風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年11月

11月20日(金) 詩編111編

「主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。」 詩編111編5,6節

 111編は、続く112編と対をなす詩です。111編は、主を畏れる者たちによってなされる主の御業を賛美する詩です。そして、112編は、主を畏れる者たちを賞賛するものです。

 冒頭の「ハレルヤ」を除くと、ヘブライ語のアルファベットの数と同じ22行です。各行の最初の文字がアルファベット順に並んでいるので、「アルファベットによる詩」と注記されています。これまでにも、いくつか出て来ました(9,25,34,37編など)。

 さらに、それぞれの行は三つの単語ないし、結合された語句で合成されています。これは、何より詩を記憶しやすくするための技巧ですが、しかし、作詩の際に、相当の制約となったことでしょう。

 それだけに、「わたしは心を尽くして主に感謝をささげる」(1節)という言葉のごとく、少ない言葉に思いを込めて感謝の意を表わすという作者の意図が、そこに示されます。

 まず1節で、主への感謝をささげるものであることを告げ、2節には、この詩のテーマが提示されます。それは、主の大いなる「御業」(マアセ)です。新改訳は、「主の御業は偉大で」と語っています。御業、主の業という言葉は、3,4,6,7節に繰り返し用いられています。

 そこに語られている偉大な御業、驚くべき御業、新改訳は4節を「奇しいわざ」と訳していますが、それは、出エジプトの出来事を指していると考えられます。「驚くべき御業を記念するよう定められた」と記されていますが、過越祭(出エジプト記12章1節以下、同43節以下)と、それに続いて守られる除酵祭、パン種を取り除く祭り(同12章15節以下、同13章3節以下)は、出エジプトの出来事を記念して行われる祭りだからです。

 列王記下23章22節に、「士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった」という記述があります。これは、ヨシヤ王が過越祭を行わせたことについての評価です。つまり、「記念せよ」という主の言葉が、ヨシヤ王の時代までは蔑ろにされていたということです。

 そして、ヨシヤ以後の王たちもそれを蔑ろにし続けたので、国が滅び、捕囚とされる憂き目を見ることになったのです。

 あらためて、「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」(4節)と語られているということは、エジプトにおいて奴隷生活をしていたのと同様、イスラエルの民がバビロンにおける捕囚の生活を送っており、もう一度出エジプトの出来事を思い起こそう、主の恵みと憐れみを思い出そうとしているということではないでしょうか。

 出エジプトの民は、荒れ野の旅路において何度も不平を言い、神に背きましたが、神は彼らを憐れみ、彼らの必要に応えられました。それが冒頭の、「主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる」(5,6節)という言葉に示されています。

 かつて、父祖たちがシナイの荒れ野を約束の地カナンに向けて旅していたとき、主なる神はイスラエルの民のために天から「マナ」というパンを降らせ、またウズラの肉を与えて、民を養われました(出エジプト記16章)。また、岩から水を出して飲ませられました(同17章1節以下)。そして、「嗣業の地」(ナハラー、新改訳は「ゆずりの地」)カナンを得ることが出来ました(ヨシュア記)。

 それは、主なる神がイスラエルの民との間に結ばれた契約を誠実に守られたからです。主なる神は、シナイにおいて出エジプトの民と契約を結び、彼らをご自分の宝の民とされました(出エジプト記19章3~6節、24章3~8節)。それは、イスラエルの民が優れた数の多い民であったからではなく、むしろ貧弱な民だったので神の憐れみを受けたのです(申命記7章6節)。

 同様に、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて帰郷が許され、エルサレムに第二の神殿を建て、都の城壁を築き直し、国を再建することが出来るのは、ひとえに神が父祖たちと結んだ契約を御心に留め、それを忠実に守られるからです。「御手の業はまことの裁き、主の命令はすべて真実、世々限りなく堅固に、まことをもって、まっすぐに行われる」と言われるとおりです(7,8節)。

 ここで「まこと」(エメト)とは、「忠実(faithful)、真実(truth)」、「裁き」(ミシュパート)は「公正(justice)」という意味です。新改訳は直訳的に、「御手の業は真実、公正」と訳しています。主は、契約を通してイスラエルの民のために、かつて父祖らが守ることの出来なかった真実と公正を創り出してお与えくださいます。

 10節は、「主の賛美は永遠に続く」(新改訳は「主の誉れは永遠に堅く立つ」)という結びの言葉の前に、「主を畏れることは知恵の初め」という教訓が語られています。知恵についてのこの命題は、箴言に2回、ヨブ記に1回登場します(箴言1章7節、9章10節、ヨブ記28章28節)。9節にも、「御名は畏れ敬うべき聖なる御名」(新改訳「主の御名は聖であり、おそれおおい」)と語られています。

 「これを行う人は」の「これ」は原文は複数形(それら)です。7節の、真実と公正を表す「主の命令」(新改訳「すべての戒め」)が複数形で、それを受けているわけです。つまり、私たちにとって、主を畏れることは神のご命令であり、それを通して神の真実と公正が実現するのです。

 詩人が「命令」(戒め)というのは、トーラー、神の教えのことでしょう。知恵とは、神の教えが記されている神の御言葉、聖書を学び、それに生きることによって初めて得られるものです。私たちは、聖書を通して、イスラエルになされた主なる神の大いなる御業を学ぶことが出来ます。

 主は恵み深く、憐れみに富み、契約を結んだ私たちを常に御心にとめてくださいます。今日も、十字架にかかられた主イエスの御口を通して語られる神の御言葉によって豊かに養われ、主への畏れをもって心から御名をほめたたえましょう。

 主よ、御子イエスの十字架の贖いによって私たちは神の子とされました。それほどの大きな恵みと憐れみの中に生かされていることを覚え、絶えず感謝と喜びをもって主に従い、御霊の力を受けて、日々の生活の中に「互いに愛し合いなさい」という主の御命令を実践することが出来ますように。 アーメン



