風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年12月

カウントダウン

あと20分ほどで新年。
大晦日の夜は、年神様を迎えるために寝ずに夜を過ごしたので「除夜」と言われました。
除夜には各家庭で年越し蕎麦が食べられます。
蕎麦が食されるのは、他の麺より切れやすく、今年一年の災厄を断ち切るという意味で、年越し前に食べるのだそうです。
かつては、この日、早く寝むと白髪になるとか、しわが増えると言われたものだそうです。
しかしながら、徹夜する方が髪にも肌にもよくないことは、言うまでもありません。

今から62年前の今日(1953年12月31日)、1950年から始まった紅白歌合戦がテレビで公開されました。
第4回紅白歌合戦です。
それまでは、 年明けに行われていましたが、テレビ用の大きな会場が確保出来なかったこと、当時の歌手は正月公演を行っていて、スケジュールを調整するのが困難だったことから、大晦日に行うことになり、以後、定着しました。
白組の司会は高橋圭三アナウンサー、紅組は女優で男装の麗人と言われた水の江瀧子、総合司会は北出清五郎アナウンサー、白組のトリは藤山一郎、紅組は淡谷のり子でした。
それまで白組が連勝していて、4回目に初めて紅組の勝利となったため、テレビは怖い、今回は女性陣の衣装に負けたと白組歌手たちは嘆いたと言います。

今年はどんな対戦になったのでしょうか。
平和な夜が続くことを願います。




12月31日(木) 箴言2章

「あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」 箴言2章5節

 2章は、知恵を求める祝福が語られています。

 1章7節に続き、冒頭の言葉(5節)にも、「主を畏れること」が語られています。「主を畏れることを悟り、神を知ることに到達する」ことが出来るには、「わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら」(1,2節)、そして、「分別に呼びかけ、英知に向かって声を上げるなら」(3節)と、その条件が挙げられています。

 父がわが子に語るように、著者がそれを学ぼうとする者たちに、知恵、英知、分別を尋ね、探し求めるようにと説いているわけで、それらを追い求めると、主を畏れること、神を知ることに到達するというのです。

 そのような知恵や英知、分別をどこに探すのかといえば、6節に、「知恵を授けるのは主、主の口は知識と英知を与える」と言われておりますから、神の言葉にそれを求めるのです。即ち、神の言葉を聞くことにより、主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するのです。

 ただ、「銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを探すなら」(4節)というのですから、その知恵は、机について学ぶものではなく、それを手に入れるために、苦労しなければならないのでしょう。

 主イエスが、「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」というたとえ話をしておられます(マタイ福音書13章44節)。見つけたら持っているものをすべて売り払ってでも手に入れたい宝、それが天の国です。

 天の国は、神がおられるところということで、神にお会いすること、神と交わることを、天の国と言い表しているといってよいでしょう。神とお会いし、その交わりに与ることは、何ものにも変えられない喜びだということをぜひ知って欲しいと、主イエスが語っておられるわけです。

 しかしその宝は、畑に隠されているというのです。宝がなぜ畑に隠されているのでしょう。私たちが真剣に神を畏れ、神を知りたいと願い、主に知恵や分別、英知をを尋ね求めるかどうか、御言葉を聞き、その教えに従いたいかどうかを、神が私たちに尋ねておられるということなのかも知れません。

 私の好きな話に、ある父親が仕事嫌いで怠け者の3人の息子に家宝を遺すという話があります。イソップ童話だったでしょうか。

 父親は、息子たちを呼び、「宝を畑に隠しておいた。見つけた者にやる」と言います。3人は我先に畑に行き、先を争って宝を探し始めますが、なかなか見つかりません。ばらばらに探していても埒が明かないと見た3人は、競い合うことをやめ、協力して探すことにします。一列に並び、端から順に深く掘って探しましたが、結局、宝は出て来ませんでした。出たのは、汗とため息ばかり。

 これは、「親父、騙しやがったな」という話なのでしょうか。そうではありません。この話の結末は、深く耕した畑は、どんな野菜でも良く育ち、豊かな実りを与えてくれる。そのために3人が協力して根気よく働くことこそ、家宝であるというのです。

