風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年04月

休暇終了

先週16日(木)から20日(月)まで、休暇をいただいて福岡、大牟田の町を訪ねて来ました。

17日(金)は、大牟田教会の教会員の結婚式に出席しました。
18日(土)は、妹の家に母を訪ねました。
19日(日)は、大牟田教会の礼拝に出席しました。

それぞれのところで旧交を温め、楽しいときを過ごすことが出来ました。
ブログも、毎日更新出来ました。

留守をした静岡教会の特別賛美礼拝も、海野紀美子様においでいただいて祝福に与りました。
主の恵み、導きを感謝しています。


 

4月20日(月) 歴代誌下8章

「ソロモンの工事はすべて、主の神殿の定礎の日から、完成の日まで無事に遂行され、主の神殿は完全なものとなった。」 歴代誌下8章16節

 神殿に7年(列王記上6章38節)、王宮に13年(同7章1節)、計20年の歳月をかけ(同9章10節)、ついに主の神殿と王宮が完成しました(1節)。歴代誌は、王宮建設に関しては、その記述を省略しています。

 次いで、「フラムから贈られた町を次々と再建し」(2節)というのは、ソロモンがヒラムに贈ったガリラヤ地方の20の町が気に入られず(列王記上9章11節以下)、返されたものを修復したということではないかと思われます。それにより、嗣業の地を損なわずにすみました。

 むしろ、北方のハマト地方を攻略して版図を拡げます。ハマト・ツォバは、アラムのツォバ王国の首都ハマトでしょう。ソロモンの父ダビデのとき、ツォバの王ハダドエゼルと戦って勝利したことがありました(サムエル記下8章3節以下、同10章6節以下も参照)。

 また、シリアの荒れ野にタドモルの町を建築しました(4節)。ヨセフスの「古代史」にも、タドモルはソロモンの創建と記されているそうです。タドモルとは「ナツメヤシ」のことで、ダマスコの北東230㎞余りにあるオアシスが、今もその名で呼ばれています。そこに砦の町が築かれたということは、イスラエルの勢力が広範囲に及んでいたことを如実に物語っています。こうして、イスラエルの国が堅く立てられたのです。

 さらに、神殿における礼拝を、父ダビデが命じたとおりに行わせたことが、報告されています(12節以下、14節)。その姿勢は、ダビデが、「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」(歴代誌上28章9節)と命じていたとおりと言ってよいでしょう。

 冒頭の言葉(16節)に、「主の神殿は完全なものとなった」と記されていますが、神殿が立派に完成されさえすれば、それでよいということではないということです。これらの文脈を通して、神殿は、国のあり方に関わり、そして何より、神が神として崇められ、御名にふさわしい礼拝が日々執り行われることによって、完全なものとなると言おうとしているのです。

 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)という言葉があります。127編には、「ソロモンの詩」という表題がつけられています。「家」が神殿を意味していると考えられるので、神殿を建て、国を守るのは、主なる神ご自身の御業だというソロモンの信仰を、このように言い表しているということになります。

 また、主の神殿が完全なものとなったということは、言わずもがなのことですが、そこに主なる神がおられるということです。どんなに立派な建物が出来、どんなに豪華な装飾が施されても、そこに主がおられなければ、神殿ではありません。主がいて下さるからこその神殿です。

 人間が神の住まいを造ることが出来るということではありませんが、ソロモンが願ったとおり(6章19節以下参照)、主がそこに目を留め、そこに向かってささげられる祈りに主が耳を傾けて下さる。その場所が、主によって堅く定められたということです。

 主イエスが、「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊をつれてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11章24~26節)という話をされました。

 汚れた霊は、砂漠で休み場を探すと言われます。「砂漠」とは、原文では、正に文字通り、「水がない」(アヌドゥロス)という言葉が用いられています。そこは、命あるものの生存が脅かされる場所です。それが汚れた霊の休み場ということは、汚れた霊は、命を脅かす存在だということになります。

 ここで、水とは、主の御言葉のことであり(エフェソ5章26節参照)、また、聖霊を象徴するものと考えられます(ヨハネ7章37節以下参照)。主の御言葉を宿していなければ、また、主を心にお迎えしなければ、前よりも悪くなると読むことが出来ます。どんなに道徳的で、人間愛があっても、そこに主がおられなければ、悪いものが入り込んで来るのを留めることが出来ないというわけです。

 ダビデが、「わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください」と、主に祈りました(歴代誌上29章19節)。この「全き心」とは、主の御言葉に従い、主をお迎えした心だと教えられました。

 主よ、どうぞ私たちの間に、私たちの心の中にお入りください。私たちを、あなたの望まれるようなものに造り変えてください。絶えず主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように、私たちの心と考えを、人知を超える神の平和をもってお守りください。心から主を褒め讃えます。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン!