11月19日(木) 詩編110編

「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」 詩編110編1節

 110編は、王の即位のときに朗読されたものです。

 冒頭の言葉(1節)で、「賜った主の御言葉」(ネウム・アドナイ〔YHWH〕)は、「主の託宣」(新改訳「主の御告げ」)という預言者の常套句で、詩人に扮した預言者が、「わが主」(アドニー)と呼ぶ王に対して、主(ヤーウェ)の言葉を告げるという形式になっています。

 主なる神が「わが主」なる王に、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」と告げます。この、主の右の座に着くというのが、王となるということでした。

 ここで、「右」というのは、たまたまそう言っただけで、隣であれば左でもよい、などということではありません。右は、左に対して、力や優位を示します。我が国の言葉でも、右腕といえば、その働きを代表する、代わりに務めを果たすことも出来るということを表しますし、「彼の右に出る者はいない」と言えば、それは、彼が最も優れた者であるという意味になります。

 16編8節に、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」という言葉がありましたが、それは、主なる神が詩人にとって、力強い守護者であるということを示しています。「右」は、そのような優れた力、技能の持ち主が立つところを表すわけです。

 ですから、「わたしの右の座に就くがよい」というのは、神が御自分の代務者、代理人として王を選び、その座に就けるということになります。それを預言者が、王として即位する者に向かって宣言、告知しているのです。

 「わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」とは、すべての敵を壊滅させるということです。そのことを、「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ」(2節)と説明します。

 「力ある杖」とは、王の持つ笏で、すべてのものを支配する王としての力を主が授けるということでしょう。主が王の腕を支える力であられるので、敵に囲まれている真中で自信をもって治めることが出来るというのです。

 3節は難解な箇所です。「輝きを帯びて」という言葉について、ヘブライ語原典脚注に「山々において」と、一文字変えて読む案が提案されています。口語訳は、RSV(改訂標準訳)にしたがって、「あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に」と訳しているのは、そのためです。

 「聖なる山々」とは、エルサレムを囲む周囲の山々のことで、そこに、王に従う者たちが集結して来るということを示しているのでしょう。主が王に力を与え、王に従う者たちがその周りを取り囲むとき、王に敵対していた者たちも進んで王に仕えるようになるという情景を思い浮かべます(2,3節)。

 イスラエルでは、王や祭司が即位するとき、その人の頭に油が注がれました。油は、神の霊を象徴しており、その儀式を通して、神の霊がその人に注がれた、知恵や力が神の霊を通してその人に与えられたということを示しているのです。

 イスラエルの人々が王に求めたのは、単なる政治手腕や戦闘能力の高さなどではないということです。それよりも、神からの知恵や力が与えられているかどうか、神がその人物を王として認め、用いられるかどうかが重要だと考えられたわけです。油が注がれた人のことを、ヘブライ語で「メシア」と言います。

 主イエスが1節の言葉を、御自分に適用して語られており(マルコ12章35~37節、14章62節など)、主イエスがメシアとして栄光を受けることを預言したものと、解釈されています。

 また4節の、「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」という言葉も、ヘブライ書5章6節、7章17,21節に引用されて、「メルキゼデクと同じような大祭司」とは、キリスト・イエスのことを預言したものであると明示しています(同5,7章)。

 祭司は、神と人との間で、人々のために執り成し祈り、人々に対して神の御言葉を語り、御心を教えるという務めを果たします。この言葉が、王に即位する者に対して語られているということは、イスラエルの王には、祭司としての働きが期待されているわけです。

 しかしながら、イスラエルの王たちは、神に喜ばれる王ではありませんでした。神に背いた結果、国が滅んでしまいました。そこで民は、神のお立てになる真の王、真のメシア、救い主を待望するようになりました。ダビデに勝る理想のメシア、救い主を待ち望んだのです。その願いに答えて神がお選びになったのが、ご自身の御子キリストを世に遣わすという手段でした。

 ご承知のように、「キリスト」は、「メシア」をギリシア語に翻訳した言葉です。「イエス・キリスト」とは、「イエスこそキリスト」、「救い主なるイエス」という表現です。そして、4節の「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」という言葉は、実に主イエスに語られたものであると、前述のヘブライ書5章5,6節、6章20節、7章1節以下などで教えているのです。

 主イエスは、とこしえの祭司として、私たちのために祈り、私たちを義とするためにご自身をいけにえとしてささげられました(ヘブライ書9章12節以下、同23節以下、同10章10,12節)。それが、十字架の死の意味です。

 祭司として私たちに神の御言葉を語り、執り成し祈り、ご自身を贖いの供え物とされた主イエスを、王として心の中心にお迎えし、絶えず主の御言葉に耳を傾け、その御心を行うことが出来るように、聖霊の導きと満たしを祈り求めて参りましょう。

 主よ、贖いの御業を感謝します。日々御言葉を示し、御心を行い、その使命を果たしていくために必要な知恵、力、御霊の賜物をお与えください。御心を行うことが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン



11月18日(水) 詩編109編

「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが、あなたの僕は喜び祝います。」 詩編109編28節

 109編は、善意に悪意で答える敵からの救いを求める「祈りの詩」です。

 その中で、8~20節は、詩人を苦しめる者に対する呪いの言葉になっています。注解者の中には、この部分は、詩人を苦しめる者の言葉であるという立場をとる人もいます。その通りなのかも知れません。

 しかしながら、前段(6,7節)には、敵対者の裁きを願う言葉がありますし、17節の、「彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼に返るように」という言葉が敵対者の言葉なら、詩人が呪いを好んでいる、先に呪いの言葉を口にした詩人に、それが返るように、と言っていることになります。

 詩人が先に敵を呪ったということになれば、4,5節の、敵は詩人の善意に悪意で答えるという表現と適合しません。喧嘩を売ったのは、むしろ詩人の方だということになってしまうからです。

 8~15節を相手の呪いの言葉、そして、16節以下は詩人が相手を呪う言葉としてとらえ、自分の善意に悪意で答えるような、善意の人を呪うことを好む輩の上に、その呪いが返るように願う言葉と考えるべきだろうと思います。

