風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年12月

静岡教会 クリスマスの集い

クリスマスの集いの案内ができました。
お近くの方は、ぜひお出かけください。
クリスマスは教会へどうぞ!

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12月23日(水) 詩編144編

「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください。とびかう稲妻、うなりを上げる矢を放ってください。」 詩編144編5,6節

 144編は、王に関係する祝祭で用いられるために作られた「王の詩」の一つとされています。

 表題に「ダビデの詩」(1節)とあるように、ダビデの信仰に倣い、同じ恵みに与りたい、ダビデの子孫であるイスラエルの民に救いの恵みを与えて欲しいと願っているわけです。なお、死海写本にこの表題はなく、また、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には、「ゴリアトに対するダビデの(詩)」という表題がつけられています(サムエル記上17章参照)。

 この詩は、「わたし」と一人称単数で語られる11節までの第一部と、「わたしたち」と一人称複数で語られる12節以下の第二部という二部構成です。第一部は異邦人の手からの解放、第二部は主を神とする民の祝福がテーマとなっています。

 また、この詩は、18編、33編などから多くの言葉を拝借し、戦いに勝利をお与えくださる主をたたえ、人の儚さを嘆き、敵からの解放と繁栄を求める詩として纏め上げられたかたちになっています。

 「主をたたえよ、わたしの岩を」(1節)、「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔、わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ」(2節)は18編3節、「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」(5節)は18編10節、「飛び交う稲妻、うなりを上げる矢を放ってください」(6節)は18編15節、「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち」(7節)は18編17節と似ています。

 そして、「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(9節)は33編2,3節、「いかに幸いなことか、主を神といただく民は」は33編12節と、よく似ています。そのほか、3節は8編5節、4節は39編6節などといった具合です。詩人はこのように、他の詩の言葉を借りて来てその信仰を学び、同じ恵みに与らせて欲しいと願っているのです。

 冒頭の「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」という言葉(5節)は、上述の通り18編10節によく似ていますが、これは、もともと、モーセに十戒を授けるために神がシナイ山に降られたときの描写のようです(出エジプト記19章16,18節、20章18節)。エジプトを脱出した民に授けられた神の律法は、神と民との間に交わされた契約書でした。

 ですから、十戒の書かれた石の板を収めた箱は、契約の箱と呼ばれました。詩人が、「主よ、天を傾けて降り」と今ここで求めているのは、あらためて神との契約を結びたい、新しい契約の言葉を頂きたいと求めていることになります。

 ただ、18編の言葉を借りて、モーセのときのように契約のために主が降られることを求めているからといって、文字通り、同じことが起こるということではありません。それは、詩人も承知のことでしょう。「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(9節:33編3節)と、新しい契約という恵みに新しい歌で神をたたえると詩人が宣言しているからです。

 預言者エリヤが神の言葉を求めて神の山ホレブに着いたとき(列王記上19章1節以下)、主の御前に激しい風が起こり、その後に地震が起こり、その後に火が起こりましたが、モーセのときのように、主がその中でエリヤに語りかけるということはありませんでした。それらが起こった後、主なる神は静かにささやく声をもってエリヤに語られたのです(同12節)。

 詩人の願いに対して主なる神が用意されたのは、飛び交う稲妻や唸りを上げる矢でも、静かにささやく声でもありませんでした。それは、神の独り子イエス・キリストです。御子が天から降り、人間となって十字架に贖いの業を完成なさいました。流された血によって新しい契約が結ばれたのです。御子を信じる者は誰でも、神の子となることが出来ます。

 エレミヤ書31章33節によれば、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」ということですが、それは、主イエスが聖霊において私たちの心に宿られ、共にいてくださるということです。即ち、私たちの体が契約の箱、そして、聖霊が契約書です。

 12節以下に、家庭に息子娘があり、蔵に穀物が満ち、牧場に肥えた牛がいて、都は平和に保たれているという、神の祝福に満たされた様子が描かれています。そして主イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われました(ヨハネ福音書10章10節)。

 私たちの内に住まわれ、常に共にいてくださる主を仰ぎ、その御言葉に従って、聖霊による平安と喜びのうちに、日々歩ませて頂きましょう。

 主よ、聖霊によって神の愛を豊かに注ぎ与えてくださり、感謝致します。それにより艱難をも喜ぶことが出来ます。希望の源なる主が共におられるからです。絶えず主の御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン



12月22日(火) 詩編143編

「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください。」 詩編143編1節

 143編は、「七つの悔い改めの詩」(6,32,38,51,102,130,143編)の中で最後に登場する詩です。悔い改めの詩と言われていますが、むしろ、敵からの救いを求める祈りという形式になっています。

