風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2014年10月

10月31日(金) ヨシュア記17章

「山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」 ヨシュア記17章18節

 16章で、エフライムの人々がカナン人を追い出さなかったという御言葉から学びましたが、17章にも、「マナセの人々はこれらの町を占領できなかったので、カナン人はこの地域に住み続けた」(12節)という言葉があります。

 彼らがカナン人を追い出せなかったのは、カナン人が強かったからでした。カナン人は皆、鉄の戦車を持っています(16節)。剣や槍など、鉄の武器を殆ど持たないユダヤ人が、鉄の戦車で武装しているカナン人と戦うのは、どだい無理な話と言わざるを得ません。

 マナセとエフライムは、ヨルダン川の東部分も入れれば、イスラエル12部族の中で最も広い、3つの地域を嗣業の地として割り当てられています、。けれども、問題は、その広い場所のすべてを占有しているわけではない、ということです。

 14節以下の議論を読むと、11章までにこの地方全域を獲得したと言われているにも拘らず(11章23節)、エフライム族やマナセ族の領地の中にカナン人が住んでいるところがあるというよりも、むしろ、未だカナン人の領地にイスラエルの民が侵入して、何とか自分たちの住む場所を確保することが出来るように頑張ろうというレベルのように見えます。

 先ず、ヨセフの子らはヨシュアに、自分たちに割り当てられた土地は、主に祝福されてこんなに数多くの民となった私たちには狭すぎると言っています(14節)。神から豊かな恵み、祝福を頂いていても、自分の目で見ると、小さい、少ない、足りないというのです。

 これでは、神の祝福が不満の材料になったかたちです。他の部族に分配したところを削って、それを自分たちに与えよというような要求には、当然応えられるはずがありません。だから、ヨシュアは、それならば森林地帯を開拓するがよいと答えました(15節)。

 すると、私たちは数の多い民なので、山地だけでは足りない。そして、数は多いけれども、鉄の武器がないので、カナン人を追い出せないと言います(16節)。森林地帯などでは鉄の戦車は使えませんので、ある程度戦いになるのですが、開けた場所では、戦車の威力の前に、全く立ち向かうことが出来ないというわけです。

 それを聞いたヨシュアは、冒頭の言葉(18節)のとおり、「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかも知れないが、きっと追い出すことができる」と断言します。鉄の武器なしでは戦えないというヨセフの子らに、きっとカナン人を追い出すことが出来ると告げるヨシュアの、その根拠は何なのでしょうか。
 
 それは、神です。私たちの神です。神が私たちの側に、私たちと共におられるということです。天地万物を創られた神が、私たちの味方なのです。ヨシュアは、鉄の武器を頼りにしている相手より、神が味方について下さる自分たちの方が強いと考えているのです(民数記13章30節、14章9節、ローマ書8章31,37節)。

 信仰は確かに戦いです。自分たちの現実の生活の中には、問題が色々あります。困難があります。問題が大きく、克服するのが困難に見えるとき、私たちは自分の無力を思い知らされます。そんなとき、神がとても小さい存在に思えてしまいます。

 突然の突風で沈没しそうになっている船の中で、主イエスは枕して眠っておられましたが、弟子たちは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫んで起こしました(マルコ福音書4章38節)。弟子たちには、そのとき、主イエスが持っていた平安はありませんでした。主イエスが何もして下さらないことに対する不満と、沈没してしまうという恐れに満たされていたわけです。

 弟子たちがその嵐の海の上で守られたのは、彼らの力、彼らの知恵、彼らの信仰のゆえなどではありません。嵐になって、主イエスを大声で呼び求めたということでもありません。主イエスが彼らと共にいてくださったからこそのことです。

 信仰生活には戦いがあるということを自覚するなら、そのために備えるでしょう。心構えが違って来るでしょう。そして、相手がどんなに強くても、私たちと共にいてくださるお方の強さが分かれば、勇気百倍でしょう。主イエスは、インマヌエルと唱えられるお方、どんなときにも共にいてくださるお方です。

 もしも、共におられる主イエスの姿を見失ってしまったら、どうしましょう。問題が大きくて、主が見えなくなったらどうしましょう。そんなときは、賛美するのです。

 マリアが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌っています(ルカ福音書1章46,47節)。これは、マリアの賛歌の冒頭の句です。ここで、「あがめる」というのは、「メガルノー」というギリシア語で、拡大する、長くするという意味の言葉です。主を崇めるとは、主を拡大するという言葉遣いです。賛美で心が満たされる、主への賛美、主への感謝が心に満ち溢れるという感じでしょうか。

 問題の中で主を賛美するのは、決して容易いことではありませんが、だからこそ賛美する。私たちの心の中で主を拡大するということが、問題に打ちひしがれるような状況だからこそ、必要ということだと思います。そして、主なる神は、イスラエルの賛美を住まいとされるお方です(詩編22編4節)。私たちが賛美するとき、そこを主の聖所とされるのです。

 今、私たちを取り囲んでいる現実がどのようであっても、それがどのように見えているとしても、必ず妨げるものを追い出し、きっと約束のものを受け取ることが出来ます。絶えず神の愛と恵みのうちを歩むことが出来るのです。

 主イエスを信じ、賛美と祈りをもって進んで参りましょう。神は必ず乗り越えさせてくださいます。自分の力では出来ないことでも、神には出来ます。神は何でもお出来になる方です(マルコ福音書10章27節)。そして、私たちに思いを起こさせ、それを実現に至らせてくださるお方です(フィリピ書2章13節)。主を信じ、御言葉を信じましょう。

 主よ、あなたはカナン人を追い出せと命じられました。だから、ヨシュアは、きっと追い出すことが出来ると信じました。主が語られる言葉を聴き、その御言葉は実現すると信じることが出来る人は幸いです。私たちにもその幸いに与ることが出来るように、主の御言葉を聞く耳、主の御業を見る目、主の御心を悟る心を与えて下さい。 アーメン