 ところで、仕事嫌いの3人は、畑が宝の宝庫であることに気づいたでしょうか。協力すれば、どんな困難も乗り越えられるということを悟ったでしょうか。父の教え、諭しにきちんと耳を傾けていなければ、何も出て来なかった畑を、それこそ二束三文に売って、それで放蕩してしまったかもしれません。そして、その畑を買った人が、本当に安い買い物をしたと大喜びしたことでしょう。

 マタイ7章24節の「岩の上に自分の家を建てた賢い人」という表現を、ルカは、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」(ルカ6章48節)と記して、土台となる岩は地面深くに隠れているとしています。地面を深く掘って、隠れている岩を見出す賢さ、知恵が必要だということです。 

 パウロは、「知恵と知識との宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ書2章3節)と言っています。知恵と知識を得るために、特別な学問をする必要はないのです。

 パウロは続けて、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」と言います(同6節)。つまり、主イエスを信じ、主イエスにあって、主イエスと共に歩むとき、その交わりを通して、真の知恵、知識の宝を、キリストの内に見出すのです。

 聖霊の導きを祈りつつ御言葉に静かに耳を傾け、御旨を尋ね求めること、示された御言葉を昼も夜も口ずさみ、主の御前に信仰を言い表すことによって、その知恵と知識との宝が開かれてくることでしょう。そのようにして、主を畏れることを悟り、神を知るという恵みに与らせていただきましょう。

 主よ、私のようなものさえ、父と子と聖霊の交わりの内に迎えるという恵みに与らせてくださり、心から感謝致します。あなたの御言葉に耳を傾けることを喜びとし、その御旨を悟らせていただくことを楽しみとして歩むことが出来ますように。 アーメン




12月30日(水) 箴言1章

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」 箴言1章7節

 今日から箴言を読み始めます。箴言の「箴」は、ハリという文字です。現在、ハリは「鍼」と書きます。これは鍼灸のハリという字です。昔、中国では竹のハリで治療していたから「箴」で、現在は金属のハリを使うようになったので「鍼」という字になったそうです。つまり、「箴言」とは、知恵の言葉というハリで、人生のツボをつくという意味なのです。

 箴言の著者は、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモン」とされています(1節)。ただ、25章1節に、「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」とあり、25章以下の部分は、もとはソロモンかも知れませんが、ヒゼキヤの世に筆写されたものと、後代の編者が記しているわけで、全体を編集したのは、捕囚後のことであろうと考えられています。

 著者とされるソロモンについて、列王記上5章9,10節に「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった」と記され、さらに「彼の語った格言は三千、歌は千五百種に達した」(同12節)とあり、そして「あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた」と言われています(同14節)。

 その編者が箴言を編集した目的を、2~6節に記しています。短くまとめれば、知恵を得て賢くなるためということになるでしょうか。ソロモンがそれを集めたのであれば、それは、ダビデ王朝による支配が、それまでのものとは違う新しい形態を求めたということなのかも知れません。

 「知恵」(ホフマー)という言葉は、旧約聖書に161回出て来ますが、うち42回が箴言、ソロモンの知恵ということで列王記に17回出て来ます。
 
 「知恵」には、「技量」という意味もあります。出エジプト記に8回出て来ますが、それは、神の幕屋を建造し、幕屋で用いる祭具や祭司の衣服などを整えるために必要な知恵を授けると言われており(同31章3,6節など)、そこでは、立派な仕事をするために必要な技術的な知識や腕前を指しています。

 そうすると、箴言というのは、人が人生を生きていく上で必要な知識や技術を授けるため、その格言を集めたものということになりますね。

 箴言の中で最も良く知られているのは、冒頭の言葉(7節)にある「主を畏れることは知恵の初め」という言葉でしょう。「主を畏れる」という言葉が箴言に14回記されており、とても重要なテーマであることが分かります。

 知恵との関連では、9章10節にも「主を畏れることは知恵の初め」とあり、15章33節でも、「主を畏れることは諭しと知恵」と言われています。

 「知恵の初め」とは、入り口、入門というよりも、土台、基礎という意味です。主なる神を畏れるということが、知恵全体を支えている、知恵を探っていくとその一番深い重要なところに神への畏れというものがあるということです。

