風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2013年12月

いよいよ年越し

あと30分ほどで、今年も終わる。

今年一年、色々なことがあり、長かったなあという思いと、
でも、あっという間の一年だったなあという思いが交錯する。

あっという間と感じるのは、持病の悪化で生活に支障をきたし、入院まで余儀なくされたからか。
前後数か月、とても慌ただしく過ごすことになってしまった。
そのため、色々な方に迷惑をかけ、またお世話になった。
お蔭で、ようやく体調も元に戻りつつある。

特に大きなイベントは、二番目の孫誕生。
4月初めに大牟田に帰って来て、初夏の出産に備えることになった。
そして、一人目の孫は、4か月間、光の子幼稚園に入る。
体を動かすこと、泥んこになることが大好きの孫。
本当に生き生きと4か月を過ごした。
その間に、娘は第二子を出産。
一人目によく似ている。
二度目の出産ということで、娘にも少しゆとりがあり、授乳も順調。
お蔭ですくすく育つ。
8月半ばすぎ、娘たちは東京に帰った。

教会は、1月にアサナギ・西野修平ニューイヤーコンサート、6月にざわめき・チャーチライブと、例年にない特別賛美集会が開かれた。
そして、10月に麦野達一先生を迎えて特別伝道集会。
麦野先生のホルン・ギターと奥様のピアノで、初日は「おしゃべりコンサート」、二日目は特別伝道礼拝。
豊かな恵みを頂き、喜んだ。
それらの恵みが、3名の信仰告白・バプテスマという実となった。
ほかに、1組の夫婦が転入会。

たくさんの恵みを頂いた一年だった。

私たちのために祈り、支えてくださった方々に、そして、主なる神に感謝致します。
良い年をお迎えください。
新しい年、皆さまの上に主の限りない恵みと慈しみが注ぎ与えられますように。 アーメン






12月31日(火)の御言葉  マタイ福音書26章

「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」 マタイによる福音書26章12節

 1節に、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」とあります。「語り終える」は、「テレオウ(終わる、完了するの意)」のアオリスト(不定過去)形が用いられています。アオリストは、一回的な出来事が生じたことを示すものです。主イエスの御言葉を聞くべきときは、終わりを告げたのです。主イエスはそこで、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」と言われました(2節)。

 その日、ベタニアで重い皮膚病の人シモンの家に招かれました(6節)。彼は、主イエスに重い皮膚病を癒していただいたという人ではないでしょうか。重い皮膚病を患った人は、宗教的に「汚れた者」とされて、他者と交わりを持つことが許されませんでした(レビ記13章)。主イエスに癒しを願ってのことらならば、そう記されたはずでしょう。けれども、ここには、それをほのめかす言葉もありません。

 癒されてなお、「重い皮膚病の人」という病名で紹介されるというところに、この病気を患った人に対する差別を見ることが出来ます。彼は、重い皮膚病を患ったことだけでなく、このような差別によって傷つけられ、苦しませられていたことでしょう。しかし、主イエスによって病気が癒され、喜んで一行を食事に招いたのです。

 そこに、一人の女性が極めて高価な香油の入った壺を持って来て、主イエスの頭に注ぎかけました(7節)。それは、思いがけない出来事でしたが、それを見た弟子たちは、何という無駄遣いをするのかと憤慨します(8節)。マルコは、この香油が300デナリオン以上もする高価なものだと言います(マルコ福音書14章5節)。

 確かに、一度に全部注ぎかけるというようなことをしなくても、数滴垂らすだけで十分よい薫りがしたと思います。残りを主イエスに差し上げて、お使いくださいということもできたでしょう。また、彼らが言うように、貧しい人に施すというのも(9節)、神に喜ばれるよいことでしょう。

 しかし、主イエスご自身は彼女を咎めた弟子たちに、「なぜ、この人を困らせるのか」と言い、その行為を、「わたしに良いことをしてくれたのだ」と受け止められました(10節)。それは、「わたしを葬る準備をしてくれた」という(12節)、良いことだというのです。

 死者に香油を注ぐ行為は、ユダヤにおいて、良い業と考えられていたようです。葬りと香油ということで、主イエスは十字架から下ろされた後、急いで葬られたので、香油を塗ることができませんでした。そこで、安息日の翌日、女性たちが香油をもって墓に急ぎましたが、既に主は甦っておられ、やはり、香油を塗ることができませんました。そう考えると、この女性がここで香油を注いだのは、摂理的な葬りの準備だったのです。

 この女性がどういうつもりでそれをしたか、ここには明言されておりません。しかしながら、少なくとも、葬りの準備をしようなどと考えていたとは、到底思われません。女性がどういう素性かも記されませんが、病気を癒していただいたシモンの家族、彼の母親、もしくは姉妹と想像してもよいでしょう。

 そう考えてみれば、それは、感謝のしるしということになります。それも心ばかり、ほんのちょっぴりというのではなくて、それこそ家の宝をすべてささげるというような感謝の表し方だったわけです。一度に全部注いだということで、それが計算づくではない、むしろそうせずにはおれないという行為だったと思われます。

