風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年09月

9月30日(水) 詩編60編

「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた。」 詩編60編6節

 60編は、「救いを求める共同体の祈り 」です。3節で、「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた」と言い、12節にも、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたはわれらと共に出陣してくださらないのか」と訴える言葉があることから、外国との戦争に敗れたイスラエルが、神の助力を求めているようです。

 それはちょうど、ペリシテとの戦いに敗れたおり、長老立ち居が、「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のところに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださろう」と言った状況のようです(サムエル記上4章3節)。

 ところが表題には、「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰ってきて塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」(2節)とあります。これは、サムエル記下8章1節以下の出来事を指しています。ところが、それはダビデがイスラエルの王となり、エルサレムを都として神の箱を都に迎え、近隣諸国と戦えば連戦連勝といった、最高潮の時期にあたります。

 8節以下の主の宣言には9つの地名が出て来ますが、10節のモアブ、エドム、ペリシテは、まさに表題に語られている時期に、ダビデによって屈服させられ、イスラエルに隷属するようになったところです。神がその宣言どおりにしてくださったということで、2節の表題がつけられたのでしょうけれども、そのときに、ダビデがここに詠われているような心境であったとは、およそ考えられません。もしかして、サムエル記に記されていない、エドムとの戦いに敗れるということがあったのでしょうか。

 それとも、やることなすこと皆うまくいったので、それがダビデの自惚れや傲慢となって、神を怒らせたとでもいうのでしょうか。サムエル記下24章の「ダビデの人口調査」はそれを思わせるものですが、しかしながら、それは、表題の時期ではありませんし、神の憤りは、「三日間の疫病」をもたらすという形で示されたのであって、敵との戦いなどではありませんでした。

 5,6節で詩人は、神がご自分の民に辛苦の酒を飲ませ、神を畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされたと記しています。それは、苦難のときこそ、神を畏れ、謙って御言葉に従いなさいということでしょう。

 冒頭の言葉(6節)で、「警告」(ネーム)というのは、「旗、印、基準」という意味の言葉です。原文を直訳すると、「あなたは、あなたを畏れる者に、旗を与えられた」、となります。戦いに敗れて散り散りにされた者たちを、もう一度、その旗印の下に集め、皆でこの戦場を離脱しようとしているといった状況を思い浮かべればよいのではないでしょうか。

 また「真理」(コーシェト)という言葉は、「弓」(ケシェト)と母音の着け方が違うだけですから、「弓」という読みを採用して、「弓の前に掲げるための」と訳すことも出来ます。そうすれば、弓の前から逃れるために旗を掲げた、旗の下に神を畏れる者を集めるといった意味になります。5節との関連で、弓に示される敵の攻撃による裁きが行われる前に、警告を受け入れよといった意味になるでしょうか。

 いずれにせよ、イスラエルは、神の導きのもとに謙り、その旗印に従って歩むところに、自分たちの生きる道があるということです。神はその旗印を、神を畏れる者たちにお与えになりました。神を畏れる者たちは、辛苦を通しても、神の真理を悟らせて頂くのです。神がお与えくださる旗印は、「錦の御旗」などではなく、神の前に奢り高ぶっている者への「警告」と解釈されるわけです。

 その意味で考えるならば、この詩は、何かの史実に基づいて詠われているのではなく、敵との戦いに臨むにあたり、王として、神の助けなしにその闘いに勝利することは出来ないこと、全地を「わたしのもの」(9節)と言われる主の御手に依り頼み、その導きに従って歩むべきことを教えるという目的を持って造られたものということが出来るでしょう。

 詩人は、「あなたを畏れる人」(6節)に続いて、「あなたの愛する人々」(7節)と記して、神を畏れる人と神が愛しておられる人々を対にしています。つまり、神を畏れる者たちに警告を与え、旗を示し、正しい道に導かれるのは、神が彼らを愛しておられるからだということです。

 これはパウロが、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たち」(ローマ書8章28節)と記している言葉を思い起こさせます。 神を愛する者たちのために、万事を益とされるのは、彼らがご計画に従って召された者たちだからでした。つまり、すべてが恵みであって、働きに対する報酬などではないということです。

 キリストの救いに与っている私たちは、「真理」とは主イエスのことを指していると教えられています(ヨハネ福音書14章6節など)。私たちの旗印は、主イエスの十字架です。主イエスは私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられました。

 これは、主イエスから愛され、罪赦されて神の子とされた私たちが、十字架を旗印として互いに赦し合い、愛し合い、助け合う道を、主と共に歩むようにと、主イエスに招かれているのです。主を愛し、日々十字架の主を仰ぎながら、御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、絶えずあなたの慈しみをもって、深い御憐れみをもって、私たちを導いてください。主の御言葉に従って歩むことが出来るように、私たちの内に清い心、新しく確かな霊を授けてください。救いの喜びを褒め詠うように、自由の霊によって支えてください。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。御業のために私たちを整え、用いてください。 アーメン



9月29日(火) 詩編59編

「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように。」 詩編59編13節

 詩編59編は、神の救いを願う個人の祈りの詩です。

 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください」(2節)と、祈り求めています。詩人は、強力な敵にその命を狙われています(4節)。しかし、敵から狙われる理由が分かりません。「罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない」(4,5節)からです。

 そこで、彼らを罰してくださるように容赦されないようにと願い(6節)、さらに、冒頭の言葉(13節)のとおり、彼らの設けた言葉の罠、呪いや偽りに、自ら捕らえられ、神の怒りによって根絶やしにされるようにと求めます(14節)。

 詩人は、神への信頼の言葉を、「まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を、神はわたしに支配させてくださいます」(10,11節)と言い表します。そして最後に、「力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ」(18節)という賛美でこの詩を締めくくります。

 表題に、「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」とありますが(1節)、これは、サムエル記上19章11節の記事を指すものです。ただ、「力ある者がわたしの命を狙った待ち伏せし」(4節)というのは、確かにその状況といってもよいでしょうけれども、、ダビデが義父サウルを、生涯、「敵」と呼び、「悪を行う者」と呼んだことがあるとは思えません。

