「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、」 第一ペトロ書3章10節
10~12節は、詩編34編13~17節を引用したものです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と勧める根拠として、引用されています。聖書(神の言葉)を行動の規範にしているわけです。
ここに、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は」とありますが、そのように願わない人はいないと言ってもよいでしょう。誰もが願うことですが、だれもが幸せな日々を過ごしているでしょうか。毎日幸せを噛み締めておられますか。今日はよい一日だったと、毎日思いますか。
また、幸せになるために、何をしていますか。お祈りでしょうか、供え物でしょうか。たくさんの供え物をすれば幸せになれると、お金で幸せを買うように説く現世利益の宗教も少なくありません。あるいはまた、今日がよい日であるか、よいことが続くかと、運勢判断をしたりします。運勢占いが載っていない雑誌は殆どないでしょう。ウラナイと言いながら、占いの本やグッズがたくさん売られています。
聖書では何をせよと言っているのでしょうか。それは、「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」(10,11節)ということです。前半は語ること、後半は行いです。「善を行い」と言われていますが、「善」と「幸せ」とは同じ言葉(アガソス)です。言葉の上で、幸せとは私たちの行いと関わりがあり、善を行って幸せを作り出せと言っているわけです。
善行について、まず、「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず」と言います。私たちが誰かの悪口をいう場合、理由もないのに人を悪く言うことはないでしょう。相手が悪いから、悪いと言うわけです。ちゃんと理由があるのです。しかし、正当な理由があれば悪口を言ってもよい、とは教えていません。
そうではなく、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない、と教えているのです。受けた悪に対して、悪ではなくそれを善に作り変え、侮辱に対して祝福を返しなさいというのです。そんなことをしたら、正直者が馬鹿を見るだけじゃないか、そんなことで幸せになれるものか、悪人はしっかり裁かれなくちゃ、きっちり仕返ししてすっきりしなくては、と思います。
そこで聖書は、「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」(12節)と語ります。主の目は、人の悪事を暴き、その罪を裁くために注がれているわけではありません。「お天道様が見ているよ」ということではないのです。
私たちに目を注ぎ、私たちの祈りに耳を傾けられる主イエスは、まさしく、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いられず、かえって、その呪いを祝福に変え、赦しと救いをもたらして下さいました。それが、ペトロの味わった恵みの経験でした。三度知らないと裏切ったペトロのために、信仰がなくならないように祈り、その罪を十字架で赦し、救いの道、命の道を開かれました。
その主に、どのような姿をお見せしましょうか。どのような言葉で主に祈りましょうか。悪をもって悪に報いず、侮辱に対して侮辱を返さず、祝福を祈りましょう。そのとき、罪と死の力を打ち破り、勝利された主の祝福、命の恵みを相続することが出来るのです(7,9節)。
主よ、私たちはあなたの恵みを味わいました。呪われるべき者が祝福に与りました。今あなたは私たちがあなたの祝福を受けて、呪う者から祝福する者へ変えようとしておられます。あなたの御言葉を信じ、聖霊の力を受けて隣人に善を行い、祝福を祈る恵みを味わわせて下さい。 アーメン