風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年08月

8月31日(月) 詩編30編

「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」 詩編30編12節

 表題に、「賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩」(1節)と記されています。「神殿奉献の歌」は、シール・ハヌカーという言葉です。これは、ヨハネ福音書10章22節に記されている「神殿奉献記念祭」(ハヌカー・フェスト)の時に用いられる歌ということでしょう。

 この祭は、シリアの王アンティオコス・エピファネスによって荒らされ、冒涜された神殿で、礼拝が再開されたことを記念するものです。それは、紀元前165年にイスラエルの民がシリアから奇跡的に解放されたことを祝う記念祭でもあります。ということは、この表題がつけられたのは、紀元前165年以後ということですね。

 ただ、詩の内容を調べてみても、神殿奉献に関係する言葉はありません。むしろ、個人的に苦難から解放された喜びにより、神を誉め讃えた歌というべきです。それが、ダビデによって作られたものと解釈され、更に普遍的な意味に解釈が広げられて、神殿奉献の祭において使用されるようになったのかも知れません。

 この詩には、詩人の祈りに答えて下さった神に対する感謝が述べられています。3~4節に、「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に降ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました」と記されていますので、詩人は、生死の境をさまようような重い病に罹っていたのだろうと想像されます。

 ということでいえば、ダビデというより、ヒゼキヤ王が瀕死の病の床で主なる神に祈りをささげ(列王記下20章3節)、その祈りが聞かれて、寿命を15年延ばしていただいた(同5,6節)という出来事に適合しているようです。詩人は、その病の中で癒しと助けを叫び求めた祈りが、神に聞き届けられたのです。死の闇が詩人を飲み込もうとしていましたが、神の助けによって、今、命の光に包まれていまです。

 「ひととき、お怒りになっても」(6節)という言葉から、その病が神の怒りによるものという思いがあるのでしょう。ということは、その癒しは罪の赦しに関わることとも言えます。詩人は、罪を赦し、命を得させて下さる「主の慈しみ」(5節)に信頼をおいているわけです。

 「泣きながら夜を過ごす」とは、辛くて悲しくて眠れぬ夜を過ごすということでしょう。涙で枕をぬらしたのでしょう。昼間は、寝床の周りに人がいて、あれこれと世話を焼いてくれますが、夜は独りになります。電灯などなかった時代、どんなに夜が長く感じられたことでしょうか。夜の闇に死を感じ、その戦いが孤独なものであることを思い知らされます。そこで、詩人は神の名を呼んだのです。主の憐れみを乞うたのです(9節)。

 「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました」(7~8節)とあるとおり、平穏無事を自分の信仰の故であると錯覚して、その状態が永遠に続くと思い込んでいたのですが、平穏無事でなくなると、魂の平安を失って全くうろたえてしまいます。あるいは、ここに詩人の罪の自覚が示されているのかもしれません。

 詩人は夜の闇の中で自分の弱さ、罪を深く示されたのでしょう。そしてそれは、神を深く思い、求めるときとなったのです。眠れないときには眠れないままに、涙が流れるときは涙するままに、それをそのまま神に祈り、訴えているのです。そして、神が詩人の苦しみ、悲しみを受け止め、その祈りを聞いて涙をぬぐってくださる喜びの朝が来ることを信じるのです。

 憐れみを請い、助けを求める祈り(9~11節)が聞き届けられ、詩人は主を讃える歌を歌います。それが、冒頭の言葉(12節)です。 神は、私たちの嘆きを踊りに変えてくださいます。それは、祭りを祝う喜びの踊りです(エレミヤ書31章13節)。また、神は粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。粗布は嘆き悲しみ、喪に服し、あるいは悔い改めを表すものですが、それを祭礼の飾り帯を締めるように喜びに変えてくださるのです(イザヤ書61章3節)。

 主イエスの弟ヤコブがその手紙の中で、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」(ヤコブ書5章13~15節)と語っています。

 実に、「祈りに導かれるはよし」です。いつもあるがまま心を開き、涙の夜を喜びの朝としてくださる主を尋ね求めましょう。

 主よ、祈りを通して、また感謝と賛美を通して、主なる神との交わりに導かれることの恵み、主なる神の慈しみに信頼出来る喜びを知らされて感謝です。いつも主の慈しみのうちに生きることが出来ますように。主と共に歩むことが出来ますように。 アーメン




8月30日(日) 詩編29編

「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます」 詩編29編3節

 1節の「神の子らよ」という呼びかけは、正確には、「神々(エリーム)の子ら」という言葉で、「エリームの子ら」という言葉が用いられるれは、この箇所と89編7節の二箇所だけです。「エリーム」は、異教の神々のことをさしていると考えられます。
「エリームの子ら」は、この世で神々のように振る舞う権力者を指しているのではないでしょうか。

 そして、「栄光と力を主に帰せよ、御名の栄光を主に帰せよ、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」(1,2節)と、彼らに主なる神を誉め讃えさせます。つまり、そのようにすることで、主の超越性、つまり主こそまことの神、主以外に神はないということを示しているわけです。