 また、6節の「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください」という言葉や、12節の「御力が彼らを動揺させ屈服させることを、わたしの民が忘れることのないように」という言葉から、イスラエルの王が民を代表して救いを祈っているように見えます。

 これは、アッシリア帝国が南ユダ王国に攻め込んできたときの様子を思わせます(列王記下18章13節以下)。ユダの町がことごとく占領されて、ヒゼキヤ王はアッシリアに金銀の貢物を贈り、和睦を計りましたが、アッシリアは大軍を差し向けてエルサレムを包囲し、無条件降伏を要求します。

 その際、「ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない」、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」と言って、ヒゼキヤに背き、主に背かせようとしました。

 8節で、「御覧下さい、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」と言い、さらに13節で、「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠」、「自分の唱える呪いや欺く言葉の罠」と言っているのは、まさにアッシリアの将軍ラブ・シャケの語った言葉のことではないでしょうか。

 圧倒的な敵の前に、抵抗する術のないユダの王ヒゼキヤは、主に頼り祈るほかありません。そして主は、その祈りに答えられました。預言者イザヤを通して、「アッシリアの王がこの都に入場することはない。わたしはこの都を守り抜いて救う」と約束されました(列王記下19章20節以下、32,34節)。そして、主の御使いがアッシリアの陣営を撃ったので、18万5千の大軍が滅ぼされて、王は自国に逃げ帰り(同35,36節)、エルサレムは守られたのです。

 あらためて、詩人は冒頭の言葉(13節)で、「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように」と願いました。「人を呪えわば穴二つ」という言葉がありますが、人を呪って殺そうとする者は、自分も呪われるので、葬るべき穴が二つ必要になるという言葉ですね。人を罠にかけようとする人が、自らその罠に陥るわけです。

 確かに、アッシリアの王は、自国の神殿で礼拝をしていたときに、謀反が起きて殺されてしまいました(列王記下19章37節)。アッシリアの神は、謀反から王を守ってはくれなかったのです。

 主イエスは山上の説教において、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁くその裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と教えられました(マタイ福音書7章1,2節)。私たちが他者を赦し、愛の言葉を語れば、私たちも赦され、優しい言葉を聞くことが出来るでしょう。

 ヤコブ書3章2節に、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」と言います(同10節)。しかし、主を賛美しながら、同時に人を呪うことは出来ないでしょう。人を呪う心を持ちながら、心から主への賛美を歌うことは不可能です。

 主を賛美する心で、隣人に対して信仰の言葉、祝福の言葉を語りましょう。詩人が、「わたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場、わたしの力と頼む神」(17,18節)は、まことに恵み深く慈しみに富むお方なのです(111編4節)。

 主よ、御名を崇めます。主に信頼し、信仰による祈りを通して、日々主の恵みに与ることが出来ますように。主の御言葉に土台し、隣人に対して祝福を祈り、信仰による恵みの言葉を語ることが出来ますように。今、困難な状況にある人々の上に、主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン



9月28日(月) 詩編58編

「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」 詩編58編12節

 詩編58編は、神に公正な政治を求める祈りです。それは、正しい政治を行い、公平な裁判を行うべき権力者が、不正な政治を行い、不法を量り売りしているからです(2,3節)。

 彼らは、神に逆らい、偽りを語ります(4節)。詩人は、蛇遣いでさえコントロールすることが出来ない毒蛇になぞらえ、誰の言葉にも耳を閉ざし、自分の思いのままに振る舞っていると断じます(5,6節)。まるで、昨今の我が国の政府与党の政権・議会運営のようです。

 2節冒頭で「しかし」と訳されているのは、エーレムという言葉で、「沈黙、物言わぬ者」と訳されます。56編1節の表題のところにある「エーレム」は、「沈黙」と訳されています。2節の原文を直訳すれば、「確かに沈黙よ、お前たちは正しく語り」といった言葉になり、意味不明です。そこで、新共同訳は、70人訳(ギリシャ語訳旧約聖書)を参考にして「しかし」(アラ)と訳しています。

 また、口語訳、新改訳、そして岩波訳は、それとは違って「エレム」を「エリーム」(神々:エル(神)の複数形)と読み替える異読を採用し、岩波訳はそのまま「神々」とし、口語訳、新改訳は、「力ある者」と意訳しています。世の権力者、支配者たちが、神々の名を用いて不正を行っているという解釈です。

 不法がはびこり、それを公正に裁く者がいない、そんなことがあってもよいのかと、詩人はここで、不正を働く者も、それを公正に裁く責任を放棄してしまっている権力者も、共に断罪しているわけです。

 詩人の言葉は大変激しく、7節以下に①「彼らの口から歯を抜き去ってくださるように」、②「主が獅子の牙を折ってくださるように」、③「水のように捨てられ、流れ去るがよい」、④「神の矢に射られて衰え果て」、⑤「なめくじのように溶け」、⑥「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」、⑦「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」と記されています。こうして、七つの言葉をもって完全な裁きと呪いを語っているのです。

 詩人は、こんなに不法がはびこるようでは、神も仏もあるものか、とは言いません。詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「神はいます。神はこの地を裁かれる」と語ります。そうです、神はおられます。神がこの地上を裁かれます。不法がはびこるから神がおられない、ということであれば、この世に救いはありません。不法があり、それによって苦しめられている人があるからこそ、神が必要です。そして、神がおられればこそ、救いの道、命の道、義の道が開かれるのです。

 神はこの地を裁かれます。不義をそのまま見過ごしにされることはありません。けれども、その裁きは、詩人が期待した通りではないかもしれません。「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう」とは、敵を完全に殲滅し、その屍を踏み越えて進む兵士のイメージでしょう。

 けれども、もし神が罪を犯す者を徹底的に殺し、滅ぼされるならば、誰が地上に生き残れるでしょうか。「だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と言われている通りです(14編3節、ローマ書3章10節以下)。