 そして、聖書が教えている神への畏れとは、神を怖がることではありません。「障らぬ神にたたりなし」ではないのです。神の聖さを認識することで生じる崇敬と畏怖の念、そして、畏敬の念から生じる神への従順や忠誠ということです。

 十戒を授けられたイスラエルの民に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4,5節)と命じた後、「あなたの神、主を恐れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(同13,14節)と言われるのはそのことです。

 新約に、「知恵」(ソフィア)という言葉が51回用いられています。うち28回はパウロ書簡で、中でも第一コリント書に17回用いられています。知識を誇りとしていた人々との論争が、その背景にあります。

 その中でパウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(第一コリント書1章23,24節)と言います。

 十字架につけられたキリストは、愚かであり、躓きだといわれるけれども(同1章18節)、それこそ、神の知恵だというのです。コロサイ書2章3節に「知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠れています」というのも、それを示しています(イザヤ書11章2節、ローマ書11章33節参照)。

 また、エフェソ書5章21節に「キリストに対する恐れをもって、たがいに仕えあいなさい」と言われます。箴言に、神の知恵なるキリストを見出し、その恵みを証ししつつ主と共に歩みたいと思います。

 主よ、あなたを畏れることを教えてください。私たちをキリストを畏れ、主に仕える真の礼拝者としてください。あなたは私たちの創り主で、私たちのことをすべてご存知です。あなたの御心に従って歩むことが、私たちの喜び、私たちの楽しみとなりますように。 アーメン



12月29日(火) 詩編150編

「力強い御業のゆえに、神を賛美せよ。大きな御力のゆえに、神を賛美せよ。」 詩編150編2節

 150編は、最初と最後に「ハレルヤ」とある「ハレルヤ詩編」(146~150編)の最後のものであり、150編の詩編を締め括るにふさわしく、壮大なスケールの賛美です。

 最初の「ハレルヤ」に続き、一行ごとに合計10回、「神を賛美せよ」(最初はハレルー・エル[神]、後はハレルーフー[彼])と記されています。即ち、一息ごとに「賛美せよ」と、賛美に招いているのです。「ハレルー」は、「ハーラル(賛美する)」のピエル・命令形です。

 最後の6節は語順が入れ替わり、最後の「ハレルヤ」の直前に「主を賛美せよ」(テハレール・ヤー)が置かれています。「テハレール」は「ハーラル」のピエル・未完了形で、命令から指示に変化しています。  

 冒頭の「ハレルヤ」に続いて、「聖所で、神を賛美せよ。大空の砦で神(彼)を賛美せよ」(1節)と、まず賛美する場所を示します。「大空の砦」とは、神のいます天上の世界を示しています。「聖所」は、神を礼拝する場所です。礼拝において私たちが賛美すべき神は、天におられるということです。

 冒頭の言葉(2節)には、「力強い御業のゆえに、神を賛美せよ。大きな御力のゆえに、神を賛美せよ」とあり、神を賛美すべき理由が示されます。「力強い御業」、「大きな御力」は、天地万物を創造されたこと、またイスラエルをバビロンから救い解放したことなどを指すと考えられます。

 3節以下では、どのように賛美をするのか、その道具と方法が示されます。「角笛」(3節)は祭司が吹き鳴らすものです(ヨシュア記6章4節など)。「琴と竪琴」(3節)、「シンバル」(5節)は、レビ人の中の詠唱者たちが賛美に用います(歴代誌上15章16節など)。

 「太鼓」(4節)は、預言者ミリアムが葦の海の奇跡で神を賛美するときに用いた小太鼓(出エジプト記15章20節)、エフタを出迎えた娘が踊りながら打ち鳴らした鼓(士師記11章34節)、ダビデをたたえる女たちが打ち鳴らした太鼓(サムエル記上18章6節)などの記事から、タンバリンのようなものであろうと想像します。

 その他に、「弦」や「笛」も用いられます(5節)。ここで、「弦」(メーン)は、45編9節とここだけにある言葉で、訳語は70人訳を参考にしています。3節の「琴」(ネーベル)や「竪琴」(キンノール)とはまた違う弦楽器です。つまり、あらゆる楽器を用い、さらに踊りも交えて(5節)、力の限り主をたたえるのです。

