風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年04月

4月13日(月) 歴代誌下1章

「彼らはエジプトに上り、戦車を一両銀六百シェケル、馬を一頭百五十シェケルで輸入した。同じように、それらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。」 歴代誌下1章17節

 ダビデ王の死後、息子ソロモンが王となりました(歴代誌上29章28節、23章1節参照))。歴代誌下1~9章にソロモンの業績が記されています。1章がソロモンの知恵のこと、2~4章が神殿建築、5~7章は神殿奉献の祈りと主の応答、8章が諸事業、9章にシェバの女王の来訪とソロモンの富という内容になっています。

 王となったソロモンは、全会衆と共にギブオンに下り、神の臨在の幕屋の青銅の祭壇で、一千頭の焼き尽くす献げ物をささげました(3節以下)。それは、ソロモンにとって、神を礼拝することがイスラエルの王としての最も重要な務めであるということを示しています。

 ギブオンは、エルサレム北西およそ10kmにある町です。神の箱がペリシテに奪われて以来、シロの町に置かれていた臨在の幕屋がギブオンに移されていました(3節、サムエル記上1章以下、4章、列王記上3章4節)。神の箱は、ダビデがエルサレムに張った幕屋に置かれていたので(4節、歴代誌上15章1節以下)、臨在の幕屋のあるギブオンと神の箱が設置された天幕のあるエルサレム、2箇所で神が仰がれていたわけです。

 その夜、神がソロモンに現れて、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました(7節)。それに対してソロモンは、「今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。そうでなければ、誰が、あなたのこの大いなる民を裁くことができましょうか」といって、上からの知恵と識見を求めています(10節、列王記上3章6節以下、9節)。

 神はその答えを喜ばれて、知恵と識見だけではなく、ソロモンが求めなかった富と財宝、名誉も加えて与えられました(12節、列王記上3章13節以下では「富と栄光、長寿)。これは、何よりも先ず神の国と神の義を求める者には、必要なものはみな添えて与えられると、主イエスが教えられたとおりのことです(マタイ福音書6章33節)。

 神に与えられた知恵と富で、先ずソロモンがなしたことは、戦車千四百と騎兵一万二千を集め、戦車隊の町々と王のもとに配置すること(14節)、また、銀や金、レバノン杉を大量に供給したこと(15節)、戦車と馬をエジプトのクエから買い入れたことです(16節)。そして、冒頭の言葉(17節)のとおり、戦車一両銀六百シェケル、馬一頭百五十シェケルで輸入して、それを近隣諸国に輸出しました。

 つまり、国の安全を強化すると共に、商売をして蓄財するという、富国強兵策を実施したわけです。この後、彼はそのような知恵と富を総動員して、壮麗な神殿と豪華な宮殿を建設します(1章18節以下)。そして、彼の知恵と富は、世界中をうならせます(9章参照)。12節で与えられた神の約束が、このように実現していると示しているかたちです。

 ただ、そのようなことをするために、知恵と識見、それに加えて富や財宝、名誉が与えられたのでしょうか。彼はその知恵と識見をもって、イスラエルの民をどこへ導こうとしているのでしょう。残念ながら、民に対してどのような政治を行ったのか、彼がこの後、どのように神に聴き、神に従ったのか、殆ど何も記されていません。

 列王記を学んだときにも何度か開きましたが、申命記17章14節以下に、「王に関する規定」が記されています。そこに、「王は馬を増やしてはならない」(同16節)とありますし、また、「銀や金を大量に蓄えてはならない」(同17節)とも記されています。それらは確かに、国を守るのに力になるものでしょう。しかしながら、主なる神はそのようなものに頼らず、神に頼れと言われるのです。

 誰よりも知恵のあるはずのソロモンですから、このような規定のあることは、知っていたのではないでしょうか。にも拘わらず、それに全く耳を傾けていないような振る舞いをしているというのは、ソロモンの高ぶりというものでしょう。そして、知恵のあるソロモンに、道を説く者がいなかったのでしょう。だから、道を正すことが出来なかったのです。

 しかし、真の知恵は、主を畏れること、その教えに聴き従うこと(箴言1章7節参照)、馬に頼らず、主に頼ることです。「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう」とダビデは詠いました(詩編34編12節)。よしんば、武力をもって国を守ることが出来たとしても、それが主に従う道でなければ、やがて滅びを招くことになってしまいます。

 主イエスが、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8章36節)と言われました。この命は、神とのつながりを示しています。そのつながりが失われれば、充実した真の生命を生きることは出来ません(ヨハネ15章5節参照)。

 御前に謙り、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと思います。

 ♪主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ、その人は水路の側に植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても、栄える。♪(ミクタム プレイズ&ワーシップ 21番[詩編1編2~3節]) 

 主よ、今日も御言葉の恵みに与らせてくださり、感謝します。日々御前に謙り、御言葉の恵みを受け、主の幹につながるぶどうの枝として、豊かな実を結ぶことが出来ますように。聖霊の助けと導きに与り、主の平和に満たされ、主の愛の証し人としての使命を全うすることが出来ますように。 アーメン





4月12日(日) 歴代誌上29章

「わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと定めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください。」 歴代誌上29章19節

 「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」(28章9節)とダビデは息子ソロモンに命じていましたが、それが人間の力で出来るものではないことを、ダビデはよく知っていました。冒頭の言葉(19節)でダビデは、全き心を息子ソロモンに与えてくださるようにと、神に祈っています。

 ダビデは、主の神殿を建築するために、出来る限りの備えをしました(2節以下)。それは、金100トン、銀240トンという莫大なものです(7節)。ソロモンの代に、船団を編成してオフィルの金を420キカル手に入れたとあり(列王記上9章28節)、それは、かつてないほどのものだったと考えると、3千キカルの金というのは、相当の誇張があると考えざるを得ません。