 良いことをしようと考えて行ったわけではないその行為を、主が自分に対して良いことをしてくれたと評価されたのは、6章3,4節の施しの精神を、彼女がここで実行したからと見ることも出来ます。御言葉を実行することを、確かに主は喜んで下さるのです。

 さらに、油を注ぐというのは、主イエスがメシア、油注がれた者であるという表現です。十字架につけられるというときに、そのお方こそ油注がれた王の王、主の主であるというのが、彼女の示した信仰の表明と見られたわけです。ですから、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と評価されるのです(13節)。

 それは即ち、この女性のしたことが、主イエスの死と復活を明言する最初の告知になったということです。女性の名も知らされず、その後、彼女がどのような運命をたどったのかも全く不明ですが、しかし、確かに、女性のしたことは、マタイのほか、マルコ、ヨハネの福音書にも記されて、世界中で語り伝えられています。

 主イエスは、私たちが自覚しないままでなした感謝の行為を、このように最大級の評価をもって喜んで下さるお方なのです。主に感謝のいけにえを献げましょう。

 主よ、この年も数えきれないほどの恵みに与らせていただきました。心から感謝致します。私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を賜っていることか、いつも気づかせてください。そして、感謝を忘れない者とならせてください。心から唇の実、感謝と賛美のいけにえを献げます。新しい年も、全世界にキリストにある希望と平安が豊かにありますように。 アーメン





12月30日(月)の御言葉  マタイ福音書25章

「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた。」 マタイによる福音書25章4節

 天の国のたとえ話として、「十人のおとめがそれぞれともし火をもって、花婿を迎えに出て行く」と、1節に記されています。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と2節で言われますが、その賢さ、愚かさは、学歴やIQなどで測れるものではなさそうです。ここでは、花婿を出迎えるために油を用意していたかどうかが問われているのです(3,4節)。

 油を用意するのが普通なら、それを忘れることはないでしょう。もしも、花婿の到着が遅くならなければ、壺の油は必要なかったと思われます。ところが、その「もしも」が起きてしまいました。花婿の到着が遅れたために、おとめたちは皆眠り込んでしまい(5節)、いつの間にかともし火が消えかかっています。

 そこに、「花婿の到着だ、迎えに出なさい」という声がします(6節)。ときは「真夜中」、そこで、慌ててともし火を整えます(7節)。油を用意していなかった者が、用意していた者に分けてくれるよう頼みますが(8節)、分けてあげるほどはないと断られ(9節)、店に買いに走っている間に花婿が到着して、婚宴が始まります。そして戸が閉められてしまいました(10節)。

 遅れて戻って来た五人は閉め出されしまい、「御主人様、御主人様、開けてください」と頼みますが(11節)、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言われてしまいます(12節)。花婿の出迎えも出来ないような者に用はないと言わんばかりです。

 ここで、「天の国」とは、花婿を迎えて婚宴の席を整えること、そこで開かれる宴を楽しむことと考えられます。この話は、その交わりから閉め出されることがある、という警告になっているわけです。だから、「目を覚ましていなさい」というのです(13節)。

 話の中では、賢いおとめも眠り込んでしまったわけですから、寝ていたことが「愚か」と言われているのではありません。これは、ともし火が消えそうになっていることに気づくのが遅れるという舞台設定ですね。

 この話の要点は、花婿がいつ到着するのか、知らされていないというところにあります(13節)。そのために、いつ来られてもよい備えをしなさいということです。その備え、すなわち、油の用意が出来ている者を「賢い」と言い、その備えのない者を「愚か」と言っているわけです。

 たとえば、客がいつ来るのか知っていれば、掃除を済ませて迎える用意が出来ますが、分かっていなければ、突然やって来た客に散らかったままの部屋を見られてしまいます。だから、いつも掃除をして、誰がいつ来られてもよい備えをしなさいということになります。

 賢い、愚かといえば、山上の説教の最後に、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(7章24節)、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(7章26節)と言われていました。

 24章46節の言葉とあわせて、常に主の御言葉を聞いて行う姿勢を持っている者は、賢い者として宴会の喜びに招き入れられ、聞いても行わない者は愚か者として閉め出される、と考えられます。どうせ宴会には迎えていただけるのだからと高を括らないで、この警告の言葉に心して耳を傾けるべきでしょう。神を畏れるべきです。それ以上に、主の到来を喜び待つ心備えをしたいものです。

 あらためて、油の「壺」という字をよく見ると、何とそこに、十字架が入っているではありませんか。パウロが、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と言っています(第二コリント書4章7節)。

 確かに、油を入れるための「壺」は、土の器でしょう。私たちは、「宝」に相応しい宝箱などではなく、もろく無価値な「土の器」でしかないかも知れません。けれども、主なる神はその「土の器」に「宝」を入れてくださった。「神の栄光を悟る光」を委ねて下さいました。

