風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2013年11月

11月30日(土)の御言葉  ヨハネ黙示録17章

「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいるもの、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」 ヨハネの黙示録17章14節

 17章には、赤い獣にまたがった一人の女が出てきます(3節)。それは、本書では「大バビロン」と呼ばれていますが(5節)、ローマ帝国を指しています(14章8節、16章19節参照)。9節に、「七つの丘」とありますが、ローマの町は、テヴェレ川東岸の七つの丘の上に築かれていました。

 ローマ皇帝が神のように崇められているときに、皇帝礼拝を拒むクリスチャンたちは、帝国の圧倒的な力の前にまったく無力な存在でした。けれども、冒頭の言葉(14節)の通り、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」とヨハネは語ります。小羊が獣とどのように戦うのでしょう。どのようにして勝利するというのでしょうか。
 
 小羊には、獣を引っかき捕らえる爪はありません。獣を突く角もありません。かみつき、引き裂く牙もありません。小羊の戦いは、力によるものではない、ということです。ゲッセマネの園で主イエスを捕らえにきた大祭司の手下どもに剣を抜いて切りかかった弟子に向かって、主イエスは「剣を鞘に収めよ、剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われ、無抵抗のまま連行されていきました(マタイ福音書26章47節以下など)。

 自分を裁く不当な裁判の中では、何も答えられなかったと言われます(同27章12節など)。そして、十字架刑を受けられ、そこで息を引き取られました。これを見る限り、小羊なる主イエスは、悪しき力の前に敗北してしまったとしか、考えられません。主イエスを殺した者たちは、その日、勝利の美酒に酔ったことでしょう。
 
 ところが、小羊が彼らに打ち勝つと言われるのは、主イエスの死によって、神の救いの御業が完成したからです。悪の力は、神の救いの御業を阻止することが出来なかったということです。主イエスを信じる者は、罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となる資格が授けられます。神の子とされた者たちは、この世のものに対して力で対抗しません。

 「勝利を収める」といわれる「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた」、同じように権力の前に無力です。しかし、権力を恐れず福音宣教の働きを進めます。それが神の救いの業だからです。そして、歴史上どんな権力も、福音宣教の働きを阻止出来ませんでした。まさしく、小羊が主の主、王の王だからです。
 
 ところで、キリストはダビデの子と呼ばれます(マタイ福音書1章1節、マルコ福音書10章46節、ローマ書1章3節など)。ダビデは、勿論キリストではありません。罪多き人物でした。けれども、一つその理由を挙げるとすれば、彼は権威に対して力で立ち向かいませんでした。

 ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活に入ります(サムエル記上19章11節以下)。その中で二度、ダビデがサウルを手にかけるチャンスがありました。けれども、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけるのを、主は決して許されない」と、そうする意思のないことを示します(同24章7節、26章11節)。ここに、父なる神に完全に服従された主イエスの姿を見ることが出来るというわけです。
 
 私たちの勝利も、主の御言葉に対する従順さ、忠実さをもって示されるのです。それは、世の人々に対して無力さを示すことかもしれません。しかし、私たちが語る福音の言葉だけが永遠に残るのです(第一ペトロ書1章25節)。

 主よ、御言葉に服従するというのは、確かに戦いです。服従することを妨げようとする力が、様々な形で働きかけてきます。自分との戦いということもあります。小羊なる主イエスが主の主、王の王として、いつも私たちの心の王座に君臨して下さい。そして、主ご自身が勝利を収めて下さい。私たちはあなたにお従い致します。 アーメン





11月29日(金)の御言葉  ヨハネ黙示録16章

「第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、『事は成就した』と言った。」 ヨハネの黙示録16章17節

 16章には、7つの封印(6~8章)、7つのラッパ(8~11章)に続く、第三の災いのグループ(7つの鉢)が登場してきます。災いの種類はそれぞれよく似ていますが、規模が順々に大きく拡大されています。三つの災いと、出エジプト記の災いの記述を比べてみてください。

 ヨハネは、世の終わりに起こる災いを、神の義による裁きとして描きました。神に逆らって悔い改めようとしないものは、苦しめられ、滅ぼされます。それは、度重なる災いでも頑なになって悔い改めようとしなかったエジプトのファラオが、過越の事件と紅海の出来事を通して、最終的に滅ぼされたことを思い出させます。

 その出来事を思い出させながら、今クリスチャンたちを苦しめているローマ帝国による迫害にも、やがて神による裁きがなされ、教会があらゆる苦難から解放される時が来るという希望を示すのです。
 
