風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2015年02月

2月28日(土) 列王記下11章

「ヨヤダは、主と王と民の間に、主の民となる契約を結び、王と民の間でも契約を結んだ。」 列王記下11章17節

 南ユダの王アハズヤの母アタルヤは、北イスラエルの王アハブとその妻イゼベルの娘です。彼女が南ユダの王ヨラムの妻となったため(8章18,28節)、彼女を通して、ユダにもバアル信仰が持ち込まれ、推進されました(8章18,27節)。そのため、エリヤの預言のとおり、アハブの血を受け継ぐアタルヤの息子アハズヤはイエフに殺され、その一族にも難が及ぶことになったのです(9章27節以下、10章12節以下)。

 皇太后アタルヤは、息子アハズヤの死を知り、ただちに王族をすべて抹殺しようとします(1節)。それはなんと、自分が南ユダ王国の支配者となるためで、邪魔になる者を排除しようとしたのです。そうしなければ、アハブ家の一員である自分の命が危ないということと、南ユダにおいてバアル信仰を守りたいと考えたのではないかと想像します。

 けれども、ただ一人、アハズヤの子ヨアシュだけは、ヨラム王の娘でアハズヤの妹ヨシェバによって救い出されました(2節)。ヨラム王の娘でアハズヤの姉妹ということは、アタルヤの娘でもあります。王族の抹殺という意味では、ヨシェバもその対象なのです。

 歴代誌下22章11節によれば、ヨシェバは祭司ヨヤダの妻となっていました。だから、バアル信仰推進者の母とは、生き方を異にしていて、ヨアシュ王子を母アタルヤの手から救いたいと考えたのでしょう。「乳母と共に」というので(2節)、ヨアシュはまだ生後間もない乳飲み子でした。そこで、アタルヤが国を支配していた6年間、主の神殿に隠して、養育していたわけです(3節)。

 7年後、機会を待っていた祭司ヨヤダは、アタルヤに対抗するため、カリ人と近衛兵からなる百人隊の長たちを味方につけ、ヨアシュを王とする組織を固めます(4節以下)。カリ人とは、小アジア南西部カリアの住民で、傭兵としてよく知られていたそうです。こうして周囲が固めることが出来たので、ヨヤダはヨアシュに冠をかぶらせ、掟の書を渡しました(12節、申命記17章18,19節)。

 人々はヨアシュに油を注いで王とします。民は、「王万歳」と歓呼して、新しい王を迎えました(12節)。そして、女王アタルヤは殺されます(13節以下、16節)。ただし、列王記の記者は、アハズヤの死後、王族を抹殺して自ら王位についたアタルヤを、南ユダの王として認めてはいないようで、一度も「王」と呼びません。前述のとおり、アタルヤがヨラムの后となってから、南ユダを主に背かせて来たことが、その要因でしょう。

 ヨアシュが即位したのは、7歳のときです(12章1節)。だから、主の祭司ヨヤダが摂政として指揮をとり、冒頭の言葉(17節)のとおり、もう一度、主とユダの王及び民との間に「主の民」となる契約を結ばせ、さらに、王と民との間にも、保護と忠誠の契約を結ばせました。この契約に基づき、民はバアル神殿を破壊し、像を徹底的に打ち砕きます(18節)。これは、主を愛し、主にのみ仕えるというユダの民の信仰の証しです。

 それから、ヨアシュを神殿から王宮に導き、王座に着けました。かくて、主なる神はエルサレムに平和をもたらされたのです(20節)。

 イザヤの預言に、「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」という言葉がありますが(イザヤ30章15節)、祭司ヨヤダの指導と、その教えに従ったヨアシュ王の働きによって(12章3節)、南ユダは悔い改めて主の前に立ち帰り、主に信頼する生活に戻って、神の恵みに与ることが出来たのです。

 こうして、北イスラエルでは王イエフにより(9~10章)、南ユダでは祭司ヨヤダの指導によって、国中でバアルが取り除かれ、ダンからベエルシェバまで主を信じ、主にのみ栄光を帰す体制が回復されました。

 けれども、大切なのは国家体制ではありません。イスラエルの民一人一人が、主を神とするのか、バアルを神とするのか、はっきりさせておかなければならないということです(列王記上18章21節)。その双方に仕えることは出来ません。

 神はただお一人であると宣言している聖書が正しければ(申命記6章4節、ローマ書3章30節など)、他に神々がおられるはずはなく、聖書が偽りであるなら、聖書の神も偽りだからです。

 主イエスも、二人の主人に仕えることは出来ない、と言われました(マタイ6章24節)。私たちも、主イエスを信じてバプテスマを受け、主と新しい契約を結んだキリスト者(クリスチャン)として、日々主の御言葉に耳を傾け、主にのみお従いする者とならせていただきましょう。

 主よ、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いを、日々豊かに授けてください。主の恵みと平安がこの地に、そして世界中に豊かにありますように。 アーメン




2月27日(金) 列王記下10章

「『一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください』と言った。二人は彼の戦車に一緒に乗り」 列王記下10章16節