 後に詩編の編者が、「『滅ぼさないでください』に合わせて」という表題をつけました。上述のように、不法をなし、それを公正に裁こうとしない悪しき権力者を完全に滅ぼして欲しいと願っているような内容から考えれば、矛盾している曲名です。偶然、「滅ぼして欲しい」という歌を、「滅ぼさないでください」という曲で歌うことにしただけ、ということではないと思います。

 確かに、悪は滅ぼされなければなりません。しかし、神はその裁きを、不法をなす者の頭に下したのではありません。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた主イエスの執り成しを受け(ルカ福音書23章34節)、神は罪人の私を、御子キリストの贖いによって赦し、その血によって私の足を洗ってくださいました。十字架の贖いを通して、すべての者を赦し、清める救いの道を開かれたのです。

 主イエスを信じる者はだれでも、神の子供となる資格が与えられます(ヨハネ福音書1章12節)。誰もが、主イエスの道を通って父なる神のもとに行くことが出来るようにしてくださったのです(同14章6節)。神は、あなたを、私を、この救いに招いてくださったのです。

 このイエスの救いの前には、ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです。それは、信仰によるアブラハムの子孫、約束による神の相続人となることです(エフェソ書3章28,29節)。

 神の憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与った者として、命の道、真理の道を主イエスと共に歩み、家族に、周りの人々にこの恵みを告げ知らせて参りましょう。

 主よ、はかり知ることの出来ない愛と恵みに感謝致します。神に愛されている者として、家族同士、隣人同士、互いに赦し合い、愛し合い、支え合い、祈り合って生活することが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン



9月27日(日) 詩編57編

「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」 詩編57編9節

 この詩は、6節と12節がリフレイン(折り返し)の役割を果たしているので2節以下と7節以下の2部構成といえます。その内容は、第一部(6節まで)は、神の憐れみを願い、災いから救ってくださいという祈り、そして、第二部(7節以下)は、願いを聞き届けてくださった神への感謝と賛美です。

 表題には、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」と記されています。サムエル記上22章1節以下の状況でしょうか。第二部の感謝と賛美から、同24章1節以下の出来事が背景になっているようにも思われます。

 詩人の魂は敵に囲まれてうなだれ、屈み込まされていました(5,7節)。けれども、詩人は、神が祈りに答えてくださることを知っています。だからこそ、うなだれ、屈み込みながらも、さらに神の憐れみと救いを祈り願っているのです。

 詩人は、「いと高き神を呼び」(3節)、「天から遣わしてください、神よ、遣わしてください、慈しみとまことを」(4節)と求めます。詩人の願った「慈しみとまこと」とは、神のご本性です。「慈しみ」(ヘセド)は神の変わらないご愛を、「まこと」(エメト)は神の真実、真理を示します。天に座して折られる神が、全権大使として「慈しみとまこと」を派遣してくださるよう求めているのです。

 そして、屈み込んでいる詩人の目に、罠を仕掛け、落とし穴を掘った敵が、自らそこに落ち込んでいるのが見えました(7節)。詩人の願いに神が応えてくださったということでしょう。

 ダビデの経験から言えば、それは、ダビデが隠れていた洞窟にサウルが用足しに入ってきて、逆にサウルに手をかける絶好の機会となったというところでしょう(サムエル記上24章4節以下)。しかし、ダビデは、油注がれた方に手をかけることを、主は決して許されないといって、サウルに対する謀反の思いはないことを明らかにし、それを受けてサウルは、「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(同21節)と応じました。

 詩人は、これまでそのような経験を積み重ねてきたのです。そこで、「わたしは心を確かにします」と語ります(8節)。どんな境遇におかれても、また、そこに何があっても、神を信じて立ち上がろうというわけです。
 
 冒頭の言葉(9節)のとおり、「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」と語ります。ここで、「誉れ」(カーボード)という言葉を、口語訳は「魂」、新改訳も「たましい」と訳しています。「誉れ」は、6,12節の「栄光」と同じ言葉です。

 8節で「心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」と言ったあとに、「わたしの栄光よ」と語るはずはなかろうと考えて、口語訳などは「誉れ」を「肝臓、心=魂」(カーベード)と読み替えたのでしょう。あるいは、「誉れ」を自尊心と考えて、さらに「魂」と意訳したのでしょうか。因みに、2,5,7節の「魂」は「ネフェシュ」、8節の「心」は「レーブ」という言葉です。

 原文の異読には、「カーボード」と文字の形がよく似ている「キノール」をあてるものがあるようです。これは、このあとに出て来る「琴」という言葉です。つまり、「目覚めよ、わたしの琴よ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ」という文章になるわけです。

 これらの訳語の中で「誉れ」と読むのが一番理解し難いものですが、もともと「魂」とか「琴」と記されていたものがあとで「誉れ」と書き換えられる可能性と、もともと「誉れ」と記されていたものが後に「琴」、「魂」と読み替えられる可能性とを比較すれば、後者の可能性のほうが確実に高いと言わざるを得ません。難解な言葉を理解し易い言葉に書き換えると考えられるからです。それで、新共同訳は原文どおり、「誉れ」を選択しているのです。

 そしてこれは、敵に苦しめられ、屈み込んでいた詩人が、神によってもう一度奮い立とう、神に与えられた栄光を取り戻そうという意味に取ることが出来るのではないでしょうか。そのために、竪琴をかき鳴らして、「曙を呼び覚まそう」とうたいます。まだ夜明け前で、全く光を見ることが出来ません。けれども、必ず夜は明け、朝の光が輝くようになります。夜明けをじっと待つというのではなく、賛美によって夜明けをもたらしたい、神を仰ぎ、新しい朝の恵みに与りたいと願っているのでしょう。

 詩人は、竪琴、琴に代表される楽器をもって、そして信仰に目覚めた自分のすべて、声のかぎり歌い、手を打ち鳴らし、踊り、そのようにして体中で主を迎えようとしているのです。ちょうど、ダビデが神の箱をエルサレムに迎えたときのように(サムエル記下6章12節以下)。そして主なる神は、イスラエルの賛美を住まいとされ(詩編22編4節)、賛美の中に栄光をもって臨まれるのです(歴代誌下5章13,14節)。