10月30日(木) ヨシュア記16章

「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。」 ヨシュア記16章10節

 16~17章には、ヨセフの一族に割り当てられた領土について記されています。ヨセフには、マナセとエフライムという二人の子があり、それぞれ部族の長となりました。ヨセフ族が分かれて二つの部族となったということです。別の見方をすれば、ヨセフは他の兄弟の2倍の嗣業の地を受けることになったわけで、そのことにおいて、イスラエルの長子としての権利を所持していたということになります(申命記21章15節以下)。

 イスラエルの子孫のうちで、レビ族は嗣業の土地をもらえませんでした(13章14節)。レビの代わりに、ヨセフの子らがそれぞれ、一部族となったので、合計12部族という数は保持された形です。

 また、シメオンはユダの地に17の町と周囲の村々を与えられただけでした(19章2節以下)。12分割された土地の三つ分を、ヨセフの子孫が獲得することになりました(マナセがヨルダン川の東西に一つずつ、エフライムにも一つ)。ヨセフの子孫がそのような恵みを受けたのも、ヤコブの祝福の祈りのゆえでしょう(創世記49章22~26節)。

 レビとシメオンが嗣業の地を得られなかったのは、やはりヤコブの祈りの中で、シメオンとレビに関して、「彼らの剣は暴力の道具」といい(同49章5節)、「呪われよ、・・わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」(7節)と言われていたからでしょう。 

 また、弟エフライムが兄マナセよりも先に嗣業の土地を受けています。イスラエルでは、長男に父親の資産を受け継ぐ大きな特権がありますが、ヤコブはヨセフの二人の子どもを祝福するとき、弟エフライムを先立てて祝福していたのです(創世記48章)。

 モーセの後継者としてイスラエルの指導者となったヌンの子ヨシュアは、ヤコブによって祝福されたヨセフの子、エフライム族の出身でした。特別に祝福を受けた部族から指導者ヨシュアが出たというのは、記憶すべきことです。主の祝福を受けた者は、主のため人のために働くのです。

 冒頭の言葉(10節)に、「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている」とあります。何故、イスラエルの民は、ゲゼルに住むカナン人を追い出し、滅ぼしてしまうことが出来なかったのでしょうか。それは、カナン人が強かったからです。自分たちよりもカナン人の方が強かったので、追い出すことが出来ませんでした。

 17章16節に、「カナン人は、皆、鉄の戦車を持っています」とあります。当時、ペリシテ人が製鉄技術を独占していました。王国時代になっても、イスラエルには鍛冶屋はなく、鋤や鍬などを研いでもらうために、ペリシテ人のところに行かなければなりませんでした。だから、鉄の武器を手にしていたのは、サウル王とその子ヨナタンだけという状況だったのです(サムエル記上13章19節以下)。

 約束の地に入ったばかりのイスラエルには、鉄の道具は全くなかったといってよいでしょう。そのような状況では、武装しているカナン人と戦うことは出来ません。特に戦車がその威力を発揮する平地において、強い敵に立ち向うことは出来なかったわけです。

 そのことについて、私たちの信仰と悪しき力との関係で考えてみましょう。私たちは本来、神の子どもとして、神により、神のかたちに創られました。ところが、罪によって神との関係が絶たれ、罪の支配、悪の霊の支配を受けるようになりました。

 しかるに、主イエスは、私たちを罪の力、悪しき霊の支配から解放し、救うために、私たちの罪を御自分の身に負われ、十字架にかかって死んで下さいました。のみならず、三日目に復活されました。罪と死の力に完全に勝利されたのです。

 主は完全に勝利され、私たちの心の王座にお着きになったのですが、私たちの内に先住権を持っていた罪の力、悪しき霊の力が再度復権しようとして、様々な戦いを挑んで来ます。この戦いに決着をつけなければなりません。

 偉大な伝道者パウロが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章24節)と言っています。自分のしたいと思っていることは出来ず、したくないと思うことをしてしまう、罪の支配を受け、そのとりこになっていると言います。それを、自分ではどうすることも出来ないのです。だから、誰が救ってくれるのかと問うているのです。

 しかし、パウロは自分を救って下さる方を見出しました。同25節に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言います。即ち、主イエスが救って下さるのです。私たちは、主イエスの憐れみによって、完全な救いを得ることが出来ます。

 信仰は確かに戦いです。自分たちの現実の生活の中には、困難があります。でも、相手がどんなに強くても、私たちと共に戦って下さるお方がどんなに強いお方であるかが分かれば、勇気百倍です。私たちの神は、万軍の主、戦いに勇ましい主と呼ばれるお方なのです。

 すべてを天地万物を創造された主なる神の御手に委ね、私たちを愛し、救ってくださる主に信頼する信仰に立ちましょう。御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちは土の器に過ぎません。叩けば壊れ、落とせば割れてしまいます。しかし、私たちの内に主イエスがおられます。主イエスは、天と地の一切の権能を持っておられます。それが私たちの喜びです。平安です。希望です。私たちの内を聖霊で満たし、悪しき霊の働きを完全に追放して下さい。 アーメン




10月29日(水) ヨシュア記15章

「彼女は言った。『お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください』。彼は上と下の溜池を娘に与えた。」 ヨシュア記15章19節

 15章には、ユダ族に与えられた地の範囲が記されています。それは、ヨルダン川が死海に注ぎ込む河口から西に地中海まで線を引き、その線の南方、死海と地中海に挟まれた地域が、ユダの嗣業の地です。南部は雨の少ない山地で、農耕にはあまり適しませんが、面積では、カナンの地の三分の一以上の大きさがあります。

