風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年08月

8月15日(土) 詩編14編

「神を知らぬ者は心に言う。『神などはない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」 詩編14編1節

 表題に、「ダビデの詩」とありますが、編集者がこれをダビデの詩として収集したということです。編集者は、ダビデがいつこの詩を詠んだと考えているのでしょう。サウル王に追い回されているときでしょうか(サムエル記上18章以下)。あるいは、息子アブサロムに背かれたときでしょうか(サムエル記下15章以下)。

 冒頭の言葉(1節)で、「神を知らぬ者」と訳されているのは、「愚かな、無分別な」(ナーバール)という言葉で、口語訳、新改訳は、「愚かな者」と訳しています。サムエル記上25章に、頑固で行状の悪いならず者のナバルという人物が登場して来ますが、それが本名というより、その人物の言葉や振る舞いが愚かで無分別なものであるということを、その名で言い表しているわけです。

 ただ、ここでいう「愚かさ」とは、知能の低さや判断の鈍さなどというものではありません。「神などない」という人の中に、知能の高い人、賢い人が少なからずいるでしょう。むしろ彼らにとって、目に見えず、手で触れることもできない神に信頼するのは、愚かなことだと思えるでしょう。 

 箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」という言葉があります。ですから、聖書の信仰では、何が愚かといって神を畏れないこと、神に従わないこと以上に愚かなことはないと考えられているわけです。そこで新共同訳では、「ナーバール」を「神を知らぬ者」と意訳しているのでしょう。

 また、神はいると考えること、その存在を認めることが、神を知っていることにはなりません。すなわち、神を知ることとは、学問的、論理的に理解することではありません。人格的な信頼関係に入ることです。人格的な信頼関係とは、神の御言葉に耳を傾け、その導きに喜びをもって従うことです。

 ですから、神の存在を信じ、認めてはいても、その御言葉に耳を傾けようとせず、御言葉を聞いてもそれに従おうとしないのなら、それは結局、神を知らないに等しいことであり、愚かにも心の中で「神などはない」と言っているのと変わりはないということです。

 パウロが、大切なのは、バプテスマ(洗礼)を受けたかどうか、既にクリスチャンであるかどうかということではなく、常に愛によって信仰が働いているか、神の御言葉に従い、御心を求めて歩んでいるかということだと言いました(ガラテヤ書5章6節参照)。ヨハネも、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」と語っています(第一ヨハネ書2章4節)。

 そして、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(同3章23節)と言います。神を知る人、神との人格的な信頼関係に生きる人は、隣人との関係を大切にします。そうしない人は、神との信頼関係にも生きていない人であり、その人は偽り者で、その内に真理はないと言っているのです。

 詩人は、「神などいない」という言葉に続き、「善を行う者はいない」といい、それを3節で繰り返しています。この「善」(トーブ)についても、単に道徳的に、「善を行わない」と言っているのではなく、「目覚めた人、神を求める人はいないか」と探される主に応えず、神に背き去っていることを指して、善を行う者は一人もいないと言っているようです。

 4節の「悪を行う者」は、「主を呼び求めることをしない者」と言い換えられ、そして、「神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをおまえたちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」(5,6節)と言います。貧しく弱い者たちを抑圧すること、彼らが神に頼るのを愚かと笑うこと、それを「悪」として、神が彼らに報いられるというのです(5節参照)。 

 その時彼らは、神が貧しさ弱さの中にいて主に従い、主を避けどころとする人々と共におられることを知るでしょう。そして、主を避けどころとすることこそ、彼らの力であり、主に頼ることこそ、真の賢さであることを、畏れをもって悟るでしょう。 

 逆に、たとい人間の企みによって苦しめられることがあっても、その営みが破壊されるようなことがあっても、主の御名を呼び求めるとき、主が避けどころとなられ、救いの道を開いてくださるのです。

 そしてこの詩は、「イスラエルの救いがシオンから起こるように」(7節)という祈りで閉じられます。そして、目を未来へと転じ、「主がご自分の民、捕らわれ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」と、主が詩人の祈りに応えてくださること、それで救いを味わうことになると信じているようです。 

 イスラエルは繰り返し苦難を経験して来ました。最大の苦難は、バビロン捕囚でしょう。けれども、彼らはやがて解放のときを迎え、エルサレムの神殿と城壁を再建する導きを得ます(エズラ記、ネヘミヤ記参照)。新約時代、紀元70年にローマ帝国によって首都が陥落、ユダヤ人は亡国の民となりましたが、不思議な導きで1948年5月にイスラエルが再建されました。

 その後のイスラエルとパレスティナの争いを思うと、すべてを手放しで喜ぶわけにはいきませんが、しかし、悲しみを喜びに変えてくださり、憂える民に感謝の歌を与えてくださる神がおられるのです。

 私たちも、共におられ、心の内に宿っておられる十字架の主に信頼し、神と人に誠実な愛をもって仕える者にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちは深い憐れみによって神の子とされました。恵みに慣れ、当然のことのように勘違いし、御言葉に背いて罪を犯す者とならないように、神を知らぬ者のように振舞うことがありませんように。聖霊によって、絶えず私たちの心に神の愛を注いでください。苦難に押しつぶされず、主を避けどころとして、希望に生きることができますように。 アーメン





