肉について言えば、)『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と、使徒パウロが語っています(第一コリント書8章1,2節)。

 即ち、真の知識は、神を愛する愛に基づくものであり(同3節)、しかもそれは、「神に知られている」という知識なのです。それに対して、他者を見下げておのが知識を誇る者は、高ぶっているということです。

 かくて、聖書が語る賢者とは、多くの知識を持っている者ということではありません。主を畏れ、神と隣人を愛する者を、賢者と呼んでいるのです。主を畏れる者は、自分の弱さ、愚かさ、罪深さを悟ります。ゆえに神の憐れみを求めて主の御前に進みます。他者の忠告に耳を傾けます。主の導きに従います。そして、主から愛されていることを悟り、主を愛する者となります。

 愚か者、怠け者とならないよう、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知って、主の十字架を拝しましょう。主の愛と恵みに与らせていただきましょう。そうして、主を愛する者とならせて頂きましょう。

 主よ、御言葉を感謝します。自分が、知らねばならぬことをまだ知らない、愚かな者であることを教えて頂きました。主を愛し、御言葉を慕い求めます。まことの知恵と知識の富をうちに持つ主イエスの御言葉に耳を開かせ、その御心を深く悟らせてください。 アーメン




1月23日(土) 箴言25章

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」 箴言25章21,22節

 25章から「ソロモンの箴言(補遺)」(25~29章)という段落に入ります。1節はその表題で、「ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」と記しています。それを文字通り受け止めれば、紀元前715年から686年まで在位したユダの王ヒゼキヤに仕える人々や若者たちの教育のために集められたものといってよいでしょう。

 25章は、比喩的な格言のかたちで様々な話題が寄せ集められています。たとえば、3節に、「王の心の極め難さ」を「天の高さと地の深さ」にたとえて示しています。確かに、ときの指導者の心中は、なかなか量りがたいものです。

 その中で、冒頭の言葉(21,22節)が目にとまりました。敵に食べ物、飲み物を与えよという勧告は、24章17,18節の「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう」という禁令にも通じるものがあります。

 使徒パウロが、冒頭の言葉を引用しながら、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12章20,21節)と語っています。

 第一ペトロ書3章9節に、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」という言葉が記されていますが、これも同じ精神を示しています。

 ところで、「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む」とは、どういうことなのでしょうか。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」との関連で、私たちが敵に施しをすることで、かえって神は敵の罰を重くされるという意味だと解することも出来ます。そういう趣旨の話を伺ったこともあります。

 しかしながら、この文脈から考えれば、その解釈は明らかに誤りです。「善をもって悪に勝ちなさい」と教えていながら、私たちが敵に善を行えば、神が敵にもっとひどい罰を与えるということであるというならば、それはただ、自分の手を汚さず、神にきっちりと仕返しをしてもらうということであり、自分が相手に与えた施しは、相手に対する呪いの行為ということになります。

 そうすると、どうしてそれが、善をもって悪に打ち勝ったということになるのでしょうか。

 そのことについて、ドイツの信徒向けに著されたNTD新約聖書注解に、よい解説が記されていました。それは、次の通りです。

 「復讐を神の御手に委ねるというのは、一見無力を示しているようであるが、それは内側に神の偉大な愛の力を頂くということだ。そして、その愛の力は、敵の心に、頭に積まれた熱い炭火のような耐え難い思いを与える。

 それは、神様からお灸を据えられたようなことだ。その熱さに耐えかねて、敵は兜を脱がざるを得ない。神の愛は、敵の心をいたく恥じ入らせ、それによって敵の内側から悪意を抜き去ってしまうという、驚くべき力を秘めている。

 こうして、報復を神の手に委ねて、自らは善意で答えようとする態度は、安易な神頼みと現実逃避ではなく、驚くべき底力のある強さであり、悪を克服する善の力を信じて、善をもって悪に打ち勝とうとするすることである。

