風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年07月

7月31日(金) ヨブ記41章

「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。」 ヨブ記41章25節(口語訳:33節)

 神はヨブに対し、大地や海、天体などの大自然について(38章1節以下)、また、雌獅子や烏などの動物について(38章39節以下)、その理解を尋ねたのに続き、ベヘモット(40章15節以下)とレビヤタン(同25節以下:口語訳は41章1節以下)について、問いかけました。41章には、引き続きレビヤタンを描写する表現が列挙されています。

 口語訳聖書では、ベヘモットもレビヤタンも実在の動物と考えて、ベヘモットを「河馬」、レビヤタンを「わに」と翻訳していましたが、新共同訳は原語の音をそのままカタカナ表記にして、陸と海の怪獣のような表現にしています。新改訳はその折衷案のように、ベヘモットは「河馬」、レビヤタンはそのままのカタカナ表記にしています。

 解釈は様々でしょうが、既に39章に実在の動物は取り上げられていますから、ここは、新共同訳聖書のように、陸と海の怪獣という神話的な表現と考える方がよいと思われます。特に、「口からは火炎が吹き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで、鼻から煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る」(11~13節)は、実在の野生生物ではあり得ません。

 創世記3章に、蛇が善悪の知識の木の実をとって食べるように女性を唆し、神に背かせたと記されています。実在の蛇が人間のようにものを言うはずがありませんから、それは、悪魔サタンが蛇の姿を借りて人間を誘惑したのだと解釈されます。レビヤタンは、イザヤ書27章1節では蛇、海にいる竜とあり、まさに悪魔的な存在をさしていると考えることも出来ます。

 人は、自分の力で悪魔に立ち向かうことが出来るでしょうか。1節で、「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ」と言われ、17節には、「彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」と記されています。さらに、冒頭の言葉(25節)でははっきりと、「この地上に、彼を支配する者はいない」と断言されています。

 「地上」(アル・アーファール)とは、「塵の上」という言葉です。「支配する者」(モーシェル)は、「似たもの」という意味もあり、この言葉の動詞形(マーシャル)が30章19節で、「等しくなる」という意味で用いられています。 その箇所で、ヨブは、「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった」と語っていました。「塵」とは、そこから造り出された人を意味しています。

 人の中に、レビヤタンに等しいもの、これに並び得る者はいない、むしろ、「奢り高ぶるものすべてを見下し、誇り高い獣すべての上に君臨している」(26節)と、さながら、レビヤタンがすべての生物の王であるかのように言われています。「奢り高ぶるもの」(ガーボーアハ)は、40章11,12節とは違う言葉が用いられていて、ここではヨブに当てて用いられているようです。 

 ところで、ここで何故神は、レビヤタンを話題にしておられるのでしょうか。それは、神がレビヤタンを支配しておられること、御自分の思いのままにレビヤタンを用いることが出来るということを示しておられるのです。まさしく、人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(3節)と言われるとおりです。

 ヨブは、サタンにさんざん苦しめられました。そして、三人の友らと言い争い、自らの義を強く主張するあまり、神が間違っているとさえ、考えてしまいました。感情的になったヨブは、自分の内なるレビヤタンを治めることが出来なかったのです。

 主なる神は、ヨブの内にある高ぶりの芽、自己中心の苦い根があることを知らせるため(ヘブライ12章15節参照)、サタンを用いてヨブを試みることを許し(1章12節、2章6節)、改めて神の御前に謙り、主に信頼して御言葉に聴き従うように導かれたわけです。

 そうして、主なる神は、御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされました。御子は、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られましたが、三日目に甦られました。その死と復活によって、罪と死の支配に打ち勝ち、罪に死んでいた私たちを命の支配のうちに移して下さいました。私たちの罪は赦され、神の子として生きることが出来るのです。それは、一方的な神の恵みであり、憐れみです。

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ書5章8~10節)。

 マルコ10章35節以下で、ヤコブとヨハネが主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(同37節)と願いました。「栄光をお受けになるとき」は、主イエスが王になられるときという意味で用いられています。それに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(同38節)と仰いました。ヨブと神との対話のようです(38章2節、42章1~6節)。

 さらに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(同38節)と尋ねられました。予め、「できません」という答えを想定しての問いだと思いますが、しかし、二人は、「できます」と答えます(39節)。そして、主イエスも、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」と肯定されました。

 その後、言葉をついで、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(同43,44節)と言われました。ここに、キリストによる支配が、ヤコブとヨハネが考えていたような、この世の王としての支配ではなく、また、レビヤタンのような暴力的力による支配でもなく、僕として皆に仕えるというものだと明らかにされています。

 そして、主イエスに従う者たちは、神のかたちに造られたものであることを、皆に仕える僕となるという召しに答えることを通して、人々に証しする者となるよう、招かれているのです。自分の知恵知識、経験などで、そのようになれるわけではありません。私たちを招かれる主に信頼し、御霊の満たしと導きに与ってこそのことです。

 十字架の主を仰いでその御顔を拝し、御口をもって語られる御言葉一つ一つに真剣に耳を傾けましょう。常に私たちと共にいて、私たちのために執り成し、慰め励まして下さる主イエスの御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、私たちは自分一人で立っているのではありません。常に主が共にいて、私たちを立たせてくださっています。御前に謙り、主により頼みつつ、御言葉に聴き従って歩ませてください。絶えず聖霊に満たし、主の御心を行う力をお与えください。全世界に主イエスの平和がありますように。 アーメン



7月30日(木) ヨブ記40章

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」 ヨブ記40章6節

 1,2節は、神の第一の発言の締めくくりです。2節の「引き下がるのか」と訳されているのは、4章3節で「諭す」(ヤーサル)という言葉の名詞で、「非難する者」(イッソール)という言葉です。動詞の意味を加味して訳すと、「全能者と言い争うのは教え諭す者か」という言葉になります。

 「責め立てる者」(モーキーアハ)は、9章33節で、「調停する者」と訳されていました。ヨブが、神との間を調停、仲裁してくれることを期待した人のことです。動詞の「ヤーカー」は、「裁く、責める、決定する」という意味です。

 ヨブは、本気で神と言い争うことができると考えていたのでしょうか。しかし、神の発言を聞いて、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」(4節)と答えています。ヨブの心は、神を畏れる思いで完全に満たされていることでしょう。

 7節から、神の第二の発言が記されます。そこで、38章3節の言葉を再度繰り出し、続けて、「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪にするためにわたしを有罪とさえするのか」と問いかけられます。「定めたこと」(ミシュパート)は、「公正」と訳される言葉です。

 ヨブは27章2節で、「わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」と言っていましたが、「権利」と訳されているのが「ミシュパート」で、わたしのミシュパートを取り上げ、苦しめる全能者を告発していたのです。