 16節の、「ハルマゲドン」という地名は、聖書を読まない人々にもよく知られているところでしょう。しかし、正しい意味で用いられているとは思われません。ハルマゲドンとは、「ハル」が山、「マゲドン」がメギドという場所です。つまり、メギドの山という意味です。けれども、メギド山はイスラエルには存在しません。なぜハルマゲドンなのでしょうか。
 
 第一に、メギドに王たちが集められるのは、悪の勢力による最後の抵抗の戦いを連想させます。古来、メギドは何度も戦場になりました。特に、バビロンと戦うために北上するエジプトを阻止しようとしてイスラエルのヨシヤ王が出て行き、メギドでの戦いに敗北して戦死しています(歴代志下35章)。

 ヨシヤ王は、申命記の御言葉に従って宗教改革を断行し、それが祝されて国力を増大することが出来たのです。しかし、その成果に思い上がったのが敗北の原因でした。汚れた霊どもは、メギドでの神の民イスラエルに対する勝利を再現したいと考えているのでしょうか。

 しかし、「メギドの山」は実際には存在しません。存在しない地名が記されているということは、汚れた霊どもと天の軍勢の戦いは、もはや起こらないという意味になるのではないかと思われます。

 第二に、メギドの近く、北西20kmの距離にカルメル山があります。そこは、エリヤがバアルとアシェラの預言者たちを打ち負かした所、主が神か、バアルやアシェラが神かという戦いで、主が神であることが明らかにされたという出来事が起こったところです(列王記上18章16節以下)。

 それで、「ハルマゲドンとはカルメル山のことである」とする学者もいます。そうであれば、汚れた霊どもは、エリヤのときの報復戦を挑もうとしていることになります。

 しかし結局、この場所での戦いは記されていません。戦いが始まったと記される代わりに、冒頭の言葉(17節)に、「事は成就した」という大声が神の玉座から聞こえたとあります。これは、主の勝利宣言です。それにより、大地震が起こり、ローマが引き裂かれ、諸国の方々の町が倒れたと言われます。こうして、戦いは起こらずじまいでした。

 汚れた霊どもによって集められた全世界の王たちは、最後の闘いを戦う前に、あの大きな都バビロンが裁かれたのを見て嘆き悲しむことになるのです(18章9節参照)。

 ヨハネがこれを記しているのは、どこで最終的な戦いが起こるかということではありません。そうではなく、主イエスが贖いの小羊として屠られた後、罪と死に打ち勝って甦られ、天に上げられたことで、既に主の勝利と悪しき勢力の裁きは確定しているのです。クリスチャンたちは、汚れた霊どもに惑わされず、最後まで主イエスの勝利を信じることが求められているのです。

 ローマ皇帝の圧倒的な権力の前にまったく無力に見えるクリスチャンたちが、勝利の主の御手の内に守られていること、そのご支配の中に生かされていることを、この御言葉によって確信を得、励ましを受けたのです。

 どんな問題があっても、神を賛美しましょう。問題があるからこそ、苦しみを味わっているからこそ、歌うのです。そこに主が共にいて下さいます。聖霊を求めて祈りましょう。約束どおり、主は御霊に満たして下さいます。聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれます。

 主よ、マイナスと見える現実にではなく、私たちに勝利を与えて下さる主に目を留め、御名を呼び求めて祈ることが出来る者は幸いです。御言葉と祈りを通して絶えず導いて下さい。御名が崇められますように。御心をこの地にならせてください。 アーメン






11月28日(木)の御言葉  ヨハネ黙示録15章

「わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」 ヨハネの黙示録15章2節

 ヨハネは天で、七人の天使が最後の七つの災いを携えているのを見ます(1節)。それは、地上の悪を裁く神の最終兵器といってよいでしょう。

 彼らが出て行く前に、天でなされている礼拝の様子が2節以下に記されています。そこに、火が混じったガラスの海のようなものがあります。4章6節に、「玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった」とありました。そこに火が混じっているというのは、神の裁きを象徴していると考えられます。

 海と裁きという組み合わせは、出エジプト記の、紅海が分けられてイスラエルの民がエジプトを脱出したあと、追いかけてきたファラオとその軍勢を滅ぼしたという出来事を思い出します。

 過越の事件の後(出エジプト記12章)、ファラオはイスラエルの民を解放したのですが、民が町を出たという報告を聞くと、またもや心頑なになり、もう一度奴隷にしようと、民のあとを追いかけます(同14章6節以下)。

 イスラエルの民の前には紅海、後ろからはエジプト軍がせまってくるという絶体絶命の状況のとき、神は紅海を分けてイスラエルを渡らせ、エジプト軍は全滅させられました(同14章21節以下)。イスラエルはこうして、完全に解放されたのです。

