風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年10月

10月21日(水) 詩編81編

「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」 詩編81編9節

 81編は、神がおのが民を、「わたしに聞き従え」と招く詩です。

 この詩は二部構成で、第一部が2節から6節前半まで、第二部は6節後半から17節までです。第一部は、祭りの日に賛美をささげよとの招きが語られ、第二部は、神ご自身が民に語りかける説教という内容になっています。

 4節に、「角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」とありますが、角笛を吹き鳴らすのは、イスラエルの7月1日の新月祭で、聖なる集会を行います(レビ記23章24節)。続く10日が贖罪日(同27節)、そして満月に当たる15日の安息日から一週間、仮庵祭が行われます(同34節)。この詩は仮庵祭のたびに朗読されるように作られたものと思われます。

 仮庵祭は、葡萄の収穫祭で、秋の実りを神に感謝する祭りです。それが「仮庵」の祭と呼ばれるのは、この祭りの間、戸外の仮の簡素な小屋で過ごすからです。それは、もともと葡萄を収穫し、直ぐに葡萄を搾って葡萄酒を造るという作業を行うため、雇った労働者が寝泊まりする仮小屋を、葡萄園に建てたためです。

 それに、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、長い間荒れ野を旅して、テントで生活したことを重ね合わせ、その苦労を忘れないため、そして、現在の安定した生活、大地の恵みを神に感謝するためなのです。

 冒頭の言葉(9節)は、詩の中心に置かれており、文字通り、中心的なメッセージとなっています。ここで、「あなたに定めを授ける」というのは、「証言する、戒める」(ウード)という言葉で、「あなた」と呼びかけている者たちに、悪い状態に陥った関係を正すように勧める言葉なのです。聞き従う者には、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」(11節)という約束が与えられます。

 けれども、「わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった」と言われます(12節)。荒れ野を旅する間も、約束の地に入ってからも、イスラエルの歴史は、神に背き、その御言葉に従わない歴史でした。

 神は、「頑なな心の彼らを突き放し、思いのまま歩かせた」と言われます。その結果、民は神の御翼の陰を離れ、自分勝手に進んで自ら滅びを招いてしまいました。パウロがローマ書1章18節以下、24節で語っているのは、そのことです。

 神は、「わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」と言われています(14,15節)。

 このメッセージは、「何度も名前を読んだのに、一度も答えようとしなかったから、もう呼ばない。もし答えてくれたら、守ってあげたのに、一度も答えなかったから、もう二度と守ってあげない」と言おうとしているわけではありません。

 このようなメッセージを聞かせつつ、今これを聞いているあなたは、わたしの声に聞き従いますか、いつもわたしを求めますかと問いかけているのです。そして、もし聞き従うなら、最良の小麦で養い、「わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう」と、主が再び約束されているのです(17節)。

 仮庵祭の最終日には、大祭司が金の水差しでシロアムの池から水をすくい、それを神殿に運んでその水を祭壇に注ぐという儀式を行います。それは、来春の小麦や大麦の収穫のために、雨を降らせてくださるようにという祈りの儀式です。

 ヨハネ福音書7章で、主イエスが、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37,38節)と言われたのは、この日の出来事です。ここで、「生きた水」とは、聖霊のことでした。

 ヨハネは、主イエスが「大祭司」としてお立ちになったこと、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」ということで、命の水を与えるのは、主イエス御自身であることを示します。そして、霊的な収穫(ペンテコステの出来事:使徒言行録2章)が豊かにあるように、主イエスを信じる者に聖霊が注がれるように祈られたと記しているのです。

 私たちが主イエスを信じて、その御声に聴き従うなら、岩から蜜が滴るという神の御業を通して、聖霊の豊かな恵みで飽かせられる、即ち、自分自身が満足させられるだけでなく、それが川の流れとなって流れ出るようになると言われているのです。

 朝ごとに主を仰ぎましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。その教え、戒めに素直に聞き従いましょう。 

 主よ、御言葉を感謝します。私たちが主の御声に絶えず耳を傾け、喜びをもってその導きに従うことが出来ますように。聖霊の豊かな恵みに与り、主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。必要な知恵、力を授けてください。御心がこの地になりますように。 アーメン



10月20日(火) 詩編80編

「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。」 詩編80編4節

 80編は、イスラエルの救いを求める「祈りの詩」です。

 2節の「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ」という言葉、3節の「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」という言葉から、特に北イスラエル王国の救いを求めているようです。それは、紀元前721年に起こったアッシリアによるサマリアの都の陥落、北王国の滅亡という災いを味わってのことでしょう。

 以後、紀元前597年の第一次バビロン捕囚、587年の第二次バビロン捕囚により、エルサレム神殿が破壊され、ダビデ王朝が滅びるという災いが南ユダ王国に起こりました。このような、メソポタミアの強国によって繰り返される破壊と暴虐から救ってください、解放してくださいと祈り求めているわけです。

 5,6節の、「いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ、なお、三倍の涙を飲ませられます」という言葉から、詩人は、アッシリアやバビロンによる王国の滅亡が、単に強国の暴力と考えているわけではなく、神がそれらの国々を用いてイスラエルに怒りを表された、つまり、王国の滅亡は、イスラエルの罪を裁かれる神の怒りのゆえだと考えているのです。