 そして最後の6節で、「息あるものはこぞって、主を賛美せよ」と言い、だれが主を賛美すべきなのか、誰を賛美に招いているのかを示します。「息あるもの」とは、土で形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となった、人間のことです(創世記2章7節)。人はすべて、神の深い愛と計画に基づいて創造され、生かされているのです。

 ここまで見て、この詩には、「いつ」神を賛美をすべきなのか、どこにも示されていないことに気づきます。これはむしろ、何をしていていも、いついかなる状況でも、絶えず賛美すべきなのだということを、無言で語っているのでしょう。「賛美せよ」と命じられているということは、神が私たちが賛美するのを待ち望んでおられるのです。

 絶えず賛美せよと言われても、苦しみのとき、悲しみのときに賛美するのはなかなか困難です。しかしながら、神は私たちの苦しみ、嘆き、悲しみの涙を、喜びと感謝の歌、主への賛美に変えてくださるお方です(30編5節、126編5,6節など)。「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と、私たちにも歌わせてくださいます。

 神は私たちを愛し、私たちを神の子として迎えるために、独り子を世に遣わされ、十字架に贖いの供え物とされました。それは父なる神にとって、どんなに悲しく辛いことだったことでしょうか。神は悲しみを知るお方として、私たちを慰め、救ってくださるのです。神のなさった「力強い御業」、表された「大きな御力」とは、まさにそのことでしょう。

 キリストの贖いによって救われた私たちが、どうして「賛美する気分になれない」などと言えるでしょうか。確かに、賛美は気分でするものではなく、私たちを愛してやまない主の偉大な御業に対し、感謝と喜びをもってささげるものです。私たちが賛美をささげるとき、神はそこを聖所とし、そして大空の砦なる天の御座の前に私たちを引き上げてくださいます。

 瞬間瞬間、主なる神をたたえる思いで、委ねられた務めに励み、主と共にある喜びと感謝をもって過ごし、力いっぱい「ハレルヤ」と、主をほめ讃えましょう。

 主よ、私たちを愛し、私たちに絶えず目を留め、守り導いていてくださることを、心から感謝致します。私たちもあなたの御言葉を心に留め、御旨に従って歩みます。あなたの慈しみが、私たちの上に常に豊かにありますように。私たちはあなたを待ち望みます。 アーメン




12月28日(月) 詩編149編

「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」 詩編149編1節

 149編は、「ハレルヤ詩編」(146~150編)の4番目の詩で、異邦の民に対する勝利を喜ぶ賛美の歌です。

 まず、イスラエルの民を賛美へ招きます(1~3節)。冒頭の言葉(1節)に、「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ」とあります。「主の慈しみに生きる人」は、「慈しみ」(ヘセド)の形容詞で、「敬虔な、忠実な」(ハーシードの複数形)という言葉です。それが名詞的に用いられて、口語訳、新改訳のように「聖徒」と訳されることもあります(岩波訳は「忠実な者たち」)。

 新共同訳は、敬虔な者、聖なる者たちとは、主の慈しみに生きる者と解しました。それは、主の慈しみなしには生きられない、主に依り頼んで生きる人々ということであり、それゆえに、主なる神の御前に謙って歩む者たちということでしょう。

 それは、主イエスが山上の説教で語られた、「心の貧しい人々」のことといってもよいのではないでしょうか。岩波訳はそれを「乞食の心を持つ者たち」と訳しています。直訳すると、「霊において貧しい人々」という言葉で、依って立つべきものを一切持たない人々のことを言います。

 主は、その貧しい人々に天の御国を賜るという祝福をお与えになります。だから4節に、「主は御自分の民を喜び、貧しい人を救いの輝きで装われる」と言われているわけです。

 2節に、「シオンの子らはその王によって喜び躍れ」と言われていますが、ここで「王」というのは、前の行の「イスラエルはその創り主によって喜び祝い」という言葉から、かつてイスラエルに君臨したダビデ家の王たちではなく、天地を創り、イスラエルを統べ治められる万軍の主なる神を指しています。

 1節の「主の慈しみに生きる人」を、2節で「イスラエル」、「シオンの子ら」と言い換え、主なる神が造り主として、また王として、御自分の民に慈しみをお与えになるがゆえに、4節の言葉でいえば、「貧しい人を救いの輝きで装われる」ので、喜び祝い、喜び躍ることが出来るというのです。

