風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2014年01月

1月31日(金)の御言葉  ルカ福音書13章

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」 ルカによる福音書13章24節

 22節以下の段落には、「狭い戸口」という小見出しがつけられています。この段落の始めの22節に、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムヘ向かって進んでおられた」(22節)と記されています。9章51節に、「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されていましたので、ここで主イエスは、十字架にかかられるという決意をもって、町や村をめぐりながら進んでおられるということを示しています。

 31節以下の、ファリサイ派の人々とのやり取りは、主イエスがヘロデの領地に入ったことを前提としています。前述のとおり、主イエスはガリラヤを後にして、エルサレムに向かっておられることから、場所としては、ヨルダン川東側のベレアの地に入ったと考えられます。そこも、ヘロデの領地だからです。ということは、22節以下の記事も、ベレアの地か、その北西部(ガリラヤ南東部)での出来事ということになるでしょう。
 
 そのときに、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた人がいます(23節)。それが誰であるかは分かりません。彼には、救われる人は少ないのではないか、という判断があったのかも知れません。主イエスがエルサレムへ向かう姿勢を明らかにされ、しかも、ご自分の死について語り始められておられるからです。
 
 そう尋ねた人にだけでなく、弟子たち一同に対して、主イエスは冒頭の言葉(24節)のとおり、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と語られました。「救われる者は少ないのか」という問いに、「狭い戸口から入るように努めなさい」という回答では、質問と回答がかみ合っていません。これはどういうことでしょうか。
 
 ここで、質問者は、自分は救われるのか、と尋ねているわけではありません。むしろ、自分は救われるだろうと思っていると考えられます。そうでなければ、私は救われるのでしょうか、と尋ねるはずだからです。自分は救われるはずだと思いながら、他のどれほどの人が救われるのだろうかと考えたのでしょう。

 家族のことを考えていたのでしょうか。知人友人のことを考えていたのでしょうか。あるいは、救われる者は少ないという答えを聞いて、その少ない者の一人に入ることの出来た自分を誇る気持ちがあったのでしょうか。いずれにせよ主イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉で、まず自分の救いのことを考えなさいと仰ったわけです。

 「狭い戸口から入るように努める」とはどうすることが求められているのでしょうか。そして、「入ろうとしても入れない人が多い」というのは、どういうことでしょうか。

 一般に「狭き門」、「狭い戸口」といえば、それは入ることの困難な門のこと、いわゆる難関といわれる門を考えます。たとえば東京大学に合格したとか、司法試験や公認会計士の試験にパスすることなどが考えられます。何故それが「狭い門」なのかといえば、たくさんの人が試験に挑戦しますが、合格する人が少ないからです。

 しかし、それが主イエスの語られた「狭い戸口」という言葉の意味ではありません。神の救いは、努力して獲得するものではないからです。エフェソ書2章8,9節によれば、救いは、神の恵み、神の賜物と言われています。ですから、主イエスが、一所懸命努力して、救いを獲得しなさい。努力が足りないと、救いから漏れてしまいますよと言われるはずはないのです。
 
 マタイ福音書7章14節では、狭い門を「見出す者は少ない」と言われていました。つまり、狭い門は、名門でも有名でもない。ひっそりと人目につかないところにあるのです。だから、殆どの人が、その門を見つけ出してもいないのだと仰っているのです。
 
 ただ、「狭い門を見出だす者は少ない」とは、門は絶対に見つけられない、ということではありません。少ないけれども、見つける者がいるのです。それならば、どうして主イエスは、彼がまだこの門を見つけていない、狭い戸口から入ることができていない、と言われているのでしょうか。それは、彼が、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた質問に答えがあります。

 自分は救われていると考えたとき、その救いをどのようにして手に入れたと思っているのでしょうか。エフェソ書に記されていた通り、神の恵み、神の賜物として与えられたと考えていれば、恵み豊かな、憐れみ豊かな神は、救われる者を制限されるとは考えないでしょう。自分の中に救われるに相応しい特質を見出し、それを持っている者は多くはないと思うからこそ、「少ないのか」という質問になるわけです。

 そのように考えている者にとっては、救いの門は狭い戸口となり、入ろうとしても入れない者が多いということになるでしょう。神の恵み、神の賜物を自分の行いで獲得したかのように思い違いしているからです。人目につかないひっそりとしたところ、隠れたところにあるこの戸口を、自分の力や知恵で見つけるのは不可能なのです。

 どうすれば、不可能が可能になるのですか。「人にはできないことも、神にはできる」のです(18章27節)。この言葉は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(同25節)と言われた主イエスの言葉に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同26節)と言った人々の問いに答えられたものでした。つまり、救いは神の恵み、神の賜物なのですから、主の恵みに依り頼む以外の道はないということです。

 戸口が狭いのは、人間が自力では通れないということ、神の助けを必要としているということ、そして、神の助け以外のものに頼らないということです。そこで、狭い戸口から入らせて頂けるように神に求め、その戸口を見出すことができるように探し、そして、開けてください、入らせてくださいと、戸を叩くのです。そうすれば、求めどおり、見つけることができ、戸が開かれ、入れてもらえるのです(11章9節以下)。