 これは、『あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい』(マタイ福音書5章38~41節)、

 『あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである』(同43~45節)と主イエスが山上の説教で教えられたことを、パウロなりの立場と方法で語ったものということができよう」。

 つまり、神の報復というのは、天から火を下して敵を滅ぼすという重い罰などではなく、圧倒的な愛の力によって敵愾心や悪意を打ち砕き、神の御前に恥じ入らせ、思いを転化させるというものだというのです。

 これは、頭で考えて納得出来るものではないかも知れません。きっと甘過ぎると感じることでしょう。 そう上手くことは運ばないと思うでしょう。けれども、それがキリストの教えに示された神の愛なのです。そしてそれは、キリストの十字架に示されるものです。神は、私たちの罪を御子キリストに負わせ、私たちに愛を示し続けてくださっています。

 そのことに気づかされたとき、私たちの内側に、己が罪ゆえに主が苦しまれたことによる耐え難い痛みと、どう申し上げてよいのか分からない感謝が湧き上がって来ます。キリスト・イエスのお蔭で神との間に平和を得た私たちは(ローマ書5章1節)、与えられた聖霊を通して心に神の愛が注がれており(同5章5節)、それによって苦難をさえ誇り、喜びとすることが出来ます(同3節)。 

 そのように神の愛を受けた者として、主の教えに従い、聖霊の力と導きを受けて、その愛に生きるものとして頂きましょう。

 主よ、私たちが受けている考えられないほど大きな愛と赦しを、私たちの回りにいる人に少しでも示して行くことが出来ますように。苦々しい思いを持つ人にも、挨拶から会話を始めることが出来ますように。私たち自身の内に愛の奇跡を起こしてください。 アーメン



1月22日(金) 箴言24章

「わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。」 箴言24章32節

 23節から、「賢人の言葉(2)」(23~34節)の段落です。「これらもまた、賢人の言葉である」(23節)というのは、この段落の裁判に関する言葉(23~29節)と畑での労働に関する言葉(30~34節)を、前段(22章17節~24章22節)の教えと結びつけるための編集者による挿入と考えられています。

 冒頭の言葉(32節)で、「わたしはそれに心を向け、観察した」と言っていますが、ここで賢人が観察したのは、30節に記されている「怠け者の畑」、「意志の弱い者のぶどう畑」でしょう。

 そして、そこから得た「諭し」というものは、「(怠け者、意志の弱い者は)しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を取る者のように襲う」(33,34節)というものでした。

 この教訓は、6章10,11節にも記されており、そこでは、怠け者が知恵を得るように、蟻のところに行って見よと言われています(同6節)。

 確かに、教訓は書斎でだけでなく、人がその気になれば、どんな場所、どんなものからでも学ぶことが出来るものです。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、そこから万有引力の法則を見出しました。私などは、それを何百回見たとしても、ただ、「リンゴが落ちた、それがどうした」と思うだけでしょう。

 作物が何も穫れないのを、天候のせいにしたり、環境のせいにするのは簡単です。雨が降らなかったから、日照りが続いたから、そして、灌漑の水を引こうにも場所が悪過ぎるからなどと言って何の工夫も努力もしなければ、永久に収穫を見ることは出来ません。

 5年前の震災と原発事故で、生活を破壊されたままの人々がおられます。震災がなければ、原発事故も起きなかったかも知れません。震災と津波に関しては、誰にも責任がないのかも知れませんが、それ以後、放射能汚染は続いています。だれが被爆から守ってくれるのでしょうか。「アンダーコントロール」と強弁した首相、そして政府は、何をしようとしているのでしょうね。
 
 今日、高梨沙羅選手が女子ジャンプ・ワールドカップ蔵王大会で優勝、6戦中5勝で現在4連勝中という絶好調。昨年は中盤、表彰台に登れない試合が続き、オーストリアのダニエラ・イラシュコ=ショトルツに総合優勝の座を明け渡しましたが、今年はさらに進歩した姿を見せつけています。