 ヨハネはこの出来事になぞらえて、この裁きの海でローマ帝国に代表される地上の悪は滅ぼされ、キリストに従う者たちに完全な勝利が与えられると表現しているのです。海の岸辺には、「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」が、神の竪琴を手にして立っています(2節)。

 彼らは、その勝利を喜ぶ賛美の歌を歌います。「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが明らかになったからです」(4節)。

 ここではまだ、七人の天使たちは派遣されてはいません。地上の災いは始まってはいないのです。けれども、光あれという一言で光を創られる神です。地上の悪を裁く神の御旨が明らかにされたとき、永遠の真理、究極の真実が支配している天上の神の世界では、既に勝利が完成されたという賛美、それをたたえる喜びの歌が歌われているのです。

 ここに、信仰による賛美を見ることが出来ます。勝利を獲得してから勝利の歌を歌うというのではなく、主が勝利を取られることを信じて、天で歌われている勝利の賛美に和して、賛美するのです。勝利を信仰で先取りして感謝し、賛美するということです。

 火の混じったガラスの海には、もう一つの意味があります。それは、神の幕屋と祭壇の間に置かれていた洗盤です。洗盤は、祭司たちが身を清めるために用いられます(出エジプト記30章18節以下)。ソロモンの神殿には、「海」と呼ばれる大洗盤が置かれました(列王記上7章23節以下)。過越の小羊がささげられ、海を通って神を礼拝したという出エジプトの出来事を追体験するようになっているわけです。

 今日、祭壇はキリストの十字架を、海はキリストを信じた者たちに授けられる「聖霊と火によるバプテスマ」(マタイ福音書3章11節)を示しています。キリストの贖いによって罪赦された私たちが、古い自分に死に、主イエスに従う新しい人生に導かれたのです。ここから、真の礼拝が始まりました。

 今置かれている状況がいかにあっても、天上の礼拝でささげられる勝利と喜びの歌に和して、常に喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で進みましょう。

 主よ、私たちに主イエスを信じる信仰をお与え下り、感謝致します。いつも聖霊に満たされ、どんなときにも御言葉に従って、御名をほめ讃えさせて下さい。主イエスが罪と死に打ち勝たれたように、私たちにも勝利が約束されているからです。 アーメン










11月27日(水)の御言葉  ヨハネ黙示録14章

「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」 ヨハネの黙示録14章13節

 ヨハネは、小羊がシオンの山の上に立っているのを見ます(1節)。5章6節に登場して以来、小羊は玉座の前にいました。それが、シオンの山、即ちエルサレムにいるということで、神を礼拝する場が天上の世界だけでなく、地上にも広げられています。

 しかし、そこで歌われた歌は、「地上から贖われた14万4千人の者たち」、つまり殉教して天に上げられた者たちのほかは、覚えることが出来なかったというのですから(3節)、地上にいる人には聞くことの許されていない賛美ということです。ということは、地上には神の勝利がいまだ実現していないことを示しており、これは、未来に起こることを先取りしているわけです。
 
 それから、三人の天使が地の裁きを宣言します(6節以下)。第一の天使は、いよいよ神の裁きが来たことを告げます(7節)。第二の天使は、大バビロン、即ちローマ帝国が倒れた、と告げます(8節)。そして第三の天使は、皇帝礼拝を行っている者に対する裁きを告げます(9~12節)。
 
 こう告げたあとで、「ここに神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と語られています(12節)。地の裁きを信じて、最後まで神の御言葉に従い、信仰を守り続けるように、という勧告です。ということは、前段と同じように、この裁きが起こるのは今すぐというのではないことが分かります。
 
 それから、天の声がありました。それが冒頭の言葉(13節)です。その声は、「『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と書き記せ」と言いました。信仰を守り続けて死んだ人、死に至るまで忠実であった人は、これから幸いな人と呼ばれることになります。

 この、「幸いである」(マカリオスの複数形)という言葉は、本書中2度目です。1度目は1章3節で、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」と記されていました。守るべきものとは、ここでは、神の命令に従い、信仰を守り続けることと示されます。そうする者に対する祝福が、ここで約束されたのです。
 
 その約束は、「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」というものです。迫害する者の苦難から解放され、天の神の下にかくまわれるので、もはや苦しみを味わうことはありません。まったき安息に入れられます(ヘブライ書4章3節なども参照)。
 
 さらに、「その行いが報われる」と言われています。パウロも、「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と言いました(第一コリント書15章58節)。主が報いてくださるとすれば、それはどんなに大きな喜びとなるでしょう。

