「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた。」 詩編60編6節
60編は、「救いを求める共同体の祈り 」です。3節で、「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた」と言い、12節にも、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたはわれらと共に出陣してくださらないのか」と訴える言葉があることから、外国との戦争に敗れたイスラエルが、神の助力を求めているようです。
それはちょうど、ペリシテとの戦いに敗れたおり、長老立ち居が、「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のところに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださろう」と言った状況のようです(サムエル記上4章3節)。
それはちょうど、ペリシテとの戦いに敗れたおり、長老立ち居が、「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のところに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださろう」と言った状況のようです(サムエル記上4章3節)。
ところが表題には、「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰ってきて塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」(2節)とあります。これは、サムエル記下8章1節以下の出来事を指しています。ところが、それはダビデがイスラエルの王となり、エルサレムを都として神の箱を都に迎え、近隣諸国と戦えば連戦連勝といった、最高潮の時期にあたります。
8節以下の主の宣言には9つの地名が出て来ますが、10節のモアブ、エドム、ペリシテは、まさに表題に語られている時期に、ダビデによって屈服させられ、イスラエルに隷属するようになったところです。神がその宣言どおりにしてくださったということで、2節の表題がつけられたのでしょうけれども、そのときに、ダビデがここに詠われているような心境であったとは、およそ考えられません。もしかして、サムエル記に記されていない、エドムとの戦いに敗れるということがあったのでしょうか。
それとも、やることなすこと皆うまくいったので、それがダビデの自惚れや傲慢となって、神を怒らせたとでもいうのでしょうか。サムエル記下24章の「ダビデの人口調査」はそれを思わせるものですが、しかしながら、それは、表題の時期ではありませんし、神の憤りは、「三日間の疫病」をもたらすという形で示されたのであって、敵との戦いなどではありませんでした。
5,6節で詩人は、神がご自分の民に辛苦の酒を飲ませ、神を畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされたと記しています。それは、苦難のときこそ、神を畏れ、謙って御言葉に従いなさいということでしょう。
冒頭の言葉(6節)で、「警告」(ネーム)というのは、「旗、印、基準」という意味の言葉です。原文を直訳すると、「あなたは、あなたを畏れる者に、旗を与えられた」、となります。戦いに敗れて散り散りにされた者たちを、もう一度、その旗印の下に集め、皆でこの戦場を離脱しようとしているといった状況を思い浮かべればよいのではないでしょうか。
また「真理」(コーシェト)という言葉は、「弓」(ケシェト)と母音の着け方が違うだけですから、「弓」という読みを採用して、「弓の前に掲げるための」と訳すことも出来ます。そうすれば、弓の前から逃れるために旗を掲げた、旗の下に神を畏れる者を集めるといった意味になります。5節との関連で、弓に示される敵の攻撃による裁きが行われる前に、警告を受け入れよといった意味になるでしょうか。
いずれにせよ、イスラエルは、神の導きのもとに謙り、その旗印に従って歩むところに、自分たちの生きる道があるということです。神はその旗印を、神を畏れる者たちにお与えになりました。神を畏れる者たちは、辛苦を通しても、神の真理を悟らせて頂くのです。神がお与えくださる旗印は、「錦の御旗」などではなく、神の前に奢り高ぶっている者への「警告」と解釈されるわけです。
その意味で考えるならば、この詩は、何かの史実に基づいて詠われているのではなく、敵との戦いに臨むにあたり、王として、神の助けなしにその闘いに勝利することは出来ないこと、全地を「わたしのもの」(9節)と言われる主の御手に依り頼み、その導きに従って歩むべきことを教えるという目的を持って造られたものということが出来るでしょう。
詩人は、「あなたを畏れる人」(6節)に続いて、「あなたの愛する人々」(7節)と記して、神を畏れる人と神が愛しておられる人々を対にしています。つまり、神を畏れる者たちに警告を与え、旗を示し、正しい道に導かれるのは、神が彼らを愛しておられるからだということです。
これはパウロが、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たち」(ローマ書8章28節)と記している言葉を思い起こさせます。 神を愛する者たちのために、万事を益とされるのは、彼らがご計画に従って召された者たちだからでした。つまり、すべてが恵みであって、働きに対する報酬などではないということです。
キリストの救いに与っている私たちは、「真理」とは主イエスのことを指していると教えられています(ヨハネ福音書14章6節など)。私たちの旗印は、主イエスの十字架です。主イエスは私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられました。
これは、主イエスから愛され、罪赦されて神の子とされた私たちが、十字架を旗印として互いに赦し合い、愛し合い、助け合う道を、主と共に歩むようにと、主イエスに招かれているのです。主を愛し、日々十字架の主を仰ぎながら、御言葉に従って歩みましょう。
主よ、絶えずあなたの慈しみをもって、深い御憐れみをもって、私たちを導いてください。主の御言葉に従って歩むことが出来るように、私たちの内に清い心、新しく確かな霊を授けてください。救いの喜びを褒め詠うように、自由の霊によって支えてください。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。御業のために私たちを整え、用いてください。 アーメン