4月19日(日)特別賛美礼拝報告

4月19日は、長野県安曇野より海野紀美子様をお迎えして、特別賛美礼拝を開催致しました。

前奏 
招詞 イザヤ53:6
賛美 新生讃美歌493
主の祈り
聖書 ヨハネ3:16
祈祷
賛美 新生讃美歌479
賛美と宣教 「十字架の愛」  海野紀美子様 ピアノ:百瀬順子様
 ①讃美歌Ⅰ-248「ペトロのごとく」
 ②「十字架にかかられた主よ」詞:水野源三 曲:川口耕平
 ③讃美歌Ⅰ-135「十字架のもとには」
 ④讃美歌Ⅰ-257「十字架の上に」
 ⑤讃美歌Ⅰ-134「いざいざ来たりて」
 ⑥讃美歌Ⅱ-177「あなたも見ていたのか」
 ⑦「主よ、み手のその傷は」詞:水野源三 曲:川口耕平
 ⑧「死からよみがえられた主よ」詞:水野源三 曲:川口耕平
 ⑨「十字架の愛」詞:水野源三 曲:竹田由彦
賛美 新生讃美歌278
感謝献金
頌栄 新生讃美歌671
祝祷
後奏

上記がプログラムですが、キリストの十字架の苦しみと死、そして復活を、海野様が聖書のメッセージと賛美の歌声を通して、とても分かり易く感動的につづってくださいました。

礼拝には、教会員12名、高校生1名、中学生1名、子ども1名を含む39名の来賓(うち、初めて当教会に見えた方4名)、合わせて51名の方がおいでくださいました。

4月5日(日)のイースター礼拝に続き、主のご復活を記念する賛美礼拝をこのように開催させて頂くことが出来て、本当に感謝でした。

おいでくださった皆様方、そして礼拝を導いてくださった海野様、そして何より、この恵みをお与えくださった主なる神様に、心から感謝申し上げます。有難うございました。

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4月19日(日) 歴代誌下7章

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。」 歴代誌下7章14節

 ソロモンが祈り終わると、天から火が降って祭壇のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちました(1節)。エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者たちと戦ったときのような光景が展開しました(列王記上18章38節)。これは、ダビデが神殿用地を購入して献げ物をささげたときと同様(歴代誌上21章26節)、ソロモンの祈りを聞き届けたというしるしです。

 火が降って神殿に神の栄光が満ちたのを見たイスラエルの民は、敷石の上に顔を伏せて礼拝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美しました(3節)。前に詠唱者が「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美をささげたときに、雲が神殿に満ち、神の栄光が満ちるという出来事がありました(5章13,14節)。度々、栄光が満ちたというより、その間ずっと神の栄光が満ち溢れていたということでしょう。

 そして、ソロモンはすべての民と共に牛2万2千頭、羊12万匹を献げて神殿を奉献しました(4,5節、列王記上8章62節以下)。その量があまりに多かったので、祭壇だけでは供え尽くすことが出来ず、神殿の庭の中央部を聖別して、そこで献げ物をささげました(7節)。そのとき、ソロモンはレボ・ハマトからエジプトの川に至るまで(イスラエルの最大版図)の全会衆と共に仮庵祭を執り行いました(8節以下)。

 神殿と王宮が完成し、奉献の儀式と仮庵祭をなし終えた夜、主がソロモンに顕現され、「あなたの祈りを聞き届けた」と言われました(11,12節)。神殿の完成に加え、王宮が完成したことを述べて、ここに、ダビデの家が堅く据えられ、王朝が確立したことを示しています。

 そして、ソロモンの祈りに対する応答として、神が天を閉ざして雨が降らなくするとき、いなごに大地を食い荒らさせるとき、民に疫病を送り込むとき(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、民がひざまずいて祈り、神の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、神が祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒すという約束が語られています。

 確かにそれは、ソロモンが6章19節以下で祈り求めた祈りの答えです。大旱魃で飢饉となったり、イナゴの大発生で農作物が食い荒らされたり、また、疫病が流行したとき、それらがすべて、人の罪のゆえだとは考えません。近年世界各地で頻発している大地震も、また突然襲って来るゲリラ豪雨なども、それらがみな神の裁きだとは思いません。