 私たちにとっては、天の恵みに入れられるだけでも素晴らしいことです。そこには、私たちの救い主がおられ、顔と顔を合わせるようにして交わることが許されます。それはどんなに感動的なものでしょう。

 そして、先に召された私たちの愛する家族や信仰の友がいます。みんな天使のような存在に変えられているというので(マタイ福音書22章30節参照)、どんなふうに変わっているのか、自分もそうでしょうけれども、天で再会できること、そこで新しい交わりが開かれることを信じられるのは大きな喜びです。
 
 神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続けて、幸いな者としていただきましょう。

 主よ、私たちには大きな希望があります。私たちは主イエスを信じて御国の民として頂きました。ゆえに、主の御顔を親しく拝することが出来ることが出来ます。また、先達と再会できます。そう信ずることが出来ることは、本当の喜ばしいことです。感謝です。私たちも、死に至るまで忠実に信仰を守ることが出来ますように。 アーメン









11月26日(火)の御言葉  ヨハネ黙示録13章

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」 ヨハネの黙示録13章16節

 ヨハネは、一匹の獣が、海の中から上って来るのを見ます(1節)。それは、竜と同じように十本の角と七つの頭を持ち、その権威を授けられていました(2,4節、12章3節参照)。これは、主イエスが十字架に死んで三日目に甦られ、天に上られて天と地の一切の権威が授けられたことを真似て、天から落とされた悪の権威が、神の子たちを苦しめるために、獣に悪魔的な権威を授けたという表現です。

 当時のクリスチャンたちは、ローマ皇帝による迫害で大変な苦しみの中にいました。ここに、獣と表現されたローマ皇帝の権威が、いかに恐るべきものであったかが示されます(4節後半)。まさにこれが、「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」(10節)と言われる所以です。

 そして、竜に仕える第二の獣が登場します(11節)。この獣は、地上の人々に第一の獣を拝ませ(12節)、天から火を降らせて人々を惑わします(13,14節)。皇帝礼拝は、ローマ帝国だけでなく、ローマの威光を身にまとうために、周辺諸国の権力者たちによって積極的に推進されました。

 彼らは皇帝礼拝を徹底するため、冒頭の言葉(16節)の通り、住民の右手か額に刻印を押し、刻印のない者には、売り買いに代表される市民生活が出来ないようにしました。これも、神の僕たちの額に刻印が押されたことの模倣であり(7章2節以下参照)、かつて、イスラエルが神の救いの御業を記念し、主を愛するしるしとして、右手と額に御言葉の印をつけ、覚えとしたこと(出エジプト記13章、申命記6章)を真似ているわけです。

 モーセがイスラエルをエジプトから導き出す指導者として神に立てられたとき、彼が神から授けられたのと同じような力を、エジプトの魔術師も見せることが出来ました(出エジプト記7章11節など)。このように、悪魔の勢力は、絶えず神の真似をして人々を惹きつけ、惑わしています。

 ここにはまず、神の国の方策を学び、それに従うと、祝福に与ることが出来るという真理があります。この真理を悪魔の勢力が利用して、神の子が受けるはずの力や祝福を奪おうとしている、我がものにしようとしているといえるのではないでしょうか。

 また、悪魔が神の真似をするのであれば、それが神の導きか悪魔の惑わしか、見分けがつき難いとも言えます。悪魔は、主イエスを誘惑するのに、御言葉を使うことさえしました(マタイ福音書4章6節)。どのようにしてそれを見分けたらよいのでしょうか。主イエスがなさったように、神は何と仰っているのか、どう教えておられるのか、私たちも御言葉から導きを得なければなりません。

 昨日も学んだとおり、私たちは様々な苦しみを味わい、厳しい現実に出会います。願い通りに行かず、道が開かれないこともしばしばです。しかし、主はいつも私たちと共にいて、私たちの思いを越えたよい道を備えておられると信じます。神の御手がそこに延べられているという信仰を働かせ、現実がいかにあっても、そこで栄光の主を仰ぎ、賛美しつつ歩みたいものです。

 オマケ 17節に、「この刻印とはその獣の名、あるいはその名の数字である」とあり、次いで18節に、「数字は666である」と記されています。これがだれを指しているのか、昔から様々な解釈がなされてきました。というのは、当時、たとえばAが1、Bが2、Jが10、Kが20という具合に、アルファベットを数字代わりに用いていたからです。それをゲマトリア法と言います。そこで、「皇帝ネロ」をヘブライ語で記して、そのアルファベットの数を足し合わせると、ちょうど「666」になります。

