風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年07月

7月21日(火) ヨブ記31章

「わたしを胎内に造ってくださった方が彼らをもお造りになり、われわれは同じ方によって母の胎に置かれたのだから」 ヨブ記31章15節

 いよいよ、本章はヨブの最終弁論です。ヨブは、最後の最後まで自分の潔白を信じて、「わたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら、正義を秤として量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい」と語ります(5,6節)。

 「決してない」(5節)は、原文にはない表現です。5節の文頭に、「もしも~なら」(イム)という言葉があり、「もしもわたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことがあるなら」という言葉遣いになっています。古代世界では、自分の潔白を誓うのに、もし罪を犯していたなら、処罰されてもよいという覚悟を示す意味で、自分自身を予め呪うという慣習がありました。

 「決してない、もしもあるなら」という言葉が合計14あります(5,7,9,13,17,19,21,25,27,29,30,31,33,39)。つまり、呪いの誓いが14語られているわけです。14は、7の倍数です。「誓う」(シャーバー)という言葉は、「7」(シェバ)という言葉から発展したものですから、7の倍数の誓いをなすということは、それによって誓いの効果を高めようとしているわけです。

 ただ、「もしも~なら」といった後に、「~してもよい」という処罰を記さず、理由、説明、期待を綴っている箇所も多くあり、呪いの誓いの定式に従っているのは、7-8,9-10,21-22,38-40節の4箇所です。

 いずれにせよ、このような語り口に、自分の正しさをどうしても神に認めてもらいたいという、ヨブの強い意志が示されます。そして、すぐにもこの苦しみから解放してほしいと、言葉を尽くして訴えているのです。

 31章の最後に、「ヨブは語りつくした」(40節)と記され、3章から続いてきた弁論に終止符を打ちます。語り尽くしたヨブには、これ以上言うことはありません。あとは神がヨブの訴えを聞いて、判決をくだしていただくだけです(16章21節参照)。

 ヨブは、この裁判で、天に自分の弁護をしてくださる方、自分のために執り成す方があると言っていました(16章19,20節)。また、わたしを贖う方は生きておられるとも語っています(19章25節)。しかし、彼の最終弁論に、そのような彼の弁護者、執り成し手、また贖う方に対する信頼の言葉は出て来ませんでした。それはただ、彼の潔白を証明してくれさえすればよい、神がそれを認めてくれさえすればということでしょう。

 「ヨブは語り尽くした」(タンムー・ディブレイ・イヨーブ)は、ヨブの言葉は終わったという言葉遣いです。「終わった」(タンムー)は、 「無垢」(ターム)や「潔白」(トゥンマー)という言葉によく似ています。まるで、ヨブの最終弁論が終わったという署名に、無垢、潔白と書いているような、そのように読んでほしいと願っているような感じです。

 ここに、自分の義に依り頼んで神と相対するヨブの姿が、改めて浮き彫りになりました。ヨブ自ら、神から離れて、たった一人で立っています。即ち、ヨブの「正しさ」が、神からヨブを離れさせる「仇」となっているわけです。そして、ヨブがこの「仇」から離れるのは、極めて困難です。なぜなら、正しく歩むことは、よいことだからです。だからこそ、悩みも深いのです。

 利益であるはずのものが仇になることがあります。使徒パウロも、自分の出自、経歴などを誇りとしていましたが(フィリピ3章4節以下参照)、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。・・・キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」と語っています(同7,8節)。

 つまり、彼の誇るべき出自、経歴や学識が、キリストとの交わりを妨げ、真の命に与ることを阻害していたということです。そのことに気づかせるために復活の主が彼に現れ、目からうろこが落ちるという経験をさせられたのです(使徒言行録9章1節以下、18節)。光に目が撃たれて、何も見えなくなってしまいましたが(同8,9節)、彼の目をふさいでいた「うろこのようなもの」は、実は、自分の誇りとしていたものだったと気づかされたわけです。

 ヨブの最終弁論の中で、冒頭の言葉(15節)に目が留まりました。ヨブは13節で、奴隷やはしためのことを取り上げ、彼らを不当に扱ったことはないと言い、その理由を説明する言葉で、自分も彼らも神がお造りになったのだからと言っています。

 ここで、「母の胎」(レヘム)は、「憐れみ」(ラハミーム)の宿る場所です。母親が胎内の子に抱く感情のことを、「憐れみ」というのです。自分と奴隷を「我々」と括り、「同じ方」(エハード:「一人の」の意)が「母の胎」に置かれたということで、自分と奴隷との間に「憐れみ」という情があるように、自分たちと自分たちを母の胎に置かれた方との間にもはずだと言いたいのでしょう。

 「同じ方」(エハード)について、申命記6章4節に、「われらの神、主は唯一の主である」(アドナイ・エロヘイヌー・アドナイ・エハード)という言葉があります。直訳すると、「主はわれらの神、主は一人」という言葉です。「我々は同じ方によって母の胎に置かれた」(イェクネヌー・バーレヘム・エハード)を直訳すれば、「我々を母の胎に置かれたのは一人」となります。一人の主によって形づくられ、この世に送り出されたのです。

 そしてそれは、私たちも同様です。同じ方によって母の胎に形づくられ、同じ方によって鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者としていただきました(創世記2章7節)。使徒パウロがキリストを信じる信仰に導かれ、それまでの価値観が一変する経験をしたように、私たちも同じ信仰に与りました。

 主イエスの福音に耳を傾け、主を信頼することにより、主を知る知識の絶大な価値を実際に知り、味わい、経験するものとならせて頂きましょう。「味わい見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか。御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」(詩編34編9,10節)といわれるとおりです。

 主よ、キリストの迫害者であったパウロを恵みによって使徒とし、キリストの福音宣教のために豊かに用いられました。ゆえにパウロは神の栄光に与る希望を誇りとし、さらに、苦難さえも誇りとすると語っています。私たちも、聖霊を通して注がれる神の愛を心に、御業のために用いてください。主イエスの恵みと平安が私たちの上に豊かにありますように。 アーメン




7月20日(月) ヨブ記30章

「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった。」 ヨブ記30章19節

 前章より、ヨブの嘆きは続きます。かつては、「嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物であった」(29章25節)というヨブでしたが、今は若者らの物笑いの種(1節)、嘲りの的にされ(9節)、息も絶えんばかりになっています(16節)。