 そして、「あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います」(11節)というその賛美は、祈りと願いに答えてくださる神に対する信仰の賛美であり、また、感謝の賛美です。

 私たちもこの詩人の信仰に学び、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝し、賛美する信仰で歩みましょう。それこそ、神が主キリスト・イエスにあって、私たちに望んでおられることだからです(第一テサロニケ書5章16~18節)。

 主なる神よ、天の上に高く今し、栄光を全地に輝かせてください。自然災害で不安と恐れに包まれている東北・関東の人々を、あなたの慈しみとまことで覆ってください。平和と安全が脅かされ、将来に希望を持つことが出来ないでいる人々に、あなたの慈しみとまことを遣わし、真の平安と希望を授けてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



9月26日(土) 詩編56編

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」 詩編56編9節

 56編は、主を信頼する者の「救いを求める祈り」です。その信頼について、4,5節で、「恐れを抱くとき、わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神により頼めば恐れはありません。肉に過ぎない者が、わたしに何をなしえましょう」といいます。さらに、11,12節で、「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう」と、リフレインのように繰り返します。

 ここに、「恐れを抱く」と「依り頼む」、「肉に過ぎない者」と「神(主)」の対比があります。つまり、「肉に過ぎない者=人間」が詩人を踏みにじり、虐げ、恐れを抱かせるのです。だから、詩人は人間にではなく、主なる神を逃れ場として、「わたしはあなたに依り頼みます」というのです。

 その信頼は、神の救いの約束への応答です。「神の御言葉を賛美します」(5,11節)というのは、そのためです。「神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう」(10節)というのも、たとえば、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いに右の手であなたを支える」(イザヤ書41章10節)のような神の御言葉への応答と考えられます。

 表題に従えば、この詩は、ダビデがサウル王から逃れて、ペリシテ人の町ガトの王アキシュのもとに来て、捕えられたときに詠まれたことになります(サムエル記上21章11節以下)。これは、詩篇34編の表題と共通の出来事です。

 ダビデがサウル王から命を狙われたのは、彼が戦のたびに手柄を立てて、イスラエルの民の間に人気が高まるのを妬まれたからです(サム上18章8節)。サウルは、自分の王位が危うくなる前にダビデを亡き者にしようと考えたわけです。しかし、ダビデはイスラエルの兵士であり、サウルの命により、イスラエルのために命懸けで戦っていました。しかも、サウルの娘婿でもあります(同12節以下、27節)。つまり、ダビデは謂れのない苦しみを受けていたわけです。

 その苦しみの果て、なんと彼は、敵国の王の下に身を寄せようとしています。サウル王の力の及ぶところでは、安らぐことが出来なかったのです。けれども、当然のことながら、ダビデの名は敵に知れ渡っており、彼は捕らえられてアキシュ王の下に引き出されました。絶体絶命の時、ダビデはそこで気が狂ってしまったように見せかけて、何とか難を逃れます。

 しかし、自国には戻れず、安易に他国に身を寄せることも適わず、これからどうすればよいのでしょうか。実に、途方に暮れる事態です。そのようなダビデの心境が、よくこの詩に現れているように思います。特に、神に依り頼む信仰を表明してはいるのですが(4,5節)、なお苦しい状態が続いています。「わたしの言葉はいつも苦痛となります」というとおりです(6節)。

 そこで、冒頭の言葉(9節)のとおり、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです」と訴え、さらに、「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と祈っています。革袋は、その中に水などを蓄えておくための水筒であり、荒れ野を旅するときの必需品です。それに詩人の涙を蓄えてくださいと求めているのですから、神にこの苦しみ、悲しみを味わってみてくださいと求めているようです。

 涙を一粒残らず蓄えるということで、神に、すべての苦しみを知っていて欲しい、覚えていてほしいという願いが表されていると考えることが出来ます。それで、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか」と訴えているわけでしょう。

 ここで、「嘆き」は、創世記4章16節で、「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」と記されている「ノド(さすらい)」という言葉です。口語訳は、「あなたはわたしのさすらいを数えられました」と訳しています。「さすらい」には「嘆き」がつきものですし、後半の「涙」との関連で、「嘆き」という訳語になったのでしょう。

 そして、荒れ野の旅の必需品の「革袋」も、つづりは違いますが、「ノド」と発音します。「さすらい」と「革袋」の語呂合わせで、神に自分の苦境を訴え、助けを求めているわけです。

 このダビデの祈りは、時代を超えて聞き届けられました。神の独り子キリストが、ダビデの子孫としてお生まれになったのです。彼は悲しみの人で、多くの痛みを負い、病いを知っています(イザヤ書53章3節)。罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われました(ヘブライ書4章15節)。すべての人の罪を背負い、十字架で身代わりに死んでくださいました。その打たれた傷によって、私たちは癒されたのです(同53章5節、第一ペトロ書2章24節)。

 神は、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われます。どんな時にも共にいて、私たちの苦しみ、悲しみを受け止め、慰め励まし、立ち上がる力をお与え下さいます。主イエスを信じ、その御言葉を信じて、命の光の中、神の御前を歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあなたに依り頼みます。あなたの御言葉を賛美します。あなたが私たちの味方となってくださるなら、私たちには恐れはありません。あなたが常に私たちと共にいて、命の光の中、御前を歩ませてくださるからです。御名が崇められますように。 アーメン



9月25日(金) 詩編55編

「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」 詩編55編23節

 この詩は、都にはびこる不法と争い、災いと労苦、搾取と詐欺(10~12節)に悩む詩人が神に救いを求める祈りです。表題に「マスキール」(1節:「教訓」の意)とあり、そのような苦難の時に、どのように振る舞うべきか、この詩を通して、読者に教えているわけです。

 詩人は、「鳩の翼がわたしにあれば、飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて、荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け、急いで身を隠すことができるのに」(7~9節)と語って、静かに枕出来る宿を切望します。しかし、翼はありません。そして、逃げ出すことも出来ません。