 主よ、初代のクリスチャンたちは、信仰のゆえに苦しめられたとき、それを誇りとしました。それは、彼らがその苦しみの向こうに主の十字架を見ていたからであり、さらに復活の主の栄光を仰いでいたからです。主よ、どうか私たちの信仰の目を開いて下さい。忍耐と信仰を学ばせて下さい。 アーメン







11月25日(月)の御言葉  ヨハネ黙示録12章

「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」 ヨハネ黙示録12章11節

 天に大きなしるしが現れます。それは、一人の女の登場でした。「女が太陽をまとい、月を足に下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(1節)とあり、ヤコブの子ヨセフが見た、太陽や月、星がヨセフにひれ伏したという夢を思い出させます(創世記37章9節)。

 これは、真のイスラエルの民、神の教会を象徴していると考えられます。そして、男の子が生まれるというのは、メシア(キリスト)として主イエスがお生まれになることです(5節)。そこに、主イエスの誕生を妨害するために竜が登場します。「七つの頭と十本の角があってその頭に七つの冠をかぶっていた」とあり、7も10も完全数ですから、知恵も力も完全な神のような存在、地上の支配権を持っている、神に敵対する闇の力の象徴です。

 マタイ福音書2章のヘロデ王の行動や、同26章57節以下の大祭司たち、同27章11節以下のローマ総督ピラトの行動の背後に、このような存在があることを思わされます。主を亡き者にしようとして、一時、竜が勝利したように思われました。しかし、神は主イエスを甦らせ、天に上げられました(5節)。竜の企ては失敗したのです。

 7節以下に、ミカエルと竜の戦いが記されます。ミカエルは大天使長の一人で(ダニエル書10章13節など)、天の軍勢を指揮してイスラエルを守ります。この戦いで竜は敗北し、血に投げ落とされます。そして、この勝利を喜び歌う賛美が天に響きます。その歌の中で、竜は、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の前で彼らを告発する者」と呼ばれています(ヨブ記1章6節以下、ゼカリヤ書3章1節以下など参照)。

 しかし、ここに、竜の告発は退けられました(ローマ書8章33,34節)。冒頭の言葉(11節)の通り、小羊の死と殉教者たちの立てた証しの言葉が、教会に不退転の力を与え、それによって、竜の激しい攻撃にも揺るぐことなく耐えることが出来るのです。

 12節に、「残されているときは少ない」と記されていて、まだ救いの完成には至っていないことを示します。けれども、天における勝利の賛美を、共に和して歌うようにと招かれます。それは、今、闇の力がどのように恐ろしく振舞っていても、その運命は既に定まっているということです。

 地に落とされた竜は、その怒りを女に向け、滅ぼそうとします(13節)。女は神の力を受けて荒れ野に行きます。「鷲の翼」は、神から与えられた新しい力を示していると考えられます(出エジプト記19章14節、イザヤ書40章31節など参照)。

 「荒れ野」は、かつて、エジプトを脱出したイスラエルの民が神の真実と恵みを味わい、信仰が養われた場所です(出エジプト記~民数記)。命を脅かす危険がある場所ですが、そこで神の守りと養いをもう一度経験するのです。

 厳しい戦いを戦わなければなりませんが(17節)、主イエスを信じて、この戦いを耐え忍ばなければなりません。この戦いは、全世界の教会と信徒たちに関わるものです。しかし、竜として描かれているサタンは既に失脚し、その怒りも最後のあがきに過ぎないことが知らされているのです。

 私たちは、生きていく中で様々な苦しみを味わい、厳しい現実に出会います。自分の願い通りの道が開かれず、途方に暮れるということも、しばしばです。けれども、主はいつも信じる者と共におられ、私たちの思いをはるかに越えたよい道を備えておられます。

 奇跡とは、「奇」しい「跡」と書きます。今は分からないけれども、振り返ってみれば、神の御手がそこに働いていたこと、そこに神の御業がなされていたということを悟るのです。「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし」(聖歌539番)と、栄光の主を仰ぎ、賛美しつつ歩みたいものです。

 主よ、苦難の前に私たちは無力です。打ちのめされてしまいます。しかし、あなたが私たちと共にいて私たちを守り、力づけ、立ち上がらせて下さいます。ただあなたに依り頼みます。永遠の命の言葉を持っておられるのは、主よ、あなただけです。 アーメン





11月24日(日)の御言葉  ヨハネ黙示録11章

「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上ってきて彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。」 ヨハネの黙示録11章7節

 ヨハネに、物差しが与えられ、神殿と祭壇を測るように言われます(1節)。目的は、神殿のサイズを測ることではなく、神殿の外庭と神域とを区別するためです。神殿の外側は異邦人に与えられ、聖なる都エルサレムが踏みにじられます(2節)。これは、ローマによるエルサレム占領を指していると考えられます(AD70年)。