 しかし、イスラエルの民の背きに神が天変地異を起こされた時、そこで民がひざまずいて祈り、御顔を求めて神に立ち帰るなら、神がその祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒して下さるということは、神は、私たちが絶えず祈ること、御顔を慕い求めること、常に神のもとに立ち帰ることを要求しておられるということであり、神はその祈り願いを聞き届けようと思っておられるということです。

 新約においても、「求めなさい」(マタイ7章7節)、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ5章17節)、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)と命じられているとおりです。

 私たちの前に困難がおかれると、自分の限界を知ります。そこで謙遜を学ぶでしょう。どうして良いか分からずに神を呼ぶでしょう。そこに祈りがあります。そうした中で神の御声を聴くでしょう。そこに恵みがあります。困難に遭遇することはいやなものですが、神の御前に謙って祈り、主の恵みを味わうために困難が与えられたというのであれば、それをそのように受け止めることが出来るのであれば、何と幸いなことでしょう。

 使徒言行録17章26~27節に、「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と記されています。

 季節を決めるということは、人生にはバラ色の春というような状況もあれば、夏の猛烈な暑さ、冬の厳しい寒さを味わうようなときもあるし、すべてが枯れ果てるような晩秋もあるということでしょう。居住地の境界をお決めになったということは、どこに行っても良い、何をしても良いというのではなく、行けない場所がある、出来ないことがある。勿論、すべてを所有することなどは出来ない。そこで自分の限界を知るということではないでしょうか。

 四季それぞれにある苦しみから祈りに導かれることもあれば、四季の恵みを味わって神に感謝することもあるでしょう。春だから、素晴らしいとは言えない人がいるでしょう。一方、冬の厳しさを素晴らしいという人もいます。いずれの人も、神の前に出ることが出来ます。御顔を慕い求めるとき、誰もが神を見出すことが出来ると言われています。それが最も素晴らしいことでしょう。

 主の御前に謙り、御顔を慕い求めましょう。御言葉に耳を傾けましょう。その導きに素直に従いましょう。そうして、主の豊かな恵みを感謝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と、心から主に賛美をささげましょう。

 主よ、あなたが私たちを祈りに導こうとしておられることを感謝します。私たちの祈りを聞き届けてくださるという約束を感謝します。絶えず、主の御声に耳を傾け、導きに従って歩ませてください。傲慢にならないよう、柔和と謙遜を学ばせてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!




4月18日(土) 歴代誌下6章

「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなたご自身も御力を示す神の箱も。あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。」 歴代誌下6章41節

 雲が神殿を満たし、そこに神の栄光が満ちたのを見て(5章13,14節)、ソロモンは、「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を、いつの世にもとどまっていただける聖所を、わたしはあなたのために建てました」(1,2節)と言いました。至聖所という、誰の目にも触れないところに神の箱が置かれ、そこが主の臨在の場とされた理由が、ここに示されます。

 ここで、イスラエルの民がエジプトを脱出して以来、雲の中、そして臨在の幕屋と共に移動して来た主が臨在を示される場、即ち、民が神を礼拝する場が、神の選ばれた都エルサレムの、神が選ばれた指導者ダビデの息子によって建設された神殿に定められたことを、イスラエル全会衆の前で確認しようとしているのです(6,9節)。

 14節以下に、ソロモンの祈りが記されています。この祈りの中でソロモンが先ず願っているのは、ダビデの家を堅く立て、王位に就く者が絶えないようにということです(15,16節)。エルサレムを選び、ダビデを選ばれた主のために神殿が建てられたことで、神とイスラエルの関係、就中ダビデの家との関係も、永遠に確かなものとされることを期待しているわけです。

 その上で、御前に捧げるソロモンの叫びと祈りを聞き届け(19節)、新築なった神殿に御目を注ぎ(20節)、イスラエルの民の祈り求めに耳を傾けてくださるように願います(21節)。さらに22節以下で、民が罪を犯した結果、災いを被ったとき、神殿に向かって祈る祈りに耳を傾け、その罪を赦してくださいと願っています。

 聖書でいう罪とは、必ずしも犯罪を指してはいません。原語は、「的を外す、目的を見失う」という意味の言葉です。神に正しく向いていない心から、悪しき思い、悪しき行動が出て来るというわけです。

 罪を犯した者が神殿で祈るということは、悔い改めるということです。「悔い改め」とは、方向転換を意味する言葉です。正しい方向に向き直るのです。旧約聖書では、「立ち帰る」という言葉が用いられています(24節、申命記30章2節、イザヤ30章15節など)。神への不服従の状態から神に立ち帰ることを表しています。