 3節以下に、「主の御声」という言葉が7回出て来ます。聖書の中で、「7」は完全数と言われます。そこに、神の御声の力強さ、権威の完全さが示されています。

 「声」(コール)は、「音、雷鳴」とも訳されることがあります。冒頭の言葉(3節)では、「主の御声は水の上に響く」と言ったあと、それを言い換えるかのように、「栄光の神の雷鳴はとどろく」と語っています。「主の御声」をすべて「栄光の神の雷鳴」と読み替えてみて下さい。勿論、ここで詩人が描写しているのは、雷の鳴り響く音が神の御声であるということではありません。雷鳴という自然現象を描きながら、それによって神の御声の力強さ、その凄まじさを示そうとしているわけです。

 6節で「シルヨン」と言われているのは、イスラエルの北にそびえるヘルモン山のことで、フェニキヤではシルヨン山と呼んでいました。8節の「カデシュ」がエドム南部の荒れ野ではなく、シリアのカデシュのことであれば、5節の「レバノン」と合わせて、いずれもシリア・フェニキアの地方を指していることになり、これは、カナンのバアル宗教の支配地域ということになります。

 つまり、雷鳴がとどろいてレバノンの山々を脅かし、シリアの荒れ野を悶えさせるというのは、主なる神の前に異教の神々は打ち砕かれ、踊らされ、苦しみ悶えさせられるということです。バアルは、カナン地方を中心に崇められている嵐と雨の神です。そのような神々が、主の御声なる雷鳴によってもだえさせられるというのは、真に世界を治める力を持っているのは、主なる神だけだと告げているようです。

 9節の「主の御声は雌鹿をもだえさせ、月満ちぬうちに子を産ませる」について、「主の御声は大樹を踊らせ、森を裸にする」という訳もあります(口語訳を参照)。これは、異教の神々に依り頼んでいた者たちに恥をこうむらせるという意味でしょうか。

 この様子を見ていた「神殿のものみな」は、主に向かって「栄光あれ」とたたえます(9節)。「神殿のものみな」とは、天の御座の前にいるものたちのことだと言われます。ここに、1節で「神の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ」と求められていたことが実現しています。

 10節に、「主は洪水の上に御座をおく」と記されています。洪水の上に座られるということは、洪水を支配し、従わせておられるということです。聖書で洪水と言えば、ノアの洪水を思い出します(創世記6章以下)。洪水によって地の表のすべてのものが拭い去られました。そうして、箱舟から出たノアの家族と永遠の契約を結ばれました(同9章9節以下)。

 それは、ノアたちが罪を犯さない者だからではありません。「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と知っておられました(同8章21節)。主なる神は、罪を赦すという道を通して、新しい世界を築こうとされるのです。

 第一ペトロ書3章20,21節に、「箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表されたバプテスマは、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」とは、そのことでしょう。

 こうして詩人は、雷や洪水という、この地を脅かし滅ぼすものを描きながら、それによって神の権威、権力の凄まじさ、力強さを示しながら、しかし、それによって打ち倒され、震え上がり、苦しみ悶えなさいと言おうとしているわけではありません。

 確かに、罪を持ちながらも傲慢に主の御前に立とうとすれば、そしてまた、神ならぬものに依り頼んでいるならば、そこで自らの愚かさ、罪深さを思い知らされることになるかもしれません。なにしろ、神の怒りによって滅ぶべき、生まれながらの怒りの子なる私たちです。

 しかしながら、神は御子を通して私たちを御許に招いておられます。私たちを裁くためではなく、救いに与らせるためです。主なる神は、キリストを信じてバプテスマを受けた私たちに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」と仰います。全地を振るわせる轟が、主に信頼する私たちには、「平安があなたがたにあるように」と聞こえるのです。

 だから、主に栄光と力を帰し、聖なる輝きに満ちる主の御前にひれ伏しましょう。 

 主よ、どうか私たちに力を与え、どのような時にもまことの主を礼拝することが出来ますように。どうか私たちを祝福して平和をお与えくださり、互いに愛と赦しに生きることが出来ますように。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。 アーメン




8月29日(土) 詩編28編

「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。」 編28編6節

 この詩は、死の苦しみからの救いと、神に逆らう者に対する報復を求める「嘆きの祈り」(1~5節)と、祈りが聞き届けられたことに対する「感謝の賛美」(6~9節)という二部構成になっています。

 この詩には、三種類の「手」(ヤド)が出て来ます。それは先ず、神の御前に嘆き祈る詩人の手(2節)、次いで、神に逆らう者、悪を行う者の手(4節)、それから、彼らが悟ろうとしない主なる神の御手(5節)です。

 詩人は、神に逆らい、悪を行う者の手によって苦しめられていました。彼らは、口では「平和」(シャローム)を語りながら、その心に悪意を抱き、その手で悪事を行っているのです(3,4節)。ゆえに詩人は主を呼び求め、祈りの手を上げ、救いを求めて叫んでいるのです(2節)。もしも、詩人の祈りに主が御手を動かしてくださらなければ、彼は墓に下る者とされてしまいます(1節)。

 しかしながら、それはただ、彼らに殺されてしまうという意味ではないように思われます。それは3節で、「神に逆らう者、悪を行う者と共に、わたしを引いて行かないでください」と言っているからです。これは、神の裁きが、神に逆らう者、悪を行う者だけでなく、自分自身にも及ぶのではないかと思っている証拠です。詩人は、神に逆らい、悪をなす者に陥れられて、彼らの「仲間」(レイア)とされ、彼らと共に裁きを受けようとしているのかも知れません。

