風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2014年02月

2月28日(金)の御言葉  ヨハネ福音書17章

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」 ヨハネによる福音書17章22節

 17章には、「大祭司の祈り」とも呼ばれる、「イエスの祈り」が記されています。主イエスはこの祈りにおいて、すぐに訣別することになる弟子たちのために、執り成しの祈りをささげているのです。その中心的主題は、この世に遣わされた子なる神と天の父なる神との一体性といってよいでしょう。そして、その一体性の中に、弟子たちを入れてくれるように願い求めておられるのです(11節、20節以下)。

 まず1節で、「子に栄光を与えてください」という祈りが記されます。それは、それによって父なる神の栄光を現すためです。そして、5節では、その栄光は、主イエスが世界の造られる前にみもとで持っていたものだ、と語られます。即ち、主イエスがこの世に遣わされる前、神の御子として持っておられた栄光ということです。その栄光をもう一度受け取るとは、主イエスが天に帰られること、神の右の座に着かれることを意味します。

 10節の、「わたしは彼らによって栄光を受けました」というのは、十字架にかけられて贖いの業を成就されたことを現します。4節で、「行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と語られていた言葉も、同様に解釈できます。子なるキリスト・イエスが、父なる神に忠実に従われることで、神の栄光が現され、それによって、御子が栄光を受けられたのです。

 そして冒頭の言葉(22節)に、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」と言われます。主イエスがご自分を信じる者にお与えになった栄光とは、神の御名を知らせたということです。

 名はその人格を表し、そして、「知る」とは、人格的な交わりがあることを意味します。ヘブライ語で、「知る」とは、肉体の交わりを伴うもので、それによって愛の結晶を身ごもるという記述を、旧約聖書で見出すことが出来ます(創世記4章1節など)。そういう意味では、「愛する」と同義語と考えてもよいでしょう。

 栄光が与えられるのは、父なる神と御子キリストが一つであられるように、私たちも一つになるためです(22節)。御子キリストが父の御心を行って神の栄光を表し、それが御子の栄光であって、父と御子が一つであることが初めに示されました。私たちが御子キリストの御言葉に忠実に従って御子の栄光を表すとき、それが私たちの栄光となります。そこに私たちと御子との一体であることが示されます。

 御子キリストの御言葉とは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です(13章34節)。「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(13章35節)とも語られています。主イエスと私たちの間の一致は、信じる者同士の間の一致であり、縦横に深い交わりがあるということです。

 それは同時に、ヨハネの考える福音宣教ということでもあります。主イエスが天にお帰りになった後、主イエスが神の御子であられ、天の父と一つなるお方であることを告げ知らせ、そのことを通して、すべての者が主なる神との一体性に与るようになるのです。

 21節に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」とあるのは、そのことです。

 さきに、「永遠の命」とは豊かな交わり、絆のことであると学びました。3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語られているとおりです。

 主よ、御子キリストが私たちに教えて下さったように、絶えず御名を呼び求めます。主の御名を呼ぶ者は救われるからです。父と御子のうちに、わたしたちを一つにしてください。御言葉と祈りによる交わりを通して、豊かな命に生きることが出来ますように。 アーメン



2月27日(木)の御言葉  ヨハネ福音書16章

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネによる福音書16章33節

 冒頭の言葉(33節)は、主イエスの「訣別の説教」(14~16章)の結語として語られたものです。1節には、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」と記されています。これは、信仰から離れないようにという意味です。当時の人々が、信仰から離れる危険に直面させられていたからです。

 それは、「会堂から追放する」(2節)という脅しでした。会堂から追放されるということは、ユダヤ社会から締め出されることを意味します。「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(9章22節)、「会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」(12章42節)というのは、当時の状況を描いており、そのために信仰を離れる人々も少なからずいたと思われます。

 訣別説教の前、13章で主イエスが弟子たちの足を洗って、互いに愛し合い助け合うようにと指導された直後、イスカリオテのユダの裏切りが予告され(13章21節以下)、さらにペトロの離反が予告されます(13章36節)。これは、二人の問題ではなく、私たちを含めすべての者が世の荒波に苦しめられること、自らの力でそれに打ち勝つことは、誰にも決してたやすいことではないということを、如実に示していると思います。

 そのために、「訣別の説教」は、「心を騒がせるな」(14章1節)という言葉で語り始められたのです。そして、結語において、「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と語られているのです(33節)。

 勿論、勇気を出せば何とかなるというものでもないでしょう。主イエスは、「わたしは既に世に勝っている」と言われましたが、目に見えるところでは、敗北としか言えない事態が進行します。この後、宗教指導者たちに抵抗することなく捕らえられ(18章12節)、有罪の証拠も示されないまま一方的に裁かれ(18章19節以下、38節、19章16節)、十字架の刑で命を落としてしまわれます(19章17節以下、30節)。

 大東亜戦争敗戦後およそ70年、キリスト教界は自らの戦争責任を告白し、戦争反対、核兵器廃絶を訴えてきました。また、国家による靖国神社護持や、自衛官の靖国神社合祀に遺族と共に反対の声を上げるなど、戦没者の政治利用に反対して来ました。