 父祖ヤコブの4男ユダが活躍する場面はあまりありませんが、ルベンと共に、ヨセフの命を守ったことや(創世記37章21節以下)、ヨセフの弟ベニヤミンの命を請け負い(同43章8節以下)、ベニヤミンの身代わりになると訴えたことなどあり(同44章18節以下)、ルベンの姦淫や(同35章22節)、シメオンとレビのシケムでの蛮行のゆえに(同34章)、ヤコブの覚え宜しく(同49章)、最も重要な部族となったと考えてよいのでしょう。

 13節に、ヨシュアがカレブにヘブロンを割り当て地として与えたことが記されています(14章13節も参照)。ヘブロンは、もとは「キルヤト・アルバ」と呼ばれていました(13節、14章15節)。これは、アナクの偉大な人物アルバに由来する名前(「アルバの町」の意)です。ヘブロンは、海抜1000mの丘陵地で、泉が多くあり、斜面はぶどうの名産地になっているそうです。

 アブラハムの時代は、ヘブロンにヘト人が住んでいて、妻サラを葬るために、ヘト人エフロンの畑と洞穴を墓地として購入したことが、創世記23章に記されていました。その後、この墓地には、アブラハム(同25章9,10節)、その子イサク(同35章節以下)と妻リベカ(同49章31節)、その子ヤコブ(同50章13節)と妻レア(同49章31節)が葬られました。

 カレブは、ヘブロンからアナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイという3氏族を追い出し(14節)、次いで、デビルの町を攻めました(15節)。それを自分が攻め落とすというのではなく、攻め落とすことが出来た者に、自分の娘を妻として与えると約束します(16節)。すると、カレブの兄弟オトニエルが名乗りを上げ、町の占領を成し遂げました。そこで、カレブは娘アクサを妻として与えました(17節)。

 アクサは夫となるオトニエルに、父から畑をもらえと言い、アクサ自身はカレブに、冒頭の言葉(19節)の通り、溜池も添えてくれと願います。前述のとおり、イスラエル南部ネゲブの地はあまり耕作に適さない荒れ野ですから、水の確保は欠かせません。カレブはその求めに、「上と下の溜池を娘に与えた」と記されています。

 アクサは、父が娘夫婦の求めに必ず応えると信じていたのでしょう。パウロは、「わたしの神は、御自分の栄光の冨に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たして下さいます」(フィリピ4章19節)と言いました。神は豊かなお方で、その豊かさに従って私たちに必要なものを豊かに満たして下さるお方だと、教えてくれます。

 二つの池といえば、イスラエルの大きな湖のガリラヤ湖と死海を思い出します。ガリラヤ湖には多種多様な魚が群れており、ここで漁れた魚の一部は海外に輸出されるほどだそうです。ところが、ヨルダン川下流の死海には、魚が一匹もいません。塩分濃度が高く、生物がとても生息出来ないのです。

 ガリラヤ湖の水は、水源地フィリポ・カイザリヤから上ヨルダン川を通して流れ込んで来ます。そして、下ヨルダン川を通じて、死海に向かって流れ出して行きます。ところが、死海は海面下-396mで、その水は蒸発する以外、どこにも流れ出ていきませんので、塩分が濃縮してしまうのです。恵みを受けるだけで、与えることをしなければ、その恵みは死んでしまい、無駄になるということを、見えるかたちで教えているようです。

 新約聖書ヨハネ福音書には、二つの泉の記述があります。ひとつは4章14節で、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と記されています。これは、主イエスを信じる者の内に、永遠の命に至る水が湧き出る泉ということで、主イエスとの交わりによって豊かに活かされるという表現と見ることが出来ます。

 今ひとつは7章38節の、「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という言葉です。その人の内か生きた水が泉となって湧き上がり、流れ出て川となるというのは、それは霊のことを指していると、39節に注記されています。

 つまり、霊の働きは、その人を泉として命の水が川となって流れ出るようにさせることだというわけです。しかも、「川(ポタモイ=rivers)」は複数形です。幾筋もの川となって流れ出していくということで、それは何という豊かな泉、川の流れでしょうか。

 使徒言行録1章8節に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」とあるのはそのことです。即ち、主イエスとの交わりによって生かされている人には聖霊の恵みが与えられ、それは、他の人を生かす働きをする者となるということです。
 
 神の恵みを豊かに受けて、それを他の人のために用いる人は、さらに豊かに与えられるでしょう。恵みを私するなら、それは腐って役に立たなくなってしまうでしょう。信仰によって二つの泉を持ち、常に主の御業に励む者とならせて頂きましょう。

 主よ、主イエスの贖いによって罪赦され、神の子とされ、永遠の命が授けられました。今、私たちの内には聖霊が宿り、御言葉の真理を教え、主の証人となる力を授けて下さいます。主との日毎の交わりが豊かにされ、力を受けて主の御用をまっとうすることが出来ますように。 アーメン
 



10月28日(火) ヨシュア記14章

「今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります。」 ヨシュア記14章10,11節

 ヨルダン川の西側、カナンの土地で、嗣業の地の分配が始まりました。祭司エルアザルとモーセの後継者ヌンの子ヨシュアが分配の責任者で(1節)、9つ半の部族のために「くじ」を用います(2節)。祭司の持つウリムとトンミムが用いられたのかも知れませんね。そしてそれは、嗣業の地の割り当てが人の思いではなく、神の御心によるものであるということを示してます。
 
 既にルベン族とガド族、そしてマナセ族の半分は、ヨルダン川の東側に嗣業の地を得ていました(13章)。また、レビ族には、割り当ての地を与えません(3節)。代わりに、ヨセフ族の子孫がマナセ族とエフライム族の二つの部族となって、割り当て地を得ました(4節)。他の部族の2倍の嗣業を得るということは、この時点で、ヨセフがイスラエル12部族の長男としての地位を得ているということになります(申命記21章17節参照)。
 
 ただ、最初に分配を受けるのは、ユダ族です(15章1節以下)。それに先立って、「ケナズ人エフネの子カレブ」が、ギルガルのヨシュアのもとにやって来ます(6節)。それは、ヘブロンを嗣業の地として受けるためでした(12,13節)。

