風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年06月

6月30日(火) ヨブ記10章

「手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて、あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか。」 ヨブ記10章3節

 神と共に裁きの座につき(32節)、神との間を仲裁してくれるものがいて(33節)、神の裁きの杖が取り払われれば(34節)、あれば、自分はその潔白を主張できる(35節)と、夢物語を語ったヨブは、相手を特定しないまま、神に向かって言いたいことを口にします(2節以下)。

 陳述を始める前の、「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう」(1節)という言葉は、3章20節、7章11節の言葉をなぞっており、陳述の最後で、「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国にわたしが行ってしまう前に、その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ」(21,22節)というのも、3章5,6節のイメージを再提示しています。

 それは、神の創造の御業に思いを馳せて、ヨブがこの世に生まれた意味、目的を、改めて神に問うためです。ヨブは、9章5節以下で、神の創造の御業の意図が、理解不能だと語っていましたが、それで神に問う思いを諦めたのではなく、むしろ、自分の生きる意味や苦しみのわけを、きちんと理解できるようにしてほしいと、必死に訴えているわけです(2節)。 

 そこで、冒頭の言葉(3節)を語ります。神は、創造の御業において、一つ一つを心を込めて造られ、出来たものをご覧になって、「良し」とされました(創世記1章4節など)。神は、御自分がよしと認められた完成品を、邪険に捨て去られるのか。まるで、悪巧みする者たちを輝かせるかのように。それが神のなさることなのか。それを、「良し」と言われるのか、と。

 原文には、「このわたし」という言葉はありませんが、「手ずから造られた」とは「あなたの手の産物」(イェギーア・カペイハー)という言葉で、神が虐げ退けようとしているのはヨブですから、そのように意訳されているわけです。8節の「御手をもってわたしを形づくってくださったのに」という言葉も、この訳を支持してくれるでしょう。

 神がヨブを造られたということについて思いを進め、9節で、「心に留めてください、土くれとしてわたしを造り、塵に戻されるのだということを」と言います。陶器師は、思いのままに土を選び、こね、成型して器を作ります。意に沿わなければ、何度でもそれを壊して作り直します。このイメージがヨブに新たな思いを示しました。それは、そのようにする陶器師が間違っているわけではない、悪いわけではないということです。

 「乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった」(10,11節)と、性行為から受胎、そして胎内での成長を表現しているのは面白いところですが、ヨブはここに、自分の誕生は、両親による営みなどではなく、「あなた」と呼ぶ神の御業だと言い表しています。

 しかもそれは、「命と恵み(ヘセド)を約束し、あなたの加護によってわたしの霊は保たれていました」(12節)と、ヨブに命を与えた神は、「変わらぬ愛」(ヘセド)をもってヨブを守って来られたのです。「加護」は、「訪問、責任」(ペクダー)という意味の言葉です。繰り返し訪れて、彼の成長と見届けておられたということです。

 ところが、そのようにヨブを心に留め、よいものをもって満たしていてくださった神が、突然豹変してしまわれました。13節の、「しかし、あなたの心に隠しておられたことが、今、わたしに分かりました」という言葉に、その思いが表現されています。

 なぜ、自分の苦しみが去らないのか、それは、神が自分の過ちを見逃されないからだ(14節)。ヨブがその母の胎に形づくられてこのかた、ひと時も休まず見守って来られた方は、保護を与えられるのと同様、どんな細かいことも一つ残らず几帳面に記録し、可能な限り十分な罰をお与えになるのだ。

 数々の苦しみを味わって来たのは、神が彼の悪を一つ一つ告発するために、「次々と証人を繰り出し、いよいよ激しく怒り、新たな苦役をわたしに課せられ」(17節)ているという証拠なのだ。

 ヨブは今、ある程度、自分の過ち、罪、弱さを認め、自分が苦しみを受けているのは間違いだという訴えを取り下げています。ただ、そのように罪を攻めたてられるなら、どんな人も「暗黒の死の闇の国」(21節)に追い遣られてしまうでしょう。そんな苦しみを味わうくらいなら、産まれなければよかった、産まれてもすぐに死んでしまえばよかったという結論に至ってしまうでしょう(18,19節)。

 けれども、ヨブの心にあるのは、そんな絶望的な思いばかりではありません。「わたしの人生など何ほどのこともないのです。わたしから離れ去り、立ち直らせてください」(20節)と言います。もし神がそのように追及する手を緩めてくださればと願います。「立ち直る」と訳されているのは、「明るい顔になる、微笑む、輝く」(バーラグ」という言葉です。

 「光あれ」(創世記1章3節)といって光ある世界を創造された神が、「暗黒の死の闇の国」(21節)、「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほど」(22節)という、創造以前の世界に自分を追い遣ってしまわれないようにと、願うのです。

 ひどい皮膚病に覆われ、灰の中に座して苦しみ呻いていたヨブの心に、長いトンネルの向こうに光が見える兆しが表われ始めたといって良いのかも知れません。

 我が国では、年間の自殺者が1998年に急増して3万人を突破、14年連続で高い水準にありましたが、2年前に3万を下回り、昨年は、27,283人でした。これはしかし、交通事故死者の6倍以上です。最近は、インターネットで自殺指南をするサイトまで出来ています。

 警察庁の自殺白書によると、15歳から39歳の死因のトップが自殺であり、死因に占める割合も大きなものがあります。因みに、40代は、死因の2位が自殺、15歳以下と50代前半は3位となっています。若者の死因のトップが自殺というのは、先進7か国では日本だけで、その死亡率も、他国に比べて高いものになっています。

 様々な悩みを抱える中、それを心開いて相談し、適切な解決の道を見出すことが出来ず、孤独に死を選び取るしかなかった方々の無念さを思います。ヨブは、病と孤独の苦しみの中で、神に訴えました。神が土くれに過ぎない自分を心に留めてくだされば、明るい顔になれると、一縷の望みを抱いています。

 それは、かつて、命と恵みを約束された神が、苦しみ呻いているヨブの霊を、今も守り支えているからでしょう。そして、そのことに彼の眼が開かれるように、彼の心にその思いを与えて、ヨブに神を呼び求めさせておられるということではないでしょうか。

 愛の神は、私たちにも主イエスを信じ、「アバ父よ」と神を呼ぶ霊を授けてくださいました(ローマ書8章15節)。ですから、私たちの希望は失望に終わることはないのです(同5章3~5節)。

 どんなことでも思い煩うことをやめ、何事でも感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ4章6,7節)。

 主よ、私たちはあなたのお創りになった美しい世界に生かされていながら、なんと多くの苦しみに囲まれていることでしょう。多くの人々が周りにいるのに、深い孤独感に苛まれています。そこに私たちの罪があります。主よ、私たちの国を憐れんでください。弱い私たちを助けてください。命の光の世界が開かれますように。すべての人々の上にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン




6月29日(月) ヨブ記9章

「あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と。」 ヨブ記9章32~35節

 ヨブは、ビルダドの「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(8章3節)という言葉の正当性を認め、「それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか」と語ります(2節)。そして、その知識が今ヨブを苦しめているのです。

 神は正しいお方です。その裁きも、正しいものであるにちがいありません。正しい者にはよい報いがあり、悪しき者には悪しき報いがあるはずです。しかし、今、ヨブは悩み苦しんでいます。愛する子らの死は、正しい裁きなのでしょうか。自分が、全身ひどい皮膚病に悩まされているのは、いったいどういう理由があるというのでしょうか。ヨブは、これほど苦しまなければならないような罪、過ちを犯した覚えがないのです。

 神は天地を創造された御手をもって、今も働いておられますが(5節以下、9節)、それはヨブにとって、理解不可能なものになっています。10節は、エリファズの語った言葉(5章9節)を繰り返したものですが、エリファズは神の創造の御業をたたえる表現として、「測り難い」といったものを、ここでヨブは、神の御心を理解することは出来ないと、全く否定的に語っているようです。

 それは、5節以下9節まで、神の創造の御業を告げるヘブライ語の動詞五つが分詞形でつづられ、10節の、「成し遂げる」、「不思議(に見える)」の二つの分詞形と合わせて七つの分詞を連ねることで、神の創造の意図が、全く理解不能(エイン・ケーヘル:cannot understand)であるということを示しているのです。

 「神がそばを通られてもわたしは気づかず、過ぎ行かれてもそれと悟らない」(11節)というのは、かつて信頼を寄せていた神が、全く理解することの出来ない苦しみを与える敵となっておられるからです。

 そして、自分の無実を神に訴えたいと思っても、神は知恵に満ちておられ、自分の髪の毛一筋までもご存知の神に何を言えばよいのか分らないし(14,15節参照)、むしろ、自分には殆ど自覚のない髪の毛一筋ほどのことで、これほどまでにひどく傷つけられています(17節)。

 「理由もなくわたしに傷を加えられる」(17節)という言葉は、サタンの「利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)という言葉、そして、神の「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとした」という言葉に、「理由もなく」(ヒンナム)という同じ言葉でつながっています。

 また、「無垢なのに、曲った者とされる」(21節)、「無垢かどうかすら、もうわたしは知らない」(22節)、「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」(23節)と、「無垢」(ターム)という言葉を連ねていますが、これは、ヨブ記のテーマであり、神はヨブが誰よりも無垢な正しい人物であることを認めていました(1章8節、2章3節)。 

 神は、このように悩み苦しむヨブを、今、どのように見ておられるのでしょうか。どうすれば、神はヨブと同じテーブルにつくことが出来るのでしょう。今の状況を乗り越えるために、話し合うことが出来るようになるのでしょうか。もしかすると、神御自身がヨブを求めて、彼にこのように激しく求めさせておられるのでしょうか。

 それだからでしょうか。ヨブは、こうした思いの中から、冒頭の言葉(32節)のとおり、「あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」と、同じテーブルにつき、互いに論じ合うことが出来るようになることを願います。

 続いて、「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」(33節)と語ります。相手は人ではなく、神です。対等に語り合える立場ではありません。だから、同じ裁きの座についた神と自分の間に立って執り成し、調停、仲裁してくれる者を求めているのです。

 そして、「わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら」(34節)と、その調停、仲裁が功を奏することを望み、それにより、恐れずに正当に扱われることを求めることが出来ると告げます(35節) 

 ヨブはこの時、そのような場が設けられ、そのような調停者、仲裁者を見出すことが出来、そして、その仲裁が功を奏すると、本気で考えていたかどうか、その存在を信じていたかどうかといえば、それは、全く疑わしいものです。むしろ、そんなことはないけれども、そうだったらよいのにと、叶わぬ夢を見ていたのではないでしょうか。

 先に、「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」(7章21節)と語り、義なる神は、罪を赦すお方であり、悪を取り除くお方ではないのかという考えを示していました。今受けている苦難によって、自分の罪の償いは終わったのではないか、というような思いが込められた発言です。

 今ここに示されたヨブの願望は、神と人との仲裁者、仲保者としての主イエス・キリストの出現を指し示す、預言的な役割を果たしています(ローマ8章34,35節、第一テモテ2章5節など)。主なる神は、世の罪を取り除く神の小羊として、独り子イエスを世に遣わされました(ヨハネ1章29節)。世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです(同3章17節)。

 ヨブが主イエスと出会ったとき、主イエスが願いの通り、ヨブの上から杖を取ってご自分の上に置き、その苦しみをすべて取り除いてくださったことを知り、そして、自分が神の子どもとして取り扱われているのを見出すでしょう(34,35節参照)。それは神ご自身が、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです(第一テモテ2章4節)。

 そのとき、ヨブはどのように語るのでしょうか。きっと、「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは」(詩編144編3節)と、驚くべき神の恵みを讃えることでしょう。

 主よ、あなたの御名はほむべきかな。ヨブは苦しみの中で、赦しを願い、仲裁者を求めました。主は、御子イエスを仲保者として世に遣わされ、その死によって、罪の赦し、救いの恵みをお与えくださいました。ヨブの願いは、神の御心を先取りしたかたちでした。主イエスによる慰めと平和がすべての民の上に豊かにありますように。 アーメン




6月28日(日) ヨブ記8章

「その場所では呑み込まれたようでも、お前など知らない、と拒まれても、葦は、生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す。」 ヨブ記8章18,19節

 エリファズとヨブとのやりとりを聞いていたシュア人ビルダドが、次に口を開いて話し始めます(1節)。ビルダドのことについて、シュア人とは、アブラハムとケトラとの間に生まれた子で(創世記25章2節)、「東の方、ケデム地方」(同6節)、即ち、アラビア地方に住む者ではないかと考えられます。ビルダドは、本書だけに出て来る珍しい名です。名前の意味にも諸説あるようですが、正確なところはよく分かりません。

 ビルダドは、神は公正(ミシュパート)であり、正義(ツェデク)であるという伝統的な知恵を、問いとしてヨブに語ります(3節)。それは、ヨブの「わたしの正しさ(ツェデク)が懸っている」(6章29節)という言葉を、神の公正と正義に対する非難と、ビルダドが考えたからです。

 4節の、「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、あれらをその罪の手に委ねられた」という言葉は、子らの死がその罪にあったと明言し、それによって、ヨブの身を覆っているひどい皮膚病も、ヨブにその原因があることを仄めかしています。そこで、「あなたが神を探し求め、全能者に憐れみを乞うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら」(5,6節)と、そこからどのように回復に道をたどればよいか、その道筋を示します。