 そのとき、熱心党という抵抗勢力が神殿を本拠地として、ローマ軍と戦いました。ユダヤ人たちは、敵が都を占領しても、聖所だけは神に守られると期待していたのです。しかし、この期待は裏切られ、神殿も廃墟となってしまいました。ヨハネはそのことも知っていたはずです。

 そうすると、ここで言われているのは、神殿という建物のことではなく、キリストを信じるクリスチャンたちの集まり、教会のこと、あるいはその信仰のことを語っているのでしょう。どんなに苦難が襲ってきても、迫害されても、教会は守られる、信仰を奪うことは出来ない、神が守って下さるということです。

 ということは、ヨハネに与えられた物差しとは、クリスチャンの信仰を測る基準、つまり神の御言葉ということになるのではないでしょうか。基準のことをギリシャ語でカノンと言いますが、英語でキャノンといえば、教会法という意味であり、また聖典、つまり聖書のことを指します。それによって自分たちの信仰が揺らいでいないか、曲げられていないかを測るのです。

 そこに二人の証人が登場し、預言します(3節以下)。その内容は、文脈から考えて、地上の裁きを語ったものでしょう。オリーブの木、燭台とは油に関係があり、神に油注がれた王や祭司、預言者を示します(ゼカリヤ書4章3,11節参照)。

 5,6節から、この二人は、モーセとエリヤのような神の選びの器です。彼らが神の裁きの予告と、そこから逃れるための悔い改めへの招きを語っている間、神の守りがあり、また特別な力も持っていました。

 ところが、冒頭の言葉(7節)のように、底なしの淵から上ってきた獣という悪魔的な存在が、この二人を殺してしまいます。そして、死体をさらし者にします(8節)。地上の人々は、裁きを語る預言者たちの死を喜びます(10節)。神の計画を頓挫させることが出来たと考えたのでしょう。

 しかし、それは恐れに代わります。死んだ二人が甦ったからです(11節)。二人は、それから天に引き上げられました(12節)。彼らが上げられたあと、大地震が起こって町の住民の一割が死に、残った人々は恐れを抱いて神の栄光をたたえたと言います(13節)。

 これは、当時のクリスチャンたちが、苦難の中でも大胆に福音を語っていたことを示しています。彼らには特別な神の守りもあったのでしょう。しかし、多くの人々が殉教しました。キリストが十字架につけられたエルサレムで、どれだけのクリスチャンが犠牲となったことでしょうか。

 しかし、彼らは天に凱旋しました。死は敗北ではありません。最後までキリストに忠実に生きた勝利の証しなのです。彼らは、苦しみの向こうに栄光を見ていたのです。パウロが、苦難をさえ誇ると語っているのも、そのことを言っているのです(ローマ書5章3節)。魂に神の愛と平和が満ちているのです。

 同じ信仰に生かされている者として、私たちも信仰の物差しを持って、主の導きのままに歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちにいつも御言葉を下さって有難うございます。どんなときにも主を見上げ、主に頼り、御言葉に従って歩むことが出来ますように。御名を崇めさせて下さい。 アーメン






11月23日(土)の御言葉  ヨハネ黙示録10章

「わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜ように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。」 ヨハネの黙示録10章10節

 地上に一人の天使が降って来ました(1節)。天使は手に巻物を持っていました(2節)。それは開かれた小さな巻物と記されていますので、神が持っておられた巻物とは違うようです(5章1節参照)。

 しばらくして天からの声があり、その巻物を受け取れと著者に語ります(8節)。巻物をくださいと天使に言うと、天使は、食べてしまえと言います(9節)。言われたとおりに食べると、口には甘かったけれども、腹が苦くなったというのが、冒頭の言葉(10節)です。
 
 これは、どういうことなのでしょうか。以前、英単語を憶えるために、辞書を片っ端から暗記して、暗記したページは食べてしまったという人がいました。それで記憶力が増したということはないと思いますが、何が何でも憶えるのだという気迫が伝わってきます。英語を自分のものにするということですね。同じようなことを、ここに見ることが出来ると思います。

 著者がその巻物を食べたのは、11節によれば、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちについて、預言するためです。そうするとこれは、エゼキエル書2~3章に記されている預言を敷衍したものということが出来そうです。

 エゼキエル書3章1節に、「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」という言葉があり、そして同2節に、「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と言われています。エゼキエルは、神の御言葉が真の食物であることを味わったわけです。
 