 今日、自衛隊が海外に派遣され、首相の靖国神社公式参拝が強行され、公立学校の児童・生徒に「愛国心」を圧しつけるため、教育基本法が改悪され、、秘密保護法を制定するなど、戦争の出来る国となる施策が次々と打ち出されています。憲法改正には時間がかかるとして、憲法解釈の変更という閣議決定で、集団自衛権の行使が可能だということにしようとしています。

 この流れに抗することが出来るでしょうか。その流れを逆転することが出来るでしょうか。3,11以来明らかになって来たメディアの報道姿勢、それによって動かされている社会状況を見ると、国全体が右に大きく傾いて、全体主義化、国粋主義化して来ていると思わざるを得ません。

 主イエスが、「わたしは既に世に勝っている」と言われたのは(33節)、それで、十字架にかからずにすむということではありませんでした。.弟子たちが裏切らない、背かないということでもありませんでした。それは、愛する者に裏切られようと、暴力をもって抹殺されようと、父なる神から委ねられた使命を全うすることです。

 そのことが、13章1節に、「イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という言葉で表現されていました。考えられないような、理解を超えた愛で、私たちを愛して下さっているということです。この世は、何をもってしても、キリストのこのような愛に勝てなかったということです。

 パウロが、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ書8章35~37節)と記しているとおりです。

 主は、背く弟子たち、裏切る弟子たちを責めたり、裁かれたりしてはいません。むしろ、心配して下さっています。彼らが苦難と直面しているからです。そして、世の暴力と弟子たちの離反に愛をもって勝利し、神の愛と平和へと私たちを招いて下さるのです。

 愛の主を信じ、自分に示されているところに従い、神の平和実現のために、出来ることを精いっぱい行っていきたいと思います。

 天のお父様、私たちの国を顧みて下さい。武力では真の平和を築くことができないということは、これまでの戦争の歴史が証明してくれています。日本と世界が歴史に謙虚に学び、武力によらず、国と国との誠実な外交努力を通じて、真の平和を築くことが出来ますように。まず私たちの心を神の愛と平和で満たして下さい。 アーメン



2月26日(水)の御言葉  ヨハネ福音書15章

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 ヨハネによる福音書15章16節

 主イエスは、主イエスを信じた私たちを「友(フィロスの複数形)」と呼ばれます(14,15節)。冒頭の言葉(16節)のように、私たちが主イエスを友と選んだのではありません。主が私たちを選んで下さったのです。

 私たちにはm主イエスの友として選ばれる資格などありません。神の選びの条件に適合したというわけではないのです。神が一方的な憐れみによって声をかけて下さらなければ、友はおろか、僕となることさえ出来ません。どうして人間の私が、神の選びの子、友となることが出来るでしょうか。選んで下さった主イエスの愛と恵みに感謝するだけです。

 その友としての選びは、また任命でもありました。「あなたがたを選んだ」と言われた主イエスは、続けて、「わたしがあなたがたを任命した」と言われています。私たちは主イエスに選ばれ、任命され、派遣されて、主イエスのために、主イエスに代わって仕事をするのです。

 「任命する(ティセーミ)」というギリシア語は、「友のために自分の命を捨てる」という言葉(13節)の、「捨てる(ティセーミ)」と同じ言葉です。文字通り、主イエスが「命を捨てられて」、私たちが主イエスに「任命された」のです。私たちのために命を捨てて私たちを贖い、神の子として下さった主イエスが、私たちにご自分の仕事を託されたのです。そんなことがあり得るのでしょうか。理屈では考えられません。神の愛は理屈を超えています。

 人間が主イエスの仕事をすることが出来るのでしょうか。出来るはずがありません。どうすればよいのでしょうか。だから主イエスは、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」、私たちを任命したと言われ、祈ることを教えて下さったのです。何を願いますか。主イエスがしようとしておられることが、私たちを通して実現されるように、と願います。

 そのために私たちが任命されているのですから、私たちが主の仕事を実行出来るように、と願います。主は特に、「互いに愛し合え」と命令されています(12,17節)。愛し合うことを通して、私たちが主イエスの弟子であることを皆が知るようになるからです(13章34,35節)。

 「わたしの名によって願うものは何でも与えられるように」と、弟子たちに祈るように示された主イエスは、14章13節でも、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われていました。また、16章23節にも、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と告げられます。

 繰返し、わたしの名で願えと言われていて、主イエスの名をもって祈る、主イエスの名代として祈る、さながら、主イエスご自身が祈っておられるように、その名で祈ること、それで、その祈りがかなえられるということを教えられています。

 14章では、主の名による祈りについて語られた後、「別の弁護者」として(14章16節)、「真理の霊」(同17節)なる聖霊が与えられる約束が語られます。すなわち、聖霊を主イエスの名で求めなさいと教えられているかのようです。