 そうすれば、「あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる」(6節)のです。「あなたの権利を認めて」は、「あなたの義」(ツィドケハー)という言葉で、「神があなたの義の住まいを修復される」というのです。つまり、ヨブが主張する「わたしの正しさ」は、神を求め、その憐れみを乞い、潔白で正しく歩むときに、公正で正しい神によって回復されるというわけです。

 そのことについて、7節で、「過去(レーシート:「初め」の意)のあなたは小さいものであったが、未来(アハリート:「終わり」の意)のあなたは非常に大きくなるであろう」と、神の回復に与った結果、非常に豊かなものとなるので、今のヨブの苦しみは取るに足りないものとなると言います。

 そして、水辺に群生するパピルスや葦を取り上げ、それを譬えとして提示します(11節以下)。それは、詩編1編やエレミヤ書17章5~8節に示されているのと同様、水に示される神と神の御言葉に背いて生きる者と(12~15節)、神に信頼し、その御言葉に従って生きる者(16~19節)の有様を示しています。

 特に、冒頭の言葉(18,19節)で、神により頼む者は、妨害や拒絶に遭遇しても、なお希望に生きることが出来ることを示し、7節の、「未来(アハリート)のあなたは非常に大きくなるであろう』というイメージを、「葦は生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す」(19節)と言います。

 「生き生きと道を探り」は、「ほかの土から芽を出す」に合うように考えられた訳語ですが、「これが彼の道の喜びである」という言葉遣いです。また、「ほかの土から芽を出す」は、「後で(アヘール)塵(アーファール)から芽を出す」という言葉です。

 ビルダドが拠って立っているのは、「過去の世代に尋ねるがよい。父祖の究めたところ(ヘーケル:「調査、探究、探し出されたもの」の意)を確かめてみるがよい」と8節で語っているとおり、過去から積み重ねられて来た経験によって導き出された知恵です。

 エリファズも、「これが我らの究めた(ハーカール)ところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい」(5章27節)と語っていました。当然のことながら、そこには、耳を開いて聞くべき知恵が多くあることを、私たちも知っています。そして、そのことはヨブも認めるところです(9章2節参照)。

 確かに、神に対して過ちを犯している者は、神の裁きを免れることは出来ないでしょう。けれども、人生の辛酸を嘗めている者がすべて、神に対して過ちを犯した者であると断言してよいでしょうか。今ヨブが苦しんでいるのは、この問いに対する明確な答えが与えられないからです。つまり、このような苦しみを味わわなければならない理由、その根拠を、ヨブは未だ見出だすことが出来ないのです。

 前にヨブがエリファズに対して、「絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」と語っていました(6章26節)。自分の言葉が、中身のない空しいものだと思うのか、だから耳を傾けようとしないのかという意味ですが、ビルダドはそれを取り上げて、「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ」(2節)と言っています。まさに彼は、ヨブの言葉に聞くべき内容がないと考えているわけです。
 
 けれども、だからといって聞き流してもおけませんでした。それは、その風が激しいからです。自分が無意味だと考えていることが、自分自身の思想や人生哲学を吹き飛ばしてしまいそうな力で攻撃して来ていて、ここで黙っていてヨブの考えが通れば、自分がこれまで築いてきたものが崩れてしまうとでも考えているのでしょう。だから、ビルダドも激しい言葉でヨブに応酬し、自分自身を保とうとしているわけです。

 思い出してみると、四方から吹き付けた大風で、ヨブの子らが宴会を開いていた家が倒れ、そこで皆召されました(1章19節)。それによって、ヨブの人生が覆されたのです。大切なものを失い、自らも苦しみを味わい続けています。

 ヨブが語る言葉で、自分の人生が覆されてしまうように感じるということは、ヨブがこの苦しみから逃れる道を探る必要があるのと同様、ビルダドも、今ヨブが味わっている苦しみを通して、新しい神の恵みに目を開く必要があるわけです。自分で自分の立場に固執するのではなく、ビルダドこそ、おのれを空しくして、神に聴かなければならないのではないでしょうか。
 
 そうすれば、「あなたが神を尋ね求め、全能者に憐れみを乞うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら、神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる。・・・なお、あなたの口に笑いを満たし、あなたの唇に喜びの叫びを与えてくださる」(5,6,21節)という、新しい神の恵みに酔うことが出来るのです。

 主イエスは、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われました(マルコ2章22節)。私たちも、常に新しい神の恵みに目が開かれた者でありたいと思います。

 主よ、ビルダドは苦しみの中にいるヨブを慰めようとしていたはずなのに、激しい言葉の応酬により、かえって傷口を広げるような結果を招いてしまっています。ビルダド自身がその口に笑いを満たし、唇に喜びの叫びを与えてくださる主の新しい恵みを絶えず味わっていないからです。主よ、私たちを憐れみ、常に恵みの下に置いてください。 アーメン




6月27日(土) ヨブ記7章

「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」 ヨブ記7章7節

 ヨブの人生観は、もともと明るいものではなかったようです。最初の発言の際に、「恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった」と語りました(3章25節)。幸せな日々が奪われる不安、自分の身に思いが得ない病が襲いかかる恐れを持っていたわけです。

 今ここでは、「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない」と言います(1節)。つまり、望むと望まざるとに拘わらず、上官の命令に従って危険な戦地に追い遣られ、しかも、その苦しい務めによって得られる報いは、辛く悲しい夜だというのです(3節)。

 「兵役」(ツァーバー)という言葉は、14章14節とイザヤ書40章2節で、「苦役」と訳されています。ヨブの苦難が、バビロン捕囚の苦しみと、用語において同じ扱いになっているのは、興味深いところです。そして、イザヤは、その苦役が終わりのときを迎え、慰めを受けると告げているのに対し、ヨブは、この苦難がいつ終わるのか、自分では皆目見当もつかないのです。

 だから、疲れ果てて寝床に入っても、苦痛で安眠出来ず、いらだちながら夜明けを迎えることになります(4節、13,14節)。そして、そのような苦難の連続で消耗戦を戦っている内に、あっという間に一生を終えてしまわなければならないという空しさを覚えています(6節)。

 6節の「望み」(チクワー)という言葉には、「希望、期待、絆、縄」といった意味があります。自分の人生という機織り機は目まぐるしく動き、糸がなくなれば止まる。自分には、もう希望という糸が尽きてしまった。空しく空回りし、そして止まるだけ。なんという空虚な人生観でしょうか。
 
 そして、その苦しみ、その空しさを与えているのが、3章17節で「神に逆らう者」(ラーシャー)と呼んでいた「悪人」であり、同18節で「追い使う者」(ナーガス)と言った「圧政者」であり、そして、同19節で奴隷に苦役を与える「主人」(アドーン)であるところの神だというわけです。ここに、ヨブのやりきれない気持ちが、如実に示されています。
 