 何故、入れてもらえるのか。それは、神が私たちを招いておられるからです。神が私たちを招いて入れるように戸を開いて下さっているのです。ですから、主の招きに応えて入ろうとしなければ、戸が閉ざされてしまい、後で頼んでも入れてもらえず(25,26節)、外に投げ出されて泣きわめくほかはないようになる(28節)、と言われているわけです。

 天のお父様、私たちを恵みによって御救いに与らせて下さり、心から感謝致します。私たちの家族や知人、近所の人々、この大牟田とその周辺に住んでおられる方々にも、救いの恵みが届きますように。 アーメン





1月30日(木)の御言葉  ルカ福音書12章

「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」 ルカによる福音書12章12節

 冒頭の言葉(12節)に、「聖霊」(ト・ハギオン・プネウマ= the holy spirit )という言葉があります。聖霊は、神の霊、真理の霊、キリストの霊、イエスの御霊などと表現されるように、父なる神、子なるキリストと同質の、三位一体なる神の第三位の神です(第二コリント書3章17節、ヨハネ福音書4章24節など)。

 ヨハネは、「弁護者」(パラクレートス)という表現を用いて、その役割を説明しています(ヨハネ福音書14章16,17節)。その際、「別の弁護者」として、真理の霊が紹介されています。「別の弁護者」が派遣されるということは、最初に、主イエスが弁護者として派遣されたということを示します。つまり、主イエスと真理の霊は、「弁護者」という部分で、同じ働きを担うことが示されているわけです。

 イエス・キリストにおいて表された神の愛を、私たちが信じ、受け入れることができたのは、聖霊の働きです。誰も、聖霊によらなければ、「イエスは私の主です」と告白することはできませんし(第一コリント書12章3節)、キリストの語られた御言葉や行われた御業を思い起し、神の御心が何であるかを知ることもできません(同2章10~12節)。

 聖霊は、私たちに神の賜物を授けます(同12章4節以下など)。それは、個人的な徳や霊性を高めるばかりでなく、教会全体にとって益となるため(同12章7節)、一致して主イエスの宣教の御業に与るためです(エフェソ書4章7節以下、使徒言行録1章8節など)。

 また、「聖霊(プネウマ、ルーアッハ)」という言葉は、風、息という意味を持っています。私たちを神の神殿、聖霊の宮としてその内に住まわれるお方は(第一コリント書6章19節)、風のように全く自由に働かれます(ヨハネ福音書3章8節、第二コリント書3章17節)。私たちの内に聖霊が働きかけて、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは、主の霊の働きによることです」(同3章18節)。

 余談ながら、創世記3章8節に、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」と記されています。単純に、風の吹く夕刻を示していると解釈されますが、しかし、「主なる神」が「霊」なる神と共に園の中を進んで来られたと読むこともできるでしょう。そして、アダムとエバの罪を覆うため、動物が犠牲になったことが、主イエスの贖いを示すとすると(同21節参照)、三位一体なる神の働きが記されていることにもなります。

 話を元に戻して、聖霊が、「イエスは私の主です」と言わせて下さるというのは、単なる合言葉などではなく、私たちが生活を通して、つまり、語る言葉や振る舞いを通して表していく、信仰の告白、証しなのだと教えられます。それを、どのように表現しようかと私たちが自分で考えるということではなく、信仰をもって主イエスの御言葉を求め、祈りをささげるときに、聖霊の働きによって表されていくと言われるのです。

 パウロは祈りを通して、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の言葉を聞きました(第二コリント書12章9節)。弱さがあればこそ神に頼り、そこで聖霊がどのように働かれるかを期待するわけです。そして、神が弱い私たちを用いて、どのような御業を表して下さるかを知るのです。それは素晴らしい、嬉しい体験です。

 特に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・わたしの証人となる」と言われており(使徒言行録1章8節)、聖霊は私たちが主イエスを告げ知らせるために力を与えて下さいます。主に仕える者として、私たちに今最も必要なのは、この聖霊に満たされることではないでしょうか。

 エフェソ書5章18節に、「聖霊に満たされなさい」と命じられています。また、ルカ福音書11章9,13節には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。・・天の父は、求める者に聖霊を与えて下さる」と約束されています。聖霊がいつも私たちと共にいて、私たちを助けて下さることを信じ感謝しつつ、御霊の力を頂いて、主の福音宣教の業に用いて頂きましょう。

 主よ、御言葉の約束の通りに聖霊を私たちの内にお遣わし下さって、感謝致します。聖霊が私たちの内におられ、常に共にいて、私たちを助け導いて下さいます。どうか、聖霊の導きによって、私たちを栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変え、主の証人として整え、用いて下さい。 アーメン