 冒頭の言葉(41節)に、「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください」と語られています。安息所とはどこのことでしょうか。「あなたご自身も御力を示す神の契約の箱も(安息所にお入りください)」と言われていて、契約の箱はソロモンの建てた神殿の内陣(至聖所)に運び込まれたところですから(5章7節)、その場所を「神の安息所」と呼んでいると考えられます。

 安息所といえば、安息する場所ということでしょうけれども、これは、神殿を神の安息される場所とするということではないでしょう。人と共にあって、神は安息されるのでしょうか。ソロモン自身が、「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるのでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることが出来ません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(18節)と言っているとおりです。

 安息という言葉で、これまで民と共に移動し続けて来た契約の箱が、永久にエルサレムの神殿に安置されることを願っているわけです。そしてそれは、神に安息を差し上げる場所ではなく、むしろ、神がそこにご臨在くださることで、ダビデの家が永遠に堅く立てられているようにということであり、神の宮が、イスラエルの民が平安をいただく場所、神の安息に与らせていただく場所となるようにということです。

 というのは、私たちが神の安息を受けるにふさわしい義人だからではなく、神の安息をいただかなければ生きることが出来ない罪人だからです。

 主イエスは、嵐の船の中でも眠っておられました。波風を恐れ、死を恐れる弟子たちのために主は波風を鎮め、ご自身の平安を弟子たちに分け与えてくださいました(マルコ4章35節以下)。父なる神に信頼する心に平安があります。神の愛が恐れを締め出します(第一ヨハネ書4章18節)。主は今、私たちの心を聖霊の宮としてお住まいくださっています。主に信頼する者に平安と喜びをくださいます。

 パウロとシラスがフィリピで伝道していたとき、一人の女奴隷を悪霊から解放したことがもとで、その主人から訴えられ、彼らはむち打たれ、牢に入れられるという踏んだり蹴ったりの目に遭わされました(使徒言行録16章16節以下)。彼らがその夜、賛美と祈りをささげていると、他の囚人たちはそれに聞き入っていました。それは、囚人たちが求めていた安らぎ、そして喜びが、そこにあったからでしょう。

 何故パウロたちはむち打たれ、投獄されるという目に遭いながら、神を賛美することが出来たのでしょうか。彼らの心に聖霊を通して神の愛が注がれ、恐れも不安もなく、主イエスの平安と喜びがその心に満ちていたからでしょう。

 ソロモンは、神が神の安息所にお入りくだされば、救いの衣をまとい、幸せに浸って喜び祝うでしょうと言いました。私たちも今日、「神なる主よ、あなたの安息所にお入りください」と、主に祈ります。それによって主の慈しみに行き、幸せに浸って喜び祝う者とならせていただきましょう。

 主よ、立ち上がって聖霊の宮である私たちの心に、そこをあなたの安息所としてお入りください。私たちは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生き、幸福に浸って喜び祝います。私たちにお与えくださった御霊を通して、常に神の愛が心に注がれているからです。日々主を仰ぎ、その御声に耳を傾け、導きにお従いします。御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン!




4月17日(金) 歴代誌下5章

「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。」 歴代誌下5章13節

 7年の歳月をかけて建設して来た神殿がいよいよ完成しました(列王記上6章38節)。ソロモンは、神殿にあらゆる祭具を運び込み、宝物庫に納めました(1節)。そして、主の契約の箱を神殿に担ぎ上るため、イスラエルの長老、部族長、諸家系の首長を招集します(2節)。

 第七の月の祭り、即ち仮庵祭(レビ記23章34節)に、すべてのイスラエル人がエルサレムに集まったとき(3節)、レビ人は契約の箱と臨在の幕屋のすべての祭具、機材を担ぎ上り(4,5節)、契約の箱を神殿の内陣、至聖所のケルビムの翼の下に安置しました(7節)。

 神殿の内陣、つまり至聖所に置かれた箱の存在は、誰も確認出来るものではないのですが、担ぎ棒が長くて、その先端が内陣の前の聖所からは見えたということで(9節)、棒の先が垂れ幕で隔てられた至聖所から聖所の方に顔を出していたという状況でしょう。そのために、箱の存在が確認されるので、「今日もなおそこに置かれている」(9節)という報告も出来るわけです。

 ただし、歴代誌が著述されたのはバビロン捕囚後のことで、その時、すでに神の箱は失われていました。にも拘らず、そのように記述されているのは、列王記の記述に従っているわけですが(列王記上8章8節)、神の箱に示される神との契約関係は、神の箱がなくなって解消されたりはしていない、今も契約関係にある。だからこそ、主なる神を礼拝するための第二神殿が築かれたのだ(エズラ記6章13節以下)と主張しているかのようです。