 ですから、「いつまで」と尋ねているのは、神の裁きによる苦しみが長く続いている証拠であり、一日でも早く、その怒りをおさめてくださるよう、神の憐れみを求める言葉ということが出来ます。

 神の憐れみを求めるのに、2節で、「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れにように導かれる方よ」と、神を羊飼いとして描写します。

 それは、かつてイスラエルがエジプトで奴隷として働かされていたとき、神が彼らを憐れんで救い出してくださり、約束の地カナンに導かれたことを神に思い出していただくこと、そして、もう一度自分たちのために良い羊飼いとなって、自分たちをカナンに連れ戻していただきたいと願っているのです。

 「御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください」とは、契約の箱の贖いの座に付けられているケルビムに鎮座され(出エジプト記25章22節)、かつて、荒れ野を約束の地へと導いたように、もう一度イスラエルに連れ帰ってくださるようにと願っているのです。

 また、契約の箱は、軍勢と共に立ち上がる万軍の主なる神の顕現を、見えるかたちで示すものです(サムエル記上4章4節、サムエル記下6章2節)。かつて、エジプトの苦役から解放し、約束の地を獲得するために神が御力を振るわれたように、自分たちを苦しめている敵の手から解放してくださるように求めているわけです。

 さらに、エルサレムの都に神の宮が建てられ、至聖所に契約の箱が安置されたとき、それが神の臨在の象徴となりました(列王記下19章15節、詩編99編1節)。イスラエルの民は、至聖所に安置された箱を見ることは出来ませんでしたが、箱を担ぐ棒が聖所から見えたので(列王記上8章8節)、それで、箱の存在が確認できるようになっていたようです。

 ソロモンが契約の箱を神殿に安置してささげた祈りの中で、神殿に目を注ぎ、そこに向かって祈る祈りを聞き届けてくださるようにと求めていました(列王記上8章28節以下参照)。今、救いを求めている詩人たちの祈りに耳を傾けてくださるようにと願っているわけです。

 また、9節では「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました」と述べています。この「ぶどうの木」のたとえは、詩編だけでなくイザヤ書、エレミヤ書などでも、イスラエルを象徴するものとして用いられます。

 ここでも、エジプトから移して約束の地に植えてくださった神の憐れみの業を取り上げて、再び、その繁栄を回復させてくださいと求めています。12節で、「大枝を海にまで」とは地中海、「若枝を大河まで」とはチグリス・ユーフラテス川を示しており、それほど広大な地を領土にしたことはありませんが、こういう表現で、ソロモン時代の繁栄を回復してくださいと言っているわけです。

 そして、冒頭の言葉(4節)をはじめ,8,20節でも、「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」と繰り返し語ります。79編9節と同様、イスラエルの背きの罪のゆえに汚された神の栄光を、神ご自身の力で清め、再び輝かせてくださいと求めているということになります。

 このように詩人が神の憐れみを乞う祈りに対して、神は、ダビデの子孫として主イエスをこの世に遣わし、贖いの供え物として人々の罪を赦し、御名を清められました。

 主イエスは御自分のことを、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)と仰ったこと、また、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同15章5節)と仰ったことを思い出します。

 私たちを真理に導き、豊かな恵みを与え、実を結ばせてくださる主イエスを信じ、その御言葉に従って日々歩ませていただきましょう。

 主よ、常に私たちと共にいてくださる御子イエスの導きによって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰の歩みを続けることが出来ますように。苦難の中におられる方々にも、希望と平安が与えられますように。 アーメン



10月19日(月) 詩編79編

「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください。」 詩編79編9節

 79編は、74編と同様に、異国によるエルサレムの破壊と近隣の民による嘲りから、イスラエルの救いを求める「祈りの詩」です。「彼ら」と言われる異国の民と、「あなた」と呼びかける主なる神、そして、「わたしたち」なる神の民の三者が登場してきます。

 これは、「異国の民があなたの嗣業を襲い、あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました」(1節)という言葉などから、紀元前587年の第二次バビロン捕囚という出来事の後、エルサレムに残っている者が記したものと考えられます。

 今日この詩は、バビロンによる破壊と紀元70年のローマによる破壊を思い起こす嘆きの祈りとして、後世のユダヤ人たちにより毎金曜日、エルサレム神殿の嘆きの壁で唱えられているそうです。

 バビロン兵が破壊されたエルサレムにおいて殺戮と暴虐を行ったので、捕囚とならずエルサレムに残った多くの者が殺され、遺体を葬る者もないまま(3節)、猛禽の餌食になるという悲惨な状況が描かれています(2節)。それゆえ、残りの者たちは近隣の民に嘲られ、辱められています(4節)。

 詩人は、その状況を神に訴えて、「主よ、いつまで続くのでしょう」と言います(5節)。異国の民に苦しめられているのに、なぜ助けてくださらないのか、いつ手を伸ばしてくださるのかと問いかけるのです。そして、「あなたは永久に憤っておられるのでしょうか」(5節)と記すことで、この苦しみは、神から来ていると詩人が考えていることが分かります。