1月29日(水)の御言葉  ルカ福音書11章

「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」』」 ルカによる福音書11章2節

 ルカは、主イエスが祈られる方であったことを、折々に伝えています(3章21節、5章16節、6章12節、9章18節、28節など)。それは、祈りを通して神の御心を尋ね、また、御心を行う力と助けを求めておられたのでしょう。そこに、主イエスと父なる神との親密な交わりを見ることが出来ます。

 神の御子だから、神の御心など先刻承知で、祈る必要などないということではありませんでした。むしろ、御心を知っておられるからこそ、それを実践するために、祈りを通して神と交わることを必要としておられたということでしょう。

 そのような主イエスの祈りを聞き、その姿勢にしばしば接して来た弟子たちは、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました(1節)。それは、祈りの言葉そのものを教えてくださいという願いでしょう。そこには、主イエスの祈りを聞きながら、いつも、ある程度決まった言葉で祈っておられるという判断があったのではないでしょうか。そして、その祈りの心を教えてほしいという思いも込められていることでしょう。

 主イエスはその願いに応えて、祈りの言葉を教えて下さいました。それが、2~4節に記されている祈りです。これは、「主の祈り」と呼ばれているもので、マタイ福音書6章9~13節にもあります。このことで、主の祈りとは、主イエスが教えて下さった祈りなので、そのように呼ばれるのですが、主イエスがいつも祈っておられた祈りを、弟子たちに分けてくださったものでもあります。

 これらの言葉についても、その心についても、しっかりと読み、学びたいところです。その中で一つだけ、冒頭の、「父よ、御名が崇められますように」という祈りの言葉を、心にとめたいと思います(2節)。

 主イエスは、神に対して、「父よ」と呼びかけられました。ギリシア語原文では、「パーテル」と記されていますが、主イエスの口から出たのは、アラム語の「アッバ」という言葉でしょう(マルコ福音書14章36節、ローマ書8章15節など)。「アッバ」とは、ユダヤ人の家庭で幼児が父親に向かって呼びかける、「父ちゃん」とでもいうような言葉です。

 私たちが神に向かってそのような言い方をするのはあまりにも不謹慎、なれなれし過ぎるなどと批判を受けそうですが、しかし、主イエスがそのように祈れと命じられていること、その心を受け止めるべきでしょう。主イエスは私たちを神の子どもとするために、ご自分が犠牲となられたのです。

 そして、「御名が崇められますように」という第一の祈りです。この祈りは、誰が誰の御名を崇めるのか、ということが重要なポイントであろうと思います。「御」とは、原文では「あなたの」という言葉ですが、神に対して「あなた」という表現を用いることを避けて、「御」と訳されています。あなたと呼びかけた相手は、祈りを聞いて下さる神なのですから、神の御名が崇められるように、という祈りです。

 そして、「崇められるように」という訳語は、すべての人々から神が崇められるようにと解釈されてのものと考えられます。原語は、「聖とする、清くする」(ハギアゾウ)という意味の動詞(アオリスト[不定過去]、受動態、命令形)で、岩波訳では、「あなたの名が聖なるものとされますように」と訳しています。

 「御名が清くされますように」と祈るということは、御名が汚されているという判断がそこにあります。そして、御名の汚れを清めることができるのは、神ご自身のほかにはいないということです。

 それでは、誰が御名を汚したのかということになりますが、それは、神の御旨に背き、御言葉に従い得ないすべての人によって、ということでしょう。この祈りを真剣に祈る人は、神の御名を汚したのは、自分自身であることを知ります。私が汚した神の御名を、神ご自身が清めてくださるように、と祈っているわけです。

 これほど虫のよい話はないというところですが、それ以外に、私たちが再び神の子として、御前に立つ道はありません。「わたしが道であり、真理であり、命である」と言われた神の御子キリストが(ヨハネ福音書14章6節)、私たちのために十字架にかかって死んでくださったというのは、まさにそのことでしょう。御名の汚れを清めるために、キリストが血を流されたのです。

 主の祈りを唱えつつ、日々主に感謝し、御旨に歩む者とならせていただきましょう。 

 天のお父様、私たちに祈りを与えてくださり、感謝致します。今日も、お父様の御名が崇められますように。御子イエスの贖いの御業のゆえに私は神の子とされました。お父様から頂いた愛の広さ、長さ、高さ、深さのいくらかでも理解することが出来、感謝と喜びにあふれる日々を過ごすことが出来ますように。 アーメン







1月28日(火)の御言葉  ルカ福音書10章

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカによる福音書10章42節

 ルカは、主イエスの身の回りの世話する女性たちがいたことを報告していました(8章2,3節)。そのような女性たちの仲間だったのかどうかは分かりませんが、ある村でマルタとマリアという姉妹の家に迎えられました。ヨハネは、この村をベタニアと紹介しています(ヨハネ福音書11章1節)。ベタニアは、エルサレムの南東約3㎞のオリーブ山東麓に位置しています。

 そうであれば、ペトロが信仰を言い表したフィリポ・カイサリア(9章18節以下、マルコ福音書8章27節以下)からエルサレムのそばのベタニアまでおよそ150㎞の距離を、ずいぶん速いテンポでおいでになったことになります。