 ラモト・ギレアドで預言者の従者から油注がれ(9章6節)、イスラエルの王となったイエフは(同13節)、告げられた通りにアハブ家を撃ち滅ぼすため、アハブの子ヨラムを殺し(同14節以下、24節)、ヨラムと同行していたユダの王アハズヤ(アハブの娘アタルヤの子)を撃ち(同27節)、それからアハブの妻イゼベルを殺しました(同30節以下、33節)。

 1節に、アハブには子どもが70人いたと、記されています。イゼベル以外にも多数の妻がいて、そのように多くの子を得たのでしょう。文字通り70人というよりも、完全数7と10の倍数で、たくさんの子どもということを示す概数といってよいでしょう。

 イエフは、サマリアの町の指導者たちに、アハブの子ら70人の中から最も優れた正しい指導者を立て、自分と戦えという手紙を送ります(1節以下、3節)。町の指導者たちはイエフに恐れをなし(4節)、仰せに従うと、イエフに対する恭順の態度を示します(5節)。

 そこでイエフが、70人を残らず殺すよう命じると(6節)、ただちに実行されました(7節)。さらに、アハブの姻戚となっていたユダの王アハズヤの身内の者42人を殺しました(12節以下、14節)。それは、エリヤによってアハブに告げられた言葉のとおりでした(10,17節、列王上21章21節)。

 その後、イエフは、自分を出迎えに来たレカブの子ヨナダブに会います(15節)。聖書中、初めてここに、レカブの子ヨナダブが登場して来ました。しかし、イエフとヨナダブは、既知の間柄でした。イエフがヨナダブに挨拶して、「わたしの心があなたに心に対して誠実であるように、あなたの心も誠実ですか」と尋ねたのは、その関係に変化がないか確認したのでしょう。

 さらに、冒頭の言葉(16節)のとおり、「一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください」と語っている言葉から、イエフがヨナダブに、自分の行動を認めてもらいたいと考えているということが分かります。それは、主に対するイエフの情熱だというのです。だとすれば、ヨナダブは、主なる神に対する信仰において、イエフに一目置かれる教師のような存在であるということになるでしょう。

 エレミヤ書35章6節に、「父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまでぶどう酒を飲んではならない、と命じたからです」とあり、ヨナダブの子孫のレカブ人たちは、ヨナダブの言葉に従って禁欲的な生活を忠実に守って来たと語っています(同7節以下)。

 そして、それを引き合いに出しながら、主が、ヨナダブの一族は父祖の命じた命令を堅く守っているのに、ユダの人々が神の言葉を受け入れないのはなぜか(同12節以下)、と仰っています。主ご自身が、レカブ人ヨナダブとその一族の生き方を認め、賞賛しておられるのです。ヨナダブという名前は、高貴な主、寛大な主という意味です。ここにも、ヨナダブの家の主に対する信仰を見ることが出来るでしょう。

 ヨナダブは、アハブの家を滅ぼしたイエフの働きを認め、アブラムを祝福したメルキゼデクのように(創世記14章17節以下)、イエフを祝福するために出て来たのではないでしょうか。それは、エリヤを通して示されていた主の御心だったからです。二人は共にサマリアに向かい、アハブの家の者をことごとく撃ち殺して、一族を全滅させました(17節)。

 そして、イスラエルからバアルの預言者とバアルに仕える者たちを一掃するため、策を講じます。自分はアハブ以上にバアルに仕えるつもりだから、バアルのすべての預言者、祭司を自分のもとに集めよ、来ない者は生かしておかない、とすべての民に命じたのです(18節以下)。

 そして、バアルに仕える者が神殿に満ちたとき、イエフは近衛兵と侍従たちに命じて彼らを剣にかけて殺させ、神殿を破壊させました。かくて、イスラエルからバアルの預言者とバアルに仕える者たちを一掃したのです。

 ただ、ヤロブアムの罪を離れず、ベテルとダンの金の子牛を退けなかったので(29節)、主なる神はイスラエルを衰退に向かわせ、アラム王ハザエルがイスラエルの領土を侵略し始めました(32節)。自分の知恵や力で主に従うことを徹底するというのは、とても難しいもののようです。だからこそ、主の御前に謙り、その導きと助けに与る必要があります。 

 私たちも、主に対する情熱を見ていただくため、私たちの心と生活から、主の御前に相応しくないものを一掃しませんか。まず主イエスの御言葉に耳を傾けましょう。示される罪を主の前に告白し、主の血潮によって清めていただきましょう。聖霊を心に迎え、絶えず御霊に満たしていただきましょう。そして、心から主に向かって賛美をささげましょう。

 主よ、私の心を探ってください。御前に相応しくない思い、醜い考えを取り除いてください。キリストの血潮によってすべての罪から清めてくださったことを感謝します。主の御言葉を心に豊かに宿すことが出来るよう、聖霊に満たし、その力と導きに与らせてください。 アーメン




映画 「サン・オブ・ゴッド あなたはその奇跡の生涯を目撃する」

静岡では当初、2月7日(土)から13日(金)までの1週間という予定でしたが、期間が延長されて、次週27日(金)まで「サン・オブ・ゴッド」が上映されました。
上映館は、シネシティZART(新静岡セノバ9階)です。
上映開始時間は、10時40分から2時間25分終了は13時05分です。