滝元明凱旋式・リバイバル感謝聖会

8月14日(金)14時から新城文化会館で、滝元明師の凱旋式とリバイバル感謝聖会が開かれた。
これは、7月上旬に癌が見つかり、余命半年と宣告されて、命は主のものと言われる先生が、日本のリバイバルを願って、ご自身が講壇に立つおつもりで開催を予定されたもの。
当初は新城キリスト教会で開催されるはずだった。
しかし、病状は私たちの思いを超えていて、8月1日(土)早朝、あっという間に天に召されてしまった。
感謝聖会に先生の凱旋式が加えられて開催されることになり、参加希望者が多くて教会堂に入りきらないということで、文化会館に会場が変更された。
1300人入る会館大ホールがいっぱいになる人出だった。

昼前に家を出て新城教会に向かい、そこに車を置いて、シャトルバスで会場に。
九州から藤野先生(嬉野教会)、浜中先生(福岡聖書教会)がおいでになっていた。
名古屋、福岡の知人の顔も見た。
席を探して前の方に行くと、びわこシャロームチャペルの桶田先生ご夫妻がみえて、隣に座らせていただいた。

平岡修治先生の司式で凱旋式が始まり、滝元先生の思い出がスライドショーで紹介された。
グロリアシンガーズ、米国トップミュージシャンたちの特別賛美、平岡先生によるメッセージで、主に栄光が帰された。

つづいて滝元開師が司式でリバイバル感謝聖会。
戦後70年の執り成しと悔い改めの祈りを、滝元望師がささげられる。
心揺さぶられた。
特別賛美の後、滝元明師のメッセージ。
甲子園ミッション二日目のメッセージビデオが会場に流れた。
その後、滝元順師が聖会メッセージ。
主の導き、恵みを覚える中、聖会終了。

甲子園ミッション大伝道集会のビデオを見ているとき、隣の桶田先生が、グランドの十字架ステージは、自分たちが徹夜で作ったもので、滝元先生の招きでたくさんの人がそこに上がってきたとき、潰れてしまうのではないかと本気で心配していたと言われる。
私も、招きに応えてそのステージに乗っていた。
潰れないでよかったが、神が集会を守ってくださったのだと思った。

新城教会に移動しておなかも満たし、夜7時ごろ帰途についた。


1970年、先生が40歳の時、全日本リバイバルクルセードを立ち上げ、4年後には、名古屋リバイバルクルセードを開催、名古屋周辺の百の教会が協力し、10日間に及ぶ伝道集会の講師を務められた。
そのときの協力関係が、東海福音フェローシップとして、今日に至っている。
1993年に甲子園球場で大集会を計画、有賀喜一先生を代表に迎え、11月5日から三日間、大伝道集会が開催された。
その後、全国各地でリバイバルミッションを開催、米国ハワイ、韓国と海外にもミッションが広げられていった。
武道館以来、米国のトップミュージシャンのロン・ブラウンが滝元先生の働きに強力、滝元明ミニストリーとして、全国各地の教会を巡回伝道を展開、それは、召される直前まで続けられていた。

先生のリバイバルにかける情熱、その行動力には、とことん頭が下がる。
そして、その思いが順先生、望先生、開先生など、個性的な第二世代のリーダーに引き継がれ、大きく広げられている。
第三世代も、活躍の場を拡げてきている。
滝元先生が見たいと願っていたリバイバルの日は遠くないと思う。


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35年前に建てられた新城教会の会堂は、今も白く輝いている。
200人がゆっくり座れる礼拝堂、講壇に立てられた十字架を正面に見る。
新城教会2階の牧師室(滝元先生の執務室)が記念ルームになっていた。
この机で、リバイバルを祈り、神様のメッセージを受け止めておられたのだと思い、器は違いすぎて話にならないが、爪の垢を煎じて飲ませていただきたいと思った。



クリスチャン・トゥデイに凱旋式・感謝聖会の記事がありました。
ご覧になってください。
URL http://www.christiantoday.co.jp/articles/16826/20150817/takimoto-akira-revival-thanks-celevration.htm













8月14日(金) 詩編13編

「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います。『主はわたしに報いてくださった』と。」 詩編13編6節

 13編は、詩編中で最も短い「救いを求める祈り」の詩です。

 2,3節に、「いつまで」という言葉が4度出て来ます。その繰り返しに、激しい苦しみが続いていて、忍耐の限界にあることが示されます。原文では、「わたしを忘れておられるのか」(2節)のあとに、「永遠に」(ネイツァー)という言葉があります。口語訳は「とこしえに」、新改訳は「永久に」と訳出しています。まさに、詩人には、苦しみが永遠に続くように感じられているわけです。

 敵に苦しめられているようですが(3,5節)、それは外敵でしょうか。国内の政敵という存在でしょうか。それとも、病魔のようなものでしょうか。いずれにせよ、自分を永遠に苦しめる敵の前で、自分の命が風前の灯のように感じられているのでしょう。

 特に、詩人の心を暗くしていたのは、自分を苦しめる敵の存在もさることながら、神が自分を「永遠に」忘れておられるかのように、そうでなければ、御顔を隠して、詩人を顧みてくださらないことでした(2節)。そこで、詩人のうちに思い煩いが生じます。神の答えがない故に詩人の嘆きは去らず、一方敵は勝ち誇るのです(3節)。このままでは、祈っても無駄、祈るのをやめようかとさえ考える危機に陥りそうです。

 そこで詩人は、「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください」(4節)と訴えます。目の光についての言及は、サムエル記上14章27,29節、詩編19編9節、38編11節、エズラ記9章8節などにもあり、それらは、生命力を象徴しています。ここでも、「目に光を与えてください、死の眠りに就くことのないように」(4節)と祈り求めています。

 それはしかし、ただ寿命を延ばしてくださいということではありません。それでは、単に苦しみが長く続くだけです。詩人は、光がほしい、明るさがほしいと願っているのです。今、自分の中に光を見出すことが出来ません。闇の中にいるのです。それは、光なる神の御顔が隠されているからです。