 話を元に戻して、これまで、神の箱はダビデがエルサレムに建てた幕屋にあり(1章4節)、臨在の幕屋とすべての祭具などはギブオンにありました(1章3節)。こうして、ソロモンの神殿が完成した今、神の箱と臨在の幕屋、すべての祭具機材が一堂に会し、主を仰ぎ、礼拝する場所がソロモンの神殿に集約されることになったのです。

 そして、レビ人の詠唱者全員が120人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立ち(12節)、冒頭の言葉(13節)のとおり声を合わせて「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美しました。4000人の詠唱者たちによる賛美は、それは素晴らしいものだったろうと想像します(歴代誌上23章5節参照、ただし、25章8節では288人)。

 そして、彼らが主の御名をほめ讃えると、雲が主の神殿に満ちたと記されています。雲は、神の臨在を現わしています。ですから、14節では、「その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである」と言われています。

 イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、雲の柱で彼らを導かれました(出エジプト13章21,22節)。それは、進むべき道を示す道標としての役割と共に、日中の日照りから民を守る日傘の役割を果たすためでもあったでしょう。

 また、イスラエルに3年半に及ぶ干魃が起こって地が渇ききっていたとき、エリヤの祈りに答えて手のひらほどの小さい雲を与え、やがて空が厚い雲に覆われて激しい雨を降らせました(列王記上17~18章)。それにより、雨を降らせて地に豊かな実りを与えるのは、バアルではなく、主なる神であるということを、主ご自身が力強く証明されたわけです。

 主イエスが十字架の死と復活を予告された6日後、数名の弟子を連れて高い山に登られました(マタイ16章21節以下、17章1節以下参照)。そこで主イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合います。モーセとエリヤは、旧約聖書の代表的指導者ですから、そこに、旧約聖書の代表者と新約聖書で証しされている主イエスとの会談が成立しているのです。

 ペトロがその光景に感激し、ここにいるのは素晴らしいことです。主イエス、モーセ、エリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと言い始めます(同17章4節)。その時、光り輝く雲が彼らを覆いました。神殿に雲が満ちたのと同様、主イエスとモーセ、エリヤが会談していたその山に、父なる神が臨まれたのです。さながら、シナイ山に主が降られたときのようです(出エジプト記19章18節)。

 そして、神の声が聞こえます。それは、主イエスが神の愛する子、神の心に適う者であるから、これに聞け、という声でした(マタイ17章5節)。光り輝く雲に覆われて視界が遮られた今、見えるものにとらわれず、モーセやエリヤという偉大な先祖に信頼するのでもなく、雲の中から語りかける神の言葉で、神の独り子なる主イエスに聴き従うようにと示されたわけです。

 主は、賛美を住まいとされるお方です(詩編22編4節:新改訳)。イスラエルの賛美を受けて聖所に雲が満ちたのは、聖所で主がその賛美を受けとめられたということです。私たちも絶えず聖霊に満たされて唇の実を主にささげ、主を心の中心にお迎えしましょう。

 そして、静かに語りかけられる主の御声に耳を傾けましょう。神は求める者に聖霊をくださいます(ルカ11章13節)。聖霊によって真理を悟り、聖霊の力を受けてキリストの証人となります。先ず神の国と神の義とを求め、すべての必要を満たしていただきましょう。日々、主とその御言葉に信頼して参りましょう。

 主よ、日々御声に耳を傾け、その導きに従います。主の御心にかなう歩み、働きが出来ますように。主の御前に絶えず唇の実、賛美のいけにえを主にささげます。常に私たちの心を聖霊で満たしてください。インマヌエルの主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン!







4月16日(木) 歴代誌下4章

「ソロモンは青銅の祭壇を造ったが、その長さは二十アンマ、幅は二十アンマ、高さは十アンマであった。」 歴代誌下4章1節

 冒頭の言葉(1節)に、並行の列王記にはなかった祭壇の記述があります(列王記上7章23節参照)。その大きさは、縦横20アンマ(9メートル)、高さ10アンマ(4.5メートル)というとても大きなものでした。かつて、荒れ野で神がモーセに命じて造らせた祭壇が、縦横5アンマ(2.3メートル)、高さ3アンマ(1.4メートル)ですから(出エジプト27章1節)、1辺の長さが4倍、面積は16倍、体積ではおよそ50倍にもなります。