 詩人は、神に逆らう輩が自分を欺き、偽りの言葉をもって語りかけ(2節)、それによって自分を苦しめるのは、理由のないことだと言い(3節)、詩人は相手に愛を示したのに、相手は敵意を示し、善意に対して悪意を返すのだと訴えます(4,5節)。ということは、自分が相手を呪うのは、理由のないことではない、彼らの自分に対する悪意に対抗するのだと言っていることになります。

 ただし、いったい誰が、自分は相手を苦しめる正当な理由もないのだけれども、とにかく呪ってやろうと考えるでしょうか。誰もが、自分には正当な理由がある、悪いのは相手だと考えていることでしょう。しかし、自分にとって正当だという理由が、相手にしてみれば不当であるということも、往々にしてあることです。

 詩人は、主の慈しみによってこの苦しみから救われることを願い(26節)、冒頭の言葉(28節)のとおり、「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます」と語り(28節)、祝福を求めました。神は呪いを祝福に変えることが出来ると詩人は信じているわけです。ゆえに、敵は恥に落とされ、自分は喜び祝うことが出来るというのです。

 かつて、モアブ王バラクが呪い師バラムを招き、イスラエルを呪おうとしたことがあります(民数記22章以下)。ところが、神は呪い師バラムに、イスラエルを祝福するよう命じました(同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)。

 三度語られた祝福の言葉の最後は、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる」という言葉でした(同24章9節)。それは、神がアブラハムに対して与えた、イスラエルを祝福の源として、地上のすべての氏族に祝福を約束する言葉でもあります(創世記12章3節)。

 であれば、詩人も考えなければなりません。自分を苦しめる相手には呪い、苦しめられている自分には祝福をと願い求める気持ちは大変よく分かります。誰もがそう願うことでしょう。しかし、相手を呪うことは、神が良しとされることでしょうか。

 神は、敵が自分を呪う言葉を祝福に変えることがお出来になるように、自分が敵を呪う言葉をも、祝福に変えることがお出来になるのです。そして、神は祝福する者を祝福し、呪う者を呪うと言われているので、敵に対しては、自分の呪いの言葉を祝福に変えて与え、敵を呪った自分には、その呪いが返ってくるということにもなるのです。

 神は私たちに、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と命じておられます(第一ペトロ書3章9節)。

 誰がその命令に従えますか。誰にも出来ることではないかも知れません。そういう私たちのために、キリストが犠牲となられました。殺す者を赦し、祝福を願われたのです(同3章18節以下)。その主イエスの執り成しにより、私たちは恵みに与りました。

 主イエスを心の王座に迎え、アブラハムの子として、祝福の源とならせて頂きましょう(創世記12章2節)。

 主よ、弱く乏しい私たちの右に立って、私たちを守り支えてください。私たちの心の王座に着き、すべての人々の祝福を祈る者とならせてください。世界に広がるテロへの不安と、テロとの戦いと称して続けられる報復の戦闘という負の連鎖を断ち切り、国際平和のために同じテーブルに着いて話し合うときが一刻も早く到来しますように。 アーメン

 



11月17日(火) 詩編108編

「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。」 詩編108編13節

 108編は、6節までと7節以下の二つの部分に分かれ、前半が神への賛美、後半が神の救いを求める祈りとなっています。そして、2~6節は57編8~12節から、7~14節は60編7~14節から、ごく一部の違いを除き、ほぼ字句通りコピーされたものです。

 違う詩の一部分を切り取って来て、それを貼り合わせたような詩が作られたのは、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(第二テモテ書3章16節、第二ペトロ書1章20,21節も参照)と言われるように、詩人が直面している課題に対する答えが、これらの詩の言葉を通して与えられたということでしょう。

 57編は、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」という表題に示されるような、自分が仕える主君から命を狙われたダビデの苦しみを彷彿とさせる詩でした。そうした苦しみの中から、「わたしは曙を呼び覚まそう」(3節)という言葉で、賛美を歌って夜明けを呼び覚まそう、賛美を通して、自分を取り巻いている深い闇を神の光で追い払ってもらおうという信仰を言い表しているわけです。

 また、60編の表題には、「ダビデがアラム・ナハライム及びツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」とあり、これは、サムエル記下8章に記された、華々しい戦果を上げていたときのことと考えられます。

 ところが、この詩は、まるで連戦連敗とでも言わんばかりに、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか」(12節)と詠います。見えるところは華々しくあっても、その内側には平安も喜びもない、まるで神から突き放されたように思われる。調子良くことが進む中で、いつしか奢り高ぶり、神から離れてしまったということでしょうか。

 このような二つの詩を一つに組み合わせることによって、前半で、自分が暗闇の中にいたときには、むしろ神への信仰で心には平安があり、喜びがあって、賛美で朝の光を呼び覚まそうということが出来た。ところが後半では、栄光の中にいるはずの自分の心には、平安も喜びもなく、神の助けを必要としているといいます。

 ダビデは、羊を飼って荒れ野でクマや獅子と戦った時、あるいは、ペリシテの勇士ゴリアトと戦った時、少年でありながら、怖じることなく主に信頼して、勝利を手にしました(サムエル記上17章35節以下、41節以下)。しかし、王となったダビデは、姦淫と殺人の罪を犯し(サムエル記下11章)、その後、息子たちに翻弄されることになります(同13章以下)。

 この詩人は、バビロン捕囚という苦しみの中にいたときには、もっとはっきり神を感じていたのでしょう。ところが、捕囚から解放されて、神殿を再建し、エルサレムの城壁も完成して、そのように外側は整っていくのだけれども、内には空しさがあり、神を遠くに感じるようになったと悩んでいるのかも知れません。

 だから、もう一度、かつての信仰を呼び覚まそう、わたしの誉れよ、目覚めよと歌うのです(3節)。そして、自分たちが拠って立つのは、自分たちの知恵や力、業績などではなく、神の御言葉のみだということを、8節以下に神の宣言を記すことで示しています。

 そして、冒頭の言葉(13節)で、神からの救いを求める祈りをささげます。詩人の告げるとおり、人間の与える救いは役に立たず、神だけが、ご自身の宣言を実現することがおできになるのです。

 賛美と祈りを通して、神の御心、すなわち天に満ちる慈しみ、雲を覆う神のまことに触れたい、それによって、神に背く思い、神を見えなくするあらゆる力を追い払い、打ち滅ぼして欲しいと願っているわけです。