 特に詩人を悩ませているのは、「嘲る者」の存在です。しかもそれは、「敵、憎む者」ではなく、「それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」という親しい間柄であり、「神殿の群衆の中を共に行き来した」という、信仰を同じくする友なのです(14,15節)。その友が、「自分の仲間に手を下し」(21節)、「抜き身の剣に等しい」言葉で突き刺すのです(22節)。

 詳細は不明ですが、親しい友の裏切り行為によって詩人は深く傷つき、立ち上がる力も失ってしまったのではないでしょうか。エレミヤ書9章1節に、「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ」とあります。「兄弟ですら信用してはならない」(同3節)というほどに国に暴虐が満ち、逃げ出したいといっているわけです。

 ミカ書7章1~6節にも、国が乱れ、民の腐敗を嘆く預言者の哀歌が記されています。詩人の心も、そのようなものだったのでしょう。

 ユダヤ人をかくまったためにドイツ秘密警察ゲシュタポに捕らえられ、厳しい拷問を受けたというドイツ人の話を読みました。彼はそれに耐えて、何とか終戦を迎えることが出来ました。ところが、解放されて間もなく、自ら命を絶ってしまったそうです。それは、彼をゲシュタポに密告したのが、自分の家族だったと分ったからです。ナチスに抵抗し、獄中の苦難に打ち勝ったその人も、家族の裏切りというのは、耐えられないことだったのです。

 そのようなときに、「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる」という冒頭の言葉(23節)が響きます。力を失ってうずくまり、呻いていた詩人の心に響いて来た神の御声でしょう。

 ここで、「重荷」(エハーブ)は、もともと「くじ」という意味で、その人に与えられた分、運命という意味にもなります。その意味から考えると、重荷を主に委ねよというのは、荷物を降ろしなさいということにはなりません。「主は従う者を支え」ると言われているように、このような状況の中で主なる神を信頼し、主に従うことが、重荷を委ねるということなのです。

 「従う者」と訳されているのは、ツァッディーク(正しい)という言葉です。口語訳、新改訳は「正しい人(者)」と訳しています。これは、神と正しい関係にある者のことです。つまり、正しい人とは、主なる神に従う者ということです。その人を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださるから、重荷を、運命を主に委ねよというのです。 

 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました(マタイ11章28~30節)。

 主イエスは労苦を知らない方ではありません。友に裏切られる苦しみも味わわれました。その友は、接吻という親愛の情を表す挨拶をもって、主イエスを裏切りました(同26章48節以下)。「口は脂肪よりも滑らかに語るが、心に闘いの思いを抱き」(22節)とは、そのときのユダの心境とも考えられます。

 裏切られる痛み、心身の疲労をよく知っておられる主イエスが、私たちを休みへと招かれます。それは、主イエスと軛を共にするため、それによって荷を軽くするためです。主イエスに支えられて立ち上がり、共に前進するためです。

 使徒ペトロが、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(第一ペトロ書5章7節)と記しています。彼は、主イエスのことを三度、知らないと否んだ経験を持っています(マタイ26章69節以下)。

 しかし、主イエスはペトロを立ち上がらせ、再び使徒として召されました(ヨハネ21章15節以下)。すべてを理解し、受けとめて下さる主イエスの深い愛を味わったペトロは、どんなときにも、「わたしの重荷を委ねます」と祈って、信じて従う力を頂いたのです。確かに主は、信じて従って来る者を支え、動揺しないように、思い煩うことがないように、計らってくださるのです。

 主に重荷を委ね、主を信頼して歩みましょう。

 主よ、東日本を襲った豪雨で被災された方々、犠牲となられた方、その家族を憐れんでください。東日本大震災後、長く避難生活をしておられる方々を顧みてください。福島第一原発とその周辺で作業に当たっておられる方々を安全にお守りください。この国の行く末を支えてください。すべての荷を主に委ね、従って参ります。聖霊と御言葉によって導いてください。 アーメン



9月24日(木) 詩編54編

「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」 詩編54編6節

 54編は、「神よ」(3節)と呼びかける言葉をもって始まる、個人的な救いを求める祈りの詩です。表題に「マスキール」(1節)とありますが、これは教訓という意味です。救いを求める祈りはこのようにすればよいと教える詩だと、詩編の編集者は考えたわけです。3,4節に、救いを求める願いの言葉があります。続く5節に、願いの理由、救ってほしいわけを述べます。そして6節以下には、神が祈りを聞き、助けてくださるという信頼の言、感謝の言葉があります。

 詩人の願いは、「御名によって、わたしを救い、力強い御業によって、わたしを裁いてください」(3節)ということです。「御名」と「力強い御業」、「救い」と「裁き」を同じ意味合いで用いています。御名とは、神ご自身であり、人格的な力が働くことを示しています。

 ここで、「わたしを裁いてください」とは、「正当に判断(ジャッジ)してください、嫌疑を晴らしてください」ということですし、新改訳のように「わたしを弁護してください」という意味にもとれます。不当な裁判で苦しめられているということでしょうか。あるいは、裁判という手続きもないまま、乱暴に扱われているということでしょうか。

 5節に、詩人を苦しめる敵について、異邦の者、暴虐な者と記されています。「異邦の者」(ザーリーム)という言葉について、新改訳は「見知らぬ者」、フランシスコ会訳は「よそ者」と訳しています。神の律法を守らない者たちが詩人の命を狙っているということでしょう。また、彼らは、罠をもうけて詩人を陥れようとしてもいるようです(7節)。

 表題に、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」(2節)と記されています。即ち、ダビデの命を狙うサウル王、あるいはサウルにダビデのことを密告したジフ人のことを、異邦の者と呼んでいることになります。

 しかし、「ジフ人」とは、ヘブロンの南東5キロほどのところにある町に住むで、ダビデと同族のユダ部族に属する人々のことです。また、ダビデの命を狙っているサウル王は、勿論ユダヤ人であって、「異邦の者」ではありません。そのためでもあると思いますが、口語訳や岩波訳では、ザーリームを異読のゼイディームと読み替えて、「高ぶる者、傲慢な者」と訳しています。

