風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年11月

11月30日(月) 詩編121編

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」 詩編121編1,2節

 121編は、「都に上る歌」歌集の2番目のもので、主なる神に信頼しつつ旅路を行く人の詩です。。

 冒頭の言葉(1節)で、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」とありますが、このように詠う詩人の心境とは、どのようなものでしょうか。「わたしの助けはどこから来るのか」という言葉から、いくつかのことが考えられます。

 まず、「山々」とは、自分の行く手を阻むさまざまな問題を象徴しているもので、具体的には、山賊や肉食獣などの潜む危険な場所を示しており、詩人が不安な面持ちでそれらを眺め、「わたしの助けはどこから来るのか」と声を上げているといった様子を思い浮かべます。そして、その声を聞いてその危険な場所で詩人を助けて下さるのは、天地を造られた主だと詠っています。

 「天地を造られた」というのは、創世記1章にあるように、天と地にある一切のものを造ったという表現です。であれば、山々を造られたのも、そこに潜むすべてのものを造られたのも、主なる神なのですから、当然、行く手を阻むものの手から詩人を守ることが出来るというわけで、そこに希望を見い出し、平安を得て進むことが出来たということになります。

 あるいは、旧約聖書において、「山々」に象徴される高いところは、「聖なる高台」と呼ばれて、神を礼拝する場所でした。列王記上11章7節などには、異教の偶像を祀る場所として、聖なる高台が設けられたことが記されています。高い山で天との距離の近さを思うのでしょう。いずれにせよ、イスラエルの民はそれら聖なる高台に祀られる異教の偶像に惑わされ続けていました。

 かつて、カルメル山の上で預言者エリヤがイスラエルの民に呼びかけて、「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」と尋ねたことがあります(列王記上18章21節)。

 それゆえ、詩人は山々に祀られる神々の中で、だれが私を助けてくださるのかと自問し、助けは天地を造られた主なる神のもとから来ると、自ら答えているというわけです。

 もう一つは、「山々」がエルサレムとその周囲の山々を指しているという考えです。125編2節には、「山々はエルサレムを囲み」という言葉もあります。エルサレムを取り囲む山々は、シオンの丘との間に谷を造り、エルサレムを堅固な要塞とします。主なる神がそのように山々を配置されたのです。

 123編1節に、「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。天にいます方よ」という言葉があります。それは、主の憐れみが注がれるのを待つ祈りの姿勢であり、その祈りに応えてくださる方を仰ぐ信頼の姿勢でした。

 詩人は、天地を造られた主なる神を礼拝するために、エルサレムに向けて歩みを進めています。エルサレムを囲む山々を眺めながら、「わたしの助け」は「天地を造られた主のもとから」やって来る、わたしは今、神の助けに囲まれていると、何かワクワクするような思いで語っているのではないでしょうか。

 これらの解釈の内、どれが正しいのかということではなくて、私たちの人生には、いずれの要素もあるのではないか、と思わせられます。不安や恐れに囲まれているように感じるときがあるでしょう。どれが自分の進むべき道か、はたまた、神はほんとうにおられるのかと惑うときもあるでしょう。

 しかし主は、不安に押しつぶされそうなときに寄り添い、惑っているときには道を示してくださいます。そうして、私たちが主を仰いで、「わたしを助けてくださるのは、天地を創造され、わたしのために贖いの御業を成し遂げてくださった主なる神である」と告白することが出来るように助け導いてくださるのです。

 ダビデが、「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の影の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩編23編3,4節)と言い得たのも、主の助けを頂いたからこそでしょう。 

 パウロが、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ書1章13,14節)と記しているのも、そのことです。

 主は私たちを助けて、足がよろめかないように、眠ることなくまどろむことなく見守ってくださいます(3~5節)。常に主イエスを仰ぎ、絶えずキリストの愛と平和に満たして頂きましょう。

 主よ、どうか足がよろめかないように私たちを助け、まどろむことなく眠ることなく、私たちを見守ってください。キリストの平和が私たちの心を支配し、キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。そして、感謝して心から御名をほめたたえさせてください。 アーメン



11月29日(日) 詩編120編

「主よ、わたしの魂を助け出してください。偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 詩編120編2節

 120~134編には、「都に上る歌」という表題が付けられています。「都に上る」というのは、三大祝祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)への巡礼の旅を指していると考えられます(申命記16章16節)。巡礼の旅の間、ないし祭りの行進において用いるために、ここに集められているのでしょう。

 120編は、「都に上る歌」歌集の冒頭に置かれていますが、その内容は、祝祭に参加するために都に上るときの華やいだ思いとはほど遠く、異国によそ者として住んでいる詩人が、苦難の中から救いを願い求めた祈りの歌と言えそうです。

 5節に、「わたしは不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」とあります。「メシェク」とは、はるか北方、黒海とカスピ海の間の地域を指すようです(エゼキエル書38章2,3節)。また、「ケダル」とは、パレスティナの東方、アラビアの荒れ野を指しています(イザヤ書21章16,17節、エゼキエル書27章21節)。

 これは、二つ併せて、イスラエルのはるか北東方向ということで、ヨハネの黙示録において「バビロン」が「ローマ」を指していたように、「メシェク」と「ケダル」で「バビロン」を意味しているのではないでしょうか。であれば、「わたしは不幸なことだ。云々」というのは、バビロンに捕囚となったことを嘆いているわけです。