 そして、ダビデの詩を引用することで、ダビデの信仰に倣い、ダビデの時代に与えられていた神の恵み、その時代に見ることの出来た神の栄光に、もう一度与りたいと考えているのでしょう。私たちもこの信仰に倣い、困難に直面するときに御霊の導きを願い、御言葉にその御心を求めて、祈りと賛美をささげましょう。

 主イエスが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われています(ヨハネ福音書16章33節)。共にいて下さる勝利の主を信じ、その導きに与って、その困難に打ち勝たせて頂きましょう。

 主よ、どうか私たちの心を御言葉の光で照らしてください。神に背く闇の力を追い出してください。神の栄光を盗む高ぶりや傲慢から守ってください。どんなことにも、主を賛美し、御言葉に聴き従って勝利することが出来ますように。 アーメン



11月16日(月) 詩編107編

「『恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに』と、主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い、国々の中から集めてくださった、東から西から、北から南から。」 詩編107編1~3節

 107編は、第五巻(107~150編)の巻頭にふさわしく、第二の出エジプトともいうべき、バビロン捕囚からの解放を経験した詩人の、主の慈しみに感謝する「賛美の歌」です。

 1~3節はこの詩の序文で、「国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」(3節)といいます。これはバビロン捕囚ではなく、ギリシア時代(紀元前300年)以後の、イスラエルの民が各地に出て行ったディアスポラ(離散の民)の時代のことであろうと思われます。

 4~32節に、神のなさった4つの「贖い」(2節)の業が記されています。各組には、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」(6,13,19,28節)、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」(8,15,21,31節)という句が、リフレインとして詠われます。

 第一組(4~9節)は、荒れ野で迷い、砂漠で道を見失って、飢え渇いた人々のため、主が良いもので満たしてくださったという恵みが記されます。

 第二組(10~16節)は、神に対する背きの罪のゆえに牢獄に捕らわれ、闇と死の陰に脅かされていた人々のため、牢の戸を破り、解放されるという恵みが記されています。

 第三組(17~22節)は、神に対する無知と背きと罪の結果、病いによって死の床にいた人々のため、癒しをなし、立ち上がらせてくださるという恵みが告げられます。

 第四組(23~32節)は、海で嵐に遭って死に飲み込まれそうになっていた人々のため、嵐を静め、港に導かれるという恵みが語られています。

 それぞれの組の人々が恵みを味わうことが出来たのは、彼らが苦難の中から助けを求めて叫んだからでした。それは、苦しいときの神頼みであり、また、主に願う以外に、その苦しみから逃れる術がなかったからです。

 そして、その声を主が聞き入れられたのは、ただ、主が彼らを憐れまれたからです。詩人が繰り返し、「主に感謝せよ、主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と詠っているとおり、彼らが救われたのは、実に驚くべき恵み(Amazing Grace)だったのです。

 「贖う」(2節)とは「買い戻す」(ガーアル)という言葉で、奴隷とされた者や売られた畑地を買い戻すのは、近親者(ゴーエール)の務めです(レビ記25章25、47節以下)。

 家族が殺された時には、近親者が血の復讐をし(民数記35章19節)、長男が子をもうけないまま死ねば、弟がゴーエールとして兄の妻に子を産ませなければなりません(申命記25章5節以下)。ル月に記されている、ナオミの畑地や嫁ルツに対するボアズの振る舞いは、「贖い」の良い例です(ルツ記4章9節以下)。

 そして、新約聖書の信仰に生きる私たちも、主イエスを通して、信仰によって,贖いの恵みに与ることが出来ます(ローマ書3章24節、第一コリント書1章30節など)。それは、この「贖い」の意味から言えば、主なる神が私たちの近親者として行動してくださったということです。

 私たちがそのような恵みに与ることが出来るのは、私たちにその資格や権利があるからではありません。言うまでもなく、私たちは主なる神の近親者ではありません。神が自ら贖い主(ゴーエール)となってくださったという、まさに恵みです(エフェソ書2章8,9節)。

 主が私たちをあらゆる苦しみ、煩いから贖い、救い出してくださったのは、その恵みに感謝し、御名を賛美する民、すなわち、その魂が主の恵みに対する感謝と喜びで満ち溢れ、霊とまことをもって主を礼拝する神の民を集めるためです。

 40~42節に、「主は貴族らの上に辱めを浴びせ、道もない混沌に迷い込ませたが、乏しい人はその貧苦から高く上げ、羊の群れのような大家族とされた。正しい人はこれを見て喜び祝い、不正を行う人は口を閉ざす」と記されていますが、富と力を持ち、あるいは悪をなす者は、神を呼び求めないので、その慈しみに与ることが出来ません。

 しかしながら、彼らも、道に迷い、貧苦に悩むとき、神に助けを祈り求める者となるでしょう。神は、この打ち砕かれ、悔いた心を軽しめられず(詩編51編19節)、彼らを高く上げ、繁栄を回復されるのです(サムエル記上2章7,8節)。

 「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と唱えつつ、今も私たちのために働いておられる主の慈しみに目を注ぎましょう。

 主よ、あなたは渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださいます。私たちを閉じ込めようとする獄屋の青銅の扉を破り、鉄の閂を砕いてくださいます。御言葉を遣わして私たちを癒し、滅びから救い出してくださいます。嵐を静め、望みの港に導かれます。心から感謝のいけにえを献げ、その御業を語り伝え、喜び歌わせてください。御名が崇められますように。 アーメン



11月15日(日) 詩編106編

「わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。」 詩編106編47節

 106編は、先祖たちが犯した罪を離れることが出来ず、約束の地を失うことになったイスラエルの民の、「悔い改めの詩」です(6節)。この詩は、直前の105編と対をなすものです。105編が主の驚くべき御業に信頼し、主を賛美しているのに対して、ここでは、主の恵みに与ったにも拘わらず、主を信頼できず、背きの道を歩いたことを告白しています。