1月中に予約鑑賞券(1100円)を静岡聖文舎で求め、2月9日(月)朝、見に行きました。
新静岡セノバまで車で行き、5階に駐車しました。
ZARTで映画を見ると、駐車料が3時間無料になります。

シネシティZART窓口で予約鑑賞券を指定席券と交換し、受付を通ります。
市内の教会の教職者が何人もおいでになっていました。

映画はヨハネ福音書を中心に、主イエスのご生涯が忠実に描かれていました。
死を打ち破って甦られ、今も生きておられる主イエスの福音を、しっかり語り伝えて行きたいと思いながら、映画館を出ました。

ガストでお昼をいただき、身も心も満たされて帰宅しました。



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2月26日(木) 列王記下9章

「ヨラムはイエフを見ると、『イエフ、道中無事だったか』と尋ねたが、イエフは答えた。『あなたの母イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か。』」 列王記下9章22節

 ヨルダン川東部ギレアドの地、ラモト・ギレアドの領有を巡り、北イスラエルの王ヨラムの父アハブの時代から、隣国アラムとの間に戦争が断続的に行われていました(列王記上22章3節以下)。ヨラムはその戦いで傷つき、戦線を離れてイズレエルで療養しておりました(列王記下8章28~29節)。

 ときに、イスラエルの将軍イエフが、軍勢を率いてイズレエルにやって来ました(17節以下)。彼は、密かに預言者エリシャの遣わした従者によって油注がれ、ヨラムに代わって王となり、アハブの家を撃つよう命じられていました(6節以下)。

 将軍イエフを出迎えたヨラムは、彼が軍勢を率いて戻ってきたので、アラムとの戦いがどうなったのか気になり、冒頭の言葉(22節)のとおり、「イエフ、道中無事だったか」と尋ねます。「道中無事だったか」という言葉の原語は「シャローム」の一語です。口語訳は「平安ですか」、新改訳は「元気か」と訳しています。

 この箇所では、通常の挨拶ではなく、アラムとの戦いにおいて平和を獲得したのか、つまりラモト・ギレアドを巡る戦いに勝ったのかと問うているのではないでしょうか。先に2度騎兵をやってそれを尋ねさせたのに、応答がなかったということで、王自ら戦車を用意してイエフのもとに出向き、同じ問いをしているわけです。

 王が車を飛ばして、戻って来た将軍を迎えるというのは、およそ尋常なものではありません。イスラエルは無事なのか、この戦いに勝利したのかということが、いかに真剣な問いであったかということ、であれば、今現在、ヨラムのうちにシャローム、平安はない、不安と恐れの中にあるのだということをを窺い知ることが出来ます。つまり、無事だ、勝利したという福音・グッドニュースを聞きたい、それによって平安を得たいと考えているのです。

 その問いに対して、イエフは、「イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か」と、ヨラムに答えました。その言葉遣いは、およそ王とその家臣の会話とは思えません。

 イエフは、隣国との関係ではなく、神との関係において、「シャローム」を考えていました。神との間に真の平和がなければ意味がない。神のシャロームを破壊する者が国の中にいるなら、隣国に勝利したとしてもそれは無益だというわけです。真のシャロームを獲得するには、先ず、皇太后イゼベルの姦淫とまじないをやめさせなければなりません。

 イエフの意図を悟ったヨラムは、同行して来たユダの王アハズヤに、「アハズヤよ、裏切りだ」と叫び、慌てて逃げ出しますが(23節)、イエフに射殺され(24節)、ナボトの畑に投げ捨てられます(25節)。それは、ヨラムの父アハブが、ナボトから奪い取ったもので、エリヤがアハブに、その裁きを告げていました(26節、列王記上21章19節以下)。そのとおりになったのです。

 また、アハブの娘アタルヤを母に持つアハズヤも、逃げる戦車の中で傷を負い、メギドで命を落としました(27節)。さらに、ヨラムの母イゼベルも、偶像礼拝の罪を刈り取ることになりました(30節以下)。繰り返しエリヤによって断罪されていたのに、神の御前に悔い改めることをしなかったアハブの家系は、預言通りに滅ぼされてしまいました。

 どうすれば、真の平和を築くことが出来るのでしょうか。それは、イエフが語ったように、姦淫とまじないをやめること、先ず神の国と神の義とを求めることです(マタイ6章33節)。何よりも神を第一とすべきなのです。

 神の国を求めるとは、神に御支配頂くこと、神にお委ねすることです。神の支配のもとにある国、それが神の国です。心の中心に主を迎え、家庭や職場、学校、地域が神の御支配に与るように求めるのです。

 また、神の義とは、神との正しい関係です。絶えず神を崇め、神の前に謙ることです。神の義を求めるとは、罪の赦しを求めること、救いを求めることです。

 主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。主イエスが私たちのために死なれ、神と正しい関係にしてくださいました。そしてキリストは、私たちに「アバ父よ」と呼ぶ聖霊をお与えくださいました(ローマ書8章15節)。私たちと神との正しい関係とは、神が私たちの真のお父様になり、私たちが真の神の子になることです。