 すると1節の「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった」という言葉は、捕囚の苦しみの中で主を呼び求めたとき、主が祈りに応えて捕囚から解放され、エルサレムへの帰還を果たすことが出来たと語っていると考えることも出来ます。それだから、「都に上る歌」という表題がつけられたのかも知れません。

 詩人は、冒頭の言葉(2節)で「偽って語る唇」、「欺いて語る舌」といい、3節でもそれを繰り返しています。それは、詩人に敵対する存在であることを示します(5編10,11節、10編7節、12編3~5節、31編18,19節など)。

 5節のメシェクやケダルはその敵対者の住むところで、彼らは「平和(シャローム)を憎む者」(6節)であり、7節で「彼らはただ、戦いを語る」と告げられます。そのような好戦的というか、争い好きな者たちに囲まれる中で、詩人は平和のない生活を余儀なくされているのでしょう。

 70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で7節は、「わたしは平安だったが、わたしが彼らに語ると、彼らはわたしと空しく戦った」という言葉になっており、詩人を苦しめる者たちは、偽りの言葉、欺きの言葉をもって戦いを挑んで来たのでしょう。

 そこで詩人は、3節で、「主はお前に何を与え、お前に何を加えられるであろうか、欺いて語る舌よ」と語って、神が彼らにきっちりと仕置きしてくれることを求めているわけです。

 新共同訳は4節を「勇士の放つ鋭い矢よ、エニシダの炭火を付けた矢よ」と訳して、3節の「欺いて語る舌」を言い換えた表現と捉えています。一方、口語訳は「ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである」として、欺いて語る者たちに神が報いを与えるものと考えているようです(新改訳、岩波訳も同様)。 

 ただ、バビロン捕囚の苦しみを味わったのは、彼らがまことの神に背き、主との契約を蔑ろにしたからでしょう。その意味で、偽って語る唇、欺いて語る舌の持ち主は、自分自身ということになるのではないでしょうか。

 主に信頼して安心しているよりも、エジプトやアッシリア、バビロンなどに囲まれている中で、いかにより強い者に与するかということに汲々としていたわけです。だから、主がイスラエルの民に加えられた仕置きが、「メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住む」(5節)ことだったのです。

 詩人は、神に背いた民の心の有様が、約束の地から遠く離れた「メシェクに宿り、ケダルの幕の傍らに住」んでいるようなものだったと示されたのでしょう。そして、その苦難の中から主を呼んだということは、自らの罪を認めて主の御前に悔い改めたということであり、主が答えてくださったとは、彼らの罪を赦し、救いの恵みをお与えになったということです。

 神の宝の民として特別な恵みに与り、祝福の内に守られていたイスラエルの民が、神の御翼のもとから外に出て自分勝手に振舞い、その結果、一切の祝福を失ってバビロン捕囚となり、そこで、あらためて神を思い出して悔い改めたというのは、主イエスがルカ福音書15章11節以下で語られた「放蕩息子のたとえ」のようです。

 それは、弟息子が父の財産を生前に分けてもらって旅立ち、放蕩に身を持ち崩してしまい、すっかりお金を使い果たして生活に窮するようになったとき、ようやく本心に立ち返ったという話です。そして、父親は、悔い改めて帰って来た弟息子を喜び迎えるのです。

 今日、主イエスを信じて救いに与り、神の宝の民の一人に加えて頂いた私たちですが、あらためて、2節の言葉を思います。私たちは自分で自分の「偽って語る唇、欺いて語る舌」、即ち神に背く罪から、自力で逃れることが出来ませんでした。主の助けを必要としています。だから、日々御言葉を聞き、「わたしの魂を助けてください」と祈り求めるのです。

 真の平和をお与えくださる恵みの主を仰ぎ、喜びをもって御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従って歩むことが出来るよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 主よ、どうか私たちの心に、迷いの道がないか、偽り欺く思いがあるかどうか、心を探ってください。そして、どうか、とこしえの道に導いてください。あなたの慈しみが私たちの上に常に、永久にありますように。 アーメン




11月28日(土) 詩編119編

「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。」詩編119編1節

 詩編119編は、表題のところに(アルファベットによる詩)とあり、8節ごとに区切られた段落の始めに(アレフ)、(ベト)、(ギメル)などと記されています。これは、ヘブライ語のアルファベットで、その段落の各節の最初の文字が、そのアルファベットになっているということを示しています。

 ヘブライ語のアルファベットは22文字です。各段落が8節ずつありますから、22×8=176節まであるという、聖書中で最も長い1編(章)となっています。

 この詩は、主なる神を教師、詩の読者を僕なる生徒、聖書の御言葉(律法、定め、掟、戒め、裁き、言葉、命令、仰せ)が教科書、そして、この教科で学ぶのは、主に従って生きる生き方、詩の中では「道」と表現されているものです。

 詩人は言葉を尽くして、主の御言葉を聴くことの出来る喜び、御言葉に従うことの重要性を説き、それを忘れることなく絶えず口ずさむことが出来るように、アルファベットの詩に編んだわけです。この詩の中には、きらめく宝石のような御言葉がそこかしこにたくさんちりばめられています。一つでも二つでも暗誦することが出来るようになって、詩人の労作に報いたいものです。

 冒頭の言葉(1節)は、「アレフ」で始まる段落の中にあります。余談ながら、ヘブライ語のアルファベットはすべて子音で、それに母音記号がつけられて発音されますが、アレフは無声子音で、母音どおりの発音になります。

 「いかに幸いなことでしょう」(1,2節)は、1編1節と全く同じ書き出しです。幸いな人について、「まったき道を踏み、主の律法に歩む人」(1節)、「主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人」(2節)と言います。