 彼らは、かつてエジプトを脱出するとき、モーセの手を通して数々の災いがエジプトにもたらされたのを見(7節、出エジプト記7章以下参照)、エジプトを出るにあたり、追いかけて来たエジプト軍から、葦の海の奇跡によって救われるという経験をしました(8節以下、出エジプト記14章)。荒れ野を旅する間、天からマナが降り、ウズラの肉を食べることもありました(出エジプト記16章)。

 そのように様々な恵みを経験していながら、恩を忘れ、不平を言います(13節)。水がなくなれば、「水を与えよ。渇きで殺すために荒れ野に連れて来たのか」と騒ぎ(14節、出エジプト記17章1節以下)、十戒を授かるためにシナイ山に登ったモーセの帰りが遅いと、「我々に先立って進む神々を造れ」といってアロンに牛の像を造らせます(19節以下、出エジプト記32章)。

 そして、各部族の代表を斥候として約束の地を探りに行かせると、強大な先住民がいてその地に上って行くのは不可能だという報告で、それを聞いた民は、約束の地に行って殺されるくらいなら、エジプトに引き返したほうがよいと言い出す始末です(24節、民数記13,14章)。

 モーセらの執り成しがなければ、イスラエルの民は神の憤りによって、シナイの荒れ野で滅ぼされていたかもしれません(23,30節、出エジプト記32章11節、民数記14章13節以下、25章など)。

 こうして、神の憐れみによって約束の地に入ることは出来ましたが、そこでも、神に背いて自分勝手にカナンの民と混血し、異教の偶像を拝みました(34節以下、士師記2章10節以下、3章7節以下12節以下、4章1節以下など)。エジプトを出て以来、神に背いていない時は殆どなかったというような有様です。

 そして、これらのことが決して過去のことではなかったのです。詩人は、「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」(6節)と告白しています。彼らも、同じ罪に手を染めているということです。ここで「先祖と同じく」は、「先祖と一緒に」(イム・アボーテーヌー with our fathers)という言葉です。詩人は、罪の力は世代を超え、広く民全体に影響を及ぼすものであることを悟ったのです。

 また、「罪を犯し」(ハーターヌー we have sinned)、「不正を行い」(ヘエヴィーヌー we have committed iniquity)、「主に逆らった」(ヒルシャーヌー we have done wickedly:「悪をなした」の意)と、三つの1人称単数の動詞で、先祖と共に罪を告白し、悔い改めの意を示します。

 自分たちの度重なる罪で神の怒りを買い、神はイスラエルの民を諸国の手に渡されました(39節以下)。神は何度も助け出そうとされたのですが、民自らそれを拒み、ついに国を滅ぼしてしまったのです(43節、列王記下24章20節)。

 このような中で詩人は、この詩を「ハレルヤ」で始め(1節)、「主に感謝せよ」(ホードゥー・ラ・アドナイ)と、感謝を勧めます。それは、主が「恵み深い」(トーブ:「善い」の意)お方であり、その「慈しみ」(ヘセド)は「とこしえ」(オーラーム)だからです。

 主を「善い方」というのは、25編8節、34編9節、52編11節、73編1節、86編5節、100編5節、107編1節、118編1,29節、119編68節、135編3節、136編1節、145編9節、エレミヤ書33章11節などにもあります。それは、イスラエルの救いに示された永遠の慈しみ.不変の愛を、「善い」(トーブ)と言い表しているわけです。

 2節では、「主の力強い御業を言葉に表し、主への賛美をことごとく告げうる者があろうか」と、1節で求められた賛美を誰がささげうるのかと問います。続く3節で、「いかに幸いなことか」(アシュレー)と祝福されるのは、「裁き(ミシュパート「公正」)を守り、どのような時にも恵みの業(ツェダカー「義」)を果たす人」であり、その人こそ、その資格がある人だというのです。

 そうして、「主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき、わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。あなたの選ばれた民に対する恵みを見、あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い、あなたの嗣業の民と共に誇ることができるようにしてください」と求めています(4,5節)。

 これらの言葉によって、自分たちも父祖たちも、神との契約を蔑ろにし、慈しみ深き神の御業に感謝せず、神に背いて罪を犯したことを、悔い改めているのです。

 だから、冒頭の言葉(47節)で、「わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください」といって、捕囚の地からエルサレムに戻れるように願い、「聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください」といって、もう一度神を礼拝することが出来るよう、祈り求めているのです。

 主なる神はこの祈りに答え、まことの神を礼拝する新しいイスラエルを再創造されました。48節は、第4巻(90~106編)の巻末であることを示すために、後から付加された言葉ですが、主は確かに、詩人の願いを聞き、イスラエルの国を再興させ、彼らに「ハレルヤ」と歌わせてくださったのです(エズラ記6章19節以下、ネヘミヤ記8章9節以下、12節)。

 私たちも、御子イエスに贖われ、その救いに与った者として、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず主にささげましょう。

 主よ、あなたの驚くべき御業に目が開かれ、御言葉を信じて聖なる御名に感謝し、常に賛美をささげることが出来ますように。バビロンの捕囚の縄目から解放して、主を礼拝する民を創造されたように、困難な生活を余儀なくされている人々に、新しい恵みの世界が創造されますように。 アーメン




11月14日(土) 詩編105編

「主はとこしえに契約を御心に留められる、千代に及ぼすように命じられた御言葉を。」 詩編105編8節

 105編は、神の深いご経綸とアブラハムに対する契約のゆえに、驚くべき御業と奇跡によって歴史の中に力強く働かれる主をたたえる「賛美の詩」です。

 1~15節は、ダビデがアサフに命じて作らせた賛歌の一部です(歴代誌上16章8~22節)。1~6節は賛美への招きで、7~45節は賛美の言葉 となっています。賛美の言葉のはじめ(7~11節)に、賛美の主題が提示されます。それは、主なる神がアブラハムと結ばれた契約です。

 「アブラハムと結ばれた契約」(9節)とは、「わたしはあなたにカナンの地を嗣業として継がせよう」(11節)とイスラエルの父祖らに約束されたもので、創世記15章18節で、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われていました。