 15章では、主の名によって祈るよう指示した後、迫害の予告が語られます(15章18節以下)。迫害の中で、しかし、別の弁護者なる真理の霊の主イエスについての証しを受けて(同26節)、弟子たちも証しをすると言われます(同27節)。聖霊の満たしにより力を受けて、主イエスの証人とされるのです(使徒言行録1章8節)。
 
 アウシュビッツのユダヤ人強制収容所では、脱走者が出ると見せしめのために数人をガス室送りにしていたそうです。あるとき、脱走者が出て、見せしめのための犠牲者が数名、名を呼ばれました。そのうちの若い一人が、妻子家族のことを思って泣き始めました。

 そのとき、一人の人物が、その若者の身代わりを申し出ました。それはポーランド人の神父、日本でもお働きになったことがある、マキシミリアノ・コルベ先生です。先生は、その若者に代わって処刑棟(餓死塔)に連れられて行きました。先生が入れられた監房からは、ロザリオの祈りや賛美の声が聞かれ、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送ったそうです。

 監房に入れられてから2週間後、死を早めるための注射が打たれ、永遠の眠りにつきました。その顔は、神の栄光に輝いていたそうです。主イエスに代わって十字架の愛を示した、美しい物語です。

 カトリック教会は、先生を『愛の殉教者』と呼び、「『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』とキリストは語った。コルベ神父は文字通りこの言葉を実行したのだ。彼は自分が身代わりとなることで、ひとりの命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選んだ。彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々の友であった。そして、彼の名は永遠に全世界の人々に記憶されることになった」と称えています。

 主よ、私には、他者のために命をささげる勇気も力もありません。しかし、主イエスは私のために命を捨てて下さいました。私にも、主イエスの仕事が出来るように、必要な力と勇気を与えて下さい。 アーメン




2月25日(火)の御言葉  ヨハネ福音書14章

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」 ヨハネによる福音書14章1節

 「心を騒がせるな」という言葉が、冒頭の言葉(1節)と27節に記されています。言葉が繰り返されるということは、それが重要であるということでしょう。あるいは、弟子たちの心が騒いでいるということを示しているのかも知れません。

 「心が騒ぐ」のは、思いが千々に乱れるからです。原語は、「かき混ぜる(タラッソー)」という動詞の受身形が使われています。この部分を直訳すると、「あなたがたの心がかき混ぜられないように」となります。自分の思いや知識、経験を超えた出来事で、心がかき回される、かき混ぜられるということです。嵐の海にもまれる小船の中で、どうすればよいのか、と思い煩う心の状態です。

 というのも、主イエスが繰り返し、自分を遣わされた方のところに帰る、地上を去る、わたしを探しても見つけることが出来ない、と語っておられ、その時がいよいよやって来たからです(13章1節参照)。主イエスが天に帰られた後、この地上に残される弟子たちに、どのような運命が待ち受けているのでしょうか。それを考えると、「心を騒がせるな」というのは無理な相談ではないか、心を騒がせるのは当然ではないか、と思われます。
 
 この、「心を騒がせるな」という言葉に付随して語られている言葉に注目しましょう。1節では、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われます。足もとが揺すぶられている中で、視線が定まらなければ、目が回ってしまいます。そんな時、「わたしのほうを見なさい」と仰る方に目を向けることが出来れば、荒れる海を見なくてすみます。心を騒がせる必要がなくなります。

 ペトロたちが荒れる海の上で「もうだめだ」と思ったとき、船の艫のほうで眠っておられる主イエスを見出し、文句を言います(マルコ福音書4章35節以下、38節)。しかし、彼らが主イエスに集中したとき、風はすっかり凪いでしまいました。問題の中で主に目を向け、御名を呼び求め、問題を打ち明けると、そこに主が介入して下さるのです。

 「あなたがたの心がかき乱されないように」という文章で、「あなたがたの(フモーン)」は複数形ですが、「心(カルディア)」は単数形、そして、「かき乱されないように(メー・タラッセスソウ)」というのも、三人称単数の動詞の命令形が用いられています。人々の心が嵐にかき回されて千々に乱れ、ばらばらになっているというのではなくて、むしろ、一つの心、一つの思いになるようにという言葉遣いです。 

 27節には、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言われています。世が与える平和、平安はこの地上のもので、状況が変わればすぐに失われてしまいます。心が騒ぎ、おびえ、不安になるのです。

 もしも、その平和、平安が自分の心の状態を指すものであれば、それを脅かすものは、枚挙に暇なく、不安や恐れは海の波のように絶えず押し寄せてきます。しかし、主イエスが語られたのは、私の心が安定しているか、平和に保たれているかということではありません。主イエスと父なる神との間にある平和のことです。

 主イエスと父なる神との平和の関係を壊しうるものはありません。私たちの罪を身に受けることによって、神に呪われ、捨てられた主イエスは、甦らされて神の右の座に着かれました。私たちの罪も、死も、主イエスと父なる神との関係を壊すことが出来なかったのです。