 「永久に憤っておられるのか」という言葉には、捕囚の苦しみを味わって後、一定の時間が経過したのかとも思わせ、そうすれば、二度と神の恵みに与ることは出来ないのか、神は私たちの祈りを聞いてくださらないのかと神に訴えている言葉といえるでしょう。

 神が憤っておられるというのは、詩人たちが罪を犯したということです。そのことを8節で、「どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けてください」とも語っています。悪をなした自分たちが拠って立つのは、自分たちの正しい振る舞いなどではなく、立場を回復するために支払う犠牲などでもなく、神の差し向けてくださる「御憐れみ」だということです。

 そこで詩人は、冒頭の言葉(9節)のとおり、「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください」と求めます。

 イスラエルの民は、優秀で数の多い民だから、神に選ばれたというわけではありませんでした。エジプトで奴隷の苦しみを味わっていたイスラエルの民を神が憐れみ、モーセを遣わして救い出されて、御自分の聖なる民、宝の民とされたのです(申命記7章6節以下)。

 イスラエルが約束の地に安住しているということは、神がイスラエルを深く憐れみ、愛しておられるしるしです。そしてそれは、イスラエルを祝福の源として、神の深い愛と憐れみが地の表のすべての民に注がれるという神のメッセージです(創世記12章2,3節)。

 ですから、イスラエルの民が近隣の民に嘲られることは、それは勿論イスラエルの民の罪のゆえですが、しかしそれは、イスラエルの神の名折れになることなのです。そこで、御名の栄光を曇らせないよう、イスラエルの罪を赦し、この苦しみから救ってくださいと求めているのです。

 続く10節に、「どうして異国の民に言わせてよいでしょうか、『彼らの神はどこにいる』と」ということで、自分たちの罪よりも異国の民の嘲りに焦点を合わせ、御名の栄光を輝かせるために、地の報復をしてくださるようにと求めまていす。

 よく考えるまでもなく、この祈りは、なんとムシのいい理屈でしょう。自分たちが汚したイスラエルの神の御名が、汚れたまま放置されているのは神の名折れになるので、ご自身で御名を清め、神の栄光で自分たちを輝かせてくださるようにと求めているわけです。

 しかし、主なる神は、この祈りを引き取られました。主イエスがご自身の祈りとして弟子たちに教えられた「主の祈り」の中で、「御名をあがめさせたまえ」(新共同訳聖書では「御名が崇められますように」マタイ福音書6章9節)と祈ります。

 この箇所の原文を直訳すると、「あなたの名が聖くされますように」(ハギアスセートー・ト・オノマ・スー)という言葉になります。神の名が聖くされるようにということは、神の名が汚れているということ、しかも、御名を汚したのは自分だということでしょう。

 そして、この祈りをささげよと教えられた主イエスが、ご自身の命をもって私たちの罪を赦し、贖い、律法の呪いから解放してくださいました。かくて、御名の栄光を表してくださったのです。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ4章9,10節)。

 この愛によって、私たちは神の子とされ、「アバ,父よ」と呼ぶことが出来る者とされました(ローマ8章15節、ガラテヤ4章5,6節)。今日も神の御名を呼び、その導きに従順に従っていきましょう。 

 主よ、あなたは「血に対する報復」を、主イエスの贖いにより、全世界を救うという手段で人々の目に表されるようになさいました。その愛のゆえに、私たちも主イエスを信じ、神の民とされる恵みに与りました。主の御心を心とし、委ねられている使命のために自らを捧げて、御名の栄光を褒め称えさせてください。 アーメン



10月18日(日)主日礼拝

本日、バプテスト静岡教会では、織田たい子執事が奨励を担当してくださいました。牧師は、三島バプテスト教会の宣教奉仕に当たりました。

そのため、説教動画のアップはありません。

静岡教会の公式サイトを更新しています。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/

ご覧ください。




 

10月18日(日) 詩編78編

「彼は無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた。」 詩編78編72節

 表題の「マスキール」(1節)は、「理解する、賢くなる(サーカル)」という言葉のヒフィル(使役)形分詞で、岩波訳では、「教訓詩」という表題になっています。内容の上からも、78編は、教師が生徒のために記した教訓と考えてよいでしょう。

 詩人が教訓を与えようとしているのは、①「子らが神に信頼をおき、神の御業を決して忘れず、その戒めを守るため」(7節)であり、また②「先祖のように、頑なな反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な霊の世代とならないように」(8節)ということです。つまり、過去の歴史に学び、それを明日に生かそうということです。

 9節で、「エフライムの子らは武装し、弓を射る者であったが、戦いの日に、裏切った」と言われています。これは、エフライム族出身のネバトの子ヤロブアムのことを指していると考えられます。

 ヤロブアムは、ソロモン王に仕えていましたが、預言者アヒヤの預言を受けて反旗を翻し(列王記上11章26節以下)、ソロモンの死後、イスラエルを南北に分裂させます(同12章)。それは、ソロモンが神に背いたために、神が10部族をヤロブアムに与えて、北イスラエル王国の王としたのです(同11章31節以下)。