 ソロモンは、神殿の奉献式に際し、牛2万2千頭、羊12万匹を献げました(7章5節)。ソロモンの時代、国力が増大し、非常に多くの献げ物を捧げることが出来るようになったわけです。そのために、このような大きな祭壇が必要になったと考えられます。

 その偉容を見て、シェバの女王は感嘆の声を挙げ、神を賛美致しました(9章、列王記上10章参照)。以後、イスラエルとシェバとの間に活発な交易がなされたことだと思いますが、大事なのは人を驚かせたり感激させることではありません。当然のことながら、最も大事なのは、神に喜んでいただくことです。

 ソロモンの父ダビデは、「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いて下さいました」(詩編40編7節)、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)と詠っています。

 これは、いけにえを献げる必要はないと言っているのではなくて、どのような心で献げるかということを語っているのです。悔い改め、謙って御前にすすむならば、「そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす献げ物も、あなた(神)に喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛が献げられるでしょう」(同51編21節)といっているのです。

 その背後には、ダビデ自身が繰り返し味わった、神の恵みと憐れみがあります。そもそも、ダビデは自分の罪を自分で償いきれるものでないことを知っていました。バト・シェバとの姦淫も、その罪を隠すための夫ウリヤ殺しも、神の御前に決して赦されざる罪です。しかし、神はダビデを憐れみ、その罪を赦されました。

 その恵みに応えたいというダビデの心があります。だから、息子ソロモンにも、「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」と命じていたのです(歴代誌上28章9節)。

 祭壇の横には、鋳物の「海」(2節以下)や洗盤が造られました(6節以下)。「海」は直径10アンマ(4.5メートル)、深さ5アンマ(2.3メートル)という大きさです。円筒形であれば49000リットル、半球形では33000リットルという容積になります。しかし5節に、「容量は優に3千バトもあった」と記されていて、1バトが約23リットルだとすると、69000リットルということで、計算が合いません。

 どういう形をしていたというのでしょうか。列王記上7章26節には、「その容量は2千バト(46000リットル)もあった」とされていて、この方が正確な数字でしょう。そして、半球形というより、円筒に近い形だったということになります。そして、歴代誌の「優に三千バトもあった」というのは、少々誇張した数字でしょう。

 「海」は、祭司が身を清めるために用いられます。洗盤は、神の幕屋では、祭司が身を清めるための器でしたが(出エジプト記30章17節以下)、ソロモンの神殿では、いけにえの用具などを洗い清めます(6節)。祭司は、祭壇で贖いの供え物をささげ、海で身を清めた後、神殿に入り、神を礼拝するのです。これは、今日のバプテスマを象徴しているといってよいでしょう。

 主イエスが私たちのために贖いの供え物となってくださった今、私たちが祭壇にいけにえを供える必要はなくなりました。主なる神は、十字架を祭壇として、そこに御子イエスを供え物としてささげられたのです。だから、私たちのために贖いの業を成し遂げてくださった主イエスを信じて義とされます(ローマ書3章22節など)。義とは、神との関係が正しくなるということです。

 また、バプテスマは、キリストと共に葬られてその死に与る者となり、新しい命に生きるためです(同6章4節など)。バプテスマの恵みに与った者は、信頼しきって、神に近づこうではありませんか(ヘブライ書10章22節)。

 しかし、その時に私たちは空し手で近づくのではありません。感謝の心をもってする賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を携えます(ヘブライ書13章15節)。さらに、主の恵みに温められた心でする善い行いと施しをささげます。このようないけにえを神は喜ばれるのです(同16節)。主を喜ぶ心で御顔を仰ぎ、御声に耳を傾けましょう。

 主よ、私たちのために御子イエスが十字架で肉を裂き、血を流してくださいました。心は清められ、良心の咎めはなくなり、体は清い水で洗われています。主を信じ、真心から神に近づきます。主の愛により、互いに善い業に励むことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン





明日から休暇で

明日16日から来週20日(月)まで、休暇をとります。
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4月15日(水) 歴代誌下3章

「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」 歴代誌下3章1節

 冒頭の言葉(1節)のとおり、ソロモンが主の神殿の建築を始めました。それは、その治世の第4年2月2日のことです(2節)。

 古い尺度のアンマは約52センチということなので、神殿は、奥行き31.2メートル、間口10.4メートルという大きさです(3節)。高さは、列王記6章2節によれば、15.6メートルです。4節には、前廊の高さが62.4メートルになっており、前廊の部分だけ、塔のようになっていたということでしょう。