 「ケナズ人」は、エサウの孫ケナズの子孫ということですが(創世記36章10,11節)、民数記13章6節では、「ユダ族では、エフネの子カレブ」とされています。ケナズ人エフネが、彼の世代でユダ族に加わることになり、その子カレブは、ユダ族の一員として、その代表になったことがあると言ったらよいのでしょう。

 エソウの子孫と言えばエドム人、即ち異邦人ですから、そんなケナズ人の子孫がイスラエルの一部族の代表となれたというのは、カレブが示した主なる神への絶対的な信頼、主の御心を行う熱心さと無縁ではないのでしょう。カレブは、ヘブロンを受け取る根拠として、モーセの約束カデシュ・バルネアから斥候として遣わされた時のことを持ち出しました(6節以下、9節)。

 カレブは、先に記したとおり、ユダ族の代表として、約束の地を偵察する斥候の一人になりました(民数記13章4節以下、6節)。斥候に行った12人のうち10人は先住民を恐れ、約束の地に入れないという報告をして民の心を挫きましたが、カレブとヨシュアは主に信頼して、必ず勝てるので上って行こうと進言しました(民数記13章30節、14章6~9節)。
 
 その信仰を喜ばれた主が、モーセを通して祝福され、「あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる」と約束されました(9節、申命記1章36節)。
 
 次いで、冒頭の言葉(10,11節)の通り、カレブは自分の健康状態を持ち出します。彼が斥候となったのは40歳のときでした(7節)。それから45年が経過して、主の約束どおり、ヨシュアとカレブは約束の地を踏むことが出来ました(10節)。85歳となった今も健やかで、45年前と同様に、戦争でも日常の務めでもすることが出来ると語ります(11節)。
 
 カレブが要求したのは、ヘブロンの町のある「ユダの山地」ですが、「そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があります」(12節)。これは、10人の斥候が、約束の地には上って行けないと語っていた理由です(民数記13章28節)。けれども、カレブは、「断然上って行くべきです。」と言いました(同30節)。他の斥候たちはアナク人の強大さを見ましたが、ヨシュアとカレブは、神の強大さを見ていたのです。
 
 だからこそ、「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう」と言い(同14章8節)、「彼らは我々の餌食に過ぎない。彼らを守る者は離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(同9節)と語ることが出来たのです。
 
 ということは、カレブが元気だからヘブロンを取ることが出来るというのではなく、「主が共にいてくださるなら」、主がアナク人を餌食として下さるので、町を取ることが出来るわけです。その信仰が、45年前から今日に至るまで変わらず、否、主が共にいてカレブを支えて下さったので、主への信仰はいよいよ熱く燃え上がっていたことでしょう。

 ヨシュアはカレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の地としてカレブに与えました(13節)。そして14節に、「ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている」と記されています。ということは、カレブは先住民を追い払うことに成功したので、その子孫がヘブロンの嗣業の地に住み続けているわけです。
 
 私たちもカレブのように、インマヌエルと唱えられる主イエスと共に歩み、「今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。信仰に入ったあのころも今も変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります」と語る信仰を得させていただきたと思います。となれば、私もあと27年、元気で主にお仕えすることが出来るわけですが、それは勿論、私の能力や健康のゆえなどではありません。ただ、神の深い憐れみに依ることです。
 
 主の恵みと導きを祈りつつ、日々御言葉に従って歩みたいと思います。

 主よ、御名をほめたたえます。絶えず新しい恵みをもって私たちを楽しませ、また、守り導いて下さるからです。いつも御顔を拝し、御言葉に耳を傾けます。御言葉は私たちを真理に導き、真理は私たちを自由にします。恐れや不安が除かれ、平安と希望が与えられます。御名が崇められますように。 アーメン



10月27日(月) ヨシュア記13章

「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。」 ヨシュア記13章6節

 11章23節に、「ヨシュアはこうして、この地方全域を獲得し、すべて主がモーセに仰せになったとおりになった」と記されていましたが、13章1節では、主がヨシュアに、「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」と告げられます。これは互いに矛盾しており、理解に苦しむところです。資料を並べる順序が入れ替わってしまったのでしょうか。

 2節以下に、残っている土地として示されているのが、「ペリシテ人の全地域」(2節)、「エジプトの東境のシホル」(3節)、「ヘルモン山のふもとバアル・ガドからレボ・ハマトに至るレバノン山東部全域」(5節)などですが、これらは、イスラエル周辺地域のことを指しているようです。ということは、確かに、ヨシュアは約束の地の大半を獲得したのかもしれません。しかし、まだ完全なものではないと言われているのです。

 かつて、主がアブラハムと契約を結び、「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」と言われました(創世記15章18節)。これは、イスラエルの国力が最大となったソロモン王の時代でも、文字通りに実現してはいません。その意味でいえば、「占領すべき土地はまだたくさん残っている」という1節の言葉は、ヨシュアだけでなく、あらゆる時代の指導者たちにも当てはまるわけです。

 これを霊的に考えてみましょう。私たちは主イエスを信じ、心に、生活の中に主を迎え、御言葉に従う生活を始めました。ときの経過と共に、あらゆる面において、主に聴き従う生活が出来るようになり、まだ不十分だと言和ざるを得ないようなところなどはもうない、完全な者となったと言えるようになれたでしょうか。

 私自身、1968年のクリスマスに主イエスを信じる信仰を公に表明してクリスチャンとなってから、既に45年余りが経過しました。けれども、主のために新たに占領しなければならない部分など、もはや残っていないなどとは、およそ口が裂けても言える状況ではありません。むしろ、今なお主のために、占領すべき土地はまだたくさん残っていると言わなければならない体たらくです。

 主なる神はヨシュアに、冒頭の言葉(6節)のとおり、「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う」と言われました。ここで、「追い払う」という言葉は、1節の、「占領すべき」と言われた言葉と、形態は異なりますが(ヒフィル形とカル形)、同じ「ヤーラシュ」という動詞が用いられています。