 家系の長たちが献げた中に、1万ダリクの金貨が含まれています。これは、BC515年以前には鋳造されていなかったペルシアの貨幣です。つまり、歴代誌が記されているころに使われていたもので、紀元前1千年のダビデ時代には存在しないものでした。これは、単なる時代錯誤というより、五千キカルとは、自分たちが知っているペルシアのお金で1万ダリク相当だという表現ではないかと考えられます。

 つまり、ダビデ、ソロモン時代はいざ知らず、捕囚から戻って来たイスラエルの民が、第二神殿の建築のために献げたのが金1万ダリク=84㎏、現在の価格で4億円余りというところだったということでしょう。それで考えると、ダビデのささげた3千キカルは6千ダリク=50.4㎏、価格にして2億5千万ということになります。

 戦いに明け暮れていたダビデでしたが、それを献げるだけの経済力を持っていたので、イスラエル国民から税を取り立てる必要がなかったのでしょう。そして、それを献げたということは、持てるものをすべて神殿建築に献げたということです。まさに、全き心と喜びの魂をもって神に仕える姿勢を、ここに示したのです。そして、それを見たイスラエル諸部族の長たちも、精一杯の献げ物を献げました(6節以下)。

 それが、上記のとおり、捕囚後の民が第二神殿建築のためにささげたものだとすると、やはり驚くべき金額といってよいのではないでしょうか。ソロモン時代のような絢爛豪華な神殿を建てることは叶わないでしょうけれども、精一杯の献げ物を、主は喜ばれたことでしょう。

 肝要なのは、豪華な神殿を建てることではありません。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」とあるように(サムエル記上15章22節)、神殿を建てようとする者の神に聞き従う姿勢、その神殿で礼拝をささげようとする者の心が重要なのです。

 ダビデは、既にそのことを悟っておりました。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したに過ぎません」と言います(14節)。

 さらに、「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民に過ぎず、移住者に過ぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」と告げています(15節)。

 神の恵みなしに、充実した歩みをなすことなど出来ないということでしょう。だからダビデは息子ソロモンに、全身全霊をもって礼拝をささげることを命じ、それが出来るようにと神に祈っているのです。

 実に難しいのは、その心を保ち続けることです。今はそのつもりでも、次の瞬間、別のことを考えています。この後、壮麗な神殿が建てられますが、ソロモンはやがて、全き心で神に仕えることが出来なくなります。

 神から非常に豊かな知恵と洞察力、海辺の砂浜のような広い心が授けられましたが(列王上5章9節)、それがあだになったかのような結果になりました。というのは、エジプトのファラオの娘の他、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女性を愛し(同11章1節)、700人の王妃に300人の側室がいて(同3節)、彼らのゆえに心惑わされて、異教の礼拝が行われるのを許してしまうのです(同8節)。

 主は二度もソロモンに現れて、他の神々に従わないよう戒められましたが、彼はそれを聞こうとしませんでした(同10節)。ソロモンが父ダビデのように主を畏れ、主からその罪が指摘されて、すぐに悔い改めをする人物であれば、国が南北に分裂し、アッシリア、バビロンによって滅ぼされるのを避けることが出来たかも知れません。

 しかし、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と言われていことから(箴言1章7節)、ソロモンはそのとき、神の前に無知な者となっていたのです。

 人はどうすれば、心を清く保つことが出来るでしょうか。それは、御言葉に耳を傾け、その導きに従うほかありません(詩篇119編9節)。また、聖書は「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と命じており(フィリピ4章6節)、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束しています(同4章7節)。

 ダビデのように、心を込めて祈る者にならせていただきましょう。主にお仕えする心と考えを、神の平和で守っていただきましょう。

 主よ、心を尽くしてあなたを慕い求めます。御言葉から右にも左にも迷い出ることがないように、真直ぐに信仰の道を歩ませてください。感謝をこめて祈ります。いつも主の平和で心と考えをお守りください。インマヌエルの主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン



4月11日(土) 歴代誌上28章

「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたを永久に拒み続けられる。」 歴代誌上28章9節

 28章には、「ダビデによる神殿建築の宣言」が記されています。このことについては、既に22章で一度取り上げられていました。このことについて、22章ではソロモンを個人的に呼んで神殿建築を命じているのに対し(22章6節以下、11節)、今回は、イスラエルの長たる者をすべて招集し(1節)、「イスラエルのすべての人々、主の会衆の目の前で」(8節)宣言され、実行に移されて行きます。

 歴代誌が書き記されたのは、バビロン捕囚から解放された後のことで(歴代誌下36章参照)、最初の読者は、バビロンから帰って来たイスラエルの民です。彼らには、破壊された神殿を建て直す使命が与えられました(エズラ記1章3節、3章8節以下)。

 しかし、それは容易い仕事ではありませんでした。様々な妨害もあり、工事の中断を余儀なくされたこともあります(同4章)。そういう民を励ますために、繰り返しソロモンによる神殿建築の出来事が想起され、ダビデの言葉を通して、神殿を建てるための留意事項を確認しているわけです。

 11節に、神殿の「設計図」(タブニート)がダビデからソロモンに手渡されたことが記されています。この設計図は、主の御手がダビデに臨んで記されたものでした(12節以下、19節)。これは、モーセが神の幕屋を造るときに神が示した「作り方」 と同じ言葉です(出エジプト記25章9,40節)。つまり、主なる神がモーセに幕屋を造らせたように、ダビデを通じて神殿をその子ソロモンに造らせようとしているということです。