 神殿の内部は、9メートル四方の部屋三つに区切られています(4,8節、列王記上6章3,4節)。最初の部屋が前廊(4節)、それから外陣とも呼ばれる聖所(拝殿)、そして、内陣とも呼ばれる至聖所です(8節)。

 内部には糸杉が貼り付けられ、それを金で覆い、そこにナツメヤシと網目模様の浮き彫りが施され(5節)、さらに宝石で飾られました(6節)。また、壁にはケルビムの浮き彫りがつけられました(7節)。至聖所には、2体のケルビムが置かれました(10節)。

 聖所と至聖所を分けるのは、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で作られる垂れ幕で、そこにもケルビムの縫い取りが施されました(14節)。神殿入り口には、ヤキンとボアズという名の青銅製の2本の柱を立てました。民はこの柱の間を通って、前廊に入ることになります。

 ヤキンとは 主が設立されたという意味、ボアズとは、力をもってという意味だと言われます。すると、この神殿は、主が御力をもって設立されたということを示すモニュメントということになるでしょう。

 ところで、神殿が建てられたのはエルサレムのモリヤ山で、そこはかつて、エブス人オルナンの麦打ち場があったと、1節に記されています。かつて、ダビデが民の数を数えようとして神の怒りを招き(歴代上21章1節以下)、疫病で7万もの死者が出ました(同14節)。民を打つ天使がエルサレムの町に襲いかかろうとしたとき、神が天使にストップをかけました(同15節)。天使はそのとき、この麦打ち場の傍らにいました。

 一方、神はダビデに、オルナンの麦打ち場に祭壇を築かせ(同18節)、ダビデはそこでいけにえをささげます(同26節)。その祈りが聞かれ、疫病はやみました(同27節))。神が天使をストップさせた背後に、このダビデの祈りがあったというわけです。

 それも、神の導きでした。民の苦しみを見て自らの罪を深く悔いているダビデに、祭壇を築くこと、つまり神の御前にいけにえをささげて祈ることを命じられたのです。神は、そのダビデの心を見、また、疫病に苦しむ民の呻きを聞かれて、災いを思い返されたのです。ダビデはその場所に神殿を築くことにしました(歴代上22章1節)。

 ダビデがこの神殿を見ることは出来ませんでしたが、かつてダビデが神の前に罪を犯し、裁きがなされた場所、そして、そのための執り成しがなされ、犠牲が捧げられた場所に神殿が建てられたということを、この記事を通して繰り返し思い起こすことで、神の憐れみをその都度新たに味わうことが出来ます。こうして、罪の増すところ、主の恵みもまたいや増すのです(ローマ5章20節)。

 また、モリヤ山と言えば、かつてアブラハムが神に命じられて、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として神にささげようとした場所です(創世記22章1節以下、2節)。それは、神がアブラハムの信仰を試されたのでした(同12節参照)。そして、神はイサクの代わりに雄羊を用意しておられ、それをいけにえとしました(同13節)。

 アブラハムは、神がいつも自分を見守っていてくださること、必要を満たしてくださることを知り、そこを「ヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)」と名付けました(同14節)。ヤーウェ・イルエの直訳は、「主は見ておられる」という言葉です。神はご自分に従う者をご覧になって、その必要を豊かに満たしてくださるということです。

 そのことで、「人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」(14節)と記しています。ここで、「主の山」というのは、詩編24編3節、イザヤ書2章3節などから、神殿の丘を指すものであることが分かります。つまり、創世記の著者は、「モリヤの山」が未来の神殿が建てられる場所であることを予め知らせようとしていたわけです。

 そして何より重要なことは、神殿を建てられたその場所は、やがてキリストの十字架が建てられる場所になったのです。キリストこそ、ダビデの罪を赦し、アブラハムに甦りの命を証しするためにささげられる神の小羊です。絶えず十字架の主を見上げ、憐れみの主の御声に従って歩ませていただきましょう。
 
 主よ、御子イエスの贖いのゆえに感謝します。私たちはキリストのものとされ、主は私たちの体を、神が遣わされた聖霊の宿る神殿とされました。この体で、神の栄光を表わすことが出来ますように。絶えず主の十字架を仰ぎ、御言葉に従って歩ませてください。 アーメン






4月14日(火) 歴代誌下2章

「この方のために神殿を建てる力が誰にありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくためのものでしかありません。」 歴代誌下2章5節

 いよいよ、ソロモン王が神殿と王宮の建築に取りかかります(1章18節、口語訳、新改訳は2章1節)。既に父ダビデの代にダビデの町に王宮が建てられていますが(歴代誌上14章、15章1節、17章1節)、イスラエルの名を知らしめる豪華壮麗な宮殿が、神殿と共に必要だと考えたのでしょう。