 与えると約束されたのは、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地」(同18~21節)です。

 この契約締結から、イスラエルの民がカナンの地を手に入れるまでには、少なくとも数百年という時間を必要としました。その間、アブラハムの孫ヤコブの代に大飢饉が起こり、一族はエジプトに移り住みます(13節以下、16節)。

 先ずヤコブの息子ヨセフが、兄弟たちからエジプトの奴隷として売られました(17節)。ヨセフは数々の苦難を味わいましたが(18,19節)、やがて宰相に取り立てられます(20節)。そのヨセフの許に身を寄せるかたちで、ヤコブたちはエジプトに移住したのです(23節)。イスラエルを苦難から守るため、エジプトの国力を用いられたわけです。

 イスラエルはエジプトで数を増し、エジプトを脅かすほど強くなりました(24節、出エジプト記1章7節)。そこでエジプトは、イスラエルの民を奴隷とします(25節)。その苦しみ呻く声を神が聞かれ、モーセとアロンを遣わして救い出されます(26節以下、出エジプト記3章1節以下)。28~36節は、そのときエジプトに起こった災いのリストです(出エジプト記7~12章)。

 イスラエルの民は、430年のエジプトでの生活に終止符を打ち(出エジプト記12章40節)、意気揚々エジプトを出立してシナイの荒れ野へと道を進みます(出エジプト記14章8節、民数記33章3節)。

 主なる神は、昼は雲の柱、夜は火の柱で民を導かれました(39節、出エジプト記13章21節)。また、天から「マナ」という不思議なパンを降らせ、また、鶉の肉をもたらされました(40節、出エジプト記16章)。民が水を求めると、岩から水を出されました(41節、出エジプト記17章)。

 40年の荒れ野の生活を経て、民は約束の地に入り、やがて、ダビデ、ソロモンの時代にそれを手に入れることが出来ました(44節、ヨシュア記1章4節、列王記上5章1節)。アブラハムとの契約から約一千年のときが流れたことになります。

 イスラエルが嗣業の地を得ることが出来たのは、冒頭の言葉(8節)のとおり、父祖アブラハムに対する契約の故に、民を恵みをもって導かれたからです。神の助けなしにエジプトを出ることは出来なかったし、荒れ野で食料や水を確保することも出来なかったでしょう。

 そして何より、カナンの諸民族が住む中に自分たちの土地を獲得することは出来なかったでしょう。かつて、カナンの地を偵察した斥候たちが、「その土地の住民は強く、町という町は城壁で囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました」(民数記13章28節)、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々より強い」(同31節)と報告していました。

 その地を獲得するためには、自分たちの知恵や力ではなく、主との契約により、御言葉に聴き従うほかはありません。彼らが主を畏れることを学び、主の掟を守り、その教えに聴き従ったとき、主が働かれ、彼らに約束の地が授けられたのです(45節)。

 詩人が、こうしてイスラエルの歴史を振り返り、「主の掟を守り、主の教えに従わなければならない」(45節)と結んでいるのは、バビロン捕囚後のイスラエル再建のためには、イスラエルの民が主を畏れて御力を尋ね求め、その御顔を慕い求めること(4節)、主の御言葉を心に留めること(5節)が不可欠だと示されているからでしょう。

 使徒パウロは、私たちは主イエスを通してアブラハムの子孫であり、約束による相続人であるといいました(ガラテヤ書3章29節)。私たちの受け継ぐ嗣業の地は、天の御国にあります(フィリピ書3章20節)。

 信仰によってキリストに結ばれた者として、絶えず主に信頼し、その御言葉に耳を傾け、 御霊の導きに従って歩みましょう。御霊に満たされ、力を受けて、恵みの主の証人とならせていただきましょう。

 主よ、私たちは異邦人ながら、憐れみにより、信仰によって主イエスに結ばれて、アブラハムの子孫とされました。私たちは、輝かしい嗣業の地を受け継ぐべく、主と共に歩ませていただいています。絶えず主を畏れ、その御言葉に聴き従うことを通して、この町に主の恵みと慈しみを証しすることが出来ますように。 アーメン



11月13日(金) 詩編104編

「あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる」 詩編104編30節

 104編は、天地万物を創造された主をたたえる「賛美の詩」です。103編同様、「わたしの魂よ、主をたたえよ」という言葉で囲まれています(1,35節)。

 この詩は、18節と19節の間を対称軸として、左右対称の構造になっています。すなわち、第一群は、第一連(1~4節)と第八連(31~35節)が対称で、第一連には天の栄光、第八連には地の栄光が記されます。

 第二群は、第二、第三連(5~12節)と第七連(25~30節)が対称で、第二、第三連には天の雨と地の泉や川、そして、第七連には海とそこにすむ生物が記されています。

 そして第三群は、第四連(13~18節)と第五、第六連(19~24節)が対称で、第四連には自然の実りが人の生活の備えであること、第五連には季節や時という生活環境を備えられたことが記されています。

 このような構造から、第6連(24節)も、「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」と記しているとおり、神の卓越した知恵によって、天地万物は秩序正しく創られているということを、この詩の構造によっても賛美しているということが出来ます。

 特に、「地から糧を引き出そうと働く人間のために、さまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(14,15節)という言葉は、人間は神の被造物の一つですが、神がお与えくださる良い物によって生かされていること、言い換えれば、神は人間のために地の良いものを創造され、お与えくださったことを感謝しているのです。

 「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(15節)で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と語られた主イエスの言葉を思い出します。

 これは、ぶどう酒やパン以外にも必要なものがある、飲み物もいるし、油=脂肪の乗った美味しい肉も必要などということではありません。パンを含めて、私たちが生きていく上で必要なすべてのものが、神の御言葉によって創造され、それによって生かされているのです。

 神の創造された世界の中で、秩序を乱すものがあります。それは、「罪ある者」、「主に逆らう者」たちの存在です(35節)。それゆえ、詩人は彼らが「この地からすべてうせ」、「もはや跡を絶つように」と語ります。それによって、神の創造の秩序が回復され、永遠に保たれることを願うのです。