 ヨブはもう一度神に向かって目を上げ、冒頭の言葉(7節)のとおり、「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを」と叫びます。苦しみから逃れるために、先には死を願ったヨブですが(6章8,9節)、ここでは、今すぐに憐れみをかけてくださらなければ、手遅れになります、このまま神を呪って死にますよと言っているかのようです。

 ここで、瞬く間に、幸いを見ないまま終りを迎え、神が目をかけてやろうかと思い直す頃には、もはや影かたちもなくなっていると訴えるのは(8,21節)、ヨブが本当に願っているのは、生きるか死ぬかということではなく、生きるにしても死ぬにしても、神の恵みに与り、心に安息を持つことが出来るかどうかということなのでしょう。

 ヨブは、ひとときたりとも神を忘れたことがありません。しかし、今のヨブには、神が自分のことを忘れてしまっているかのように思われるのです。「わたしは海の怪物なのか竜なのか、わたしに対して見張りを置かれるとは」というのは(12節)、神がヨブを、黙示録12章に出てくる「竜」のような危険な存在と見なし、闇の中に閉じ込めて、いつも見張っておかなければならないと考えておられるのかという問いです。

 ヨブは、勿論そのような存在ではありません。神の恵みを失うなら、一日たりとも生きていくことの出来ない、弱い存在です。そうならないよう、神を畏れ、ひたすら悪を避けて生きて来ました(1章1節など)。だから、もう一度思い出して欲しいのです。苦しみの中にいる自分を憐れみ、救って欲しいのです。

 17節に、「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」と記されています。詩編8編5節にも、「人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」という言葉があります。「人の子」は、「土の子(ベン・アーダーム)」という言葉です。即ち、土くれにすぎない小さな存在に目を留めてくださる神の恵みに、驚きつつ賛美をささげているのです。

 しかしながら、ここでヨブは、苦しみを受けなければならない理由が自分の罪、過ちにあるというなら、なぜそれを見逃してはくださらないのか、それは、神の目に小さいことではないのかと言っています。ヨブ自身には、どの行為が神に背いた罪、過ちと見なされているのか、思い当たる節があるわけではないと思います。

 「わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれがなんだというのでしょう」(20節)と言っているように、たとい何かあったにしても、それはとても小さなことであって、これほどの苦しみを受けなければならないような大罪を犯した覚えはないということです。

 そこで、「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」と神に尋ねています(21節)。これだけ苦しめたのだから、もういいでしょう、その手を放してくださいという、苦しみを耐え難く思っている表現だと思われます。「今や、わたしは横たわって塵に返る」は、土の器が徹底的に打ち砕かれ、死んで塵灰になってしまうということでしょう。

 だから、「あなたが探し求めても、わたしはもういないでしょう」というのは、手遅れになる前に、締め上げる手を放してくださいと願うヨブの思いが込められています。この21節の言葉は、義なる神は罪を赦してくださるお方、悪を取り除いてくださるお方であると、ヨブが理解し始めているか、そうでなくても、そのように期待し始めているのではないかというように思います。ここに、新約の光が既に差し込んで来ているようです。

 神は勿論、ヨブを忘れてはおられはしません。髪の毛の数を一本残らず数えるほどに、私たちに目を留めてくださるお方です(マタイ10章30節)。ヨブの訴えを無視し、苦しみの中に放っておられるはずもありません。けれども、ヨブとの、この不幸な出来事が訪れる以前の関係をそのまま維持しよう、そこに戻ろうとしておられるのでもないでしょう。これまで以上の、さらに親密な関係を築こうとしておられるのだと思います。

 今日、「出口のないトンネルはない。トンネルは、目的地まで最短距離を進むためのもの。人生トンネルの期間があったら、それは神様に出逢う最短距離だ」という言葉を聞きました。暗闇に光、地獄で仏という言葉があるように、この言葉の真実を味わう経験をする瞬間がやって来るということでしょう。

 どんなときにも御霊の助けと導きに与り、主の恵みと慈しみを信じて進ませて頂きましょう。

 主よ、私たちはあなたの憐れみなしに、希望を持ち、平安に過ごすことは出来ません。あなたこそ、希望の源であり、平和の源なるお方だからです。常にあなたの慈しみの御手の下におらせてください。恵みの主から離れることがありませんように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン




6月26日(金) ヨブ記6章

「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。」 ヨブ記6章15節

 エリファズが語った言葉(4,5章)を聞いたヨブは、しかし、そこに慰めを見いだすことが出来ませんでした。それは、エリファズの言葉が理解出来なかったからではありません。実行不可能な言葉だったからでもありません。また、ヨブが考えつきもしないような突飛なことだったからでもありません。

 むしろ、ヨブはエリファズの言葉を正確に理解していることでしょう。実行することも出来ると思います。そしてその考えは、エリファズが最初に語ったとおり、かつてはヨブ自身が持っていたもの、他の人を慰め励ますときに、ヨブ自身が語ってきたことだったのです(4章3,4節)。

 それにも拘わらず、ヨブが混乱しているのは、これまで神を信頼し、神にすべてを委ねて歩んできた自分を、神御自身が苦しめ、この罠から逃れさせてくださらないと感じているからです。最初は、すべての持ち物を失っても、主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえよと(1章21節)、それが神の為される最善だと信じていたのです。そして、不幸もいただこうではないかと、妻に語っていました(2章10節)。

 「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(5章8節)というエリファズの言葉に対し、自分の苦しみが海辺の砂よりも重いと(2,3節)、その苦悩の深さを示します。なぜかといえば、それは、「全能者の矢に射抜かれ、わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた」(4節)ということで、自分の思いを訴え、問題を任せるべき神御自身が、自分の敵となって、その苦しみを与えているからだというのです。

 そこで、エリファズの言葉について、「味のない物」(6節)で、食べられないと言い、さらに、「わたしのパンが汚れたもののようになれば」(7節)と、人々が自分の皮膚病を汚れたものとして神に呪われたかの如くに見ているけれども、ヨブにとってエリファズらこそが汚れたパンのようで、それに触れたくもないと言っています。

 「魂」(ネフェシュ)には、「命、息」という意味のほかに、「喉、食欲、願望」という意味もあります。岩波訳は、「喉」と訳しました。文脈から、「食欲」と訳すのも、趣があるように思います。3章20節に、「悩み嘆く者」という言葉がありますが、直訳は、「魂が苦い者」です。「苦い」は複数形で、自分に幾重にも苦難が襲いかかって来ていることを、そのように苦味として表現しているわけです。