 その「宝」とは、福音宣教の力といってよいでしょう(同5,6節)。そしてそれは、聖霊によって与えられるものです(使徒言行録1章9節)。そうすると、壺に油を入れて持っておくということは、主イエスの十字架から注がれる聖霊の油を持ちなさいということになるのではないでしょうか。それはまた、キリストの言葉を豊かに宿らせるということでもあります(コロサイ書3章16節、エフェソ書5章18節との関連で)。

 聖霊の導きを祈りつつ、日々主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。 

 主よ、愚かで怠惰な者をお赦し下さい。いつも目覚めていて、主を迎えるよい備えが出来ますように。聖霊の油を注いで下さい。日々御言葉の光をお与えください。 アーメン



 




12月29日(日)の御言葉  マタイ福音書24章

「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」 マタイによる福音書24章46節

 24章には、神殿崩壊の予告(1,2節)に続いて、世の終わりの徴が記されています(3節)。そして、いつ世の終わりが到来するのか、誰にも分からないのだから、目を覚ましていなさいと言われます(36節以下)。

 この段落で興味深いのは、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」と語られている部分です(40,41節)。同じ仕事をしていて、連れて行かれる者と残される者があるというのです。

 分けられる規準は明記されていません。しかし、文脈から、そのときに何をしていたか、ということが問題ではないのです。目を覚ましていたか、世の終わりの到来をわきまえていたか、主人の帰りを待っていたか、その心構えが問われているわけです。

 ということは、23章では、イスラエルの民と、その指導的立場にいる律法学者、ファリサイ派の人々に対する警告が語られていましたが、24章では、教会に集う者たちに対する警告が語られていると読むべきだということになります。教会堂という建物が私たちを守ってくれるわけではありません。教会の一員であるということが、救いを保証しているわけでもありません。

 同じ仕事をしながら、同じ場所にいて、一人は連れて行かれ、一人は残されるというのは、そのことです。私たちは主イエスが語られた言葉を信じて、世の終わりの到来と、主イエスによる最後の審判に向けて、心備えをしていなければならないということになります。

 ですから、「目を覚まして」とは、文字通り24時間寝ないでということではありません。今日か明日、主イエスが再臨されるというならともかく、1年後、2年後、10年後、もっと後かもしれません。それまで寝ないでいることなど、誰にも出来はしません。たとえそれが明日であっても、はたまた、私の死後であってもよいように備えることです。

 その心構えについては、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と冒頭の言葉(48節)で語られているとおりだと思います。この僕は、主人が留守の間、主人から言われたとおりの仕事をしていました。ということは、この僕は、主人がいつも家にいると思って、仕事をしていたのです。主人が家にいないとなれば、仕事が疎かに、いい加減になるのが、私たちの常でしょう。

 この僕がそうしなかったのは、主人に命じられた仕事をすることが楽しかったのではないかとも思います。言われたとおりに仕事を果たすのが楽しみであれば、それを命じた主人がいるかどうかは、問題ではなくなります。その上、それを命じた主人が、やがて戻って来て、その仕事の出来栄えを見てくれるのです。そう思えば、心を込めて丁寧によい仕事をするでしょう。

 つまりこれは、主人と僕との間の信頼関係ということです。主人が留守の間の仕事が託されたというのを、主人の自分に対する信頼であると受け取り、その信頼に応える仕事をするということです。

 私は、自分が24時間監視されて、神が命じられたとおりの生活をしているから大丈夫と胸を張れる人間ではありません。しかし、主が私と共にいて、私を見ておられるのは、私を監視して仕事振りをチェックするためではなく、私の必要を満たし、助けを与えて下さるためです。その愛と恵みを味わうたび、不十分ながら、なんとかして、主の使命を果たしたいと思うのです。

 無に等しいものを敢えて選ばれ、宣教の使命をお与えくださった主に感謝しましょう(第一コリント書1章28節)。それは、私たちの知恵や力で行えるものではありません。それこそ、取るに足りない、無に等しい、世において卑しめられ、見下げられている子どものような存在だからです。ゆえに、主に頼ります。主を信じます。精一杯行って、結果は主に委ねます。

 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(第一コリント書1章30,31節)。 

 主よ、取るに足りない私をも、神の子として愛し、そして大切な使命をお授け下さいました。主の御心がなされるように、必要な知恵と力を絶えず授けて下さい。何よりも、忠実と喜びをもって主にお従いすることが出来ますように。 アーメン






12月28日(土)の御言葉  マタイ福音書23章

「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 マタイによる福音書23章39節

 律法学者、ファリサイ派の人々を非難する言葉に続いて(1~36節)、「エルサレムのために嘆く」主イエスの言葉が記されています(37節以下)。この言葉を繰り返し読んでいると、この非難の言葉は、エルサレムの町に対するものというよりも、イスラエルの民全体のことを指している、特にその指導者に対する非難であるということが伝わって来ます。

 21章1節以下のエルサレム入城の記事以前に、主イエスがエルサレムの町に来られたことを示す記事は、マタイにはありません。16章21節以来、まっすぐにエルサレムを目指して進んで来られました。そこに記されていたのは、エルサレムで祭司長、律法学者らによって多くの苦しみを受けて殺されるという受難予告でした。