 冒頭の言葉(9節)は、神殿を建てる際に留意すべき中心的なポイントについて、ダビデがソロモンに語っているものです。それはしかし、工事の安全や、建築工事の完璧さなどを求めるものではありません。ソロモンの信仰心が問われているのです。

 確かに、神は私たちの姿かたちなど、見えるところではなく、その内面を、心の奥底まで見ておられます。心を見るという言葉は、先にダビデを王として選ばれるときに、神が預言者サムエルに告げたものでした(サムエル記上16章7節)。

 しかしながら、神の要求に完璧に応えることが出来る内面の持ち主がいるでしょうか。たとい、今はそのつもりでも、いつでもそのような心で居続けることが出来るでしょうか。

 ほかの誰もが裏切っても、自分だけは絶対に裏切らない、主を知らないなどとは言わないと豪語したペトロ(マルコ14章29,31節など)。それは彼の本心だったと思いますが、しかし、彼の思いに背き、主イエスが告げられたとおり、一日も経たないうちに、三度も主イエスを否む結果となってしまったのです(同66節以下)。

 今このようにその子ソロモンに語っているダビデ自身も、全き心で神に仕えることが出来たのかと問われれば、もちろん否と言わざるを得ません。少なくとも彼は、神の御前に罪を犯して預言者ナタンにそれを指摘され、その罪のために幼子を死なせるという経験をしたのです(サムエル記下12章)。

 しかしながら、私たちは自分の弱さを知り、その弱さの中に働かれる神に信頼することが許されているのです。弱さを持っていることが問題ではありません。一度罪を犯せば、それでもうお仕舞というのではありません。弱さを知らされたとき、それを認めて、主を呼び求めればよいのです。神の助け、神の赦しなしに、一人で立つことが出来る者はいないのです。

 ダビデは、詩編16編8節で、「わたしは絶えず主に相対しています」と詠っていますが、それは、ダビデがいつも主の前に立っていた、主を自分の前に置いた、主の前を離れたことはないというのではありません。ダビデが道を外れても、主の方がいつもダビデの前に立たれた、主がダビデを見ていてくださった、主がダビデを憐れみ、いつも主に守られていたというのが、その心でしょう。

 だから、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(同8節)と言い、続けて、「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」(同9節)と語っているのです。

 詩編23編で、「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(同3節)、「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(同4節)というのも、同じような消息を示しているのではないでしょうか。ここに、主によって罪赦され、解放された者の喜びがあります。

 パウロも、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と語っています(第二コリント12章9~10節)。弱さを知ってさらに主を求め、主の力、主の栄光を表していただきましょう。

 主よ、私のために主イエスが十字架にかかり、身代わりに死んでくださいました。その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。私のからだは、御子の命をもって贖われました。私はあなたのものです。御業のために用いてください。今日も主の導きが豊かにありますように。 アーメン!




4月10日(金) 歴代誌上27章

「家系の長、千人隊と百人隊の長、役人たちは、王に仕えて、一年中どの月も、月ごとに交代する各組のあらゆる事柄に当たった。一組に二万四千人いた。」 歴代誌上27章1節

 27章1節以下の段落には、神殿建設の準備から一旦離れて、イスラエルを守る「軍隊の組織」について記されています。それは、各部族がそれぞれ、自分たちの嗣業の地を守るというのではなく、王の指揮のもとに一つとなって国を守る軍隊組織です。軍隊には12の組があり(2~15節)、冒頭の言葉(1節)のとおり、一組に2万4千人いて、各組で一ヶ月づつ、国の警護を担当するようになっています。

 22章以降、神殿建築に備え、レビ人を組分けするという記事の中に、軍隊の組織(1~15節)や部族の指導者(16~22節)、王室財産の管理(25節以下)などが記されているのは、祭司やレビ人同様にそれぞれ組分けされ、交代で務めを果たしたという、国全体の統治と神殿の務めとを関連付ける目的があったのでしょう。

 ただし、3000年前の時代に、いつでも常に戦争に対応する体制を整えていたとは考えられません。敵が攻め込んで来れば、そんなことを言ってはいられませんが、平時において、特に農繁期に国防のための兵役が強制されることは考えにくいところです。わが国でも、平時は農作業に当たりながら、戦時に召集されるというのが常で、戦の専門集団を作ったのは、戦国時代の織田信長が最初と聞いた覚えがあります。 

 また、2万4千人ずつ12組ということは、全部で28万8千人いるということになりますが、民数記1章、26章やサムエル記下24章にある記述から考えても、これが戦争に出ることの出来るイスラエルの子らの総数とは、考えられません(23節、民数記1章46節、26章51節、サムエル記下24章9節参照)。

 2万4千という数は、完全数12の倍数に完全数10の3乗をかけ合わせた、完全の上にも完全で、これ以上大きな数字はない、すべての者を数えたという表現でしょう。その数の兵士を12組集めたというのですから、国を守り、神殿を守る完全な軍隊であるといっているわけです。

 とはいえ、真にイスラエルの国を守るのは、兵の数やその組織ではありません。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない」(詩編33編16,17節)と言われます。また、「主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(同127編1節)とも詠われています。

 24節に、「数え始めたために御怒りがイスラエルに臨み」と記されているのは、サムエル記下24章、歴代誌上21章に記されている、ダビデによる人口調査を思わせますが、ここでは、それをツェルヤの子ヨアブの所為にしています。さらに、ダビデが数えようとしなかった20歳以下の者を(23節)、ヨアブが数えようとして、神の怒りがイスラエルに臨みました。