 実は、6章の中に、「魂」という言葉がもう一度用いられています。それは、11節の、「忍耐しなければならない」というところです。原文は、「わたしの魂を長くする」という言葉遣いになっています。苦しみの中で長く生きること、あるいは、数々の苦味を長く味わうということで、耐え忍ぶという訳語になっているわけです。

 「そうすればどんな終わりが待っているのか」(11節)というように、ヨブには、これから先、自分を待ち受けているものの見通しが立ちません。それを楽しみ待つような力も、自分には残っていません。そして、「わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった」(13節)と、かつて、自分は神にその助け、力を頂いて来たけれども、今や、全く見捨てられてしまったというのです。

 そこで、「絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」と言います。「忠実」(ヘセド)は、「善、誠実、慈しみ」という意味の言葉です。神に見捨てられたヨブは、友の友情に期待したのです。しかし、それは裏切られました。冒頭の、「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように」(15節)という言葉が、その思いをよく表わしています。

 パレスティナでは、雨期となる冬の始めと終わりに雨が少し降って、そのとき川に大量の水が流れますが、乾期の夏には川が干上がってしまいます。水が流れなくなった川のことを「ワーディー」と言います。見舞いにやって来た三人の友らが、自分の苦しみを受け止め、慰め、励ましてくれると期待したが、その期待は、空しく裏切られてしまったということです(20,26節参照)。

 「絶望した者の言うことを風に過ぎないと思うのか」(26節)といって、自分の言葉をちゃんと聞いてほしいと訴えます。そして、「どうかわたしに顔を向けてくれ。その顔に偽りは言わない」(28節)というところに、自分の現実をありのままに見て欲しい、ヨブの立場になって考えて欲しいと、理解を求めるヨブの本心が示されています。

 今ヨブが一番望んでいるのは、神が死を与えてくれることです(8,9節)。死こそ、自分をこの苦しみから解放する、最も現実的なものだと思っているのです。ということは、ヨブが今、友のこととして語っている、「水の流れが去った後の川床」というのは、実は、彼の財産を奪い、家族を奪い去り、そして彼を苦しめ続けている神に対する婉曲な言い回しのようですね。

 なぜ苦しまなければならないのか、その理由も示されず、いつまでこの苦しみが続くのか、その出口も見えない。そんな中で、なお沈黙しておられる神に、ヨブは失望しているのではないでしょうか。それゆえに、もはや神には期待しない、二度と裏切られたくない、そのために人生を終りにするんだと考えているのでしょう。

 苦しみから解放されず、それではと願った死をさえも与えられなくて苦しみ続けるという袋小路に、神はヨブを追い込もうとしておられるのでしょうか。失望の果て、自ら命を絶つ罪を犯させようと考えておられるのでしょうか。勿論、そうではないでしょう。

 むしろ改めて、本当の命の拠り所は何か、水の流れの源はどなたなのかということを、ヨブにもう一度教えようとしておられるのではないでしょうか。ヨブが願っている死よりも、さらにリアリティーのある生ける神の力を知らせるためです。だから今、神は黙してヨブに寄り添い、ヨブの心の内にある思いをすべて、ありのまま吐き出させておられるのです。

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。・・信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。

 インマヌエルの主よ、苦しみの中にあるすべての人に、慰めと平安がありますように。希望が与えられ、苦しみから解放されますように。命が守られますように。キリストと結ばれて、その親しい交わりの内に恵みと平和が豊かに与えられますように。 アーメン




6月25日(木) ヨブ記5章

「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。」 ヨブ記5章17節

 5章にも、ヨブの友エリファズの言葉が続きます。8節以下には、エリファズがヨブの立場であればどうするか、ということが記されています。彼は、「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(8節)と言います。

 苦難の中にも神の愛が込められていて、神は人の滅びではなく、救いを望んでおられること、だから、冒頭の言葉(17節)のとおり、神の懲らしめに反発しないで、喜んで神の戒めに従い、幸いを得なさいと勧告しているのです。苦難の後には神の救い、神の恵みがついてくるとも言います(18,19節)。苦難には意味があり、そこから学べという主張は、聖書の中に繰り返し登場して来る思想です。

 人はなぜ苦しむのでしょうか。御言葉に背き、善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムに対し、神が、「お前のゆえに、土は呪われたものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に帰るときまで。お前がそこからとられた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と言われました(創世記3章17節以下)。

 つまり、アダムの子孫である私たちは、苦難に遭うのは、避けられない運命なのです。しかし、その苦難をどう見るかによって、生き方は様々に分かれるということになります。

 ヤコブ書5章13節に、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」とあります。私たちは、平穏無事なときには、あまり熱心に祈りません。苦難に遭うと、その苦しみからの救いを真剣に祈るでしょう。神は苦難を通して、私たちを祈りの世界、神と深く交わる世界へと導いておられるわけです。

 ローマ書9章19節以下に、焼き物師(陶器師)と粘土の譬えを用いて、神が私たちを神の憐れみを盛る器として、栄光を与えようとしておられるとあります。陶器師が自分の心にかなう器を造るために、山から土を切り出し、砕いてしばらく水に沈め、不純物などを取り除いてよく練り、それをろくろで整形し、上薬をかけて高温の火で焼きます。

 これら一つ一つの行程は、そのように取り扱われる粘土にとっては、大変な苦痛かも知れません。けれども、それを通して、美しい陶器が作られるのです。

 同様に私たちも、この世から取り出され、御言葉の恵みに入れられ、キリストの血潮で罪が清められ、イエス・キリストを着せられ、聖霊の火に燃やされて、神の憐れみの器とされるのです。

 主イエスは、神の御子であるにも拘らず、多くの苦しみを受け、その苦しみを通して従順を学ばれました(ヘブライ書5章8節)。これは、ゲッセマネの園でひどく恐れて悶え、祈られたこと(マルコ14章33,35節以下)、また、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(同15章34節)と十字架上で叫ばれた、あの苦しみを指し示しています。

 この主こそ、私たちすべての者の大祭司なのです。私たちと同じ試練を味わってくださったので、私たちの弱さを知っておられ、時宜にかなった助けをお与えになるのです(ヘブライ書4章15,16節)。だから、主イエスの軛は負いやすく、その荷は軽いのです(マタイ11章29節)。

 第二回伝道旅行中、フィリピの町でパウロとシラスが無実の罪で鞭打たれ、投獄されるという苦しみに遭いましたが(使徒言行録16章23節)、真夜中に彼らはその獄舎で賛美を歌い、神に祈りをささげると(同25節)、不思議なことが起こり(26節以下)、その結果、獄舎の看守家族が救いに与ることになりました(同33節)。パウロがそこで賛美と祈りをささげたのは、彼らの心に主イエスがはっきりと刻まれていたからでしょう。 