 17章11節に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあり、再びベタニアからガリラヤ方面に戻っておられるので、ルカはヨハネ同様、公生涯の間に何度かエルサレムに上られたと考えているのかもしれません。

 主イエスがエルサレムに上られるのは、祭のときと考えられます。そこで、家の女主人であるマルタは、祭の客をもてなすため、腕によりをかけて忙しく立ち働いています(40節)。ところが、妹のマリアは主イエスの足もとに座って話しに聞き入っており(39節)、手伝おうとはしません。あるいは、マリアだけが主イエスを信じる弟子になっていたのかもしれません。

 マルタは、自分を手伝わず、客の話に耳を傾けている妹マリアに腹を立て、なんと客の主イエスに、私一人だけが忙しくしているのをなんとも思わないのか、自分を手伝うように言ってくれと告げます。彼女の立場や状況を考えれば、それももっともなことだろうと思われます。

 けれども、主イエスはマルタの要求どおりにはなさいませんでした。そうではなく、マルタに対して、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われ(41節)、続けて、冒頭の言葉(42節)で、「しかし、必要なことはただ一つだけである」と仰っています。つまり、マルタが忙しく立ち振る舞っているのは、真に必要なこと以外の、それほど重要ではない多くのことに追われているからだというのです。

 一方、妹のマリアについては、冒頭の言葉(42節)の後半で、「マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。即ち、マリアは本当に重要なものについて知っていて、それを選んだというのです。それが、主イエスの足もとに座って、その話に聞き入っていたという行動です。

 主イエスの言葉を、マルタはどのように聞いたのでしょう。「マリアはよい方を選んだ」ということは、自分は悪い方を選ばされたのだと考えて、ふてくされたでしょうか。あるいは、分かりましたといって、そこに座り、妹と一緒に主イエスの言葉に耳を傾けたでしょうか。

 それとも、たとえば、誰が食事の用意をするのですか、どうやってご一行をもてなすための準備を整えたらいいと言われるのですか、結局は私がしなければいけないんでしょうなどと、主イエスに噛みついたでしょうか。答えは記されていません。どう考えたらよいでしょうか。

 実際の反応は分かりませんが、マルタも、妹のマリア同様、そこに座って主イエスの話を聞くべきでしょう。それが、必要なただ一つのことと言われているからです。主イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために来たと言われ、それは、私たちの身代わりにご自分の命を献げられることでした(マルコ福音書10章45節)。

 マリアのように主イエスの足もとに座って御言葉を聞くことが、主イエスの奉仕を受け入れることであり、その命の恵みに与ることなのです。そして、私たちは、パンだけで生きる者ではありません(4章4節)。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです(マタイ福音書4章4節)。これは、パンと神の言葉、両方が必要だということではありません。パンも、そのほかの必要も、神の口から出る御言葉で与えられるという信仰の表明です。

 つまり、そのとき、ベタニアの家の真の主人は主イエスで、マルタもマリアも、主イエスの命のもてなしを受けるべきときだということです。「今日」を逃してしまえば、マルタがその恵みに与ることはできなくなるのです。

 主よ、私たちはあなたの奉仕を受けて生かされています。今日もその恵みに与らせて下さり、感謝致します。主の恵みを頂くからこそ、日々の務めに勤しむことが出来ます。そこで思い煩うことから解放されています。どうか、絶えず私たちの心を恵みの光で照らして下さい。でなければ、必要なただ一つのことが出来なくなってしまいますから。 アーメン







1月27日(月)の御言葉  ルカ福音書9章

「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」 ルカによる福音書9章6節

 主イエスは、使徒としてお選びになった十二人を、御もとに呼び集められ(1節、6章13節)、彼らに悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授け(1節)、神の国の福音を宣べ伝え、病人をいやすために派遣されます(2節)。すなわち、十二人は、主イエスの代理として、その言葉と業において主イエスと同様の働きをするために遣使わされるのです。振る舞っているのです。

 福音書の記事によれば、使徒たちは主イエスの御心を本当に弁えていたとは言えません。むしろ、理解出来ずに叱られていました(マルコ福音書4章13節、40,41節、6章51,52節、8章17節など)。そもそも、主イエスが彼らを選ばれたのは、弟子として素質があり、相応しい教養などを身につけているからというのではありません。

 また、彼らを一からみっちり仕込み、使徒としてどこに出しても恥ずかしくないよう十分に鍛えてから、派遣するということでもありません。彼らは未熟なまま、欠点だらけ、弱点だらけのまま、遣わされます。

 そこに、福音宣教の緊急性といいますか、重大さが示されているように思われます。私たちの側の条件が整っているから伝道するというのではなく、伝道する必要があるから、福音が伝えられるのを待っている人々がいるから、伝道するのです。

 また、伝道は自分の知識や経験、力によってするものではなく、主の導きと助けをいただいて行うものなのです。そのことを実地で学ばせるために、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)と言われています。全く軽装で遣わされました。