 主イエスが、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」と言われました(マタイ福音書6章22,23節)。全身の明るさが、目が澄んでいるか、濁っているかで左右されるわけです。

 これは、その目が何を見ているのか、ということが問題になっているのです。目が澄んでくるものを見ているのか、それとも目を濁らせるものを見つめているのかということです。前後の文脈によれば、私たちが富を追い求めているときに目が濁り(同19節)、何よりもまず神の国と神の義を求める者は、目が澄んで全身が明るく照らされてるのです(同33節)。

 パウロも、「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように」(エフェソ書1章17,18節)と祈り、続けて、「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(18節)という願いを記しています。

 キリストに逆らって迫害をしていたとき、彼はその栄光を見ることが出来ませんでした。心に光がなかったからです。しかし、復活されたキリストの光を受けました。主イエスの御顔に輝く神の栄光に目が開かれたのです(第二コリント書4章6節)。

 祈りは、冒頭の言葉(6節)の通り、信頼と希望の言葉をもって閉じられます。主への信頼は、「あなたの慈しみに依り頼みます」という告白に言い表されます。主の「慈しみ」(ヘセド)は、私たちに対する不変の愛です。希望は、主が詩人の祈りに報いてくださった故に、賛美を捧げるという約束において表明されています。

 ここで、「報いる」(ガーマル)という言葉は、「報酬を与える、気前よく分け与える」という意味のほかに、「乳離れする、成熟する」という意味もあります。神の恵みの豊かさと共に、苦難を通してさらに信仰から信仰へと進ませ、成熟させてくださったという喜びが表現されていると解釈することが出来ます。

 苦難から逃れさせてくださるというだけでなく、その苦難を通して成長させてくださる主をたたえて、すべてが神の慈しみであったと悟ることが出来るというわけです。それも、「主よ」と呼ぶことにおいて、その悩みを訴え、救いを求めて祈ることを通して、祈りが答えられる恵みに与るのです。

 創世記1章2節に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあり、神が言葉を発せられると、そこに光をはじめとして(同3節)、そしてすべての被造物が、神の御心のままに創造されました。

 私たちの苦難の闇の中で、どう祈ってよいか分からないとき、聖霊がそこに介入し(ローマ書8章26節)、三位一体なる神が、万事を益となるよう、私たちのため、私たちと共に働いてくださるのです。

 私たちも慈しみ深き主に従って歩み、絶えず唇の実を主にささげたいと思います。

 主よ、思いがけないときに,思いがけないことで災難に見舞われることがあります。病気や事件、事故、災害など、どんなことでも、どんな時にも、絶えずあなたに目を向け、主を求めて、その恵みに与ることが出来ますように。そのために、心の耳と目をインマヌエルの主に向かって開かせてくださいますように。 アーメン




8月13日(木) 詩編12編

「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。」 詩編12編7節

 表題に、「第八調」とあります。これは音楽用語のオクターブを表わす言葉と考えられています。新改訳では、8弦の竪琴による伴奏と訳しています。岩波訳には、「正確な意味は不明。最低の音調を表す音楽用語か」という注釈がつけられています。指揮者に伴奏者もいて歌う詞ということであれば、その調子は明るく力強いものだったのかも知れませんね。

 2節に、「主よ、お救いください」という祈りが記されています。その言葉に続き、「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました」(2節)という哀歌が歌われ、そして、「主に逆らう者は勝手に振る舞います、人の子らの中に卑しむべきことがもてはやされるこのとき」(9節)という哀歌で閉じられます。至る所に悪がはびこってしまっているということです。

 その悪をすべて滅ぼしてほしいと願い(4節)、その悪について、「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心を持って話します」(3節)、「滑らかな唇と威張って語る舌」(4節)と告げ、そして、悪人の「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」(5節)という発言を記します。 

 弱い者には居丈高になり、強い者にはへつらう。語る言葉と心に思うことが違う二心。言葉による粉飾といえばよいでしょうか。その自信過剰な語り口は、神を無視し、他者を踏みつけにする悪人の振る舞いを自ら表明しています。 

 悪人の発言に対し、「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」(6節)と語られた主の御言葉が記されています。そして、この御言葉を聴いた詩人は、冒頭の言葉(7節)の通り、「主の仰せは清い。土の炉で七度練り清めた銀」と応答の歌を歌います。主の御言葉の確かさを、この言葉をもってアーメンとたたえているのです。

 御言葉の確かさ、真実さは、「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します」という3節の言葉と好対照です。「土の炉で七たび練り清めた」とは比喩的な表現ですが、詩人が苦しみ呻き、嘆き悲しむたびに、「救いを与えよう」という主の御言葉が真実だったという経験をしたということではないでしょうか。繰り返し、神の御言葉、その約束の確かさを味わったわけです。

 何度も神の御言葉の確かさを味わうということは、何度も苦しみを経験したということでしょう。そしてその都度、神の御言葉を信頼し、御言葉に従うかどうか、選択を迫られたということでしょう。そう考えると、苦しみを通して神の御言葉の確かさを味わうということは、逆に苦しみを通して私たちの信仰が試されるということでもあるわけです。私たちが主なる神を見ているだけでなく、主なる神も私たちを見ておられるのです。

 カトリック教会の「心のともしび」という番組に、「心の糧」というコーナーがあります。それは、多くのカトリック信者が、自らの心の糧について原稿を書き、それをナレーターが朗読するというものです。その一人に、三宮麻由子さんという方がいます。