 そのようにしながら、自分が神に対して同じことをしているというのは、ヨブ自身、考えもしていなかったことでしょう。このように神を告発していたのは、ヨブが、応報の原則によって「義」(ツェデク)や「公正」(ミシュパート)を考えていたからです。友らが、その原則に従って、ヨブに罪があるとしていたのを、ヨブは、自分は無実なのに、苦難を受けるのは、神が公正ではないからだと批判する結果になっていたのです。

 それが、神の経綸を暗くすること(38章2節)、ヨブが無罪を主張するために神を有罪とすること(8節)と批判されるということは、応報の原則によって神の義を考えることはできないということを示しています。

 9節に「腕」という言葉があり、、14節に「自分の右の手」という言葉があって、ヨブの力を示すものによって9~14節の段落を括っています。そして、10~13節に、王権を象徴する装束を身に着け、王たる者にふさわしく行動することができるかとチャレンジしています。ヨブは、このチャレンジを受けて、神に代わり、奢り高ぶる者、神に逆らう者を排除することができるでしょうか。

 もしできれば、神はヨブを賞賛し(14節)、神にも劣らぬ者であること(9節)を認めようというのですが、ヨブならずとも、誰にもできるものではありません。そもそも、奢り高ぶる者、神に逆らう者をすべてこの世から排除して、王国が成り立つでしょうか。ヨブ自身でさえ、この世に留まることが許されないでしょう。

 それは、神にしかできないということではありません。神は、ご自分が支配するこの世界を、そのように暴力的な力で支配しようとはなさらない、ご自分に逆らう者を力で排除するという仕方で、この世を治められてはいないということです。そのことについて、38章39節~39章30節の箇所で、野生生物の支配について語るところで、既に語っておられました。

 あらためて、冒頭の言葉(6節)に目を留めてください。神は、第二の発言でも再び、「嵐の中から」ヨブに語りかけられました(38章1節参照)。嵐の中で語りかける神のイメージは、モーセがシナイ山で十戒を受けた時、山全体が雷雲に包まれ、雷鳴がとどろいて、宿営していた民が震え上がったときのことを思い起こさせます(出エジプト19章参照)。

 また、ソロモンが神殿の奉献式において賛美を捧げたとき、そこに雲が満ちたことがあります(歴代誌下5章13節)。雲は、神の臨在のしるしでした。その雲が雷雲であれば、それは神の臨在を示しているだけでなく、許可なく神に近づくことを許さないというしるしでしょう。

 そのうえ、その雲が「嵐」をもたらすものならば、どうなるのでしょうか。嵐は、ヨブの長男の家を倒壊させて子どもたちのすべての命を奪いました(1章19節)。ヨブにとってそれは、大きな苦しみであり、また悲しみです。嵐が今、ヨブに立ち向かっているということは、ヨブに対する神の裁きと考えてもよいでしょう。

 ヨブは苦しみをもたらした神に訴えて、答えを求めていたわけですが、耐え難い苦難を通して神が語りかけておられることに、今ようやく気がついたと読むことも出来そうです(36章15節参照)。

 ヨブは、自分の正しさを神が認めてくれるようにと求めるあまり、むしろ、神から遠く離れることになってしまったことに気づかされたのです。そして、自分に厳しく、しかし慈しみをもって迫り、問われる神の言葉により、主が神であられること、また自分が神の被造物であるということを、再認識させられました。それはしかし、もう一度神の恵みに目を開かせることだったのです。

 モーセがシナイ山で十戒を授かったとき、山全体が激しく震え、モーセの語りかけに雷鳴をもって答えられるという恐るべき光景が展開されていたわけですが、モーセはそこで神と親しく語らい、40日40夜を飲まず食わずで過ごしました。飲食を忘れるほど、いえ、神と親しく交わることは、モーセにとって、私たちの理解を超えた、真の食べ物であり、飲み物だったのです(ヨハネ4章32,34節、6章53節以下、55節)。

 詩編34編18,19節に、「主は助けを求める人の叫びを聴き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」と詠われています。直接語りかけられた神の御前に、己の傲慢を思い知らされ、自己中心の罪を示されて平伏しているヨブにとって、神の御言葉は厳しくありますが、しかしそれは、ヨブの目を開いて悔い改めさせ、再び神との親密な交わりに導くものとなったわけです。

 2000年前のペンテコステの日、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」ということ(使徒言行録2章2節)、そして、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」という出来事があり(同4節)、ペトロの説教を通して3000人もの入信者を獲得して(同41節)、エルサレムに教会が誕生致しました。

 「激しい風」は、聖霊の到来を表わしており、そして、それまで権力の前に怯えていた使徒たちに神の力を与え、宣教の働きが著しく伸展しました。「霊」は、ギリシア語(プネウマ)でもヘブライ語(ルーアッハ)でも、「風」とも訳される単語です。聖霊が激しく信徒たちの上に働きかけたということになります。

 十字架の前にひざまずき、約束の聖霊に満たされ、喜びをもって従順に主に従う者としていただきましょう。

 主よ、御前に謙り、様々な方法を持って語りかけられる御声に絶えず耳を傾けます。聖霊の助けと導きを求めます。私たちの耳を開いてください。日々上からの力に与り、頂いている恵み、平安、喜び、慰め、癒し、助けを周りの人々と分かち合うことが出来ますように。主の恵みと導きが私たちと共に常に豊かにありますように。 アーメン



7月29日(水) ヨブ記39章

「神が(駝鳥に)知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。」 ヨブ記39章17節

 38章39節から39章30節まで、神はヨブの目を、地上の動物、空の鳥たちに向けさせます。獅子(38章39,40節)、烏(同41節)、山羊(1節a)、鹿(1節b以下)、野ろば(5節以下)、野牛(9節以下)、駝鳥(13節以下)、馬(19節以下)、鷹(26節)、鷲(27節以下)です。馬以外はすべて野生のものであり、馬は軍馬で、おとなしさとは無縁のものとして描かれています。

 これら鳥獣の生態については、殆ど何も知りません。ここに記されているのが、科学的に正確な描写であるのかどうかも分かりません。神が造られた動物で、その名を知っている動物であってもも、分からないことだらけです。

 獅子と烏についての描写(38章39~41節)と、鷹と鷲についての描写(39章26~30節)は、猛獣と猛禽の営巣、子育てに関する表現でこの箇所を括っており、それは、人に容易く飼い慣らされず、むしろ危害を加える力のある爪や牙、嘴に恐れと不安を感じるというものです。

 創世記1章26~30節には、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配するものとして、人が創造されたことが記されています。その支配権は、神のかたちに造られたところにあると示されています。神は今、生物の支配者なる人間の代表者ヨブに対して、この目録を示しつつ、獅子や烏、鷹、鷲などを治めることができるのか、と挑戦しておられるかのようです。