 共に裏切られたと言うことでしょうか。詩人は、「その仕業、悪事に応じて彼らに報い、罰してください。その手のなすところに応じて彼らに報い、罰してください」(4節)と願っているからです。続けて、「主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません」(5節)と言います。

 詩人は、悪人の「仕業」と「主の御業」、「その手のなすところ」と「御手の業」とを対比しています。彼らは主の御業を悟らず、悪をなす故、滅ぼされ、再び興さなれる(バーナー:再建する)ことがないようにされるのです(5節)

 詩人の手は今、神の前に上げられています(2節)。それは、神の助けを求める祈りの姿勢であり、また、主をたたえる賛美の姿勢でもあります(134編2節)。そのときに、手のひらは神に向かって開かれています。それは、手の中には何もないということを表わしています。だから、神を求めているのです。そして、空の手に恵みを満たしてくださる主をほめ讃えているのです。

 また、神の前に上げられた手は、まさにお手上げ、降参のしるしのように見えます。詩人は、神のほかに自分をこの悪の力から、自分を苦しめる者の手から解放してくれるものを知らないのです。確かに、主なる神こそ、私たちの力、私たちの盾であり(7節)、油注がれた者の力、その砦、救いです(8節)。

 これは、使徒ペトロが、「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)と言っているとおりです。

 手を上げて祈る者の心は、しかし、深い苦しみと不安に揺れていることでしょう。救いを求める祈りに対して、神が沈黙しておられるように思われるからです(1節)。そして、神の沈黙の時間は、詩人にとって、決して短い時間ではないでしょう。救いを待つ1日は、千年にも感じられるものです。しかるに神は、冒頭の言葉(6節)のとおり、嘆き祈る詩人の声に耳を傾けてくださいました。そのとき、詩人の心は歓喜で溢れたことでしょう。

 詩人の祈りが聞かれたのは、確かに神の憐れみです。そしてまた、神の御手を動かしたのは、詩人の信仰による祈りでした。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ書11章6節)という御言葉があります。

 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)と約束されました。主イエスとその約束の言葉を信じて、求めましょう。捜しましょう。門をたたきましょう。神が御業を行ってくださいます。その必要を満たしてくださいます。神は必ず、「求める者に良い物をくださるにちがいない」のです(同7章11節)。

 「お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(9節)と祈る詩人に倣い、自分とその家族親族、友らのために、主の恵みと導きを祈り求めましょう。そのように主に依り頼む私たちの心は、主の助けを得て喜び躍り、感謝に溢れ、主をたたえる賛美が湧き上がってくるでしょう。

 主よ、あなたは私たちの嘆きの祈りに耳を傾け、時宜にかなう助けをお与え下さいます。あなたこそ私の力、私の盾、あなたに依り頼みます。私たちの上にあなたの恵みと導きが豊かにありますように。そして御名が崇められますように。 アーメン




8月28日(金) 詩編27編

「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節

 この詩は、語調やその内容から、6節までと7節以下の二つに分けることが出来ます。前半には神への信頼の賛美、後半には苦難の中から神の救いを求める嘆きの祈りが記されています。ですから、もともとはそれぞれに独立していた二つの詩が、たとえば4節と13節の表現が似通っているというような理由で、一つにまとめられるようになったのではないかと考える注解者もいます。

 しかしながら、主なる神への確かな信頼があればこそ、あらゆる苦難のとき、不安や恐れの中で神を呼び、助けを願い求める祈りが出来るというものではないかとも思われます。そして、いくつものモティーフが前後を一つに結べ合わせています。1,9節の「救い」(イェイシャー)、2,12節の「敵」(ツァル)、3,8,14節の「心」(レーブ)、3,12節の「立つ(挑む)」(クーム)、4,8節の「求める(尋ね求める)」(バーカシュ)、4,13節の「命」(ハイ)などです。

 かくて、この詩は、主を信頼することと、主に祈り願うことが、密接に結びついているものであることを、私たちに教えます。主を信頼するからこそ、主に救いを求めて祈り、主に祈ることを通して、主への信仰を新たにするのです。

 詩人は、「主はわたしの光、わたしの救い」といいます(1節)。主を「わたしの光」(オーリー)と呼ぶのは、聖書中ここだけですが、神を光とする比喩は、18編29節、36編10節などにもあります。光は闇を照らし、道を見出します。イスラエルの民は、葦の海の奇跡を経験した後、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と歌いました。

 詩人をさいなむ敵の攻撃の中で(2,3節)、冒頭の言葉(4節)のとおり、詩人は、ただ一つの願いをもって神の前に出ています。それは、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ臨んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」です。それは、「命の砦」(1節)なる主のもとに逃れ場を得ることで、神との交わりを通して、苦しみから解放され、喜びに満たされることでした。詩人にとって、神の宮において主を礼拝すること以上に大切なことはないということでしょう。