 ところが、主の目に適う正しいことを行うようにと命じられていたにも拘わらず(同38節)、ヤロブアムはその命に背いて金の子牛を二体造り、それを領土の南と北、ベテルとダンに置いて神として礼拝するようにさせたのです(同12章25節以下、28,29節)。

 そして、ヤロブアムのあとの王たちも、ヤロブアムに倣って神に背き続けました。10節に、「彼らは神との契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み」と言われているとおりです。

 続く12節から39節までは、神がいかに民を憐れみ、エジプトを脱出して荒れ野を導き、民の必要に答えられたかを記し(12~16節、23~29節)、一方、民がいかに恩知らずに神に対して振舞い、反攻したかが記されます(17~22節、30~37節)。

 しかるに、「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった。神は御心に留められた、人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを」(38,39節)と記して、前半をまとめています。

 40節からの後半では、まずモーセを通してエジプトに下された災いの数々が記されます(43~51節)。イスラエルの民は、約束の地に住むようになりますが(52~55節)、背いて神を怒らせ、様々な災いを蒙りました(56~66節、サムエル記上4章参照)。ここに、過去に学ぼうとしない民の愚かさが示されているのです。

 そのように背き続けたイスラエルの民のために、神は「ユダ族と、愛するシオンの山を選び、御自分の聖所を高い天のように建て、とこしえの基を据えた地のように建てられた」(68,69節)と記します。

 勿論これは、詩人がリアルタイムで記した言葉ではありません。9節で、王国分裂とその後の北イスラエルの反抗の歴史を述べていることから、詩人は、北イスラエルが滅びた後、ヒゼキヤ王(列王記下18章以下)かヨシヤ王(同22章以下)の代に、ダビデの信仰を理想として、神の恵み深い御業に信頼し、その御言葉に従って歩むように、そして、先祖の背きの罪に倣わないようにと語っているわけです。

 ただしかし、王国が分裂したのは、ダビデの子ソロモンの背信の罪のゆえでした(列王記上11章1節以下)。ダビデも罪と無縁ではありません(サムエル記下11章など)。「無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた」(72節)と記されているのは、ダビデのことでもソロモンのことでも、そしてヒゼキヤやヨシヤのことでもありません。

 ダビデの子としてお生まれになり、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」(ヨハネ福音書14章6節)と語られた主イエス・キリストこそ、その方なのです。

 主を信じ、その御心に従って歩むことが出来るように、絶えず御言葉に耳を傾け、「御言葉がこの身になりますように」と祈りましょう。主を信じ、御言葉に従う恵みを証しする者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちは、パンによって生きているのではなく、御口から出る一つ一つの言葉によって養われ、御手によって守り導かれているのです。その恵みを心から感謝します。私たちの生活に御言葉を実現してください。聖霊に満たされ、力強く主の愛と恵みを隣人に証しすることが出来ますように。 アーメン



10月17日(土) 詩編77編

「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。」 詩編77編20節

 77編は、イスラエルがかつて主の大いなる力によって救われたことを回顧しつつ、苦難の中から神に救いを求める「祈りの詩」とされます。主なる神を「あなた」(5,12~15,17~21節と2人称で語る言葉はありますが、何かをしてほしいと願う言葉は、この詩にはありません。

 2節で、「神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます」といい、続く3節で、「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます」と告げ、4節でも、「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます」と語ります。前半11節までに、「わたし」という言葉が14回も出て来て、祈りというよりも詩人の独白といった印象の強い詩です。

 このとき詩人の心を支配していたのは、「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか」という思いでした(8節)。この言葉は44編24節、74編1節などにもありましたが、このように語るのは、苦難が襲って来て主を求めたのに(3節)、それに対する確かな主の答えを手にすることが出来なかったということでしょう。

 5節の、「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます」は、まぶたを閉じることが出来ないように、つまり、眠らせないようにしておられるということでしょうか。であれば、詩人は今、祈りが聞かれないというよりも、自分を苦しめているのは神ご自身だと考えていて、それゆえに、神に救いを祈ることも出来ず、悶々と思い悩んでいると訴えているわけです(4,7節)。

 けれども、そのような状況で内省を重ねても、思いは堂々巡りを繰り返すだけで、そのトンネルから永遠に抜け出せないのではないかという思いに支配されてしまいます。神が答えてくださらないことを、「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか」と自問したところで(9節)、納得のいく答えに到達できるはずもないからです。

 そのことを、「いと高き神の右の御手は変わり、わたしは弱くされてしまった」(11節)と語り、かつてのように、その強い御手で守ってくださらない、神は変わられたのだと結論して、しかしながら、そう考えることは詩人にとって、拠り所を失い、すっかり弱り果ててしまうことたったのです。

 現状に希望を見いだせない詩人は、助けを願う代わりに、いにしえの神の御業を思い起こします(12,13節)。そして、「神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」(14節、出エジプト記15章11節)と言い、「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました」(15節、出エジプト記15章13節以下)と語ります。

 17節以下の歌は、天地創造の時のようであり(創世記1章1節以下)、また、葦の海を分けたときのことを詠っているようであり(出エジプト記14章1節以下、15章5,8節)、また、シナイ山に降ってモーセに十戒を授けられたときの様子(同19章16節以下)を描いているようでもあります。