 1節に「踏む」という動詞は用いられていません。原文を直訳すると、「完全な道を、主(ヤハウェ)の律法において歩く人は」という言葉遣いです。「主の律法に歩む」と完全な道、人生になるということでしょう。「踏む」という動詞が補われたのは、「道」(デレク)が、同根の動詞「ダーラク」(「踏む、歩く」の意)から派生したものだからです。

 119編には、「道」が20回出て来ます。デレクが14回(1,3,5,7,14,26,27,28,30,32,33,37,59,168節)、オーラハが5回(9,15,101,104,128節)、ナーティーブ(男性形)1回(35節)、ネティーバー(女性形)1回(105節)です。主の律法に歩むことがいかに重要か、この用語法で示しているのです。

 「律法」は「トーラー」の訳語で、元来、「投げる、打つ」(ヤーラー)という言葉から派生して、「方向、指示、法」という意味を持つようになったものです。生ける神の口から出て来た「教え」といってもよいでしょう。

 主の律法に歩むとは、主なる神の御教えに聴き従うことです。神の御教えを聴くとは、御言葉を自分の頭で考え、理解するということではありません。御教えに従うこと、御言葉を実践することです。従わない者は、主の律法を「主なる神の御教え」として聴いていないのです。

 「まったき道を踏み」と言われますが、神の道を自分の力で完璧に歩むことなど、誰にも出来はしません。神の教えを自力で完璧に実践出来る人など、存在し得ないでしょう。しかしながら、私たちが御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩もうとするとき、神はそれを「まったき道を踏んでいる」と見てくださるのです。

 私たちの歩みが完全なのではなく、神の御言葉が完全なのであり、私たちはそれを完璧にこなせるわけではありませんが、しかし、たとえ踏み外すことがあっても、絶えず御声に耳を傾けるなら、主は私たちを正しい道へ導いてくださるのです(23編3節参照)。

 2節で、「主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める」というのは、神の御声に絶えず耳を傾ける態度のことです。そして、神を尋ね求めるとは、神の語られた御言葉、そこに啓示されている御心を心の中心で受け止め、それに聴き従おうとすることなのです。

 前述のように、人に踏まれたところが道となります。主イエスは、御自分を指して、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)と言われました。

 私たちは神に背いて罪を犯し、主イエスを踏みつけるようなことをしました。しかし、主は私たちの罪を赦し、その道を通って父なる神の御許に行くことが出来るようにしてくださいました。私たちが主の御言葉に聴き従うのは、そこに真理があり、命があるからなのです。

 主の計らいに信頼し、主の御言葉どおりに道を保って、幸いを得ましょう。主の定めを楽しみとしましょう。

 主よ、御言葉を通して啓示される主の導きに素直に聴き従うことが出来ますように。どのような財宝よりも、あなたの定めに従う道を喜びとしますように。わたしは命を得て、御言葉を守ります。 アーメン


 

11月27日(金) 詩編118編

「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」 詩編118編22,23節

 118編は、ハレル賛歌詩集(113~118編)の最後の歌です。この詩は、様々な苦難から救われた人の信仰告白と、それを祝う人々の賛歌です。

 この詩が、117編に続いて読まれることを考えると、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(1節)と賛美をするのは、イスラエルの民を超えた、すべての国のすべての民ということになります。

 そして、恵み深い主に感謝し、永遠の慈しみをほめたたえるがゆえに、彼らも神によって選ばれた「イスラエル」、主を礼拝する「アロンの家」、そして、「主を畏れる人」と呼ばれるのです(2~4節)。
 
 この詩が詠まれた時代的背景や、詩人が経験した出来事について、具体的なことは分かりませんが、出エジプト記15章の「海の歌」との関連を示す記述があります。それは14節で、出エジプト記15章2節前半の言葉と全く同じ言葉遣いです。詩編で「わたしの砦」と訳されているのは、出エジプト記の「わたしの力」(アージー)という言葉なのです。

 また、「主の右の手」(15,16節)というモチーフが、出エジプト記15章6,12節にありまし、「わたしの神」(28節)として主を崇める言葉も、出エジプト記15章2節後半に出ます。

 ただ、14節の言葉はイザヤ書12章2節にも現れるので、この詩は単に出エジプトの出来事を思い起こさせるだけでなく、国々の包囲の中にあって、特にバビロン捕囚とそこからの帰還に際し、イスラエルが主なる神の見守りの下にあったことを明らかにしているのです。

 詩人にとって神とは、苦難の中で御名を呼び求めれば、そこから助け出して解放してくださる力強い味方、助けとなり、避けどころとなられるお方なのです(5~9節)。敵に包囲されても、主が味方となってくださいますから、彼らを必ず滅ぼすことが出来ます(10~12節)。

 10節の「滅ぼす」と訳されている言葉は、「切断する、断つ」(ムール)という言葉で、特に、「割礼を施す」という意味で用いられます。「割礼」と「滅ぼす」が結びつく例は、サウル王がダビデを娘ミカルの婿に迎えるのに、ペリシテ人の陽皮100枚を要求したのに対し、ダビデは200人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰ったという話でしょう(サムエル記上18章25,27節)。

 その事実にサウル王は、主がダビデと共におられることを思い知らされたと、同28節には記されています。

 そのときサウル王は、100人分ものペリシテ人の陽皮を持って来ることは不可能だろう、出来ればそのときにダビデが命を落とさないかと考えていたわけで(同17,25節)、それを難なくやってのけたということは、ダビデに神の助力があることを認めざるを得ないということになったわけです。

