「主はヨシュアに言われた。『恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。』」 ヨシュア記8章1節
前章に続き、再びアイの町を攻撃することになりますが、今回は、主の命令に従って行動を起こします。主は、冒頭の言葉(1節)のとおり、「全軍隊を引き連れて攻め上れ」と言われます。そこで先ず、「ヨシュアは、三万の勇士をえりすぐって」(3節)送り出します。
先の攻撃では、斥候に行った者たちは、全軍が出るまでもなく、二、三千人も行けば十分、とヨシュアに進言していました(7章3節)。けれどもそれは、主の命令を受けてということではありませんでした。そして、その判断が相当に甘かったということ、やはり、この戦いにも主の助けが必要であるということを、徹底的に思い知らされたわけです。
4節で、選ばれた勇士3万が、裏手から町を伺う伏兵とされ、彼らはベテルとアイの間の待ち伏せ場所で待機しました(9節)。さらに12節で、5千人を伏兵として、同じ場所に配置したとされています。合わせて3万5千の伏兵が置かれたということになります。ヨシュアが率いていた全軍隊というのは、その時戦いに参加することの出来たイスラエルの全軍、モアブで数えられた60万ということでしょう(民数記26章51節)。
そんな大軍でなければ勝てないということよりも、今回、すべてのものが神の命令に従うよう導かれたと考えたらよいでしょう。しかも、最初の戦いに送り出した兵の10倍以上に及ぶ伏兵を置くということは、アイの町の兵の強さ、城壁の堅固さなどもあって、「ニ、三千人が行けば」攻め落とせる町ではなかったということです。それは、エリコを打ち破ったイスラエルの民が、その時いかに高ぶっていたかということを示すものでもあります。
そんな大軍でなければ勝てないということよりも、今回、すべてのものが神の命令に従うよう導かれたと考えたらよいでしょう。しかも、最初の戦いに送り出した兵の10倍以上に及ぶ伏兵を置くということは、アイの町の兵の強さ、城壁の堅固さなどもあって、「ニ、三千人が行けば」攻め落とせる町ではなかったということです。それは、エリコを打ち破ったイスラエルの民が、その時いかに高ぶっていたかということを示すものでもあります。
ヨシュアの大軍がやって来たという報せがアイの町の王にもたらされ、町の人々も急ぎ迎え撃つため、町を出て進軍します。彼らは、伏兵の存在には、全く気付いていませんでした(14節)。イスラエル全軍が押し寄せて来ていたにも拘らず、籠城ではなく開戦を選んだところに、アイの王の判断の甘さがあります。
ヨシュア軍は、アイの町の軍隊が町を出たのを見ると、何ほどもしないうちに退却します(15節)。すると、追撃するため、町の中にいた全兵士がおびき出されました(16節)。前の戦いと同じ展開になったのを、イスラエルの策略と見抜くことが出来なかったためです。
17節には、「イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった」と記されています。ここに「ベテル」の名が記されていますが、アイの北西2kmほどのところにベテルの町があり、そこからの援軍があったということでしょう。しかし、ベテルの援軍に関して、これ以外に何の記述もありません。
あるいは、ベテルとは「神の家」という意味ですから(創世記28章19節)、ベテルの町ではなく、アイの町にあった神殿のことを指しているのかも知れません。当時の神殿は、町を守る最後の要塞となるよう、堅固な城壁で囲まれていました。神殿を警護する兵士までも、イスラエル追撃に参加したということになれば、町を守る者は、全く残っていなかったということになります。
そのうえ、「イスラエルの後を追ったとき、町の門は開けたままであった」というのですから、先の勝利に味を占めたアイの王の自信過剰振りが、ここに如実に表されています。そして、それを誰も咎めず、イスラエルの後を追ったというところに、主なる神の御手があったということです。
そのうえ、「イスラエルの後を追ったとき、町の門は開けたままであった」というのですから、先の勝利に味を占めたアイの王の自信過剰振りが、ここに如実に表されています。そして、それを誰も咎めず、イスラエルの後を追ったというところに、主なる神の御手があったということです。
アイの全軍がおびき出されたところで、主がヨシュアに、伏兵に合図するようにと言われます(18節)。伏兵は合図を見て町に攻め込み、そこを占領した後、火を放ちます(19節)。その火を合図に、今度はヨシュア軍が退却をやめ、追撃してきたアイの兵士に打ちかかり(21節)、町を出た伏兵も後ろから挟み撃ちにします(22節)。アイの兵士全員が戦死し、王は生け捕りにされました(23節)。
町に残っていた全住民も一人残らず剣にかけられ、総数1万2千が殺されたと報告されます(25節)。それに対して、神の助けを得たイスラエル軍に、3万5千の伏兵を含む60万の大軍が必要だったのかというところですが、やはり今回の戦いは兵の数ではなく、すべての民が神の命令に全く忠実に聴き従うことを求められたわけです。
この戦いにおけるヨシュアの役割は、勇敢な兵士、また有能な指揮官というのではなく、「アイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった」(26節)ということでした。これは、かつてアマレク軍が戦いを挑んできたときに、モーセが手を上げていたことを思い起こさせます(出エジプト記17章8節以下、11,12節)。
つまり、ヨシュアはモーセの後継者として、戦いのために背後にあって祈りの手をあげるという役割を担ったわけです。ということは、今回の勝利は、主が彼らのために戦って下さったために得られたものであるということを、あらためてここに示しています。
この記事について、今日、神の名による戦争を肯定するものとして読むことは出来ません。主イエスが、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と仰ったからです(マタイ26章52節)。パウロは、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と言っています(エフェソ書6章12節)。
私たちの内外に働きかけて、御言葉に従うことを妨げ、神に従わせまいとする様々な力に対して、まさに御言葉に聴き従うことを通して、神の助けを求めて手を挙げて祈ることにより、完全に勝利すべきであるという神の教えとして、心に銘じましょう。
主よ、私たちを聖霊の宮としてその内に住み、絶えず共にいて下さることを感謝します。あなたこそ私を守る堅固な岩であり、砦です。御力に依り頼みます。御教えに聴き従います。どうか私の耳を開いて下さい。絶えず御顔を仰がせて下さい。御足跡に従うことが出来ますように。 アーメン