「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいるもの、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」 ヨハネの黙示録17章14節
17章には、赤い獣にまたがった一人の女が出てきます(3節)。それは、本書では「大バビロン」と呼ばれていますが(5節)、ローマ帝国を指しています(14章8節、16章19節参照)。9節に、「七つの丘」とありますが、ローマの町は、テヴェレ川東岸の七つの丘の上に築かれていました。
ローマ皇帝が神のように崇められているときに、皇帝礼拝を拒むクリスチャンたちは、帝国の圧倒的な力の前にまったく無力な存在でした。けれども、冒頭の言葉(14節)の通り、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」とヨハネは語ります。小羊が獣とどのように戦うのでしょう。どのようにして勝利するというのでしょうか。
ローマ皇帝が神のように崇められているときに、皇帝礼拝を拒むクリスチャンたちは、帝国の圧倒的な力の前にまったく無力な存在でした。けれども、冒頭の言葉(14節)の通り、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」とヨハネは語ります。小羊が獣とどのように戦うのでしょう。どのようにして勝利するというのでしょうか。
小羊には、獣を引っかき捕らえる爪はありません。獣を突く角もありません。かみつき、引き裂く牙もありません。小羊の戦いは、力によるものではない、ということです。ゲッセマネの園で主イエスを捕らえにきた大祭司の手下どもに剣を抜いて切りかかった弟子に向かって、主イエスは「剣を鞘に収めよ、剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われ、無抵抗のまま連行されていきました(マタイ福音書26章47節以下など)。
自分を裁く不当な裁判の中では、何も答えられなかったと言われます(同27章12節など)。そして、十字架刑を受けられ、そこで息を引き取られました。これを見る限り、小羊なる主イエスは、悪しき力の前に敗北してしまったとしか、考えられません。主イエスを殺した者たちは、その日、勝利の美酒に酔ったことでしょう。
自分を裁く不当な裁判の中では、何も答えられなかったと言われます(同27章12節など)。そして、十字架刑を受けられ、そこで息を引き取られました。これを見る限り、小羊なる主イエスは、悪しき力の前に敗北してしまったとしか、考えられません。主イエスを殺した者たちは、その日、勝利の美酒に酔ったことでしょう。
ところが、小羊が彼らに打ち勝つと言われるのは、主イエスの死によって、神の救いの御業が完成したからです。悪の力は、神の救いの御業を阻止することが出来なかったということです。主イエスを信じる者は、罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となる資格が授けられます。神の子とされた者たちは、この世のものに対して力で対抗しません。
「勝利を収める」といわれる「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた」、同じように権力の前に無力です。しかし、権力を恐れず福音宣教の働きを進めます。それが神の救いの業だからです。そして、歴史上どんな権力も、福音宣教の働きを阻止出来ませんでした。まさしく、小羊が主の主、王の王だからです。
「勝利を収める」といわれる「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた」、同じように権力の前に無力です。しかし、権力を恐れず福音宣教の働きを進めます。それが神の救いの業だからです。そして、歴史上どんな権力も、福音宣教の働きを阻止出来ませんでした。まさしく、小羊が主の主、王の王だからです。
ところで、キリストはダビデの子と呼ばれます(マタイ福音書1章1節、マルコ福音書10章46節、ローマ書1章3節など)。ダビデは、勿論キリストではありません。罪多き人物でした。けれども、一つその理由を挙げるとすれば、彼は権威に対して力で立ち向かいませんでした。
ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活に入ります(サムエル記上19章11節以下)。その中で二度、ダビデがサウルを手にかけるチャンスがありました。けれども、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけるのを、主は決して許されない」と、そうする意思のないことを示します(同24章7節、26章11節)。ここに、父なる神に完全に服従された主イエスの姿を見ることが出来るというわけです。
ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活に入ります(サムエル記上19章11節以下)。その中で二度、ダビデがサウルを手にかけるチャンスがありました。けれども、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけるのを、主は決して許されない」と、そうする意思のないことを示します(同24章7節、26章11節)。ここに、父なる神に完全に服従された主イエスの姿を見ることが出来るというわけです。
私たちの勝利も、主の御言葉に対する従順さ、忠実さをもって示されるのです。それは、世の人々に対して無力さを示すことかもしれません。しかし、私たちが語る福音の言葉だけが永遠に残るのです(第一ペトロ書1章25節)。
主よ、御言葉に服従するというのは、確かに戦いです。服従することを妨げようとする力が、様々な形で働きかけてきます。自分との戦いということもあります。小羊なる主イエスが主の主、王の王として、いつも私たちの心の王座に君臨して下さい。そして、主ご自身が勝利を収めて下さい。私たちはあなたにお従い致します。 アーメン