 そもそもダビデは、自分が王の婿になれるなどとは考えていませんでした(同18,23節)。けれども、こうした状況で神がダビデに助力したということは(同14,28節参照)、ダビデがサウル王の婿になること、後にサウルに代わってイスラエルの王位に就くことが神の計画であるということでしょう。

 このダビデの子孫として、エルサレムにやって来られる方がおられます。その方こそ、主イエス・キリストです。

 冒頭の言葉(22節)に、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」とありますが、この言葉を主イエスが引用しながら、御自分を「家を建てる者の退けた石」、ユダヤの指導者たちを「家を建てる者」として語られたことがあります(マルコ福音書12章10~12節など)。

 ユダヤの指導者に捨てられた主イエスこそ、神の家を建てるときに要となる石であり、キリストによって全体が組み合わされ、完成するということです(エフェソ書2章20,21節)。そのとき、ユダヤ人も異邦人も、男も女も、キリストによって一つにされます。

 主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城されるときに、人々が、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と言って、主イエスを迎えました(マルコ福音書11章9,10節)。それは、今日の御言葉の成就といってよいでしょう。

 というのは、人々が主イエスを迎えた言葉は、26節の「祝福あれ、主の御名によって来る人に」という言葉そのものです。また、「ホサナ」とは、「どうか、私たちを救って下さい」という意味で、25節の「どうか、わたしたちに救いを」はヘブライ語では「ホーシーアー・ナー」、それをギリシア語音化すれば、「ホサナ」という言葉なのです。

 かくて、主イエスが義と平和の王としてエルサレムに入城され、ご自身を贖いの供え物として十字架に死んで下さったことにより、私たちの罪が赦され、信仰によって神の子とされる救いの道が開かれたのです。だから、「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び躍ろう」と宣言されているわけです。

 主よ、あなたこそ私たちの神、私たちに光をお与えくださる方です。御子イエスが十字架の祭壇にご自身を生贄としてささげ、贖いを成し遂げてくださいました。御名を崇め、感謝をささげます。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがありません。 ハレルヤ! アーメン!



11月26日(木) 詩編117編

「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」 詩編117編2節

 117編は、詩編の中で最も短い詩です。けれども、詠われている内容は、限りなく豊かなものです。ただし、116編につけて、一つの詩としている写本が多数存在します。

 詩人は、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ」(1節)と、あらゆる国のあらゆる民族に、主なる神を賛美するように呼びかけます。ここで詩人は、主は、イスラエルのみならず、すべての国のすべての民の神でもあられると考えているわけです。

 神が天地万物の創造主であると信じるならば(創世記1章)、すべてのものが神によって創られたわけですから、当然のことながら、すべての国のすべての民にとって、主こそ神であるということになります。86編9節で、「主よ、あなたがお造りになった国々はすべて、御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます」と言っているのは、そのことでした。

 賛美を呼びかける理由は、ここではしかし、神が創造主だからというのではありません。詩人は、冒頭の言葉(2節)で、「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」と詠っています。「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメト)」は、イスラエルが繰り返し経験してきた、救いの御業を行われる神のご性格を言い表す用語です。

 イスラエルがエジプトから脱出することが出来たのも、先住の民を追い払って約束の地を手に入れることが出来たのも、父祖アブラハムと契約を結ばれた神の「慈しみとまこと」のゆえでした。そしてまた、バビロン捕囚から解放され、帰国を果たし、さらに神殿を建て直し、城壁を築きなおして国を再興することが出来たのも、主の恵みだったのです。

 しかしながら、それはイスラエルの民にとっては恵みでしょうけれども、エジプトやバビロン、そして、パレスティナから追い出された先住の民にとっては、決して喜べる話ではありません。彼らに向かって勝ち誇ったように、「主を賛美せよ」と言うのであれば、なおさら、主をほめ歌うことなど、出来る相談ではありません。

 パウロが、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマ10章14節)と言っているように、賛美する理由がなくて、主をほめ讃えることは出来ません。主について聞いたこともない者が、主を信じることなど、まずあり得ないことでしょう。

 「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」という言葉(2節)で、「とこしえに」ということは、世代を超えるという表現ですし、「わたしたちを超えて」とは、国や民族を超えてということです。

 つまり、主なる神は、あらゆる世代のあらゆる国と民族に、ご自身の慈しみとまことを現されると言っていることになります。それは、実に神が、慈しみに富む、まこと、真実なるお方だからなのです。

 このように賛美の呼びかけがなされているということは、そのために、主なる神の「慈しみとまこと」が広く語り伝えられ、至るところでそれが体験されなければならないということになります。

 そのために、慈しみ深くまことなる主は、使徒たちに聖霊を注ぎ、力を与えて、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、主イエスの証人となるようにされたわけです(使徒言行録1章8節、2章1節以下、9~11節)。

 主イエスによってなされた十字架の贖いの御業によって、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を取り壊し(エフェソ書2章14節)、敵意を滅ぼし(同17節)、両方の者が一つの霊に結ばれて、父なる神に近づくことが出来るようにしてくださったのです(同18節)。そうして、すべての者がアブラハムの子孫とされ、約束のものを相続することが出来るようにされたわけです。

 パウロが、「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人がその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」(ローマ書15章8,9節)と言います。

 そして、「『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています」(同11節)と、詩編117編1節を引用しつつ、その根拠を示しています。