 しかし、差し出されても口を開かなければ、味わうことが出来ません。神は、「イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに彼らはわたしに聞こうとしない者だ」と言われています(同7節)。聞こうとしない、反逆する者に向かって語るのは、辛いこと、空しいことです。

 その上、預言者が語るのは、聞き手が嬉しくなるような祝福の言葉ではなく、むしろ聞き手を怒らせ、乱暴されるような神の裁きの言葉なのです(同2章6節)。神は聞き手に悔い改めを求めているのだけれども、相手が聞く耳を全く持っていないわけです。
 
 そういうわけで、著者ヨハネにとって、教会を迫害するものの裁きを語るのは、教会の解放と救いの実現につながるのですから、口に甘いということになるわけですが、しかしながら、それが腹に苦いというのは、預言が成就するためには、ヨハネを含めて教会がなお苦難を経なければならないということを示しているのです。
 
 それでもヨハネたちが苦難に耐えてこの預言の言葉を語り続けているのは、自分たちを救いに導いて下さった主イエスの愛があるからです。主イエスの愛は、主イエスの十字架の犠牲を通して示されました。

 私たちは、主イエスが私たちの罪のために贖いの供え物となって下さったことを、主の晩餐式ごとに覚えます。あのパンと杯が私たちに差し出された巻物ということでしょう。それは、口に何と甘いことでしょうか。しかし、それがキリストの裂かれたお体、流された血潮であることを考えたとき、甘くて美味しいだけのものではなくなります。私たちがキリストの証人となることを求めているからです(第一コリント書11章26節)。

 主よ、あなたは無に等しい者を神の民として選ばれました。主が慈しみと憐れみに富むお方でなければ、選ばれることのなかった私たちです。そして、あなたが力と知恵をもって助けて下さらなければ、何をすることも出来ません。あなたが命じられるとおりに従いますから、どうか助けて下さい。導いて下さい。 アーメン







11月22日(金)の御言葉  ヨハネ黙示録9章

「これらの災いにあっても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。」 ヨハネの黙示録9章20節

 神の御手にあった巻物の七つの封印が開かれると、七人の天使が登場し(8章1節)、彼らにラッパが与えられました(同2節)。天使がラッパを吹くと、災いが起こり始めます。第一は、血の混じった雹と火が地上に降りました(同7節)。第二は、燃える山のようなものが海に投げ込まれ、血に変わりました(同8,9節)。第三は、星が水源に落ち、水が苦くなりました(同10,11節)。第四は、天体が損なわれ、暗くなりました(同12節)。

 そして第五に、イナゴが出てきて、五ヶ月の間さそりのような苦痛を与えました(3節以下)。ここまでの災いを、第一の災いと呼んでいます(12節)。第一の災いは、出エジプト記7章14節以下の10の災いの中に似たものを見つけることが出来ます。

 第二の災いとして、六番目のラッパが吹かれ(13節)、ユーフラテスのほとりの四人の天使が人間の三分の一を殺すために放されます(15節)。その結果、2億の騎兵隊が出て来ます。これは、メソポタミア東方のパルティア人を想定しているようです。ローマ軍は幾度もパルティア軍に破れており、彼らを恐れていました。

 しかし、ここに出てくる騎兵隊の馬は、頭が獅子、尾が蛇のようで、その口から火と煙と硫黄を吐き、それで人間の三分の一が殺されるというのですから、パルティア軍に対する恐怖どころではない、悪魔的な力を持った恐るべき存在として描かれています。

 このように繰り返される災いに対して、地に住む人々はどのように対応しようとしているのでしょうか。それが冒頭の言葉(20節)です。「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で作ったものについて悔い改めず」と言われるということは、繰り返される災いは、地に住む人々に、悔い改めへの招きとして理解されるべきだということです。

 それにも拘らず、生き残った人々は悔い改めようとせず、「自分の手で造ったもの」、即ち、神ならぬ偶像に頼み続けるという、人間の愚かさも示されています。これも、モーセの前に頑なになったファラオを思い出させます(出エジプト記7章3,4節など)。

 ということは、イスラエルがエジプトのファラオの手から救い出されたように、これらの災いを通して、迫害するものの手から教会は解放されると、ヨハネは考えているのです。彼の耳には、繰り返されるラッパの音が、凱旋を知らせる歓呼の声のように響いているのではないでしょうか。

 頻発している自然災害や、テロなど繰り返される暴力の応酬が、終末の徴というわけではありませんが、しかし、豊かさを追い求め、進歩を追求して高速に変化していくこの時代に対する警鐘であることは確かでしょう。今、立ち止まって、本当に大切なもの、守るべきもの、変えてはならないもの、失ってはならないものは何かということをしっかりと考え、知って、賢く行動しなければならないと思います。