 もっとも、創世記1章30節に、「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」と記されており、その段階では、すべてのものがベジタリアンで、お互いに危険な存在ではなかったことが示されます。

 肉食が許されるのは、同9章3節で、箱舟を出たノアに対して、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしは、これらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」と言われました。そのときから、動物が人を恐れるようになり、また、反撃するようになったということでしょう。

 イザヤ書11章6~9節に、肉食獣と草食動物、人と動物の関係が、創造当初の平和な関係に戻ったかのような預言が記されています。それは、平和の王に導かれた終末的な世界の状況でしょう。そのとき、あらためて人が彼らを治める支配者となるのでしょう。それはしかし、力による支配、恐れと恐怖をもたらす支配ではなく、「小さい子供がそれらを導く」(同6節)という、支配という言葉が似合わないほど穏やかな、やさしい支配です。

 ところで、ここに記されている動物の中で、駝鳥の評価が最低です。鳥なのに空は飛べませんし(13節)、卵は産みっぱなし(14,15節)、雛を守ろうともしない(16節)というように、ひどい言われようです。そして、その理由は、冒頭の言葉(17節)のとおり、神が駝鳥に知恵、分別を与えなかったからだと書かれております。

 それでも神は、駝鳥を見捨てられているわけではありません。駝鳥にも神の特別な配慮があるのです。駝鳥は強靱な脚力で、馬やその乗り手(人間)をあざ笑うかのような走りが出来ます。

 人間は、神のかたちに創造されており(創世記1章26節以下)、被造物の中の最高傑作だと言われます。だからといって、ここで評価の最も低い駝鳥を、自分の思い通りに動かすことなど、容易に出来るものではありません。

 神は何故、駝鳥のような鳥を創られたのでしょう。それは、神にしか分かりません。誰もその経綸を悟ることは出来ません。神に代わることは出来ないのです。

 以前、駝鳥の卵を使って鳥インフルエンザウイルス(H7N9型)の抗体を作ったというニュースを見ました。ウイルスを不活化する抗体をダチョウの卵から精製することに、京都府立大学生命環境科学研究科の塚本康浩教授のグループが成功し、実用販売されています。

 何でも、駝鳥は傷の治りがきわめて早く、灼熱の砂漠で生きながら寿命が60年もあります。その驚異的な生命力に着目した塚本教授は、「すさまじい免疫力の持ち主で、抗体を作る力も強い」と見て研究し、卵から大量の抗体を取り出す技術を開発したそうです。

 その抗体をスプレーに入れて、マスクに吹き付けると、病原体から完全に防護してくれるというものでした。駝鳥の卵は病原体への抵抗力が強く、その上、鶏の卵の20~25倍の大きさがあり、卵1個からマスク8万枚分の抗体がとれるそうです。また、卵1個の抗体からインフルエンザ検査薬が2万人分作れるとも報道されていました。

 先月、韓国で猛威を振るったmers(マーズ)の抗体を、駝鳥の卵を使って精製することに成功しました。現在、有効性、安全性などを検証中だということですが、韓国などにスプレー剤にして既に送られたのだそうです。昨年大流行したエボラ出血熱のウイルスを不活性化する抗体の精製にも成功して、実用化されています。

 駝鳥は年間100個近い卵を産むそうで、しかも前述の通り、駝鳥の寿命は60年以上、産卵期間も40年ほどあることから、同質の抗体を長期間にわたって安定供給出来ることも強みということでした。また、肉は高タンパク低脂肪で健康志向で需要が高まり、世界各地に飼育農場が増加しているそうです。

 勿論、脅威のウイルス対策やメタボ対策という人間の健康保持のために、神が駝鳥を創造されたわけではないでしょう。とはいえ、駝鳥のお蔭で、私たち人間の命が守られるというのは、確かなことです。神が造られた被造物の多様さ、しかも、その一つ一つに注がれている配慮の細やかさには、目を見張るばかりです。

 神がヨブに創造の神秘を語られるのは、被造物一つ一つに込められている神の深い御心に気づかせるためでしょう。そして、それによって、ヨブの上にも神の特別な配慮があることを気づかせるためだったのではないでしょうか。

 慈しみ深い神に信頼し、すべてをその御手に委ねることの出来る者は幸いです。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と言われているとおりです。

 主よ、御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。その威光をたたえます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが私たちを御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。測り知れない恵みに与っていることに感謝し、心を尽くしてその御愛を語り伝えます。全世界に主イエスの平和が豊かにありますように。 アーメン



7月28日(火) ヨブ記38章

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」 ヨブ記38章2節

 1節に、「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と記されています。主なる神が、雷鳴や山鳴りの中からモーセに語られ(出エジプト記19章16節以下)、激しい風と火の後エリヤに語られたように(列王記上19章11節以下)、嵐の中から、ヨブにお答えになりました。即ち、このとき、嵐が主の顕現されたしるしでした。

 ヨブは、このときをどれだけ待ち侘びたことでしょう。ようやく、直接に神と語り合える、念願のときが巡って来たのです。けれども、その出会いは、ヨブが望んでいたようには展開しませんでした。ヨブは、なぜ自分が苦難を味わわなければならなかったのか、神の不当なやり方を問いつめるつもりでした。神から何を言われても、自分の正当性を徹底して主張するつもりだったのです(13章22,23節、14章15節、31章35節以下など)。

 しかし、神はこのようなヨブの問いに対して、全くお答えにはなりませんでした。むしろ、冒頭の言葉(2節)のとおり、ヨブに、「お前は何者か」と問います。ヨブは、神を被告席に立たせて、原告、あるいは検察官として、神のなさった仕打ちの不当性を訴えるつもりだったようですが、逆にヨブが被告席に座らされ、神の質問に答えさせられます。

 柴の燃える炎の中から語りかけられ(出エジプト記3章2,4節)、イスラエルの指導者として民をエジプトから連れ出すという使命が与えられたとき(同7節以下、10節)、「わたしは何者でしょう」と答えています。自分が神の前に立ち、その使命を果たすことができる人物だとは考えられないという発言です。

 「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(3節)といって、「何者か」の返答を求められます。それは、神との関係において、ヨブが何者なのかを神に知らせるというより、ヨブ自身が再認識するための、もっとも大切な問いとして、初めに語られています。

 神は、これまでのヨブの弁論を、「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(2節)と、切って捨てるように語られました。「経綸」(エーツァー)は、「計画、助言、構想、目的」という意味の言葉で、12章13節では、「思慮」と訳されています。

 その箇所でヨブは、「神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある」と言い、その神の思慮、神の計画は、「暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出され」(同22節)、「この地の民の頭たちを混乱に陥れ、道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる」(同24節)というものだと語っています。

 このような言葉に異議を唱えるために、「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と仰ったわけです。そう言われた上で、お前は何者か、男らしく答えよと問われて、なんと返答することができるでしょう。