 三宮さんは4歳の時に病気で失明されましたが、上智大学フランス文学科卒業、同大学院博士前期課程を修了し、現在、外資系の通信社に勤務しながら、エッセイストとして活躍しておられます。2001年に執筆した「そっと耳を澄ませば」が日本エッセイストクラブ賞、09年には点字毎日文化賞を受賞されました。

 以前彼女が、渓谷にオオルリという鳥が生息して、川のせせらぎと共にこの鳥の鳴き声が足下から聞こえてくると、その谷の深さを知ることが出来るし、また、クロツグミという鳥は、少し開けた畑のようなところにいる鳥で、山に向かって歩いているときに前方の少し高いところから鳴き声が聞こえたら、そのあたりまではこのまま歩いていくことが出来る、そこから先には山があるということが分かる、と話しておられました。

 そうして、三宮さんは、目が見えなくなったからこそ、真剣に鳥の声を聞き、自然の音の景色を味わうことが出来るようになった、これが見えなくなったことの恩恵だと言われていました。見えないということを誰もが恩恵と受け止められるわけではありません。いつでもそのように思えるというわけでもないでしょう。

 しかし、確かに耳を開くということが、真剣に耳を傾けるということが、それまで分からなかった新しい恵みの世界を開くということを、そこに示されます。

 闇という漢字は、門構えに音と書きます。闇なのに、光などではなく、音とはどういうことでしょうか。闇とは光がないのではなく、隣人の声が聞こえないことではないでしょうか。確かに、誰の声も聞こえないというのは、孤独の闇の中にいるということでしょう。

 けれども、音の門が開く、他者の声が聞こえるようになるとき、今まで閉ざされていた、否、知らずに自分で閉ざしていた恵みの世界、新しい光の門が開かれるということではないでしょうか。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩編119編130節)という御言葉もあります。

 主の御言葉を祈り深く聴き、その恵みを自分が受けるだけでなく、周りの方々とも分かち合いましょう。外の光に惑わされず、しっかりと御言葉に耳を開き、自分の課題、問題に御言葉の光を当てることができるように、その確かさ、真実さを味わわせて頂きましょう。

 主よ、私たちは偽る者ですが、あなたは常に真実です。その御言葉に真理があり、命があります。あなたに依り頼む私たちに、御言葉の真実を教えてください。朝毎に、御言葉に耳を傾けます。土の炉で七度までも練り清められた銀のような、真実な御言葉の恵みを、いつも味わわせてください。御名が崇められますように。 アーメン




8月12日(水) 詩編11編

「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。」 詩編11編4節

 1節に、「主を、わたしは避けどころとしている」と記されています。原文でも、「主」という言葉が冒頭にあります。わたしは主を信じる、主に依り頼む、主のみもと以外にわたしの避けどころはない、という信仰の表明です。

 これは、平時に語られた言葉ではありません。「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」(1~3節)という友らの言葉に対して、詩人が答えた言葉なのです。

 「山へ逃がれよ」というのは、ソドムにいたロトとその家族に御使いが、町に下る罰の巻き添えにならないよう、低地のどこにもとどまらず、山へ逃げなさいといった出来事(創世記19章1節以下、17節)や、終末の徴について語られていた主イエスが、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(マルコ13章1節以下、14節)と語られたことなどを連想します。

 このとき、詩人はそのような危機に直面していたわけです。主に逆らう者は、弓に矢をつがえ、闇に紛れて心のまっすぐな人の命を狙っています。「世の秩序が覆っているのに」(4節)で、「秩序」(シェート)は、「拠り所、土台、支え」という言葉です。心のまっすぐな人の拠り所、支えは、主の賜る平和、平安でしょう。それが覆ったということは、暴力と不正が蔓延しているということになります。

 そのように、正義が不義によって脅かされているときに、どのように振る舞うかということが問われています。詩人は、鳥のように山に逃れる代わりに、自分の信仰を宣言しているわけです(1節)。

 詩人は、この信仰に基づき、自分が避けどころとする主とはどのようなお方なのか、4節以下で紹介しています。まず、冒頭の言葉(4節)のとおり、主なる神は聖なる宮、天に御座を置いておられる真の神です。そして、そのお方は、ひとり天において孤高を保っておられるのではありません。「御目は人の子らを見渡し」(4節)とあるように、神はその眼差しを私たちに向けておられるのです。

 ここで、「見渡し」(原語:ハーザー)というのは、「見る、予見する、知覚する、見て取る、預言する」という意味で、新改訳聖書は、「見通す」と訳しています。外見だけでなく心までも見られる神が、よくよく目を凝らして注視しておられると解釈すればよいでしょうか。

 「山に逃げよ」と勧告した友は、神ではなく、敵の姿を見ています。敵が闇に紛れて矢を番え、狙いをつけているのを見て詩人に忠告しました。けれども、詩人は、自分に注目していてくださる主なる神に目を上げたのです。このように、何を見ているか、何に目を向けているかということで、その人がどこに立っているか、ということが示されます。

 ということは、「そのまぶたは人の子らを調べる」と言われていることから、神は、私たちが何に目を向けているか、何に信頼して立っているか、敵の姿や困難な問題を通して調べられるとも言うことが出来そうです。ヨブが苦しみを経験したのも、そういうことだったのかもしれません。アブラハムに、「長子を全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたあの無理難題も、そうでしょう(創世記22章参照)。

 私はこの試験に合格する自信はありません。正直に言えば、ペトロのように主を否み、山に逃げ出すことでしょう。また、ヨナのように舟に乗り込み、ニネベとは反対の方へ逃げ出すかも知れません。けれども、そのような弱い私にも、主は眼差しを向けておられます。