 それまで、ガリラヤの地方において、権威をもって神の国の福音を語り(5~7章)、人々の病いを癒し、悪霊を追い出しておられました(8~9章)。そのような主イエスの善き業を伝え聞いていたので、エルサレムの人々は、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」とほめ讃える言葉を叫びながら、主イエスの入城を出迎えたわけでしょう(21章9,15節)。

 けれども、彼らは主イエスがどなたであられるのか、正しく理解していたわけではありませんでした。ですから、一週間もしないうちに、「十字架につけろ」と叫び出し(27章22節)、そして、主イエスが十字架につけられると、「今すぐ十字架から降りるがよい、そうすれば、信じてやろう」と嘲笑するのです(27章42節)。

 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(37節)というのは、神がその民を守るという表現です。しかし、民は主イエスの招きを拒絶してしまいます。神の守りを拒否するのですから、その結果は、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(38節)ということになるわけです。

 これは、エゼキエル書10章18,19節に、「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まったイスラエルの神の栄光は高くその上にあった」と語られていた言葉を思い起こさせます。 

 かつて、主なる神の栄光が神殿から去り、バビロンのケバル川の河畔に飛んで行ったという言葉です。 これは、イスラエルが神に背いたためにその加護を失って、バビロンに滅ぼされ、民は捕囚とされたことを示します。

 冒頭の言葉(39節)で、「今から後、決してわたしを見ることがない」というのは、主の栄光が神殿から飛び去ったように、主が姿を隠される言葉と見ることが出来ますが、しかしそれは、十字架で殺され、墓に葬られるということです。

 しかも、殺そうとする者に向かって語られた言葉なのですから、うらめしや、呪ってやる、たたってやるという表現のように聞こえます。そういう意味が全くないとは言えないようにも思いますが、しかし、決して呪いではありません。というのは、彼らが主の姿を見ないのは、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言うときまでと言われているからです。

 「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのは、「ダビデの子にホサナ」と、歓呼の声をもって主イエスのエルサレム入城を歓迎した言葉です。主イエスを十字架につけて殺そうとしている者たちが、それを言うようになるということは、主イエスがもう一度、エルサレムにやって来られるということになります。即ち、これは、主イエスがこの世を審くために再びおいでになるという預言でしょう。

 そのときに、「十字架につけろ」、「十字架から降りたら、信じてやろう」と言った者たちが、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、歓呼の声をもって迎えるようになるというのです。それは、主イエスが十字架によって人々の罪の呪いをご自分の身に受けられ、それによって、あらゆる人々を罪の呪いから解放し、救う、命の道が開かれたからです。

 救い主イエスを喜びをもって絶えず心の王座に迎え、その御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、どうか私の心の王座におつき下さい。そして、私の人生の主、王として私の人生を導き、御心のままに用いて下さい。主の御名によってこられる方に、世々限りなく栄光がありますように。 アーメン








12月27日(金)の御言葉  マタイ福音書22章

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」 マタイによる福音書22章37節

 34節以下の段落に、「もっとも重要な掟」という小見出しがつけられています。ある人がイエス様に、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうかと尋ねました(36節)。そのとき主イエスは、冒頭の言葉(37節)を引用され、「これが最も重要な第一の掟である」と言われました(38節)。この言葉は、申命記6章5節にあります。

 それに続けて、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」と言われました(39節)。この言葉は、レビ記19章18節にある御言葉です。よく知られている重要な御言葉ですが、この「隣人愛」の規定が、献げ物や安息日などが規定されているレビ記にあるのは意外という方がおられるかも知れませんね。

 主イエスはこのように、最も重要な掟として第一、第二の掟二つを挙げ、そして、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と結ばれました(40節)。「律法全体(トーラー)と預言者(ネビーム)」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、神を愛することと、隣人を自分のように愛すること、この二つの教えに基づいて書かれた、つまり、この二つが聖書の中心だと、主イエスは仰ったのです。
 
 「神様を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」、どちらも「愛しなさい」という命令です。けれども、愛は命じられてするというものではないでしょう。愛しなさいと命令されたら、愛せますか。どうでしょう。

 なぜ、愛しなさいと命令されているのでしょうか。それは、命じておられる神様が、私たちを限りなく愛しておられるから、私たちを本当に大切だと思っていて下さるからです。その愛に気づくとき、神様に有難うと感謝する気持ちになるでしょう。それが、神様を愛することです。
 
 そして、隣人を愛しなさいというのは、神様が私たちだけでなく、私たちの周りにいる人々のことも愛しておられるということに気づくことです。そのことに気づいて、私たちも隣人を大切にすることが出来たら、本当に神様を愛していることになるのです。
 
 こういう面白い話があります。

 「一人の男の子がある日、夢を見ました。なぜか、町中の人の両腕が、ナイフとフォークになっていました。食事に好都合な腕です。ところが、町の人はみんな、おなかをすかしてプンプンと腹を立てています。理由を尋ねると、ひじが曲がらないので、フォークの先の食べ物が口に運べないというのです。確かに、ひじが曲がらなければ、腕を伸ばしたままの状態で食事をすることは出来ません。
 