 ただ、軍の司令官ヨアブが、王ダビデの命令によらず、自らそのようなことをしたという記事は、この箇所のほかには、どこにもありません。むしろ、ダビデを諌め、その罪を犯すことを止めようとしたのです(21章3節)。そしてまた、彼はダビデの命じた通りにはせず、レビ人とベニヤミンの調査をしませんでした(同6節)。

 ところで、兵役に就くのは20歳以上の者ですから(民数記1章3節参照)、何故ヨアブが20歳以下を数えようとしたのかも、判然としません。幼年学校を開くつもりでもあったということなのでしょうか。いずれにせよ、それは、目に見えるものに依り頼もうとする行為と考えられ、真に国を守っておられる神に信頼していないことを表わしています。それらのことが、神の怒りを招いたわけです。

 今日の私たちの戦いの相手は、血肉、すなわち人間ではなく、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものです(エフェソ6章10節以下)。そのために、神の武具で武装せよ、と言われます(同11,13節)。両の手に持つのは、信仰という盾と(同16節)、霊の剣、即ち神の言葉です(同17節)。主イエスの御言葉を信じることが、サタン悪魔に対抗する神の武器なのです。

 悪魔の策略は、神に対する信頼を損なわせ、人と人とを分裂させるというものです。アダムとエバは、蛇にそそのかされて神に背き、その責任を転嫁して、お互いの信頼関係を失ってしまいました(創世記3章)。国が内輪で争えば、その国は成り立ちませんし、家が内輪で争えば、その家も成り立ちません(マルコ3章24,25節)。

 マタイ12章28節では、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われています。神の国をもたらされる主イエスは、神の霊によって悪霊を追い出され、神の国を私たちのところにもたらされるのです。

 私たちの頭であられる主イエスが、私たちをご自身の体として一つに結び、神の御支配のもとにおいてくださいます。神の支配のもとには、悪魔、悪霊が存在する余地はありません。そこには神の霊が満ちています。神の武具で身を整え、キリストの十字架において示された神の愛によって一つとされ、聖霊に満たされて祈り、賛美するのです。

 一年中どの月も、どの日も。主の御旨を悟り、その導きに従って歩む私たちに、主は勝利の冠をお与えくださるでしょう。その栄冠を主にお献げ出来るよう、日毎に主の御前に進ませていただきましょう。主との親しい交わりに入れていただきましょう。主に用いられるものとしていただきましょう。

 主よ、あなたが私たちの味方であられるとき、私たちに敵対出来るものはありません。私たちには圧倒的な勝利が約束されています。見えるものに依り頼み、持ち物を誇ろうとする弱さ、愚かさをすて、主とその御言葉に信頼します。主の守りと導きが常に豊かにありますように。 アーメン




4月9日(木) 歴代誌上26章

「門衛の組分けについて。コラの一族ではアサフの子らの一人、コレの子メシェレムヤ。」 歴代誌上26章1節

 22章に神殿造営の準備が語られ、23章以下には、レビ人の任務や組分けなどが記されています。ダビデが晩年になしたことは、主の神殿建設をソロモンに命じ、材料をそろえるなど、建設のための準備をすることでした。それは、イスラエルにとって、神を礼拝することが最も大切なことであるというダビデの信仰を表しています。

 礼拝は、英語で「ワーシップ worship」と言います。これは、価値(worth)があるという言葉の仲間で、尊敬とか崇拝という意味です。平たくいえば、不遜な表現ですが、神の価値を認めるということでしょう。神の価値を認めるということは、神として相応しい敬意を払うということです。つまり、ワーシップという言葉に表わされた「礼拝」とは、神に敬意を払うこと、神を崇めることです。

 また、礼拝を表すのに、「サービス service」という言葉もあります。東海地方を中心に喫茶店での廉価な朝食セット(例えば、ホットコーヒーにトースト、卵焼きなどがおまけでついている)をモーニング・サービスと言いますが、これは和製英語で、本来の英語は、キリスト教における朝の礼拝のことをそう言います。

 礼拝は、私たちが神のサービスを受けるというものではありません。神に対して、私たちが奉仕をするのです。また、神に仕えるように隣人に仕えるのです。その意味で、礼拝で自分が満足することを求めるのではなく、神が喜ばれるようにする、また、他者を喜ばせようとする、それが、サービスという言葉に表わされた礼拝です。

 そのような礼拝の務めを担う代表者が祭司です。祭司とは、文字どおり、祭(神にいけにえを捧げる行為)を司る者です。そして、祭司を補佐する役割のレビ人がいます。彼らは様々な奉仕をします。冒頭の言葉(1節)には、「門衛」が登場します。この門衛は、神殿の門番です。門番の務めは、神殿の警護です。相応しくない者を中に入れない、神殿を守るという役割です。

 4~8節に、オベド・エドムの子らが紹介されていますが、彼はレビ人ではありません。ユダヤ人ですらありません。13章13節に、「ガト人オベド・エドム」と記されています。ガト人とは、ペリシテに属する町の出身者ということです。彼らは、 神の箱を預かって、主の祝福に与りました(13章14節)。だから、門衛に取り立てられることになったということなのでしょうか(15章18,24節、16章38節)。

 オベド・エドムを加えながら、19節には、「以上がコラとメラリの子らの門衛たちの組み分けである」とあることから、4~8節と12~18節は、もとのレビの子らの資料に歴代誌の著者が手を入れたものといってよいでしょう。そして、神の祝福を受けたので(5節)、コラの家系の者(18人:9節)やメラリの家系の者(13人:11節)よりも、多くの子らを持つようになっています(62人:8節)。