 「悔い改め(メタノイア)」とは、ただ単にごめんなさいということではなく、チェンジ・オブ・マインド、心を変える、思いを変えること、神が導かれる正しい方向に舵を切ることです。神の御声を聴きましょう。神に祈りましょう。

 主よ、ヨハネは立ちはだかるローマの権力の向こうに、あなたの御手を見ることが出来ました。あなたの勝利を信じることが出来ました。私たちも、信仰を守り続けることが出来ますように。御言葉に立ち続けることが出来ますように。御国を来たらせて下さい。御心がこの地に行われますように。 アーメン




 

11月21日(木)の御言葉  ヨハネ黙示録8章

「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。」 ヨハネの黙示録8章4節

 いよいよ、第七の封印が小羊によって開かれました(1節)。すると、七人の天使が現れ、彼らに七つのラッパが与えられました(2節)。ラッパは、喜びの表現として(列王記上1章34節、列王記下9章13節)、あるいは神を賛美するために(詩編47編6節、81編4節、150編3節など)用いられます。

 また、警戒信号や(ネヘミヤ記4章12節、エレミヤ書4章5節など)、戦闘開始の合図としても(ヨシュア記6章5節、士師記3章27節、7章18節以下など)用いられます。ここでも、神の敵に対して最後の審判の開始を知らせる合図として用いられています。それは、神の裁きが始まることを願っていた殉教者たち(6章10節)、そして選ばれた聖徒たちにとっては(7章3節以下)、神の救いが完成される喜びの表現として聞かれたことでしょう。

 というのは、別の天使が金の香炉をもって祭壇のそばに立つと、多くの香が渡されました。それは、聖なる者たちの祈りに添えて、金の祭壇に献げるためです。そして、冒頭の言葉(4節)で、「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前に立ち上った」と言われています。それから、祭壇の火を取って地上へ投げつけると、雷、様々な音、稲妻、地震が起こりました(5節)。

 つまり、聖なる者たちの祈りが神に届き(5章8節参照)、また殉教者たちのとりなしに答えて(6章10節)、雷、稲妻、地震など、神が顕現された徴が現れたのです(4章5節、出エジプト記19章16節以下参照)。これは、いよいよ神の裁きが始まることを示しているといってよいでしょう。

 まず、第一のラッパが吹かれると、血の混じった雹と火が地上に投げ入れられ、木や青草を焼きました(7節)。これは、出エジプト記9章13節以下の「雹の災い」に似ています。

 第二のラッパでは、火の山が海に投げ入れられ、海の水が血に変わって海に住む生き物が死にました(8,9節)。これは、出エジプト記7章14節以下の「血の災い」に似ています。

 第三のラッパでは、燃える星が川の水源の上に落ち、水が苦くなって多くの人が死にました(10,11節)。これは、出エジプト記にはない災いの表現ですが、エレミヤ書9章14節に、「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」という言葉があり、神に背き、バアルに従って歩む頑なな者の裁きが預言されています。

 因みに、「苦よもぎ」をロシア語で「チェルノブイリ」と言います。1986年4月までは、そういう名のついた町があることさえ知りませんでした。原発事故当時、黙示録との関連をいう人が多くおられました。黙示録の預言の成就とは言えませんが、しかし、無軌道な原子力開発に警鐘を鳴らしたと言うべきでしょう。

 第四のラッパでは、天体が損なわれて暗くなりました(12,13節)。これは、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」を思わせます。かくて、出エジプト記のときの災いを模して裁きが描かれていますが、その規模はずっと拡大されていて、地と海と天体の三分の一を損なうまでになっています。

 このような災いから、何を学びますか。それは、私たちが神の声に耳を傾けるべきだということでしょう。神はこれによって何と語られるでしょうか。それは、神ならぬものに寄り頼んできたことを悔い改めなさいということでしょう。

 エジプトのファラオが心を頑なにして聞くことを拒んだような愚を、私たちは犯してはなりません。それは、なお大きな災いが地上に臨み、破滅が人類の上に落ちかかるからです(13節)。

 主よ、どうして今、自然災害が頻繁に起こるのでしょう。また、北海道の脱線事故で明らかになったずさんな保線管理、そして、食材の「誤表示」事件のようなことが、なぜ起きるのでしょうか。自分さえよければと地球規模で自然を破壊し、有害な物質をまき散らしています。また、富に縛られて、心も体もゆとりを失っています。どうか、眠りから目覚めさせて下さい。何が本当に大切なものなのか、立ち止まって見つめ直し、悔い改めることが出来ますように。 アーメン






 

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