 「主の慈しみに生きる人」に与えられる装いについて6節に、「口には神をあがめる歌があり、手には両刃の剣を持つ」と語られます。「両刃の剣」は、「国々に報復し、諸国の民を懲らしめ」(7節)、「王たちを鎖につなぎ、君侯に鉄の枷をはめ」(8節)るために与えられるのですが、9節では、「定められた裁きをする」と言われていますので、これは、神の裁きの言葉ということです。

 両刃の剣と言えば、ヘブライ書4章12節でも、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と言われております。

 勿論それは、神の裁きの言葉をもって、誰彼となく切りつけて報復してよいということではありません。両刃ということは、刀の刃が相手に向かうと同時に、自分にも向けられているということです。人を裁くその裁きで自分も裁かれ、人を祝福するとき、自分も祝福に与ることが出来ます。

 エフェソ書6章10節以下に、悪魔の策略に対抗して立つことが出来るよう、神の武具を身につけよと命じられています。その17節に、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」という言葉があります。この剣は、敵を成敗する「正義の刃」などではありません。同14節に、「正義を胸当てとして着け」と言われています。つまり、正義は私たちの命を守る胸当てであって、剣ではないのです。

 同19節に、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように」と言い、さらに同20節で、「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に語れるように」と言っています。すなわち、私たちが身につける霊の剣、神の言葉とは、救いの恵みを与える福音の言葉、人を生かす命の言葉ということになります。

 実に主イエスは、私たちがまだ罪人であったとき、不信心な私たちのために、死なれました。むしろ神の敵であったのに、私たちに愛を示し、救ってくださったのです(ローマ書5章6節以下)。神によって裁かれるべき私たちが、その贖いによって罪赦され、救いの衣を着せられ、神の子とされました。

 それゆえ、「主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み、伏していても喜びの声を上げる」(5節)のです。伏しているのが病いの床であっても、悲しみの床であっても、主イエスはそこから立ち上がらせ、喜びをお与えくださるのです。

 口に主を崇める歌を、手には福音の言葉を持ち、主の愛と慈しみを証するため、聖霊に満たされましょう。日々主を求めて御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、私たちはキリスト・イエスにあって、新しく造られたものです。古い自分に死に、神の子として生きる道を歩ませて頂いています。主の御言葉に従って歩むことを通し、主から授けられた新しい歌で賛美することを通して、力強く主を証しさせてください。すべてを益に変えてくださる主を信じ、御名を崇めます。 アーメン!




12月27日(日) 詩編148編

「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。」 詩編148編14節

 148編は、詩編を締めくくる「ハレルヤ詩編」(146~150編)の三番目のものであり、内容的に、6節までと7節以下の二つに分けられます。前半では、「天において、主を賛美せよ」と呼びかけており(1節)、後半には、「地において、主を賛美せよ」という招きがなされています(7節)。

 天における賛美には、御使いや主の万軍(2節)、日や月、星(3節)、天の天、天の上にある水(4節)が動員されます。

 一方、地において賛美するのは、海に住む竜、深淵(7節)、火、雹、雪、霧、嵐(8節)、山々、丘、実を結ぶ木、杉林(9節)、野の獣、家畜、地を這うもの、鳥(10節)、地上の王、諸国の民、君主、地上の支配者(11節)、若者、おとめ、老人、幼子(12節)です。

 前半は、呼びかけた相手にそれぞれ、「主を賛美せよ」と語りかけます。それを受けて後半は、最初に「地において、主を賛美せよ」と命じた後、賛美を命じる対象者を次々と呼び出します。

 かくて詩人は、天と地と海のあらゆるものに賛美を呼びかけています。それは、5節にあるとおり、すべてのものが全能の主なる神によって創造されたからです。創世記の記事によれば、神は、「光あれ」という御言葉によって、光を創造されました(創世記1章3節)。

 詩人は、そのことを思いながら、すべてのものは主を賛美するために、神によって呼び出された、存在せしめられたものであると言おうとしているようです。被造物は、産み出されたときがあるように、取り去られるときが来ます。しかし、主を賛美するようにという目的、使命、定めは世々限りなく、変わらないのです(6節)。