 神と私たちとの関係が正しくなり、神が私たちと共に住み、私たちを御支配くださるとき、私たちに乏しいことはありません。必要なものはみな、加えて与えられると約束されているからです(マタイ6章33節)。こうして、神との関係がシャロームになるならば、隣国との関係においても神がシャロームをお与えくださるでしょう。

 キリストは、十字架を通して私たちを神と和解させ、十字架によってユダヤ人と異邦人とを一つに結んでくださいました。十字架の縦の棒は神と私たちを結ぶ架け橋、横の棒は私たちお互いを結ぶ架け橋です。そして、その中心にキリストがおられ、私たちを一つにしてくださるのです。

 主よ、御言葉と祈りを通して、また、信仰の交わりを通して、希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。平和の源である神が、常に私たち一同と共におられますように。 アーメン



2月25日(水) 列王記下8章

「ハザエルは、『この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか』と言ったが、エリシャは、『主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された』と答えた。」 列王記下8章13節

 アラムの王ベン・ハダドが病気になり(7節)、その病気が治るかどうか、ダマスコを訪れていた預言者エリシャに尋ねます。直前に、イスラエルとアラムの戦争があり(6章8節以下)、神の人エリシャによってアラム軍の作戦が見透かされるというので(同12節)、彼を捕らえるために大軍を差し向けたりもしています(同14節)。

 何度も悔しい思いをさせられた相手に、使者を送るとはどのような心境なのかとも思います。しかし、前に軍の司令官ナアマンの重い皮膚病をエリシャに癒してもらったことがあったので(5章)、自分も癒して欲しい、元気になりたいという願いがあったのでしょう。だから、贈り物を持たせて、主の御旨を尋ねさせたのです(8節)。

 そのとき、ベン・ハダドが遣わした使者が、ハザエルです(8節)。エリシャはハザエルに、「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された」と告げます(10節)。そして、エリシャはハザエルの顔をじっと見つめて、泣き出します(11節)。

 それは、必ず治るはずのアラムの王ベン・ハダドが、必ず死ぬことになるからということではありませんでした。そうではなく、ハザエルによってイスラエルに大いなる災いがもたらされるからです(12節)。

 その涙の理由を尋ねた後のハザエルとエリシャとのやりとりが、冒頭の言葉(13節)です。つまり、アラム王ベン・ハダドに代わり、家臣ハザエルが王となって、イスラエルに災いをもたらすのだということです。ここに、ハザエルがどのようにして王になるのかということについては、何も記されていません。

 かつて、主がエリシャの師エリヤに、「ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ」と告げられました(列王記上19章15節)。そのとき、エリヤがダマスコに赴き、ハザエルに油を注いだという記事はどこにもありません。また、エリヤの後継者としてエリシャが今ここで、ハザエルに油を注いだということでもありません。ただ、神の言葉として、彼がアラムの王になると予告したのです。

 王のもとに帰ったハザエルは、「必ず治ると彼(エリシャ)は言いました」と報告します(14節)。そして翌日、ハザエルは事故を装うかの如く、王ベン・ハダドの顔に濡れた布を乗せて暗殺し、代って自分が王となりました(15節)。エリシャの告げた言葉を、自らの手で実現するために、アラム王を暗殺するという手段を選んだわけです。

 神はなぜ、ハザエルに油を注いで王とせよと、エリヤに告げたのでしょうか。それは、12節に言われているように、ハザエルが王となって、「砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂く」という、恐るべき災いを、イスラエルにもたらすためです。エリシャは、この言葉をハザエルに告げるため、わざわざダマスコを訪ねたわけです。

 そして、エリシャは、この災いがイスラエルにもたらされることが分かって、泣き出したのです。だからといって、エリシャはハザエルが王にならないようにしたわけではありません。むしろ、上述のとおり、王となると予告しました。こうして、神はアラムを、イスラエルを試すために用いられます。危機にあってイスラエルが神に信頼するか、それとも、自分の力や知恵などを頼みとするかを試すのです。

 そして、試練の中でイスラエルが神に信頼することがないとき、神はアラムを用いてイスラエルに敵対させ、イスラエルを打ち負かすようにさえなさるのです(列王記下8章28,29節、10章23節、12章18,19節、13章3,22節)。

 イザヤ書45章7節で主は、「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」と語られます。私たちが神に背き、我が道を行こうとするとき、神は私たちに災いをもって臨まれます。災いを下したいからではなく、私たちに義の道を歩ませたいからです。また、災いを通過することで、忍耐や従順を学ばせられるのです。

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ書5章8節)と言われます。そして主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と(マタイ11章29節)、主と共に重荷を担うよう招いておられます。

 パウロが、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)と言っているのは、そのことでしょう。

 さらに、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります(ローマ8章28節)。それは、御霊なる神の働きです。神は、ご自身の計画に従って私たちを召し出してくださいました。どのようなときにも、神を愛し、神を信頼する者たちのためには、神は万事を益に変えてくださる、どんなマイナスと見える出来事もプラスにしてくださるというのです。