 同じ言葉の裏と表と言いますか、主なる神が先住民を追い払い、イスラエルの民が彼らの地を占領するということで、神がお与えになったものを、そのまま受け止めよということでしょう。

 主は続けて、「あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい」と語られました。取るべき多くの地から、そこに住む民を皆追い払うのは主ご自身で、ヨシュアの仕事は、主が彼らに獲得させたそれらの土地を分配することです。

 土地の分配は、どのようにして行なわれるのでしょうか。15章以下を読めば分かりますが、くじで土地を割り当てるのです。「分けなさい」というのはナーファルという言葉で、これは、「落ちる、倒れる」という意味です。祭司は神託を受けるためにウリムとトンミムというくじを投げ、その落ち方、倒れ方で神意を読み取ります。ということは、土地の分配も、神の御心に従って決定するわけです。新改訳は、「くじで分けよ」と訳しています。

 土地が分けられて、各部族の嗣業の地となり、そして、土地の実りを産み出します。創世記2章15節に、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」という言葉があります。主は、イスラエルの民をエジプトの地から導き出し、約束の地に連れて来てそこに住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。ということは、ユダヤ人にとって、約束の地は、当にエデンの園だったのではないでしょうか。

 私たちが自分の知恵や力で、主の御前に相応しくないものをすべて追い払い、御心に適うように整えることは不可能と言わざるを得ません。自分で自分に死ぬことなど出来ません。私たちが心に思うことは、幼いときから悪いと、主が仰ったとおりだからです(創世記21節参照)。ただ主の御言葉を聴き、御言葉どおりになることを主に祈り、私たちの内から主の御前に相応しくないものを追い払ってくださるよう願うほかありません。

 主の語られた御言葉は生きていて力があり(ヘブライ書4章12節)、主の望まれることを成し遂げ、主がお与えになった使命を必ず果たします(イザヤ書55章11節)。

 日々主を仰ぎ、御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従って一歩ずつ歩ませていただきましょう。

 主よ、人の心には様々な計画、思いがありますが、ただ主の御旨だけが堅く立ちます。御心がこの地になされますように。御国が来ますように。御業のために、私たちが用いられる器となれますように。そして、主の御名が崇められますように。 アーメン



特別伝道礼拝

去る10月26日(日)、静岡キリスト教会で特別伝道礼拝を行いました。
地域の方々に原田牧師の着任を知らせつつ、福音を届けるということで、講師はわたしです。
日頃、24,5名の礼拝ですが、当日は38名の方々が出席してくださいました。
初めてお会いする方、直ぐ近くにお住まいの方なども見えられて、感謝でした。


10月26日(日) ヨシュア記12章

「ヨシュアの率いるイスラエルの人々がヨルダン川のこちら側、すなわち西側で征服した国の王は次のとおりである。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドからセイル途上にあるハラク山に至る地域をイスラエル各部族にその配分に従って領地として与えた。」 ヨシュア記12章7節

 12章には、イスラエルが征服した王たちのリストが記されています。1節から6節まで、モーセに率いられていたとき、ヨルダン川の東側で征服した二人の王について、7節以下は、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡ってから、その西側で征服した町の王31名について報告されます。
 
 6章からの記事で、それらの町がどのように征服されたのか物語られていますが、11章18節の、「ヨシュアとこれらすべての王たちとの戦いは長い年月にわたり」という言葉は、10章、11章に記されている戦いがそれぞれ一両日程度で終結したかのような印象を持つだけに、多少意外な感じがします。しかしながら、恐らく、「長い年月にわたり」というのが正確な描写でしょう。
 
 10章42節に、「ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである」と記されていますが、一度の出撃ですべての地域を占領出来たとか、戦闘は一日で終結したということを意味するのではない。たとえば、一度の出撃で一つの町を落とした。その戦いには、何ヶ月も要することがあったという具合に考えた方がよいでしょう。
 
 また、征服といっても、町全体が滅ぼされ、焼き払われたアイの町のようなところもあれば(8章1節以下)、王が殺されただけで、町が攻められたという記述もないエルサレムの町のようなところもあります(10章23節以下)。実際、エルサレムは、ダビデが占領するまで、エブス人が町を支配していました(サムエル記下5章6,7節)。つまり、全土を完全に占領するまでには、さらに年月がかかったということになります。
 
 冒頭の言葉(7節)に、ヨシュアが征服した地域が、「レバノンの谷にあるバアル・ガドからセイル途上にあるハラク山に至る地域」と語られています。バアル・ガドはダンの北18km、ヘルモン山の麓というイスラエルの北限です。バアル・ガドとは、「幸運の主」という意味で、ガドという異教の神が礼拝されていたところでした。

 一方、「セイルの途上にあるハラク山」ですが、セイルは「毛深い」という意味で、ヤコブの兄エソウとその子孫、の居住地となりました(創世記32章4節)。エソウとの関連で、「赤い」という意味のエドムと呼ばれることもあります(同25章30節)。ハラク山は、「裸の山」という意味です。草木の生えていない赤土の山なのでしょうか。これは、ベエル・シェバの南方42kmに位置する山で、ヨシュアが占領したカナンの地の南限を指します。
 
 バアル・ガドからハラク山までというのは、「ダンからベエル・シェバまで」(サムエル記上3章20節、サムエル記下3章10節など)と同様の表現で、それを南北にもう少し広くした言い方です。この地域に、イスラエルに征服された31の町があったわけです。

 山地もあれば低地(シェフェラ)もあり、水辺もあれば荒れ野もあり、堅固な町もあれば、そうでもないところもあったでしょう。それこそ、あっけなく落ちた町もあれば、陥落させるのに長い月日を必要とした町もあったと思われます。
 