 そして、その願いは、主の「わたしの顔を尋ね求めよ」という命令に従うことでした(8節)。神が御顔を隠しておられるように思われる困難な状況の中で(9,10節)、主を尋ね求めるよう命じられ、それを行うことにより、主の恵みを繰り返し味わい(13節)、心強められる経験に導かれます(14節)。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と、十戒の第一条に規定されています(出エジプト記20章3節)。また、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4,5節)という命令が、旧約律法の中で最も重要な戒めであると、主イエスが言われました(マタイ福音書22章37,38節)。

 苦しみのとき、自分の力ではどうにもならない困難に道が塞がれているとき、まことの神、ただ一人の主に依り頼むことが出来ることは、大きな喜び、また平安です。

 「主を仰ぎ望んで喜びを得」(4節)を、口語訳では「主のうるわしきを見」、新改訳は「主の麗しさを仰ぎ見」と訳しています。主を仰ぎ望む喜びは、主の麗しさ、主の慈愛を知ることで、詩人は、心から神との交わりを楽しみ喜ぶことを期待し、待ち望んでいるわけです。

 「仰ぎ望む」(ハーザー)という言葉は、「見る」という意味のほかに、「知覚する、予見する、預言する」などという意味があります。つまり、預言者が聖霊に満たされて見るということです。霊の目が開かれて見るといえばよいでしょうか。

 詩人は、自分の置かれている今の状況が如何にあれ、そこで霊の目が開かれて主を仰ぎ、主と交わるあまりの素晴らしさ、その喜びを知ったのです。そして今、それを求めているということは、一度そういう体験をすればもうよいというのではなく、いつでもどこでも、主と親しく交わりたい、主を仰ぎ見みたい、そのことを通してまことの喜びを得たいと考えているわけです。パウロが、聖霊に満たされなさい、満たされ続けなさいと言っているのは、そのことでしょう(エフェソ書5章18節参照)。

 「主の家」とは、神殿を指す言葉です。そこに宿りたいとは、神殿に住みたいということになります。主イエスが少年時代、エルサレム神殿に行かれたことがあります(ルカ福音書2章41節以下)。そのときの両親とのやり取りで主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言われました(同49節)。

 「自分の父の家にいる」(エン・トイス・パトゥロス・ムー)と訳されていますが、原文には「家」に当たる言葉はありません。しかも、想定されているのは複数形です。主イエスにとっての「父の家」とは、エルサレム神殿には限らないということです。つまり、神のおられるところはどこでも「父の家」であり、「父の家にいるのは当たり前」とは、神がいつも自分と一緒にいてくださると言われていることになります。

 ですから、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」を願い求める詩人の信仰は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネ福音書4章23節)と主イエスが言われた、まことの礼拝者の信仰であると言ってよいでしょう。

 主よ、どうか私たちを聖霊で満たしてください。常に霊の目が開かれて主を仰ぎ望み、霊の耳が開かれて御言葉に耳を傾けることが出来ますように。主を慕い求めて御前に進み、絶えず主との親しい交わりの内におらせていただくことが出来ますように。 アーメン




8月27日(木) 詩編26編

「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」 詩編26編8節

 1,11節に、「わたしは完全な道を歩く」という表現が出て来ます。ここで語られている「完全」(トーム)という言葉には、完全無欠 integrity という意味もありますが、無実とか十分、一杯とも訳されます。

 2節以下、主に従って歩んで来たことを確認してほしいと主に願い、6節で「わたしは手を洗って潔白を示し」と、自分の無実を神が証明してくださることを求めています。詩人は、不当な裁判で苦しめられているのかも知れません。だから、1節冒頭に、「主よ、あなたの裁きを望みます」と訴えているのでしょう。

 また、「完全な」を「十分 fullness 」、つまり、神の恵みが満たされている状態と捉えて読み替えれば、わたしは神の恵み充満の道を歩くという言葉になります。それは、神が詩人の心と思いを完全に満たしていることを表しています。わたしは神の恵みに満たされて歩くといってもよいでしょう。

 パウロが、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)と、祝福の祈りを記しています。

 また、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ書3章18,19節)と、祈りの言葉を記しています。

 いずれも、神の恵みによってそのうちが満たされるように、さらには神ご自身で満ちあふれさせてくださるようにと祈り求めていますが、ここに、私たちの信仰の目標が示されます。

 そして、心と思いが恵みに満たされているということは、神様に自分の心と思いを明け渡したということ、自分の弱さ、欠点も包まず明らかにして、ありのまま神にささげたということです。であれば、「わたしは完全な道を歩く」という言葉は、完全無欠な人間として生きるというようなことではありません。そうではなく、詩人が自分自身を主なる神に全くささげて生きていることを表している言葉だと解釈することが出来ます。

 その完全な献身から、主への信頼が生まれます。1節に、「主に信頼して、よろめいたことはありません」と記されているとおりです。それは、自分がしっかり立っていた、ということではありません。3節に、「あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩み続けています」と言っています。

 「まこと」(エメト)は忠実、あるいは信頼性とも訳されます。神が忠実に守ってくださる、神は信頼出来るということです。神の真実に支えられ、信頼すべき神に守られて歩んでいるということです。

 現実には、悪が詩人をよろめかせ、また、私たちをよろめかせます。5節に「悪事を謀る者の集い」という言葉があります。この「集い」(カーハール)という言葉を、七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)は、「エクレシア」と訳しています。エクレシアは、新約聖書で「教会」と訳される言葉です。もともと、集い、集会、会議を意味する言葉で、議会と訳されることもあります。