 困ったなあと思いながら、男の子は、別の町に行ってみました。その町の人もやっぱり、両腕がナイフとフォークでした。でも、その町の人たちは、ニコニコしています。理由を尋ねてみると、その町の人々はちゃんと食事をしているそうです。この町の人も、同じようにひじは曲がらないのです。どうしたら食事が出来るのでしょうか。

 鍵は、愛です。愛があれば、問題を解決することが出来ます。確かに、一人では食べられません。けれども、人から食べさせてもらうことは出来ます。自分も他の人に食べさせてあげることは出来ます。その町の人は、みんなで仲良く食べさせてあげて、おなかいっぱいだから、ニコニコしていたわけです。
 
 もしも、自分の嫌いなものばかり、差し出されたら困ります。他の人に嫌いなものばかりあげたら、嫌われてしまいますね。そうならないために、どうしたらいいんですか。食べたいものを食べさせてもらえばいいんですね。そうして、お互いが気持ちよくなるように、相手のことを考えて、助け合うんです。
 
 助け合う気持ちを忘れて、皆がわがままをしたら、けんかになってしまいます。国と国とがけんかをしたら、戦争になります。戦争はイヤです。皆が仲良くしてほしいと思います。世界中が愛し合って、助け合って、皆が幸せになれるように、気持ちよくなれるように、努力してほしいと思います。

 神様が私たちを愛して下さったように、私たちも愛の神を愛し、そして、お互いに愛し合う者にならせて頂きましょう。 

 天のお父様、私たちを「神の子」とするために、どんなに大きな愛を与えて下さったことでしょうか。考えてみると、ただただ感謝のほかありません。本当に有難うございます。私たちも、神様から愛されているその愛で、神様が愛しておられる隣人、私たちの周りにいる人たちを心から愛する者とならせて下さい。神様の恵みと導きが、いつも豊かにありますように。 アーメン





12月26日(木)の御言葉  マタイ福音書21章

「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」 マタイによる福音書21章7節

 フィリポ・カイサリアでペトロの信仰告白を受けて(16章13節)、受難予告を始められた主イエスが(同21節以下)、いよいよ、エルサレムの町に到着されます。マタイ福音書では、主イエスがエルサレムに来られるのは、これが最初で最後です。

 そのことで、主イエスの公生涯は、通常、ヨハネの福音書の記事に基づいて、3年半と考えられています。けれども、マタイ福音書の記事から、主イエスのエルサレム訪問がただ一度だけだったとすれば、公生涯はおよそ1年ほどだったのではないかと想定する学者もいるようです。

 いずれにしても、決して長い期間ではありません。1年ないし3年半という短い期間の宣教活動によって、主イエスは世界の歴史に影響を与え続けているわけです。このことも、主イエスが神の子メシアであることを証ししていると思います。

 ところで、主イエスのエルサレム入城を描くとき、マタイは不思議な記事を書いています。それは、他の福音書とは違って、2頭のろばを登場させているところです。二人の弟子がろばを探しに行くと、主イエスの言われたとおり、ろばと子ろばがつながれていました(1~6節)。それで二人は上着を脱いで、2頭のろばにかけました。主イエスはその上にお乗りになった、というのです(7節)。

 この情景を想像して下さい。エルサレム入場の際には、小さいろばが主イエスを載せてよろよろ進む、子ろばにとってそれは大変な仕事ですが、しかし、とても光栄な仕事といった印象があります。親ロバもいたとなると、親子2頭のろばに主イエスはどのようにお乗りになったのでしょうか。両方にまたがられたのでしょうか。親ろばに乗られて、子ろばに足をかけたというようなことでしょうか。あるいは、2頭のロバにかけた上着をハンモックのようにして、そこに乗られたということでしょうか。

 いずれも、ちょっとあり得ない感じではないでしょうか。強いて考えれば、最初に親ろばに乗り、その後、子ろばに乗られた、あるいはその逆順に乗られたというのが、一番ありそうなことでしょう。注解書には、子ろばが大群衆の中を落ち着いて歩くことが出来るように、親ろばを一緒に連れて来たのだろうと記されていました。

 ただ、「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」というのを、注解書のように解釈できるでしょうか。「その(上に)」も、「服」も、そして、「それ(にお乗りになった)」も、原文は複数形なのです。素直に読めば、二人が自分の服をそれぞれのろばにかけ、主イエスが2頭のろばにお乗りになったということになるでしょう。

 これは、旧約聖書の預言に従ったという表現で(4節)、5節に、「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」という、ゼカリヤ書9章9節からの引用があります。これで、「ろばに乗り」、さらに「子ろばに乗って」と言われているので、2頭のろばが登場し、そしてそれに乗られたということなのです。

 実は、ヘブライ語の詩文の形式で、同じ事柄を二重に表現する平行法というのがあります。ですから、「ろばに乗り」と「子ろばに乗り」の二つをつなぐ接続詞は、「そして」ではなく、「即ち」なのです。つまり、「ろばに乗り、それは即ち、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と読むのです。