 主を愛し、主を信頼して、その御言葉に耳を傾け、日々その導きに従いましょう。

 主よ、あなたはハザエルを用いてイスラエルを裁き、キュロスを用いてバビロン捕囚から解放されました。御旨を行われるために、すべてのものが用いられます。私たちの主の御用のために用いられたいと思います。主に用いられる器として、整えてください。試練を耐え忍び、主を喜び、賛美することを教えてください。 アーメン




2月24日(火) 列王記下7章

「王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。『主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう』。エリシャは言った。『あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。』」 列王記下7章2節

 アラムの王ベン・ハダドが全軍を招集して、サマリアを包囲しました(6章24節)。ベン・ハダドとは、アラムの神である「ハダド」の息子という意味のアラム王の称号で、聖書中では、ユダの王アサの時代に、ベン・ハダド1世が登場します(列王記上15章18節)。それから、イスラエルの王アハブの代に出て来るのがベン・ハダド2世で(同20章1節)、彼は、今回と同じ人物です。

 アハブは、神の助けによってアラムを2度打ち破りましたが(同20,21節、29節以下)、そのとき、ベン・ハダドの助命の嘆願を受け入れて協定を結び(32節以下)、彼を安全に帰国させました(同34節)。

 その協定を破り、ベン・ハダドは三度目イスラエルに攻め込み、サマリアを包囲して兵糧攻めにしているわけです。サマリアは、大飢饉に見舞われた上にアラム軍による包囲で、まさに泣き面に蜂状態、大変なことになりました(列王記下6章25節)。

 そこで、イスラエルの王ヨラムは、エリシャに使者を遣わし、エリシャの首をはねさせようとします(同31節)。それは、ヨラム王が、この大艱難が主によって引き起こされたものと考えていて(同33節)、それゆえ、主の預言者にその怒りをぶつけようとしているわけです。

 しかし、主がイスラエルに艱難を与えているのであれば、エリシャを殺したところで、それが止む道理はありません。むしろ、主を畏れないその行為が、主の怒りの炎に油を注ぐ結果になるだけです。ヨラムに求められているのは、主を畏れ、その御前に謙ることでしょう。

 しかるにエリシャは、明日の今頃にはサマリアの城門で小麦、大麦の大安売りが行われると告げます(1節)。ところが、冒頭の言葉(2節)のとおり、王の介添えをしていた侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と答えています。王の侍従は、エリシャの告げた主の言葉を信用することが出来なかったのですが、それは、侍従だけでなく、ヨラム王も、そしてサマリアの住民も、同様だったのではないでしょうか。

 そのとき、都の城門の入り口に重い皮膚病を患う者が4人いて、このまま飢えて死ぬまで座しているよりは、アラムに投降しよう。うまくいけば生き延びることが出来るかも知れないと出て行くと(3,4節)、何故かアラムの陣営には誰もいませんでした(5節)。

 それは、主が戦車や軍馬、大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたので、イスラエルが援軍を頼んだのだと恐れ(6節)、アラム軍は取るものも取り敢えず、逃げ去ってしまったのでした。あとには、天幕も馬もロバもそのまま残されていました(6,7節)。

 重い皮膚病を患っている者たちは、そこで思う存分飲み食いし、金品を隠して自分のものにしようとしましたが(8節)、この事実を隠したままいるなら、神の罰を受けるに違いないと考えて、これを王家の人々に知らせようとサマリアの町に戻り(9節)、門衛に伝えます(10節)。その知らせを聞いた王はしかし、これをアラム軍の策略と考え、重い皮膚病を患う者たちのもたらしたよい知らせを、にわかに信じることが出来ませんでした(12節)。

 そこで家臣の一人が、偵察隊を出しましょうと進言します(13節)。そして、偵察隊が派遣されることになりましたが、彼らが出て行って見たのは、重い皮膚病を患う者たちが知らせたとおりのものでした(15節)。そして、持ち帰られた大量の食物が、翌朝、城門で大安売りされました(16節)。エリシャが告げたとおりのことですが、それほどの食物を持ち込んでいたアラム軍は、どんな大軍だったのでしょうか。

 王は、侍従を城門の管理に当たらせましたが、殺到した民衆に踏み倒されて死んでしまいました(17節)。エリシャが、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」と言っていたとおり(2節)、目の前に積み上げられた大量の穀物を売り買いする人々を見ながら、自分はそれを口にすることは出来ませんでした。預言者の言葉を信用しなかっただけでなく、神様にもそんなことは出来ないと、神を侮る発言をしたからでした。

 エリシャの告げた主の言葉をヨラム王が信じていれば、重い皮膚病を患う者たちの報告を疑うことはなかったでしょう。また、もしも偵察隊を出そうという家臣がいなければ、ヨラム王を初め、イスラエルの民は皆、いまだに空腹を抱え、座して飢え死にするのを待つばかりだったことでしょう。

 しかし、主なる神は、エリシャの告げた福音を実現するためにアラム軍が兵糧を残して逃げ去るように計らわれ、それを重い皮膚病の者たちに発見させ、それらを信じられない王のために、斥候を出すよう家臣に進言させ、そのようにして、エリシャの告げた福音が真実な神の言葉であり、イスラエルにまことの神、主がおられることを、明示したのです。