 その「集い」に集まる者の謀る悪事について、10節に、「彼らの手は汚れた行いに慣れ、その右の手には奪った物が満ちています」と記されています。「奪った物」と言えば、力づくで取ったという印象になりますが、原語は「賄賂、まいない」(ショーハド)という言葉が使われています。議会の人間が賄賂やまいないをとって政治を曲げるとは、ダビデの時代も今も、人間の悪の性質というものは変わらないのかという思いになります。

 詩人はそれを憎むと言っていますが、決してよろめかなかったと言い切れるでしょうか。むしろ、実際には、袖の下に心惑わされ、彼らの仲間に加わろうという誘惑が絶えずあったのではないかと思います。だからこそ、「わたしは完全な道を歩きます」と語り、「わたしを憐れみ、贖ってください」と祈り願うのです(11節)。

 神はその信仰と祈りに答え、欠点だらけ、失敗だらけの私たちを赦し、憐れみ、愛してくださり、キリストの贖いによって義と認め、「あなたは潔白だ」と言ってくださるのです。そこに、神の慈しみとまことがあります(3節)。

 冒頭の言葉(8節)で、この詩人は、神殿を慕っています。「あなた(主)のいます家」とは、神殿のことです。そして、詩人は「主のいます家」を、「主の栄光の宿るところ」と言い換えています。「宿るところ」は、「幕屋」(ミシュカン)という言葉です。

 出エジプト記40章34節に、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と記されています。幕屋は、エジプトを脱出した民が荒れ野を旅する間、神を礼拝するために設けられた移動用神殿です(同25章8節)。神の幕屋が完成したとき、神がその幕屋に臨まれたことが、そこに記されています。雲は神の臨在のしるしです。神の臨在が現れているところに主の栄光が満ちたということですから、主の栄光を神の臨在と解釈することも出来ます。

 つまり、神の栄光とは、人間が見物することの出来る光景や現象などではなく、神の臨在されるところで神を礼拝する恵みを味わうことと考えられます。この詩人は、神殿にやって来て、主を礼拝する喜び、神の臨在の恵みを味わうために、主の神殿、主の栄光の宿る幕屋を慕い求めると言っているのです。

 そして、慈しみとまことを惜しみなく注ぎ与えてくださる神への感謝の思いが、ますます主の家を慕わしく思わせているのです。主は今、私たち主イエスを信じる者の心を住まいとし、そこに神の栄光を現そうとしておられます(第一コリント書6章19,20節)。主の御顔を慕い求め、慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、そのまことに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたの慈しみは私の目の前にあり、あなたのまことに従って歩みます。主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところを私は慕います。私を憐れみ、贖ってください。その慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、主に信頼して御名を誉め讃えつつ歩みます。 アーメン




8月26日(水) 詩編25編

「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。」 詩編25編4節

 この詩にも、アルファベットによる詩という注がついています(9,10編参照)。各節の最初の文字がアルファベットの文字順にならんでいるわけです。それは、詩の言葉を覚えやすくするという一つの技巧ですが、そこに、あらゆる言葉を尽くし、技巧を凝らして主に祈り、また賛美するという信仰の姿勢を見ることが出来ます。

 1節に、「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み」とあります。「仰ぎ望み」と訳されているのは、「高く上げる」(ナーサー)という言葉で、「魂を高く上げる」とは、命を神に委ねるという、神への信頼を言い表すものです。それは、2節の「神よ、あなたに依り頼みます」や、20節の「御もとに身を寄せます」、3,5,21節の「あなたに望みを置く」などの言葉にも示されています。

 その信頼は、詩人の個人的な貧しさ、孤独(16節)、悩み、痛み(17節)、労苦、罪(18節)からの解放、救いを求める祈りの根拠となっています。

 そして、22節では「イスラエルをすべての苦難から贖ってください」と、神のすべての民のための祈りの言葉でこの詩が閉じられています。詩人の苦難がイスラエルの苦難に連なるものであること、私たちも神の民として、この詩の祈りに合わせて、自分の苦難からの救いを求めて祈るよう、教えられます。
 
 この詩を読んで目につくのは、「道」という言葉です。そのうち、4節の「(従う)道」と10節の「(主の)道」は「小道」(オーラハ)という言葉、残りは、「道、大路」(デレク)という言葉です。また、「道」(デレク)から派生した「導く」(ダーラク)という動詞が、5,9節に用いられています。

 冒頭の言葉(4節)の中で、二つの「道」という言葉が使われているのは、詩の技巧によるものでしょう。マソラ本文(ヘブライ語原典)には、「従う」という言葉はありません。口語訳は、「あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください」と訳し、新改訳は、「あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい」と訳しています。リビングバイブルでは「進むべき道」、「歩むべき小道」となっていました。

 道は往来する場所、目的地に向かって通過するところですが、そこに、「従う」とか、「進むべき」、「歩むべき」という形容詞がつくと、私たちが生きている上での規範というような、道そのものが意味のあるものになります。

 「あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」という願いに、苦難を乗り越えて生きるべき道を教えてほしいという思いと、神に従い、神と共に歩む道を示してほしいという思いを見ることが出来ます。