 6節の「越ええない掟を与えられた」は、岩波訳のように「掟を与えて、それが過ぎ去らないようにした」とも訳すことが出来、いずれにせよ、神の与えられた掟、分、律法は不変だということを示しています。 

 日や月、星、日や雹、雪や霧、山や丘は、どのように主を賛美するのでしょうか。8節に、「御言葉を成し遂げる嵐よ」とあります。嵐が御言葉を成し遂げるということは、神の御言葉によって、嵐が起こされるということでしょう。つまり、神によって創造されたすべてのものが、神の御旨のままに登場し、動き、働くとき、それによって主がほめ讃えられ、御名が崇められるということです。

 19編2~5節でも、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」と詠われていました。神によって創造された天の万象が、神の創造の不思議を無言ながら雄弁に物語り、それを見る者、聞く者は、主をほめ讃えざるを得ない思いにされるのです。

 13節で、「主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている」と語り、次いで冒頭の言葉(14節)のとおり、「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ」と詠います。

 ここで、13節の「天地に満ちている」は、原文では、「地と天の上にある」という言葉です。「天と地」という表現は、何度も出て来ますが、「地と天」と順序が逆になっているのは、創世記2章4節とこの箇所だけです。地の上に天があり、その上に主の威光が満ちていると考えれば、この順序に意味があると言えるでしょう。

 イスラエルは、神に背いてその怒りを買い、バビロンによって滅ぼされましたが、主の慈しみにより、もう一度、神の民として神によって選ばれ、主の御名をほめ讃えるために、主の御傍近くに置かれたのです。「角を高く上げる」と言われていますが、「角」が力や権威の象徴であることから、力や権威が与えられること、賞賛や栄誉に与ることと考えられます。

 神の慈しみによってイスラエルに力と権威、賞賛や栄誉が与えられるということは、賛美こそ、イスラエルに与えられた力であり、権威です。主を賛美するとき、主の栄誉と賞賛に与ることが出来るといってよいでしょう。

 イスラエルの角を高く上げられる神は、主イエスの十字架の贖いによって私たちを罪から救い、永遠の命を授け、神の子としてくださる愛と恵みの神です。高らかに主の御名をほめ歌い、その恵みを証ししましょう。

 主よ、はかり知ることの出来ない豊かな慈しみのゆえに感謝し、御名を褒め称えます。私たちが救いに与ったのは、ただただ恵みでした。あなたはその威光を天地に満たしておられます。すべての者がそれを認め、賛美の招きに答えて御前に跪き、イエスこそ主であると告白して、栄光を主に帰すことが出来ますように。 アーメン





12月27日(日)主日礼拝説教

12月27日(日)礼拝説教の動画をYouTubeにアップしました。


説教題 「ヌンク・ディミティス」
聖書 ルカ福音書2章22~40節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/

是非ご覧ください。








 

12月26日(土) 詩編147編

「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。」 詩編147編15節

 147編は、ハレルヤで始まり、ハレルヤで閉じられる、「ハレルヤ詩編」(146~150編)の2番目のものです。

 「主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」(2節)という言葉から、この詩は、バビロン捕囚後、帰国した詩人によって詠われたものであると考えられます。

 1節から、神をほめ歌う喜び、賛美の心地よさが語られます。それは、「打ち砕かれた心の人々を癒やし、その傷を包んでくださる」という、バビロンでの苦しく辛い捕囚の生活から解放された喜びであり、それはまた、神が自分たちに目を留めていてくださったということを再確認した喜びでもありましょう。

 イスラエルは神に背き続けて怒りを買い(列王記下24章18節以下)、バビロン軍にエルサレムの都を落とされ、神殿や王宮が焼き払われ、城壁も取り壊されました(同25章8~10節)、そしてイスラエルの民は、エデンから追放されたアダムとエバのごと、御前から突き放されたようにバビロンに捕囚として連行され(同11,21節)、過酷な苦しみを味わわなければならなくなりました。