 その上、聖霊が、どう祈ればよいかも分からない弱い私たちの内にあって、私たちのために呻き、執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。そうして、神は私たちのために、あらゆることがプラスとなるように働いてくださるというのです(同8章28節)。それが、苦難をも誇り、喜ぶと語っているパウロの信仰の核心です(同5章3節)。

 ヘブライ書12章5節に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない」(12章5節)と語られ、神の子として、神の鍛錬を軽んじないこと、懲らしめられても力を落とさないこと、それによって鍛えられ、子として取り扱われるのであると教えています。

 「だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」(同12,13節)。

 主よ、人に説くことは出来ても、自分自身は失格者になってしまう弱く愚かな私たちを憐れんでください。苦難にあって萎えた手と弱くなった膝を強く、まっすぐにしてください。自力で信仰を守ることなど出来ません。御言葉の前に謙り、その導きに素直に、喜びをもって従うことが出来ますように。そうして御名を崇めさせてください。 アーメン




6月24日(水) ヨブ記4章

「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか。」 ヨブ記4章6節

 ヨブが口を開いて自分の運命を呪い、神はなぜ自分に死を賜らないのかと嘆き訴えるのを聞いて、ヨブの友人の一人、テマン人エリファズは黙っていることが出来なくなりました。テマンはエサウの孫、エリファズはエサウの子の名前です(創世記36章10,11節)。ということは、エリファズは、パレスティナ南のエドムの地に住む者ということなのでしょうか。
 
 エリファズは、何とか友のヨブを力づけ、励ましたかったのでしょう。そこで、持てる知識や経験などを総動員しつつ注意深く言葉を選び、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものを言わずにいられようか」と話しかけました(2節)。

 エリファズは、かつて、ヨブ自身が悩み苦しんでいる多くの人々を諭し、力づけて来たことを思い起こさせます(3,4節)。ここでエリファズが思い起こさせようとしている、ヨブが他者を諭し励ましていた内容とは、宗教的な経験に基づく正統な知恵に歩めということ(6節以下)、そして、神の告げられた特別な言葉に耳を傾けるということでしょう(12節以下)。

 そこで、エリファズもヨブの手法に倣って、彼に励ましを与えようとしているのです。先ず、宗教的な経験に基づく正統な知恵ということで、冒頭の言葉(6節)のとおり、「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか」と語ります。ヨブが頼みとしていた神を畏れる生き方や、望んでいた完全な道を歩むことで、それはイスラエルの民の頼みであり、希望であることを示しています。

 そして、「わたしの見て来たところでは、災いを耕し、労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている」(8節)と、自分の観察して来たところを語ります。つまり、人が蒔く種によって収穫する実が決まるということで、この知恵が真実であるから、災いをもたらし、人に労苦を与えるような者は、神の裁きを受けるというのです(9節以下)。

 エリファズの言葉に、ヨブを責める思いが全くないかと言われれば、そうとも言い切れません。「神の息によって滅び、怒りの息吹によって消え失せる」(9節)というのは、ヨブの子らを死に追いやった大風を思わせ(1章19節)、その原因がヨブの子らにあると言っているようなものだからです。それは、ヨブに臨んだ数々の苦難は、ヨブの蒔いた種に問題があると仄めかすことになります。

 つまり、神を畏れ、正しく歩んで来たのであれば、何も心配しないで、その苦難を乗り越えるべく、その道を守り通すべきだ。正しい歩みに対する神の報いに希望を置くべきであって、その生き方を忘れて何に頼り、どこへ行こうとしているのか。どこで間違ってしまったのかというのです。

 道に迷っている人は、自分が今どこにいるのか、どちらに向かって行けばよいのか、分らなくなっています。分からないまま動き回るので、ますます泥沼にはまり込んだようなことになってしまいます。自分の居場所が分かり、そして進むべき方向が定まれば、やがて目指すところに辿り着くことが出来ます。

 確かに、ヨブが帰るべきところは、神を畏れ、その御言葉に従って生きる生活です。エリファズが語る通り、かつては、ヨブはそれを頼みとしていたのです(6節、1章1節)。そして、神はヨブに豊かな恵みを与えておられました(1章2節以下)。持てるものをすべて失い、苦しみが襲いかかって来たときに、すぐに信仰を失ってしまうようなことはありませんでした(1章21節、2章10節)。

 けれども、苦しみが続く中で、次第に分らなくなってしまったのです。それは、彼が神を畏れ、神に従うことをやめたから、苦しみを受けたというのではなく、信仰生活を守り、神に従って歩んでいたにも拘わらず、苦しみの穴に落ち込んでしまったからです。そして、どうすればその穴から這い出ることが出来るのか、皆目見当もつかないからです。

 エリファズは、ヨブの苦しむ有様を見るに忍びなかったのでしょう。苦しみの中で自分の運命を呪い、神への不信を口にするヨブの言葉を聞くに堪えなかったのでしょう。そう思うのは、エリファズ一人ではありません。私たちも皆そうです。人を慰め、励ましたいと思うのは、苦しむ姿を見ていられないのです。立ち直った姿を見て、自分も安心したいのです。

 それが悪いということでもありませんが、しかし、苦難の中にいる人の苦しみをあるがまま理解しようとするなら、解決を焦らず、先ずその人の語る言葉にじっと耳を傾け、苦しみの共感に務める必要があるでしょう。

 三人の友が初め七日七晩、黙ってヨブの傍らに座っていました(2章11節以下、13節)。余りの厳しい状況に言葉がなかったわけです。苦しむヨブに徒に言葉をかけることなく、沈黙して共に座している友らのゆえに、彼の内にあった真実な叫び、苦しい思いが吹き出すかたちになったのです。ヨブは、三人の友がその苦悩を受け止め、共感してくれることを望んでいたのでしょう。

 そして、苦しみ、呻きに共感する友を得ることが出来れば、その時、彼は神の慰め、励ましを受けることが出来るでしょう。私たちにとって、誰よりも、神の御子・主イエスが私たちに寄り添い、私たちの声に耳を傾け、共に涙してくださいます。「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈める時も、祈りに応えて慰め給わん」(新生讃美歌431番2節)と歌うとおりです。

 「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ書4章16節)ということですが、しかし、ここであらためて、慰めを受けるため、助けをいただくために、神を畏れるということになれば、それは、サタンの「利益もないのに(自発的に)神を敬うでしょうか」(1章9節)という問いが、的をついていることになるのではないでしょうか。ヨブの戦いが続きます。

 天にまします我らの父よ、願わくは、神を畏れる生活が守られますように。願わくは、我らを試みに遭わせず、悪しきものから救い出してください。国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。全地にキリストの平和と導きが常に豊かにありますように。 アーメン