 詩人は、神の憐れみ、助けと導きがなければ生きることは出来ず、そして神に従うことも出来ないと考えているわけです。だから、「あなたのまことにわたしを導いてください。教えて下さい。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」というのです(5節)。

 主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハネ福音書14章6節)。ここで主イエスが言われた「道」とは、父なる神のもとに行くための道路という意味ですが、「真理、命」と並べられて、生き方、生きる姿勢を示すものとなっています。つまり、その道を通って神との交わりに導かれ、そこから真理を得、豊かな命に与らせていただくことが出来るのです。

 私たちは神に愛され、選ばれてこの道を歩む者としていただきました。主は、「わたしがあなたがたを選んだ」(同15章16節)と仰せくださっています。主の道を歩むとは、主イエスと共に歩むということです。主イエスとの親しい交わりに導かれます。御言葉を聴くことが出来ます。

 そして、この道は十字架に向かいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われる道です(ルカ福音書9章23節)。これは、大変な覚悟を伴う言葉でしょう。道楽や片手間で出来ることではありません。

 私たちは主イエスに招かれて、この道を歩み始めました。そして、主イエスがいつも共にいて、必要な助け、知恵と力を授けてくださいます。ゆえに、嫌々ながらではなく、感謝と喜びをもって歩むことが出来ます。

 私たちを愛し、恵みをお与えくださる主を信じ、日々その御言葉に耳を傾け、真理の道、命の道をまっすぐに歩むことができるよう、絶えず御霊の導きを祈りましょう。

 主よ、私たちを交わりに招いてくださり、感謝します。あなたの御声を聴き、御旨に従って歩むことが出来ますように。主の御名にふさわしく、いつも正しい道に導いてください。賛美しながら主イエスという門から入り、感謝して主を礼拝する者としてください。御名が崇められますように。 アーメン



8月25日(火) 詩編24編

「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。」 詩編24編2節

 24編は、栄光に輝く王たる主の権威を称えています。

 1節に、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」とあります。原文では、最初に、「主のもの」(ラ・ヤハウェ)と記されています。主なる神が天地の創造者であるがゆえに、天地万物の所有者であり、そこに住むすべてのものの支配者であることを表しています。

 そして、その次に大変興味深い表現が出て来ます。それは冒頭の、「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」(2節)という言葉です。「潮の流れ」は、「川」(ナハル)という言葉で、絶えず流れて定まらない混沌の表象と、注解書に記されていました。

 聖書には、神が大空の上と下に水を二分され(創世記1章6節以下)、そして大地を水の上に広げた(詩編136編6節)と記されています。それはまるで、大陸が海の上に浮かんでいる浮島のようなものと考えているかのようです。この詩が作られた当時の人々は、海と陸など、地球のことをそのように理解していたのかもしれません。

 ただ、現代科学では、海と陸ではありませんが、マントルの上を地殻が覆っていると考えられています。ちょうど卵の白身にあたる部分がマントルで、卵の殻が地殻です。因みに、黄身にあたるところは核(コア)と言います。地球の表面を覆う厚さ100㎞の地殻は、幾つかの板(プレート)に別れています。

 そして、マントルが熱によって対流すると、それによってその上のプレートが動かされているのです。つまり、大陸といえども不動ではないし、地球は冷たく大きな岩の塊というわけではないのです。私たちの住む日本は、プレートの端っこで、プレートとプレートがぶつかり合う位置にあると考えられています。そのぶつかり合いで地震などが発生します。

 ここで、「大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」というのは、私たちの人生を描写しているようです。自分はしっかりと人生設計をしたつもり、それに従って地歩を固めて来たつもりでも、それが一夜にして崩れることがあります。一流と言われる学校で学び、一流と言われる企業に就職して安定した生活を手に入れたはずだったのに、この不況下でリストラされ、あるいは倒産の憂き目を見た方々があります。

 減少傾向にあるものの、毎日70人以上の人が自殺されるという異常事態が、20年近く続いています。若者は勿論、中高年の自殺も大変な問題です。経済の問題、社会の問題、健康の問題、家庭の問題、人間関係の問題など、問題をあげればきりがありません。どんなに丈夫な家を建てても、大地そのものが揺り動かされれば、私たちの人生はそれによって大きく揺れ動くわけです。

 そのとき、私たちは大地を拠り所とするのではなく、目に見えるものの大きさやかたち、数の多さなどに信頼するのではなく、大海の上に大地の基を据えられた方、潮の流れの上に世界を築かれた主を信頼することが出来れば、それはどんなに心強いことでしょうか。私たちに波風を静める力はなくても、私たちと共におられる主イエスは、その力を持っておられます(マルコ福音書4章35節以下)。

 3節以下に、創造主を礼拝する会衆について記しています。それは、他者に悪事を働かない潔白な手を持ち、隣人に対して誠実に相対する人、空しいものに魂を奪われず、ひたすら忠実に主に仕える清い心を持つ人です(4節)。その人は、主を求め、神の御顔を尋ね求めます(6節)。