 ジフ人がサウルに「ダビデが私たちのもとに隠れている」と話したときというのは、サムエル記上23章15節以下の出来事を指しています。ダビデは、サウル王から逃れている途中、ペリシテ人に襲われていたケイラの町を救いましたが(同23章1節以下、5節)、ケイラの町の人々はサウルがやって来れば、サウルに引き渡すという恩知らずな仕打ちをするというので(同9,12節)、ダビデはジフの荒れ野に逃れます。

 そのとき、ジフの町の人々がサウル王のもとに行き、「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」と告げ(同19節)、「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」と申し出ています(同20節)。ジフの人々は、上記の通りユダ部族ですし、ケイラの町もユダの地にあります。いうならば、ダビデは親戚の者から、その命を狙う者に売り渡されてしまっているわけです。

 その背景には、ノブの祭司アヒメレクが、ダビデに協力したという理由でお家断絶という仕打ちをサウル王から受けたという事件を上げることが出来ます(同21~22章)。つまり、ジフのホレシャの要害に隠れているダビデを、ジフの人々がかくまっていたという理由で滅ぼされてはかなわないので、サウルに塩を贈ることにしたのだろうと考えられます。

 サウル王だけでなく、親戚まで敵となったダビデが、その心境を詠ったのがこの詩ということになるわけです。そうであるならば、この詩を詠んだダビデ、さすがは信仰の人ということになります。親戚までもが敵となる、まさに四面楚歌の状況にありながら、冒頭の言葉(6節)のとおり、「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」と、信仰の告白をしています。この詩がマスキール(教訓詩)とされる所以です。

 5節で、「彼らは自分の前に神を置こうとしていない」と記していますから、それによってダビデは、自分の前に神を置いていると語っていることになります。16編8節に、「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」といっていました。それを口語訳は直訳的に、「わたしは常に主をわたしの前に置く」としています。

 それは、ダビデ自身が神を目の前に置くというよりも、神がいつも自分の前におられることに気づくということでしょう。いつも神が見えていたわけではありません。時には、神の姿が見えなくなります。失敗してしまうことがあります。苦しい状況に陥ると、神は本当におられるのかと思うこともあります。

 ダビデは、義父サウルから命をつけ狙われます。サウルはダビデの評判を妬み、王位を奪われることを恐れたのです。だから、ケイラの町を襲ったペリシテ軍討伐ではなく、ペリシテの襲撃からケイラの町を救ったダビデを狙ってサウルは軍を動かしました。どちらがイスラエルの王にふさわしいでしょうか。しかし、そのところで、ダビデはその恩を仇で返されるような目に遭いました。親戚から売られるという悲哀を味わったのです。

 ダビデは、そのような出来事を通じて、忍耐や従順を学びました。本心に立ち帰って、人間に頼るのではなく、生きておられる真の神に頼ることを学んだのです。ケイラの人々の裏切りと(サムエル記上23章1節以下)、ジフの人々の密告の出来事(同19節以下)の間に、サウルの子ヨナタンがダビデのもとに来て、神に頼るようにとダビデを励ましたという記事があります(同16~18節)。まさに、苦難の中にも、神の導きが与えられていたわけです。

 神は、御自分に頼る者、神を愛する者のためには、万事を益となるようにしてくださいます(ローマ書8章28節)。私たちの助け主、私たちを絶えず支えてくださる主を信じ、感謝と賛美を献げて歩みましょう。

 主よ、ダビデの信仰から、苦難によって祈ること、忍耐すること、主に希望を置くことを学びました。耐えられないような試練には遭わせ給わず、乗り越える道も備えてくださることを感謝します。絶えず祈りへ、賛美へと、御名のゆえに正しい道に導いてください。御言葉がこの身になりますように。 アーメン



9月23日(水) 詩編53編

「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」 詩編53編6節

 この詩は、詩編14編と非常によく似ています。細かく比較してみるのも、味わい深いものです。違いは二つです。

 一つは、14編で「主」(ヤハウェ)と記されている神の名が、すべて一般名詞の「神」(エロヒーム)とされています。これは、14編がヤハウェ(主)を讃える詩であるのに対し、53編は、42編から始まった詩編の第2巻に含まれるエロヒームを称える部類に属しているからと説明されます。

 ただ、世界に神がただお一人であられるのなら、固有名詞であろうが、一般名詞であろうが、何の問題もないということになるのかも知れません。けれども、神と呼ばれるものが八百万もある状況から、一般名詞よりも固有名詞の方がより明確であろうと思われます。

 十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という規定が問題になるなら、「わたしを呼べ」(53編15節、イザヤ55章6節、エレミヤ33章3節など)と言われる主に、どのように呼べばよいのかを尋ねるべきなのかも知れません。韓国人のように、「ハナニム(お一人様)」、「ハナニメ・アボジ(一人様なるお父様)」と呼ぶのも、一つの手でしょう。

 今一つは、冒頭の言葉(6節)です。14編のこの部分(5,6節)には、「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」と記されていました。これは、不法を行う者たちが、自分の利益のために貧しい人々を食い物にし、搾取しようとする抜け目ない企みは、神が彼らの避けどころとなられるために、挫折させられるということです。

 それが冒頭の言葉のように変えられたということになると、少々困惑させられます。「大いに恐れるがよい」と告げた後、「かつて、恐れたこともなかった者よ」というのであれば、それに続く言葉は14編と同様、神が貧しい者をお前たちの手から救い、そして、お前たちに裁きを下すといった内容のことが語られると期待されます。

 ところが、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」というのです。これでは、悪を為す者に向かって陣を敷き、攻撃しようとした者たちを神が殲滅して、彼らの名を挙げさせられたということになってしまいます。どう考えたらよいのでしょうか。

 新共同訳聖書が、「恐れたこともなかった者よ」と、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を」の間に空白を置き、段落を変えているのは、内容的に、ここに断絶があると考えているわけです。つまり、「大いに恐れるがよい」といわれている「悪を行う者」と、「あなた」と呼びかけられている者とは、別の存在だという解釈です。