 6,7節で、「深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った」というのは、ノアの箱舟の出来事を暗示しているような表現ですが、かつて人が乱した世界を洪水で破壊し、そこから再び秩序を創り出されたような出来事を、ここに再現して欲しいと願っているのかも知れません。

 ただ、そうだとすると、詩人は、神の裁きの前に誰が生き残れると考えているのでしょうか。自分は大丈夫、と胸を張っているのでしょうか。そうではないでしょう。103編の次にこの詩が配置されているところに、その意味が示されていると思います。

 つまり、キリスト・イエスの贖いにより、すべての人の罪が赦され、汚れなき神の子として御前に立つことが許されたわけです(103編3,10,12節)。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです(ローマ書3章23,24節)。

 そして、私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちにお与えくださいます(同8章32節)。このキリストの愛から引き離すことが出来るものはいません。

 だから、「命ある限り、わたしは主に向かって歌い、長らえる限り、わたしの神のほめ歌を歌おう」(32節)と、詩人は全身全霊をもって主を賛美するのです。私たちが賛美するとき、主がそこにいてくださいます。絶えず賛美をささげれば、主がいつも共にいてくださり、その恵みと平安を知り、味わうことが出来ます(16編7,8節)。

 この詩は、キリスト教の歴史が始まってから、ペンテコステにおいて用いられてきました。それは、冒頭の言葉(30節)で、神の「息」(ルーアッハ)が送られたと語られているところ、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で神の「霊」(プネウマ)と訳されたからです。

 神がその息を取り上げられれば、被造物は息絶え、塵に帰るのです(29節)。被造物は、神の息によって創造され、生きたものとなるのです。命の創造のために、神の「息」(ルーアッハ)は働くのです。

 パウロが、「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのである」(第一コリント書15章45節、創世記2章7節参照)と記しています。

 ここで「最後のアダム」というのは、私たちの罪のために死なれ、三日目に甦られた主イエスのことです。主イエスはご自分の命をもって私たちを贖い、永遠の命に与らせてくださったことを、最初の人アダムを生きる者とした神の「息」とかけて、「命を与える霊(プネウマ)となった」というのです。

 エゼキエル37章には、枯れた骨を人として生き返らせる神の霊の働きが記されています。それは、神の民イスラエルの再生、再創造を意味する預言です。上述の通り、私たちは信仰により、キリストの贖いによって罪赦され、神の民に加えられました。確かにキリストが私たちに命を与える霊となってくださったのです。

 「わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ!」。

 主よ、御名を賛美します。贖いを感謝します。その深い愛と憐れみのゆえに感謝します。主にあって、すべての必要が満たされます。今苦しみの中に、困難の中におられる方々に平安と慰め、癒やしをお与えください。その必要が満たされ、呻きが祈りに、嘆きが賛美となりますように。豊かな命の恵みに与らせてください。 アーメン




11月12日(木) 詩編103編

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」 詩編103編2節

 103編は、「憐れみ深く、恵みにとみ、忍耐強く、慈しみは大きい」主を讃える賛歌です。「わたしの魂よ、主をたたえよ」という言葉が1,2節の初行と22節の最後にあり、この言葉で、詩を囲んでいます。これは、詩人のすべての思いを主への賛美としてささげようとしていることを示しているようです。

 それはまた、22節(ヘブライ語原典は表題を除いて22行詩)というヘブライ語のアルファベットと同じ数になっているということで、これも詩人があらゆる言葉を尽くして主を賛美しようとしていることを表しているようです。

 聖書の言葉で、「魂」(ネフェシュ)というのは、ギリシア哲学のように、霊魂と肉体を区別するような用語ではありません。これは、「命、人間、生きている存在」という意味であり、そこから「息、血」、また「感情、欲求、情熱」と訳されたりもします。

 「わたしの内にあるものはこぞって」(1節)とあるように、ただ口だけでなく、目も耳も、また心臓や肝臓、腎臓なども総動員で、それらの内臓諸器官は感情を宿す心の在り処と考えられていたので、実に全身全霊をもって主を賛美しようと言っているわけです。

 「すべて」(コール)という言葉が、詩の最初の連1~6節に5回(1節「こぞって」、2節「何一つ」、3節「ことごとく」と訳されているものも含め)、最後の連19~22節に4回(21節「万軍(すべての軍勢)」、22節「どこにあっても(すべてのところで)」も含め)と、用いられて、文字通りすべてのものをもれなく包んでいるという印象を強めています。

 この詩が作られた理由が、冒頭の言葉(2節)で、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と記されています。神がイスラエルの民になさった「御計らい」(ゲムール:「取り扱い、報酬、利益」の意)を忘れないための記録として、この詩を朗読するたびに、それを繰り返し思い起こそうというわけです。

 特に、この詩の中に「慈しみ」(ヘセド)という言葉が、何度も登場して来ます(4,8,11,17節)。詩人は、イスラエルの民への「主の御計らい」を、神の「慈しみ」と受け止めているわけです。

 また、「憐れみ」(ラハミーム)、「憐れむ」(ラーハム)という言葉も、繰り返し出て来ます(4,8,13②節)。この言葉は、子を宿す「胎」という言葉から派生したものと考えられており、同じ母の胎から生れ出た兄弟間における切なる情や、我が子への母の切なる情を表現するものと言われています。

 この「慈しみ」と「憐れみ」は、神の本質を示すものとして、聖書中に繰り返し登場してきます。その原点は、出エジプト記34章6,7節で、主が御自分の御名を宣言して、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と言われています。それは、戒めの刻まれた石の板を再授与するというところで語られたものです。

 この詩においても、主なる神の慈しみと憐れみは、「罪をことごとく赦し」(3節)、「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」(10節)、「東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(12節)と、罪や背き、過ちを赦すところに表されています。因みに、10節の「罪」(ヘート)は、出エジプト記34章7節では「過ち」、同様に「悪」(アーヴォン)は「罪」と訳されています。

 103編が102編に続けておかれているのは、これが、102編の祈りに対する答えをいただいたイスラエルの民の賛美と解釈されているからでしょう。神はイスラエルを怒りによって滅ぼし尽くすことを良しとされず、却ってその罪を赦し、捕囚という苦しみの縄目から解放してくださったのです。