 また、世界ランキング7位の錦織圭選手が、全豪オープン3回戦でスペインのガルシアロペス選手をセットカウント3対1で下し、五年連続ベスト16に入る4回戦進出を果たしました。

 そのほか、世界で戦っている日本人選手の活躍を見るのは、本当に嬉しいものです。しかし、その陰には、素人には想像出来ないような練習や工夫が積み重ねられているのでしょう。誰もやらないようなことに挑戦しているからこその快挙というべきであり、ということは、人一倍失敗を重ね、それを成功のバネにしているわけです。
 
 誰もがワールドカップで金メダルを獲得する活躍が出来るわけでもありませんし、表彰されるような技術や知識を発見、獲得出来るわけでもありません。しかし、神は私たちがナンバーワンになろうとすることよりも、オンリーワンであることを自覚して、託されている賜物を互いに生かし合って、主の使命を全うすることを願っておられます。

 「知恵ある男は勇敢に振舞い、知識ある男は力を発揮する」(5節)と言われています。主なる神を畏れることが知恵の初めですから、主の御前に謙り、なすべき務めが何か、いかになすべきか、主の御声に耳を傾けましょう。

 「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とパウロが勧めています(ローマ書12章11,12節)。これを記しているパウロ自身が、言葉だけでなく、行動で、その生活を通して、かくのごとく歩んでいたわけです。

 私たちも、頻発する災害や事故を他人事とせず、上からの知恵と力を頂きながら、怠らず励み、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る者とならせていただきたいものです。

 主よ、怠惰な僕をお赦しください。絶えず目覚めて主の御声に聴き従うことが出来ますように。聖霊に満たされ、力を受けて、主の御用に励むことが出来ますように。これから着実に歩みを進めるため、明確なビジョンを与えてください。計画を具体的に推進することが出来ますように。感謝と喜びの賛美を捧げて、御名を褒め称えさせてください。 アーメン




1月21日(木) 箴言23章

「わが子よ、聞き従って知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ。」 箴言23章19節

 22章17節から24章22節までが、「賢人の言葉(1)」という小見出しの付けられた格言集となっています。その内容から、エジプトの『アメン・エム・オペトの教訓』という、宮廷の財産を管理する高官が息子ホル・エム・マア・ケルのために与えた教訓に基づいているものと考えられています。

 箴言には、怠惰と飲酒、姦通を戒める言葉が繰り返し出て来ます。この三つが、社会生活や家庭生活を危うくする元凶と考えているのでしょう。

 23章は、酒に酔う者の愚かさを29節以下で描いています。酒の害悪について、創世記9章21節以下で、箱船を出たノアたち一家の別離の原因となっていますし、新約でも、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5章18節)と言われています。

 クレージーキャッツの植木等が歌った「スーダラ節」(詞:青島幸男、曲:萩原哲晶、というレコードが1961年8月に東芝音楽工業から発売され、80万枚を売り上げる大ヒットとなりました。

 「♪チョイト一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらハシゴ酒。気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これじゃ身体にいいわきゃないよ。分かっちゃいるけどやめられねえ。ア ホレ スイスイ スーダララッタ スラスラスイスイスイ ・・・♪」。

 酒に競馬に女性、「飲む、打つ、買う」の三拍子といえば、男が道楽の限りを尽くすことです。ちょっとだけ、すぐにやめると言いながら、ブレーキが利かなくなってしまう人の弱さが歌われています。

 この歌には面白いエピソードがありました。植木等ははじめ、「こんなふざけた歌が歌えるか」といって怒ったそうです。関係者やクレイジーキャッツの他のメンバーから何度も勧められて悩んだ末、父親に相談しました。植木等の実家は真宗大谷派のお寺で、住職をしていた父親に相談したわけです。

 父親はその歌を聞いて、「これには浄土真宗の教えに通ずる。きっとヒットすると思うぞ」と言ったそうです。それを聞いて植木等はようやく歌う決心がついたというのです。もっとも、植木等は、スーダラ節のヒットに、こんな歌がヒットするなんて悲しいと言ったとか。