 そのように主を仰ぐ者を祝福され、救いの神を慕い求める者に恵みをお与えになります(5節)。ここで、「恵み」と訳されているのは、「義、正義」(ツェダーカー)という言葉です。「祝福」(ベラーカー)という言葉と韻を踏んだ言葉遣いです。「義」は、神との関係を回復し、正しくする神の賜物です。だから、意味を汲んで「恵み」と訳したのでしょう。

 7,9節に、「栄光に輝く王が来られる」といい、8,10節に、「栄光に輝く王とは誰か」を告知します。それは、雄々しく戦われる万軍の主です。栄光に輝く王は、ご自分を求め、礼拝する民に、勝利者として臨まれます。天地万物の創造者にして支配者であられる主なる神は、ご自分の名をもって呼ばれる都、そこに建立された神殿に、勝利者としておいでになります。
 
 私たちをご自分のかたちに創造し、この世界に住まわせられた主の御顔を絶えず尋ね求め、私たちに恵みをお与えくださる救いの神に信頼して、その御言葉に日毎に耳を傾けましょう。

 天のお父様、今日も私たちに必要な糧をお与えください。私たちはあなたの口から出る一つ一つの言葉によって生かされているのです。主によって造られたすべての人々に、恵みと平和が豊かにありますように。 アーメン





夏期休暇

本日より、西関東地方連合の集いで静岡を離れ、その後、夏期休暇をいただきます。
しばらく、更新が滞ります。
その間も、皆様に主の御言葉の恵みが豊かにありますように。
暑さ厳しき折、皆様の健康も守られますように。 


 

8月17日(月) 詩編16編

「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」 詩編16編8節

 表題に「ミクタム。ダビデの詩」とありますが、原文は、「ダビデのミクタム」という言葉です。「ミクタム」の意味は不明です。70人訳は「碑文」、ルター訳は、ketem(黄金)と関係させて「黄金の宝」、その他、アッカド語のk-t-m「覆う」と関連づけて「隠れた祈り」、「贖罪のための奉納文」とするなど、色々な解釈がなされています。それは、この詩が人々に大きな影響を与えて来たというしるしでしょう。

 詩人は、最初に「神よ、守ってください」(1節)と言っています。詩人を悩ませ、苦しめているのは、「ほかの神の後を追う者」たちです(4節)。彼らは3節では、「この地の聖なる人々、わたしの愛する尊い人々」と呼ばれています。これは、祭司のことではないかと思われます。

 主に仕える祭司が、他の神の後を追うとはどうしたことでしょうか。ただ、「レビ人は、イスラエルが迷ったとき、わたしから離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わねばならない」(エゼキエル44章10節)という言葉もあります。理由や背景はどうであれ、こうして祭司、レビ人らが主なる神から離れ、異教の神々に仕えたことが、イスラエルの民を苦しませ、ついに、国を滅ぼす結果となったのです。

 詩人は、「守ってください」という祈りの言葉に続いて、「あなたを避けどころとするわたしを」と、神への信頼の言葉を口にします。原文は、「なぜなら、わたしはあなたに身を避けますので」と、詩人の神への信頼を根拠として、守ってくださいと願った言葉遣いになっています。

 その信頼=信仰を、「あなたはわたしの主(アドーン)」(2節)と言い表します。それは、「わたしはあなたの僕(エベド)」と告白していることになります。出エジプト記21章1節以下に「奴隷について」の規定がありますが、そこに、生涯、主人を離れて「自由の身になる意志はない」(5節)と明言する場合の規定もあります。詩人の信頼の言は、生涯、主に仕えると喜びをもって告げるものです。主を離れて、詩人の幸いはないという言葉にも、それが表わされています。

 そして、その関係は、5節で、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」と言い換えられます。イスラエル12部族の中で、レビ人は嗣業の地の分配を受けませんでした。ヨシュア記13章33節には、「彼らの嗣業はイスラエルの神、主ご自身である」と記されています。レビ人は、イスラエルの神、主のために働き、主から生活の糧を受けるのです。詩人は、主なる神に信頼し、神から命の糧を受けており、「杯」に示されるように、神との親しい交わりに与ることを喜びとしています。

 どれほどに神を信頼しているのかということを、冒頭の言葉(8節)において、「わたしは絶えず神に相対しています」という言葉で言い表しています。詩人は、どんな時にも目の前に神を見ているわけです。7節に、「わたしは主をたたえます」と言っていることから、詩人は、賛美を通して心の中心に主を迎え、絶えずその臨在を覚えているのです。

 「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(7節)という言葉で、詩人が常に励ましや諭しを必要としていることが分かります。また、自分の心に光がないことを「夜」と表現しているとも考えられます。そういう現実にあって、だからこそ、神を仰ぎ、賛美によって神に心を向けるのです。そしてその都度、神の励ましや諭しを受ける恵みを味わってきたのです。

 どういう現実を味わっていても、どのような環境にあっても、そこが神の用意された「麗しい地」と受け止め、「輝かしい嗣業を受けた」と信じて(6節)、神をたたえているのです。そのとき、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(8節)と告白する恵みを味わうことが出来るわけです。ここに、信仰の醍醐味があります。

 ここで、「右」、あるいは「右手」には、特別な意味があります。英語でも「右(right)」には、「権利、正義、正常」という意味があります。聖書では、右、右手は力の象徴です(詩編45編5節、ヨブ記40章14節など)。ですから、攻撃を受け止める側になり(詩編91編7節、ヨブ記30章12節など)、訴える者が立つ側になります(ゼカリヤ書3章1節)。