 そのとき、彼らが頼ることの出来たものはただ一つ、彼らに授けられた主イエスの力と権能だけでした(1節)。彼らはその力と権能を携えて、出かけて行きました。知恵も力も経験も、全く不十分であることは、承知の上です。ゆえに、ただ主イエスの力に依り頼み、託された主イエスの福音を宣べ伝えたのです。

 すると、主の力が彼らと共に働いて、福音を告げ知らせることができ、また、病気が癒されるという成果をもたらしました。主イエスの御言葉に従って出て行き、御言葉に従って語り、御言葉に従って病気をいやしたのです(6節)。

 それは、十二人がしたことですが、しかし勿論、彼らの力ではありません。神の力です。神の力が、彼らの弱さを通して働いたのです(第二コリント書12章9,10節)。彼らは、全く未熟な主イエスの僕です。欠けた土の器に過ぎません。けれども、その器の中に本物の宝があったのです(同4章7節)。

 パウロがテモテに対し、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」と記されていますので(第二テモテ書1章6,7節)、テモテが福音宣教に対して、臆病風に吹かれているようなところがあったのではないでしょうか。

 「神の賜物を、再び燃え立たせなさい」ということは、かつて、よく燃えていたように、もう一度燃え上がらせることを求めています。これは、テモテが福音宣教の使命を果たすために、新らしい賜物が必要なのではなく、既に与えられている、否、初めから与えられていた神の賜物を、十分に活用することを求めているわけです。

 そのうえで、 パウロは、自分の殉教のときが迫って来ていると告げつつ(第二テモテ書4章6節以下)、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」と命じています(同4章2節)。確かに、手紙を書き送ったパウロにとって、「折の悪いとき」かもしれません。しかしながら、それで口をつぐもうというのではなく、福音宣教に励もうというのです。

 昔はよく街頭でのビラ配り、車にスピーカーを積んで集会の宣伝、塀や電柱にたくさんの看板やポスターを張り出し、道に横断幕を張ったりして、町の人々に集会の案内をしたものです。一週間連続伝道集会ということもありました。でも今はそういう時代じゃない、そういう声を聞きます。

 確かにそうかもしれませんが、時代があらたまって、伝道する方法や手段は変わっても、伝道しようというその情熱、人々に救いを伝えようという熱い思いは変わりません。私たちを選んでくださった主イエスの御言葉に従い、家族に、知人友人に、御言葉を伝えましょう。そのために祈りましょう。

 主よ、私たちも欠けた土の器に過ぎません。自分のうちになんら誇るものはありません。しかし、この私たちの中に、真の宝であられる主イエスが住んで下さっています。主が共におられるという平安と喜びを感じています。私たちにも福音を告げ知らせることが出来ますように、聖霊の力を与えて下さい。家族を、知人友人を導かせて下さい。 アーメン




1月26日(日)の御言葉  ルカ福音書8章

「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 ルカによる福音書8章39節

 主イエスが、ガリラヤ湖の南東のゲラサ人の地に湖を渡って行かれました(22,26節)。ゲラサの地は、ガリラヤ湖の南方およそ60㎞に位置しています。マルコ福音書5章20節によれば、それはデカポリス地方、即ち、ガリラヤ湖の南東、ヨルダン川東部地域にあった、ヘレニズム時代の自由都市連合(デカポリスは、10都市という意味)地域にありました。

 それでは、ガリラヤ湖から遠すぎて、「向こう岸にあるゲラサの地」という表記に合わないと考えて、「ゲラサ」をガリラヤ湖の南東およそ10㎞の「ガダラ」、あるいはまた、ガリラヤ湖東岸の「ゲルゲサ」としている有力な写本があります。誤りを修正しようと考えて書き換えが起こったということであれば、もともとは、やはり「ゲラサ」と記されていたのでしょう。

 ゲラサ人の地には、一人の男性がいました。主イエスがガリラヤ湖を渡られたのは、この男性にお会いになるためでした。この男性について、27節に、「湖の町のもので、悪霊に取りつかれている男がやってきた。この男は長い間、衣服を身につけず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」と記されています。

 墓場は、死者を葬った場所です。ユダヤでは、死者に触れると「汚れる」と考えられていました。墓場を住まいとしていたということは、自らそこに住みたかったというよりも、そこにいるしかなかったということでしょう。彼は悪霊に取りつかれていて、鎖でつながれたり足枷をはめられたりしていたのに、それを引きちぎったとも記されています(29節)。町の人々は、そのような人物を、町の中に住まわせるわけにはいかなかったのです。

 衣服を身に着けていないということは、彼を守るものが何もないというしるしです。孤独でただ一人、苦しみの中に置き去りにされて、暴れていました。様々な束縛を力ずく引きちぎって自由を求めますが、それは、却って自分を傷つける行為だったことでしょう。彼自身、自分が何をしているのか分からなかったのかも知れません。