 イスラエルにそのように食料がもたらされたのは、ヨラムが悔い改めたからでも、イスラエルの民が神に助けを求めたからでもありません。むしろ、飢饉にアラム軍の包囲という絶体絶命の状態をエリシャに責任転嫁して首をはねさせようとしたのです。ということですから、このように救いが示されたのは、神の一方的な憐れみというほかはありません。  

 神は繰り返し、私たちが命の道、義の道を歩むことが出来るように招かれます。その道を開かれます。ところが、そのような神の言葉を素直に信じることが出来ません。あまりにも現実に囚われているからです。あまりにも罪深く、神の声を聴くことが出来ないからです。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)と、私たちを信仰に導かれる主の御前に謙り、常に主の御言葉に耳を傾けましょう。その御旨に従いましょう。

 主よ、深い憐れみをもって私たちを招き、導いていてくださり、感謝致します。日々主の御前に謙り、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩み、その祝福に与ることが出来ますように。弱い私たちを助け、信仰に歩ませてください。 アーメン




2月23日(月) 列王記下6章

「そのうちの一人が梁にする木を切り倒しているとき、鉄の斧が水の中に落ちてしまった。彼は、『ああ、ご主人よ、あれは借り物なのです』と叫んだ。」 列王記下6章5節

 預言者の仲間たちがエリシャに、今住んでいる場所は狭すぎるので、大きな家を建てるため、ヨルダンに材木を切りに行きましょうと言います(1,2節)。預言者仲間が共同生活をしていた場所は、ベテル(2章3節)、エリコ(同5節)にもありますが、4章38節とのつながりから、ギルガルと考えるのが妥当であろうと思います。

 ただ、エリシャはサマリアに家があることが報告されており(2章25節、5章3,9節)、その私邸のほかに、預言者仲間と共に生活する公邸があると考えたらよいのでしょうか。その場所が狭くなったということは、エリシャを指導者と仰いで集い来る預言者の数が増加して来たということです。

 歴代の王たちがなかなか神の御声に耳を傾けようとしない北イスラエルにあって、エリシャのもとに預言者が集うということは、主の御声を正しく聴きたいと思う者が増えているということであり、王を初め北イスラエルの民に神の御言葉を正しく告げ知らせる働き人が、より多く求められているということなのでしょう。

 主イエスが、「収穫は多いが働き手が少ない」と仰いましたが(マタイ9章37節)、収穫が多いというのは、問題が多いということでしょう。だから、多くの働き手を必要としているわけです。

 家を増築するための材木を集めるため、木を切りに行くという申し出を受けて、「行きなさい」と応じたエリシャでしたが(2節)、預言者の一人が、「どうぞあなたもわたしたちと一緒に来てください」と懇請します(3節)。「一人」には、定冠詞が用いられていて、預言者仲間の代表ということでしょう。

 そして、新共同訳で「わたしたち」と訳されているのは、「あなたの僕たち」(アブデイハー)という言葉で、5節の「ご主人」(アドニー:「わたしの主人」の意)と共に、上下関係を強調する表現になっています。

 新改訳は、「どうぞ」を「思い切って」と訳して、その願いの強さを表現しています。預言者集団のトップとして、当然同行すべきだということなのでしょうか。あるいは、以後不測の事態が起こることを予感してということなのかも知れません。委細は不明ですが、その強い要請にエリシャは、「わたしも行こう」と応じました。

 ヨルダンで材木となる木を切り出している最中に、一人の者が手を滑らして、鉄の斧を水の中に落としてしまいました(5節)。その斧は借り物でした。当時、鉄は貴重品で、簡単に手に入れることが出来ません。貧しい預言者仲間には、到底買えるような代物ではありませんでした。だから、木を切るためにどこかから借りて来ていたわけです。

 斧を落とした者は、冒頭の言葉(5節)の通り、「あれは借り物なのです」と叫びました。借りて来たものを、返せないで済ませるわけにはいきません。買って返すお金もないとなると、どうしたらよいのでしょうか。エリシャに助けを求めるほか、何をすることも出来ませんでした。

 助けを求める声を聞いたエリシャは、「どこに落ちたのか」と尋ね、示された場所に枝を切って投げ込みました(6節)。すると、なんと鉄の斧が浮き上がったのです。そこで、浮き上がった斧を拾い上げさせました(7節)。あり得そうにないことが起こって、窮地を脱することが出来たのです。

 借り物は、必ず返さなければなりません。ファリサイ派などの人々から、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と尋ねられたとき(マルコ12章14節)、主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました(同17節)。

 考えてみて下さい。私たちの人生において、これは自分のものと主張することが出来るものがあるでしょうか。一時期、所有することは出来ても、手放すときがやって来ます。つまり、すべて預かりもので、返すべき時がやってくるのです。

 私たちにとって最も大切な、なくてならないもの、それは命です。まさに命こそ、神からの預かりものです。だから、清算のときがきます。その時、「これは借り物だったのに、取り返しのつかないことをしてしまった」と叫ばずに済む生き方が出来ているでしょうか。神からの預かりものなのに、罪の中に沈めてしまって、自分ではどうしようもない。それが私たちの現実ではないでしょうか。