 三度否んだペトロを見つめられたあの主イエスの眼差しです(ルカ福音書22章61節)。それは、「そら見ろ、前もって言っておいたとおり、やっぱり裏切っただろう、わたしは嘘を言わないのだ」というような目ではなく、「信仰が無くならないよう、あなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22章32節参照)という、愛と恵みに満ち溢れた眼差しでしょう。

 その眼差しに支えられ、励まされてペトロは再び立ち上がることが出来ました。主はその眼差しを私たちにも向け、弱い私たちを労わり、励ましてくださっているのです。だからこそ詩人は、「主を、わたしは避けどころとしている」と言うのです。

 御目をもって私たちを見通しておられる主の憐れみに依り頼み、愛をもって「恵みの業」なる「正義」(ツェダカー)を実現される主の御言葉に従って、日々歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちは自分一人でしっかりと立っていることは出来ません。常にあなたの助けを必要としています。問題に遭遇するたびに主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、主の導きに従うことが出来ますように。恵みと導きが絶えず豊かにありますように。 アーメン




8月11日(火) 詩編10編

「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」 詩編10編12節

 1節に、「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」とあります。「苦難」(バッツァーラー)は、「飢饉、貧困」という意味の言葉が用いられています。旱魃などによって実りがなく、苦しい生活を強いられている小作農が、それにも拘わらず、地主に小作料を納めるように責められて、一切のものを失おうとしている状況を思い浮かべてみればよいでしょう。

 どんなに願っても雨が降らず、収穫に与ることが出来ないため、貧しい小作農たちは、その貧困から逃れるすべがありません。そのように、問題が自分に押し迫り、一切を飲み尽くそうとしています。しかし、それを押し返すだけの力が、自分にはありません。

 そのとき、神の姿はとても小さいものになっています。時には、本当に神はおられるのだろうかと、その存在を疑わしく思うほどになります。押し迫る問題が自分の心の中であまりにも大きくなり、問題の向こうに神が隠れてしまうのです。だから詩人は、「なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と叫び、訴えているわけです。

 3節で、「主をたたえながら、侮っている」というのは、「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」(イザヤ書29章13節)という預言者の言葉を思い起こさせます。「たたえる」(バーラフ)を、口語訳、新改訳は「呪う」と訳しています。神の名を用いながら貪欲に貧しい者から搾取するのは、神を侮り、神を呪うような振る舞いだという解釈なのでしょう。 

 彼らは、主の裁きは「あまりにも高い」から、自分たちには影響がないとうそぶいて(5,6節)、「口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠す」(7節)のです。

 唇や舌による悪について、ローマ書3章の「正しい者はいない」という段落で、悪行のリストが提示されている中に、「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち」(同3章13,14節)という言葉をパウロは記しています。言葉による悪、罪に無縁の者はいないということでしょう。

 さらに、神に逆らう者たちは、貧しい人、不運な人に襲いかかります。彼らは罪もない人を殺し、しかし、自分たちに罪がないように振る舞います(8節以下)。そのような状況の中で、貧しい人々は、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と、絶望の淵にうずくまっています(11節)。

 詩人はこのように、貧しい人々、不運な人々の苦境を主に訴えて、冒頭の言葉(12節)の通り、 「立ち上がってください、主よ。・・貧しい人を忘れないでください」と執り成し祈ります。

 「立ち上がってください」(クーマー)は、民数記10章35節に、「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように」とあり、主の箱が出発するときに、モーセはこう言ったというのですが(同34節)、これは、荒れ野を移動するときというより、神の箱を携えて出陣するときの言葉のようです。詩編3編8節、17編13節、35編2節、44編27節などの用法も、それを支持します。 

 詩人は、主は必ず自分の祈りに答え、立ち上がってくださると確信しているようです。だから、「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう」(13節)と語り、「あなたは必ずご覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます」(14節)と、信仰によって宣言しています。

 詩人にとって、「不運な人」(ヘーレカー:口語訳は「寄るべなき人」)は、単にアンラッキー、不幸な人というのではありません。神の御前に立って訴える権利も資格もないことを知っている貧しい人ですが、だから、自分を苦しめる権力者によって与えられている苦痛をありのまま神に訴え、すべてを神の御手に委ねるほかない人なのです(14節後半)。

 嵐の夜、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、眠っておられた主イエスを起こして訴えたペトロのように(マルコ福音書4章38節)、また、霊に取りつかれた子どもを主イエスのもとに連れてきた父親が、「信じます、信仰のないわたしをお助けください」と、憐れみを求めて自らの心を開いたようにです(同9章24節)。

 主イエスは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6章20節)と 仰いました。貧しい人に神の国が与えられるのは、百パーセント神の恵みです。そこにしか頼るものがない、そこにしか避けどころを持ち得ない人々の信頼と希望を裏切られはしないのです。

 あらためて、「不運な人はその手に陥り、倒れ、うずくまり、心に思う、『神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない』と」(10,11節)というのは、私たちの罪の呪いを一身に負って十字架に死なれた主イエスの姿そのもののようです。

 主イエスは、この虐げられ、苦しめられている貧しい人、不運な人の傍らに共におられ、その運命をご自身のこととして引き受け、そして、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と、私たちに替わり、十字架の上で父なる神に叫んで訴えられたのです。

 そして、父なる神は、主イエスを陰府に捨て置かれはしませんでした。三日目に甦らせ、そうしてご自分の右の座に着かせられたのです。今私たちは、主イエスを信じる信仰によって神の子とされ(ヨハネ福音書1章12節)、主イエスとともに座に着くことが許されています(エフェソ書2章6節など)。