 1節で、「主よ、わたしの祈りをお聞きください」と願い、3節で、「敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり、とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします」と訴えます。

 そして9節で、「主よ、敵からわたしを助け出してください」と求め、さらに12節で、「あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を、ことごとく滅ぼしてください」と祈ります。

 救いを求める詩の場合、自分の正しさにも拘らず、敵の非道さで苦しめられている様子が語られ、速やかに敵を滅ぼしてくださるようにと求めるのが常です。ところが、2節に、「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」と述べています。

 即ち、正しい裁きによって敵を滅ぼせというのではありません。主の僕をさばきにかけないでくださいと求めているのです。そして、神の御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいないというのです。ここが、「悔い改めの詩」と呼ばれるポイントなのでしょう。

 詩人の罪がどのようなものであるかは不明ですが、どのような行いによっても、自分が神の前に義とはされ得ないことを認めているわけです。であれば、詩人が敵から救い出して欲しいと願う根拠は、おのが正しさや敵の不当な攻撃に対する裁きなどではなく、ただ神の恵み、慈しみということになります。

 だからこそ、冒頭の言葉(1節)のとおり、「わたしの祈りを聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください」と求めているのです。

 原典に忠実に訳すと、「わたしの祈りを聞いてください。あなたのまことにおいてわたしの嘆きに耳を傾けてください。あなたの恵みの業においてわたしに答えてください」という言葉になります。 

 ここで、「まこと」は「真理、誠実、堅固、信頼」(エムーナー)という女性名詞で、この言葉の男性形は「オーメン」です。イザヤ書25章1節に「エムーナー・オーメン」と二つが共に用いられて、「揺るぎない真実をもって」と訳されています。

 また、「恵みの御業」は、「義」(ツェダカー)という言葉です。「義」とは、神との関係が正しいということを示します。行いによっては誰も御前に正しいと認められないにも拘らず、神との関係が正しくなるとすれば、それは実に神の恵みの御業です。神の義は、人を裁いて神との関係を断絶するように働くのではなく、正しい関係に導き返すよう働いています。

 イスラエルは、神の御前に、律法に従って正しく歩むことが出来ませんでした。むしろ、恵みを味わいながらも、神に背き続けました。それゆえ、神はついにイスラエルを東方の強国バビロンの手に渡すことにされました。

 それを預言したのがエレミヤです。エレミヤは、涙の預言者でした。イスラエルの裁きを語らなければなりませんでした。そして、イスラエルの民は、エレミヤを受け入れず、むしろ嘲り、迫害しました(エレミヤ書20章7,10節)。

 詩人は、この預言者エレミヤのような存在なのではないでしょうか。だから、預言者として神の裁きを語る一方、同胞イスラエルがバビロン捕囚という苦しみに遭うことを看過出来ず、民の罪を自分に重ねて、民のために神の憐れみを求めたということかも知れません。

 そして、「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます」(6節)と言います。自分の内に拠り所を持たず、内外の苦しみで渇ききった魂を主の御手に委ねます。もはやそこにしか、彼が苦しみを逃れて救いを求めるところは残されていなかったのです。そして、それこそが悔い改めです。

 悔い改めとは、泣くこと、悲しむこと、謝ることではなく、正しく神に顔を向けること、神の恵みに信頼することだからです。詩人はそう語ることで、イスラエルの民にも、主の慈しみに目を留め、そのまことと恵みに信頼すること、即ち悔い改めることを求めているのです。

 そのように主を信頼して一切を主の御手に委ねるとき、8節で「朝にはどうか、聞かせてください、あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください、あなたに、わたしの魂は憧れているのです」と詠うとおり、苦しみの夜が終わり、慈しみの光が差し込む朝を迎えることになるでしょう。

 主よ、あなたがまことと恵みをもって、私たちのために最善を行っていてくださると信じられる者は、幸いです。この世には様々な苦しみがあります。その苦しみによって忍耐を学び、練達し、そして希望が生まれてきます。また、苦しみによって助け合い、愛し合うことを学びます。主よ、行くべき道、御旨を行う術を教えてください。御心がこの地になされますように。そうして御国が来ますように。 アーメン



近況報告

今月初旬に持病が再発し、1年半なかった症状が発現しました。
まだ初期段階で、血液検査の結果も炎症反応(CRP)が0.4という状況です。
腹部のMRIと内視鏡検査もしました。
クリスマスデイに受診して、検査結果も含めて診断を仰ぎます。
悪化させないようにしたいと思いますが。。。。お祈りください。 