6月23日(火) ヨブ記3章

「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」 ヨブ記3章20節

 サタンの二度目の攻撃に対して、唇をもって罪を犯すことをしなかったヨブですが(2章10節)、次第に心中穏やかならざる事態となって来ました。これまでのように、敬虔さを保って歩むべきだと考える思いと、突然襲って来た苦難を訝しむ心がせめぎ合います。

 そこに、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルが訪ねて来て、それと見分けられないほどのヨブの姿に嘆きの声を上げ(同11,12節)、七日七晩共に地面に座っていて、その激しい苦痛に話しかけることも出来ませんでした(同13節)。確かにこんなとき、人間の言葉は何の助けにもなりません。

 やがて、ヨブが口を開きます。最初に出て来たのは、「わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」(3節)という言葉でした。誰に向けた言葉とも言えない、独白というしかないような言葉です。しかもそれは、呪いの言葉で、自分の生まれた日を呪い、さらに、みごもった夜を呪います。

 この言葉を展開するかたちで、生まれた日を呪う言葉を4,5節に、「その日は闇となれ、神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ、昼の暗い影に脅かされよ」と言います。これは、創世記1章1~5節の第一の創造の記事を逆転させるような言葉です。

 「闇となれ」は、「光あれ」(創世記1章3節)の「光」を「闇」と言い換えた用語です。生まれた日は、初めてこの世の光を見た日ですが、それが闇に覆われていればよかった、光を見る日がなければよかったというのです。

 また、みごもった夜を呪う言葉が、6節以下に展開されますが、まず、「闇がその夜をとらえ、その夜は年の日々に加えられず、月の一日に数えられることのないように」(6節)と言います。神が光を創造されて、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1章5節)とされました。「闇が夜をとらえる」とは、朝の光を迎えないということでしょう。

 次に、「その夜ははらむことなく、喜びの声も上がるな」(7節)といいます。「夜」(6節)と「みごもるべき腹の戸」(10節)に並行関係を見て、夜がはらまなければ、つまり、光を産み出すことがなければ、自分が生み出されることはなかったということでしょう。

 そのように、自分の生まれた日を呪い、みごもった夜を呪ったヨブは、言葉を継いで、 「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに」と言います(11節以下)。

 「母の胎にいるうちに」は、「子宮から」(メー・レヘム)という言葉です。死なずに生まれたのかという表現と考えて、「母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と、意訳したわけです。死産であれば、また、生まれてすぐに息絶えていれば、さらに、抱きとめる者がなく、乳を含ませられることがなければ、この苦しみから逃れられたのに、というわけです(13節)。

 17節以下、死によって疲れた者が憩いを得、囚われ人も安らぎ、奴隷も自由になるいうのは、皮肉たっぷりですね。特に、19節の「主人」は、「アドナイ(彼の主人)」という言葉が用いられています。これは、ユダヤの人々が主なる神の名を呼ぶときの表現です。神が、奴隷を追い使って苦しめるひどい主人のように思われ始めているのでしょうか。

 そして、冒頭の言葉(20節)のとおり、「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか」と、姿を現さない神に問う言葉が飛び出して来ました。なぜ神は、この状態を放置しておられるのか。なぜ自分をこの苦しみに閉じ込めておられるのか。死なせてくださればよいのに、というのです。

 しかし、願っても死を賜りません。「地に埋もれた宝にもまさって死を探し求めているのに」(21節)。私たちにとって、最も価の高い宝と言えば、それは命でしょう。今日は、「命どぅ宝」の日です。しかし、ヨブにとって、今一番願わしいのは、命にまさる「死」なのです。

 単純に神の最善を信じられなくなったヨブにとって、「行くべき道が隠されている者の前を、神はなお柵でふさがれる」(23節)というのは、自分や家族、全財産を守るために、周りを幾重にも廻らされていたはずの神の垣根が、今や自分を閉じ込め、行くべき道を覆い隠してしまう柵になっているというわけです。

 死によって憩いを得ると、13,17節で語っていますが、しかし、彼の現実は、死がかなわず、「静けさも、安らぎも失い、憩うことも出来ず、わたしはわななく」(26節)と、呻くようにその苦しみを吐露しています。

 25節に、「恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった」とあります。自分に襲いかかった不幸を、「恐れていたこと」、「危惧していたこと」と言い、以前から恐れや不安を抱いていたことを示しているのです。何故ヨブがそのような不安を抱いていたのか、勿論よく分りませんが、これまでの彼の敬虔さの背後に、恐れや不安があった、それを覆い隠す敬虔さだったのでしょうか。

 彼が恐れ、危惧していた不幸に見舞われ、そして、その苦しみを癒してくださらないのなら、どうして、なおも神に信頼し、敬い続けることが出来るでしょうか。彼の苦悩は、深まるばかりです。いつまで苦しまなければならないのでしょうか。誰が、どのようにして、この苦しみから救ってくれるのでしょうか。今や、謎だらけです。

 私たちは、私たちの主イエスが、彼をこの苦しみから救ってくださると信じています。主イエスは、罪を犯されたことのない、清いお方ですが、罪人の身代わりに十字架に死なれました。

 その際、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫ばれました(マルコ15章34,37節)。主イエスは、神を、「アッバ、父よ」と呼んでおられました。しかし、ここでは「エロイ(わが神)」と呼ばれます。神を「父」と呼べなくなっているわけです。そうして、見捨てられるはずのない神の御子が、私たちに替わって十字架にかかり、罪の呪いを受けて、死なれました。

 主イエスの死によって、私たちは罪の呪いから解放され、神の子として永遠の命に生きることが許されたのです。主の恵みに感謝し、救いの喜びを胸に、日々希望と平安をもって歩みたいと思います。 

 主よ、今、苦しみの中におられるすべての人々に、主の慰めと平安が豊かにありますように。癒しと助け、勇気と希望をお与えください。あなたの御声を聞くことが出来ますように。キリストによる平和と喜びが常に豊かにありますように。 アーメン




九州バプテスト神学校公開講演のご案内

IMG_20150614_0001九州バプテスト神学校が、池明観(チ・ミョングァン)先生をお迎えして公開講演会を開かれることになりました。


「東北アジアの平和への課題とキリスト教会の使命と責任」


6月21日(日)19時~21時
会場 東八幡キリスト教会
    北九州市八幡東区荒生田2-1-40

6月23日(火)19時~21時
会場 大名クロスガーデン
    福岡市中央区大名1-12-17



先生のプロフィールなど詳細は、写真をクリックし、別ウィンドウで開く拡大版で確認してください。





なお、西南学院大学にも招かれて、6月22日(月)10時40分~12時、ロングチャペルで講演をされる予定です。


 

6月22日(火) ヨブ記2章

「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」 ヨブ記2章5節

 3節で主なる神が、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と、1章8節で語られたのと全く同じ言葉でサタンにヨブのことを言われた後、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と、サタンの攻撃にもかかわらず、敬虔に過ごすヨブのことをさらに誇らしく思っている発言をしておられます。