 それは、悪を行う者が恐れなければならないのは、神が彼らを退け、滅ぼされ、その骨をまき散らされるからで、たとえば、3節の「目覚めた人、神を求める人」に対して「あなた」と呼びかけて、彼らのためには、神の守りが期待できるということを示していると読むわけです。

  そのことについて、この空白が、バビロン捕囚を示していると考えるのも、興味深い解釈でしょう。イスラエルの民は、神に背いた罪のゆえに国を失い、捕囚の憂き目を見ました。まさしく、神がイスラエルの上に、恐るべき事を為されたのです。だから、かつて恐れたこともなかった者よ、大いに恐れよと言われたわけです。

 けれどもそれは、イスラエルを滅ぼし尽くしてしまうためではありませんでした。彼らが悔い改めて神の御前に謙り、再び主の御名を呼び求めるように(エレミヤ書29章11節以下)、そうして、新しい契約をイスラエルの家、ユダの家と結ぶためです(同31章31節以下)。

 ただし、イスラエルの民が悔い改めたから、捕囚から解放されるというのではありません。神の憐れみによって、解放の恵みに与ったので、悔い改めて神に従う者となるのです。そのために、イスラエルを支配していたバビロンを退けてくださるということです。それゆえ、「目覚めた人、神を求める人」となりなさいと勧められているのです。

 主イエスが十字架で贖いの供え物として死んでくださったのも、私たちが悔い改めたからではありません。私たちは、「神などない」と言わんばかりに愚かなことを語り、悪を行っていた者です。そのような罪人の私たちのために、主イエスが十字架に死んでくださることで、私たちに対する愛を示して下さいました。敵対している私たちのために、その贖いの死によって、神と和解する道を開いてくださったのです(ローマ書5章8,10節)。

 放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たして帰って来た息子のために肥えた子牛を屠って祝宴を始めたという「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章11節以下、23,24節)のように、主イエスは私たちを父なる神のもとへ連れ帰ってくださり、親しく食卓を囲む交わりに迎えてくださいました。

 「神が御自分の民、囚われ人を連れ帰るとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」(7節)と言われるとおり、私たちはただ、主の御名を「ハレルヤ!」とほめ讃えるのみです。

 主よ、深い御愛を心から感謝致します。私たちが神の子とされるためにどれほどの御愛を頂いたことでしょうか。御独り子が十字架で血を流し、罪の呪いを一身に負い、贖いの業を成し遂げてくだったことを常に心に刻み、御名をほめ讃えさせてください。聖霊に満たされ、主の愛と恵みの証し人として用いてください。 アーメン



9月22日(火) 詩編52編

「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」 詩編52編10節

 52編は、まず悪事を働く者の破滅を語り(3~6節)、神が悪人を滅ぼされるのを見て神を畏れることを学び(7~9節)、神への信頼を告白し(10節)、感謝と賛美で閉じられます(11節)。

 表題に、「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき」(2節)とあります。これは、サウル王に命を狙われて逃げ出したダビデが、その途中、ノブの祭司アヒメレクのところへ行き、パンと剣を求めたという、サムエル記上21~22章の出来事を示しています。

 そのとき、アヒメレクのところに、サウルの家臣でエドム人のドエグがいました。ダビデがそこを去った後、ドエグはサウル王に、ダビデがアヒメレクのところに来て、食料と剣を受け取るのを見た、と報告しました。サウル王は、アヒメレクとその家の者を死罪とし、ドエグに討たせました。アヒメレクの息子アビアタル一人だけがただ一人、その難を逃れることが出来、ダビデにそのことを知らせたのです。

 3節の「力ある者」(ハ・ギッボール)とは、定冠詞付きの「権力者」という言葉ですから、この詩の編集者は、サウル王のことを念頭に置いているようです。ただ、6節の「人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む」という言葉から、ドエグのことを皮肉を込めて、「力ある者」と呼んでいると考えたのかも知れません。

 彼は悪を好み(5,6節)、神を頼まず、莫大な富に信頼する者です(9節)。つまり、人間の能力や資産を自分が生きる基盤としているのです。そして、その権力で社会秩序を破壊し、善を愛して正しく歩もうとする者、神を畏れ、依り頼む者を苦しめていたのでしょう。 
 
 7節で、「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き、命ある者の地から根こそぎにされる」と詩人は語っており、それは、最後に正義が勝つという宣言のようですが、現実はそのようには見えません。むしろ、悪の権力に圧倒されそうになっている者の、やせ我慢のようにさえ聞こえます。

 王の絶対的な力を背景として、破滅をもたらす「力ある者」の前に、根こそぎにされそうになっているのは、むしろ詩人の方なのです。9節に、「見よ、この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼす者を力と頼んでいた」とあり、神に従う者は神を畏れて、このような者を笑うというのですが、本当に笑えるでしょうか。
 
 確かに、富が命を保証しないことは知っています。けれども、私たちは本気で笑えるでしょうか。私は「莫大な富」など持ち合わせてはいませんが、しかし、銀行の預金残高を全く気にしないではいられません。残高がゼロになっても、主に依り頼んでいるから、何の心配もないとは言えません。

 主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」と言われたとき(マタイ福音書19章24節)、弟子たちは、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同25節)と反応しています。これは、自分の持ち物をすべて捨てて、永遠の命を求めるという人など、一人もいないということを表しています。

 誰も、自分の持ち物や行いをすべて主の御前に持ち出して、自分には永遠の命を得る資格がある、その権利があるとは言えないということです。永遠の命は、神の深い憐れみにより、恵みとして与えられるのです。パウロが、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ書2章8節)と記しているのは、そのことです。

 だから詩人は、冒頭の言葉(10節)のとおり、「わたしは生い茂るオリーブの木、神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます」というのです。オリーブの木が生い茂り、豊かに実を結ぶことが出来るのは、枝振りが立派だからではなく、日の光と水、そして土と養分があるからです。そこから離れて生きることは出来ません。詩人にとってそれは、神の家にとどまること、神の慈しみに依り頼むことなのです。