 マルティン・ルターは、「わたしの見るところでは、使徒言行録はこの詩編あるがゆえに書かれたと言ってよい」と、詩編の注解において語っています。すべての国民が主をたたえるよう、神の愛の福音がエルサレムから、ユダとサマリアの全土、そして地の果てにまで告げ知らされるようにされたのだということでしょう。

 「わたしたちを超えて力強い」神の慈しみとまことに圧倒されて、私たちも、全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝える伝道の働きの一翼をしっかりと担い、私たちの置かれている静岡の町、その周辺に、キリストの福音を告げ知らせましょう。主の手足となって働かせて頂きましょう。

 希望の源であられる父なる神様、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてください。世界中の人々が、慈しみとまことのゆえに神をほめたたえますように。 アーメン



 

11月25日(水) 詩編116編

「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」  詩編116編10,11節

 116編は、救いを求めて嘆き祈る祈りが主によって答えられたことに対する感謝の賛美の歌であり、あらためて主を信じる信仰を宣言する詩です。

 七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)では、9節までと10節以下で別々の詩とされています。 なぜそうなったのか、その理由はよく分かりません。

 詩人は、「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ」(3節)、「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から、助け出してくださった」(8節)、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」(15節)と、繰り返し「死」について語っています。

 傷病であるにせよ、押し迫って来る敵の存在であるにせよ、そこに詩人の命を脅かし、苦しませ、嘆かせているものがあったことが分かります。 

 そのような状況に陥ったとき、詩人にはもはや、主なる神のほかに頼りになるものがありません。それゆえ、「苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください』」と詠うのです(3,4節)。

 詩人にとって死と陰府の脅威とは、何より、神との交わり、神との関係が完全に断たれてしまうことを意味していました。パウロが、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ書3章23節)、「罪の支払う報酬は死です」(同6章23節)というのも、同様のことを語っていると思います。

 15節の、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という言葉は、興味深い言い回しです。これは、主の慈しみに生きる人は、主の目に価高いのだから、いつ死んでもよいなどということではありません。

 「主の目に価高い」とは、主の慈しみに生きている人を死なせることは、彼らの主を褒め称える歌が途絶え、全地に主の恵みを証する働きを奪い去ることになり、それはもったいないことだという表現で、主の慈しみに生きている人の命を貴いものとしてくださいという願いが込められている言葉なのです。

 「主の慈しみに生きる」とは、主の慈しみのうちを歩む、慈しみを受けて生きるということでしょう。「哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる」(6節)と語られていることから、詩人は、自分が哀れな人で、弱り果てている者であると告白し、そのような自分を守り、救ってくださる神に感謝し、恵み豊かな主とその御言葉に信頼して生きようと言っているわけです。

 さらに、冒頭の言葉(10,11節)で、「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも。不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」と宣言しています。

 前述のとおり、ここに来て、詩人には主なる神のほか、頼りとするものは何もないのです。人に頼れば、「不安がつのり、人は必ず欺く」という思いから解放されず、ますます不安が募って来るといった悪循環に陥ってしまうのです。けれども、主を信じ、主を頼りとするとき、主が憐れみ深く、情け深いお方であることを味わい、悟ります(5節)。

 使徒パウロはこの詩人の信仰に心打たれたのでしょう。10節の言葉を第二コリント書4章13節に引用しているからです。そこに、「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と記しています。苦しめられ、死にさらされていても、主を信じて語ることが出来るというのです。

 さらに、第二コリント書12章9節で、「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう」と語っています。

 私たちが弱り、苦しめられている中で、神の力ある御業がなされるとき、それは私たちのゆえではなく、神の恵み、慈しみのゆえであることが分かります。

 当然のことながら、弱さそのものが私たちの誇りなのではありません。私たちの弱さの中で力強く働いていてくださる主を誇りとし、それゆえ、どのようなときにも喜びと感謝をもって、主なる神に賛美と祈りをささげるのです(1,2節、17節以下)。

 救いの杯を上げて主の御名を呼びましょう(13,14節)。この賛美の杯をパウロは、主の晩餐式の杯と結びつけています(第一コリント書10章16節)。

 「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう」(ヘブライ書13章15節)。 

 主よ、弱い私たちを憐れみ、助けてください。弱さの中に御業を現してくださる主を信じます。私たちの嘆き祈る声に耳を傾けてくださるからです。聖霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌をもって御名を褒め称えさせてください。絶えず御名をたたえる唇の実をささげることが出来ますように。 アーメン


11月24日(火) 詩編115編

「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。」 詩編115編1節

 115編は、危機にある信徒たちに主に依り頼むよう勧め、祝福を祈る「典礼歌」です。

 2節に、「なぜ国々は言うのか、『彼らの神はどこにいる』と」と記されています。この言葉は、バビロンに捕囚となったイスラエルの民に対して、バビロンの人々から浴びせられた問いか、あるいはまた、捕囚から解放されて帰国を果たすことが出来たものの、神殿の再建もエルサレムの都の再興も果たせずに苦労しているイスラエルの民に対して、周辺諸国の人々から投げかけられた言葉でしょう。

 それは、親切で尋ねているはずもなく、「お前たちの神はどこにいるのか、いるというなら見せてみろ」という、侮辱を含んだ言葉です。あるいは、イスラエルの民の神に対する堅い信仰を揺るがせようとしているのでしょう。

 かつて、アッシリアの王センナケリブが、イスラエルに攻め込み、エルサレムを包囲した際に、エルサレムの民に向かって、ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したかといって、ヒゼキヤと主なる神を侮辱する言葉を語りました(列王記下18章13節以下、29,32,35節)。