 ここで、「今」(アッター)という言葉が、1,9,16節(「もはや」と訳されている)にあったーというのは、単なる駄洒落ですが、23節までの箇所が、「今」という言葉で始まる三つの段落で区切られています。
 
 その若者のことを、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず、何の気力も残っていないような者らだった。・・・愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(1節以下、8節)と言います。

 1節以下の段落では、ヨブを嘲る若者らについて、侮辱的な言葉で描写しています。「身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守った」(29章12節)というヨブが、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていた」(1節)といい、「愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(8節)と告げるとは、どうしたことでしょうか。

 情け深い王のようなヨブが絶えず心にかけ、守り、助けていた相手から、嘲りの言葉、振る舞いを受けて、実は彼らは、最も軽蔑していた人々なんだ、彼らは、人間社会から完全に疎外されたような輩だったのだというのです。最も軽蔑していた輩から、嘲りを受ける存在になってしまったと、自己卑下する表現ということなのでしょう。

 9節以下の段落では、どのような嘲りや屈辱的な振る舞いを受けたのか、語り出されています。それが、29章7~17節の、ヨブの情け深い行為に対する報いなのだとすれば、まさに恩を仇で返されたということになります。

 神に守られ(29章1節)、神との親しい交わりの中にあって(同4節)、正義と公平を旨として歩んで来た(同14節)ヨブが、神の守りを失い、無残な姿になっているのを見て、彼を自分たちのところから追い出すのです(13節以下)。それは、町からということもあり、そして、生きている者たちの間からという意味でもあります。「死の破滅がわたしを襲い」(15節)とあるからです。

 16節以下の段落は、嘲られ、屈辱的な振る舞いを受けた結果、ヨブの現状の姿が述べられています。神の手に守られていたヨブが、「夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない」(17節)、「病は肌着のようにまつわりつき、その激しさに私に皮膚は見る影もなく変わった」(18節)という有様です。

 そのような苦しみの中で叫ぶ声を神は無視(20節)したうえ、「あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される」(21節)と、神の手によるひどい扱いを告発します。そして、「わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へ、すべて命あるものがやがて集められる家へ、連れ戻そうとなさっているのだ」(23節)と結論します。

 29章4節の、「神との親しい交わりがわたしの家にあり、わたしは繁栄の日々を送っていた」という、命と栄光に輝いていたヨブの家は、死者の集うところに変えられようとしています。

 冒頭の言葉(19節)の「泥」(ホメル)は、4章19節の「人は塵の中に基を置く土(ホメル)の家に住む者」、10章9節の「土くれ(ホメル)としてわたしを造り」という言葉から、人の肉体をあらわすものといってよいでしょう。

 「塵芥」は、「塵」(アーファール)と「芥」(エーフェル:「灰」の意)という言葉です。二つ並べられるとき、「塵」は、創世記2章7節の「土の塵で人を形づくり」という、人の起源を示し、「芥=灰」は、命の燃え尽きた残りかす、人の宿命を示します。いかに価なくはかない存在かといった表現です。

 「塵芥」と二つ並べる言い方が、もう一箇所登場します。それは、創世記18章27節です。それは、アブラハムが神に、「塵あくたにすぎないわたしですが」といって、ソドム、ゴモラにいるロトを守ろうとして執り成す場面の一節です。

 神の前に謙った姿勢を示すものですが、しかし、そこでアブラハムのしているのは、「正しい者と悪い者を一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界で裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と、無鉄砲にも神に公正な裁きを願い訴えているのです。

 ヨブがここに、「塵芥に等しくなってしまった」というとき、単に死ぬべき運命だというだけでなく、にもかかわらず、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない」(20節)、それでいいのですか、全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんかと、勇気をもって告発しているわけです。 

 ヨブは、このままで終わりたくはないのです。だから、諦めきれずに神に向かって叫ぶのです。24節で、「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか」と問い、続く25節で、「わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか」と反問しています。

 これらの言葉で、不完全な人間でさえそうするのであれば、まして主なる神は、嘆き求め、苦境にある自分に手を差し伸べ、救って下さるはずだ、それなのに、未だそれが実現していないと、神を非難するヨブの思いが示されています。だから、もう主なる神に頼らない、主を呼び求めることはやめるというのではありません。未だ、神の答えが得られず、神が自分に目を留めておられないと思うからこそ、ヨブは嘆き、神に訴えるのです。

 ここに、「ヤベツの祈り」の祝福が見えて来ます。ヤベツの祈りとは、「ヤベツがイスラエルの神に、『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた」と、歴代誌上4章10節に記されているものです。

 ヤベツは、母の苦しみを背負って生まれて来ました(同9節)。なぜ、母が苦しみの中でヤベツを産んだのか、その苦しみとはどのようなものであったのか、正確なところは分かりません。

 しかし、ヤベツは神に向かって「わたしを祝福してください」と願い、「苦しみを遠ざけてください」と求めました。きっと、来る日も来る日も、神の恵みと憐れみを祈ったことだろうと思います。そしてそれは、もともとヤベツの母親が祈っていた祈りかも知れません。そして、ヤベツがその祈りを引き継いだのです。その祈りが神に聞き入れられました。

 この諦めない祈り、神に信頼してやまない信仰心が、兄弟たちの尊敬を集めることになったのだと思います(同9節)。

 主イエスも、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられました(ルカ福音書18章1節以下)。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる逆風の中で、しかし、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」者とされます(イザヤ書40章31節)。

 ヨブの訴え、ヤベツの祈りに倣い、死者の中から復活された主イエスの恵みによって日々強められ、御言葉に従って歩み、信仰をもって祈りをささげましょう。

 主よ、あなたが私と共にいて私を助け、恐れるなと言い、救いの御手で私を支え、たじろぐなと語ってくださることを感謝します。私たちを大いに祝福してください。御名の栄光を拝することが出来ますように。 アーメン



7月19日(日) ヨブ記29章

「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。」 ヨブ記29章14節

 ここにきてヨブは、「どうか、過ぎた年月を返してくれ、神に守られていたあの日々を」(2節)と、過去を回想しつつ、嘆きの言葉を語り始めます(2節)。それは、かつては神の栄光が、ヨブを守り導いていたからです。以前、「その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」(3章4節)と言っていました。彼がこうむった災いが、あまりに辛く厳しいものだったからです。