 

12月21日(月) 詩編142編

「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と。」 詩編142編6節

 142編は、孤立無援になった人の神に助けを求める祈りの詩です。

 表題に、「マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴のいたとき。祈り」とあります(1節)。ここで、「ダビデが洞穴にいたとき」とは、サムエル記上22章1節以下の「アドラムの洞窟」のことを言っているものと思われます。

 その洞窟に入る前、ダビデはサウル王の手を逃れて、ガトの王アキシュの許に身を寄せようとしました(同21章11節)。ところが、アキシュ王の家臣たちは、自分たちの敵であったダビデを迎えるべきではないという判断を示します(同12節)。家臣たちの言葉で、アキシュ王が自分の命をとるかもしれないと恐れたダビデは、気が狂った真似をして、何とかその場を逃れました(同14節以下)。

 5節に、「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もいません」と記されています。これは、神に呼びかけて、自分がいかに孤独であるか、寄る辺なき状態に追い込まれているかということを訴えているわけです。

 ベトザタの池の回廊に38年もの長い間病気で苦しんでいた一人の男がいて(ヨハネ福音書5章2,5節)、その男に主イエスが、「良くなりたいか」と言われたとき(同6節)、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えました(同7節)。

 池の水が動いたとき、真っ先に入る者は病気が良くなると言われており、たくさんの病人が池の周りに集まっていました。その男には助けてくれる者がいないから、良くなりたくてもなれないということですが、その裏側には、自分のために親身になって助けてくれる友や家族がいないのだから、良くなっても仕方がないという思いが見え隠れしています。

 それこそ、ここに詠われているアドラムのダビデと同じような心境でしょう。表題の「マスキール」とは、「教訓」という意味ですから、この詩に示されているダビデの祈りや信仰に学びなさいということを表しているといって良いでしょう。

 ダビデはアドラムの洞窟に一人いて、これからどうしようかと考えたとき、まずその状況を神に訴えました。それが5節です。さらにダビデは言葉を次いで、冒頭の言葉(6節)の通り、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ。命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と」と語ります。

 ここで、「わたしの分となってくださる方」とは、かつてイスラエル12部族の中のレビ族に対して、「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てである」と言われたことを示します。

 レビ人は主なる神のために神殿で仕え働くことによって、神の養いを受ける者とされたのです。ですから、「わたしの分となってくださる方」とは、自分が信じて仕える神こそ自分の拠り所、命の源であるという表現です。

 ダビデが洞窟でその祈りをささげたとき、ダビデの兄弟や親族のほか、困窮している者、負債のある者、そして、サウル王に不満を持つ者などがダビデの許に集まりました(サムエル記上22章1,2節)。彼は一人ではなくなったのです。確かに、主は彼の祈りを聞き、必要な助けをお与えになるのです。

 38年の長患いの男は主イエスに声をかけられて、自分の問題を打ち明けました。それが出来たとき、実は男の問題は解決されていました。自分に「良くなりたいか」と声をかけくださった方が、彼の右に立つ真の友、彼の逃れ場となってくださったからです。

 ですから、主イエスが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられたとき(ヨハネ5章8節)、彼はすぐに立ち上がり、床を担いで歩き出したのです(同9節)。

 主よ、あなたは私たちが祈る前から、私たちの必要の一切をよく御存知です。ですから、私たちがあなたに祈り求めたとき、その必要を豊かにお与えくださいます。主よ、今も自然災害や原発事故により、寄る辺なき思いにされている方々に寄り添い、慰めと平安、希望をお与えくださいますように。 アーメン





12月20日(日) 詩編141編

「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください。」 詩編141編2節

 141編は、140編に続いて、主なる神に助けを願う祈りの詩です。

 1節に、「主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください」という祈りの言葉があります。緊急の助けを願っているのは、詩人に悪の手が迫っているからです。

 詩人に迫る悪の一つは、彼を悪へと誘う誘惑です。4節に、「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように」と言っています。

 欲望を満たすよう誘われるとき、なかなかそれに打ち勝つことが出来ません。詩人に対する誘惑は、言葉の問題だったのでしょうか。「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」(3節)と求めているからです。それは、神に対して不敬虔なことを語ることでしょうか。あるいはまた、人の悪口を言うことでしょうか。確かに、人の噂話にはなかなか扉を立てることが出来ないものです。