 浄土真宗の教えに通ずるというのは、この歌詞の最後の「分かっちゃいるけど、止められねえ」というところにあると考えられます。何度反省しても、同じことを繰り返す、自分の力で悪を断ち、善を行うことなど到底出来ない人間のことを、仏教では凡夫というそうです。

 その凡夫を救うという他力の本願を頼みとするほか、往生を遂げる道はないと悟ることを回心というと、浄土真宗では教えられているのです。他力の本願とは、西方浄土におられる阿弥陀仏がすべての凡夫を救おうとして立てた誓いのこと、往生とは死んで極楽に生まれることです。

 キリスト教と浄土真宗の教えは似ています。凡夫を罪人、他力を主イエス、本願を神の御心と読み替えれば、そのまま新約聖書の福音になりそうです。

 ただ、決定的な違いは、阿弥陀仏が架空の存在で、極楽往生の目的が悟りを開くことであるのに対し、主イエスは歴史に登場して、私たちの罪を赦すため、身代わりに十字架にかかって死んでくださった実在のお方で、その御業は、私たちを救うためのものです。

 主イエスについて、天からの声で、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたことがあります(マタイ福音書17章5節)。私たちは確かに、自分の知恵や力で罪と悪の力に打ち勝つことは出来ませんでした。

 しかし、「わたしに従いなさい」(同16章24節)と私たちを招かれる主イエスは、御自分の死と復活によって罪と死の力を打ち破られたお方です。この方の御言葉を聞くことによって信仰は始まります(ローマの信徒への手紙10章17節)。

 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」とありますから(コロサイ書2章3節)、キリストに聞いて従っていくとき、確かな知恵を得ることが出来るのです。冒頭の言葉(19節)で、「わが子よ、聞き従って知恵を得よ」とは、そのことでしょう。

 また、「あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ」というのも、同様に解釈することが出来ます。ヨハネ福音書14章6節に、主イエスこそが道であり、主イエスに従ってその道を歩んで行くと、真理と命に与り、父のもとに行くことが出来ると言われています。そこから右にも左にもそれることがないように、主イエスの御言葉と聖霊の導きに素直に聴き従うものでありたいと思います。

 主よ、酒に酔うのではなく、聖霊に満たされて、絶えず心から主を賛美し、信仰によって互いに教え、励まし合うことが出来ますように。心の中から新たにされて、神の御旨をわきまえ、喜びと感謝をもって御言葉と聖霊の導きに素直に従うことが出来ますように。 アーメン




1月20日(水) 箴言22章

「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」 箴言22章6節

 22章は、16節までが「ソロモンの格言集」(10章1節~22章16節)、17節以下は「賢人の言葉(1)」(17節~24章22節)です。

 ソロモンの格言集の最後は、「名誉は多くの富よりも望ましく、品位は金銀に優る」(1節)と、知恵に基づく諸々の徳行が、あらゆる富に優る名誉と品位を与えると教えます。そして、富と名誉と命は、「主を畏れ」ることと「身を低く」する謙遜とによる報いと言います(4節)。

 冒頭の言葉(6節)について、原文では、最初に、「教育せよ」と訳されている「ハノーク」という言葉が記されています。「ハノーク」は、「捧げる(dedicate,consecrate)、訓練する(train up)」という言葉です。「捧げる」という言葉が、「訓練する」という意味も持ち合わせているというのは、なかなか意味深いことだと思います。

 つまり、子どもを神に献げるということは、子どもが神のものであるということで、その子を神のものとして訓練する、光の子どもとして養育するという思いが込められるようになったのでしょう。

 また、「歩むべき道の初め」と訳されている部分の原文は、直訳すると「彼の道の口の上で」(アル・ピ・ダルコー)という言葉です。ここで、「~の口の上で」(アル・ピ・~)というのは、「~に従って(in accordance with~)」と訳される慣用句です。だから、「彼の道に従って」という訳になるわけです。