 私たちは、この平和、主イエスと父なる神との間にある平和の関係を頂いて、私たちの主イエスの間に、私たちと父なる神との間に、平和の関係を持たせて頂くことが出来るのです。そしてその平和は、何ものをもっても、奪われたり、破壊されたりすることが出来ないのです。

 そのことの保障として、「別の弁護者(アロス・パラクレートス)」、すなわち「真理の霊(ト・プネウマ・テース・アレーテイアス)」を与えて下さいます(16,17節)。この方が共(パラ)にあり、内(エン)にいて(17節)、すべてのことを教え、主イエスが話されたことを思い起こさせて下さいます(26節)。そうして、いつも主イエスに心を向けるように、私たちを助けて下さるわけです。

 御霊の助けを得て、常に主を仰ぎ、御言葉に耳を傾けましょう。心に、主の平和を満たしていただきましょう。 

 主よ、心を騒がせるなとの御言葉を感謝します。私たちが心を騒がせていることを、あなたが知っていて下さるからです。そして、心を騒せないでもよいように、真理の御霊をお遣わし下さり、その御霊を通して神の愛を私の心に注ぎ、平和の関係を確認させてくださいます。絶えず、主の御顔を仰がせてください。その御声を聴かせてください。御心に歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン






2月24日(月)の御言葉  ヨハネ福音書13章

「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」 ヨハネによる福音書13章7節

 過越祭の前のことと、1節で言われます。過越祭は、ニサンの月(ユダヤ暦第一月、今日の三月下旬から四月中旬)14日正午にエルサレムで過越の羊が屠られ、その晩、即ち、ニサンの月の15日になって、それを食べました。ですから、過越祭の前のことといえば、ニサンの月13日ということになります。

 2節の「夕食のときに」というのは、14日の始りです。イスラエルでは、一日を深夜0時からでなく、日没の夕方から始めるからです。創世記1章5節の、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」というのは、一日の数え方を示しているわけです。

 この夕食が、いわゆる「最後の晩餐」です。共観福音書の記事とは全く違う扱いになっています。というのは、共観福音書では、最後の晩餐を「過越の食事」としているのに対し(マルコ14章17節以下など)、ヨハネは、過越祭の前の日の夕食なのです。過越祭の時間設定を考えると、ヨハネの方が歴史的に真実に近いのではないかと思われます。

 キリストはこの後、ゲッセマネの園で捕えられ(18章1節以下)、サンヒドリンで裁きを受け(同12節以下)、翌朝早く、ピラトの官邸に連行されて、十字架刑が確定します(同28節以下)。朝の9時に十字架につけられ(マルコ15章25節)、正午に全地は暗くなり(同33節)、午後3時過ぎに息を引き取られました(同34,37節)。ヨハネは、十字架で死なれた主イエスが、過越祭に屠られる過越の羊と考えているわけです(1章29節参照)。

 そのとき、主イエスが食事の席を立って上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました(4節)。それから、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められました(5節)。驚いたペトロが、「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言います(6節)。

 というのは当時、足を洗うのは、奴隷の中でも異邦人の奴隷がする仕事だったからです。先生にそれをさせるなんて、そんな恐れ多いことは出来ないというのが、ペトロの考えでしょう。それに対して主イエスは、冒頭の言葉(7節)のとおり、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。

 弟子たちの足を洗い終わった後、そのことについて、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14,15節)と言われました。

 「主であり、師である」(14節)というのは、単にそのように呼ばれているということではありません。ニコデモが、「神から来られた教師」と語り(3章2節)、後にトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と呼んだお方です(20章28節)。神から来られた教師であり、主であり神であられる主イエスが、奴隷の姿になって弟子たちに奉仕されたのです。

 主なる神の愛の奉仕を受ける者は、清い者です。8節で、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのは、主イエスの愛の奉仕を拒むならば、清められないまま留まるということです。

 主イエスは、この後、十字架にかかって私たちの罪の身代わりに死なれました。それによって救いの道を完成されました。そして、聖霊が注がれたとき、十字架の意味が本当に分かりました。そして、足を洗って下さった主イエスの深い愛の御心を悟ったと思います。

 そして主は、私たちが主を模範として行うように手本を示されたと言われました(15節)。文字通り、足を洗い合いなさいとも読めますが、そこに示された主イエスの愛を味わったお互いが、主の愛に基づいて互いに愛し合うこと、助け合うことが命じられていると読むべきだろうと思います。

 そのときに、主なる神が奴隷となって足を洗って下さったような、奉仕に生きる心を教えて下さったわけです。その愛に土台して、私たちの愛の関係を築きなさいと教えられるのです。それが、ヨハネの考えている「永遠の命」の交わり、神の国の交わりでしょう。

 歴代誌上3章に、ダビデの子孫の系図が記されています。同17節以下に、バビロン捕囚となったエコンヤ以下13代の名が上げられています。そこにペダヤの子ゼルバベルの名があります(同19節)。ゼルバベルは、バビロンから解放されて、最初にエルサレムに戻って来た帰還民の指導者です(エズラ記2章以下)。

