「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」 ルカによる福音書13章24節
22節以下の段落には、「狭い戸口」という小見出しがつけられています。この段落の始めの22節に、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムヘ向かって進んでおられた」(22節)と記されています。9章51節に、「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されていましたので、ここで主イエスは、十字架にかかられるという決意をもって、町や村をめぐりながら進んでおられるということを示しています。
31節以下の、ファリサイ派の人々とのやり取りは、主イエスがヘロデの領地に入ったことを前提としています。前述のとおり、主イエスはガリラヤを後にして、エルサレムに向かっておられることから、場所としては、ヨルダン川東側のベレアの地に入ったと考えられます。そこも、ヘロデの領地だからです。ということは、22節以下の記事も、ベレアの地か、その北西部(ガリラヤ南東部)での出来事ということになるでしょう。
31節以下の、ファリサイ派の人々とのやり取りは、主イエスがヘロデの領地に入ったことを前提としています。前述のとおり、主イエスはガリラヤを後にして、エルサレムに向かっておられることから、場所としては、ヨルダン川東側のベレアの地に入ったと考えられます。そこも、ヘロデの領地だからです。ということは、22節以下の記事も、ベレアの地か、その北西部(ガリラヤ南東部)での出来事ということになるでしょう。
そのときに、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた人がいます(23節)。それが誰であるかは分かりません。彼には、救われる人は少ないのではないか、という判断があったのかも知れません。主イエスがエルサレムへ向かう姿勢を明らかにされ、しかも、ご自分の死について語り始められておられるからです。
そう尋ねた人にだけでなく、弟子たち一同に対して、主イエスは冒頭の言葉(24節)のとおり、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と語られました。「救われる者は少ないのか」という問いに、「狭い戸口から入るように努めなさい」という回答では、質問と回答がかみ合っていません。これはどういうことでしょうか。
ここで、質問者は、自分は救われるのか、と尋ねているわけではありません。むしろ、自分は救われるだろうと思っていると考えられます。そうでなければ、私は救われるのでしょうか、と尋ねるはずだからです。自分は救われるはずだと思いながら、他のどれほどの人が救われるのだろうかと考えたのでしょう。
家族のことを考えていたのでしょうか。知人友人のことを考えていたのでしょうか。あるいは、救われる者は少ないという答えを聞いて、その少ない者の一人に入ることの出来た自分を誇る気持ちがあったのでしょうか。いずれにせよ主イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉で、まず自分の救いのことを考えなさいと仰ったわけです。
家族のことを考えていたのでしょうか。知人友人のことを考えていたのでしょうか。あるいは、救われる者は少ないという答えを聞いて、その少ない者の一人に入ることの出来た自分を誇る気持ちがあったのでしょうか。いずれにせよ主イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉で、まず自分の救いのことを考えなさいと仰ったわけです。
「狭い戸口から入るように努める」とはどうすることが求められているのでしょうか。そして、「入ろうとしても入れない人が多い」というのは、どういうことでしょうか。
そのように考えている者にとっては、救いの門は狭い戸口となり、入ろうとしても入れない者が多いということになるでしょう。神の恵み、神の賜物を自分の行いで獲得したかのように思い違いしているからです。人目につかないひっそりとしたところ、隠れたところにあるこの戸口を、自分の力や知恵で見つけるのは不可能なのです。
どうすれば、不可能が可能になるのですか。「人にはできないことも、神にはできる」のです(18章27節)。この言葉は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(同25節)と言われた主イエスの言葉に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同26節)と言った人々の問いに答えられたものでした。つまり、救いは神の恵み、神の賜物なのですから、主の恵みに依り頼む以外の道はないということです。