 そうして、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)といって質問を始められます。この問いは、イザヤ諸40章12節以下の預言の言葉に似ています。神の創造の御業の秘密を、どうして人が知ることが出来るでしょう。このような質問に、どうすれば答えることが出来るでしょうか。それは到底不可能です。

 12節以下に、「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(12節)といって、朝の光が闇を追い払うように、神に逆らう者を地上から払い落とすというイメージが語られ(13,14節)、続く16節から、深淵の底(16節)、死の闇の門(17節)という深い暗闇の世界を知っているかと問います(18節)。

 そして、19節以下に、光と闇との関係について考えさせます。20節の「光をその境にまで連れて行けるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか」は、原文を直訳すると、「あなたはそれを領地まで連れて行けるか、また、あなたはそれの家の道を知っているか」となり、「光」、「暗黒」という言葉はありません。これは、18節の光と暗黒の順をそのまま19節に当てはめるという、訳者による解釈です。

 19節の直訳、「光の住まいに至る道はどれか、暗黒の場所はどこか」と20節の「あなたはそれを領地まで連れて行けるか、また、あなたはそれの家の道を知っているか」とをよく見ると、19aの「住まい」と20bの「家」、同じく「道」という言葉、それに対して、19bの「場所」と20aの「領地」という、いわゆる交差配列になっていることが分かります。

 ということは、光と暗黒の順が20節では交差して、暗黒と光という順になると考えるべきでしょう。ということは、20節は、「暗黒をその境にまで連れて行けるか。光の住みかに至る道を知っているか」という訳語になります。

 そうすると、「光」(19aと20b)が、「暗黒」(19bと20a)を囲んでいる形になります。「暗黒をその(ゲブール:「地境、領地、縄張り」の意)に連れて行く」というのは、闇に覆われていた世界に神が「光あれ」と命じられて、昼と夜ができたという創世記1章3~5節の記事で、光によって暗黒の場所が定められたこと、と解することができます。

 さらに、12節から21節までの、光と暗黒のテーマを取り扱っているこの箇所で、12節の「一生に一度でも」は、「あなたの日から」(ミー・ヤーメイ・ハー)という言葉です。そして、21節の「人生の日数」という言葉も、同じ「あなたの日から」という言葉です。つまり、「あなたの日から=あなたの人生は」というのが、この箇所の枠組みになっているのです。

 つまり、ヨブの人生には、光と暗黒というものがあること、しかし、暗黒は光に囲まれ、その場所が定められているということを示すかたちになっているわけです。

 初めは「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と、ヨブの高ぶりともいうべき罪を指弾されるような、「嵐の中から」語りかける神のきわめて厳しい表情を思い浮かべていたのですが、勿論、厳しい内容をもっていると思いますけれども、しかしながら、学んでいるうちに、なんだか、優しいおじいさんが可愛い孫に笑顔を見せながら語りかけているような、そんな慈しみを感じてきました。
 
 もしも神がヨブを断罪するつもりであれば、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えて見よ」(3節)と仰るまでもなく、たとえば、あのウザを一瞬に打たれたように(サムエル記下6章7節参照)、ヨブを打たれたことでしょう。

 しかしながら、神はここでヨブに、神の経綸を知ること、真に悟ることを求められたのだと思います。そして、ヨブの誤った自信、自分を義とする思いを砕き、さらに深く神に依り頼む信仰の心を、ヨブに授けてくださろうとしているのです。

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ書1章26,27節)と、パウロが記しています。

 神の深い計画を人がすべて知ることが出来るはずもありませんが、それは、神が御自分の創造された世界、そこに住む私たちを愛されるがゆえのものです。だから、計画が明らかになるときが来るのです。その最も大切な栄光に満ちた計画が、神が私たちの内に御子キリストを住まわせるという計画でした。

 私たちの方からいえば、それは、私たちがキリストを信じて受け入れるということです。私たちは、キリストを信じる信仰によって義とされ、すべての罪が赦され、永遠の命が授けられ、神の子となる特権が与えられました。

 主に信頼し、その御言葉に聴き従いましょう。

 主よ、あなたに喜ばれる信仰の器となることが出来るように、私たちを御言葉と御霊によって整えてください。主の恵みと平安が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン





7月27日(月) ヨブ記37章

「全能者を見だすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。ひとの知恵はすべて顧みるに値しない。」 ヨブ記37章23,24節

 36章26節から、神の偉大さをたたえる賛美が記されています。神は、雨を降らせ(36章27,28節)、雷鳴をとどろかせ(同29節)、稲光を走らせます(同32節)。37章もそのイメージを引き継ぎ、稲妻(3節)、雷鳴(4節)、そして、雨に加えて雪を降らせられます(6節)。

 2節の、「聞け、神の御声のとどろきを、その口から出る響きを」は、雷鳴を神の御声とみなした言葉で、詩編18編4節、29編3,4,5節にも、同様の賛美がなされています。それは、創造の御業をなす驚くべきとどろきで、人がその内容を知ることはないと言います(5節)。

 雪や強い雨は、人の手の業を封じ込めるためのもので(7節)で、「獣は隠れがに入り、巣に伏す」(8節)というのは、野生の獣が手なずけられたというような表現で、神に逆らうことをやめさせる神の力を示すものということでしょう。これは、神に向かって自分の思いをぶつけているヨブが、獣のように爪を出し、牙をむいているように見えるということを示します。

 「嵐」(9節)は、38章1節で、神の臨在を示すものとなっていますが、雷を含め、強い雨風など、「懲らしめのためにも、大地のためにも、そして恵みを与えるためにも、神はこれを行わせられる」(13節)と、自然の力が、神の裁き、また神の恵みとして示されます。

 この論法では、ヨブの羊と羊飼いが天からの火で(1章16節)、ヨブの子どもたちは、四方から吹きつけた大風で家が倒れ、命を落とした(同19節)ことは、神の裁き、怒りが、自然の力として現れたということになります。となれば、ヨブはおとなしく黙って聞いてはいないだろうと想像します。

 14節以下はエリフの最終弁論で、ヨブに対する最後の勧めが語られています。それは、冒頭の言葉(23,24節)に示されているとおり、人が神を理解することは不可能だというものです。優れた力をもって治めておられる全能者に対する、人間としてのふさわしい姿勢は、神を畏れ敬うことで、挑戦的に神に物申すことは許されないというのです。

 確かに、人の知恵、知識には限界があります。自分の知恵で、神を見出すことはできません。相手が神でなくても、自分自身のことさえ、知り尽くしているわけではありません。他人のことをどれだけ理解していることでしょう。ヨブの三人の友も、そして長い弁論をなしたエリフも、ヨブの訴えに対して、その意味を全く理解を示せませんでした。