 だから、そんな光が与えられなければよかったのにと考えたのです。しかし、今ここに来て、ヨブは神のもとにいたときの光を喜びたたえています(3節)。神との交わりがいかに豊かであったかを、「わたしは繁栄の日々を送っていた」(4節)といい、それは、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで、わたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た」(6節)というほどの豊かさだったと誇ります。

 その祝福ゆえに、ヨブは町中の尊敬と栄誉を受けていました(7節以下)。それは、与えられた豊かな恵みを私せず、身寄りのない子らを助け、助けを求める人を守り(12節)、見えない人の目、歩けない人の足(15節)、貧しい人の父となり、彼らの訴訟に尽力(16節)、不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返しました(17節)。

 その振る舞いを、冒頭の言葉(14節)のとおり、「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった」と言っています。この箇所を直訳すると、「わたしは正義を着、わたしの公正はわたしを上着や冠のように着た」となります。素直に読めば、「正義」(ツェデク:「義」)がヨブの上着で、「公正」(ミシュパート:「公正、公平」)が彼の精神を象徴するものということでしょう。

 正義を身に着けることについて、詩編132編9節に、「あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は、喜びの叫びを上げるでしょう」とあります。また、イザヤ書11章4,5節に、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と記されています。

 正義と公正は、祭司や王が身に着けるべきものだということです。だから「上着」(メイール:「上着、外套(マント)、ガウン」)や「冠」(ツァーニーフ:「王冠、ターバン、帽子」)が言及されているわけです。ヨブは、正しく情け深い王のような者であったと言おうとしているのです。25節に、「わたしは嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物だった」と告げています。

 そのことについて、「ソロモンの詩」といわれる詩編72編を見てみればよいでしょう。同1節に、「神よ、あなたによる裁き(ミシュパート)を王に、あなたによる恵みの御業(ツェダカー[ツェデクの女性形]:「義、正義、正しさ」)を王の子にお授けください」とあります。正しい王は、正義と公正をもって治めるので、貧しい者たちは暴虐から救われ(同4,12節以下)、その統治は、地を潤す豊かな雨のようだと言われます(同6節)。

 そこで、「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように」(同5節)、「王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように」(同17節)と、王の長寿を願う祈りがささげられます。

 ヨブ記29章18節にも、「人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう」と、長寿への期待を抱いていたことが述べられています。それが、正義と公正をもって貧しい人々、弱い人々らを助けた者に、当然のごとく期待される報いというものでしょう。

 さらに、「わたしは水際に根を張る木、枝には夜露を宿すだろう。わたしの誉れは常に新しく、わたしの弓はわたしの手にあって若返る」(19節)と、14章7~9節で語っていた希望のイメージを、もう一度取り出しました。これを語ったのは、今の自分を顧みて、それは浅はかな夢だったと言いたいのでしょうか。それとも、「幹が朽ちて塵に返ろうとも」(14章8節)、改めて希望が与えられるということになるのでしょうか。

 もしも、浅はかな夢だった、もう夢など見るものではないということであるなら、いまだ3章の嘆きと同一線上にあるということでしょう。しかし、前述のとおり、彼はかつての光を喜びたたえることで、19節を単に浅はかな夢だったというのではなく、希望の将来が開かれる夢を見たいと考え始めているのではないでしょうか。

 本当に暗闇に光が差し込むように希望が見えるのか、まだ判然としていませんが、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(28章28節)という御言葉が示されています。それは、旧来の信仰に基づく知恵を、苦難を通して再認識したということでした。

 「わたしたちのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)というとおり、これまでヨブは、友らとの論争の中で、調停者、仲裁者を望み(9章33節)、天に自分の証人、弁護者、執り成す方を認め(16章19,20節)、そして、「わたしを贖う方は生きておられ」る(19章25節)と語っていました。その背後に、神の確かな導きがあるといってよいでしょう。

 しかしそれは、力づくでヨブの思いを変えさせたということではありません。神はヨブから遠く離れておられたのではないのです。ヨブとの交わりを控えておられたのでもないでしょう。彼が苦しみ、呻く声を側近くで聞いておられたに違いありません。

 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)と言われています。無理矢理腕を引っ張って立ち上がらせるというのではなく、時を待って、起き上がる力を授けて下さるのです。また神は、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」お方です(同30編6節)。

 神は、ヨブがこの苦しみをとおして、ヨブを真の信仰に導こうとしておられるのです。信仰こそ、神を喜ばせるものだからです。自分の感覚ではなく、神の御言葉に信頼し、自分の考えではなく、神の御心を悟るように、心に働きかけてくださるのです。

 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。御国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。主の御心を悟り、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン!




7月18日(土) ヨブ記28章

「神は知恵を見、それを測り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別。』」 ヨブ記28章27,28節

 27章では、自分を苦しませる神と友らに、自分自身に誓って自らの潔白を主張したヨブが、28章では一転して、「神の知恵の賛美」をしています。 

 人は、地の底から金や銀、銅などの鉱石、また高価な宝石を見つけ、掘り出すことが出来ます。5節の、「下は火のように沸き返っている」という文言について、これは地下のマグマのことを指していると考えてよいでしょう。食物(レヘム:「パン」の意)を産み出す大地も、その下では火が燃えていて、鉱石にサファイヤが混じり、金も含まれます(6節)。

 「鉱石」(エベン:「石」の意)とサファイヤ、「粒」(アーファール:「塵」の意)と金という組み合わせは、訳語とは別の意味合いがありそうです。ヨブは23章10節で、「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」と語っていました。塵となる運命のヨブが、火で試されて金のようであることが分かるというのです。

 3節の「人は暗闇の果てまでも行き、死の闇の奥底をも究めて鉱石を探す」という言葉は、10章22節の「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇が光となるほどなのだ」と、全く希望がない自身の様子を言い表した言葉とには、同じような言葉が用いられています。「死の闇」(オーフェル)は、ヨブの口からしか聞かれない言葉で、3章6節、23章17節でも用いられていました。