 冒頭の言葉(20節)の「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある」という言葉は、葦の海を分けて乾いた地をイスラエルの民に通らせてくださったことを思わせますが、しかし、続く「あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」という言葉は、思いがけない言葉です。大水は神を見たけれども(17節)、人はだれも、その驚くべき御業を見なかったということでしょう。

 これは、ヨブ記37章5節で「神は驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知り得ない大きな業を成し遂げられる」と語ったエリフの言葉を思い起こさせます。それは、神の御業はわたしたちの理解を超えているということでした。

 そのように、神は海の中、大水の中でも自由に歩まれ、力強く働いて驚くべき御業を行われるけれども、誰もその道を知ることが出来ないというのです。そう語ることによって、詩人は、今自分の目の前に苦難の海が広がっていて、前進を阻んでいるように見えるけれども、その中に神の通られる道があり、神の御手の業を見ることは出来なくても、その救いに与ることが出来るという信仰を言い表そうとしているのでしょう。

 24編2節に、「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」という言葉があり、神の不思議な御力を示していました。詩人は、自分の思いに閉じこもって眠れぬ夜を過ごしていましたが、もう一度神の御業に思いを向けたとき、あらためて信仰に目覚めることが出来たようです。それは、「あなた」と呼びかけた神が、詩人に与えてくださった信仰でしょう。

 「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら,わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ書29章12~14節)と言われるとおりです。

 主よ、あなたに向かって私は声をあげ、助けを求めて叫びます。どうか、空爆にさらされて眠れぬ夜を過ごしているシリアの難民を顧みてください。長く避難生活を送っている被災地の方々を覚えてください。救いの光を見出して、希望を与えてください。どうか、世界と我が国を、あなたのよきもので満たしてください。喜びと平安がいつも豊かにありますように。アーメン




10月16日(金) 詩編76編

「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる。」 詩編76編10節

 76編は、エルサレムを御自分の住まいと定められたお方について詠っているものです。2節に、「神はユダに御自らを示され、イスラエルに御名の大いなることを示される」と記されています。神はイスラエルを御自分の民としてお選びになり、彼らに御自身を現されたのです。「御名の大いなることを示す」とは、この後の文脈から、敵を打ち破られて町を守ってくださったことを示しています。 

 3節に、「神の幕屋はサレムにあり、神の宮はシオンにある」という言葉があります。「サレム」とは、エルサレムの古い呼び名です。イスラエルの父祖アブラムを祝福した祭司メルキゼデクが王として治めている町が、この「サレム」でした(創世記14章18節)。「シオン」はエルサレムの都が築かれている丘の名前です(サムエル記下5章6節以下)。

 「サレム」は平和という意味、そして「シオン」には要塞、砦という意味があります。神がエルサレムにおいて砦となられ、平和を実現してくださるということでしょう。それが4節で、「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き、盾と剣を、そして戦いを砕かれる」と言われているわけです。

 4節の、「餌食の山々から光を放って力強く立たれる」とは、山の上から日の出の光が射してくる様子を示しており、神がエルサレムにおいてその栄光を現されるということを表現しているようです。

 また、「餌食の山々」は、3節の「神の幕屋」と関係があるようです。「幕屋」というのは、「ソーク(仮庵、ライオンのねぐらとしての茂みの意)」という言葉で、10編9節ではこの言葉が「茂み」と訳されています。そこで、「餌食の山々」も、ライオンの住家といった表現ではないかと思われます。

 エゼキエル書39章4節に、「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も、イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える」という言葉があるように、強い者がイスラエルを守っていて、敵として近づくものは、その餌食になるということを示しているのでしょう。

 「勇敢な者も狂気のうちに眠り、戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、戦車も馬も深い眠りに陥る」(6,7節)という言葉の背後には、エルサレムの町まで攻め込んできたアッシリアの大軍が主の使いに撃たれ、一夜にして全滅してしまったといった出来事があるといってよいでしょう(列王記下18章13節以下、19章35節)。だから、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には、「アッシリアに対する詩」という表題が付けられています。

 ここで詩人は、エルサレムの町は安全だと言おうとしているわけではありません。神を畏れ、御前に謙ることを教えているのです。それが、「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方」という言葉になっています(8節)。北イスラエルは、神を畏れることを忘れ、背いた結果、アッシリアに滅ぼされてしまったのです(列王記下17章)。

 そして、冒頭の言葉(10節)で、「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」(10節)と語っています。ここで「(地の)貧しい人」には、圧迫され、抑圧されている人という意味があります。口語訳は、「しえたげられた者」と訳しています。

 神は、貧しい人々を救うために、圧迫する者、抑圧する者を裁かれます。弱く貧しくされている人々を虐げる権力者たちを裁くために、エルサレムに立たれるというのです。アッシリアがイスラエルを圧迫し、ヒゼキヤを嘲ったとき、立ち上がられました。同様に、イスラエルの民が権力者たちによって苦しめられるなら、神はそれを厳しく裁かれるというのです。

