「山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」 ヨシュア記17章18節
16章で、エフライムの人々がカナン人を追い出さなかったという御言葉から学びましたが、17章にも、「マナセの人々はこれらの町を占領できなかったので、カナン人はこの地域に住み続けた」(12節)という言葉があります。
彼らがカナン人を追い出せなかったのは、カナン人が強かったからでした。カナン人は皆、鉄の戦車を持っています(16節)。剣や槍など、鉄の武器を殆ど持たないユダヤ人が、鉄の戦車で武装しているカナン人と戦うのは、どだい無理な話と言わざるを得ません。
マナセとエフライムは、ヨルダン川の東部分も入れれば、イスラエル12部族の中で最も広い、3つの地域を嗣業の地として割り当てられています、。けれども、問題は、その広い場所のすべてを占有しているわけではない、ということです。
14節以下の議論を読むと、11章までにこの地方全域を獲得したと言われているにも拘らず(11章23節)、エフライム族やマナセ族の領地の中にカナン人が住んでいるところがあるというよりも、むしろ、未だカナン人の領地にイスラエルの民が侵入して、何とか自分たちの住む場所を確保することが出来るように頑張ろうというレベルのように見えます。
先ず、ヨセフの子らはヨシュアに、自分たちに割り当てられた土地は、主に祝福されてこんなに数多くの民となった私たちには狭すぎると言っています(14節)。神から豊かな恵み、祝福を頂いていても、自分の目で見ると、小さい、少ない、足りないというのです。
これでは、神の祝福が不満の材料になったかたちです。他の部族に分配したところを削って、それを自分たちに与えよというような要求には、当然応えられるはずがありません。だから、ヨシュアは、それならば森林地帯を開拓するがよいと答えました(15節)。
すると、私たちは数の多い民なので、山地だけでは足りない。そして、数は多いけれども、鉄の武器がないので、カナン人を追い出せないと言います(16節)。森林地帯などでは鉄の戦車は使えませんので、ある程度戦いになるのですが、開けた場所では、戦車の威力の前に、全く立ち向かうことが出来ないというわけです。
これでは、神の祝福が不満の材料になったかたちです。他の部族に分配したところを削って、それを自分たちに与えよというような要求には、当然応えられるはずがありません。だから、ヨシュアは、それならば森林地帯を開拓するがよいと答えました(15節)。
すると、私たちは数の多い民なので、山地だけでは足りない。そして、数は多いけれども、鉄の武器がないので、カナン人を追い出せないと言います(16節)。森林地帯などでは鉄の戦車は使えませんので、ある程度戦いになるのですが、開けた場所では、戦車の威力の前に、全く立ち向かうことが出来ないというわけです。
それを聞いたヨシュアは、冒頭の言葉(18節)のとおり、「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかも知れないが、きっと追い出すことができる」と断言します。鉄の武器なしでは戦えないというヨセフの子らに、きっとカナン人を追い出すことが出来ると告げるヨシュアの、その根拠は何なのでしょうか。
それは、神です。私たちの神です。神が私たちの側に、私たちと共におられるということです。天地万物を創られた神が、私たちの味方なのです。ヨシュアは、鉄の武器を頼りにしている相手より、神が味方について下さる自分たちの方が強いと考えているのです(民数記13章30節、14章9節、ローマ書8章31,37節)。
信仰は確かに戦いです。自分たちの現実の生活の中には、問題が色々あります。困難があります。問題が大きく、克服するのが困難に見えるとき、私たちは自分の無力を思い知らされます。そんなとき、神がとても小さい存在に思えてしまいます。
突然の突風で沈没しそうになっている船の中で、主イエスは枕して眠っておられましたが、弟子たちは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫んで起こしました(マルコ福音書4章38節)。弟子たちには、そのとき、主イエスが持っていた平安はありませんでした。主イエスが何もして下さらないことに対する不満と、沈没してしまうという恐れに満たされていたわけです。
弟子たちがその嵐の海の上で守られたのは、彼らの力、彼らの知恵、彼らの信仰のゆえなどではありません。嵐になって、主イエスを大声で呼び求めたということでもありません。主イエスが彼らと共にいてくださったからこそのことです。
信仰生活には戦いがあるということを自覚するなら、そのために備えるでしょう。心構えが違って来るでしょう。そして、相手がどんなに強くても、私たちと共にいてくださるお方の強さが分かれば、勇気百倍でしょう。主イエスは、インマヌエルと唱えられるお方、どんなときにも共にいてくださるお方です。
もしも、共におられる主イエスの姿を見失ってしまったら、どうしましょう。問題が大きくて、主が見えなくなったらどうしましょう。そんなときは、賛美するのです。
マリアが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌っています(ルカ福音書1章46,47節)。これは、マリアの賛歌の冒頭の句です。ここで、「あがめる」というのは、「メガルノー」というギリシア語で、拡大する、長くするという意味の言葉です。主を崇めるとは、主を拡大するという言葉遣いです。賛美で心が満たされる、主への賛美、主への感謝が心に満ち溢れるという感じでしょうか。
問題の中で主を賛美するのは、決して容易いことではありませんが、だからこそ賛美する。私たちの心の中で主を拡大するということが、問題に打ちひしがれるような状況だからこそ、必要ということだと思います。そして、主なる神は、イスラエルの賛美を住まいとされるお方です(詩編22編4節)。私たちが賛美するとき、そこを主の聖所とされるのです。
今、私たちを取り囲んでいる現実がどのようであっても、それがどのように見えているとしても、必ず妨げるものを追い出し、きっと約束のものを受け取ることが出来ます。絶えず神の愛と恵みのうちを歩むことが出来るのです。
主イエスを信じ、賛美と祈りをもって進んで参りましょう。神は必ず乗り越えさせてくださいます。自分の力では出来ないことでも、神には出来ます。神は何でもお出来になる方です(マルコ福音書10章27節)。そして、私たちに思いを起こさせ、それを実現に至らせてくださるお方です(フィリピ書2章13節)。主を信じ、御言葉を信じましょう。
主よ、あなたはカナン人を追い出せと命じられました。だから、ヨシュアは、きっと追い出すことが出来ると信じました。主が語られる言葉を聴き、その御言葉は実現すると信じることが出来る人は幸いです。私たちにもその幸いに与ることが出来るように、主の御言葉を聞く耳、主の御業を見る目、主の御心を悟る心を与えて下さい。 アーメン