 私たちは、自分に都合のよいことは神の恵みとして受け取りますが、不都合なことを同様に考えることは困難です。6節以下で大雪、大雨などの自然現象も、神の御心によって司られていると教えられますが、台風の被害や大地震による災害などをどのように考えればよいのでしょうか。自分や家族が天災などによって被害を受けたときに、それは神の裁きだと言われて、素直に受け取れる人がいるでしょうか。

 確かに因果応報というのは、物事をわきまえる一つの知恵ですが、すべてのことにそれを当てはめるのは、無理があります。全能の神が、一つの法則に基づいてしか行動できないと言うことはないでしょう。様々な方法で語られるということであれば(33章14節)、行動原理も様々、その表現も様々でしょう。 

 時折、苦難を恵みと考えることが出来た人々に出会います。水野源三さんもそうでした。三浦綾子さんや星野富弘さんも、そうした人々の中の一人です。私たちの目には神様の御姿は見えませんが、このような人々がその苦しみの中で神を信じて変えられたという話を伺うと、確かに神がおられるのではないかと思います。

 なぜ、彼らがそのように苦しまなければならなかったのか、その理由はよく分かりませんが、源三さんの詩集や、富弘さんの詩画集などが、多くの人々に感動を与え、慰めや励ましとなっていることを考えると、苦しみの中にあった彼らに、確かに神が私たちの知り得ない方法で語りかけ、生きる力、希望を与えたのだと思わざるを得ません。
 
 47年の生涯を駆け抜けられた現代のヨブ、水野源三さんが神様に対して心を開くようになるのは、しかし、一朝一夕のことではありませんでした。源三さんのことを知った一人の牧師が、一冊の聖書を置いていったのが、そのきっかけです。源三さんが12歳の時です。

 その頃、源三さんを自分たちの宗教に勧誘しようとする訪問者が後を絶たず、それにウンザリさせられていたので、家族も最初は拒絶していたといいます。しかし、誠実に訪問し、家族の話に耳を傾け、福音を語る牧師に、それまでとは違うものを感じて、源三さんのお母さんが牧師に、源三さんの話し相手になってくれるよう、頼まれたそうです。

 源三さんを信仰に導いたのは、坂城栄光教会を築かれた宮尾隆邦という牧師ですが、当時、小学校の分校教師をしながら伝道しておられました。長野県の田舎のあばら屋に住み、大変苦労をしながら伝道されていたそうです。それは、宮尾先生に、郷里伝道という使命が与えられていたからこその働きでした。

 その上、源三さんと出会ったときには、既に進行性筋萎縮症を発症しておられ、杖をつきながら源三さんを訪ねて来ておられたそうです。聖書を置いて行った宮尾先生は体の不自由な人だと、母親から聞かされた源三さんは、初め、暗い人かと思っていたので、先生の朗らかな笑い声に驚いたそうです。

 宮尾先生の誠実なお人柄とその信仰、そして何より、宮尾先生を通して大きな業を成し遂げようとされる神ご自身の御業によって、源三さんは13歳でクリスチャンとなられたのです。

 私たちが信仰に導かれたのも、神の不思議な導きがあったからであり、そのために様々な出会いや導きを与えてくださったからです。そしてまた、主イエスを信じる私たちを通して、御言葉を告げ知らせ、御業をなさせてくださいます。そのすべては、応報の法則によらない、神の深い恵み、憐れみによることです。

 恵みに生かされている者として、神の恵みの証人として用いられる器とならせていただきましょう。そのために、聖霊の満たしと導きを祈りましょう。 

 主よ、どうぞ私たちをあなたの聖霊で満たし、主の御業のために用いてください。用い易い器となるために整えてください。そのための試練を耐え忍ばせてください。ひつような知恵と力を授けてください。御言葉に耳が開かれますように。主の御業を見ることができますように。そうして、御名をあがめさせてください。 アーメン!





7月26日(日) ヨブ記36章

「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」 ヨブ記36章15節

 36,37章は、エリフの最終弁論です。3節に、「遠くまで及ぶわたしの考えを述べて、わたしの造り主が正しいということを示そう」(3節)とあります。「遠くまで及ぶわたしの考え」は、自分の知識や思索の広さを示す表現で、神の導きによって、遠く神にまで及ぶほどに広い知識を持っているので、そこから、神の正しさについて、ヨブに告げ知らせようという解釈でしょう。

 口語訳、新改訳は「遠くからわが知識をとり」、「遠くから私の意見を持って来て」という訳文で、神からその知識を得たという解釈を示しています。原文(メイ+ラーホーク)は、口語訳などのように、「遠くから」と訳すほうが正しいように見えます。一方、岩波訳は、「遠くから」を「はるか昔から」として、 先祖から受け継がれてきた知恵であることを主張する意図を持つと解釈しています。

 「考え」(デイア)は、32章で、霊感によって得た「知識」として示されていました。続く4節に、「まことにわたしの言うことに偽りはない。完全な知識を持つ方をあなたに示そう」と告げます。完全な知識を持つ方とは、神ということです。「知識」(デイアー)は、「考え」(デイア)の女性形です。この言葉遣いで、エリフの霊感が、その完全な知識を持つ方からのものを示しているようです。

 そして今エリフは、完全な知識をお持ちのお方の正しさを、神に代わって証明しようとしているのです。26節で、「まことに神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」(26節)と言いながら、、造り主なる神の正しさを証明するというのも、自分の霊感に自信を持っての発言で、ヨブには到底獲得できない知識をヨブに披瀝するということでしょう。

 それではしかし、神の霊感を受けて、その御言葉を語るところから大きく外れ、自分の方がヨブや三人の友らよりも広く豊富な知識を持っていると傲慢に自慢するというものに、成り下がってしまっています。それでは、ヨブが「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と友らを批判した言葉が、彼の発言に対する予めの応答になっています。

 5節以下、神は公正に裁きをなされるので(6,7節)、苦難はその罪の重さを指し示し(8,9節)、悪い行いを改めるようにという警告であると告げ(10節)、それに従えば幸いが、耳を傾けなければ苦悩のうちに死を迎えることになるといいます(11,12節)。 

 この文脈で語られる冒頭の言葉(15節)は、貧苦や苦悩は、その人に与えられる悪い行いをやめるようにという警告で、17節には、「罪人の受ける刑に服するなら」、つまり、神の裁きを受け入れるならと言われているので、悪い行いを改めるとは、この場合、潔白を訴え続けるのをやめることを指しているのでしょう。そうすれば、彼の受けた貧苦は有効に機能し、そこから救われ、耳が開かれると言うのです。

 このことは、ヨブの友エリファズが、既に5章17節以下に「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人」と語って、ヨブに悔い改めを促していました。それに納得できなくて、議論を繰り返し、そのような理由で苦しみを受けるいわれはないと訴えていたのを見ていたはずですから、ヨブがこのエリフの言葉にどのように反応するか、聞いてみるまでもないというところでしょう。