 悪への誘惑と言葉の問題ということで、民数記22章以下に、モアブの王バラクがベオルの子バラムという預言者を招き、イスラエルを呪わせようとしてことが記されています。バラムはバラクの再三の要請に対し、最初は神の言葉を聞いてそれを断りましたが、要請を受けて改めて神に尋ねると、行っても良いとのことだったので、出向くことにします。

 この後、結局バラムは神の導きに従って3度イスラエルを祝福し(同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)、結果的にバラクの要請を拒否した形に終わります(同24章12,13節)。

 しかしながら、第二ペトロ書2章15節では、「バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです」と言われます。

 つまり、バラクの要請に応じるべきか、バラムが2度目に神に尋ねた動機は、真実に神に問うたということではなく、「不義のもうけ」、つまり、自分の懐を肥やす金儲けのためだったというのです。

 あるいは、アッシリアの王センナケリブの軍隊に取り囲まれて絶体絶命の危機にあるヒゼキヤ王のことを思います(列王記下18章13節以下)。彼は、エルサレムの民に、アッシリアの脅しの言葉に対して沈黙するように命じました(同36節)。恐れ戦いて消極的、否定的な言葉を語ることで、神の御前に罪を犯すことがないようにしたのです。

 そして、預言者イザヤに執り成しを願います(同19章1節以下)。そのときのヒゼキヤの思いは、まさに、「主よ、私はあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください」というものだったでしょう。

 詩人は冒頭の言葉(2節)のとおり、「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください」と求めます。イスラエルの祭司は、絶えず神の前に香を炊き、香りの献げ物をささげました(出エジプト記30章7,8節)。また、朝と夕方、雄羊に穀物とぶどう酒を添え、それを燃やしてなだめの香りとしました(同29章38~42節)。

 詩人には、香も雄羊も持ち合わせがありませんので、祈りを香として、上げた手を供え物として受けるようにと求めます。つまり、神の前に差し出せるものは何もないのです。上げた「手」とは、上げた「掌」という言葉です。何も持っていない手を神の前に広げているのです。

 それは、自分ではお手上げということで、すべてを主に委ねて謙ることです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」といわれ(51編19節)、主はその人に命を得させてくださいます(イザヤ57章15節など)。

 また、上げた手は、自らを主に差し出すということでもあります。ひたすら主の前に座り、主が祈りに答えてくださるのを待つという姿勢であり、主のために自らを献げ尽くすということです。それ以外に、悪から逃れる術がないからです。そして、主はそのように主を求める者に、答えてくださるのです(エレミヤ書29章12~14節、マタイ福音書7章7~11節)。

 どんなときにも主の御前に進みましょう。絶えず主を仰ぎ、御名をたたえるほめ歌を歌いましょう。ことごとに祈りの手を上げ、主の御名を呼びましょう。 

 主よ、私たちの心に主の御言葉が豊かに宿りますように。聖霊に満たされますように。それにより、詩と賛歌と霊的な歌をもて互いに語り合い、絶えず主に向かって心から御名をほめ歌うことが出来ますように。私たちの生活を通して、主の愛と恵みを証しすることが出来ますように。クリスマスの喜びと平和が全地にありますように。 アーメン






12月19日(土) 詩編140編

「主よ、さいなむ者からわたしを助け出し、不法の者から救い出してください。」 詩編140編2節

 140編は、一人称で語られる、神の救いを求める祈りです。

 詩人を苦しめる存在について、冒頭の言葉(2節)に「さいなむ者」、「不法の者」(5節にも)とあり、5,9節には「主に逆らう者」、6節には「傲慢な者」と挙げられています。

 3節で「彼らは心に悪事を謀り」と説明されていますが、「さいなむ」(ラー)は「悪事」(ラーアー)の形容詞形ですから、まさに「さいなむ者」とは「悪事をなす者、悪い者」です。

 「不法」は、「ハマス」という言葉で、「暴力、暴虐、残忍」といった意味もあります。ハマスと言えば、イスラエルへの抵抗のために組織されたパレスティナの政党で、イスラム原理主義組織と言われる「ハマス」を思い起こしますが、これは、「イスラム抵抗運動」のアラビア語の頭文字から作られた呼称です。「ハマス」というアラビア語には「激情」という意味があるそうです。

 その悪事とは、語る言葉で罠を仕掛け、陥れようとするもののようです。4節に「舌を蛇のように鋭くし、蝮の毒を唇に含んでいます」とあり、6節では「傲慢な者がわたしに罠を仕掛け、綱や網を張りめぐらし、わたしの行く道に落とし穴を掘っています」と語ります。これは恐らく、裁判において偽りの告訴や証言を行うということでしょう。