 彼の最初の仕事は、神の前に祭壇を築いて礼拝をささげ(エズラ記2章2節)、さらに神殿を再建することでした(3章2節以下)。イスラエルの国を建て直すために、まず礼拝をささげ、神殿の基礎をすえたのです。即ち、主なる神との正しい関係なしに、イスラエルの国を建てることはできないと考えていたわけです。

 主イエスを信じて罪から解放された私たちも、霊と真理をもって神を礼拝し、主イエスの御愛を基として信仰生活を築き、互いに愛し、助け合いたいと思います。

 天のお父様、あなたの愛と御子キリストの恵みにより、今日救いに与り、神の子供として歩むことが許されています。愛を基とし、愛に根ざして生活することを通して、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さを知って、いよいよ豊かに神の愛に満たされて愛の業に歩むことが出来ますように。 アーメン





2月23日(日)主日礼拝説教動画


2月23日(日)主日礼拝説教動画をYouTubeにアップしました。
説教題 「神を畏れる」
聖 書 創世記20章

 音声が途中から割れて聞き難くくなっています。ご容赦ください。


☆2月23日(日) 「アブラハムは答えた。『この土地には、神を畏れることが全くないので、 わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。』」 創世記20章17節

 アブラハムがゲラル滞在中に、ゲラルの王アビメレクが、アブラハムの妻サラを王宮に召­し入れます(2節)。アビメレクは、サラがアブラハムの妻であることを知りませんでし­た。それは、アブラハムがサラを「これはわたしの妹です」と言ったからです(2節)。­かつてエジプトで行ったことを、再びアブラハムは、ゲラルでも行ったのです(12章1­0節以下)。

 神の介入がなければ、約束の子イサクが与えられなくなるところです。神は、ゲラルの女­たちの胎を堅く閉ざされると共に(18節)、アビメレクに死罪を宣告されます(3節)­。アビメレクが無罪を主張すると(4,5節)、神はそれを認め(6節)、直ちに妻を返­しなさいと命じられます(7節)。

 アビメレクがアブラハムに、「あなたは我々になんということをしたのか」(9節)と詰­問すると、冒頭の言葉(11節)のとおり、「この土地には、神を畏れることが全くない­ので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです」とアブラハムは答えています。

 ところが、実際にはアビメレクとその家来たちが、夢でアビメレクに語りかけられた神を­非常に畏れました(8節)。むしろ、自分の命を守るためと言いつつ、妻をアビメレクに­差し出したアブラハムの方が、神を畏れることも、神に信頼することも忘れています。

 にも拘わらず、神はアブラハムを責められません。ここに、アブラハムを義とした信仰と­は、彼の行いなどに基づくものではなく、主の御言葉を信じるように導かれた神の恵みに­基づいているものだと示されます。この恵みの主に信頼を置き、主の恵みに感謝と喜びの­歌をささげるだけです。

 主よ、私たちの弱さにも拘わらず、恵みをお与え下さって、心から感謝します。アブラハ­ムがアビメレクのために執り成したように、私たちも霊の力を受け、万人祭司として、隣­人のために執り成し祈る使命を果たすことが出来ますように。 アーメン



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2月23日(日)の御言葉  ヨハネ福音書12章

「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」 ヨハネによる福音書12章1節

 冒頭の言葉(1節)にあるとおり、過越祭の六日前、即ち、「受難週」が始まる直前に、主イエスはベタニア村へ行かれました。そこには、「マリアとその姉妹マルタ」の住む家があり(11章1節)、その兄弟ラザロもいました。ラザロは、主イエスに死者の中から甦らせていただいたのです。主イエスを迎えたマリアの家では、もてなしの用意が整えられ、いつものようのマルタが給仕をしています(ルカ福音書10章38節以下参照)。

 ラザロは、主イエスと共に食事の席に着いていました。そこに、マリアが高価なナルドの香油1リトラ(=326g)を持って来て、イエスの足に塗り、髪でそれをぬぐいました。用いられた香油の多さで、ほのかに薫るどころか、その香りで家中が一杯になったと、3節に記されています。

 イスカリオテのユダが、それをたしなめて、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言いました(5節)。主イエスに使うのは勿体ない、ということではなかったろうと思います。ほんの少しを使った後、残りを売って、という話だと思います。

 300デナリオンと言えば、労働者のおよそ1年分の賃金に相当するものです。300万円にもなるというところでしょうか。香油のことなどよく分かりませんが、現在の香水は、1/4オンス(=7.5ml)1万3千円ほど、1オンス(=30ml)は割安で、3万3千円ほどだというネットの記事がありました。1オンスは28.35gという重さの単位でもあるので、それで計算すれば、香油1リトラは38万円ほどということになります。

 勿論、香油の原材料、そしてどういうブランドかということによって、値段は全く違ったものになるでしょう。マリアが持って来た、「純粋で非常に高価なナルドの香油」(3節)というのは、通常の10倍といった高価なものだったのかも知れません。
 