 あらゆる問題を主のもとに持ち出しましょう。訴えましょう。神のもとに助けがあることを信じ、主を待ち望みましょう。苦しみの中にある方々のために、執り成し祈りましょう。

 主よ、多くの方々が自然災害の犠牲となり、その苦しみが続いています。また、人の愛のない業によって傷つき、苦しめられている人が大勢います。どうか主の癒しと助けがありますように。日々、その生活を顧みてください。主の恵みを信じます。憐れみを信じます。 アーメン




8月10日(月) 詩編9編

「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう。」 詩編9編1節

 9,10編は、もとは一つの詩だったと考えられています。それは、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)でこの二つを一つの詩としているからです。そういわれてみると、10編には、表題がありません。

 また、新共同訳聖書は、9,10編が「アルファベットによる詩」であると紹介しています。これは、9編は偶数節、10編は奇数節の冒頭の文字が、いわゆる「いろは歌」の形式(ヘブライ語のアルファベットの順番)に並べられており、9,10編両方あわせると、アルファベットによる詩が完成するという構成になっています。

 ヘブライ語のアルファベットは22文字で出来ています。アルファベット22文字が、1節おきの冒頭の文字として順番に並ぶように詩を作るというのは、一つの技巧ですが、これは、詩を覚えやすくするという利点があると共に、言葉を尽くして神に感謝と賛美をささげ、あるいは祈りと願いをささげるという信仰のあらわれではないかと思います。

 これらが、二つの詩が一つのものだったとされる根拠ですが、それがなぜ二つに分けられたのか、理由を明確にすることは、容易ではありません。おそらく、その内容が、二つに分けられるからだろうと思われます。

 表題に、「ムトラベンに合わせて」とあります。ムトラベンとは、「息子のために死ね」という意味ですが、もう一つ意味不明です。詩編の編纂当時、このような歌詞で歌い始められる歌があって、その旋律に乗せてこの詩を朗読したということなのでしょう。

 詩のはじめには感謝の言葉、賛美の言葉が記されていますが、14節、20節を見ると、詩人は苦しみに直面していることが分かります。その苦しみは、詩人を憎む敵によってもたらされています。敵は、「異邦の民」(6,16,18,20,21節)です。

 10節に、「虐げられている人に、主が砦の塔となってくださるように」と記されていますから、詩人は、異邦の民によって虐げられ、苦められているわけです。「憐れんでください、主よ」(14節)と言い、「御覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを」と言っていますので、この苦しみは既に過去のものとなった、ということではありません。今もなお、苦しみの現実の中にあるのです。

 そして、自分でその現実を変えることが出来ないのです。敵を打ち破ることが出来ないのです。その力がないのです。助けが必要なのです。神の憐れみがなければ、弱り果てて死の門をくぐってしまうかも知れない(14節)、というような現実の中に生きているのです。

 であれば、なぜ詩人は1節で、「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう」と語っているのでしょうか。これは、ただ単に、神が敵を打ち倒し、裁いてくださったから感謝するという言葉ではないのです。むしろ、誓いの言葉、信仰の告白、宣言といった方がよいと思います。

 つまり、自分が置かれている現実がいかなるものであっても、絶えず神を喜び、誇り、「御顔を向けられて敵は退き、倒れて、滅び去った」(4節)と御名をほめ歌おうというのです。それは、神は御座におられて、私たちのために「正しく裁き、わたしの訴えを取り上げて裁いていてくださる」(5節)と信じているからです。神は私たちの賛美を、感謝を喜び受けとめてくださいますが、この賛美は、詩人の信仰の賛美なのです。

 12節で、「シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ」と賛美の声を上げるのも、「主は流された血に心を留めて、それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」(13節)という過去の経験に基づく信仰があるからです。

 14節で、「憐れんでください、主よ」、「ご覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを」と、救いを求める祈りが記されていますが、続く15節には、「おとめシオンの城門であなたの賛美をひとつひとつ物語り、御救いに喜び躍ることができますように」と、賛美の誓いを立てています。

 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ書11章6節)とあるとおり、敵を滅ぼされる前から、いまだその虐げの中に、苦難の中にあっても、神は必ずそうしてくださると信じて、神を賛美しているのです。

 しかも、「心を尽くして」主に感謝をささげ、驚くべき御業を「すべて」語り伝えようと言います。中途半端ではないのです。要領よく、口先だけで、というのではありません。彼の人生、心も思いもすべて神にささげ、感謝と証しの生活をするということです。主が私たちに求めておられるのは、まさに「感謝と証しの生活をせよ」ということではありませんか。

 使徒パウロも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」 (第一テサロニケ5章16~18節)と語っています。それは、私たちの努力や決断などで実現できることではありません。キリスト・イエスの助け、聖霊の導きがあってはじめて可能になることです。

 日ごとに主を仰ぎましょう。御言葉に耳を傾けましょう。御霊の導きを待ち望みましょう。そうして、心から、主を賛美いたしましょう。 

 主よ、東日本大震災から既に4年5ヶ月が経過しようとしています。未だに仮設住宅で暮らさざるを得ない人々がいます。復興の道筋も立たない人々が大勢います。どうぞ憐れんでください。助けてください。しかし、夜は夜もすがら泣き悲しんでも、喜びの朝を迎えさせてくださると信じていますから、私たちも心を尽くして主に感謝をささげ、その驚くべき御業をすべて語り伝えます。御名が崇められますように。御心がなりますように。 アーメン




8月9日(日) 詩編8編

「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」 詩編8編5節

 8編には、「指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩」という表題がつけられています。詩編の中で最初に登場した「賛歌」です。