 いずれにせよ、この地を各部族の領地として分配するために、31の町を征服しなければならなかったのです。そして、イスラエルが主に聴き従うとき、主はイスラエルと共にいて、イスラエルのために主ご自身が戦ってくださり(10章14節)、それを征服することが出来ました(10章14節、11章15,20,23節)。
 
 私たちが置かれている状況も、様々です。日々困難をおぼえつつ闘っておられる方もあります。その困難がいつまで続くのかと、途方に暮れるような思いになることもあるでしょう。そのような方を慰め、励ますことも、これまた容易なことではありません。ただ、私たちと共におられる神は、万事を益として下さるお方です。
 
 スキーのジャンプ競技は、逆風を受けた選手が一番高く遠くまで跳ぶことが出来ます。飛行機は、向かい風に向かって飛び立つのです。私たちに吹き付けてくる逆風を神の息吹と受け止め、主を信頼して信仰の翼を広げるなら、イザヤ書40章31節に語られるごとく、いつしか私たちは、鷲のように翼を張り、上昇気流に乗って空高く舞い上がることでしょう。
 
 主を信頼し、御言葉に耳を傾けつつその導きに従って進むなら、いつの間にか悲しみが喜びに、苦しみが楽しみに、不安が平安に、呻きの祈りが感謝の賛美に変えられることでしょう。絶えず主を見上げ、日々主の御言葉に耳を傾け、聖霊の導きによって常に祈りましょう。主に信頼して、歩み続けましょう。

 主よ、私たちの心を探って下さい。私たちのうちから、御前に相応しくないものを取り除いて下さい。主に従って実を結ぶ歩み、働きをすることが出来ますように。御言葉の内に留まらせて下さい。御霊に満たされ、その力に与ることが出来ますように アーメン


10月25日(土) ヨシュア記11章

「ヨシュアは、彼らに対して主の告げたとおりにし、馬の足の筋を切り、戦車を焼き払った。」 ヨシュア記11章9節

 ハツォルの王ヤビンは、イスラエル軍がエリコやアイの町を滅ぼした後(6,8章)、エルサレムの王らアモリ人の王たちの連合軍を打ち破り(10章1節以下)、カデシュ・バルネアからギブオンまでパレスティナ南部を征服したこと(同41節)などを聞きました(1節)。そこで、パレスティナ北部の町の王たちに使いを送り、連合してイスラエルと戦おうと呼びかけます。この書き出しは、10章1節とよく似ています。
 
 ハツォルは、ガリラヤ湖の北方約10kmのところにある町で、エジプトと小アジアやメソポタミアを結ぶ隊商路が通っており、早くから栄えていました(10節参照)。後にソロモンが、北方面の守りの拠点として、この町を軍事要塞化します(列王記上9章15節以下)。マドン以下の町や地域は、場所が特定出来ないところが多いですが、ガリラヤ地方一帯を指していると考えられます(1,2節)。

 ヤビンの呼びかけに、「東西両カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモン山のふもと、ミツパの地に住むヒビ人」(3節)たちがメロムの水場に集まり、イスラエルと戦うために連合軍を組織しました(5節)。その兵の数は、「浜辺の砂の粒ほどの大軍」(4節)と言われ、「軍馬も戦車も非常に多かった」そうです。

  20節に、「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた」とあります。「心をかたくなにして」は、「心を強くして、勇気づけて」という言葉で、1章6節などでヨシュアに、「強くあれ」(ハーザク)と繰り返し励ましを与えた言葉です。神が王たちを勇猛果敢にし、戦車などの近代兵器で武装した大軍をもってイスラエルに立ち向かわせたというのです。 
 
 ところが、今回も主がヨシュアに、「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる」(6節)と言われました。そこで、ヨシュアはイスラエル全軍を率いて、メロムの水場を急襲し(7節)、これを撃って、全滅させました(8節)。

 主は戦いに際して、「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え」(6節)と命じられ、冒頭の言葉(9節)のとおり、ヨシュアは主の命令に従って、「馬の足の筋を切り、戦車を焼き払」います。馬や戦車は、開けた場所での戦闘に威力を発揮します。奇襲をもって馬の足の筋を切り、戦車を焼き払うことで、連合軍の近代兵器を無力化する作戦だったといえます。

 一方、イスラエルにとって、戦いを少しでも有利に進めるために、彼らの馬や戦車を手に入れることは、願ってもないことではなかったかと思います。しかし、主なる神は、それを禁じられました。

 申命記17章14節以下の「王に関する規定」でも、「王は馬を増やしてはならない」(同16節)と命じられています。これは、イスラエルの民が、王の勇猛さ、兵の勇敢さ、武器の種類や兵の数などに頼るのではなく、どんな時にも主なる神に信頼すること、主の命令に従うことが求められているわけです。

 そのことは、戦いの中で明らかになります。多くの軍馬、戦車を持ち、数え切れないほどの大軍であっても、主を信じ、御言葉に従って進軍するイスラエルの敵ではありませんでした。軍馬も戦車も、神の手を逃れることは出来なかったのです。御言葉に背いて馬と戦車を手に入れても、神を敵にまわすならば、それは何の助けにもなりません。だからこそ、ヨシュアは主の告げたとおりにしているわけです。

 主なる神は、ヨシュアが御言葉に素直に聴き従っているのを見られ(9,15節)、その態度を喜ばれたことでしょう。だから、主ご自身がイスラエルのために戦われ、かくて、カナンの地南部に続いて、北方の地からも、先住の民を滅ぼされたのです。神が連合軍の王の心を強くしたのは、徹底的に彼らを打ち破らせるためだったわけです。

 それを思うとき、誰よりも豊かな知恵と賢明な心が授けられたはずのソロモン王が(列王記上3章12節)、戦車用の馬の厩舎4万に騎兵1万2千(同5章6節)、戦車千四百を有し(同10章26節)、さらにエジプトとクエから馬を輸入しています(同28節)。まさにそれは絶大な冨と権力を象徴するものですが、そこに、ソロモンの驕りを見ることが出来ます。