 主イエスが汚れた霊に出て行くように命じると(29節)、悪霊どもは、底なしの淵に行けと命ぜられることを恐れ(31節)、豚の中に入る許しを請います。イエスがお許しになると(32節)、悪霊どもはその人から出て豚の中に入り、豚の群れは、湖になだれ込み、溺れ死んでしまいました(33節)。

 悪霊を追い出してもらった人は、正気になり、服を着て、イエスの足もとに座りました(35節)。服を着たということは、彼を守るものがあるということです。主イエスの足もとに座っているということから、その服をお与え下さった方、つまり、彼を守る方は、主イエスであるということが明らかになります。

 悪霊を追い出すという神の御業を行われた主イエスに対して、二つの反応が示されます。一つは、主イエスを恐れて、「自分たちのところから出て行ってもらいたい」という反応です(37節)。ルカは、「彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである」の説明しています。何ものをもってしても縛りつけておけなかった男より、さらに強力な力を持った人物の存在は、恐怖そのものだったのかもしれません。

 それにしても、「恐れに取りつかれていた」というのは、まるで、男性から出て行った悪霊が、町の人々に取りついたかのような表現です。マルコの並行記事(マルコ福音書5章1節以下)によれば、主イエスに出て行くように願った理由が、悪霊を追い出してもらった一人の人物と豚2千匹を天秤にかけて、損失の大きさに驚いてのことだったようです。

 それは、本当に正気なのかということでしょう。そういえば、悪霊に取りつかれていた男性も、はじめは主イエスに向かって、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っていました(28節)。即ち、悪霊にとって主イエスの存在は、自分たちを苦しめるもの、近づきたくないものなのです。

 悪霊を追い出した主イエスに対するもう一つの反応は、癒された男が示した、「お供したい」という反応です(38節)。自分を墓場に追いやった町の人々、主イエスに出て行ってほしいと願った町の人々と一緒にいたくなかったということもあるでしょう。しかし、それ以上に、素晴らしい恵みをお与え下さった主に、心からお仕えしたいと思っていたことでしょう。

 主イエスは、町の人々の願いに応じて、町を離れられます(37節)。しかし、癒された男性の願いは許されず、冒頭の言葉(39節)を語られました。男性にとって、それは残念で、ある意味で辛いことだったかもしれません。

 けれども、主イエスが彼に家に帰ることを命じ、町の人々に主イエスのなさった神の御業を語り聞かせるようにと、派遣されたのです。それが、この男性に与えられた、主イエスに仕えることだったのです。そして、この男性は、その通りにしました。自分になされた主イエスの御業を町中に言い広めたのです(39節)。

 そのとき、彼は主イエスに着せられた服に示された、主イエスの守り、キリストの霊の導きを豊かに味わったことでしょう。真理に従う者には力が与えられるからです(第二コリント書13章8節)。

 主よ、私たちは主イエスと出会うまで、人生の目標が墓場、死であることにおびえ、平安がありませんでした。しかし今、主イエスを知り、心に平安と希望を与えられています。この恵み、喜びを町中に言い広めることができますように。町中の人々がこの平安と希望を心に頂くことができますように。 アーメン




1月26日(日)主日礼拝説教動画配信


1月26日(日)主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。
ご覧ください。

説教題 「多くの国民の父」
聖 書 創世記17章

「アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』」 創世記17章1節

 冒頭の言葉(1節)に、「アブラムが99歳になったとき」とあります。16章16節に、「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であった」と記されておりました。わずか1行進む間に、13年という月日が経過したことになります。その間、アブラムと妻サライ、側女ハガルと息子イシュマエルはどのような生活をしていたのか、全く不明です。
 
 ここで主は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」とアブラムに語られました。「全き者となりなさい」と言われたということは、アブラムが全き者ではないということです。神に聴き従って来なかった、神の前に不完全な存在だということです。

 ですが、人間は誰も不完全なものでしょう。誰が完全になれるのでしょうか。そんなことが実際に可能なのでしょうか。しかしながら、神はここで、「全き者となりなさい」と言われました。つまり、そうなることが神の御心だということです。99歳のアブラムが、どうすれば完全な者となることができるのでしょうか。

 勿論、自力で完全になれる人はいません。だからといって、「神様、無理です、出来ません」と言えば、それですむわけでもありません。主は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われたのです。私たちが全き者となれるのは、そのように命じられる全能の神の力です。神が「光あれ」と言われると、闇に光が出来ました(1章3節)。闇が努力して光輝いたわけではありません。神はここに御自分を、「全能の神」(エル・シャダイ)と自己紹介しておられます。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ福音書18章27節)のです。

 主の御言葉に望みをかけて、完全目指して歩み始めましょう。完成してくださるのは神です。そう信じるからこそ、望みに溢れて、今歩み出すことができるのです。

 主よ、あなたは確かに全能の神であられます。あなたに出来ないことはありません。あなたが語られたことは必ず実現すると信じます。不信仰な私を助けて下さい。絶えず主の御言葉に聞き、信仰に堅く立つことができますように。 アーメン