 ところがマタイは、そうしたヘブライ語の文法を考えずに、文章どおり、「ろばに乗り」、そして「子ろばに乗って」と解釈して、2頭のろばを登場させたのです。

 しかしこれは、、マタイの勘違いなどではないかも知れません。マタイは、彼の信仰に基づいて、敢えて2頭を登場させたかったのではないかと思います。というのは、この直前の20章29節以下の「二人の盲人をいやす」という記事も、他の福音書の並行箇所を見ると、盲人は一人ですが、マタイは二人にしているのです。

 二人ということで思い出されるのは、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主イエスの言葉です(18章19,20節)。

 盲人二人が心を合わせて主イエスに呼ばわり、憐れみを願ったとき(20章30,31節)、主イエスは彼らの願いに応えられました(34節)。それと同様、二頭のろばが力を合わせて主のために、奉仕しています。そこに主が共におられ、それを喜んで下さっているというわけです。このメッセージを伝えたくて、マタイが敢えてこのように記しているのです。

 私たちが夫婦で、親子で、家族で心を合わせて祈ることが出来れば、力を合わせて主のためにご奉仕出来れば、どんなに幸いでしょうか。主はそのような祈りに応え、そのような奉仕を喜んで下さるからです。

 主よ、私たちは、まだ荷を運んだことがない子ろばのように、役に立つ知恵も力も経験も足りない者です。しかし、二人が地上で心を合わせるなら、かなえてあげよう。二人三人が主の御名によって集まるなら、わたしも共にいると約束してくださいました。私たち皆で心を合わせて祈ります。どうか、私たちをあなたの御用のために用いてください。そして、御名の栄光を表してください。 アーメン




 


12月25日(水)の御言葉  マタイ福音書20章

「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。」 マタイによる福音書20章14節

 20章1節以下の段落は、「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれる、主イエスのたとえ話です。この話には、不思議なことが書かれています。というのは、ぶどう園の主人が労働者を雇うために、夜明けの6時、朝9時、昼12時、3時に出かけて行き、そして夕方5時にも出て行って、人を連れて来たというのです(2,3,5,6節)。

 そして夕方6時、賃金を支払うときが来ました(8節以下)。そのとき、1時間しか働かなかった者から支払いを始めて、労働者全員に1デナリオンずつ支払ったというのです(9,10節)。不思議なことというのは、この同じ支払いだったというところです。

 最後の者、即ち、朝6時に雇われた者たちは、1時間しか働かなかった者たちが1デナリオンの賃金を受けたのを見て、よほど沢山もらえるだろうと期待したのに、同じ賃金だったので、文句を言ったとあります(11,12節)。それに対する主人の答えは、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」というものでした(2節参照)。確かに、その通りではあります。

 そうして、冒頭の言葉(14節)の通り、雇った全員に同じだけ支払ってやりたかったのだと言い、続く15節で、「自分のものを自分のしたいようにするのは、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と問い返されます。

 「気前のよさ」には「善(アガソス)」という言葉、「ねたむ」には「邪悪な(ポネーロス)目(オフサルモス)」という言葉が用いられています。主人の善(思いやり)と、最初に雇われた者のよこしまな目が対比されているのです。
 
 それは、確かにそうです。しかし、どうも合点がいきません。なぜ、12時間働いても、1時間しか働かなくても、賃金が同じなのでしょうか。それなら、自分も1時間で1デナリオンの約束をするんだったと思うでしょう。5時に雇われたらよかったと思うでしょう。これは、どう考えればよいのでしょうか。

 この話は、「天の国は次のようにたとえられる」(1節)で始まるたとえ話です。天の国というのは、神が支配しておられるところ、神の王国という意味です。神の王国で、神が御自分のしたいことをなさる、つまりその御心のままに振舞われるというのは、当然のことでしょう。そして、私たちはその御心がこの地上でも行われることを願っています。主イエスは、このたとえ話の中で、神の御心がどこにあるかという話をされているわけです。

 一方、最初に雇われた者は、働きに対する報酬を考えています。それは当然のこととして、この話の前提になっています。主人はどの労働者に対しても、報酬として1デナリオンを支払いました。最初に雇われた者は、労働時間と賃金を比較したということです。彼らの、労働時間と賃金を比較し、主人の善に対して文句をいう目を、よこしまと言っています。 

 主人として語られる神は、すべての人を天の御国に招きたいのです。ぶどう園の話から、天の御国に招かれるというのは、何不自由なく遊び暮らすということではなく、そこでなすべき務めが与えられると読みたいと思います。生き甲斐というのは、なすべき務めがあって生まれるものだと思うからです。

 早くから天の国に招かれて務めを与えられた者と、最後にようやく招かれて少ししかその務めを果たすことが出来なかった者と、あなたはどちらになりたいですか。どちらがよいと思いますか。天の国で本当にやりがいのある仕事が出来るのであれば、早く雇われた方が幸せだとは思いませんか。

 そのとき、報酬がいくらであるかは、それほど大きな問題ではないでしょう。食べることが出来るなら、自分の望む働き甲斐のある仕事を選ぶでしょう。賃金が多少多くても、望まない仕事をする気にはならないでしょう。