 彼らは、金輪際故国の土を踏むことはあるまいと覚悟していたのに、その嘆きを聞かれた神が歴史の中に介入されて、国に帰り、神殿を再建することが許されたのです(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 彼らは捕囚の苦しみによって、神の選民としての誇りが打ち砕かれましたが、主なる神は彼らを包んで癒されました(3節)。これは、詩編でも度々記されてきた重要なテーマです(34編18,19節、51編19節など)。

 捕囚となったイスラエルの民にとって、自分たちが神の民であることを確認するのは、神の御言葉だけでした。バビロンに神殿はなく、契約のしるしである神の箱も失われていました。けれども、イザヤらによって語られた預言の言葉が、捕囚の民を励まし、力づけたのです(イザヤ書40章以下、43章5節、エレミヤ29章10節以下など)。そして、その預言の通りに帰国が許されたわけです。

 あらためて神は、神を礼拝する民をイスラエルの地に置かれました。彼らは、馬の勇ましさや人の足の速さに示される戦の強さなどではなく、主を畏れ、その慈しみに生きることにより(10,11節)、主の祝福を受けて、城門のかんぬきが堅固になり、国境に平和が置かれ、その内に住む子らが祝され、豊かな収穫に与ることが出来るのです(13,14節)。

 冒頭の言葉(15節)に、「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る」と言われています。神の言葉は、神の口から出ると、神の望まれることを成し遂げ、使命を必ず果たします(イザヤ書55章11節)。

 神が「光あれ」と言われると、光が出来ました(創世記1章3節)。「仰せを地に遣わされ」、「御言葉は速やかに走る」というのは、16,17節の「雪を降らせ」、「霜をまき散らし」、「氷塊をパン屑のように投げられる」との関連で、雷鳴が轟くということかと思われます。

 そして、15節以下の段落は、この地を裁く言葉ということです。19節に、「主はヤコブに御言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる」と言われているとおりです。

 17節後半に、「誰がその冷たさに耐ええよう」とあるように、神の裁きに耐えることが出来る者はいません。然るに、「御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、流れる水となる」(18節)というように、救いの道も備えておられるのです。

 神の口から出て、神の望まれることを成し遂げ、使命を必ず果たす神の言葉として、「地に遣わされた」仰せという言葉で思い出すのは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まるヨハネ福音書1章の記事です。

 同14節に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言われます。即ち、神が地に遣わした仰せ、私たちの間に宿った「言」とは、主イエスのことです。

 主イエスはご自身を十字架に贖いの供え物として、私たちのために救いの道を開いてくださいました(ローマ書3章24節、ガラテヤ書4章5節、コロサイ書1章14節など)。主イエスを信じ、その名を受け入れた者には、神の子となる資格さえお与えくださったのです(ヨハネ福音書1章12節)。

 今日も御言葉に耳を傾け、その導きに従って、豊かな恵みに与りましょう。

 主よ、キリストの贖いにより、救いの恵みに入れていただきました。それは、一方的な恵みであり、憐れみです。絶えず御前に謙り、主を畏れて御言葉に耳を傾け、その導きに喜んで従うことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン




12月25日(金) 詩編146編

「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。」 詩編146編5節

 146編は、詩編の最後を締めくくる「ハレルヤ詩編」(146~150編)の最初のものです。「ハレルヤ詩編」は、詩の初めと終わりで、「ハレルヤ」(1,10節)と主なる神をたたえています。

 主を賛美せよと記した後、「君侯に依り頼んではならない」と言います(3節)。人間が頼りにならないのは、「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」からです(4節)。彼らに信頼していた人々の希望も、彼らの死によって打ち砕かれてしまいます。

 そこで、5節以下において、真に頼るべきは主なる神であることを示します。主が「とこしえにまことを守られる」(6節)からです。「まこと」は「真理、真実、確かさ、安定、信頼性」(エメト)という言葉です。 

 それは、リーダーが不必要ということではないと思います。かつて、イスラエルの民がエジプトを脱出したとき、モーセは、民の上に千人隊長、百人隊長、十人隊長を立てるように導かれました(出エジプト記18章13節以下、21節)。

 また、主はサウルを選び(サムエル記上9章以下、10章1節)、次にダビデを選んで、イスラエルの王とされました(同16章1節以下、12節、サムエル記下5章1節以下、3節)。