1月25日(土)の御言葉  ルカ福音書7章

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」 ルカによる福音書7章13節

 11節以下の段落には、「やもめの息子を生き返らせる」という小見出しがつけられています。11節に、「ナインという町」と記されています。これは、ナザレの町から南東9kmほどのところにある小さな丘のふもとの町で、「愛らしい、楽しい」という意味の名前です。しかし、そこで主イエスが出会ったのは、ピクニックに出かけようという若者たちの列ではなく、死んだ一人息子を葬るために墓地に向かう、やもめとその町の人々という葬列でした。

 「やもめ」というのですから、既に夫を失っておられる女性です。そして今、「一人息子」を失いました。この女性をどのように慰め、励ますことが出来るでしょうか。否、むしろ他人の慰めや励ましを拒否して、ただ嘆いていたい、泣いていたいという心境ではないかと想像します。そのような事情をよく知る町の大勢の人々が付き添っています。黙々とということでしょうか。あるいは一緒に涙し、声を出して泣きながらということでしょうか。

 確かに、誰でも死を迎えます。私たちにも、やがて召される日が来ます。驚くようなことでもありません。しかしながら、先に夫を亡くし、今また一人息子を失って、一人ぼっちになってしまったその女性に、こういうことは世の常だ、やがて皆死ぬんだなどと、無神経に言うことは出来ません。彼女自身、自分も死んでしまいたいと思っているのではないでしょうか。

 その葬列に主イエスが目を留められました。冒頭の言葉(13節)をご覧ください。そこに、「憐れに思い」と記されています。原文には、「スプランクニゾマイ」という動詞のアオリスト(不定過去)形が用いられています。これは、「内臓が痛む」という意味の言葉です。この女性を同情する思いは、主イエスの内臓を傷めるほどのものであったという表現です。

 主イエスが、前からこの婦人を知っておられたということではないと思います。ほとんど偶然に出会ったということだと思うのですが、しかし、葬列の婦人を御覧になったときに、心が激しく動き、内臓が痛むほどに彼女の心に寄り添われたわけです。

 冒頭の言葉を原文で読むと、「彼女を見たとき、イエスは彼女を深く憐れみ、そして、彼女に『泣くな』と言われた」と記されています。即ち、「彼女」(アウテー)が3度出て来るのです。「彼女」を何度も繰り返して語るのは、日本語の文章としておかしいので、冒頭の言葉のように訳されているわけです。ルカがそのように記したのは、主イエスがそれほどにこの女性に目を留め、心を注ぎ、集中しているということではないかと思われます。

 そして、「泣くな」と言われました。それは、「泣いてはいけない」、「泣くのは可笑しい」ということではないでしょう。主イエスは6章21節で、「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われました。これは、泣くことが幸いと言われているのではなくて、神によって慰められ、涙を笑いに変えていただくことことができるということです。

 主イエスが女性に、「泣くな」と言われたのは、それこそ、泣くこと以外に自分の心を向けることができない女性の心に、主イエスが寄り添ってくださるということです。そして、一人息子の死を悼んでいる彼女を慰め、その涙をぬぐい、悲しみを喜びの笑いに変えようと仰っているということです。

 私たちが葬儀のときに、ご遺族に対して、「神様の慰めがありますように」、「主イエスの慰めと平安がありますように」と語るのは、ここで主イエスが、泣いている女性に、「もう泣かなくともよい」と声をかけて下さっていること、そして、本当に彼女の涙をぬぐって下さったことに基づいているのです。

 先日、名古屋に住む叔父が主の許に召されたという知らせがもたらされ、カトリック教会で葬儀が営まれました。長く伏せっていた叔父ですが、しかし、叔母が叔父の死を本当に悼んでいるということでした。主イエスは叔母にも、「もう、泣かなくてもよい」と語ってくださり、深い悲しみの中にある叔母や従兄弟たちに深い同情の心を寄せてくださり、そして、憂いを喜びに、涙を笑いに変えて下さると信じます。

 主よ、あなたは私たちのことを本当によくご存知です。確かに、髪の毛の数も数えておられるほどに、痒いところに手が届くという取り扱いをして下さいます。驚きをもって、御言葉を聞きました。あなたが驚くべき御業をもって私たちを慰め、癒し、そして喜びをお与えくださると信じ、感謝いたします。 アーメン




アサナギ New Year Concert at 大牟田教会

表題の「アサナギ New Year Concert」を、昨年に続き、今年も開催させて頂くことになりました。

と き 1月25日(土)午後6時半開場、7時開演
ところ 大牟田バプテスト教会(電話0944-52-4286)
入場料 大人 1,000円 中高生 500円

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写真をクリックすると、新しいウインドウでより大きな写真をご覧いただけます。

どなたもぜひお出かけ下さい。



1月24日(金)の御言葉  ルカ福音書6章

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」 ルカによる福音書6章47節

 20節以下には、マタイ福音書5~7章の、「山上の説教」とよく似た話が集められています。ルカ福音書版山上の説教というところですが、直前の17節のところに、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」と記されていることから、「平地・平野の説教」という言い方をします。