 口語訳は、「その行くべき道に従って」、新改訳は、「その道にふさわしく」と訳しています。新共同訳が「初めに」としているのは、「口の上」を「入り口、初め」と解釈したからでしょう。

 子どもの教育は、親に課せられた非常に重大な責務ですが、それは子ども一人一人の個性や才能、また、成長発達の段階に合わせて行われなければならないということでしょう。その時々に相応しい訓練の仕方、教育のあり方が求められるわけです。

 そのことが、特に、「年老いてからもそこからそれることがない」との関連で、「初め」、即ち人生の初めの教育が重要だという訳文になっていると考えられます。

 「三つ子の魂、百まで」という言葉にも示されるとおり、幼児期の教育や躾が、その子どもの人生に大きな影響を与えます。箴言に、「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」(13章24節)、「打って傷を与えれば、悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て」(20章30節)と、善悪を弁えさせるために、子どもへの体罰を肯定する言葉が出て来ます。

 私は、体罰を全く否定するものではありません。わが子も、ときに叩いて教えました。しかし、昨今の児童虐待の現状を考えると、無条件にそれが肯定される言葉というわけにもいかないでしょう。まさに、親としての愛情、子どもを正しく育てるための知恵が問われていると思います。

 私たちが子どもに教えたいのは、親の鞭を恐れさせることではなく、親の愛に安らぎ、信頼することです。どれだけ自分が親から愛されているのかということを知ると、子どもは自分が大切な存在であることを悟ります。自分が大切な存在であることを悟った子どもは、自分の命を粗末にすることはないでしょう。そして、周囲の人々をも大切にする心優しい人に育つでしょう。

 また、子どもを愛するとは、欲しがるものを何でも与えるということではありません。今の子どもたちは、私たちが子ども時代には想像することさえなかったような、それもとても高価なものを、たくさん持っています。

 にも拘らず、親の愛に飢え、やがて親を憎むようになる子どもたちがいます。親が子どもに豊かさを味わわせようとしてあくせくしている間、子どもは親に遊び相手、話し相手になってもらえなかった寂しさをこらえて過ごしていなければならなかったからです。

 そのように、寂しくて悲しくて泣いている子に、泣くな、しっかりしろと鞭を当てるなら、後から何を買い与えたとしても、子どもは自分が親から愛されていると感じるようになるでしょうか。むしろ、親は自分より他に大切なものがある、お金やモノでそれを埋め合わせすることなど出来ないと思うでしょう。

 子どもの話を聞くこと、辛抱強く子どもの相手になること、一緒に仕事を手伝わせ、たくさん褒めてやること、必要な時には適切に叱ることなど、様々なことの積み重ねにより、子どもは親の愛を心と体で感じ、味わうのです。

 特に、信仰を持つ私たちにとって、「歩むべき道」とは、主イエスに従う道です。私は、父が主の御前に畏み祈る姿を通して、神を知りました。私のために執り成す祈りによって、父の愛を知り、そして、神の愛と赦しを知りました。

 父が日々の生活を通して、そして折りある毎に示してくれた信仰の姿、特にその祈りによって、今の私が造られたと思っています。既に天に召されましたが、今も、尊敬すべき父を与えてくださった神に、心から感謝しています。

 主を畏れ、謙遜に歩む者とならせて頂きましょう。主にあって清い心、新しい霊を授けて頂きましょう。 

 主よ、私たちに与えられている信仰の喜び、平安、その恵みを、確実に子や孫、隣人、周囲にいる人々に手渡していくため、御言葉どおり、歩むべき道の初めに、心を込めてしっかりと教えることが出来ますように。そのために必要な愛を、知恵や力をお与えください。清い心を愛し、節度を守って謙遜に語るものとしてください。 アーメン




1月19日(火) 箴言21章

「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」 箴言21章2節

 16節に、「目覚めへの道から迷い出た者は、死霊の集いに入る」という言葉があります。箴言が説いている「目覚めへの道」、即ち、知恵の道、悟りの道から離れる者は、「死霊の集いに入る」ことになると言います。