 ヨブは自身の塵となる運命、生涯の最後の暗さを嘆いていましたが、暗黒の塵の中に貴金属の鉱石が隠されているように、彼はこのイメージを思い巡らす中で、自分自身の内側を探っているのではないでしょうか。

 ダビデ、ソロモンの時代に、既に金や銀という貴金属のほか、青銅という合金を造ったり、鉄を製造する技術があったことが分っていますので、今から三千年も前の人々が持っていた知識、技術の高さに驚かされてしまいます。どんなに強い猛禽類、猛獣でも見出せず、手に入れられないものを(7,8節)、人は見出し、採り出す技術を開発して来ました(9節以下)。

 それにも拘らず、人は知恵を見つけ、それを手に入れることが出来ません(12節)。人が知恵の在処を知らないのは、「命あるものの地には見出されない」からです(13節)。

 また、「知恵は純金によっても買えず」(15節)、「金も宝玉も知恵に比べられず」(17節)という言葉で、ヨブのいう「知恵」は、人間に見出せず、手に入れることのできないものであることが強調されます。

 その在り処、そこに至る道を知っているのは、神ただお一人だけです(23節)。24節以下の言葉から、その知恵とは、天地創造に関する知恵のようです。確かに、天地がどのように創造されたのか、どのようにして全宇宙のバランスを取っておられるのか、命が存在する惑星をどのようにして生み出されたのか、分からないことだらけです。

 このことで、創世記3章の、蛇の唆しに乗って善悪の知識の木からとって食べたという記事を思い起こします。その木の実は、神に食べることを禁じられていたものでした。その禁を破り、神のように賢くなろうとして、彼らが手にしたのは、「生涯食べ物を得ようとして苦しむ」(同3章17節)こと、「塵に過ぎないお前は塵に返る」(同19節)ということでした。

 神はここで、人の到底獲得し得ない深遠な知恵を独り占めして、一人悦に入っておられるようなお方ではありません。冒頭の言葉(28節)で、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」であると、神ご自身の言葉として語られています。

 ただ、これを語ったヨブは、ここにきて初めてそのことを悟ったというのではないでしょう。箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」といい、またコヘレトの言葉12章13節に「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と語られているように、これはむしろ、伝統的な信仰姿勢といってよいでしょう。

 つまり、それはずっと前から知っていたことです。しかし、突然の悲劇、苦難を経験し、その知恵に疑問が生じました。そのことで、ここまで友らと議論を重ねて来たのです。

 どういう経路でここに立ち戻ったのか、定かではありませんが、彼がこのように告げるとき、それは、元に戻ったということではなく、火のような試練にあって日の光の見えない暗黒を経験し、必死に出口を求めて呻き続け、求め続けて来て、あらためて神の言葉が響いたということでしょうか。
 
 あるいは、人の知り得ない知恵をもって、ご自身のかたちに創造された人のうちに、神はその知恵を隠しておられ、神がそのきっかけをお与えくださるときに、その知恵が開かれて、神を畏れ敬わせ、悪を遠ざける歩みをすることができるようになるということでしょうか。

 神のなさることに無意味なものはなく、自分にとってそう思うことが難しくても常に最善であること、最善以下をなさることはないと信じましょう。その御言葉に耳を傾け、御顔を慕い求めましょう。

 主よ、あなたはすべての者を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込められました。神の富と知恵と知識のなんと深いことでしょう。誰が神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせるでしょうか。すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン




7月17日(金) ヨブ記27章

「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。」 ヨブ記27章6節

 25章のビルダドの発言に対して26章で反論したのに続き、ヨブは27章で誓いの言葉を口にします。その結論が、冒頭の言葉(6節)です。

 2節で、「わたしは誓う」というのは、原文で「神は生きている」(ハイ・エール)という言葉ですが、これは、誓いを立てるときの定型表現なので、そのように訳されているわけです。

 5節の「断じて」は、「わたしにとっては断じて」(ハリーラー・リー)という言葉です。5節前半を直訳すると、「わたしにとっては断じて、もしも、わたしがあなたがたを正しいとするなら」という文章になります。分かりやすく訳せば、「わたしがあなたがたを正しいとするなら、わたしは呪われよ」ということでしょう。つまり、「わたしにとっては断じて」というのは、自分自身を呪う言葉なのです。「恥を知れ」と訳した聖書もあるようです。

 さらに、5節後半の「死に至るまでは、「たとえ息絶えることがあっても」という意味で、「たとえ息絶えることがあっても、潔白を主張することから離れない」という文章になり、命をかけてそれを守るという、誓いの言葉といってよいでしょう。

 6節までに、三つの誓いの表現があり、内容的にも、①2,3節、②4,5a節、③5b,6節に分けられます。①は神に対して、②は自分自身に対して、そして③は、潔白と正しさに焦点を合わせています。

 2節の「魂」(ネフェシュ)、3節の「息吹」(ルーアハ)、「息」(ネシャーマー)という命に関する三つの言葉と、3節の「鼻」、4節の「唇」と「舌」という体の三つの器官とが対応していて、「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」(19章20節)と、息も絶え絶えの様子だった者が、今ここに力があふれているような表現を用いています。

 生まれなければよかった、生まれてすぐ死ねばよかった、早く死にたいという表現で、独白を始めたヨブでしたが(3章参照)、ここまで友らとの対論を重ねて来て、ただ苦しく辛いだけ、空しいだけではなかったということでしょうか。あるいは、ヨブ自身が分からないかたちで、神の力、助けに与ってきたということでしょうか。

 しかし、「断じて、あなたたちを正しいとはしない」(5節)というのは、友らの意見に首肯できるものではないという強い思いが示されます。だから、「わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」(7節)と断罪し、13節以下に、悪人のたどる運命を列挙しています。

 これはまるで、20章のツォファルの発言のようです。そのような読み方をする註解者もいます。その真偽は分かりませんが、しかし、「自らの正しさに固執して譲らない」(6節)ヨブが、自分を苦しめた友らのたどる運命として、それを語ったという解釈もできるでしょう。

 これまで自分に向けて語られて来た、神に逆らう者の被る報いについて、友らに向かって述べるというところに、他者を裁く者はその裁きで裁き返され、呪う者は呪い返されるという構図が完成します。ただ、そのように友らを裁き、罪に定めることは、正しいことでしょうか。「一日たりとも心に恥じることはない」(6節)という人のすることでしょうか。