 呉アライアンス教会の小宮山林弥牧師は、この箇所について、「人間は自分よりも弱い者を当然のように蔑み、肉体的精神的な暴力で苦しめるが、それは弱い者を苦しめる者を厳しく裁かれる御父を敵に回すことである。詩人は、敵の大軍の攻撃の前に怯えるだけであった自分たちが、自分よりも弱い者には傲慢に振舞う姿を見逃さなかったのである」と解かれました。

 そして、「この世界は、御父を無視する者がいうような弱肉強食の世界ではない。弱肉強食者を厳しく裁く御父の愛のご支配の世界である。自分を強めようとすることの愚かさを悟り、弱い自分を顧みていてくださる御父に感謝して信頼し、平安になり、弱い者に心から仕える者とされよう」と奨めておられます。

 あらためて、「貧しい者」とは、自分の力、強さに頼るのではなく、神に信頼し、その御手にすべてを委ねて従う者のことと肝に銘じましょう。神はその信頼に答えてくださる希望の源であられます。主の御前に謙り、その恵みに日々感謝して、喜びと賛美の唇の実を、主にお献げしましょう。

 主よ、災害に見舞われたり、病を患ったりすると、自分の貧しさ、無力さを痛感させられます。だからこそ、主に依り頼みます。その苦しみ、悲しみ、痛みを主に訴え祈ります。主の愛のうちにあって互いに交わりを持ち、聖霊に満たされて、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う家庭、教会、社会を築くことが出来ますように。私たちを選び、立ててくださる主の恵みに信頼し、すべてをお委ねします。 アーメン



10月15日(木) 詩編75編

「わたしは逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる。」 詩編75編11節

 75編は、奢り高ぶる者を裁く神に対する「賛美の歌」です。

 まず、2節に神への感謝の言葉があります。それは、3節以下の、神が時を選び、公平な裁きを行うという言葉に基づいています。そこでは、奢り、逆らう者たちに対する警告が語られます(5,6節)。それを受けて詩人は、高ぶる者に神が裁きを行われること(8節)、その裁きの杯を飲ませられることを語ります(9節)。そして、神は逆らう者を退けられ、従う者を高められると、ほめ歌を歌うことを約束する言葉(10,11節)で詩を閉じています。

 ここで、「奢る者」(5節)、「逆らう者」(9,11節)とは、ヒゼキヤ王の代に北イスラエルを滅ぼし、南ユダに攻め寄せてきたアッシリアの王センナケリブのことでしょうか。あるいは、南ユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国の王ネブカドネツァルのことでしょうか。

 アッシリア王センナケリブはラブ・シャケをエルサレムに遣わし(列王記下18章17節)、「ヒゼキヤにだまされるな、彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない」(同29節)、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すというのか」(同35節)と告げさせました。

 ヒゼキヤは衣を裂き、粗布をまとって主の神殿に行き、神の前に祈りをささげました(同19章1節以下)。神はその祈りを聞かれ、預言者イザヤを通して、アッシリアの王に、「お前がわたしに向かって怒りに震え、その奢りがわたしの耳にまで上ってきたために、わたしはお前の鼻を鉤にかけ、口にくつわをはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする」と語られ(同28節)、そのとおりのことが起こりました(同35節以下)。

 それを見て、「あなたに感謝をささげます」(2節)と賛美しているのでしょう。「御名はわたしたちの近くにいまし」は、「御名」が神ご自身のことを示しているので、神が近くにおられて、自分たちを守ってくださったということです。34編19節に、「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」とあるように、謙って神を求める者に神は近くおられ、救いを賜るのです(73編23節、85編10節、119編151節なども参照)。

 また、バビロニア王ネブカドネツァルは、神に夢を見せられ、ダニエルに夢解きを願いました(ダニエル書4章1節以下)。それは、ネブカドネツァルに対する警告でした。ダニエルは、「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」(同24節)と告げました。けれども、ネブカドネツァルはその忠告に耳を傾けず、警告どおりのことが彼の身に起こります(同25節以下)。

 後に、本心に立ち返ったネブカドネツァルは、「わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される」と語りました(同34節)。まさに、驕り高ぶる者に裁きが臨んだわけで、それを通して、ネブカドネツァルは悔い改めへと導かれたのです。

 その子、ベルシャツァル王が千人の貴族を招いて大宴会を開いていたとき、エルサレム神殿から奪って来た金銀の祭具に酒をついで飲み、木や石の神々をほめたたえました(同5章1節以下、4節)。つまり、イスラエルを滅ぼしたバビロン帝国の神々を賛美したわけです。そのとき、人の手の指が現れ、壁に、「メネ、メネ、テケル、そしてパルシン」という文字を記します(同5節以下、25節)。

 この言葉を解釈するとき、ダニエルは、「父王様は傲慢になり、頑なに尊大に振舞ったので、王位を追われ、栄光は奪われました。・・ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存知でありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった」(同20,22節)と言っています。その結果、その夜、王は殺され、やがてバビロン帝国は分裂して、メディアとペルシアに与えられることになるのです(同28,30節)。

 そして、イスラエルの民は、ペルシャ帝国の王キュロスによって捕囚から解放されます(紀元前538年)。イスラエルの民は、王国が滅亡し、異国の地で奴隷としての苦しみを味いながら、それまでの生活を悔い改めて神の御前に謙り、御言葉に従って神を礼拝することを学んだのです。ですから、帰国した民が先ず行ったのは、エルサレムの神殿を再建し、そこに祭司、レビ人など宗教指導者を配置して神を礼拝することでした(エズラ記2章以下、6章14,15節など)。