 「死霊」(レファイーム)は、死者の霊、また、死人のことです。2章19節に、「彼女の家は死に落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている」とあり、また9章18節に、「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」とありました。つまり、「死霊の国」とは、死者の集まる陰府のことを指しています。

 「死霊の集いに入る」とは、死ぬという意味になりますが、誰もが死を迎えることを考えれば、ここでは、神との交わりが断たれ、「霊的に死んでいるようなもの」ということを表わしていると思われます。

 ルカ11章24節に、「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う」、という言葉があります。ここで、汚れた霊は、休む場所を探して、砂漠をうろつくと言われています。砂漠は、水のないところです(口語訳聖書参照)。

 水は、生きるために必要不可欠なもの、まさに命の水です。水がないところは、命が脅かされる場所です。汚れた霊は、そのように命が脅かされる、死が支配しているようなところを休む場所とするというわけです。

 私たちにとって、命の水とは、神の口から出る一つ一つの言葉のことです(マタイ4章4節、ヨハネ4章14節参照)。私たちの内にキリストの言葉が豊かに宿っているならば、その心には神への賛美が湧き上がり(コロサイ3章16節)、主にある平安と喜びに溢れていることでしょう。主にある平安と喜びに満たされている心には、汚れた霊の入る余地はありません。

 けれども、心に喜びも平安もなく、不平不満が支配し、潤いのない渇いた砂漠のような状態になっていれば、汚れた霊が他の七つの霊を連れてきて住み着くとあるように、悪循環に陥る結果を招くでしょう。それはまさに、死霊の集いに入ったという状況です。

 1節に、「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」と言います。聖書で理想とされる王は、主の御旨に従う者だということでしょう。それは、ダビデ王朝の王たちに対する批判でもあります。この格言を集めたとされるソロモンも、二度までも主が彼に現れ、戒めを与えられましたが、それを守らず、神の怒りを招きました(列王記上11章9,10節)。 

 冒頭の言葉(2節)に、「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」、とあります。これは、人が自分の行動を正しいと判断しても、主は心の中を測られるということ、即ち、どのような動機で行動したのかを見られるということです。私たちの一日の行動を振り返ってみて、主への信頼や感謝、喜びを表わす行動を取ったでしょうか。

 主イエスが十字架にかかられる前、ベタニアのラザロのいる家で食事の席に着かれました(ヨハネ福音書12章1節以下)。そのとき、マリアが高価なナルドの香油を主イエスの足に塗りました(同3節)。

 イスカリオテのユダがそれを咎めて、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言っていますが(同5節)、それは、貧しい人々のことを思ってのことではなかったと、ヨハネは記しています(同6節)。ユダの心を支配していたのは、惜しげもなく主イエスに献げ物をしたマリアに対する嫉妬なのでしょう。

 そのとき、主イエスがユダに、「するままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と言われました(同12章7節)。

 ただ、マリアがそれをしたのは、主イエスを葬る準備をするというつもりではなかったと思います。そのために香油を取っておいたとは、思えません。兄弟ラザロを死者の中から甦らせて下さった(同11章1節以下)主イエスへの感謝と喜びの行動だったと思います。

 そのとき、家が香油の香りで一杯になったように(同12章3節)、主イエスをマリアの喜びと感謝の思いが包んだのです。そのとき、マリア以上に喜びと感謝を主イエスに示した者はいなかったのです。

 主イエスが十字架につけられたとき、上着が取られ、また下着も取られました(同19章23節)。神から捨てられ、人からも捨てられて、裸で、空し手で死に赴かれる主イエスですが、そのときも、香油の香りが主イエスを包んでいたことでしょう。

 マリアの喜びと感謝に送られて、贖いの御業を完成する道を進まれたと考えると、主イエスが言われたとおり、確かにマリアは、葬りの備えとして最高の餞を主イエスに贈ったのです。