戸口が狭いのは、人間が自力では通れないということ、神の助けを必要としているということ、そして、神の助け以外のものに頼らないということです。そこで、狭い戸口から入らせて頂けるように神に求め、その戸口を見出すことができるように探し、そして、開けてください、入らせてくださいと、戸を叩くのです。そうすれば、求めどおり、見つけることができ、戸が開かれ、入れてもらえるのです(11章9節以下)。
一般に「狭き門」、「狭い戸口」といえば、それは入ることの困難な門のこと、いわゆる難関といわれる門を考えます。たとえば東京大学に合格したとか、司法試験や公認会計士の試験にパスすることなどが考えられます。何故それが「狭い門」なのかといえば、たくさんの人が試験に挑戦しますが、合格する人が少ないからです。
しかし、それが主イエスの語られた「狭い戸口」という言葉の意味ではありません。神の救いは、努力して獲得するものではないからです。エフェソ書2章8,9節によれば、救いは、神の恵み、神の賜物と言われています。ですから、主イエスが、一所懸命努力して、救いを獲得しなさい。努力が足りないと、救いから漏れてしまいますよと言われるはずはないのです。
マタイ福音書7章14節では、狭い門を「見出す者は少ない」と言われていました。つまり、狭い門は、名門でも有名でもない。ひっそりと人目につかないところにあるのです。だから、殆どの人が、その門を見つけ出してもいないのだと仰っているのです。
ただ、「狭い門を見出だす者は少ない」とは、門は絶対に見つけられない、ということではありません。少ないけれども、見つける者がいるのです。それならば、どうして主イエスは、彼がまだこの門を見つけていない、狭い戸口から入ることができていない、と言われているのでしょうか。それは、彼が、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた質問に答えがあります。
自分は救われていると考えたとき、その救いをどのようにして手に入れたと思っているのでしょうか。エフェソ書に記されていた通り、神の恵み、神の賜物として与えられたと考えていれば、恵み豊かな、憐れみ豊かな神は、救われる者を制限されるとは考えないでしょう。自分の中に救われるに相応しい特質を見出し、それを持っている者は多くはないと思うからこそ、「少ないのか」という質問になるわけです。
自分は救われていると考えたとき、その救いをどのようにして手に入れたと思っているのでしょうか。エフェソ書に記されていた通り、神の恵み、神の賜物として与えられたと考えていれば、恵み豊かな、憐れみ豊かな神は、救われる者を制限されるとは考えないでしょう。自分の中に救われるに相応しい特質を見出し、それを持っている者は多くはないと思うからこそ、「少ないのか」という質問になるわけです。
そのように考えている者にとっては、救いの門は狭い戸口となり、入ろうとしても入れない者が多いということになるでしょう。神の恵み、神の賜物を自分の行いで獲得したかのように思い違いしているからです。人目につかないひっそりとしたところ、隠れたところにあるこの戸口を、自分の力や知恵で見つけるのは不可能なのです。
どうすれば、不可能が可能になるのですか。「人にはできないことも、神にはできる」のです(18章27節)。この言葉は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(同25節)と言われた主イエスの言葉に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同26節)と言った人々の問いに答えられたものでした。つまり、救いは神の恵み、神の賜物なのですから、主の恵みに依り頼む以外の道はないということです。
戸口が狭いのは、人間が自力では通れないということ、神の助けを必要としているということ、そして、神の助け以外のものに頼らないということです。そこで、狭い戸口から入らせて頂けるように神に求め、その戸口を見出すことができるように探し、そして、開けてください、入らせてくださいと、戸を叩くのです。そうすれば、求めどおり、見つけることができ、戸が開かれ、入れてもらえるのです(11章9節以下)。
何故、入れてもらえるのか。それは、神が私たちを招いておられるからです。神が私たちを招いて入れるように戸を開いて下さっているのです。ですから、主の招きに応えて入ろうとしなければ、戸が閉ざされてしまい、後で頼んでも入れてもらえず(25,26節)、外に投げ出されて泣きわめくほかはないようになる(28節)、と言われているわけです。
天のお父様、私たちを恵みによって御救いに与らせて下さり、心から感謝致します。私たちの家族や知人、近所の人々、この大牟田とその周辺に住んでおられる方々にも、救いの恵みが届きますように。 アーメン