 香水1オンス30mlのボトルは、かなり大きなものになるということで、1/4オンス入の香水が売られているわけです。一滴の香油で、5時間ほどその香りを楽しむことができる、逆に大量に使ってしまえば、よい香りも悪臭となると言われるそうです。となると、香油1リトラ300g以上のものを一度に使えば、その香りはどれほどのものになったのでしょう。

 ただ、主イエスはこの香油のプレゼントを、「わたしの葬りの日のために取って置いたのだから」と言われて喜ばれました(7節)。勿論、マリアは、主イエスの葬りのためにと考えて、香油を足に塗って差し上げたわけではないでしょう。もともとイスラエルには、尊敬する人に香油を塗るという習慣がありましたし、なにより、兄弟ラザロを甦らせていただいた大恩人です。

 自分の持っている最高のもので、主イエスをもてなし、感謝の思いを表わしたいと考えていたに違いありません。その意味では、マルタが調えた料理も、最高級のものだったのではないでしょうか。それが、主イエスの十字架の死と葬りへの何よりの餞となったと言われるのです。

 そこには、もう一人、大切な人物がいます。それはラザロです。彼は何もしていません。最初に記したとおり、「イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」だけです。大恩ある主イエスのために、彼こそかいがいしく働かなければならないのではと思いますが、病み上がりと申しますか、死んで甦らされた身の上だから、何もしないで座っていなさい、とでも言われていたのかもしれません。

 そのうえ、彼は聖書の中では一言も発していないのです。したことといえば、主イエスに「ラザロ、出て来なさい」と言われて、葬られていた墓から、布にまかれたまま出て来たことと、それから今、食事の席についている人々の中にいることだけです。

 しかしながら、ラザロがそこに座っていることで、主イエスこそ神の御子、救い主であることが、何よりも雄弁に物語られています。主イエスが墓から呼び出した死者が今生きて、主イエスと一緒に食事の席に着いているのです。大群衆がそれを見ようと集まったと言われます(9節)。

 香油の香り溢れる家に主イエスがおられ、精一杯のもてなし料理が調えられ、感謝を込めて給仕する姉妹がおり、そして、主の御力を無言のまま力強く証しする兄弟がいる。どんなに豊かな交わりとなったでしょうか。

 私たちも、今その主の御力で生かされています。私たちも主の復活と命の証し人なのです。今、復活の主と共に食卓を囲んでいるのです。最もよきものを主にささげて、主イエスを愛する喜びと感謝が満ち溢れる家にしましょう。

 主よ、私のような者も主の証人として選び、招いて下さって感謝します。主に愛され、恵みによって生かされています。主を喜び、感謝して、日を過ごさせて下さい。よきものを主にささげることが出来ますように。 アーメン








2月22日(土)の御言葉  ヨハネ福音書11章

「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」 ヨハネによる福音書11章43節

 11章には、驚くべき物語があります。死んで四日もたち、既に腐り始めている死人が生き返ったという話です。その人の名は、ラザロと言います。ラザロというのは、エレアザルという名前の短縮形だと言われます。英語の名前でウイリアムをビルと呼び、ロバートをボブと呼ぶようなものです。エレアザルというのは、「神が助けたもう」という意味です。ユダヤ人に多くある名前の一つでした。

 ラザロには、二人の姉妹がいました。それはマルタとマリアという姉妹です(1節)。この二人は、ルカ福音書10章38節以下の段落とこの箇所の2箇所に登場します。ルカは、二人のいる場所を、「ある村」としていましたが、ヨハネは、それが、「ベタニア」という名の村であることを明らかにしています(1節)。

 二人から兄弟ラザロが病気であるという知らせが主イエスにもたらされますが(3節)、すぐに駆けつけようとはされず、なお二日その場所に滞在されました(6節)。それから出かけて行ってみると、既に葬られて四日もたっていました(17節)。ということは、すぐに出かけたとしても、死んで二日たっていたという状況であることが分かります。けれども、まるでラザロが死ぬのを待つかのように、そこに留まっておられるという行動をとられたわけです。

 マルタとマリアに出会って言葉を交わし、彼らが泣き、また共にいるユダヤ人たちも泣いているのを見て、主イエスは、「心に憤りを覚え、興奮」されたと記されています(33節)。そして、墓に行くときに、「再び心に憤りを覚え」られました(38節)。愛する者の死が主イエスの心に憤りを呼び起こしたのです。

 また、「イエスは涙を流された」(35節)という言葉も記されています。二人の姉妹の心に同調して下さったのです。何があっても動じないというのではなく、どこまでも私たちの心に寄り添って下さるという、主イエスの愛の心の現われです。

 墓の前に立たれた主イエスは、墓穴をふさいでいる石を取り除けさせ(39,41節)、天を仰いで祈られました。祈りの言葉を調べると、そこには、「ラザロを甦らせて下さい」という願いの言葉ではなく、「願いを聞き入れてくださって感謝します」という言葉があります(41節以下)。