 まず、荷役の労働者7万人、石を切り出す労働者8万人、その監督3600人を動員します(1節)。その上で、隣国ティルスの王フラムに使節を送り(2節、列王記上5章15節ではヒラム)、「金、銀、青銅、鉄、深紅の織物、緋の織物、青の織物を扱う熟練した者で、種々の彫刻にたけた者を一人こちらに送ってください」と求めます(6節)。

 また、「レバノンからレバノン杉、糸杉、白檀の木材を送ってください。わたしは、あなたの家臣たちがレバノンの山林の伐採のことをよくわきまえていることを知っています。わたしの家臣をあなたの家臣と共に働かせ、大量の木材を準備させていただけないでしょうか」と願います(7節)。

 その際、父ダビデのときの王宮建築の協力に感謝を述べつつ(2節)、「わたしはわが神なる主の御名のために神殿を建て、これを主のために聖別して、その御前に香草の香をたき、絶えずパンを備え、朝に夕に、安息日と新月祭、我らの主の祝祭日に、焼き尽くす献げ物をささげ、このことがイスラエルにおいていつまでも守られるようにしようとしています」(3節)と、神殿建築の趣旨を語ります。

 そして、「わたしが建てようとしている神殿は大いなるものです。わたしたちの神はすべての神々にまさる大いなる方だからです」と、その心意気を示します(4節)。

 ただ、冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、この方のために神殿を建てる力がだれにありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくものでしかありません」と続けて、神の御前に謙遜を示します。

 香をたくのは、主なる神の御前に祈りをささげるためです。ソロモンは、神殿が完成して感謝の祈りをささげた際にも(6章14節以下)、「神ははたして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか」(18節)といった後、「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」(19節)と求めています。 

 けれども、だからといって、香を炊く祭壇が置けるスペースに、祈ることの出来る場所を確保すればよいというのではなく、すべての神々にまさる大いなるお方に相応しく、「輝かしく偉容を誇る神殿を建てようとしているのです」と言います(8節)。そう言いながら、どんなに贅を尽くし意匠を凝らして人々が目を見張るような神殿を建てたとしても、人間が神のお住まいになるような建物を建てるのは不可能だと語っているのです。

 ここに、ソロモンの信仰が表れています。それは素晴らしいものです。実に、神が喜ばれるのは建物ではなく、神を畏れてなされる礼拝です。神殿の大きさや立派さ、そこでなされる礼拝の形式などが大事なのではありません。輝かしく威容を誇る神殿を建てさえすれば、イスラエルは安泰ということにはなりません。神は大量のいけにえなどではなく、私たちの謙った心を求めておられるのです。

 とはいっても、形式はどうでもよいということにもなりません。真心から神を畏れて御前に進めば、真の神を礼拝するに相応しい姿勢、それを表現する形がおのずから現れてくるからです。ここにソロモンは、自分たちに出来る最上のものを神に献げたいと言っているのです。ソロモンは、自分に与えられた知恵と識見、さらに、合わせて授けられた富と財宝、名誉のすべてをもって神に仕え、それに相応しい礼拝をしようとしているのです。

 フラムはその願いに対し、「主は御自分の民を愛して、あなたをその王とされた」と言い(10節)、「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように」と賛美をささげます(11節)。

 パウロが、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを創られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章23~25節)と語ります。

 実に、天地万物を造り、その御手の内にすべてのものを支えておられる神は、私たちを愛し、私たちとの交わりを喜んでくださるお方です。ゆえに、罪人の私たちを選び、独り子の命で贖い(ローマ書5章8節)、私たちに「アバ父よ」と呼ぶ霊を授けて、私たちが神の子であることを明らかにしてくださったのです(同書8章15,16節)。

 計り知れない神のご愛に心から感謝し、御名をほめ讃えましょう。私たちの日々の祈りが、神の御前に芳しい香りとして常に立ち上るように、そのために自分を空しくし、絶えず聖霊に満たしていただきましょう。

 主よ、御子の命をもって罪人の私たちを贖い、神の子としてくださったこと、そして、弁護者なる聖霊を住まわせる神の宮としてくださったことを、感謝します。相応しくないものを心の中から締め出し、聖霊を通して注がれる神の愛で心を満たしてください。日々主の御声を聴き、御旨に従って歩み、御業を行わせてください。すべてを主に委ねます。御名が崇められますように。 アーメン




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