「主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネ・ダンにいたときのことであった。」 士師記13章25節
13章から16章まで、サムソンという士師の物語が記されています。サムソンは12番目に、最後の士師として登場して来ます。13章は、サムソンの誕生物語です。父親は、ダンの氏族に属するツォルア出身のマノア(「休息、平安」の意)という人物です(2節)。母親については、不妊だったということ以外の情報は、名前も含め、全く不明です。
ある日、主の御使いが彼女に現れ、男の子が授けられると告げます(3節以下)。そして、「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と言われます(5節)。ナジル人とは、「ナーザル」(「聖別する」の意)という動詞に由来するもので、神のために区別された人ということになります。
民数記6章に、「ナジル人の誓願」の規定があります。そこに、「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない」と記されています(同5節)。それは、「神に献身したしるしがその髪にあるから」(同7節)です。つまり、長く伸ばされた髪に神の栄光が表されていると考えられていたわけです。
彼女は、夫マノアに神の御使いから聞いたことを報告します(6節以下)。その中で、「その方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときからナジル人として神にささげられているので、わたしに、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました」(7節)と語っています。
確かに、ナジル人の誓願期間中は、ぶどう酒や濃い酒、ぶどうの木から出来る物はすべて、食べてはならないと規定されています(民数記6章3,4節)。誓願の間、神に献身しているのですから、自分を楽しませ、酔わせるための飲酒が禁じられるわけです。
特に、ぶどう酒およびぶどうを原料とした食物の禁止は、カナン文化とその宗教からの絶縁を強調したものでしょう。カナン土着の農耕神の祭儀では、飲酒は欠かせない要素だからです。それに対してナジル人は、酒を飲まないことで、何よりもまず神の国と神の義とを追い求めるという信仰の姿勢を示すのです。
ただ、ナジル人となるのは生まれてくる男の子であって、母親ではありません。にも拘らず、母親となる女性に、「今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ」と言われているということは、彼女の胎内にいるときから、ナジル人として聖別されるためには、そのとき母親も、ナジル人として献身することが求められたわけです。
さらに、ここには挙げられてはいませんが、死体に触れて汚れてはならないという規則もあります(同6章7節)。家族が死んだときも、死体に近づくことが禁止されるというのは、大祭司と同等の扱いを受けているわけで(レビ記21章11節)、汚れに近づいて、おのが務めが果たせなくなるような生活は、厳に戒められているのです。
母親は命令どおりにして無事出産のときを迎え、産まれて来た男の子にサムソン(原典では「シムショーン」)という名を与えました(24節)。これは、「太陽(シェメシュ)」と関係する名前です。
生地ツォルアの傍にベト・シェメシュの町があります。ここは、サムエルの時代、ペリシテに奪われた神の箱が戻された町です(サムエル記上6章)。ベト・シェメシュとは、太陽の家という意味で、家には神殿という意味もあることから、太陽神を礼拝する神殿がそこにあったと考えられます。
あるいは、サムソンの家族が太陽神礼拝に関わりを持っていたのかも知れません。だからこそ、ペリシテからイスラエルを救う先駆者とするべく主がサムソンを選んだ時、生まれながらのナジル人として、神々との関わりを断ち、清い生活をするように、サムソンのみならず母親も守るべき注意事項を、繰り返し語り聞かせているのではないでしょうか(4,5,7,14節)。
かくてサムソンは、生まれながら神に献げられたナジル人として歩み出しました。冒頭の言葉(25節)に、「主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネ・ダンにいたときのことであった」と記されています。
ここで、「マハネ・ダン」とは、「ダンの陣営」という意味です。ダン族の嗣業の地は、ペリシテと国境を接し、絶えず圧迫を受けていました。そこで、部隊の配置されたところが、「マハネ・ダン」と呼ばれたようです(18章11節)。「ツォルアとエシュタオルの間」(25節)、「キルヤト・エアリムの西」(18章11節)と言われますが、それ以上詳しいことは分かりません。恐らく、防衛上、部隊が移動して、陣営の位置が変わったということでしょう。
また、「奮い立たせる」(パーアム)という言葉は、「強く押す、押し込む、かき混ぜる」という意味です。即ち、サムソンの士師としての働きは、ナジル人としての生活をしていて自然に始まったということではなく、サムソンの心に霊の力が押し込まれ、内側からかき混ぜられた結果であり、決して渋々というわけではありませんが、霊に駆り立てられるようにして、士師として立ち上がったわけです。
神の霊によって心が動かされるということで、色々な解釈が出来ると思いますが、パウロがローマ書5章5節に、「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と記しています。
聖霊を通して神の愛が私たちの心に押し込まれ、かき混ぜられて、今までとは違う自分になる。艱難をさえ喜べる。確かな希望に生きることが出来る。憎んでいた人を愛せるようになるというような、今までとは違う内側からの主の霊の力、神の愛の力に突き動かされる。そのような体験をするというのです。
主イエスが昇天される前、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と命じ(使徒言行録1章4,5節)、「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(同1章8節)と続けられました。
主イエスの証人としての働きをするためには、聖霊に満たされ、その力を受けることが必須条件だということです。この地に福音を満たすため、主の証し人として用いられるよう、聖霊の満たしを熱く祈り求めましょう。霊の導きにより、栄光から栄光へと進ませていただきましょう。
主よ、私たちはあなたの計り知れない御恩寵によって罪赦され、神の子とされ、永遠の命の恵みに与りました。そして、主を証しする務めをお与え下さいました。聖霊を通して、私たちの心にも神の豊かな愛が注がれています。絶えず聖霊に満たされ、その愛と力を受けて、使命を全うすることが出来ますように。 アーメン