 ただ、エリフの意図を離れて、素直に15節を読むと、別のメッセージが聞こえてきます。勿論、貧しい人、苦悩の中にいる人を救い出すのは神ご自身であって、貧苦や苦悩がその人を救うのではありません。しかし、人は貧苦や苦悩をとおして、新たな道を見出し、かつてなかった喜びを味わうことがあります。貧苦や苦悩が神の御声に耳を開く契機となることがあるのです。

 エリフは、自ら苦しみを通して、そのような神の恵みを味わったことがあるのでしょうか。苦悩を経験すれば、誰もが自動的に神と出会い、その恵みを味わうことが出来るというわけではありません。卑屈になって殻に閉じこもる人もいるでしょう。周りに八つ当たりする人もいるでしょう。自暴自棄になり、取り返しのつかないことをしてしまうかも知れません。

 一方、貧苦や苦悩は、自分の限界を教えてくれます。それによって謙遜を学びます。そしてそこから大切なことを学ぶことが出来るようにもなります。

 詩編119編で、「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(71節)、「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」(107節)、「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです」(143節)と語られているように、苦難が神の御言葉に心を向けさせ、それが慰めとなり、励ましとなっているのです。

 神の言葉が貧苦と苦悩の中にいる人を慰めるのは、御子イエス・キリストを十字架につけることよって、神ご自身が自ら苦悩を味わわれたからです。

       「苦しまなかったら」
    もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。
    もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった。
    多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。

 これは、瞬きの詩人といわれた水野源三さんの詩です(水野源三『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター刊より)。水野源三さんは、小学校4年生のときに患った赤痢の高熱が原因で脳膜炎を起し、首から下の神経が麻痺して、体を動かすことも、声を出すことも出来なくなりました。そんな源三さんが、お母さんと二人三脚で編み出した自分の表現法、それが瞬きでつづる詩です。

 源三さんはこうした苦しみを通して神と出会い、その結果、出会いの糸口となった苦難を神から賜った恵みと考えるようになられたのです。いつも主なる神が私たちを最善に導いてくださると信頼することの出来る方は、本当に幸いです。

 70年前、広島、長崎に投下された爆弾で被爆した方々やそのご家族の苦しみ、未だに被爆者として国に認定されていない方があるという報道もあり、そのやりきれなさはどれほどだろうかと思います。また、東日本大震災の被災者、就中、福島第一原発事故の影響で、避難生活を余儀なくされている方々に、心から主の慰めと平安を祈り、そして、これ以上被爆者を生まないよう、核の管理の徹底を願いたいと思います。

 主よ、あなたは憐れな人を守り、弱り果てた人を救ってくださいます。私たちの魂を死から、私たちの目を涙から、私たちの足を滅ぼそうとする者から、助け出してくださいました。今、不条理なことで悩み苦しみ続けておられる方々に、主の恵みと平安が豊かにありますように。すべての人々に神の愛が伝えられますように。御国が来ますように。 アーメン




7月26日(日)礼拝説教動画

7月26日(日)主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。


説教題 「権威の問い」
聖書 マルコ福音書11章27~33節

静岡教会の公式サイトを更新しました。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/

どうぞ御覧になってください。








7月25日(土) ヨブ記35章

「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と。」 ヨブ記35章10,11節

 35章は、エリフの三回目の弁論です。エリフは再度、「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」(2節)というヨブの発言を問題にし、さらに3節で、「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるか」と言います。これは、34章9節の「神に喜ばれようとしても何の益もない」とヨブが言っていたという発言を、悪意をもって変形したような言葉です。

 3節の原文はとても難解で、様々に解釈があります。口語訳は、「あなたは言っている。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか』と」。新改訳は、「またあなたは言う。『わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。』」。岩波訳は、「まことに、あなたは言う、『いったい、私に何か益するのか、私が罪を離れても、何の得になるのか」と訳しています。

 2節、34章9節との関連で考えると、岩波訳のように訳すのがよいのではないかと思います。勿論、ヨブがこういう発言をしているということではありません。ヨブが自分の潔白を主張して、悔い改めようとしないのは、罪を離れても、何の得にもならないから、そこから離れないと言っているようなものだ、とエリフが考えたということでしょう。

 5節から8節まで、人の言葉と行いで神に影響を与えることはできないと言っていますが、これは、22章2~4節のエリファズの言葉を展開したものです。このことについては、ヨブも7章20節で、「人を見張っている方よ、わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれが何だというのでしょう」といって、神の超越性に訴えて、苦しみから解放してくださるように願っていました。

 勿論、神が人の世界をはるかに高いところにおられて、人の罪でそれを害したり、人の善い行いで神に利することはできないからといって、不道徳な生活をしてよいというのではありません。ただ、自分の道徳的生活をもって神に働きかけ、そのアドバンテージで自分の願いをかなえてもらうことなどはできないということです。

 9節以下では、ヨブの叫び、求めに神がお答えにならないことについて、取り上げています。ヨブは30章20節で、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」と言っていました。

 エリフは、「抑圧が激しくなれば人は叫びを上げ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める」(9節)と、時の権力者による抑圧で人々は叫び声を上げるという一般論を述べ、そして、冒頭の言葉(10,11節)のとおり、「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神、夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と」と述べて、苦難の中で謙遜に神に知恵を求める者がいないと評します。

 叫び声を上げ、助けを求めてそれが答えられないのは、そのように謙って神を尋ね求めないからで、それは、「悪者が高慢にふるまう」ことだと結論づけています(12節)。ヨブの苦しみの原因が何であれ、ヨブに求められる姿勢は、自分にはこのような苦しみに遭う理由が分からないというのではなく、「わたしの造り主なる神はどこにおられますか」と、謙遜に尋ね求めることだというのです

 そして、「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」と言います(14節)。ヨブが空しく口を開き、愚かなことを言い続けられるのは、神が裁きの時が来るのを待っておられるからで(15,16節)、ただ沈黙しておられるわけではないということであり、その意味では、今神が沈黙しておられるのも、神にふさわしいことなのだというのです。

 あらためて、エリフは冒頭の言葉で、神を、「わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方」と紹介しています。ヨブは、自分の被った災難から解放されないことについて、神の正しさを問題にしているけれども、神はご自分が創造された天と地、地の獣や空の鳥を通して、つまり、どのようなことからでも、人を教え、知恵を与えることが出来ると、エリフは考えているのです。

 エリフ自身が語っているように、ヨブの訴えは神の御前にあります(14節)。神はどんな言葉も受け止めてくださいます。それはしかし、未だ怒りの時が来ていないので、神が聞き過ごしておられる、などということではないでしょう(15節参照)。神はその訴えを無視しておられるのではなく、むしろヨブの傍らに寄り添い、思う存分語らせて、そのすべての思い、願いに静かに耳を傾けてくださっているのだと思います。