 「ギティト」について、81編1節、84編1節にもあり、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)は、ガト(ぶどう搾り)と関連させて、「ぶどう搾りの歌」と訳しています。これは、この詩を歌う時のメロディーを表しているのではないかと考えられます。そしてそれは、喜び溢れるものではないかと、想像されます。

 詩人は、創造の主なる神をたたえ、「あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」と賛美の歌を歌います(2,10節)。詩の最初と最後に同じ感嘆文が記されているのは、天地万物を創造し、御手の内にすべてのものを統べ治めておられる神の威光をたたえる詩人の思いが、詩の初めから終わりまで、その全体を貫き、支えているのです。

 天に輝く神の威光を、幼子、乳飲み子の口によってたたえるというのは(2,3節)、全宇宙の支配者なる神を幼子、乳飲み子がたたえるということで、すべての人が神をたたえるべきだといっているのです。

 3節後半の意味はよく分か。らないところですが、前半とのつながりの中で、幼子の賛美が報復する敵のための砦となり、彼らを絶ち滅ぼすということでしょう。それは、エリコの町の堅固な城壁を崩すのに、町の周囲を一日一周、7日目は7周し、そして角笛を吹く、遭わせて鬨の声を上げるという方法が用いられた(ヨシュア記6章1~5節)という出来事を思い起こさせます。

 さらに、夜空を仰いで、それを神の「指の業」と呼び、「月も、星も、あなたが配置なさったもの」と、壮大かつ繊細な美しさを見て、神を賛美しています(4節)。

 この広大な大自然、全宇宙に比較すれば、人間はどんなにちっぽけな存在でしょうか。しかし、詩人はここで、自分の小ささを嘆いたり呟いたりしているわけではありません。そうではなく、この広大な天地万物を創造された神が、冒頭の言葉(5節)のとおり、自分のような小さな存在にさえも目を留め、顧みておられることに気がつき、驚いているのです。

 私たちは、心ふさがれるとき、空を仰ぐことなど忘れています。けれども神は、空を見上げてごらん、星の数を数えてごらんと、私たちを外へ招かれます。

 信仰の父アブラハムがそうでした(創世記15章を参照)。神の御言葉に従って約束の地には着きましたが(同12章)、年老いてなお跡継ぎがなく、甥のロトとも分かれて生活するようになってしまいました(同13章)。仕方なく、財産は執事に譲るつもりでした(同15章2節)。そのとき、主なる神が彼を外に連れ出して天を仰がせ、星を数えさせました。そして、その星の数ほどに子孫が増える、と言われたのです(同5節)。

 それは、人間的に考えるならば、絶対不可能なことでした。しかし、アブラハムは、神を信じ、その御言葉を受け入れました。アブラハムの目には、その星一つ一つが、自分の子孫の顔に見えたのかもしれません。それによって、どんなに力が、喜びが湧いてきたことでしょう。希望が、勇気が与えられたことでしょうか。

 「あなたが御心に留めてくださるとは、人間とは何ものなのでしょう」(5節)と語られているということは、神が自分のことなど心に留めておられるはずはないと,詩人は考えていたのでしょう。ということは、自分の辛い身の上、運命を嘆いていたのかもしれません。山のように大きな問題の前で、無力な自分を悲しんでいたのかもしれません。生きる気力を失って、うずくまっていたのかもしれません。

 そんな時、神が自分に目を留めてくださっていること、顧みていてくださることに気づいたのでしょう。「目を留める」、「顧みる」というのは、神に造られた人が有限の存在であり、数々の失敗、過ちを犯す弱いものであること、します。神が目を留め、顧みてくださることなしに生きることが出来ないものであることを示す言葉といってよいでしょう。

 しかるに、天地万物の創造者なる神は、すべての被造物を治めるよう、人にその権限を授けられました(6節以下)。これは、創世記1章26~30節、2章15~25節に基づく考え方です。「神に僅か劣るもの」とは、人が神のかたちに造られたということからの発想なのでしょう。神との対比というよりも、被造物に対して、人は神から遣わされた者としての使命を果たすのです。

 5~7節の言葉が,ヘブライ書2章6節以下に引用されています。そこでは、「人間、人の子」とは、御子イエスのことであると解釈されています(同9節)。主イエスは、インマヌエル、メシヤ=キリスト、神の独り子、救い主、主など、様々な称号で呼ばれています。しかし、主イエスご自身は、ご自分のことを「人の子」と呼ばれていました。これは、神の御子が完全な人間となられたということを表しています。

 そして主イエスは、私たちのすべての罪を背負われ、身代わりに十字架で死んでくださいました。その命をもって罪の贖いを成し遂げてくださったのです。父なる神は、主イエスを三日目に甦らせ、天に迎えて、御座の右に座らせなさいました。それが、「御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(7節)と語られている内容です。

 詩人は、天体を見て大自然に感動したのではなく、天地万物を造られた神がキリスト・イエスを通して贖いの御業を完成してくださったのを見ることが出来た、その恵みを確かに味わうことが出来たので、感嘆の声を上げたということではないでしょうか。それゆえ、高らかに主を賛美するのです。「歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ! 歌いつつ歩まん、この世の旅路を♪」(聖歌498番)。

 主よ、私たちは何ものでもありませんが、御子キリストの贖いによって神の子としていただきました。それは驚くべきこと、まさにアメイジング・グレイスです。御名を賛美します。私たちの内に今も生きておられるキリストと共に、賛美と感謝をもって日々を歩ませていただきます。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン


長崎平和宣言

長 崎 平 和 宣 言



 昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。

 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを一日たりとも忘れることはできません。



 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省のなかから生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。

 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。



 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、そして核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障を核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。



 この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔き続けます。

 また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。



 現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。

                