 ダビデが王として立てられ、どのような苦難からも守られたのは、神の慈しみがあったからです。もっとも、ダビデの時代に「神の家(=神殿)」はまだ存在していませんでした。彼の死後、息子ソロモンによって、神殿建築がなされたのです(列王記上6章)。ダビデにとっての「神の家」とは、神を礼拝するところを指していると考えたらよいでしょう。そこに主はおいでになるからです。ダビデの心には、罪赦され、贖われた者としての感謝と喜びがありました(32編1,2節)。

 詩人が神の家に留まることが出来るのは、神の慈しみのゆえであることを悟り、神の愛に信頼し、主の御名に希望を置いているからです(11節)。主こそ、希望の源であり、平和の源、救い主であられます(ローマ書15章13,33節)。

 私たちも恵みに主に依り頼み、その御名を呼び、希望と平安に満たされ、主に従う道をまっすぐに歩ませていただきましょう。
 
 主よ、私たちは御子キリストの贖いにより、罪赦され、神の子とされ、永遠の命に与りました。それは一方的な恵みです。自分の行いを御前に誇ることの出来る者はいません。ただ感謝と賛美をおささげするのみです。私たちの唇の実、賛美のいけにえをお受けください。いよいよ御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン



9月21日(月) 詩編51編

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」 詩編51編12,13節

 この詩は、受難週に読まれる七つの悔い改めの詩(6,32,38,51,102,130,143編)の一つです。

 この詩は、「神よ、わたしを憐れんでください」(3節)の願いで始まり、5節以下、その願いの理由を述べ、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください」(9節)から願いが再開されて、15節に、神の道を証しする誓いを立て、続く16,17節は、主を賛美するために、救い出してくれるようにと願っています。18,19節はその動機で、シオンの再建といけにえが再び受け入れられるという希望をもって(20,21節)閉じられます。

 表題に、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されています(2節)。これは、サムエル記下11~12章に記されている出来事です。6節と、サムエル記下11章27節、12章13節の言葉上のつながりから、そのような解釈が生まれたのでしょう。

 イスラエルの王ダビデが、自分の部下で勇士のヘト人ウリヤ(同23章39節参照)の妻バト・シェバと密かに関係を持ち、それで懐妊したことを知ると、それを誤魔化すためにあれこれと策を弄し、最後は戦死に見せかけて、夫ウリヤを殺してしまいます。それから、バト・シェバを自分の妻として迎えたのです。それは勿論、神の御心に適うことではありません。そこで神はダビデのもとに、預言者ナタンを遣わしました。

 ナタンは二人の男の話をします。一人は裕福、一人は貧しい男です。貧しい男は、唯一の財産である一匹の雌の小羊を娘のように可愛がっていました。裕福な男の家に来客があり、自分の羊や牛を屠るのを惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて客に振る舞ったという話です。それを聞いたダビデは激怒し、そんな無慈悲なことをした男は死罪だと、ナタンに言います。ナタンが、「その男はあなただ」と告げると、その言葉を聞いたダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と答えました。

 ダビデの振る舞いを見て、あらためて私たちの罪の問題を考えさせられます。それは、神の御前に出るまで、私たちは自分の罪の本質が分らないということです。ダビデは、ナタンの話の中の、裕福な男の無慈悲な振る舞いに激怒しました。しかし、ナタンに指摘されるまでは、それが自分のことだとは気づかなかったのです。

 部下の妻を取り上げ、そのために部下を殺したのは、自分の姦淫の罪が露呈することを恐れたためにやむを得ずしたことであり、それが無慈悲な行為だとは思っていなかったわけです。あるいは、一国の王として、自分がしたいように振る舞うのは当然だとさえ、考えていたのかも知れません。それほど極端ではなくても、私たちは自分の行為を自分の理屈で正当化して、罪を罪としないところがあると告白せざるを得ません。

 この詩の中で、ダビデは神の憐れみを求め、罪から清められることを願いました(3,4,9,11節)。そして、冒頭の言葉(12節)のとおり、「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(12節)と求めます。

 悔い改めといえば、「ごめんなさい。このような悪事は、もう二度としません。これからは、このようにします」ということが語られていそうですが、そういう言葉は、どこにもありません。ダビデは今、自分の罪深さに圧倒されているのです。6節で、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」というのは、他所では犯していないということではなく、自分の罪はすべて、神に対して犯したものだという告白なのです。

 7節の、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」というのは、「原罪」ともいうべき罪の性質を自分のうちに見出したという表現でしょうか。パウロが、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ書7章19,24節)と語っているのも、同じ消息です。

 このような罪の認識に自分の無力を思い知らされた詩人は、もし自分が生きる道があるとすれば、それは、虫が良すぎるけれども、勝手が過ぎるけれども、神の憐れみにすがり、「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて」いただくほかはないと悟ったのです。

 新しい心、新しい霊を授けるというのは、エレミヤ書24章7節、31章33節、32章39,40節、エゼキエル書36章25節以下にある約束を成就するようにという願いでしょう。「清い心」とは、神に背き、敵対する心が清められることにより、神に向かって開かれ、その導きに従う心、思いを示します。そして、「確かな霊」は、神に向かって整えられ、確かなものとされた思い、意志を示しているようです。 

 授けられた清い心、新しく確かな霊は、詩人に救いの喜びを味わわせ(14節)、恵みの御業を喜び歌わせます(16,17節)。それは、神の前に打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心です(19節)。主イエスは、私たちの罪のために刺し貫かれ、打ち砕かれました(イザヤ書53章5節)。だから、清い心、打ち砕かれた霊とは、主イエスを信じ、受け入れた人の心をいうのです。この詩編が受難週に読まれるのは、そのことを確認し続けるためなのです。

 主の福音の光に照らされて自分の罪を認め、主イエスを信じ、それを公に言い表して、心の内に主イエスの霊を授けていただきましょう。 

 主よ、この世には様々な悪が満ちています。そして、私もそれと無縁ではありません。罪が私を圧倒しています。私を洗ってください。私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。主イエスが私の内にあって生きておられると、告白し続けさせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行う者となりますように。 アーメン




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