 正しい者がなぜ災いをこうむるのかということで苦しんできたヨブですが、彼は今もまだ、正しいことをした者には神の恵みが、神に逆らうものには神の裁きが臨むという、伝統に基づく価値観の上に立っているわけです。

 自分の正しさに固執して、その自分に対する神のなさりように、神の不義をいうヨブが、他者の罪に対する義なる神の処罰を語るというのは、明らかに矛盾です。10節で、「全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることができるだろうか」と語るヨブにそのとき、全能者による喜びがあったとはいえないでしょう。

 ただ、苦難の中から希望を見出そうともがき、呻いて、苦しみからの解放をひたすら待ち望んでいるわけです。まるで、嵐の海に浮かぶ舟の中で枕して眠っている主イエスをたたき起こし、私たちが溺れ死んでもかまわないのですかと、取り乱して叫んでいたペトロのような(マルコ4章38節)、平安を失い、希望を失ってしまった姿です。

 とはいえ、主イエスはそのペトロの叫びを無視なさいませんでした。嵐を鎮め、目的地に無事たどり着かせてくださいました。それは、彼らの信仰の結果などではありません。主の恵みです。主を呼び求めることのできる幸いを思います。

 私たちは、自分の知恵や力ではなく、主イエスを拠り所とし、常に主イエスを呼び求め、主イエスの平安に与らせていただきましょう。

 主よ、どんなときにも思い煩うことなく、何事でも感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているところをあなたに打ち明けます。あらゆる人知を越えるあなたの平和で、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン




状況報告

昨日、突然私のパソコンがクラッシュしてしまいました。
復旧するためにあれこれ策を講じてみましたが、まったく功を奏しません。
現在、別のパソコンで作業を始めていますが、すぐ今までどおりにというわけにも行かないので、少し時間をいただきたいと思います。
ご了承ください。




7月16日(木) ヨブ記26章

「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」 ヨブ記26章14節

 26章は、ビルダドの三度目の発言に対するヨブの応答です。25章のビルダドの言葉があまりにも短かったことと、本章5節以下の段落のテーマがビルダドの主張に添ったものであるために、5~14節はビルダドの言葉であると考えて、25章6節以下につなげて解釈する学者も少なからずおられるようです。岩波訳も、その立場をとって翻訳されています。

 ことの真偽はよく分りませんが、主なる神は、ヘブライ語原典を現在のかたちで私たちに伝えさせておられるのですから、与えられているままに受け取り、学んでいきたいと思います。
 
 ヨブは、「あなた自身はどんな助けを力ない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え、どんな策を多くの人に授けたというのか」(2,3節)という言葉でビルダドの発言を遮り、反論を開始しています。

 ビルダドは、「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう」(25章4節)と言い、月星も神の前に輝きを失う(同5節)と語った後、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」(同6節)と語りました。ここに、人間のことを、「人(エノシュ:死ぬべき存在 mortal man)」、「女から生まれた者」、「蛆虫」、「虫けら」と語っています。

 月や星よりも清さにおいて劣る人、蛆虫、虫けらに過ぎない者が、神と言い争うことなど、許されることではないという発言でしょう。それを受けたヨブも、「力ない者」、「無力な腕」、「知恵のない者」と、それを展開しています。そして、友人たちによって、神の御前に力なく、無力で、知恵のない者とされている自分を、どのように助け、救い、忠告し、方策を授けたのかと問うのです。

 これは、ビルダドをはじめ、友らの言葉は、自分にとって、何の助け、救いにもならず、忠告を受けることも、苦難から抜け出す方策を授かることもなかったと、皮肉をこめて語っているわけです。

 5節以下に森羅万象の知識を披瀝していますが、これは、25章2,3節の、ビルダドの神の力、御業をたたえる言葉を受けて、その程度のことは知っているという表現です。これは、一回目の対話において、ビルダドの発言に対して答えた9章の発言に、重なる発言になっています。

 たとえば、9節の「覆い隠す」は、9章7節の「太陽は昇らず」、11節の「天の柱は揺らぐ」は、9章6節の「地の柱は揺らぐ」、12節の「海」、「ラハブ」は、9章8,12節に、出て来ます。

 その結論として、冒頭の言葉(14節)のとおり、「これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」と言います。あらゆる知力や感覚を総動員しても、神について見聞きし、知り得ることはごく一部、ほんの僅かなことだということです。

 このことも、9章2節、「神より正しいと主張できる人間があろうか」、また、同4節、「御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑なになりながら、なお、無傷でいられようか」と語っていました。 

 「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」という言葉の、「僅かな」(シェーメツ)というのは、大変珍しい言葉で、旧約聖書中2度だけ、それもヨブ記だけに用いられています。ここと、もう一か所は4章12節で、「かすかに聞いた」というところの、「かすかに」がそうです。エリファズは、神のかすかな声によって知恵の言葉を聞いた、それが17節以下の、括弧に括られている言葉だと語っていました。 

 それをヨブは、「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」と受けた上で、「その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」と語ります。「雷鳴」という言葉は、詩編81編8節に、「わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した」というところにも用いられています。この詩編の言葉は、出エジプトの物語を簡潔に描き出しています。

 神は、エジプトにおいて苦役のゆえに嘆いていたイスラエルの民の助けを求める叫びを聞かれ(出エジプト記2章23節)、モーセを遣わしてエジプトの国から導き出されました(同12章51節)。神は、民をシナイの荒れ野に導き(同19章1節)、シナイ山で十戒を含む律法をお授けになります(同20章1節以下)。その際、神は雲の中に姿を隠し、雷鳴をもってモーセに語られました(同19章16,18,19節)。

 雷鳴をもって語られる神のイメージを浮かび上がらせて、「かすかに聞いた」というエリファズに挑戦しているようです。また、「力強さ」(ゲブーラー)という言葉は、ここより前では12章13節で、「神と共に知恵と力(ゲブーラー)はあり、神と共に思慮分別もある」というところに用いられています。