 そしてまた、悲しいことに、私たちの心にも、「神はいるのか。いるというなら、どこにいるのか。神は、私のことを助けてくれるのか」と、疑いの思いが出て来ます。そこで、私を助けてくれる神、私の願いを聞いてくれる神を捜し求めて、右往左往し始めます。

 しかしながら、そこで詩人は、「わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」(3節)という信仰の宣言をします。神は確かにおられ、ご自身の計画に従い、驚くべき御業を行っておられるのです(111編3,4節)。

 4~7節に、「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことはできない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」と記されています。

 確かにそうです。人間が造った神の像が人間を助けてくれるはずはありません。神の像を造った人も、それくらいは分かっているでしょう。神の像が人間を助けるはずはありません。

 そう分かっているのに、なぜ像を造るのでしょうか。それは、目で見えるように、手で触れられるように、そして自分の願いを聞いてくれるように、お守りとして神を近くに置いておきたいのでしょう。ということは、神の像ばかりではなく、自分が信頼出来ると考えるものがすべて、偶像になり得ます。お金や地位、権力などが、神にとって代わることがあるわけです。

 そのことについて、詩人は8節で、「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じになる」と言います。天地を造られた神を人が正しく形作ることなど、出来るものではないでしょう。造られた神の像が不真実なものであれば、それを造る者も不真実の中に留まっているということです。

 それゆえ詩人は冒頭の言葉(1節)のとおり、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって」と語ります。詩人は、主なる神が御自分のために驚くべき御業を行われ、それによって、主こそ恵みと慈しみに富むまことの神であることを自ら明らかにして、御名の栄光を現してくださるようにと願っているのです。

 それこそ、恐れと不安の中にいる乏しく弱い人々に対する最も確かな希望であり、平安を与えるものであることを、詩人は知っているのです。ゆえに、「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾」というのです(9節)。「天地の造り主、主があなたたちを祝福してくださるように」と、祝福を祈るのです(15節)。

 神は、もともと神の民でなく、その憐れみを受けられるはずがなかった私たちを、その深い憐れみによって救い、神の民とされました(第一ペトロ書2章9,10節)。それこそ、私たちのために、神の慈しみとまことによって、御業を行ってくださったのです。主は、主を畏れ、主を礼拝するために奉仕する者の助けとなり、また、祝福をお与え下さいます(9~16節)。

 私たちこそ、希望と平安の源であられる主をたたえましょう。今も、そしてとこしえに。ハレルヤ!

 主よ、御子キリストの贖いのゆえに感謝します。私たちが神の子と呼ばれるためになされた愛の御業のゆえに、御名をほめたたえます。とこしえに御名が崇められますように。常に御業がなされますように。そのことのために、私たちをあなたの器、道具として用いてください。 アーメン



11月23日(月) 詩編114編

「ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった。」 詩編114編2節

 114編は、ハレル詩編歌集(詩編113~118編)の第2のもので、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、神がいかにしてご自身の宝の民とされたかということについて、物語っています。

 この詩は、2節ずつ4つの段落に分かれ、第1段落と第4段落、第2段落と第3段落が対応とするという対称形になっています。さらに、各段落の前節と後節が対をなしていて、短い詩ながら、技巧を凝らした構造になっています。

 第1段落(1~2節)には、イスラエルがエジプトを脱出したことと、イスラエルをおのが聖なる民として選ばれたことが記されています。1節で、「イスラエル」と「ヤコブの家」、「エジプト」と「異なる言葉の民」は同義語です。

 続く冒頭の言葉(2節)で、「神の聖なるもの」は「彼の聖所」という言葉です。「神が治められるもの」とは「彼の領土」という言葉です。これは、イスラエルを神の治められる領地とし、そこを聖所、すなわち主なる神を礼拝するところとされたということを示しているのでしょう。

 第1段落と対になる第4段落(7~8節)には、全地の民が主の御前に身もだえすること、即ち、主なる神を畏れることと、その方は、岩を水のみなぎり溢れる泉とされる方だからということが記されています。これは、出エジプト記17章1節以下、民数記20章8節の出来事を指しています。

 第2段落(3~4節)は、海とヨルダン川が退いたことと、山々と丘が踊ったことが記され、第3段落(5~6節)は、海と川、山々と丘がそのように振舞うとはどうしたことかと問う言葉が記されています。

 海が逃げ去ったとは、葦の海が二つに分かれて、イスラエルの民が乾いた地を渡ったこと(出エジプト記14章21,22節)、また、ヨルダン川が退いたとは、川の水が上流でせき止められて、民が干上がった川床を渡ったこと(ヨシュア記3章15~17節)を指しています。

 また、山々と丘が踊ったとは、イスラエルの民に十戒を授けるために神がシナイ山の上に降られた時、山全体が煙に包まれ、激しく震えたこと(出エジプト記19章16,18,19節)を指しているのでしょう。ここには、海や川、山や丘を支配される神が詠われているわけです。

 そしてそれは、イスラエルの民がエジプトを脱出して、カナンの地に向けて進むときに起こりました。つまり、3~6節で言われていることは、1節と2節の中間に起こった経過報告になります。

 力強い御腕をもってイスラエルの民をエジプトの地から連れ出され、ユダの地を聖所として選び、イスラエルを治められる神は、それゆえに、全地の民に恐れられるお方であられます。