 しかし、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださいます。エリシャが投げた木の枝は、私たちにとって、キリストの十字架を象徴しているようなものです。罪に沈んでいた私たちが、キリストの十字架の贖いによって、もう一度生き返ることが出来ました。自分で清算することの出来なかった罪の代価を、神の御子がご自身の命によって支払ってくださったのです。

 キリストによって新たにされた自分の人生を、まさしく神からの預かりものと覚え、「是非わたしと一緒に来てください」と願い、どんなことも「ああ主よ」と主に依り頼み、日々御言葉に聴きつつ歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝いたします。御子の命というかけがえのない代価をもって贖い出し、神のものとしていただきました。御名の栄光のため、私たちのこの体を用いてください。 アーメン



2月22日(日)主日礼拝説教

2月22日(日)主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。



説教題 「まだ悟らないのか」
聖書 マルコ福音書8章11~21節

教会のウェブサイトも更新しています。
URL http://shizuoka-baptist.jimdo.com/


ぜひご覧ください。






 

2月22日(日) 列王記下5章

「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」 列王記下5章14節

 1節に、「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」と記されています。イスラエルに敵対するアラムの将軍ナアマンが、主君に重んじられ、気に入られていた理由を、「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたから」と語っているということは、主はご自身の御旨を行われるために、どのような者も用いられるということです。

 しかも、「彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て」という2節の言葉から、アラムの勝利は、イスラエルに対するものだったと思われます。主の御旨に従わないイスラエルが、敵対するアラムに対して反抗するように導き、それに対し、ナアマンが主の御名を呼び、主の助けを求めたので、主がアラムに勝利を与えられたということでしょう。
 
 ところで、ナアマンは重い皮膚病を患っていました(1節)。彼の妻が召使いにしていたイスラエルの少女が(2節)、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と女主人に告げました(3節)。それをナアマンがアラムの王に伝え(4節)、イスラエル行きの許可を得ます(5節)。

 そうしてナアマンは、王の親書と、銀10キカル(342kg≒2400万円)、金6千シェケル(68.4kg≒3億4000万円)、着替えの服10着という贈り物を携え、イスラエル王の許にやって来ました(5,6節)。その親書を読んだ王は衣を裂き、これはアラム王の陰謀だとばかり、感情を露わにします(7節)。

 そのことを伝え聞いた預言者エリシャはイスラエル王に、自分のところにナアマンをよこすよう進言します(8節)。そして、やって来たナアマンに使いをやり、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と言わせます(10節)。

 アラム王の親書を携え、多くの贈り物をもって長駆イスラエルまでやって来たナアマンは、顔を見せようともしないエリシャのやり方が礼を失していると憤慨し、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」といって帰ろうとします(11,12節)。

 けれども、家来たちは、「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」と執り成します(13節)。つまり、命じられたのは大変なことではないのだから、それでよくなるのなら、やってみてはどうかと、ナアマンに勧めたわけです。

 ナアマンは家臣の勧めを受けて、冒頭の言葉(14節)のとおり、エリシャの言葉に従ってヨルダン川で七度身を浸し、洗いました。確かに、エリシャの指示は、やろうとして出来ないことではありません。エリシャが自分に対して敬意を示さないこと、彼の命じたことが余りにも簡単で、それで本当に清くなると考えることが出来なかったことで、王に重用されている軍の司令官という立場が、一預言者の前に謙ることを難しくしたのです。

 しかし、彼は部下の諫めを受け入れ、エリシャの言葉に従いました。すると、彼の体は元に戻り、清くなったのです(14節)。体が元に「戻った(シューブ)」のを見たナアマンは(14節)、エリシャのところに「引き返す(シューブ)」(15節)という語呂合わせがここにあります。自分を出迎え、対面して癒しを行おうとしなかったエリシャに憤慨して立ち去ろうとした将軍ナアマンが、ここに臣下のように振る舞っています。

 身の清めを経験したナアマンは、エリシャの言葉が確かに神の言葉であることを悟りました。彼は、随員全てを連れてエリシャの前に立ち、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と、その信仰を言い表しています(15節)。

 ナアマンが神の恵みを味わうためには、謙ること、忠実に御言葉に従うことが求められました。一度だけではなく、七度身を浸すというのも、七が完全数で、主の御言葉に完全に従えという表現と考えられます。また、洗う度にだんだん清くなったというのではなく、七度身を浸し、川の水で七度身を洗って初めて清められたのです。そうして主の恵みを受けるため、彼の従順と忍耐が試されたわけです(ヘブライ書10章36節参照)。

 主イエスの母マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と御使いに答えました(ルカ1章38節)。主イエスもゲッセマネで、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました(ルカ22章42節)。私たちも神の恵みに与るために、絶えず謙遜と従順が試されています。

 日毎に開かれる主の御言葉の前に、常に謙遜と従順をもって歩ませていただきましょう。

 主よ、ナアマンが七度洗ってその身が清められたように、私たちの心を繰り返し御言葉で清めてください。人知を超えた神の平安で、私たちの心と考えを絶えず守ってください。主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン




2月21日(土) 列王記下4章

「彼は言った。『外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。』」 列王記下4章3節

 4章には、「エリシャの奇跡」という小見出しがつけられています。そこには、負債からの救済(1~7節)、死から命へ(8~37節)、有害物質の除去(38~41節)、百人の給食(42~44節)という、エリシャによってなされた四つの奇跡が記されています。いずれも、死から命へ、絶望から希望へという共通のテーマを持っています。

 最初の「負債からの救済」という奇跡は、預言者仲間の一人が亡くなり、その後、債権者がやって来て、子ども二人を負債のかたに連れ去り、奴隷にしようとしていると、その預言者の妻が訴えたことに対して(1節)、エリシャが行ったものです。

 エリシャが、「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい」と尋ねると、彼女は、「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」と答えます(2節)。彼女の家に残っているものは、本当にごく僅かです。家財道具から一切合財、債権者に持って行かれたというところでしょうか。油の壺一つだけでは、殆ど何の助けにもなりません。

 けれどもエリシャは、それを聞いて、隣近所から空の器を出来るだけたくさん借りて来るようにと言います(3節)。それから、戸を閉めて、子どもたちと一緒に、借りて来た器に油を注ぎなさいと言いました(4節)。

 そこで、彼女は家の戸締まりをし、二人の子らは空の器を集めて来ました。そして、彼女が集められた空の器に壺の油を注ぎます(5節)。集められたすべての器を満たした後、「もっと器を持っておいで」と彼女が言うと、子どもたちは、「器はもうない」と答えました。すると、油は止まりました(6節)。

 それを神の人エリシャに報告すると、エリシャは、「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子どもたちはその残りで生活していくことができる」と言いました(7節)。

 アハブの御世、3年にわたる旱魃が続いている中、サレプタの貧しいやもめを、エリヤが救ったことがありました(列王記上17章8節以下)。そのとき、底をついていた壺の粉と瓶の油が、その後、再び雨が降って地に実りが与えられるまで、幾日食べても事欠かないという奇跡が行われました(同16節)。

 また、最初に記した四つ目の「百人の給食」の奇跡、即ち、ギルガルの地が飢饉に見舞われたとき(38節)、そこに初物のパン、大麦パン20個と新しい穀物が献げられて(42節)、「食べきれず残す」(43節)と言われた主の言葉のとおり、百人が食べて食べきれず残すという奇跡もありました(44節)。

 これらの箇所に見る、ごく僅かなものですべての必要を満たされただけでなく、多くのものが余るというのは、男だけでも5000人いるという大群衆の腹を五つのパンと二匹の魚というごく僅かなもので満たし、残りを集めると、12の籠に一杯になったという、主イエスが行われた奇跡の物語を思い起こします(マルコ6章30節以下など)。

 また、この出来事から、神の恵みについて教えられます。彼女らには、負債を返す力がありませんでした。だれかにその負債を肩代わりして貰わない限り、子どもを奴隷として売るしかないのです。しかも、負債を返し終えさえすれば、それでよいわけではありません。

 そもそも、預言者の夫が負債を残して亡くなり、それが返せなかったわけです。負債がゼロになっただけでは、明日からまた借金生活が始まってしまいます。だから、借金がゼロになった後の生活がきちんと出来る仕組みや備えが必要なのです。

 私たちの信仰において、負債とは、罪のことです。粉飾して、負債などないという顔をしている人でも、神の御前に、負債のない人、罪を犯したことがないと言える人などいません(詩編14編1節以下)。そして、誰も自分の力で負債が返せません。だから、キリストが十字架にかかり、私たちの負債をすべて、支払ってくださいました。けれども、借金体質がそのままでは、再び借金生活に逆戻りです。

 そのために神は、私たちに別の助け主として、真理の御霊、聖霊をお与えくださいました。私たちは、私たちといつまでも共にいてくださる聖霊の力を受けて、新しい歩みをすることが出来るのです(ヨハネ14章16,26節、15章26節、16章8節以下)。主イエスを信じて罪赦された今、聖霊の満たしと導きを求めましょう。

 もう一つ、預言者エリシャが隣近所からたくさんの空の器を集めさせ、その器を油で満たしました。そして、すべての器を満たしたとき、油は止まってしまいました。空の器がなくなったからです。用意された器の分だけ、油が注ぎ出されました。

 ここで、器が私たちの必要であり、油がそれを満たす神の恵みと考えます。私たちが器を満たしてくださいと主に祈り願うと、主はその祈りに答えて、恵みを注いでくださいます。隣近所から空の器を集めなさいというのは、家族や隣人の救いを求め、恵みを求めて執り成しの祈りをせよということにもなるでしょう。

 空の器を神のもとに持ち出せば、すべて恵みで満たして頂くことが出来ます。器を集めることをやめれば、油は止まってしまうのです。無尽蔵の神の恵みで、家族親族、知人友人が満たされるよう、祈り願いましょう。そうして、日毎の御言葉と祈りを通していただいた恵みを、隣人のために用いさせていただきましょう。

 主よ、日々御言葉を通して新たな恵みを示してくださり、感謝します。私たちの家族、隣人がすべて、主の救いの恵みに与りますように。心も体も健康で、日々充実した生活が出来ますように。生活の必要がすべて満たされますように。仕事が祝されますように。そのことを通して、いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン




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