 しかしながら、神の知恵、力の強さは、今のヨブにとって、自分が正しいと神の御前に主張することが出来ない(9章2節)、そうすれば、ただでは済まない(同4節)という、喜ぶことの出来ないものでした。「誰が悟りえよう」というのは、そういう思いなのでしょう。

 22章以下、三度目の対論において、ヨブの発言に、何度も「誰?」(ミー)という疑問代名詞が用いられます。23章2節、24章25節がそうでした。そして、今回は4節にも二度、用いられています。「誰が?」と言っていますが、その答えは明らかに、「神」を示しています。

 ヨブは4節で、ビルダドは、神の言葉を取り次いでいるのか、神の息吹(ネシャーマー:霊、息)があなたを通して吹いているのかと質しています。それを仄めかす発言は、ビルダドの言葉から伺うことは出来ませんが、4章のエリファズの発言を引用しているのは、自分も同様に神の霊の導きを受けているということを示しているのでしょう。

 こう尋ねるということは、彼らの発言が神の言葉の取次だとは思えない、彼らが神の霊の導きを受けているとは考えられないということでしょう。神に自分の苦しい思いを訴え、神に応えて欲しいと思っているヨブは、だから、友らの言葉はいらないと考えているのでしょうか。

 一方、力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらし、知恵のない者に忠告を与え、問題を解決する策を授けるためには、神の言葉、神の息吹が必要だと、ヨブは考えているわけです。それは、何より、ヨブが求めているものだからです。

 力がなく、知恵を必要としているとき、神の言葉を求めましょう。神の霊の導きを求めましょう。日々神の言葉、霊の導きに与り、その恵みを共に分かち合いましょう。力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらす神の愛の言葉、慰めの言葉を分かち合うことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。私たちが神について知っていることは僅かで、神の御言葉の力強い轟きに較べれば、私たちの言葉は囁きにもなりません。

 謙遜に、神の導きを祈り求めましょう。神に用いられる器として頂くために、主の導きに従順に、喜びと感謝をもって従う者となりましょう。

 主よ、私たちはふつつかな僕です。私たちに語るべき言葉、為すべき業を教えてください。御言葉と御霊の導きに従順に、喜びと感謝をもって従うことが出来ますように。この地に御心をなす器として用いてください。主の御名が崇められますように。 アーメン




7月15日(水) ヨブ記25章

「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらに過ぎない。」 ヨブ記25章6節

 25章は、シュア人ビルダドの、ヨブに対する三度目の発言です。ヨブの三人の友人がヨブに語る意見は、この章で終わりです。ツォファルの三度目の発言はありません。

 そして、ビルダドの発言は短く終わっています。その後、ヨブの言葉が長々続いているところから考えて、ビルダドの発言を途中で遮り、もはや彼らの意見に耳を貸すつもりはないこと、自分の思いのたけを述べ尽くすことだけが、彼の望みだったことを示しているかのようです。

 また、ビルダドの4~6節の発言は、かつてエリファズの4章17~19節、15章14~16節の発言を借用したものであり、ヨブの発言後、彼らはもはや反論していないことで、三人は、ヨブとの議論に手詰まりを覚えていたのではないかと思われます。

 4節以下の議論を導入するために、ビルダドは2,3節で、神の威光を語ります。「恐るべき支配の力」(2節)を持つ神が、高慢に神に逆らう者を退け、全宇宙に「平和を打ち立てられ」(2節)ます。「その軍勢は数限りなく」(3節)というのは、イザヤ書40章26節で示されるように、空の星のことを意味しています。その箇所の「天の万象」とは、「天の軍勢(ツァーバー)」という言葉です。

 創世記1章14~19節に日と月と星が創造されたという記事がありますが、それによって「昼と夜とを治めさせ」(同17節)というのは、ビルダドの言う「支配」(マーシャル)と同じ動詞が用いられています。

 「その光はすべての人の上に昇る」(3節)は、「その光を受けない者が誰かいるか」という言葉遣いです。ヨブは、神におびえさせられて、「わたしは暗黒を前にし、目の前には闇が立ち込めている」(23章17節)と言っていました。それに対し、神の支配は平和、その光はすべての人をあまねく照らすと反論しているわけです。

 ヨブは以前、「人間とはなんなのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」(7章17節)と言っていました。これは、詩編8編5節をもじったものです。詩人は、土くれに過ぎない人が、天地を創造された神に顧みられている感動を歌っています。特に、御手によって造られたものをすべて「治める」(マーシャル)という(同7節)、栄光ある使命が与えられた(同6節)ことに、驚きを表わしているのです。

 一方、ビルダドが「月すらも神の前で輝かず、星も神の目には清らかではない」(5節)といった後、冒頭の言葉(6節)のとおり、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」と語るのは、人は、正しさ、清さにおいて、神の前に輝かない月、清いとされない星よりも、劣った存在だと告げていたのです。

 「蛆虫」は、17章14節、21章26節で、死を象徴するものです。「虫けら」は、マタイ福音書6章19節、20節との関連で、腐食を示しているのではないかと思います。土くれを「塵」と称するのと同様、人は死ぬべき存在、しかも、「蛆虫」、「虫けら」ということで、最期の時が迫って来ていることを思わせます。

 詩人もヨブも、ビルダドが考え、発言していることを否定することはないでしょうけれども、ビルダドは、人間の死ぬべき運命、弱さ、はかなさを思わずにいられない存在に、神がお与えになった、すべて命あるものを治めるようにという言う素晴らしい使命を忘れているかのようです。

 「人がどうして神の前に正しくあり得よう」という言葉は、ヨブばかりでなく、エリファズ、ビルダド、ツォファルらにも、そして、今ヨブ記を読んでいる私たちにもあてはまります。いったい誰がヨブに石を投げることが出来るでしょうか。そんな資格のある者はいません。皆同じ罪人なのです。

 パウロが、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」と指摘しているとおりです(ローマ書3章9~12節)。

 私たちは、自分で自分を義とすることは出来ませんけれども、しかし、最後の審判の時、主イエスが私たちの右にお立ち下さり、神の御前で私たちのために弁護者として私たちの無罪を主張してくださいます。それはちょうど、サタンに向かって、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(1章8節)と語られた神の言葉のようなものではないでしょうか。