 即ち、一瞬にしてすべての財産を失ったばかりか、子どもたちをも奪い去られるという苦難を味わいながら、罪を犯さないヨブを見て、ヨブが神を畏れ敬うのは、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根を設けて守っているからだといったことこそ(1章10節)、まさに理由のないことで、神がヨブを、「地上に彼ほどの者はいまい」と称賛するのは(1章8節)、確かに理由があることだろうというわけです。

 それに対してサタンは、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです」(4節)と応じます。「皮には皮を」というのは、何かの諺と考えられていますが、その意味は明らかではありません。ただ、「皮には皮を」と、「命のためには全財産を」との対比で、二番目の「皮」と「全財産」が対応していると理解されます。

 1章10節の、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根をめぐらしているという言葉遣いで、ヨブには、幾重にも彼を覆っている皮があるということ、子どもたちや全財産というのは、ヨブにとって、彼を守る外側の「皮」だろうということが示されます。

 そして、ヨブ自身にも神の垣根がめぐらされていて、彼の命は最も内側の「皮」の中に守られているということ、その皮のためには外側の皮を、彼の命のためには全財産をという表現になっているのではないでしょうか。

 そこで、最後の守りである皮を取り、冒頭の言葉(5節)のとおり、神が手を伸ばして骨と肉に触れられれば、もはや無垢でいることは出来ず、神を呪うに違いないと告げます。

 それを聞いた神は、「お前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」と、サタンがヨブを試すことを許されます(6節)。そこでサタンは、ヨブに手を下して、全身をひどい皮膚病にかからせました(7節)。その攻撃にどのようにヨブが応じるのか、注目されます。

 ヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中かきむしります(8節)。「灰の中に座る」というのは、エステル記4章3節に、「灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」という言葉があり、上着を裂き、粗布をまとうなどの形式と並んで、悲嘆を表現する方法ということではあります。

 他方、重い皮膚病を患う人が出ると、町の人々は彼を外のゴミ捨て場に追放することが常だったと言われ、ヨブもそのような目に遭わされた、つまり、ひどい皮膚病を患った上に、屈辱的な振る舞いをされたということかも知れません。 

 そして、「素焼きのかけらで体中をかきむしった」というのは、頭をそるという以上の、悲しみを表現する極端なやり方でしょうか。あるいはまた、ひどい皮膚病のかゆみに、強く激しい刺激で対抗しているということでしょうか。

 つまり、ヨブの行動は、1章のときとは変化し、その内容をはっきり把握することが出来ない、あいまいなものになって来ています。 

 そこで、ここまで一度も口を開くことのなかったヨブの妻が、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(9節)という発言をします。この発言は、ヨブの妻自身の思い、おのが腹を痛めて産んだ子らを一度に失った苦しみに加え、皮膚病で苦しむ夫を傍らで見ながら、どうしてやることも出来ないので、神を呪って死にたいと、彼女自身が考えていることから、発せられているのではないかと思われます。

 ただ、サタンがヨブの妻を用いて、神を呪って死ぬようにヨブを唆しているということも出来そうです。というのは、サタンが、「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい」と言いましたが、ヨブの妻はヨブにとって、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2章23節)というべき存在でしょう。ヨブの骨と肉に触れることは、彼女の骨と肉に触れることでもあったのです。

 ヨブの苦しみは神御自身の苦しみではないかと、昨日学びましたが、ヨブの妻の苦しみは、ヨブの苦しみを示しています。ヨブは、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言います(10節)。

 ここで、「お前まで愚かなことを言うのか」とヨブは語っていますが、「お前まで」ということは、誰かが彼に「愚かなこと」を言ったということを表しています。それは誰なのでしょう。あるいは、彼の内なる声が、彼にそう囁いたのではないでしょうか。

 また、1章21節では、「わたしは」と、自らの思い、その信仰を明確に表現しました。ここでは、「わたしたちは」と、妻をその協力者として立たせ、「不幸もいただこうではないか」と、決意を言い表すような問いかけの言葉で終わっています。

 ヨブの言葉の後に、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことはしなかった」(10節)と、彼の振る舞い、言葉に対する評価が記されています。1章22節の、「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」というのと、特に変化はないようです。

 ただ、「唇をもって罪を犯すことはしなかった」ということは、唇ではなく、彼の心中はいかなるものか、彼の骨と肉はなんといっているのか、というところは、彼の態度同様、あいまいになって来ているということを示してはいないでしょうか。

 先に触れた、ヨブの骨と肉なるその妻の、「どこまでも無垢でいるのですか」(9節)という発言は、あなたはずっと敬虔に振る舞い続けるのか、今でも神をたたえるのか。それは無駄なことだ。神を呪って死になさいということでしょう。

 しかし、ある註解書に、「あなたはまだ一人で自分の無垢を主張するのですか。自分の完全さ、汚れのなさを主張し、それを保ち続けようとすることで、自分は神の外に、神と無関係に立っているということになりはしませんか。その無垢な自分を苦しめる神を呪うことになりはしませんか。それは自分の死を意味することではありませんか」という読み方もできるという提案がありました。

 ただ、そう読むことによって、ヨブの妻の発言の内容、その意図も、すべて明確ということにはならない部分があるようです。ヨブは妻の発言を、「愚かなこと」と断じていますが、しかし、註解書のような別の読み方をすると、これを「愚か」と言えるのかということにもなります。

 私たちの敬虔さ、汚れのなさは、どんな不幸に襲われてもそれに動じないでいる様子を見せ続けること、伝統的な信仰告白を唱え続けることで保たれていくものでしょうか。それとも、自らそれを守ろうとすることを放棄し、今自分が置かれているところをありのままに受け止め、受け入れることで守られるものでしょうか。それとも、さらに別の道が開かれるのでしょうか。 

 私たちがヨブのような苦しみを受けたとき、どのように考え、どのように振る舞い、何を語るでしょうか。伝統的な信仰告白に立ち、賛美を続けるという真似をすることは出来そうにありません。苦しみ悩みを主に訴え、しばしば不信に陥り、人や神を呪うかも知れません。そんな弱い自分であることを、いやというほど思い知らされることでしょう。

 ゆえなく神を敬うことのできない者であることを自覚し、その私を造られた神の憐れみにひたすら依りすがり、あるがまま神の御手に委ねて歩みたいと思います。

 主よ、私は自分の命を守るためなら何でもする自己中心的な臆病者です。キリストの血潮と聖霊の力による以外、自分の力で確信を持ち続け、平安に生きる者にはなれません。主の御名によって絶えず正しい道に導き、どんなときにも共にいて、その鞭と杖をもって、わたしを力づけてください。御霊の導きに与り、主に従う者となることが出来ますように。 アーメン



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