 冒頭の言葉(11節)で、「逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる」と言われます。「角」は力や権威の象徴です。奢る者は、その力を誇示して神に背きます。5節の「角をそびやかす」は、神への反抗を指すのです。神は、「必ず時を選び、公平な裁きを行う」(3節)と言われていたとおり、逆らう者、奢る者を退かせ、神の御前に謙り、従う者を高く上げてくださるのです。

 使徒ペトロも、箴言3章34節の言葉を引用しつつ、「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章5,6節)と語っています。

 新旧約を貫いて、公平な裁きを行ってその義をお示しになる神の御前に謙り、御言葉に聴き従う者となりましょう。互いに謙遜を身につけ、愛し合いましょう。  
 
 あらゆる恵みの源であられる神よ、あなたは、地上にある間、様々な悩み苦しみの下で、私たちを強め、力づけ、揺らぐことがない完全な者となるように整えてくださいます。今日、自然災害に見舞われたり、戦乱に見舞われ、避難生活を余儀なくされている方々に近くいまし、彼らの角を高く上げてくださり、栄光を表してください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン



10月14日(日) 詩編74編

「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 詩編74編16,17節

 74編は、神がイスラエルを顧み、神殿を廃墟にし、神の民イスラエルを嘲る敵の手から救い出してくださるように願い求める「祈りの詩」です。

 「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃墟となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」(2,3節)などという言葉から、バビロンによってエルサレムの都が破壊され、神殿が焼かれた情景を思い浮かべることが出来ます。

 「どうか、御心にとめてください。・・このシオンの山を」ということは、詩人は、廃墟となった神殿の丘で神の救いを祈り求めているわけです。「永遠」(ネーツァー)という言葉が、1,10,19節にも用いられていて、一つのキーワードになっています。神殿が廃墟となってから、ずいぶん長い時間が経過しているわけです。

 詩人を取り巻いている現実は、厳しいものがあります。神が永遠に守られると信じた都が破壊され、神殿が廃墟とされたのです。また、王をはじめ、主だった者はすべて、捕囚として連れ去られました。彼らを指導する預言者も、執り成し祈る祭司もいません(9節)。エルサレム周辺に残されている人々は、敵の嘲りにさらされて生活しています(10節)。

 詩人は、見えるものすべてが破壊され、焼き払われてしまったエルサレム神殿の廃墟で、目に見えない神に、「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか」(1節)と、嘆きの祈りをささげます。詩人は、この最悪の状況の中で、まさにすべての拠り所が失われた状況の中で、必死にその拠り所を求めているのです。

 詩人にとって神は、「いにしえよりの王」であり、「この地に救いの御業を果たされる方」です(12節)。「御力をもって海を分け」(13節)というのは出エジプト記14章の出来事を指しているようです。その後に出てくる「竜」は海の象徴、「レビヤタン」(14節)というのは、イザヤ書27章1節などの記述から、川を象徴しているものと考えられます。川も海も、人を死に追いやり、飲み込んでしまう悪しき獣が住む場所と考えられていたわけです。

 ですから、竜の頭を砕き、レビヤタンの頭を打ち砕いて、砂漠の民の食糧とされたというのは、海や川、砂漠という、人の命を脅かすところが、神の養いを受け、その恵みを味わうところに変えられたということです。具体的には、イスラエルの民の前に葦の海が分けられ、また、ヨルダン川がせき止められたことや、岩から水が出たこと(出エジプト記17章、民数記20章)、あるいはまた、天からマナが降ったこと(出エジプト記16章)などを指しているのでしょう。

 冒頭の言葉(16,17節)のとおり、神は昼には太陽、夜には光を放つものを備えられました(創世記1章14節以下)。「光を放つもの」(マーオール)は単数ですから、月を指すと考えられます。これは、昼も夜も神が支配しておられるというしるしです。

 詩人は、古の出来事にその拠り所を見出しました。というのは、地の境を定められたのも、季節を設けられたのも神であられるということで、順風も逆風も神の御手の業であること、かつてエジプトから解放されたことも、バビロンによって都が破壊され、捕囚となった今も、神の手の内にあると考えるに至ったのです。

 だからこそ、この最悪と思われる状況を、イスラエルの神を見限るときというのではなく、むしろこの逆境を神の民がひとつになって神を求めるべき時とし、神の助けを頂いてその恵みを味わうべき時としようと、声をあげているのです。闇が神の光を閉ざすどころか、むしろ、輝きを取り戻したかのようです。ここに、イスラエルの人々が持つ信仰を見ることが出来ます。

 私たちも、昼も夜も支配され、夏も冬も造られた主を信じ、逆境のときこそ主を求める時として、絶えず賛美と祈りに導かれる、この信仰にあやかりたいと思います。

 主よ、あなたは確かにイスラエルの主です。その罪によって永遠に捨てられたように見えたイスラエルの民の祈りを聞き、再び光を備えられました。その民の中に、すべてのものを救うメシアをお遣わしになりました。主よ、今未曾有の苦難の中にいる人々を顧み、その心に、生活に、光を備えてください。そして、共に賛美と祈りに導いてください。 アーメン