 そしてまた、海や川を退かせ、山々と丘を震え上がらせて全地を支配される神は、岩を水のみなぎるところとし、それによって荒れ野を旅するイスラエルの民に飲み水を供与されるお方なのです。

 こうして詩人は、全地を支配される神が、奴隷の苦しみの中にあったイスラエルの民を憐れみ、彼らをその苦しみから救って約束の地を得させるために、驚くべき御業をなさったこと、全地の民はその方を畏れ、礼拝すべきことを、この短い詩の中に見事に描き出しています。

 バビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、バビロンから解放されたことを出エジプトの出来事と重ね、あるいは「異なる言葉の民」(1節)をバビロニア人と考えて読んだのではないでしょうか。そして、どのような苦境にあるときにも、この詩を歌うことで、慈しみ豊かな神への信仰に目覚め、そこに堅く立つことが出来るようにされたことでしょう。

 信仰に立って賛美と祈りをささげるとき、自分は何者か、自分はどこにいて、何をすべき者なのかを知らされます。また、苦難の中にいて主の御名を呼び、嘆きの歌をうたえば、主なる神が親しく聞いて、民の苦しみを取り除き、その縄目から解放してくださいます。

 これまで何度も学んだように、神はイスラエルの民を御自分の聖なる民、全地のすべての民の中から選び出された宝の民とされました。それは、彼らが他のどの民よりも貧弱だったから、神の愛のゆえにその恵みに与ったのです(申命記7章6~8節)。

 その深い愛と憐れみのゆえに、異邦人である私たちも選ばれて神を礼拝する宝の民として頂くことが出来ました(第一ペトロ書2章9,10節)。イスラエルの救いのために大自然に働きかけられた神は、私たちを神の民とされるため独り子イエスをお与えくださったのです(ヨハネ福音書3章16節)。ここに神の愛があります。

 天のお父様、あなたの深い愛と憐れみのゆえに、心から感謝し、賛美をお献げ致します。かつては神の民ではありませんでしたが、今は神の民であり、以前は憐れみから漏れていましたが、今は憐れみを受けています。私たちを暗闇から驚くべき光の中に導き入れてくださった主の愛と恵みを、広く証しし、福音を宣べ伝えることが出来ますように。 アーメン



11月22日(日) 詩編113編

「子のない女を家に帰し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」 詩編113編9節

 113編は、ユダヤ教の伝統において、「ハレル」と呼ばれる詩編歌集(113~118編)の最初の詩です。「ハレル」とは、「ほめたたえる」という意味です。バビロン捕囚後に感謝の歌として礼拝用に作られたと考えられています。

 「ハレル」は、特にユダヤの祝祭のときに歌われました。それは、「ハレル」が、出エジプトにおいて表された神の御業をほめたたえるにふさわしい内容となっているからです。

 であれば、主イエスの最後の晩餐の後、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」(マルコ福音書14章26節)という御言葉にある「賛美の歌」とは、最後の晩餐が「過越の食事」としてなされているので(同14章12節以下)、この「ハレル」のことと考えてもよいでしょう。

 この詩は、1~3節が賛美への呼びかけ、4~6節が主の威光についての賛美、そして7~9節が主の憐れみの御業に対する賛美という内容になっています。

 賛美を呼びかけられているのは、「主の僕ら」(1節)です。彼らは主の自由な選びによって召し出され、その召しに応じた者たちです。その選びのゆえに、恵みの主をたたえます。彼らは、「今よりとこしえに」(2節)、「日の昇るところから日の沈むところまで」(3節)と、時間的にも空間的にも限りなく主をたたえる奉仕に召されたのです。

 詩人は、主の比類のなさを、「わたしたちの神、主に並ぶ者があろうか」(5節)と反語的に問い、「すべての国を超えて高くいまし」(4節)、「主の栄光は天を超えて輝く」(5節)と歌います。しかも驚くべきことに、すべてを超越しておられる主が、低きにいるすべてのものに深く関わってくださるのです(6節)。

 低きにいるすべてのものについて、7節に「弱い者」、「乏しい者」、冒頭の言葉(9節)に「子のない女」と言われています。そして、彼らに関わってその苦しみから解放し、救い出された神の御業を、8節で、「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる」、冒頭の言葉で「子を持つ母の喜びを与えて下さる」と詠って、主を賛美しているのです。

 特に、冒頭の言葉の、子のない女に子を持つ母の喜びを与えるというのは、聖書に何度も出てくる重要な主題です。まず創世記に紹介されるイスラエルの父祖、アブラハムの妻サラ(創世記11章30節、21章1~8節)、イサクの妻リベカ(同25章21節)、ヤコブの妻ラケル(同29章31節、30章1,2節、22~24節)がそうでした。

 また、サムソンの母(士師記13章2節以下)、サムエルの母ハンナ(サムエル記上1章2節以下)、そして、新約の時代においても、バプテスマのヨハネの母ハンナ(ルカ福音書1章7節、13節以下、36節、57節以下)がそうです。

 不妊の女性が子を産むというのは、神の助けなしにはきわめて困難なことです。「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ」(7節)は、ハンナの祈り(サムエル記上2章1節以下、8節)やマリアの賛歌(ルカ福音書1章47節以下、52節)とも一つに結び合う内容です。そして、彼女たちに授けられた子らは、イスラエルの歴史の中で、大変重要な役割を果たしたのです。

 イザヤ書54章1節にも、「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」と語られています。これは、バビロンに捕囚となったイスラエルの民が、解放されてエルサレムに戻ってくることを預言しているのです。