 憤りを覚え、興奮された心で、あるいは、涙を流されたときに、その心のうちに、ラザロを癒して下さいという祈りがあったのかも知れません。そして、主イエスが天を仰がれたときに、神がその祈りを聞いて下さったという感謝が心に満ちて来たのでしょう。それが、言葉となって口をついて出たわけです。

 この後、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると(43節)、彼は葬られたままの姿で、墓から出て来ました(44節)。腐乱した匂いが立ち込めたかもしれません。それは、昼間の時間帯でなければ、どれほどおどろおどろしい光景でしょうか。しかし、出て来たのは、愛する兄弟です。姉妹たちは、戦きつつも急いで布をほどき、体を洗ってやったことでしょう。それまでの失意、悲しみ、憤りが、どれほどの喜びとなったことでしょう。

 しかし、この後に何が起こったかということは、全く記されていません。それは、ヨハネ福音書において繰り返し語られているように、主イエスはご自分の力や考えで行動されているのではなく、常に父なる神の御心に沿って行動されているから、そしてまた、ご自分に栄誉を求めることを決してなさらないから、ということを明確に表していると言えます。

 人々は、主イエスの持つ権威がどれほどのものかを、目の当たりにしました。それは、死人の名を呼ぶと、死人がそれに答えるという、つまり生き返らせる力があるというものです。イエスはマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われましたが(25,26節)、そのとおりのことが起きたのです。

 10章4節に、羊は羊飼いの声を知っているので、羊飼いについて行くという言葉がありましたが、まるでラザロは、今まで死んでいなかったかのように、主イエスの言葉に応答しました。それはまさに、ラザロが主イエスの声を知っているからです。

 そしてここでも、主イエスとの関係、絆は、死をもってしても切れない、永遠のものであることが示されます。ここに、永遠の命の恵みがあります。そして、主イエスは今日も、親しく私たちの名を呼んで下さっているのです。

 主の御声に、「はい、私はここにおります」と答えましょう。主の名を呼び、心から礼拝をささげましょう。 

 主よ、あなたの御愛を感謝します。私はここにおります。主よ、語って下さい。御言葉を聴かせて下さい。命の恵みの中をあなたに従って歩ませて下さい。すべてを御手にお委ねします。御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちを御霊に満たし、御心を行わせてください。 アーメン





2月21日(金)の御言葉  ヨハネ福音書10章

「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 ヨハネによる福音書10章10節

 1節以下には、羊飼いがどのように羊の世話をしているのかという一端が記されています。これは、パレスティナでは日常よく見られた光景なのだろうと思います。
 
 旧約聖書の中にも、詩編23編やエゼキエル書34章など、羊と羊飼いを題材として記された箇所があります。そこでは、神が羊飼いでイスラエルの民が羊、また、神によって選ばれた王が羊飼いで民が羊として、描かれています。民は、神の声を聴いてあとに従うように期待されており、王は、神の御心に従って民を養うように期待されているわけです。
 
 主イエスが、「羊の囲い」のたとえを話されたのは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)というメッセージを示すためです。これは、「わたしは良い羊飼いの一人である」という表現ではありません。そうではなく、羊飼いはたくさんいるだろうけれども、「良い羊飼い」と呼ばれるのは主イエスだけ、そ私のほかによい羊飼いはいない、という宣言です。それは、主イエスが、羊のために命を捨てるからです。
 
 命を張って羊を守ろうとする羊飼い、そのために命を落とす羊飼いもいるかも知れません。しかし、ここで言われる、「羊のために命を捨てる」というのは、羊を守るためではありません。そうではなく、冒頭の言葉(10節)のとおり、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」なのです。

 「豊かに」と訳されている「ペリッソス」という言葉は、「それ以上more」という意味を持つ形容詞です。そこで、10節後半を直訳すれば、「彼らは命を持ち、そして、それ以上(のもの)を持つ」という言葉になります。命以上の命、それを「豊かに受ける」と新共同訳は訳しているわけです。

 こうした言葉遣いで見えて来る豊かな命とは、御子キリストから受ける、「永遠の命」のことでしょう(28節ほか)。それは、永遠に生きる命というのが一般的解釈です。しかし、「命」というのは、呼びかけ、応え、触れ合い、交わりがあってこそです。自分ひとり、永遠に生きることが出来ても、友がいなければ、家族がいなければ、つまらない寂しい時間が永遠に続くだけです。

 ですから、「命を豊かに受ける」とは、私たちに呼びかけられる羊飼いなる主イエスとの交わり、呼びかけに応じた羊たちとの交わりが豊かで、その豊かさには限りがないという言葉であると思います。その関係が、死によっても失われない、永遠に続くとなれば、それは是が非でも手に入れたいものです。

 這いつくばってでも天国に行きたいと言われた方がありますが、永遠の命は、自分の努力や執念で奪い取るようなものではありません。ただ、主イエスを信じるだけで与えられるのです。でも、そのように言われる背景には、神の救いを疎かにして、信仰によって歩もうとせず、自ら滅びを刈り取ろうとしているように見える人々が少なからずいる、ということでしょう。