 また12節に、「舌を操る者はこの地に固く立つことなく、不法の者は災いに捕らえられ、追い立てられるがよい」と、さいなむ者に対する呪いが語られています。ここで、「舌を操る者」は「舌の人」という言葉遣いで、「舌」(ラーショーン)は「言語、言葉」とも訳されます(創世記10章5節など)。そこで、「言葉巧みに語る人」という意味で、「舌を操る」という訳にしたのでしょう。

 パウロがローマ書3章13節に、4節の言葉を引用して、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ書3章10節)と語る論拠の一つにしています。つまり、誰もが蛇のような二枚舌で人に毒を与える言葉を吐く者となる可能性を持っているということです。

 かつて、エデンの園で女を罪に誘惑したのは、蛇でした(創世記3章参照)。偽りを語る2枚舌というのは、蛇のように舌の先が「Y」の字に分かれていることなのでしょう。蛇は、愛の神をけちん坊(同3章1節)で嘘つき(同4,5節)と偽ることで、女を唆しました。女は蛇の企みに載せられ、その落とし穴に陥りました。その結果、神に背き、その恵みから離れることになってしまったのです。

 罠を見分けることが出来れば、逃れることが出来ます。落とし穴があると思えば、注意もします。実際には、張り巡らされた罠や、掘られた穴に気づきません。熱いフライパンに蛙を入れれば、勿論飛び出してしまうけれども、水を入れた鍋に入れて少しずつ温度を上げていくと、中の蛙は逃げ出さないまま煮上がってしまうという話を聞いたことがあります。

 イスラエルがバビロン捕囚の苦しみを味わわなければならなかったのは、異教の偶像に引かれ、神に繰り返し背いたからでした。しかしながら、それが50年に及ぶ奴隷の苦しみにつながるとは、考えもしなかったことでしょう。彼らが慕った異教の神々、そして彼らが頼った異国の力は、イスラエルの民とエルサレムの町を守ってはくれませんでした。

 蛇は女に「食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3章4節)と言い、その木を見ると、賢くなれるように唆していました(同6節)。しかし、食べた結果、「神のように善悪を知るもの」になれるはずはなく、自分たちが神の守りから離れて裸であることを知ったのです(同7節)。

 彼らを罪に誘った蛇は、彼らのために弁護してはくれません。罰を引き受けてもくれません。彼らは神に背いた罰として、エデンの園を追い出されてしまいました(同23節)。

 詩人は、自分をさいなむ者、不法の者から守ってくれるのは、天地万物を創られたまことの主なる神だけであることを知り、助け出し、救い出してくださいと願っているのです。そして主は、その声に耳を傾け、慈しみをもって彼を救い出してくださいます。

 それゆえ、「わたしは知っています。主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを」(13節)というのです。確かに神は、イスラエルの民をバビロン捕囚の苦しみから解放し、イスラエルの国を建て直すことが出来るようにしてくださいました。

 アダムとエバがエデンの園を追放されるとき、二人は裸のままではありませんでした。彼らは初め、いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆うものとしましたが(創世記3章7節)、神が二人に、皮の衣を作って着せてくださったのです(同21節)。そのために動物が殺されました。その命で罪が贖われたわけです。

 そしてこのことは、イエス・キリストの贖いを示しています。キリストが私たちの罪のために死なれ、私たちは主イエスの命の衣を着せて頂いているのです。それは、私たちの罪が赦されたというしるしであり、神が常に共にいて私たちを守っていてくださるというしるしなのです。
 
 恵みの主に従って御名に感謝をささげ、いつも主の御前に座らせていただきましょう。

 主よ、絶えず信仰の目を開き、不法をなす者の罠に陥らず、落とし穴にはまることがないように、私たちの心と思いを守ってください。二枚舌にならないよう、あなたが共にいて、真理の御言葉を示してくださいますように。聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心からほめ歌わせてください。主の御名があがめられますように。 アーメン





12月18日(金) 詩編139編 

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」 詩編139編8節

 139編は、自分のことを知り尽くしておられる神に感謝をささげ、悪をなすものを滅ぼしてくださるよう求める祈りの詩です。この詩は、1節から18節までが、神に感謝し、たたえる歌、19節以下は、悪を滅ぼすよう求める祈りという、二部構成になっています。

 詩人は1節で、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」と語り、ここに、神によって完全に知られている存在として、自らを描いています。

 そして23節で、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください」と求めます。初めの宣言と終りの願いで詩全体が取り囲まれ、循環するかたちです。

 詩人は、主は「遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(2節)し、また、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」(4節)と、行うことも考えていることもすべて主がご存知だと言います。