2015年(平成27年)8月9日

長崎市長  田上 富久



 70年前、悲惨な敗戦を経験し、その上、むごい原爆の被害を受けた長崎、広島の人々とともに、他国の人々の命と財産を奪い合う愚かな戦争は二度としないと誓いを新たにし、原爆だけでなく、平和利用であっても被爆者を生み出してしまう核を全廃する仕組みを世界中で作り上げるため、英知を集めたい。そのために、身を粉にして働く日本であってほしいと願う。






8月8日(土) 詩編7編

「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます。」 詩編7編10節

 7編には、「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」という表題がつけられています。「シガヨン」について、ここだけ(ハバクク書3章1節に、複数形のシグヨノト)に現れた意味不明の言葉です。岩波訳の註によれば、「激情的な哀歌」、「陶酔の詩」、「無知のため」などとする試訳があるそうです。

 そして、作詩の状況について、「ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」と説明しています。「ベニヤミン人クシュ」なる人物は、聖書のどこにも登場しません。8節以下に、「諸国を」、「諸国の民を」という言葉が出て来ることもあり、クシュとは、エチオピア出身ということかも知れません。異邦人が、ベニヤミン族に受け入れられて、クシュの名で呼ばれていたのでしょうか。

 そしてまた、「ベニヤミン人」でダビデを苦しませた敵といえば、サウル王が思い出されます。たとえば、サウル王が部下のクシュなる人物を使ってダビデを苦しませていたという状況設定のもと、ダビデが主に向かって歌う嘆きの歌を作詩したという想定になっているのでしょう。

 この詩は、敵からの解放を願う祈りです。2節に、「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください」と言います。「あなたを避けどころとします」は、原文を直訳すると、「あなたの中に避難します」(ベハー・ハーシーティー)で、悪天候を避けるとか敵から逃れるという意味で用いられる言葉ですが、ここでは、主に対する信頼を表す言葉となっています。

 不安や恐れの中で主への信仰を言い表すこの表現は、詩編の中に繰り返し用いられています(11編1節、16編1節、25編20節、31編2節、46編2節、61編4節、62編7,8節、71編1節、94編22節、141編8節、142編6節など)。

 詩人は、獲物を狙う獅子のように執拗に追い迫る敵から、救ってくださいと求めています(2,3節)。そのとき、主なる神以外に、その獅子の爪と牙から救い出してくれるものはいないというのです。

 そして4節以下に、「もしわたしがこのようなことをしたなら、わたしの手に不正があり、仲間に災いをこうむらせ、敵をいたずらに見逃したなら、敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき、わたしの命を地に踏みにじり、わたしの誉れを塵に伏させても当然です」と言っています。

 ここで詩人は、不正をなして、「仲間」(ショーレミー:わたしと平和の関係にある者=友)に災いを被らせ、敵を徒に見逃したと非難されているようです。つまり、詩人にとって仲間であった者が「敵」(ツァーラル:苦しめる者の意)となり、彼に苦悩を与えているのです。

 けれども、詩人は自分の友らにそのようなことをした覚えはありませんでした。そこで、神が裁きの座につき(7,8節)、執拗に追い迫り、不当に苦しめる敵を裁いてほしい、そして、「お前は正しい、とがめるところはない」と宣言してくれるように、神に訴えます(9節)。

 この詩人は、冒頭の言葉(10節)で「神は正しくいます」(エロヒーム・ツァッディーク)と言い、神こそ正しい方であることを知っています。ですから、詩人が拠って立つ正しさは、ヨブのように神と正しさを競うようなものではありません。神は私たちの行いや態度など、外側に表れているものではなく、「心とはらわたを調べ」られます。

 「はらわた」(キルヤー)とは腎臓のことですが、聖書では、人間の感情の源がそこにあると考えられて、「心」(レーブ)と共に用いられます。口語訳、新改訳は、「思い」と訳していました。つまり、神は、心の奥底に秘められているような思いまで探り知るお方であるということです。心の底まで調べられる神の御前で、正しいとされる人がいるでしょうか。

 ここで詩人が問題としているのは、人の行いの正しさ、善良さなどではありません。義なる神との関係を問うているのです。正しい神が、詩人から、「わたしの神、主よ」(2,4節:エローハイ)と呼ばれています。詩人と個人的な交わりがあるのです。だから、詩人は神の正しさの中に避けどころを得て、苦しみから解放されることを求めているのです。

 であれば、不正とは、神との関係が正しくないことであり、それは、神に頼らずに歩もうとすることです。そこには、自分の正しさを自負する「自己義認」といわれる生き方をすることも含まれます。そして、それこそ、十字架に敵対して歩くことなのです(フィリピ書3章18節)。

 神は、私たちの魂を救い、御名のゆえに正しい道に導いてくださいます(23編3節)。私たちは、神の救いに与り、罪が赦され、関係が回復されました。神の子とされ、神を「アッバ、父」と呼ぶ御霊の導きに与らせていただいたのです(ローマ書8章15節など)。

 「神ご自身は、『わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことが出来ます。『主はわたしの助けぬし、わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう』」(ヘブライ書13章5,6節)。この恵みを常に豊かに味わわせていただきながら、正しくいます主に感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌いましょう(18節)。

 天のお父様、私たちを神の子とし、主イエスとともに、「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる恵みに与らせてくださり、感謝いたします。朝ごとに御言葉に耳を傾け、その教えを繰り返し思い巡らし、御霊の導きに従って歩ませてください。御言葉どおり、この身に成りますように。そうして、御名の栄光を表してください。栄光が世々限りなく主キリストにありますように。 アーメン


 


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