 主よ、わたしの心を探ってください。わたしの心に主を喜ぶ思いがあるか、はたまた、背く思いがないか、確かめてください。弱いわたしを憐れみ、助けてください。いつも主を喜び、絶えず主に祈り、どんなことも主に感謝出来ますように。 アーメン



1月18日(月) 箴言20章

「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。」 箴言20章12節

 箴言において繰り返し語られる教えの一つに、怠け者について語って、勤勉を説く教えがあります。20章でも、4節に、「怠け者は冬になっても耕さず、刈り入れ時に求めるが何もない」とあり、13節には、「眠りを愛するな、貧しくならぬために。目を見開いていれば、パンに飽き足りる」と言われています。

 「目を見開いていれば、パンに飽き足りる」とは、文字通り、目を見開いてさえいればよいというのではなく、目覚めて勤勉に働けばということです。6章6節には、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」と記されていて、蟻とキリギリスの話は、ここから作られたのではないかとも思わされます。

 もっとも、キリギリスは春に卵から孵り、6月末頃成虫になって、それからほぼ2ヶ月ほどで繁殖を終え、死んでしまいます。野生で冬を越すことはありませんが、それはキリギリスが怠け者で、夏の間遊び暮らしていて、冬の備えをしなかったからなどではありません。つまり、蟻は蟻で、キリギリスはキリギリスで、それぞれどんな虫でも、子孫を残すのに必死なのです。

 勤勉を教えるための最も効果的な方法は、親が子に、自ら勤勉に働いている姿を見せることでしょう。外の仕事だけでなく、家事においてもマメに働いている親の姿は、子どもの目に美しく映ると思います。

 さらにもう一つ、その親が、神の御前に忠実にひざまずき、御言葉に聴き従う姿を見せたいですね。冬に耕し、春に種を蒔かないで、秋の収穫を期待する農夫はいないでしょう。私たちの信仰における恵みの収穫も、同じです。

 神の御心を悟ろうとして御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むとき、心が深く耕されて主の恵みが花を咲かせ、努力した100倍も豊かな実を稔らせるでしょう。そして、そのような親たちの信仰の姿勢を見て、子どもたちも、まっすぐに信仰に導かれるでしょう。

 冒頭の言葉(12節)に、「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」とあります。人間は主なる神によって創造されたのですから(創世記1章26節以下)、耳と目を主が造られたというのは、その通りだということになります。

 しかし、ここであらためてそれが言われているのは、この箴言に語られている知恵を得るための手段として、神が人に「聞く耳、見る目」を与えてくださったのだと教えているわけです。

 申命記29章3節に、「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をお与えにならなかった 」という言葉があります。出エジプトの大いなる奇跡を見てはいるが、出来事に耳目を奪われて、それをなさった主に目を向け、御言葉を聞き、御心を悟ることがなかったということでしょう。

 また、エゼキエル書12章2節に、「人の子よ、あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない。まことに彼らは反逆の家である」と 記されています。これも、神を見ず、神に聞かないということです。

 ソロモン王が、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願ったとき(列王記上3章6節以下、9節)、神はそれをとても喜ばれました。

 そこで、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と約束されました(同10節以下)。

 イスラエルの民を救い出すために神がモーセを呼び出したとき、モーセは、「ああ主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言いました(出エジプト記4章10節)。

 それに対して、「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われます(同11,12節)。

 私たちが見るべきものを見、聞くべきものを聞いていれば、そこから悟りを得ます。特にそれが神の御言葉で、神が、ほかの誰でもないこの私に語りかけてくださっている御言葉に耳を開くことが出来れば、私の語るべきこと、なすべきことがはっきりと示されます。そのために、耳を造り、目を造られたと言われているわけです。

 今日も憚らずに神の御前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。主イエスの後ろから、その背に目を向けつつ御足跡に踏み従って歩みましょう。かくて真の知恵に与り、主の御心を行う者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちの耳を開いてください。あなたの御声をさやかに聴くことが出来ますように。主よ、私たちの目を開いてください。主の御顔を拝し、御足跡に従ってまっすぐに歩むことが出来ますように。 アーメン