10月13日(火) 詩篇73編

「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。」 詩編73編17節

 73編から、第三巻(73~89編)に入ります。神名に一般名詞の「神」(エロヒーム)が多く用いられ、また、礼拝と神殿が中心的なテーマとなっています。73~83編の表題には、「アサフの詩」とあります(50編も)。

 アサフは、レビ人ゲルショム族に属するベレクヤの子で(歴代誌上6章39節)、ダビデ時代、神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び込む時、詠唱者として抜擢されました(同15章19節)。先見者とも呼ばれています(歴代誌下29章30節)。

 彼の子孫はアサフの一族と呼ばれ、神殿礼拝における賛美の職務を継承しました(歴代誌下35章15節、ネヘミヤ11章22節)。バビロン捕囚からの帰還者リストには、詠唱者としてアサフの一族128人が登録されています(エズラ2章41節)。彼らは神殿再建の際、民の先頭に立って賛美の務めを果しました(同3章10,11節)。

 この詩には、「実に、確かに、本当に」という意味の強調接頭辞「アク」が3回(1,13,18節)用いられています。口語訳や新改訳はこれをきちんと訳出しているのに、新共同訳がそれをしないというのは、ちょっと不思議です。

 1節を直訳すると、「まことに、よい方、イスラエルにとって、神は、心の清い人に対して」です。「神はよい方」に、「まことに」をつけて、強調しているわけです。そして、神はまことによい方、確かに恵み深い方というのが、この詩の主題なのです。

 続いて、神がどのようによい方なのかを語るところ、2節以下に記されているのは、詩人が神の恵みを見失っている様子です。「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた」(2節)と記した後、「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは奢る者をうらやんだ」(3節)と言います。

 ここで、「安泰」はシャロームという言葉で、神の恵みに満ちた平安な様子を表現する言葉です。なぜ、神に逆らう者にシャロームが与えられるのか、詩人は理解に苦しんでいます。彼らは肥え太り、そして健康です(4,5節)。

 一方、神を信じている詩人は、「日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受ける」(14節)と言うように、病気で苦しんでいます。そのため、13節で、「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、(確かに!)むなしかった」と語っているのです。

 15節で、「『彼らのように語ろう』と望んだなら、見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう」というのは、すんでのところで、自分も神に逆らう者と同じようになろうというところであったこと、それによってイスラエルを裏切ることになっていたということです。

 「あなたの子らの代」とは、申命記14章1節、イザヤ書1章2,3節などから、神の民イスラエルを指す言葉と考えられます。教師として信仰を教える立場にある者が、「神に逆らう者と同じようになろう」と望むなら、それは確かに裏切りでしょう。詩人は、なぜ裏切りをせずにすんだのでしょうか。

 それは、神が詩人の目を開いて、神に逆らう者の行く末を見させ(17~20節)、足を滑らせて一歩一歩を踏み誤りそうになっていた詩人の右の手を取って、御許に留まらせられたからです(23節)。神に逆らう者の安泰が、一瞬にして荒廃に落ち、よろめいていた自分の足が神に支えられていたというわけです。

 その分岐点が冒頭の言葉(17節)の、「ついに、わたしは神の聖所を訪れ」というところです。ここで、「神の聖所」(ミクダシェイ・エール)というのは「聖所」(ミクダシュ)の複数形の言葉が用いられています。それは、複数の聖所を訪れたというのではなく、何度も繰り返し訪れたということを示していると思います。そして、「ついに」(アド:「~まで、とうとう=until」の意)神の恵みを見出すことが出来ました。それは、神がその祈りに答えてくださったということでしょう。

 詩人は、神に逆らう者らの行く末(17節)、すなわち、滑りやすい道に迷い(18節)、荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされることとを知りました(19節)。詩人が神の聖所で得た確信は、悪が滅ぼされるということに留まりません。一番の確信は、聖所におられるのが神であられ、詩人の祈りを聞いてくださるということです。 

 23節の、神が詩人の右の手を取られたという言葉で、「湖の上を歩く」ペトロが強い風を恐れて沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫ぶと、主がすぐに手を伸ばして捕まえてくださったという、マタイ福音書14章22節以下の記事を思い出します。

 主イエスが、「なぜ疑ったのか」と言われましたが、疑うとは、主イエスから目を離して周囲を見ること、その結果、主イエスが見えなくなることです。しかし、主イエスはインマヌエルと唱えられるお方、即ち、いつも共にいてくださる神なのです。ですから、ペトロの叫びにすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえてくださいました。

 詩人も、神殿で繰り返し叫び声を上げ、その都度神の恵みに預かるという経験をしたのでしょう。だから、神の御もとに留まり、「(確かに!)神は恵み深い」(1節)と語り続けているのです。

 主よ、私たちもあなたに手を取られ、私たちの足が滑らないように御使いたちに命じて、道のどこでも守っていてくださることを、心から感謝します。常にあなたの御許に留まり、主は確かに恵み深いお方と、私たちにも証しさせてください。御名が崇められますように。 アーメン




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