 一方、弁護者、救助者が立つ側でもあります(詩編109編31節、121編5節など)。「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがない」とは、このことです。そして、威厳と光栄の座でもありました(詩編45編10節、列王記上2章19節など)。御子キリストが天に引き上げられて右の座に着くとは、これを意味しています(詩編110編1節、ヘブライ書10章12節など)。

 神の右に、威厳と栄光をもって座に着いておられる主イエスが、私たちの右側で私たちのために執り成し、弁護し、助けて下さるから、その恵みを味わうことが出来るから、「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」(11節)と、心から主をほめたたえているわけです。

 日毎に主を仰いで御言葉に耳を傾け、信仰により心から主を賛美しましょう。

 主よ、あなたを避けどころとします。弱い私たちをお守りください。御言葉を与えてください。あなたは絶えず私たちに最善のことをしてくださいます。その慈しみはとこしえに絶えることがありません。主の御名はほむべきかな。我が国に、全世界に、キリストの平和がありますように。 アーメン




8月16日(日) 詩編15編

「主よ、どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことが出来るのでしょうか。」 詩編15編1節

 15編は、神殿中庭に入る際の礼拝式文として用いられるために作られたものではないかと考えられます。

 詩人は冒頭の言葉(1節)のとおり、「主よ、どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」という問いを発しています。ここで、「あなたの幕屋」とは、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(出エジプト記25章8,9節)とお命じになって、神がイスラエルの民に造らせた移動用聖所=神の幕屋(テント)のことです。

 また、「聖なる山」については、詩編2編6節にも「聖なる山シオン」という表現が出て来ており、それは、ダビデが都を定めたエルサレムのことを指しています。そしてそこに、ダビデの子ソロモンが壮麗な神殿を建てました。つまり、「あなたの幕屋」も「聖なる山」も、主なる神を礼拝する場所を指しているわけです。ということは、1節の言葉は、どのような人が、主なる神を礼拝するのにふさわしいのでしょうか、と尋ねていることになります。

 そして、2節以下にその問いの答えが記されています。「それは、完全な道を歩き、①正しいことを行う人。②心には真実の言葉があり、③舌には中傷をもたない人。④友に災いをもたらさず、⑤親しい人を嘲らない人。⑥主の目にかなわないものは退け、⑦主を畏れる人を尊び、⑧悪事をしないとの誓いを守る人。⑨金を貸しても利息を取らず、⑩賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」です(2~5節)。

 すなわち、「完全な道を歩き」に続けて、10の条件が語られています。あたかも、モーセに授けられた十戒のようです。そして、5節後半に、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがないでしょう」と結ばれています。

 けれども、「完全な道を歩く」とことが、以下の条件を完璧に守れということであるならば、それを文字通り実行出来る人がいるでしょうか。残念ながら、人は不完全な存在です。完全なお方は、主なる神ただお一人だけです。そしてまた、これを守りさえすれば、主なる神を礼拝する権利、主と親しく交わる資格を手に入れることが出来るというものでもないでしょう。

 イスラエルの民が幕屋を作り、ソロモン王が神殿を建てたのは、彼らがその権利や資格を有していたからではありません。主ご自身がイスラエルの民の内に住まおうとされたからです(出エジプト記25章8,9節、列王記上6章11~14節)。

 さらに言うならば、これを実行可能にするのは、礼拝を行う権利や資格を手に入れようとする人間の意志などではありません。私たちと共に住まおうとされる主の力により、霊的な導きと助けが与えられて初めて可能になるのです。つまり、完全であられる主なる神に導かれ、共に歩ませて頂くということです。

 今日、私たちの「体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」(第一コリント書6章19節)、また、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(第二コリント書6章16節)と言われています。私たちの体とは、教会のことであり、私たちがキリストの名によって集まっている集まりを指しています。

 礼拝や祈り会など、教会の集会の中に、また、信徒二人が心を合わせて祈ろうとしているところに、主イエスは共におられ(マタイ18章20節)、そこに聖霊が宿られるのです。私たちはまず、このことに畏れを抱かなければなりません。集会を主催しておられるのは神であり、私たちは神によって集められたものであると宣言されているようなものだからです。

 私たちと共におられ、私たちの間に宿られる神の御顔を慕い求め、その御言葉に耳を傾けましょう。神は、被造物に過ぎない私たち人間、しかも、生まれながら神の怒りを受けなければならない罪深い存在に対して、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがない」ようにしてくださる(5節)と約束されました。

 これは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と主イエスが言われているのと同様のことでしょう。ここに、神の深い愛と計画が示されています。

 主の導きに従ってまことの礼拝をささげ、恵みを受けて出て行き、豊かな実を結ぶことが出来るように、祈りつつ励んで参りましょう。

 主よ、あなたの深い憐れみにより、慈愛の御顔を絶えず拝することが出来ますように。御言葉を慕い求めて朝ごとに御前に進ませて下さい。御言葉を悟る光を与えてください。御霊の力を受けて、神の愛と恵みを多くの人に証しすることが出来ますように。 アーメン




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