1月17日(日) 箴言19章

「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。」 箴言19章14節

 創世記2章18節に、主なる神が、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ、そして女性を造られたことが記されています(21,22節)。「良くない」とは、神の御心ではないという意味です。神は人間を、絶えず「助ける者」と共にいなければならない存在として、創造されたわけです。

 「助ける者」(エゼル)とは、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助け(エゼル)はどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1,2節)という御言葉に典型的に示されるように、それは何よりもまず、主なる神ご自身のことを指しています。

 けれども神は、その役割を人にお与えになりました。人は伴侶を助ける者として存在しているのです。しかしそれはまた、伴侶の助けを必要としているということでもあります。助け、助けられる者として、神によって結び合わされ、一つ屋根の下に共に置かれたわけです。

 そして、私たちの内に助ける力や知恵があるのではなく、その助けは天地を創られた主からやって来ます。即ち、神が私たちを通して、お互いの間に助けをなされるわけです。ゆえに、祈りつつその業をなすのです。

 神が造られた女性を見て、人は、「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言いました(創世記2章23節)。

 ここで、「イシュ」は、ヘブライ文字の「アレフ(A)、ヨド(Y)、シン(S)」という3文字で出来ています。一方、「イシャー」は、「アレフ(A)、シン(S)、ヘー(H)」の3文字です。つまり、男と女は、「アレフ(A)」と「シン(S)」を共通に持ち、それぞれ、「ヨド(Y)」と「ヘー(H)」という違いを持っているということです。

 男が女と結ばれて、二人が一体となるとき、アレフとシンという共通項に加え、ヨドとへーが合体します。「ヨド、ヘー」は、ハレルヤというときの「ヤ(YH)」の文字で、これは、主なる神を表わしています。つまり、二人が一体となるとき、そこに主もおられるというわけです。

 神が人を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われていますが(同1章28節)、心と体の交わりを通して一体となるとき、人は命を生み出す神の創造の業に参与しているということになります。

 箴言の記者は、冒頭の言葉(14節)のとおり、「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの」と言いました。これは、賢い妻は、先祖から受け継いだ家屋敷、財産以上のものという意味でしょう。

 では、賢くない妻や、13節の「いさかい好きな妻」だと、どういう価値になるのでしょうか。18章22節では、「妻を得る者は恵みを得る。主に喜び迎えられる」と語られており、結婚に対する肯定的な視点が示されています。それは、人が伴侶と共に生きることが、「人が独りでいるのは良くない」といわれる神の御心だからです。

 その意味で、新改訳聖書のように、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)に従ってその箇所を、「良い妻を得る者は」と、「良い」という形容詞を付けて訳すのは、良いことだとは思えません。

 そもそも、「いさかい好きな妻」がいるのでしょうか。喧嘩になるのは、夫と妻、双方にその原因があるからでしょう。妻が愚かに見えるのは、夫が妻を蔑ろにしているからではないでしょうか。「賢い妻は主からいただくもの」という言葉で、まず私たちが学ばなければならないのは、伴侶は主なる神がくださったものだということです。

 主イエスが、創世記2章24節を引用しながら、「二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われました(マタイ福音書19章5,6節)。自分たちで愛し合って結婚したようでも、それは実は、神が結び合わせてくださったものなのです。

 神が私たちにくださった伴侶は、私たちにふさわしい「助ける者」です。であれば、愚かであるはずがありません。あらためて、互いに伴侶は神がくださった賜物であると受け止めましょう。そしてそれは、自分にとって賢い、良い存在であることを認めて、神に感謝しましょう。

 主よ、私たちに合う助けとして伴侶をお授けくださり、心から感謝します。夫婦で心を合わせ、一つになって祈り求めるところに主が共にいてくださいます。いつも、夫婦が互いに心を合わせ、家族が一つになるように、神の家族として一つにしてくださった教会の信徒同士が、御前に心を合わせ共に歩むことが出来ますように。 アーメン




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