 罪が赦され、解放の恵みに与った詩人たちの心を支配したのは、喜びと感謝であったことは言うまでもないことですが、そしてそれゆえに、主をほめたたえよと繰り返し語っているわけですが、もう一つの思いがありました。それは、「主を畏れる」ということです(11,13,17節)。

 「主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(13節)とありますが、しかし、イスラエルの民が主を畏れる心を持っていたので、罪が赦されたのではありません。むしろ、罪の赦しを経験したとき、民に主を畏れる心が芽生えたのです。

 明示されてはいませんが、それは、罪の赦しには贖いの供え物が必要であることを知っているからでしょう(レビ記4,5章参照)。そして、贖いの供え物を用意したのは、捕囚の民ではなく、神ご自身でした。神の御子キリストが贖いの供え物として血を流されたことにより、神と民との間に新しい契約が結ばれたのです(エレミヤ書31章31~34節、ルカ福音書22章20節、ヘブライ書8,9章参照)。

 主の恵みに感謝し、真に主を畏れる者として御前に謙り、その御言葉に聴き従いたいと思います。

 主よ、あなたのは慈しみ深く、その憐れみはとこしえに尽きることがありません。私たちを極みまで愛してくださり、そのために御子をさえ惜しまず、与えてくださいました。あなたのなさった御計らいを、一時でも忘れることがありませんように、絶えず唇の実を御前にささげさせてください。御霊の満たしと導きに与り、主の恵みの証し人とならせてください。 アーメン



 

11月11日(水) 詩編102編

「主よ、あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。」 詩編102編13節

 102編は、その内容から、バビロンで強制労働に従事させられているイスラエルの民が、神に救いを求める「祈りの詩」と考えられますが、レントに朗読される七つの悔い改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143編)の一つに数えられています。

 詩の中に、具体的な罪に対する言及はありません。また、罪を悔いる言葉も、罪の赦しを乞う祈りの言葉もありません。どうしてこれが、悔い改めの詩と言われるのでしょうか。

 「悔改める」(ナーハム:メタノエオウ)とは、「向きを変える、ターンする」という言葉です。つまり、ごめんなさいと言うか言わないかというようなことではなく、今までの生き方を変えるということです。

 詩人をはじめイスラエルの民は、神に背き、御言葉に従わない生活をしていました。真の神を求めて祈ることもなかったのではないでしょうか。その結果、「あなたは怒り、憤り、わたしを持ち上げて投げ出された」(11節)と言われるように、神の怒りを買い、投げ捨てられたようになったわけです。具体的には、イスラエルがバビロニア帝国に滅ぼされ、民はその奴隷となったということです。

 詩人は今、主の御名を呼び、「主よ、わたしの祈りを聞いて下さい」(2節)と神の御前に祈り求めるようになりました。確かに、神に対する態度が変わったのです。

 表題に、「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」(1節)とあるように、詩人は、捕囚の苦しみの中、頼りとする一切のものを失って心挫けてしまったのです。しかし、そのとき、もう一度まことの神、主を思い出して、祈りをささげているのです。

 それは、「苦しいときの神頼み」と揶揄されそうな事態です。しかしながら、苦しいときに依り頼むことの出来る神がおられることが、詩人の救いです。まさに、表題に言う「貧しい人」とは、神のほか、頼りとなるものを何も持たない人のことだからです。

 詩人が思い出した主なる神は、冒頭の言葉(13節)のとおり、「とこしえの王座についておられる」お方です。そのことについて、「わたしの神よ、生涯の半ばでわたしを取り去らないでください.あなたの歳月は代々に続くのです」(25節)と願い、神には終りの時がないけれども、人は取り去られるときが来る。そのときを早めないで欲しいと言います。

 また、「あなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは長らえられます」(26,27節)。「すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては変えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません」(27,28節)と言い、最後にもう一度、「あなたの歳月は終わることがありません」(28節)と語ります。

 詩人は、主なる神が永遠に変わらない、とこしえの王座に着いておられることに希望を置いて、「どうか、立ち上がって、シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました」(14節)と言っています。

 主が心引かれてイスラエルの人々を御自分の宝の民とされたのは、彼らが強く優秀な民だったからではなく、むしろ他のどの民よりも貧弱だったからです(申命記7章6,7節)。ですから、神がシオン=エルサレムを神の都として選ばれ、そこに神殿が建てられたのは、シオン山がどの山よりも高くそびえ、美しかったからではなく、神がイスラエルを恵みと憐れみによって選ばれたしるしだったのです。

 であれば、永遠に変ることのない神は、今、神の憐れみを求めて祈る詩人たちのために、その怒りによってシオンを永遠に滅ぼしてしまわれることはないだろう。かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民の呻きに耳を傾け、憐れみをもってその苦しみから救いだしてくださったように、ご自身の御名のゆえに、その栄光を回復させてくださるときがやって来るだろうと、詩人は期待しているわけです。

 そして、そのときがくるのを一日千秋の思いで待っています。それが、「あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み、塵をすら、どれほど慕うことでしょう」(15節)という言葉になっています。最後に、「あなたの僕らの末は住むところを得、子孫は御前に堅く立てられるでしょう」(29節)と、主への信頼を言葉にすることが出来ました。

 そして、主がこの信仰の祈りに答えてくださったことは、歴史が証明しているところです。詩人は、「後の世代のために、このことは書き記さねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」(19節)と言います。イスラエルの民は、とこしえの王座に就かれ、自分たちを憐れまれる主を褒め称えるために、その恵みに与ったのです。

 私たちも、救いの恵みに与った者として、「主を賛美するために、私たち主の民は創造された」と歌い、喜びと感謝をもって主の御言葉に従いたいと思います。 

 主よ、罪の裁きを受けたイスラエルの民が、本心に立ち返り、神を求めて恵みに与ることが出来たのであれば、裁きは実に神の愛であり、深いご経綸のあったことを示されます。御前に無益なことは一つもなく、すべてがプラスに変えられると信じます。どうか私たちの心の王座に着かれ、絶えず私たちを真理の道に導いてください。御名が崇められますように。 アーメン



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