「マナセは12歳で王となり、55年間エルサレムで王位にあった。彼は主がイスラエル人の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。」 歴代誌下33章1節
冒頭の言葉(1節)のとおり、ヒゼキヤに代わり、12歳で王となったマナセは、55年間王位にありました。イスラエル史上最長の統治期間です。その意味では、国内が最も安定した時期ということが出来ますし、マナセには、それなりの政治手腕があったものと思われます。
ただし、父ヒゼキヤとは異なり、マナセは異教の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行ったと言われます(2節)。バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造ったことをはじめ(3節)、神殿の中に異教の祭壇を築いたり(4節)、自分の子らをベン・ヒノムの谷で火の中を通らせ、占いやまじないを行うなどのことは(6節)、それは祖父アハズにも勝るものでした(28章2節以下)。
12歳での即位で、自ら父祖ダビデに背く道を選んだとは考えにくいところです。マナセの摂政らが主の道に背くように唆したのではないでしょうか。そのことで、列王記下21章1節に、「その母は名をヘフツィ・バと言った」と記されていますが、歴代誌は、その記述を省略しています。その理由について、ヘフツィ・バがアラビア出身で、ユダに悪影響をもたらしたためと考えられると、註解書にありました。
マナセの母ということは、ヒゼキヤの妻ということになります。ヒゼキヤは、その治世14年目に死の病を患い、神に願って病が癒され、寿命が15年延長されました(列王記下20章6節)。マナセが生まれたのは、病が癒されてからのことです。
ヒゼキヤの晩年は、必ずしも神を求めるに熱心であったとは言えず、むしろ思い上がって道を踏み外していました(32章25,31節)。バビロンとの関わりの中で、アラビア女性との結婚、そしてマナセの誕生があったとすれば、納得のいく話です。そして、ヒゼキヤ亡き後、その妻ヘフツィ・バは、息子マナセに、バアルやアシェラ、天の万象を拝むことを教えたのでしょう(3節)。
3節の「バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った」という言葉は、列王記下21章3節と全く同じ言葉遣いですが、「バアル」、「アシェラ」について、列王記では単数ですが、歴代誌はそれを複数形にしています。つまり、そうすることで、マナセの背信をより強調しているわけです。
さらに、エルサレム神殿に異教の祭壇を築き(4節)、ベン・ヒノムの谷で自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、魔術や口寄せ、冷媒を用いるなど、主の目に悪とされることを行います(6節)。かくて、歴代誌においてマナセは、徹底して主に背く道を選び、突き進みました。それは、北イスラエルのアハブに勝るとも劣らない悪行と言うべきでしょう(列王記上16章29節以下)。
神は、イスラエルを正しい道に戻そうとして、マナセとその民に語りかけられますが、彼らはそれに耳を貸そうともしません(10節)。そこで主はアッシリアにマナセを委ね、バビロンに引いて行かせます(11節)。この記事は、列王記には出て来ませんが、まさに、イザヤやヒゼキヤに告げた預言の通りになったわけです(列王下20章17,18節)。
マナセはこの苦しみの中で罪を悔い改め、謙って主を求めました(12節)。そこで主はマナセの祈りを聞かれ、解放されてエルサレムに戻ることが出来ました(13節)。捕囚となったことと同様、マナセが悔い改めたという話も、列王記には出て来ません。
どれほどの期間、マナセが捕囚の身であったのかは不明ですが、それほど長い期間ではなかったでしょう。そして、彼の治世が55年であったというのは、彼の善政のゆえでは勿論なく、マナセを悔い改めさせ、謙らせるために、神が憐れみと忍耐をもって導かれた期間だったのです。
こうしてマナセは、主が神であることを悟り(13節)、すべての偶像を取り除き、異教の祭壇も町の外に投げ捨てて、主の祭壇を築き直し、その上で和解と感謝の献げ物をささげ、民にイスラエルの神、主に仕えるように命じました(15,16節)。
これこそ、主が望まれたものです。神の求めるいけにえは、打ち砕かれた心です。主は、悔いた心を軽しめられません(詩編51編19節)。主は打ち砕かれて謙る霊の人と共におられ、命を得させられます(イザヤ書57章15節)。主は、マナセのような徹底的に悪を行う者をさえ憐れみ、御名のゆえに正しい道に導いて下さいます。
このような憐れみ豊かな神であればこそ、これまた徹底的にクリスチャンを迫害し、教会を荒らし回ったパウロも、赦されてキリストを信じ、その福音を告げ知らせる者に変えられたのです(使徒言行録9章、第一テモテ1章12節以下)。私たちも主の前に謙り、絶えず主の御言葉に聴き従う者とならせていただきましょう。
主よ、この世を憐れんでください。主の前に謙ってその御言葉に耳を傾け、平和の源なる主の御旨を実現するため、争いをやめ、共に平和を構築するテーブルに就き、共に生きることが出来ますように。人と人との間に主がお立ち下さり、あらゆる隔ての壁を取り除き、主にあって一つとなることが出来ますように。 アーメン