 さらに、主が前からも後ろからも囲み、その御手の下に置かれて(5節)、何も隠すことが出来ないことなど、主の知識の不思議をこのように驚きをもって語り、「あまりに高くて到達できない」と言います(6節)。

 さらに、「どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとららえてくださる」(7~10節)と言います。

 一般に、天は主なる神のいますところ、地上は人間の住むところ、そして陰府は死者が身を横たえるところと区分され(115編16,17節)、天と陰府の間には深い淵が横たわっていて、往来は出来ないと考えられています(ルカ16章19節以下、26節参照)。しかし、この詩人は、地上のどこでも、陰府の底にも、神の前から隠れる場所はない、そこに神がおられると述べています。

 主は、また、昼も夜も共に司られるただ一人のお方です(11,12節)。人にとって、昼は明るく、夜は暗い闇です。しかし、主は夜も昼も共に光を放ち、変わるところがないと言います。これは、昼を司る太陽や、夜を司る月や星、それらを神々として拝む異教の礼拝を一掃するものです。

 詩人はいつ、どこで、このような神についての信仰を持つに至ったのでしょうか。聖書が示すとおり、天地万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる神であれば、詩人がここに語っているのは当然のことといってもよいと思いますが、しかしここで詩人は、心のひだに隠しておいたどのような思いも神が探り知っておられると、自らの体験に基づいて語っているのです。

 それで行き着いたのが、「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(13節)という表現でしょう。聖書時代、内臓は人間の感情が生まれてくるところ、深い精神的な働きを担う心のある場所と考えられていました。「深く憐れむ」とは、「腸がちぎれる」という言葉で表現されています。

 感情の座、心としての内臓を作り、母の胎内で自分を組み立てて下さった神には、何ら隠し事は出来ないということになるわけです。

 心のひだに隠されている思いとは、神の御前に必ずしもよいものでないことを、詩人は知っています。だからこそ、逆らう者を打ち滅ぼしてくださるよう求めたのち(19節以下)、自分自身のうちに神に逆らう思い、時に憎む思いがないか、思い悩み、道に迷っている状態ではないかと主に尋ね、「とこしえの道に導いてください」と願うのです(23,24節)。

 イスラエルの民は、神に受けた恩恵を忘れて神に背き、他の神々を慕い、姦淫を行って神を怒らせ、それによってバビロン捕囚の苦しみを味わいました。苦しみの中で、神を呪うようなこともあったでしょう。その一切をご存知の神は、嘆き呻く彼らを深く憐れみ、捕囚の苦しみから解放してくださいました。

 主は、エルサレムの神殿だけでなく、「バビロンの流れのほとり」(137編1節)にいる彼らの声ならぬ声にも耳を傾けてくださったのです。神の恵みの光が届くはずもないと思っていたのに、神はそこに右の御手を伸べてくださいました。

 あらためて冒頭の言葉(8節)の「天に登ろうとも」というのは、「私たちが有頂天になっているときにも」と読めます。「陰府に身を横たえようとも」とは、「意気消沈しているときにも」と読めます。どんな時にも、主がそこに共にいてくださり、そして御手で私たちを支えながら、正しい道、命の道に導き出してくださるのです(10節、23編3節)。

 私たちの救いは、神の御子イエスの贖いによって成し遂げられました。私たちが心のひだに隠していた思い、あらゆる罪を清めるため、キリストが十字架にかかって死んでくださったのです。

 私たちは自分で自分を清めることが出来ません。自分を正しく導くことが出来ません。ゆえに今日も、「神よ、私を究め、わたしの心を知ってください」と願い、「どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と求めましょう(23,24節)。主は、その祈りに答えてくださいます。

 主よ、感謝します。あなたは私を究められました。前から後ろから私を囲み、御手を私の上においてくださいます。主の慈しみのもとに留り、私の足が右にも左にもそれず、主に従ってまっすぐに歩むことが出来ますように。その恵みを広く告げ知らせるものとしてください。聖霊の満たしと導きが常に豊かにありますように。 アーメン






12月17日(木) 詩編138編

「わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。」 詩編138編7節

 138編は、神の救いの御業に感謝する歌です。その慈しみとまことに信頼しつつ、救いを願う言葉で詩を閉じています。「ダビデの詩」という表題ですが、その文体、用語から、捕囚期後の作と考えられています。

 イスラエルの民は、自らの罪のゆえに神の怒りを買い、バビロンに捕囚として引いて行かれ、塗炭の苦しみをなめました。けれども、慈しみとまことに富む神は、彼らの求めに答え、その苦しみから解放されました(2,3節)。それが、この詩人が心を尽くして感謝し、御名をほめたたえている理由です。