 これまで、繰り返し学びましたように、今日、私たち自身が神の神殿、聖霊の宮であると言われています(第一コリント3章16節、6章19節)。私たち自身が神殿、聖霊の宮であるということは、聖霊が神として私たちの心に宿っておられるということです。

 パウロが、エフェソ書5章18,19節で、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と言っています。門番として、先ず、聖霊を心にお迎えしましょう。祈り求めれば、聖霊をくださると、主イエスが約束してくださいました(ルカ11章13節)。

 聖霊は、私たちを信仰に導いてくださった方です。聖霊によらなければ、イエスを主と告白できなかったのです(第一コリント12章3節)。そのことを認め、聖霊に感謝と賛美をお献げしましょう。

 また、主イエスが、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と仰っています(ヨハネ7章38節)。生きた水の川とは、主イエスを信じる者が受けようとしている聖霊のことと説明されています(同39節)。聖霊が私たちを信仰に導きましたが、主イエスを信じた者たちは、自分がそのことを関知していなくても、聖霊の川が流れ出て、周囲の人々を信仰に導いているわけです。

 一方、私たちの心を占領してしまうものが他にもあります。不安や恐れ、心配、この世の煩い、たくさんのスケジュール、様々なストレス、はたまた、この世の楽しみや欲望など。それらは、私たちから信仰の喜びや感動を奪い、御言葉の恵み、賛美や祈りから遠ざけてしまうものとなることがあります。門衛として、私たちの心に入ってくるものを賢く見分けなければなりません。

 いつの間にか、祈らなくなってはいませんか。生活の中で賛美することを忘れてはいませんか。聖書の御言葉を読まなくなってはいませんか。礼拝する者は、神が霊であられるから、霊と真実、真理を持って礼拝しなさいと言われています(ヨハネ福音書4章23,24節)。霊が妨げられれば、礼拝にならないわけですが、そういうことに気づかないくらい、鈍くされてはいないでしょうか。

 酒などに酔い痴れて心が鈍くされ、主を賛美し、祈り、御言葉の恵みに与ることが妨げられないように、聖霊との交わりが阻害されることがないように、絶えず御言葉によって心を見張り、聖霊を通して注がれる神の御愛で満たし続けていただきましょう。

 主よ、御子の血をもって私たちを聖霊の宮として清め、常にキリストの言葉が豊かに宿るようにしてください。知恵を尽くして諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から主を誉め讃えます。主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン




4月8日(水) 歴代誌上25章

「ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。」 歴代誌上25章1節

 歴代誌の著者は、これまで何度も詠唱者について取り上げています(6章、9章、23章)。それは、主を賛美する務めがいかに重要かと考えている証拠でしょう。

 昼も夜も楽器を奏で、賛美の歌声を絶えず神殿に響かせるため、多くの音楽奉仕者が選ばれていました。23章5節には、楽器を奏で、主を賛美する者の数は、4千人と記されています。それが、7節に、「主に向かって歌をうたうための訓練を受け、御名が熟練した者であったその兄弟たちも含め、彼らの数は二百八十八人であった」とされます。これは、12人ずつ24組に分けられた者たちの総数ということです。

 その違いをどう理解したらよいのか分かりませんが、ここでは、24章の祭司の組に合うように、詠唱者の組み分けも行われたというわけです。くじで分けたことについて、8節に、「年少者も年長者も、熟練した者も初心者も区別なく」と言われています。

 そして、賛美は神に捧げられるものですから、最高の演奏、最高の音楽だったことでしょう。私たちも、不平不満、つぶやきといった雑音や不協和音などではなく、賛美のいけにえ、神の御名をたたえる唇の実を絶えず神にささげたいと思います(ヘブライ書13章25節)。そのためには、聖霊に満たされることだと、パウロは教えています(エフェソ書5章18~20節)。

 主は、「聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」であると、詩編22編4節にありますが、口語訳では、「イスラエルのさんびの上に座しておられる」と記し、新改訳は、「賛美を住まいとされる」と訳しています。主なる神は、賛美のあるところに臨在されるということでしょう。ですから、聖霊に満たされると賛美に導かれ、そして、賛美によっていよいよ豊かに聖霊に満たされるわけです。

 特に、今日の箇所には興味深い言葉があります。それは冒頭の言葉(1節)で、「アサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した」と記されています。アサフたちは楽器を奏でながら賛美した、歌ったというのではなく、「預言した」というのです。これは、どういうことでしょうか。

 主の霊が激しく下ると、預言する状態になると言われます(民数記11章25節、サムエル記上10章10節、19章23節、ヨエル書3章1節)。使徒言行録には、人の上に聖霊が降り、彼らが霊の語らせるままに語り出すという現象について、何度も報告されています(2章4節、4章31節、6章10節、10章44~46節、19章6節)。

 また、パウロは、聖霊から授けられる賜物(カリスマ)として、知恵の言葉や知識の言葉、預言する力、種々の異言を語る力、異言を解釈する力など、言葉に関する霊的な賜物をいくつも挙げており(第一コリント書12章4節以下)、特に、預言するための賜物を熱心に求めなさいと勧めています(同14章1節)。

 預言とは、文字通り、言葉を預かることで、神から御言葉を預かり、それを神の御言葉として人々に語り伝えることです。その意味で、これからのことを言い当てるという「予言」とは異なります。主の霊が下ると、異言を語ったり預言をしたりするということは、聖霊の働きで神の御言葉を聴きとることが出来、また、それを語り伝える力が与えられるということです。

 預言者たちが音楽を用いていた例が、サムエル記上10章5節の「琴、太鼓、笛、竪琴を持った人々を先頭にして、聖なる高台から下って来る預言者の一団」、また、列王記下3章15,16節の「楽を奏する者が演奏をすると、主の御手がエリシャに臨み、彼は言った。『主はこう言われる。「この涸れ谷に・・』」などに示されています。 