 ただ、サウルやダビデ、その子孫がいかに優れた指導者であっても、真の信頼に足るものでないことを、イスラエルの民は歴史を通して学びました。彼らは、偶像礼拝の誘惑から、それに伴う神の裁きから、国民を守ることが出来なかったからです。指導者自身が神を畏れ、忠実に神の御旨に従うべき者であることが求められているのです。

 私たちは、政治や経済、教育その他あらゆる分野の指導者たちのために祈るべきです。わが日本バプテスト連盟の信仰宣言の中で、「国家も神の支配のもとにある。・・教会は国家に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神のみむねに反しないかぎりこれに従う」と述べているのは、そのことであるといってよいでしょう。

 冒頭の言葉(5節)で、主なる神を助けと頼み、待ち望む人がいかに幸いなことかと語った詩人は、「天地を造り」(6節)から、「主は寄留の民を守り」(9節)まで、神がどのようなお方であるかを、10の動詞(分詞)で表しています。つまり、主なる神は、神を助けと頼み、主を待ち望む者のために、具体的に行動されるお方であるということです。

 その箇所に3つ、受身の動詞(分詞)があります。「虐げられている(人)」、「捕らわれ(人)」(7節)、「うずくまっている(人)」(8節)です。その背後に、弱い者を虐げ、捕え、うずくまらせる、神に「逆らう者」の存在をうかがわせます。

 人の上に立つ者は、その権力、力で思うまま横暴にふるまってはなりません。権力者の暴力によって苦しめられ、弱くされている人々のために、神が彼らの傍らに立たれ、彼らのために働かれるのです(103編6節、145編14節)。

 9節で、「みなしごとやもめ」は寄る辺なき者の代表として、一方、「逆らう者」は彼らを苦しめる者として、対比されています。そして、「励ます」、「くつがえす」と訳されている言葉は、いずれも未完了形の動詞が用いられています。つまり、その状態が今もずっと続いていることを示しているのです。神は寄る辺なき者に絶えず寄り添い、彼らを苦しめる者を退けられるわけです。

 イスラエルの民は、バビロンから解放されたとき(エズラ記1章1節以下)、そして、神殿を再建したとき(同3章8節以下、6章13節以下)、それから、エルサレムの町の城壁修復でも(ネヘミヤ記3章1節以下、7章1節以下)、そのことを味わいました。

 「励ます」は、「戻る、繰り返す」(ウード)という言葉のポレル形で、「回復する(restore)、(苦しみを)軽くする、取り除く(relieve)」という意味で用いられます。イスラエルを苦しめていたバビロンは退けられ、バビロンによって捕らわれ、虐げられ、うずくまらせられていたイスラエルは、主を礼拝する民として回復されたのです。

 そこに、神の深い愛と慈しみが示されます。そして主なる神は、その深い愛と慈しみにより、自分の罪のゆえに死の渕に沈むほかなかった私たちをも救い、神の子となる道を開いてくださいました。

 「王」という漢字は、天と地の間に十字架を書きます。天と地を十字架の道で結んでくださったお方こそ、神の右に座しておられるとこしえの王なる主イエスです。主イエスとその御言葉に信頼し、幸いを得ましょう。

 主よ、あなたの御業のゆえに、感謝し、賛美をささげます。あなたは私たちに救いの道を開き、命の言葉を与えてくださいます。日々御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みます。その恵みに生きることの出来る幸いを心から感謝致します。主の恵みと慈しみが全地に満ち溢れますように。 アーメン




近況報告

今朝、病院を診察しました。
先日の血液検査でCRPの値は0.34。前回の値より悪くなってはいませんでした。
内視鏡検査で、直腸から下行結腸まで、潰瘍に炎症、出血が認められました。
現在のところ、感染症はないことが確認されたということで、これまでの薬に加え、ステロイド剤を服用することになりました。
一昨年の夏、初めての入院の折にステロイドを使用して以来、症状が悪化すると処方されましたが、こんなに早い段階で使用するのは初めてのことです。
若いころと違って体力も抵抗力も落ちてしまっているので、早めの対処が必要だということでしょう。
これから2週間、様子を見ることになりました。
 食事は、いつものように家内があれこれと気遣ってくれています。ありがたいことです。
 良い結果となることを期待しています。
 
 
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