 「馬を増やしてはならない」という命令のあることを知らないソロモンではなかったと思いますが、しかし、それに耳を傾けようとしなかったからです。そして、御言葉に対する不服従は、それだけではありませんでした。そのため、国は傾き始め、彼の死後、南北に分裂し(同11章11節以下、30,31節、12章)、やがて、滅びを刈り取ることになってしまいました。

 私たちは、キリストの贖いを通して救いに与った者として、常に主を仰ぎ、絶えずその御言葉に聴き従い、感謝と喜びをもって日々歩みましょう。

 主よ、あなたは心を尽くして御前を歩む私たちに豊かに慈しみを注がれ、御口をもって約束されたことを、御手をもって成し遂げて下さいます。どうか私たちが、あなたの御言葉からそれて、右にも左にも曲がることがありませんように。正道をまっすぐに歩ませて下さい。 アーメン


10月24日(金) ヨシュア記10章

「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」 ヨシュア記10章8節

 エルサレムの王アドニ・ツェデクは、イスラエルがエリコ、アイを滅ぼし、ギブオンと和を講じたことを知り(1節)、他のアモリ人の4人の王に人を遣わして(3節)、一緒にギブオンを攻めようと提案します(4節)。すると、彼らはすぐに意気投合し、連合軍を組織してギブオンに攻め上ります(5節)。

 ギルガルに宿営しているイスラエル軍が、エリコ、アイを破り、ギブオンと連合することで、イスラエルが南北に分断されつつあり、このまま放置すると、各個撃破されてしまうだろうと恐れたのでしょう。そこで先ず、これまで隣人であって、今や敵となったギブオンから攻略しようということになったわけです。今回の連合軍は、分断されるイスラエルの南方のアモリ人の町の軍隊です。

 戦いを仕掛けられたギブオンは、ギルガルにいたヨシュアに援軍の要請をします(6節)。援軍の要請を受けたヨシュアは、全兵士を率いて出陣しました(7節)。彼らは、夜通し行軍してギブオンにいた5王連合軍に襲い掛かり、大打撃を与えました(9,10節)。さらに、敗走する連合軍を追撃し、わずかの敗残兵を除き、全滅させることが出来ました(20節)。5人の王は捕えられ、殺されて木にかけられました(17,23,26節)。

 それは、主ご自身が戦って下さっての勝利というべきでしょう。冒頭の言葉(8節)に、「彼らを恐れてらない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」とあります。特にヨシュアが主の託宣を求めたという記事もありませんので、主の方から、イスラエルの勝利を約束されたかたちです。エリコ攻略の際、主の軍の将軍が登場して、策を授けてくださった時も、同様でした。

 それは、これらの戦いが主の手の中にあり、その勝利の鍵をヨシュアに授けられるということ、ゆえに、主を信頼することを求めておられ、その勝利を通して、カナンの地をイスラエルに与えるという約束を、主自ら実行しておられるということを、表しているのでしょう。

 イスラエル軍が夜を徹して行軍し、アモリ人連合軍を急襲したとき(9節)、「主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので」(10節)、夜の闇もイスラエルに味方して、それこそ戦いにならなかったのです。その上、敗走する兵士たちに向かって、天から雹が降りました(11節)。イスラエル軍が剣で殺したよりも多くの兵士が、雹に打たれて死にました。

 雹について、はじめは「大石」と表現しています。あとで「雹」と訳されているのも、正確には、「雹の石」という言葉遣いになっています(新改訳、岩波訳など参照)。それは、雹が主の戦いの武器(石投げ)であるということを示そうとしているのではないでしょうか。雹がアモリ人兵士だけを正確に襲い、イスラエル兵に犠牲が出なかったというのであれば(21節からの類推)、それはおよそ自然現象などではありません。

 さらに、ヨシュアが「日よ、とどまれ、ギブオンの上に、月よ、とどまれ、アヤロンの谷に」というと(12節)、まる一日、日も月も動かなかったという(13節)、考えられない記述が続きます。日や月が動かなかったということは、地球の自転がを停止したということでしょう。自転を停止した地球が、一日後に再び自転し始めるなどということは、科学的には、到底あり得ない現象です。

 ここに言い表されているのは、神が自然に働きかけて、日も月もイスラエルが勝利を収めるのに協力した、雹を石投げの石として、正確にアモリ人を打ち倒した、などなど、神があらゆるものを動員して、イスラエルに圧倒的な勝利を収めさせてくださったということです。

 特に、アモリ人らが太陽や月を神として拝む偶像礼拝を行っていたし、その後、イスラエルの民も、そのような偶像礼拝に巻き込まれて行ったので、日や月が動きをとめるようにというヨシュアの宣言、そして、主なる神がご自身への訴えと受け止めて、日と月の動きをとどめられたことを記して、主なる神の権威と力をイスラエルの民に示したものといってよいと思います。 

 14節に、「主がこのように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった」と言われており、これが特別な出来事だったということを強調しています。それを、「主はイスラエルのために戦われたのである」と記して、「わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」(8節)と仰ったことを、主が自ら戦って実現して下さったと、あらためて感謝の意を込めて言い表しているのです。

 使徒パウロが、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言っています(ローマ書8章31,32節)。私たちが今置かれている状況がどのようであれ、神は主イエスを信じる私たちに味方して下さいます。

 また、ご自分の栄光の冨に応じて、私たちに必要なものすべて満たして下さいます(フィリピ書4章19節)。さらに、万事が益となるように共に働いて下さるのです(ローマ書8章28節)。万事を益とされる主を信じ、暗闇も、雹も、そして太陽や月さえも用いられる主の御前に謙りましょう。主の御心が行われることを求め、その御業のために用いていただきましょう。