 詩人らは、バビロンにおいて異教の神の宮を見せられました。その神を拝むように強要されることもあったでしょう。座興として「シオンの歌」を歌わされたりもしました(137編3節)。しかし、それは決して喜びではあり得ません。

 けれども今、エルサレムに戻ることが出来、聖なる神殿の前で礼拝をささげられるようになりました。その日をどんなに待ちわびていたことでしょうか。ほめ歌を心から歌えるというのは、どれほど嬉しかったことでしょう。感謝も一入だったでしょう。

 1節の「神の御前で」を、口語訳は「もろもろの神の前で」、新改訳は「天使たちの前で」と訳し、異教の神々の前で主なる神をたたえるという解釈を採っています。「感謝する」(ヤーダー)、「ほめ歌をうたう」(ザーマル)には、「あなたに」(ハー)という接尾辞がついていますので、神々の前で「あなた」と呼ぶ主に賛美をうたうという言葉遣いと考えられます。

 新共同訳は、主をたたえている者たちは主なる神の前に立って賛美しているということで、その訳を採ったのでしょう。神々の前で主をたたえるということは、主なる神こそ真の神、主の主、王の王であられるということなのです。

 「心を尽くして」(ベ・コール・リビー:「わたしの心のすべてにおいて」の意)感謝するという表現は、申命記に多用されています(4章29節、6章5節、10章12節、11章13節、13章4節、26章16節、30章2,6,10節)。 

 この感謝の言葉の中で、「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました」(4節)と語り、「主の道について彼らは歌うでしょう、主の大いなる栄光を」(5節)と言います。イスラエルの民が、神の慈しみとまことによって解放されることを喜び感謝するのは当然ですが、地上の王たちが感謝し、主の栄光を歌うとは、どういうことでしょう。

 そのことについて、「あなたに感謝をささげます」(ヨードゥーハー)、「彼らは歌うでしょう」(ヤーシールー)は、いずれも未完了形です。主によって苦難から解放されたイスラエルの民が、主の恵みを地上の王たちをはじめすべてのものに証しすることを通して、すべてのものが、主の慈しみとまことを知り、味わい、そうして、神に感謝し、ほめ歌うようになるということではないでしょうか。

 6節に、「主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます」と語られます。神は弱い者、小さき者の味方となって助け、傲慢な者、横暴な者を退けられるということです。神は、バビロンによって低くされていたイスラエルを救い出され、バビロンは歴史の舞台から退けられたのです。

 詩人は、主の慈しみとまことに信頼しつつ、冒頭の言葉(7節)の通り、「わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください」と祈り願っています。

 「命を得させてください」、「お救いください」と求めるということは、神の助けが必要であるということであり、それこそが詩人の拠り所であるということです。

 「御手を遣わし、右の御手でお救いください」とありますが、神の御手、それも右の御手とは、どんなものでしょうか。右腕とは、頼りになる人のことを指します。詩編16編8節に「主は右にいまし」とあり、神が私たちの助け主、弁護者として右にお立ちくださることが示されます(109編31節、110編5節、121編5節も参照)。

 神の右におられるのは、私たちの救い主なる主イエス・キリストです(マルコ16章19節、ローマ書8章34節など)。神は、この世を愛し、私たちに永遠の命を授けるために、キリストをこの世に遣わされました(ヨハネ3章16節)。キリストは、十字架によって贖いの業を成し遂げられ、三日目に甦られて後、天に上げられ、神の右の座に着かれました(ヘブライ書1章3節)。

 このキリストの贖いの業により、すべての人々に神の救いの道が開かれました。「聖書にも、『主を信じるものは、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の御名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ書10章11~13節)。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ書1章6節)。

 ゆえに「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に述べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ書2章10,11節)。

 主よ、あなたは御子キリストの贖いにより、私たちを天の御国に国籍を持つ神の子供としてくださったことに、心を尽くして感謝し、御名をほめたたえます。私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。主イエス・キリストの恵みが、常に私たちの霊と共にありますように。 アーメン




12月16日(水) 詩編137編

「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、わたしの最大の喜びとしないなら。」 詩編137編5,6節

 137編は、エルサレムの神殿において主を賛美していた音楽奉仕者によって作られたものだろうと思われます。バビロンに敗れてエルサレムが陥落し、神殿が破壊されて祭具などがすべて奪われ、詩人もバビロンに連れて来られたのです。