 イスラエルの民がこの詩を、特に過越の食事の前後に歌っているということは、バビロン初秋からの解放を出エジプトの出来事と重ねているわけです。そして、主イエスが最後の晩餐の後、この歌をうたってオリーブ山に出かけられたのは、単に過越の時になされる習わしだからということに留まらず、受難を出エジプト、バビロンからの解放と重ねていると考えてもよいでしょう。

 バビロン捕囚は、イスラエルの民の背きの罪が原因でした。彼らが救い出されたのは、ひとえに神の憐れみによるものです。神殿の再建、イスラエルの再興は、神の憐れみなしには、為(な)し能(あた)わざることでした。それゆえ、「歓声をあげ、喜び歌え」と言われるのです。

 主なる神は、罪を犯した私たちを憐れみ救うために、独り子イエスを贖いの供え物として十字架につけられました。ここに、すべての国を超えて高くいます主が、低く下られたという事実を見ることが出来ます(フィリピ書2章6~11節)。

 主の憐れみにより、救いの恵みに与った私たちです。私たち自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして神にささげましょう。それが、私たちのなすべき礼拝(=奉仕 service)なのです(ローマ書12章1節)。 

 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父よ、どうか私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 アーメン

 




11月21日(土) 詩編112編

「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。」 詩編112編1節

 112編は、111編の姉妹編ということが出来ます。

 どちらも、ハレルヤで始まります。そして、その「ハレルヤ」を除けば、いずれの詩も、各行の初めの文字が、ヘブライ語のアルファベット順に並んでいます。また、それぞれの行が三つの単語ないし結合された三つの語句で構成されています。

 また、111編は、「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」(10節)という言葉で終わっており、それを受けるかたちで112編は、冒頭の言葉(1節)のとおり、「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は」という言葉で始まっています。

 また、「恵みの御業は永遠に続く」(111編3節)と「彼の善い業は永遠に堪える」(112編3,9節)は、ヘブライ語では、双方全く同じ、「彼の正義はとこしえに立つ」(ツィドゥカートウ・オーメデト・ラーアド)という言葉遣いです。一種のリフレインのような役割といえばよいでしょうか。

 ただし、111編の「彼」は主なる神であるのに対し、112編では主を畏れ、その戒めを愛する「人」を指すという違いがあります。主は恵みの御業を今も行っておられ、主を畏れる人はそれをいつまでも受け取ることが出来るわけです。

 このように、111編は、人のために驚くべき恵みの御業をなされる主への感謝と賛美の歌で(1,10節)、一方112編は、主を畏れ、戒めを深く愛する人に与えられる祝福を語る歌になっており(1節以下、7節以下)、相互に補完する関係と言えます。

 このような二つの詩の関係から、主を畏れ、戒めを深く愛するというのは、人のために驚くべき御業をなされる主への感謝と賛美であるということになります。反対に、主への感謝と賛美をささげるというのは、その人が神の驚くべき御業を経験したからで、その御業によって、その人が豊かな恵みを味わったからです。

 けれども、恵みが豊かであればあるほど、嬉しいという思いよりもむしろ、畏れを感じるものです。というのは、自分自身、そのような恵みを受けるのにふさわしい人物であるとは思えないからです。

 一晩中不漁で、主イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」という言葉に、やっても無駄という言葉を呑み込んで「お言葉ですから」と従い、舟が沈みそうになるほどの大漁になったとき、シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」と言いました(ルカ福音書5章4節以下、8節)。

 ペトロは、イエス様がついていれば鬼に金棒、もう不漁になることはない、これからはいつも一緒に舟に乗ってくださいとは、求めなかったのです。そうではなく、驚くべき主の御業に触れて、ペトロは主を畏れました。主の恵みがペトロの心を照らした折、彼は、自分が罪深い者であることを悟ったのです。

 けれども、主イエスがその御業を現されたのは、ペトロたちを驚かせ、その罪を裁くためではありません。彼らを「人間をとる漁師」として招くためです(同10節)。「人間をとる」というのは、人を生け捕りにするという言葉で、ここは、人を活かす漁師という表現ではないかと思われます。

 それは、マルコ3章14,15節との関連で、福音を宣教し、悪霊を追い出すという働きをなすことです。勿論、ペトロたちにそれをする力がある、彼らはその資格十分ということでもありません。主を畏れ、その御言葉に従うとき、彼らのその従順な信仰を通して神の御業がなされ、それによって、人に命を与えることが出来るということです。

 つまり、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人とは、律法違反の罰を恐れてこわごわ従う人ではなく、また、規律によってがんじがらめにされるということでもなく、自分の罪深さを知るがゆえに、いっそう神の恵みに深く感謝し、その御言葉に信頼し、喜んで従う人のことをいうのです。

 主と主の御言葉に対する愛と信頼のゆえに、「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」(4節)という恵み、「悪評を立てられても恐れれない」(7節)、「敵を支配する」(8節)という平安や喜びを味わうことが出来るのです。

 お互いの愛と信頼が脅かされている今こそ、主イエス信じ、主の御言葉を深く愛して固く立ち、憐れみに富み、情け深く、正しい主の光を世に輝かせましょう。

 天のお父様、御子イエスを通して示された神の愛と赦しのゆえに、心から感謝致します。私たちの心もキリストの光に照らされており、絶えず、平安をもって歩むことが出来ます。周りの人々、特に、悩み苦しみのうちにいる人々に、恵みの光、愛の光、命の光を届けることが出来ますように。 アーメン



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