 つまり、アサフ、ヘマン、エドトンの子らが賛美を通して聖霊に満たされ、聖霊によってさらに賛美に導かれた結果、彼らに神の御言葉が預けられた。また、彼らの賛美が、聞く者に神の真理を教えるメッセージ、預言としてとして受けとめられたということでしょう。3節の、「竪琴を奏でながら預言して主に感謝し、賛美をささげた父エドトンの指示に彼らは従った」というのは、そのことを言っているわけです。

 詩編に、アサフの詩や(50,73~83編)、ヘマン(88編)、エドトンの詩があり(39編)、またエドトンの曲もあったようです(62,77編)。楽器に合わせて賛美された詩が、聞いた者の心に深く留められた証拠でしょう。

 賛美と神の御言葉、いずれも礼拝に欠かせない大切な要素です。礼拝で牧師が語るメッセージと同様に、奏楽者や聖歌隊、そして会衆の歌う賛美がいかに大切かということになります。ということは、音楽の奉仕にあたる人々が聖霊に満たされて、その務めを果たすことが出来るように祈ることが、礼拝が整えられるために、とても重要なことということが出来ます。

 だからこそ、「礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われているわけです(ヨハネ福音書4章24節)。

 主よ、どうか私たちを日々聖霊に満たし、心から主をほめ讃えさせてください。約束どおり、主が私たちを聖霊に満たしてくださると信じて感謝します。礼拝が整えられ、主の求められるまことの礼拝者たちが、霊と真理をもって礼拝するときが来ますように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン




4月7日(火) 歴代誌上24章

「エルアザルの子らにもイタマルの子らにも聖所の長と神の長がいたので、彼らはくじによって組に分けられた。」 歴代誌上24章5節

 24章には、「祭司の組織」についての記述がなされています。モーセの兄アロンが神の民イスラエル最初の祭司となり(出エジプト記28章1節)、その子らが祭司職を代々担って来ました。祭司の主な務めは、神の御前にいけにえを捧げ、またイスラエルの民に契約の律法を教えることです。

 彼らは任職の時、右手、右足の親指と右の耳たぶに雄羊の血が塗られました(出エジプト記29章20節以下)。それは聖別のしるしですが、彼らが耳で聴くことと手をもって行うこと、足で立ち、歩むことにおいて、神に用いられることを示しています。そして、その奉仕を行うために、贖いの血が必要だったのです。

 パウロが、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ書12章1節)と語っていますが、私たちの献身は、神の憐れみのゆえに成り立つのです。

 アロンの子らのうち、ナダブとアビフは規定違反の炭火を主にささげて、自ら死を招いてしまいました(2節、レビ記10章1~3節)。残ったエルアザルとイタマルの子らが24の組に分かれて聖所の務めを果たします(4,7~18節)。

 冒頭の言葉(5節)に、「エルアザルの子らにもイタマルの子らにも聖所の長と神の長がいた」と記されています。これは祭司長のことを言っているのだと思われますが、祭司長には、聖所の長と神の長という区別があったのでしょうか。この区別がどのようなものか、よく分かりません。新改訳聖書では、「聖所の組のつかさたち、神の組のつかさたち」と訳されており、祭司たちが大きく二つに組分けされていたように考えられています。

 それに対して、「聖所の長」という役に関して、「コーデシュ(聖、聖別したもの、聖所)」には定冠詞がないので、「聖なる支配者、聖なる役人」と訳すべきだという説があります。また、「神の長」も、「エロヒーム(神、神々)」を最上級の表現として用いる例で、「卓越した指導者」と訳すべきかもしれないというのです。

 それに従えば、祭司に特定の称号や組があったのではなく、祭司長を一般的に説明した表現と考えられ、二つは実質同格に置かれていることになります。つまり、「聖所の長と神の長」を「聖なる役人、即ち、卓越した指導者」と読むわけです。だから、エルアザルとイタマル、いずれの子らにも、祭司長となる人物がいたということになります。

 3節に、「エルアザルの子らの一人ツァドクとイタマルの子らの一人アヒメレク」とあり、ツァドクもアヒメレクも、ダビデに深い関わりのある祭司長でした(18章16節参照、ただし、アヒメレクをアビメレクと誤記)。彼らが、その子らを任命されている奉仕に従って組み分けするときに、ダビデを助けたわけです。

 その組み分けについて、しかし、冒頭の言葉では、くじによってなされたと言います。自分の得手不得手、好き嫌い、主義、信条、あるいはまた、技能の習熟度などによって分けられたわけではありません。彼らは、くじ引きによる組分けを、偶然の所存などと考えているのではなく、そこに人間の作為が入らない神の御心を感じていたのだと思います。そして、くじで分けられた務めを、神の使命として受け止めたのです。

 「くじ運がいいとか悪いとか」というようなことがあるかも知れません。しかしながら、神のために聖別された者が、くじによる組み分けで神がお与えになる務めを、どこまで従順に、感謝と喜びをもって果たすかということで、まさしくそこにおいて、献身の質が問われているということが出来ます。あるいは、神を畏れる信仰といってもよいでしょう。

 主イエスが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と言われました。

 私たちは一人残らず、主イエスによって選ばれ、実を結ぶようにそれぞれに使命が与えられているのです。そのために主イエスから任命を受けました。私たちの使命は、主イエスの御心のままに定められているのです。ですから、使命を遂行するのに必要な知恵や力は、主イエスが与えてくださいます。