 ただ信じるだけで救いの恵みをお与えくださる主イエスは、私たちのためにご自身の命を捨ててくださった救い主です。そのようなお方は、確かに主イエスお一人しかおられません。だからこそ、「良い羊飼い」なのです。命の主を仰ぎ、永遠の命に至る真理の道を真っ直ぐに歩ませて頂きたいと思います。

 主よ、今日も私たちの名を呼んで連れ出し、その先頭を歩んで下さることを感謝します。その御声を知っていますから、ついて行きます。御心のままに導いて下さい。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン







2月20日(木)の御言葉  ヨハネ福音書9章

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 ヨハネによる福音書9章3節

 1節以下の段落には、「生まれつきの盲人をいやす」という小見出しがつけられています。

 主イエスが、「生まれつき目の見えない人」を見かけられたとき(1節)、弟子たちが、彼が生まれつき目が見えなくなったのは、本人の罪か、それとも両親の罪かと、主イエスに尋ねました(2節)。当時、病気や障害の原因は、その人が犯した罪の結果と考えられていたのです。

 このような因果応報の思想は、洋の東西を問わず、昔だけでなく、今も存在しています。私たちも小さいころ、「行儀が悪くてご飯粒をこぼすような子には、ばちが当たって、目が見えなくなる」といった表現で躾をされたことがあります。

 しかし、生まれながら障害を負って生まれた子は、どんな罪を犯したというのでしょうか。「生まれつき」ということは、母親の胎内に身篭ったときから、ということになります。胎児が母親の胎内でどんな罪を犯すのでしょうか。それは、考えられないことでしょう。そこで、本人ではなく、両親の問題ではないか、という考え方になるわけです。それで、「本人か、それとも両親か」と尋ねるのです。

 しかし、もしも両親が犯した罪を、何の罪もない胎児が負わなければならないとしたら、しかもその負い目を一生負い続けなければならないとしたら、なんと厳しい罰でしょうか。しかし、このような考え方になる律法を、十戒に見ることが出来ます。出エジプト記20章5節に、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが」という言葉があるのです。

 このような問いに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられました(3節)。主イエスはここで明確に、障害が罪に対する罰だという考え方を否定され、さらに、神が目的を持って障害を与えておられると言われたのです。その目的は、「神の業が現れる」という目的です。ここに、障害に対する全く新しい視点が示されました。

 しかしながら、辛い病や障害を負っている人々に、「神の御業が現れるために苦しみが与えられた」という言葉がそのまま福音になるでしょうか。あるいは、因果応報の言葉で、諦めを教えられていた人々には福音かも知れません。障害を通して信仰に導かれる人がおられることも事実です。

 しかし、神の業が現れるためだから、重い病や障害を負って生まれてもよいだろう、ということにはなりません。信仰があるんだから、眼が見えなくなっても良いと、考えることが出来ますか。私には出来ません。ですから、この言葉は理屈で納得する言葉ではありません。

 「神の業が現れる」と言われた主イエスと出会い、自分の上に主の業が現れる、自分を通して主の業が現されるという出来事が起きて、神の言葉が真実となることを味わうことができます。それが、福音の出来事であり、神の業です。

 主イエスは、地面に唾をし、それで土をこねて盲人の目に塗り(6節)、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました(7節)。シロアムの池について、「遣わされた者」という意味だと、そこに解説されています。なぜか、これまで、「遣わされた者」とは、その盲人のことと思い込んでおりましたが、遣わされた者とは、主イエスご自身のことです。

 6章29節に、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と記されていました。主イエスを信じることが神の業であるということは、主イエスを信じる信仰は、神によって与えられる、とも読めます。シロアムの池の水が彼の目を癒すのではありません。「池に行って洗え」と言われた主イエスが、彼の目を癒すのです。盲人が主イエスの言葉に従って行動を起したとき、彼は主イエスを信じる者となっていたのです。
 
 ということは、私たちもそれぞれ、神の業が表れるために生まれた存在であると考えることが出来ます。人それぞれに様々な苦しみ、悲しみを通して、問題を通して、主イエスに近づき、主イエスと出会い、主イエスを信じる信仰に導かれて来たからです。

 その恵みを味わいつつ、越し方を振り返って見るとき、私たちが救いに与り、信仰の道を辿るためには、この道しかなかったのではないか、と思わされます。そしてそこに、深い主イエスの御愛、そしてまた、主の深いお取り扱いを知ることができます。

 感謝を込めて主の御言葉に耳を傾け、主を信じてその導きに素直に従いましょう。

 主よ、人はそれぞれ、どうして私がこのような苦しみを味わうのか、と考えることがあります。理由は分かりませんが、あなたが、「神の業が現れるため」と教えて下さったとき、納得したというよりも、そこに喜びや平安を感じました。自分の人生に、神の目的があることを知らされたからです。感謝をもって御言葉に聴き従わせて下さい。 アーメン




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