「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」 ヘブライ書11章6節
1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この言葉を、強い信念をもって自分の希望を実現しなさいと解釈する向きがあります。
たとえば、「よし、素晴らしい車を手に入れよう、その車の形や色、室内の装備などを思い描いていたら、必ず手に入れられるだろう」という信念を持とうと考えるのです。その考えそのものは悪いものではないと思います。何事も、信念をもって当たらなければ、大きな成果を得ることは出来ません。
しかし、ここで語られる信仰とは、そのような強い信念などではありません。自分の願望の実現を信じるということではないのです。私たちの信仰の対象は、自分の願望や信念ではなく、神ご自身です。
それが、冒頭の言葉(6節)で語られています。即ち、神が喜ばれるのは、「神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」を、信じる信仰だということです。神は、自分の願望の実現を求める者たちにではなく、神ご自身を求める者たちに報いて下さるお方なのです。
無論、私たちは願望の実現を求めて神に祈ります。それを適えていただきたいと願います。そのときに、私たちが実現を疑わずに願うから、真剣に熱心に願うから、それが適えられるということではないのです。繰り返しますが、神が喜ばれるのは、私たちが神ご自身を求めて神に近づくこと、わたしたちに良いものをお与えくださる神を信頼することです。
主イエスも、祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と言われました(マタイ福音書6章7,8節)。
だから、祈らなくて良いということではありません。そうではなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同6章33節)ということです。私たちの必要をことごとくご存知の主を信頼して自分の願いや問題を明け渡し、その主との交わりを喜び、楽しむことを、まず願い求めよと言われているのです。
4節以下に、アベルをはじめ、信仰者として例示される者の名前が列挙されています。その中で、一番大きく扱われているのが、信仰の父アブラハムです。アブラハムは、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」と言われ(8節)、そして、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(16節)と語られます。
アブラハムが望んでいたのは、カナンの地ではなく、天において神とともに住むことだった、だから、彼は、神の召しの言葉に服従して、行き先も知らずに出発したと言われるわけです。神と神の御言葉に信頼していたからです。そのゆえに、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません.神は、彼らのために都を準備されていたからです」と告げられて(16節)、それが神の喜ばれる信仰であることを示しています。
私たちも、主を慕い求め、主との親しい交わりの内にいつも身を置かせていただきましょう。御言葉を聴きましょう。御言葉が実現するように、祈りましょう。
主よ、あなたの教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いな人とならせて下さい。命の御言葉の流れの側から離れることがありませんように。そこを離れては何をすることも出来ず、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、裁きに堪えないからです。 アーメン