 詩人たちが一日の働きを終え、「バビロンの流れ」のほとりで、故郷を偲んでしばし涙していると(1節)、バビロンの人々が、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と求めます(3節)。「わたしたちを捕囚にした民」(3節)というのはバビロンの兵士たちで、彼らの労役を監督していた人々のことではないかと想像します。

 シオンの歌とは、詩編46編2,5,6節の、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。・・・大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」というような詩のことでしょう。

 彼らがシオンの歌をリクエストした理由は、詩人たちを嘲り、「お前たちの神はどこにいるのか」と、その信仰を侮辱して楽しむためだったと思われます。勿論、そのような求めには応じられません。2節で「竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた」というのは、竪琴を弾かないようにしたということです。

 シオンの歌は、神の都エルサレムにいます神をたたえるものですから、竪琴の調べに合わせて歌えと言われても、彼らの余興のためなどにそれを歌うことは出来ません。4節で、「どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で」というとおりです。

 「異教の地」を指し示すように、1節で「バビロンの流れのほとり、そこにわたしたち(新共同訳は訳出していない)は座り」、3節にも「わたしたちを捕囚にした民が、そこでわたしたちに(ここも同じく)歌をうたえと言うから」と、「そこに、そこで」(シャーム)という言葉が繰り返されます。 

 亡国のイスラエルの民は「そこ、異教の地」で、悲しみの上に嘲りの的とされる屈辱を味わわされ、どれほど辛く、悔しい思いをしたことだろうかと思います。にも拘らず、彼らが信仰を失うことはありませんでした。むしろ、苦しめられるほどに、神の都エルサレムを思い、主を慕い求めました。それが冒頭の言葉(5,6節)です。

 「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら」とは、シオンを選んで御自分の住まいとされた神を決して忘れることはないということで、その思いは激しく、もしもエルサレムを忘れるようなら、自分の右手が萎え、舌が上顎に張り付いてもよいという、呪いの誓いを立てるほどです。

 詩人にとって、右手が萎えるというのは、竪琴を奏でることが出来なくなるということであり、舌が上顎に張り付くというのは、主へのほめ歌を歌えなくなるということです。

 現実に押し流され、困難に押しつぶされて神を信じることが出来なくなり、喜びや平安、希望を失う事態に陥れば、竪琴を奏で、主へのほめ歌を歌うのは、空しいことでしょう。そうなっていても可笑しくない状況の中で、なお主を慕い、祈りをささげることが出来るところに、詩人の信仰を見ることが出来ますし、その信仰を与えられた主の慈しみを感じます。

 「主よ、覚えていてください。エドムの子らを」(7節)以下の言葉は、受けた屈辱、過酷な仕打ちを、彼らに報い返してくださるようにと求める呪いの祈りです。

 エドムは、ヤコブ=イスラエルの双子の兄エサウの子孫です(創世記25章19節以下、30節など)。創世記27章41節には、エサウが、長子の権利と父の祝福を奪った弟ヤコブを憎み、「父の喪の日も遠くない。そのときが来たら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と考えている言葉が記されています。

 この件は、創世記33章において、すでに水に流されているかのように見えます。しかしながら、ヤコブはエサウと歩みを共にすることはありませんでした(同33章12節以下)。そのような兄弟のすれ違いが、エドムがバビロンと連合してイスラエルを攻め滅ぼすという結果を生み出したともいえそうです(エゼキエル書25章12節以下、アモス書1章11節、オバデヤ書10節など参照)。

 しかしながら、復讐に復讐では、今日のパレスティナやアフガニスタン、イラク、そしてシリア情勢が示すとおり、平和の関係を築くことは不可能です。むしろ、互いに憎悪が増し、争いが拡大してしまいます。

 受けた苦しみを忘れたり、相手を赦したりというのは、誰にも出来ないことかもしれませんが、私たちの罪を引き受け、赦しと救いの恵みをお与えくださった主イエスが、互いに罪を赦し(マタイ6章12,14,15節、18章22節など)、愛し合うべき(ヨハネ13章14,15節など)ことを教えておられます。

 御教えに従うことが出来るように、そうして愛と平和の家庭、社会を築くことが出来るように、祈りましょう。

 主よ、他人から受ける悪や侮辱に対して、祝福を祈って返すというのは、私たちの自然の感情ではありません。しかし、愛と信頼の関係を破壊しようとしている悪しき霊の仕業にしてやられることなく、また、自らの感情に流されることなく、御言葉に堅く立って行動出来ますように、主の慈しみと平和で私たちの心と思いをお守りください。キリストの平和が全地にありますように。 アーメン



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