 なぜ、神の前に正しくあり得ないと言われる人間が、「無垢な正しい人」と評価されているのでしょうか。神は、ヨブが自分の義を盾に、神は間違っていると主張し始める前だったので、そう評価されたというわけではないでしょう。サタンの試みに遭えば、無垢ではいられなくなるということを、神はよくよくご存じだったのではないでしょうか。

 それにも拘わらず、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と賞されるのは、主イエスの贖いの業、救いの恵みゆえです。主イエスがご自分の十字架の死によって、私たちを訴えて不利に陥れる証書を、その規程もろとも破棄してしまわれたからです(コロサイ書2章14節)。

 私たちの罪の代価がキリストの十字架を通して支払われたので、私たちは主に結ばれて、罪なき者として生きることが出来るようにされたわけです。そしてそれは、私たちが神がお与えくださる新しい使命に生きることなのです。

 神の恵みを無駄にせず、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせ、心から父なる神に感謝しつつ、委ねられた使命を果たすべく、その御業に励みましょう。

 主よ、主に敵対して歩んでいた罪人の私のために、御子が贖いの業を成し遂げてくださったこと、その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。御名が崇められますように。和解の御業が前進しますように。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン




7月14日(火) ヨブ記24章

「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。」 ヨブ記24章12節

 ヨブは、「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」(1節)といって、神の御心が分からない中で、神が蓄えている(ツァーファン:「隠す、蓄える」の意)時の中に、世の中の不正を正すための「神の日」を定めておられるはずなのに、それを見られないのはなぜかと訴えます。

 ヨブがそう考える根拠が、2節以下12節までに列挙されています。うち、2~4節の弱い立場の者が虐げられ、力づくで隣人のものを貪るという悪については、エリファズが22章5~9節で、ヨブが行っていると告発していた内容です。

 しかし、ヨブは、それを行っている悪人を告発する目的で、それらを語り出したわけではありません。悪人によって苦しめられている人々に共感しつつ、その最後に、冒頭の言葉(12節)のとおり、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」と、深い嘆きを語るのです。

 「心を留める」は、23章6節で「顧みる」と訳されていた、シームということばです。23章では、神がヨブの訴えを心に留めてくださるという期待を語りました。しかしながら、現実には、ヨブにお答えにならないだけでなく、断末魔の呻きをあげている者、深く傷ついてあえいでいる者にも、目をお留めくださらないのです。

 「惨状」(ティフラー)は、「空しい、愚かさ、愚劣さ、良くない」といった意味の言葉ですが、この言葉は、1章22節で、「このようなときにも、ヨブは神を非難(ティフラー)することなく、罪を犯さなかった」というところに用いられています。この意味を生かせば、神は呻き、喘ぎをもってする非難にも心を留められないということになります。

 神が悪に、そしてそれによって苦しめられている者に目を留められない様子を、13節以下に語ります。14節に、「人殺しは夜明け前に起き、貧しい者、乏しい者を殺し、夜になれば盗みを働く」と言います。「夜明け前に」というのは、「光に」(ラー・オール)という言葉です。

 13節に「光に背く者」とあるので、「光に」とは、「光に逆らって」の意味かも知れません。ただ、後半の「夜になれば盗みを働く」との関連で考えると、「光」は「昼」を表すもので、日の高いときに人を殺し、夜には盗みを働くということになります。いかに神が悪を見逃しておられるかというしるしです。

 エリファズの22章の発言に対する応答として、「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」という言葉で発言を始めたヨブが、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」(12節)と嘆きを語っているのは、出エジプトの出来事に対する疑いを言い表す挑戦的なものだという解釈があります。

 出エジプト記2章23節に、「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」と記されています。このときに、エジプトの苦役によるイスラエルの人々の呻き、助けを求める叫び声は神に届きました。

 ヨブは、23章3節で、「どうしたら、その方を見出せるのか。おられるところに行けるのか」と問うていました。イスラエルをエジプトから救い出した神、そのために燃える柴の中から語りかけた(出エジプト記3章4節以下、9節)あの神はどこにいるのか、と問うのです。

 このとき、あるいはヨブの目に、民の苦しみを見、叫び声を聞き、その痛みを知り(同3章7節)、その苦しみから連れ出してくださる(同10節)という神は見えず、むしろ、民の痛みを感じようとせず、頑迷になって行くファラオのように神を見ていたかも知れません(同5章以下)。

 ヨブは今回の発言を、「だが、そうなっていないのだから、誰が、わたしをうそつきと呼び、わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか」という言葉で閉じています。

 23章3節の、「どうしたら、その方を見出せるのか」は、「誰が与えるのか」(ミー・イッテン)「わたしは知る」(ヤーダッティー)という言葉遣いでした。つまり、「誰が」(ミー)という同じ疑問代名詞が、ヨブの発言の初めと終わりに用いられて、特徴づけているわけです。

 「断じる」は、23章6節(顧みてくださる)、24章12節(心に留めてくださらない)に続き、今回のヨブの発言で3度目に用いられる「シーム」という言葉です。 神が顧みてくださるのか、心に留めてくださらないのか、相反する思いを内に抱えたまま、今日もヨブは「苦しみ」(メリー:23章2節=反抗)つつ、神を呼び求めているのです。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ福音書5章6節)と、主イエスが山上の説教(同5~7章)において語られました。ここに語られている「義」とは、神との関係を示しています。私たちと神との間に正しい関係が造られる時、それを「義」というのです。義兄弟という言葉でいう「義」がそれです。義兄弟は本当の兄弟ではありませんが、兄弟の関係となったということです。

 「神の義」、即ち神との正しい関係を、人間が自ら造り出すことが出来ません。むしろ、人間は神の前に罪を犯し、義を損なって来たのです。そこで、「義に飢え渇く」とは、神との正しい関係を強く求めることです。主イエスは、義に飢え渇く者は、神がそれを満たしてくださると約束されました。

 それは、神御自身が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そして、そのことのために、独り子イエス・キリストをお遣わしになりました。キリストが御自分の命をもって私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子とし、永遠の命に与らせてくださったのです。

 それはまだ、ヨブの目には隠されています(1節)。しかし、必ず時は満たされるのです。神の国は来るのです(マルコ福音書1章15節)。

 主よ、ヨブは今、神が自分の呻きに応えてくださること、神の日を見ることを、飢え渇く思いで求め続けています。それに応えるかのように、義に飢え渇く者は幸いと語られた主イエスの御言葉を感謝します。求めを満たしてくださるという約束をいただきました。御心がこの地に成りますように。全世界に主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン




7月13日(月) ヨブ記23章

「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ。」 ヨブ記23章10節

 23,24章は、エリファズに対するヨブの三度目の応答ですが、このとき、ヨブの目はエリファズではなく、どこにおられるのか分からない神に向けられているようです。

 2節の、「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」で、「嘆き」(シーアハ)という言葉は、21章4節で「わたしは人間に向かって訴えている(シーアハ)のだろうか」というところに用いられていました。それは、神に向かっての嘆きなのだということです。また、「苦しみ」と訳されているのは、「反逆、反乱、謀叛」(メリー)という言葉です。神に反抗する訴え、嘆きを行っているということになります。

 エリファズが、「神に従い、神と和解しなさい」(22章21節)と奨めていましたが、ヨブはむしろ、嘆き訴えて反抗することが、自分の敬虔な信仰を表わす神への祈りだといっているかのようです。 

 「呻きのために、わたしの手は重い」も、祈りの姿勢を示しています。詩編28編2節に「嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます」とあります(77編3節など参照)。「手は重い」というのは、出エジプト記17章12節で、疲れて上げた手が下がるさまを示していました。ここでは、祈りの答えがなかなか与えられず、気力が萎えて来ていることを示しているのでしょう。

 3節に、「どうしたら、その方を見出せるのか。おられるところに行けるのか」というように、神がどこにおられるのか、どうすれば自分の訴えが神に届くのか、皆目分からなくなっているのです。であれば、神に向かって祈っているのか、ただぶつぶつと不平を呟いているだけなのかと、不安になってしまいます。

 ヨブは、9章32節以下に言い表したように、ここでまた、神と共に裁きの座につくことを願い求めます。そうすれば、神の面前に訴えを整え、言い分を伝えることが出来るからです(4節)。また、神の応答の言葉を聞き、御心を悟ることも出来ます(5節)。

 そうすれば、神が自分に「心を留め」(シーム:1章9節、4章20節など)、自分の「訴え」(ミシュパート)が「解決」(パーラト:「救い出す」、21章10節では「子を産む」と訳されている)されます(6節)。19章25節の、「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」という希望の光が、ここにも見られます。
 
 けれども、その光はとても弱くなっています。日の昇る方へ進んでも、日の沈む方へ退いても、左へ、右へと目を転じても、神が見いだせないのです(8,9節)。つまり、ヨブの訴えに応える神の言葉が、ヨブの耳に聞こえてこないのです。

 それでもヨブは、諦めはしません。神が必ず自分の正しさを認めてくださると信じています。冒頭の言葉(10節)で、「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」といい、続けて、「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない」(11節)、「その唇が与えた命令に背かず、その口が語った言葉を胸に納めた」(12節)と語っています。

 「わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」というのは、22章24節でエリファズが、「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい」という言葉の受けてのものです。同25節に「全能者こそがあなたの黄金」と述べていることから、24節の「黄金」は、その時ヨブが大切にしていたもの、自分が正しく経験に生きて来たという思い、誇り、その主張を指しているといってよいでしょう。

 それを塵の中に置くとは、その要求を捨て去るように、葬るようにということでしょう。その誇りが高ぶりとなり、神の前に謙り、忠実に聞き従うことを妨げていると、エリファズは考えていたわけです。

 しかしヨブは、それをきっぱり拒絶し、試してもらえば、自分がどのようなものか、分かると言います。金に不純物が含まれていないか、金でメッキしただけのものではないか、比重を量ったり(金は19.32g)、一定温度で溶かしてみれば、何が混ざり込んでいたのかも分かります(金の融点は1064.18℃)。

 それによって、自分の信仰が純粋なものだということを確認してほしいということでしょうけれども、このとき、ヨブは自分で気づかないまま言っているのですが、それこそ火のような試練(第一ペトロ書4章12節)で、彼の信仰の純粋さ、無垢で敬虔なものであることが試されているわけです(1章8節以下、2章3節以下)。

 ヨブと三人の友らとのやりとりは、ヨブがそれまで信じて来た旧来の因果応報的な信条と、自分を苦しめている現実とのギャップに苦しんでいるヨブ自身の心の葛藤が投射されているものと言ってもよい内容です。
 
 そこで、ヨブが真に拠り所としているのは主なる神なのか、それとも神に「従って歩み、その道を守って、離れたことはない」という自分の正しさなのか、そこが問われているといってもよいのかも知れません。神を見出そうとして見つけることが出来ないのは、ヨブが自分の正しさを神に認めさせようとするその自信が、彼の目を曇らせているように思われます。
 
 マタイ19章16節以下で、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年に対して、主イエスは、「命を得たいのなら、掟を守りなさい」と答えられました。そういうことはみな守って来ましたという若者に、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。

 そのとき青年は、主イエスの言葉に従うことが出来ませんでした。「悲しみながら立ち去った」と記されています(同22節)。そしてそれは、「たくさんの財産を持っていたからである」と、その理由が述べられています。

 青年は、掟を行うのに熱心であり、そのことに誇りを持っていたことでしょう。彼がたくさんの財産を持っているのは、神に祝福されているしるしと考えられていたでしょう。青年が主イエスの言葉に従うことが出来なかったのは、主イエスに従って永遠の命を得ることよりも、自分の持ち物の方が大事だったわけです。

 エリファズが求めて、ヨブが拒否した、「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい」という奨め、改めて、それは本質的な問いだということが分かります。そして、それはヨブならずとも、金持ちの青年ならずとも、誰にも出来はしないのだろうと思います。神の義を、自分のなす業、行為で獲得することは出来ません。
 
 それは、ただ主イエスを信じる信仰により、恵みとして与えられるのです(ヨハネ3章36節、エフェソ2章8,9節)。恵みの主に信頼して、歩み出しましょう。

 主よ、私たちの目を開き、常に主の御顔を仰がせてください。私たちの耳を開き、御言葉に耳を傾けさせてください。何よりも私たちを愛し、恵みをお与え下さる主に信頼し、主に従って歩ませてください。主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン



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