 天の国とは、死後の世界ではありません。今私たちが置かれている場所を神が支配しておられるなら、そこは天の国です。私たちの心に天の国が設けられるでしょう。私たちの家庭も天の国となるでしょう。何より、教会が天の国であるべきでしょう。

 教会で沢山働く者も、少ししか働けない者も、同じ報酬です。でも、早く招かれ、長く奉仕をすることが出来る者は幸いです。それは何より、主とお交わりする喜び、主が共におられる平安を味わうことが出来るからです。そしてそれは、他では得られない恵みなのです。

 主よ、最後の者として私たちを憐れみ、天の御国の恵みに与らせて下さったことを心から感謝致します。私たちにも主の使命を賜り、自分に与えられている時間、精一杯務めさせて下さい。ここにも、御心がなされますように。 アーメン






12月24日(火)の御言葉  マタイ福音書19章

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 マタイによる福音書19章23,24節

 一人の男が、永遠の命を得るためには、どんな善行を積めばよいかと、主イエスに質問しました(16節)。この男について、20節では、「青年」と言われており、22節には、「たくさんの財産をもっていた」とも記されています。新共同訳は、この段落に「金持ちの青年」という小見出しをつけています。

 金持ちの青年の質問に対して主イエスは、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われます(17節)。続いて、「どの掟ですか」と尋ねられると、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えられました(18,19節)。

 守るべき掟について、マルコ福音書10章19節では、十戒の規定(第5~10戒:出エジプト記20章2節以下)が挙げられているのに対し、マタイは、第5~9戒とレビ記19章18節を、そしてルカは、第5~9戒を挙げています。マタイは、隣人をむさぼるなという第10戒を隣人を愛せよという戒めに置き換え、22章39節に、律法全体と預言者を支える規定として、レビ記19章18節を再び取り上げています。


それを聞いた青年は、「そういうことはみな守って来ました」と胸を張り、「まだ何か欠けているでしょうか」と質問します(20節)。ここに青年は、その生活に自信を持っていたのだろうと思われます。そして、「まだ何か欠けているでしょうか」と言いますが、「欠けたところはない」という答えを期待していたのでしょう。

 ところが、その質問に対して主イエスは、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました(21節)。思いがけない言葉だったことでしょう。青年は自分のことが認めてもらえず、主イエスの言葉にも従えなかったので、悲しみながら立ち去りました(22節)。

 青年が従えなかった理由を、マタイは前述のとおり、「たくさんの財産を持っていたから」と説明しています。確かに、財産を持っている人が、それを全部売り払って貧しい人に施し、無一物になって主イエスに従うというのは、そうそう豊かということではなくても、誰にでも容易く出来ることではありません。

 青年は、真剣に永遠の命を得る道を求めて来たのですが、願いが適わず、悲しみつつ退場していきました。その青年の後姿を見送るようにして語られたのが、冒頭の言葉(23,24節)です。ここで、23節で「天の国」といった言葉を、24節では「神の国」と言っています。御名をみだりに唱えてはならないという十戒の規定に従って(出エジプト記20章7節)、「神の国」を「天の国」と言い換えたのです。

 主イエスは、天の国に入る難しさは、らくだが針の穴を通る以上のことだという言葉で、事実上、それは不可能と言われていることになるでしょう。その言葉を聞いたとき、弟子たちは非常に驚いて、「それでは、だれが救われるだろうか」と言います(25節)。自分たちは金持ちではないから救われるだろうとは考えなかったようです。

 その背景には、豊かさが神から祝福されているしるしと考える考え方があるように思われます。そこで、貧しいのは、神に祝福されていないということになるわけです。ですから、神に祝福されている金持ちが天の国に入れなければ、いったい誰が入れるだろうか、という言葉になるのでしょう。

 主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました(26節)。つまり、救いを善行によって獲得するというのは、出来ることではないということです。ということは、青年に対して出来るはずもないことを要求されたということになるのでしょうか。それはそうかもしれません。出来ないということを教えたかった、ということでしょう。

 私たちが救われるのは、善い行いが出来たからではなく、神の憐れみを受けたからです。青年は、「善い方はおひとりである」(17節)という言葉を聞いたとき、気づくべきでした。それは、自分は善い者ではありませんし、善い者になることも出来ないということです。

 そのことは冒頭の、「らくだが針の穴を通る」の言葉からも確認されます。エルサレムには、「針の穴」と呼ばれる通用口があるそうです。外敵から町を守るために城門が閉じられた後、夜になってキャラバンが到着すると、そのために城門を開くのではなく、その通用口から中に入れるそうです。

 しかし、「針の穴」という名が示すように、この入り口は小さいので、らくだが荷を乗せたままでは通れません。すべての荷を下ろし、体を低くしないと通れないようになっています。そのことから、自分を誇らせるすべての物、持ち物や才能、プライドなどをおろし、すべてを主の御手に委ねるように謙るとき、はじめて天の御国に入らせていただくことが出来る、ということです。

