「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」 詩編30編12節
表題に、「賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩」(1節)と記されています。「神殿奉献の歌」は、シール・ハヌカーという言葉です。これは、ヨハネ福音書10章22節に記されている「神殿奉献記念祭」(ハヌカー・フェスト)の時に用いられる歌ということでしょう。
この祭は、シリアの王アンティオコス・エピファネスによって荒らされ、冒涜された神殿で、礼拝が再開されたことを記念するものです。それは、紀元前165年にイスラエルの民がシリアから奇跡的に解放されたことを祝う記念祭でもあります。ということは、この表題がつけられたのは、紀元前165年以後ということですね。
この祭は、シリアの王アンティオコス・エピファネスによって荒らされ、冒涜された神殿で、礼拝が再開されたことを記念するものです。それは、紀元前165年にイスラエルの民がシリアから奇跡的に解放されたことを祝う記念祭でもあります。ということは、この表題がつけられたのは、紀元前165年以後ということですね。
ただ、詩の内容を調べてみても、神殿奉献に関係する言葉はありません。むしろ、個人的に苦難から解放された喜びにより、神を誉め讃えた歌というべきです。それが、ダビデによって作られたものと解釈され、更に普遍的な意味に解釈が広げられて、神殿奉献の祭において使用されるようになったのかも知れません。
この詩には、詩人の祈りに答えて下さった神に対する感謝が述べられています。3~4節に、「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に降ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました」と記されていますので、詩人は、生死の境をさまようような重い病に罹っていたのだろうと想像されます。
ということでいえば、ダビデというより、ヒゼキヤ王が瀕死の病の床で主なる神に祈りをささげ(列王記下20章3節)、その祈りが聞かれて、寿命を15年延ばしていただいた(同5,6節)という出来事に適合しているようです。詩人は、その病の中で癒しと助けを叫び求めた祈りが、神に聞き届けられたのです。死の闇が詩人を飲み込もうとしていましたが、神の助けによって、今、命の光に包まれていまです。
「ひととき、お怒りになっても」(6節)という言葉から、その病が神の怒りによるものという思いがあるのでしょう。ということは、その癒しは罪の赦しに関わることとも言えます。詩人は、罪を赦し、命を得させて下さる「主の慈しみ」(5節)に信頼をおいているわけです。
「泣きながら夜を過ごす」とは、辛くて悲しくて眠れぬ夜を過ごすということでしょう。涙で枕をぬらしたのでしょう。昼間は、寝床の周りに人がいて、あれこれと世話を焼いてくれますが、夜は独りになります。電灯などなかった時代、どんなに夜が長く感じられたことでしょうか。夜の闇に死を感じ、その戦いが孤独なものであることを思い知らされます。そこで、詩人は神の名を呼んだのです。主の憐れみを乞うたのです(9節)。
「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました」(7~8節)とあるとおり、平穏無事を自分の信仰の故であると錯覚して、その状態が永遠に続くと思い込んでいたのですが、平穏無事でなくなると、魂の平安を失って全くうろたえてしまいます。あるいは、ここに詩人の罪の自覚が示されているのかもしれません。
詩人は夜の闇の中で自分の弱さ、罪を深く示されたのでしょう。そしてそれは、神を深く思い、求めるときとなったのです。眠れないときには眠れないままに、涙が流れるときは涙するままに、それをそのまま神に祈り、訴えているのです。そして、神が詩人の苦しみ、悲しみを受け止め、その祈りを聞いて涙をぬぐってくださる喜びの朝が来ることを信じるのです。
憐れみを請い、助けを求める祈り(9~11節)が聞き届けられ、詩人は主を讃える歌を歌います。それが、冒頭の言葉(12節)です。 神は、私たちの嘆きを踊りに変えてくださいます。それは、祭りを祝う喜びの踊りです(エレミヤ書31章13節)。また、神は粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。粗布は嘆き悲しみ、喪に服し、あるいは悔い改めを表すものですが、それを祭礼の飾り帯を締めるように喜びに変えてくださるのです(イザヤ書61章3節)。
主イエスの弟ヤコブがその手紙の中で、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」(ヤコブ書5章13~15節)と語っています。
実に、「祈りに導かれるはよし」です。いつもあるがまま心を開き、涙の夜を喜びの朝としてくださる主を尋ね求めましょう。
主よ、祈りを通して、また感謝と賛美を通して、主なる神との交わりに導かれることの恵み、主なる神の慈しみに信頼出来る喜びを知らされて感謝です。いつも主の慈しみのうちに生きることが出来ますように。主と共に歩むことが出来ますように。 アーメン