 主よ、あなたが御心に留めて下さるとは、なんという幸いでしょう。あなたに顧みられるとは、私たちは何者なのでしょうか。あなたこそ、私の岩、私の支え。私の砦、私の逃れ場、私の盾、避け所です。絶えず新しい歌をもってあなたを褒め歌います。御業のために用いて下さい。豊かな実りを得ることが出来ますように。 アーメン





10月23日(木) ヨシュア記9章

「ご覧ください。わたしたちは今はあなたの手の中にあります。あなたがよいと見なし、正しいと見なされることをなさってください。」 ヨシュア記9章25節 

 エリコとアイの町がイスラエルによって滅ぼされたというニュースが、「ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ(「低地」の意。口語訳、新改訳参照)、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方に住むヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たち」に伝わり(1節)、彼らは集結してイスラエルと戦うことで一致しました(2節)。

 ところが、ギブオンの町に住む民は、主なる神がこの地をイスラエルにお与えになり、この地の住民をすべて滅ぼせと命じておられることを知り(申命記7章1,2節、ヨシュア記3章10節など)、そして、エリコの町、アイの町になしたことを聞いて(3節)、それに恐れを抱いたギブオンの住民は、賢く立ちまわり、一計を案じて生き残りを計ったのです(4節以下)。

 彼らは、一日でつけるような距離を、あたかも長い月日がかかったように見せかけるため、使い古しのぶどう酒の皮袋をろばに負わせ(4節)、古靴に着古した外套をまとい、干からびたパンを携えて(5節)、ギルガルにヨシュアを訪ねました。それは、イスラエルと協定を結ぶためです(6節)。

 イスラエルはうっかり策略に乗せられ、ギブオンの住民と協定を結んでしまいます(14,15節)。しかし、直にギブオンがアイやベテルからほど近くにある町であることが分かります。22~26節は、騙されたことを知ったヨシュアとギブオンの住民とのやりとりの場面です。

 特に、冒頭の言葉(25節)で、「わたしたちは今はあなたの手の中にあります」というのは、どのようにでもしてくださいと完全に自分を明け渡し、相手のするままに委ねた言葉です。ここにギブオンの住民は、自分たちの運命をヨシュアに託したわけです。

 そもそも、ギブオンの住民は、追い払われる対象でした。7節に、ギルガルにやって来たギブオンの人々を、「ヒビ人」と言っていますが、ヒビ人は3章10節に記されている対象7民族の一つです。もし、ギブオンの住民が策略を用いてイスラエルと協定を結んでいなければ、彼らは滅ぼされるべき運命にあったのです(24節参照)。

 本来、人は神の形に似せて創られ、神と語らい、神のみ声を聞き、神がお与え下さるすべてのものを味わい、楽しみ、喜ぶことが出来る者でした。けれども、自ら神に逆らい、自分勝手に振る舞ってエデンの園を追放され、神の御顔を見ることも、御声を聞くことも出来なくなりました。そうして、苦労して生活し、罪の中に死ぬべき者となったのです。

 しかるに神は、イエス・キリストを通して、私たちと新しい協定、新しい契約を結び、交わりが回復され、永遠の命に与る道を開いて下さいました。イエス・キリストが契約のための贖いの代価を払って下さったのです。その贖いにより、滅ぼされる対象であった私たちが神の恵みを受け、永遠の命を受け継ぐ者と変えられたのです(エフェソ書2章1節以下参照)。

 先に記したとおり、ギブオンの住民は、自分たちの処遇をヨシュアに委ねました。エレミヤ書18章6節に、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」という御言葉があります。陶器師が土で思いのままに器を作り、また作り直すことが出来るように、イスラエルを思いのままにすることが出来ると、主が言われたのです。

 火の中に入れる前であれば、作り直せますが、一度熱を加えてしまえば、その後、再び直すことは出来ません。壊して捨てるほかはないのです。

 主イエスは、私たちを神の子とするために、神と等しい身分であることに固執しようとは思われないで、かえって自分を無にして、私たちと同じ人間になられました。全く謙り、死に至るまで、従順であられました(フィリピ書2章6~8節)。

 主イエスは、神の御旨のままに生きられましたが、それにも拘わらず、人からも神からも捨てられるという罪の呪いをその身に受けられました。私たちの代わりに捨てられてしまい、代わりに私たちが神の子とされたのです。

 主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マルコ15章34節)。常に神を「父」と呼んでおられた主イエスですが、その時、神は「父」と呼ぶことを、主イエスにお許しにはならなかった、既に、神に見捨てられていたのです。

 けれども、主イエスはそれでもなお、父なる神を信じ、一切を神の御手に委ねきっておられたのです。主イエスの十字架上での最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という言葉でした(ルカ23章46節)。ご自分を陰府に下らせ、律法の呪いを負わせる神を、最後にもう一度、「父」と呼んでおられます。

 こうして、ギブオンの住民はイスラエルの奴隷となり、柴を刈り、水を汲む者となりました。かつて、モーセは燃える柴を見、その中から語りかける神の御声を聞きました(出エジプト記3章)。そのように、柴を刈る者は、神の御声を聞く者となることが出来るということではないでしょうか。

 そしてまた、カナの婚礼において主イエスの命じられて水を汲んだ僕たちは、水がぶどう酒に変えられる奇跡を目の当たりにしました(ヨハネ福音書2章)。水を汲んだ僕たちだけが、主イエスの奇跡の御業の目撃者、体験者となったのです。そのように、水を汲む者は、主の御業を見る者となることが出来るということではないでしょうか。

 私たちも、主の僕としてその御声を聞き、御業を見ることが出来る者とされたのです。あらためて、私たちは神の子とされた者であることを確認し、自覚し、その恵みを無駄にすることなく、すべてを主に委ね、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で主イエスと共に歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたの御愛に感謝します。罪の中に死ぬべき者に目をとめ、深く憐れみ、義に生きるように御自分の独り子を犠牲にして、その命の代価で贖って下さいました。その恵みに感謝し、御言葉に耳を傾け、御旨に従って生きる者とならせて下さい。 アーメン 


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