 御子イエスの血の代価によって私たちを贖い、ご自分のものとして選び立ててくださった主なる神を信じましょう。日々、御言葉を通して語りかけられる主の御声に耳を傾けましょう。主の恵みと導きに感謝し、心から主をほめ讃えましょう。主との親密な交わりがあるからこそ、その御言葉に従う力や知恵が与えられるのです。

 主よ、どうか私たちの耳を開いてください。御声を清かに聴かせてください。私たちの心を清め、手と足を清めてください。主の御姿を見ることが出来ますように。知恵も力も全く足りない者ですが、聖霊に満たし、主の御業のために用いてください。この地にも主の御心が行われますように。御国が来ますように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン




4月6日(月) 歴代誌上23章

「ダビデは言った。『イスラエルの神、主はその民に安らぎを与え、とこしえにエルサレムにお住まいになる。レビ人はもはや幕屋とその奉仕に用いるすべての祭具を担ぐ必要がない。』」 歴代誌上23章25,26節

 23章には、「レビ人の任務」について記されています。レビ人は、モーセが民の指導者として立てられるまで、ヤコブによって呪われているような存在でした(創世記49章5節以下)。というのは、ヤコブ一族がシケムに宿営していたとき、妹ディナが辱められたことを憤り、シメオンとレビが、欺いてシケムの町の男たちをことごとく欺いて殺し、町中を略奪したため、その地の人々から憎まれることになったからです(同34章)。

 そのレビの子孫から、神はモーセを選び、彼の兄アロンとその子らを祭司とされ(出エジプト28章1節)、レビの一族には、神の幕屋で神に仕える仕事を与えられることになりました(民数記1章49節以下)。嗣業の地は受けませんが、神の嗣業を受けることになったのです(同18章20節以下)。さながら、呪いが祝福に変えられ、マイナスがプラスになったという出来事です。

 老齢になって、王位をその子ソロモンに譲ったダビデは(1節、列王記上1章参照)、イスラエルの全高官と共に祭司、レビ人を呼び集め(2節)、神殿での務めを指揮する者、役人と裁判官(4節)、門衛、楽器を奏で、主を賛美する者としました(5節)。また、レビ人を組み分けしました(6節以下)。こうした振る舞いを見ると、そのときダビデは、大祭司としての役割を果たしているようです。

 そしてダビデは、冒頭の言葉(25節)のとおり、「イスラエルの神、主はその民に安らぎを与え、とこしえにエルサレムにお住まいになる」と告げました。荒れ野の旅が終わり、約束の地カナンを征服し、その四方を平定して、平和を得たからです(18~20章)。平和の裡に神殿を建てることが出来れば、「幕屋とその奉仕に用いるすべての祭具を持ち運ぶ必要がない」(26節)ようになるわけです。

 これから、ダビデの子ソロモンによる神殿建築が始まります。主の神殿が完成すれば、イスラエルの民と共に荒れ野を旅し、民のうちに住まわれるための神の幕屋は、完全に用済みになります(出エジプト記25章8節、29章45,46節参照)。そうなれば、レビの子らは幕屋や祭具の運搬の仕事から解かれ、もっぱら神殿で神に仕える奉仕に携わることになります。

 レビ人として数えられた30歳以上の男子は、3万8千人と報告されています(3節)。民数記で、生後1ヶ月以上のレビ人の総数は、2万2千人でした(民数記3章39節)。その中で、幕屋の仕事に当たることの出来るのは30歳から50歳までの者で、登録された総数は、8,580人でした(同4章48節)。それがここで、3万8千人と報告されているのは、神の祝福によってその数を増すことが出来たという以外に、納得のいく説明はないでしょう。

 なお、24節には、「神殿の奉仕を職務とする二十歳以上の者」とあり(27節も)、3節と矛盾しています。初めは30歳以上で職務につけたけれども、その数が足りなくなって、職務につく年齢が下がって来たというのが、その実態でしょう。それが、歴代誌の記されたバビロン捕囚後の状況なのだろうと考えられます。

 ただ、その時のレビ人の数は341人(エズラ記2章40節以下)、神殿の使用人及びソロモンの使用人の一族を合わせて392人(同58節)、それに、祭司4289人を合わせても、5千人余です。3万8千人というのは、誇張された数と言わざるを得ません。

 そのうち、2万4千人が神殿の務めというのは、祭司が24の組に分けられましたから(24章1節以下、18節)、祭司に仕えるレビ人が、各組1千人ずつ配置するということでしょう。特に、楽器を奏でて主を賛美する者が4千人います。彼らは、その他の務めに当たりません。レビ人の十人に一人以上の者が賛美する者というのは、この務めがどれほど大切なものであるかということを、明示しています(6章16節以下、9章33節参照)。

 ダビデは、神殿が出来る前から彼らがそのために心備え、よい務めが出来るように準備をしたのです。ここから既に、神を礼拝する行為が始められているのを見ることが出来ます。

 繰り返し教えられているように、今日、私たちは神を探す必要はありません。神殿を探さなくてもよいのです。私たちが神の神殿、聖霊を宿す神の宮だからです(第一コリント3章16節、6章19節)。聖霊は、私たちの心にお住まいくださっています。私たちと共におられる主に心を向けさえすれば、私たちが、心の内におられる聖霊に耳を傾ければ、主は語ってくださるのです。導いてくださるのです。主の御用に用いてくださるのです。

 自分が何者であるかは問題ではありません。神がお住まいくださっているかどうか、その導きに従っているかどうかです(ローマ書8章14,15節)。主の御名によって立ち、信仰によって歩むとき、無学の普通の人が誰にも出来ない業をするのです(使徒言行録4~5章)。最高議会のメンバーに脅されても、大胆に証しの業を行うのです。

 今日も恵みと平安の源なる主を仰ぎ、聖霊の力を受けて、世の光、地の塩として、それぞれの仕方で主を証ししましょう。

 主よ、どうぞ私たちを聖霊で満たしてください。御言葉と御霊によって導いてください。そして、主の御業のため用いてください。イースターから始まったこの一年を通して、御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン!