 もう一言、エリフは神について、「夜、歌を与える方」と語りました。なぜ、夜に歌が与えられるのでしょうか。苦しみ、悩みで眠れない夜を過ごすことがあります。そうしたとき、深く孤独を味わうものです。けれども、そのときに、神に出会う経験をするのです。そして、そこで嘆きが歌に変えられるのです。

 詩編30編6節に、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」という言葉がありました。また、同16編7節に、「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」と記されています。悲しみの夜、光を見ることができない闇の中で、神の励まし、諭しを受けて主をほめたたえる、その歌をもって朝を迎えることができたということです。 

 フィリピ伝道の初めに無実の罪でむち打たれ、投獄されたパウロとシラスが、「真夜中ごろ」、「賛美の歌をうたって」、神に祈りました(使徒言行録16章25節)。それは、まさに神の導きだったわけです。

 神は、私たちの苦しい、辛い状況を、遠く離れたところから見下ろしておられるお方ではなく、私たちに傍らに来て、私たちに代わってそれを背負い、私たちを癒してくださるお方なのです。

 主よ、あなたは、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるお方です。私たちの嘆きを踊りに変え、荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。悲しむ者に深い慰めをお与えくださる主の恵みと平和が、今、助けを、解放を必要としている人々に、そして全世界に豊かにありますように。 アーメン




7月24日(金) ヨブ記34章

「人が神に対してこう言ったとする。『わたしは罰を受けました。もう悪いことはいたしません。わたしには見えないことを、示してください。わたしは不正を行いましたが、もういたしません。』」 ヨブ記34章31,32節

 エリフはヨブの応答を待たず、2回目の弁論に入ります。語り尽くしたヨブは(31章40節)、エリフに答えるつもりもないのでしょう。

 2節の「知恵ある者」、10節の「分別ある者」というのは、4節の「わたしたち」という言葉から、エリフがエリファズらヨブの友人たちと共同戦線を張ってヨブに相対するための呼びかけの言葉でしょう。32章では、彼らのふがいなさへの腹立ちを示していたので、この呼びかけは、外交辞令というところでしょうか。

 5,6節に、ヨブの主張を取り上げ、「嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(7,8節)と結論します。

 ただ、9節で「『神に喜ばれようとしても、何の益もない』と彼は言っている」と、その根拠を示していますが、ヨブ自身は、神に逆らう者らを観察した結果を21章7節以下に提示し、「なぜ、全能者に使えなければならないのか。神に祈ってなんになるのか」(同15節)と、彼らの発言を取り上げた後、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」(同16節)と、はっきり否定していました。

 10節から、自分の立ち位置を明らかにして、ヨブとの対論に備えます。それは、①神は正しい:「神には過ちなど、決してない」(10節)、②神は公平:「神は人間の行いに従って報いる」(11節)という、伝統的な信仰による立場であり、これは確かに、エリファズらと同じ土俵に立っているといってよいでしょう。

 16節以下、自分の立ち位置からヨブに、「正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか」(17節)と厳しく問いかけます。ただ、そのことに関して、ヨブも「神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても、千に一つの答えも得られないだろう」(9章2,3節)といって、神を罪に定めることなどできはしないと語っていました。

 エリフは、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」(21節)と語ります。22節以下との関連で、これは、隠れて悪を行っても神が見ているという警告で、因果応報の原則が示されています。この原則に基づき、ヨブの不幸は、彼の悪がその原因と結論されるわけです。

 冒頭の言葉(31,32節)は、ヨブの悔い改めの言葉と解釈し、エリフがヨブにこのように告白するようにと促している言葉になっています。ただ、原文は不明瞭で、様々な解釈が成り立ちます。口語訳は、「わたしは罪を犯さないのに、懲らしめられた」と訳して、自分の無実を告げ、自分は懲らしめられる理由が分からないから、悪いことをしたというなら、それを示してほしいと訴える言葉としています。

 ATDという註解書は、この言葉を神がヨブに告げる言葉と解釈して、神が人に対して、「わたしは悪いことをしました。もういたしません」と謝罪し、更生を誓う言葉を告げているように訳して、エリフがヨブに、神があなたの前にそのようなことをするだろうかと問う言葉という註解をしています。原文の直訳では難しい読み方ですが、前後の文脈から、この読み方は、筋が通っています。
 
 当然、この問いに対する答えは、神がヨブに謝罪されたり、悔い改めをヨブに告げるなどということは、あり得ないということになります。だから、ヨブが、「自分は正しいのに神に不当に懲らしめられている」というのは間違いだという論法で、だから、「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮にかけている」(35節)というわけです。

 36節の、「彼を徹底的に試すべきだ」というのは、そのように悔い改めようとしないヨブには、さらに苦難が続くということ、そしてまた、彼がどこまで神に背き、悪を行っているのか、さらに調べるべきだと言っているようです。

 こうして、エリフが確かにエリファズらと同じ立場に立ち、同じように、ヨブの言葉を正しく聞くことができないまま、自分の立場に基づいて判断を下すという過ちに陥っています。

 私は小さい頃から、お天道様が見ているよ、お見通しだよと、周囲の人から何度言われたか分りません。それほどよい子ではなかったからです。だから、何度周囲の人々に、冒頭の言葉のように、「ごめんなさい、もうやりません」といったか分かりません。そう言いながら、またやるという悪い子でした。

 確かに、神のまなざしには、いわゆる悪を見逃さないという側面があることを否定はしませんが、しかし、私たちに注がれている神のまなざしは、何か悪事を働いているのではないか、変なことを考えているのではないかと、私たちの罪を暴こうとするものではありません。

 むしろ、神は私たちが悪い者であること、善いことを考えない者であることを、先刻ご承知です。神はノアの洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われています(創世記8章21節)。私たちをお裁きになるつもりなら、そのために見張っている必要もないわけです。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ている(イザヤ書43章3節)という言葉について、イスラエルの民であれ、私たちであれ、私たちの側に神様を喜ばせるよいものがあって、それで、「価高く、貴く」という評価になるわけではありません。神は私たちを愛をもって見つめておられるので、私たちが何者であっても、「価高く、貴い」者として見ていただけるわけです。

 そして、罪の呪い、裁きにおののく私たちに、「恐れるな」と語りかけられました。そして、私たちの罪の贖いのため、代償としてご自分の独り子を差し出されたのです。そのようにして私たちの罪を赦し、永遠の命の恵みに入れて下さる主は、私たちを助けて足がよろめかないようにし、眠ることなく、まどろむことなく、私たちを見守っていて下さるのです(詩編121編3,4節)。