 これは、ただ単に、主イエスが山と平地、別々の場所で説教されたということではありません。古来、山は神と出会う場所です。マタイは、山上の説教において神と出会うことが出来ると考えているわけです。一方、平地は人々が生活している場所です。ルカは、世の人々が生活の場でこの説教を神の御言葉として聞き、それに従うことを求めていると考えられます。

 46節以下のたとえ話は、平地の説教の結びとして語られています。それは、よく似たたとえ話が、山上の説教の結びとして語られているのと同様です(マタイ7章24節以下)。このたとえ話が語られた目的は、明らかです。それは、主イエスの言葉を聞き、それを行う者となることです。そうするのが主イエスの真の弟子なのです。

 ただ、岩の上に土台を置いて家を建てたのか、或いは土台なしで地面に家を建てたのかということについて、一見してそれを判別するのは易しくありません。どちらも立派に建ててあるように見えます。これは、主イエスの御言葉を聞いて行う人と、聞いても行わない人とは、外見では判別出来ないということを示しています。

 そして、それを判別しなさいと言われているわけでもありません。むしろ、先走って裁いたりするな、と教えています(マタイ13章24節以下)。ただ、自分のことは分かるでしょう。御言葉を聞いて行っていますか、それとも聞いただけで行っていないでしょうか。手を上げなさいとは申しません。言うまでもなく、主イエスは聞いて行うことを求めておられます。行わない者であってはならないのです。
 
 ところで、主イエスの御言葉を聞いて行いなさいということであれば、たとえ話にしなくても、直接そのように語ればよいと思います。なぜ、主イエスはたとえ話をなさったのでしょうか。そのことについて、このたとえ話から二つのことを考えましょう。

 まず、「地面を深く掘り下げ」(48節)と言われていることです。この言葉で示されているのは、家の土台となる岩は土の中に隠れているということです。岩が見えていないのです。ですから、土を深く掘って、その岩を見つけなければなりません。

 これは、聖書の文字面を追い、そこに書かれている通りにすればよいというのではない、と教えられます。むしろ、文字の奥に隠されている主イエスの御心を探れ、と語っているのです。それには、どうすればよいのでしょうか。それは、主に尋ねることです。祈るということです。そこに、交わりがあります。

 交わりは、一朝一夕で出来るものではありません。相手を深く理解するためには、時間がかかります。互いに挨拶を交わし、言葉を交わし、そして行動を共にするうちに親しくなり、深く交わるようになります。

 聖書を通して神の御心を悟り、それを行うというのも、同様でしょう。最初は、挨拶のようなもの。読んでそこに書かれていることを理解します。理解出来ないところは調べます。御言葉を理解しても、それで神の御心を悟ったということにはなりませんが、しかし、それは御心を悟る助けとなります。言葉が理解できなければ、親しく交わることが出来ないからです。
  
 たとえ話で教えられるもう一つのことは、家の土台が試され、明らかにされるときが来るということです。48,49節に、「洪水になって川の水がその家に押し寄せる」と語られています。そのとき、岩の上に土台を据えて建てられた家は揺り動かされず(48節)、土台なしで建てられた家はたちまち倒れて、その壊れ方はひどいと言われます(49節)。問題は家の建て方などではなく、その土台だというわけです。
 
 土台が岩であれば、どんな自然災害に対しても家は大丈夫、万事OKというようなものではありません。実際、どんな家の建て方をしているかも問題になります。その意味で、このたとえ話が語っているのは、自然災害に強い家の建て方というようなことではありません。「家」で象徴されているのは、私たちの人生です。洪水は日常のストレスとか試練などではありません。私たちの人生を裁く神の裁きです。
 
 洪水が起こらないのなら、洪水に備える必要はありません。地震や津波がないのでしたら、それを心配しなくてもよいのです。しかし、私たちは、そのような災害が起こることを知っています。だから、様々な備えをします。

 私たちの人生も、様々な出来事によって大きく揺さぶられ、流されそうになることがあります。だからこそ、備えるのです。岩の上に家を築こうとするのです。その上で主イエスが問いかけられておられるのは、あなたは、最後の裁きの前に備えが出来ていますか、その土台で大丈夫ですか、ということです。

 神の試練に合格できると胸を張れる人は、どれほどあるでしょうか。私には、その自信はありません。ただ、主の試練は、単に私の土台を試すだけのものではないでしょう。私たちの人生が深く御言葉に根ざしたものとなるように、主が愛をもって私たちを試し、訓練してくださるのです。

 愛の主の御言葉に絶えず耳を傾け、その導きに従って一歩一歩、しっかりと歩ませて頂きましょう。 

 天のお父様、自然災害に負けないような立派な人生を建て上げたいと思っています。しかし、立派な家を建てることはできても、岩を作ることはできません。昨日も今日も永久に変わらない主の御言葉に土台を据えることができますように。 アーメン





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