 そこで、私たちに出来るのは、主イエスに頼ること、主イエスに従うことです。そのために、持ち物をみな売り払わなければならないということではありません。持ち物の有無などは救いを保証しません。同様に、善行が救いを保証するわけでもありません。主への信頼、信仰があるかどうかが鍵なのです。

 主イエスが語られる言葉に耳を傾けましょう。出来ないことは出来ないと、素直に申し上げましょう。神が出来るようにして下さるからです。

 主よ、あなたは私たちのことをすべてご存じです。御前にありのままで立ちます。私たちをあなたが望まれるような者に変えて下さい。そうして、御旨を行う者とならせて下さい。主の御旨だけが固く立つからです。御名が崇められますように。御国が来ますように。クリスマスの平和と喜びが全世界にありますように。 アーメン








12月23日(月)の御言葉  マタイ福音書18章

「これらの小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」 マタイによる福音書18章10節

 冒頭の言葉(10節)に、「小さな者」とあるのは、1節以下では子供のことです。そして、子供のようになれと言われます(3節)。さらに、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」それはしかし、もう一度幼くなれ、ということではありません。

 子供は、ものの数に入れられない、無力で無価値なものだと、軽んじられている存在でした。才能があっても、力があっても、それが認められ、正当に評価される子は殆どいません。ですから、親の庇護のもとにいます。そこで、子供のようになるというのは、自分を完全に神の御手に委ね、その導きに従うことを言っているわけです。貧しくてよい、小さくてよい、そのままで神に頼り、その恵みを喜ぶのです。

 その者が一番偉いのであれば(4節)、その人は、無価値とされている子供のような人を受け入れるでしょう。そして、そのような一人を受け入れる人は、主イエスを受け入れる人だと言われています(5節)。言い換えれば、神の御国は、そのような人を受け入れるところであり、主語自身がそのような人を受け入れることを喜びとされているのです。

 そう考えると、低くされること、小さくされることも、神の恵みの賜物ということになります。私たちは、低くされること、小さくされること、それが強要されることを決して喜べません。しかし、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)とあるように、自分を低く、小さくされたのが、憐れみ深き神ご自身であると悟ることが出来れば、その御手にお委ねすればよいのです。

 それだけでなく、神の前に自らを低くされた「小さい者」は、神の庇護の下にあります。6節以下に、小さな者をつまずかせる者は、火の地獄に投げ込まれるとありますが、神が小さい者の味方をしておられるという表現です。さらに、冒頭の言葉です。「小さい者を一人でも軽んじないように」と言われます。最初に申し上げたように、彼らは軽んじられている存在です。神はそのことをご存知の上で、一人でも軽んじないようにと言われるのです。

 神が小さい者に味方して、いつも見ておられると仰っているのですが、ここには面白い表現があります。それは、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」という言葉です。「彼らの天使たち」とは、小さい者を守る天使のことです。

 ヘブライ書1章14節にも、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」とあります。

 小さい者を守る天使たちが天上にいて、「天の父の御顔を仰いでいる」とは、どういうことでしょうか。心の清い者は神を見ると言われていたように(5章8節)、彼らの天使たちは、神の御顔を拝するところに今いるのです。つまり、「小さい者」は、天において神の御顔を仰ぐことの出来る存在として、受け入れられているということです。そのように、神の目は小さい者の上に絶えず注がれているということです。

 この段落では、迷い出た一匹の羊が問題になっています。迷い出た一匹とは、特に価値が高いというものではありません。むしろ、群れに迷惑をかける、厄介な存在でしょう。効率性とか、価値観で言えば、いないほうが群れのためになるのではないか、と考えられる存在です。あの人さえいなければ、万事うまくいくのに、という存在と言えばよいでしょうか。

 しかるに主イエスは、迷わずにいた99匹よりも、見つけ出すことの出来たその一匹のことを喜ぶだろうと言われ(13節)、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と結ばれました(14節)。ということは、その小さな者を探しに行くことが、神の御旨を行うことであり、その者を群れに迎えて共に喜ぶことが、神の喜ばれることなのです。

 私たちも主イエスによって見出された「小さな者」であることを喜び、私たちが神の御旨を喜び行う群れとなるように、御声に聴きつつ歩んでまいりましょう。

 主よ、私たちは人から軽んじられることに耐えられません。しかし、あなたが私たちを御前に価高き存在として受け入れて下さり、感謝します。私たちも互いに、主に愛されている存在であることを認め合い、愛し合うことが出来ますように。 アーメン







livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 4月30日(日)主日礼拝説教
  • 4月30日(日)主日礼拝案内
  • 4月23日(日)主日礼拝説教
  • 4月23日(日)主日礼拝案内
  • 4月16日(日)イースター礼拝 劇・説教
  • ハッピー・イースター案内
  • 4月16日(日)イースター礼拝案内
  • コンテンポラリーダンス公演
  • 花見日和
  • 花見日和
  • 花見日和
  • 4月9日(日)主日礼拝説教
  • 桜がほぼ満開に
  • 桜がほぼ満開に
  • 桜がほぼ満開に
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