4月5日(日) 歴代誌上22章

「わたしの子よ、今こそ主が共にいて下さり、あなたについて告げられたとおり、あなたの神、主の神殿の建築を成し遂げることができるように。賢明に判断し識別する力を主があなたに与え、イスラエルの統治を託してくださり、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。」 歴代誌上22章11,12節

 オルナンの麦打ち場を主の祭壇を設置する場所と定めたダビデは(1節)、その子ソロモンに、主のために神殿を築くことを命じます(6節以下)。そして13節で、「あなたは、主がイスラエルのために、モーセにお授けになった掟と法を行うように心がけるなら、そのとき成し遂げることができる。勇気をもて。雄々しくあれ。恐れてはならない。おじけてはならない」と励ましています。

 既にダビデのもとで、国の四方は平定されました(18節、18~20章)。神殿建築については、まず国内の寄留民を集めて、彼らを神殿造営に必要な採石労働者に任じました(2節)。鉄や青銅、レバノン杉といった建築資材も大量に準備しました(3,4,14,16節)。その他、多くの職人、石工や大工、あらゆる分野の達人たちを集めました(15節)。あとは、着工しさえすれば、必ず完成出来るというところまで来ているといってよいでしょう。

 そんな状況でダビデは何故、「勇気をもて。雄々しくあれ。恐れてはならない。おじけてはならない」とソロモンを励ましたのでしょうか。ソロモンは、何かを恐れていたのでしょうか。何故、勇気をもてと言わなければならないのでしょうか。

 申命記31章6節に、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない」と言われ(同7,8,23節も)、同様に、ヨシュア記1章6,7節にも、「強く、雄々しくあれ」と告げられています。それは、主が共におられることを信頼し、主の命じられた律法をすべて忠実に守ることへの励ましでした。  

 神殿は、ただの建築物ではありません。設計図どおりに建てさえすれば、それで神殿が完成するわけではありません。そこは、神を礼拝する場所です。神が臨まれる聖なる場所です。神が臨在され、礼拝が行われてこその神殿です。当然、建てる者の信仰が問われます。そして、礼拝を行う者の信仰が問われ続けます。

 ソロモンがイスラエルの次代の王として、自らが神を礼拝する者であり続けることが出来るか、そして、神に託された国民の礼拝を指導し続けることが出来るかと問われるのです。ダビデはその責任の重さ、大変さを思って、しかし、そこに王として立てられる光栄を思って、主の律法を守り(12節)、掟と法を行うよう心がけることを(13節)、勇気をもて、恐れてはならないといって励ましているわけです。

 真に主を畏れ、主の御言葉に従うとき、恐れは除かれ、平安が心に満たされるでしょう。示されたことを行うために、勇気も与えられるでしょう。だから、そのように心がけるなら、「そのとき成し遂げることができる」(13節)と約束されているわけです。

 この励ましを与えるにあたり、冒頭の言葉(11節)の通り、ダビデは、「主が共にいて下さるように」と祈ります。この祈りの言葉が16節にもあって、この神殿建築が成し遂げられるのは、主が共にいてくださる、主が味方してくださることによるとダビデが考えていることを示しています。
 
 つまり、どんなに周到な準備をしても、どんなに知恵を懲らして熱心によい仕事をしても、それで神様のための仕事になるわけではない、一方、どんなに困難な仕事でも、主が共にいてくだされば、成し遂げることが出来るというダビデの信仰が、ここにあります。

 詩編127編には、「ソロモンの詩」という表題がつけられていますが、その1節に、「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」という言葉があります。「家」は、ここでは神殿を指していると考えられます。父ダビデの信仰を受けて、その子ソロモンがこのように詠っているといってよいのでしょう。

 ということは、神殿を建てるために最も必要な備えは、建築資材や労働者、技術者たちなどではなく、この建築に主が共にいてくださるか、主御自身が建ててくださる働きであるかどうか、神の御心を問うということです。神殿を建てたいと願ったダビデの思いは受け入れられませんでしたが(7,8節)、その子ソロモンが神殿を築き、その王座が堅く据えられるという約束を頂きます(10節)。

 その約束が実現されるために、繰り返し祈りをささげ、そしてソロモンに、主の掟と法を行うよう心がけること、主を畏れ、信仰をもってことにあたるように勧めたのです。

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」ということばがありますが(使徒言行録3章6節)、私たちを立たせ、歩ませるのは金や銀ではなく、主イエス・キリストなのです。絶えず主を仰ぎ、御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、あなたは私たちの良い羊飼いであり、常に緑の牧場、憩いの汀に伴って、私たちのために必要のすべてを満たしてくださることを感謝いたします。あなたが私たちと共におられるので、死の谷を歩むときも災いを恐れず、進むことが出来ます。罪と死の力を打ち破り、今も生きておられる主を常に仰ぎ、その導きに従います。御名が崇められますように。 アーメン




イースター

今年も、主イエスのご復活を祝うイースターが近づいて参りました。
3月29日(日)から4月4日(土)までが受難週、そして、4月5日(日)がイースター(復活祭)です。

4月5日(日)にイースター礼拝、19日(日)に特別賛美礼拝を行います。
この機会に、ぜひ教会においでください。

下の案内画像をクリックすると、PDFファイルが開きます。
ご覧になってください。


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