 私たちを愛してやまない主なる神が、私たちの歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださるというのは、何と幸いなことでしょうか。心安らぐことでしょうか。絶えず主に信頼し、感謝と喜びをもって主の御声に耳を傾けましょう。御霊の導きに従いましょう。

 天地を創られた主よ、あなたが私たちの歩みに目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださることを、心から感謝致します。私たちの足がよろめかないように、滑らないように、見守っていてください。すべての災いを遠ざけて、私たちの魂を見守ってくださいますように。特に、国がその歩みを誤らないように、正しい道に導いてください。全世界に主の平和と恵みに満ち溢れますように。 アーメン




7月23日(木) ヨブ記33章

「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで、『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう。」 ヨブ記33章23~25節

 怒りによって口を開いたエリフは、「神の霊がわたしを作り、全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ」(4節)といって、霊感を受けて語る自分の言葉を聞き、「答えられるなら答えてみよ」(5節)と挑戦します。そうして、8節以下に、いよいよ本論に入るのです。

 そこでまず、ヨブの語っていたことを取り上げます(8節)。ヨブは、「わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清くとがめられる理由はない」(9節)、なぜ自分が苦しまなければならないのかと神に訴えていました(27章5節、31章5節以下参照)。

 そこでエリフは、「ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを一々説明されない」(12,13節)と、神の裁きは間違っていると訴えることが、ヨブの過ちであると示し、「神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない」(14節)と語って、すべてのことに神の目的があると諭します。

 エリフのいう二つのことのひとつは、「人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる」(15,16節)と示されます。これはヨブが、「あなたは夢をもってわたしをおののかせ、幻をもって脅かされる」(7章14節)と語っていたことにあてこすった言い方です。それが神の警告で、悔い改めて神に従えというわけです。

 いまひとつは、「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、・・・魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく」(19節以下22節)と言われるところで、人を襲う苦難によって警告し、魂が滅び、命が奪われてしまわないように、苦痛が、罪を離れ、神に従えと告げる言葉とされているのです。

 確かに、神はさまざまな語り口を持っておられます。決して、沈黙してばかりおられるわけではありません。勿論、直接、神の言葉を耳や目、心に受けることがあります。聖書を通してということも、また、預言者ら人を介してということもあります。空の鳥や野の花など自然界の生物が語り手になることもあるでしょう。神を求め、神に聴こうとしていれば、あらゆるものからそれを受け止めることができると思います。

 敵国の王が神の言葉を語ることがありました(歴代誌下35章21,22節)。エジプトで繰り返された苦難は、ファラオに対する神の警告でした(出エジプト記14章14節以下)。しかし、神がお語りになるのは、警告や懲らしめの言葉ばかりではないでしょう。ヤコブは夢で、ルズの荒れ野が「神の家、天の門」であることを知りました(創世記28章12,17,19節)。

 使徒パウロは、苦難を誇りとするといい(ローマ書5章3節)、また、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。彼は自身の苦しみに、神の恵みを見、味わい、受け取ったのです。

 しかし、それをしっかり受け止められるか、神の言葉として聞き取ることができるかといえば、むしろ、聞き逃してしまってばかりいるのではないでしょうか。よいことがあれば、それを神の恵みと受け取るよりも、自分の知恵力の賜物と考えるでしょう。悪いことは人の所為にしたりして、それで神が何を物語られているのかなどと静かに耳を傾ける気持ちにはなりません。パウロのように、苦しみを神の恵みと受け取るのは、まずもって困難です。

 冒頭の言葉で、ヨブのためにその正しさを証言する御使いがいて、執り成してくれるなら(23節)、そして、憐れみを乞うてくれるなら(24節)、健康になり、若さを回復するだろう(25節)と語ります。また、神との親しい交わりが回復されます(26節)。つまり、かつての繁栄を取り戻すことができるということです。

 それらのことは、まさにヨブが願っていたことで(9章32節以下、16章19,20節、19章25節参照)、その意味で、これがヨブの一番聞きたかった言葉といってよいのではないでしょうか。

 エリフはそのとき、どういうつもりでこれを語っていたのでしょうか。ヨブのために執り成す方がいると、確信していたのでしょうか。むしろ、「千人に一人でも」ということは、そのような御使いがいると信じていたわけではない、それのみか、そういう人がいるはずはないという、ヨブの願いを打ち砕く表現ではないかと思われます。

 ここでエリフは、自分で何を言っているのか、よく分っていなかったのかも知れませんが、確かに神の霊が彼の内に働き、全能者の息吹に押し出されて、示されたところを語ったのではないかと思います。

 エリフはここで、「代償」(コーフェル)という言葉を使っています(24節)。これは、「贖い代、賠償金」という言葉で、命の代価、それによって死を免れるものという意味です。イザヤ書43章3節の「身代金」が、その言葉です。「この人のために」(23節)は、「この人に代わって」という意味でもあります。ヨブのために、ヨブに代わって、正しさを示すために御使いが遣わされます。

 聖書で「代償」といえば、それは、主イエスの贖いの業のことです。神の独り子なる主イエスが、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、その命の代価によって、私たちを救ってくださったことです。使徒パウロが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)と語っているとおりです。

 また、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(第一ペトロ書1章18,19節)、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(第一コリント書6章20節)と言われています。

 30節に、「その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」と言われています。これは、主イエスがヨハネ福音書8章12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られたことにつながります。イエス・キリストの贖いの業によって、私たちの魂が滅びから呼び戻され、主イエスによって命の光に輝かせてくださるということなのです。

 私たちも、聖霊を通して日々神の御言葉を受け、命の光に輝くようにと招かれる主イエスの御前に絶えず謙り、導きに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、エリフの言うように、夢や幻、また苦難を通して語られる神のみ言葉に耳を傾けることができるでしょうか。自分の意に沿わないものを受け入れるのは、決して容易いことではありません。常に神を求め、その御心に従いたいという心を与えてください。その思いをもって、告げられる御言葉に耳を傾けさせてください。すでに、御子キリストが私たちのために、私たちに代わって、代償を支払ってくださいました。その恵みを感謝しつつ、聴いたところに従って、主の御業に励むものとしてください。御名が崇められますように。 アーメン




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  • ペシャワール会・中村哲 講演会
  • 日比恵三・平井陽子 Duo Concert
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 6月4日(日)主日礼拝案内
  • 映画「標的の島 風(かじ)かたか」先行上映
  • 5月28日(日)主日礼拝説教
  • 5月28日(日)主日礼拝案内
  • 5月21日(日)主日礼拝説教
  • 5月21日(日)主日礼拝案内
  • 5月14日(日)主日礼拝説教
  • 5月14日(日)主日礼拝案内
  • 静岡ホサナクワイヤ&静岡古楽コンソート演奏会
  • 5月7日(日)主日礼拝説教
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