風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2013年10月

10月31日(木)の御言葉  第一ペトロ書3章

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、」 第一ペトロ書3章10節

 10~12節は、詩編34編13~17節を引用したものです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と勧める根拠として、引用されています。聖書(神の言葉)を行動の規範にしているわけです。

 ここに、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は」とありますが、そのように願わない人はいないと言ってもよいでしょう。誰もが願うことですが、だれもが幸せな日々を過ごしているでしょうか。毎日幸せを噛み締めておられますか。今日はよい一日だったと、毎日思いますか。

 また、幸せになるために、何をしていますか。お祈りでしょうか、供え物でしょうか。たくさんの供え物をすれば幸せになれると、お金で幸せを買うように説く現世利益の宗教も少なくありません。あるいはまた、今日がよい日であるか、よいことが続くかと、運勢判断をしたりします。運勢占いが載っていない雑誌は殆どないでしょう。ウラナイと言いながら、占いの本やグッズがたくさん売られています。

 聖書では何をせよと言っているのでしょうか。それは、「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」(10,11節)ということです。前半は語ること、後半は行いです。「善を行い」と言われていますが、「善」と「幸せ」とは同じ言葉(アガソス)です。言葉の上で、幸せとは私たちの行いと関わりがあり、善を行って幸せを作り出せと言っているわけです。

 善行について、まず、「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず」と言います。私たちが誰かの悪口をいう場合、理由もないのに人を悪く言うことはないでしょう。相手が悪いから、悪いと言うわけです。ちゃんと理由があるのです。しかし、正当な理由があれば悪口を言ってもよい、とは教えていません。

 そうではなく、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない、と教えているのです。受けた悪に対して、悪ではなくそれを善に作り変え、侮辱に対して祝福を返しなさいというのです。そんなことをしたら、正直者が馬鹿を見るだけじゃないか、そんなことで幸せになれるものか、悪人はしっかり裁かれなくちゃ、きっちり仕返ししてすっきりしなくては、と思います。

 そこで聖書は、「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」(12節)と語ります。主の目は、人の悪事を暴き、その罪を裁くために注がれているわけではありません。「お天道様が見ているよ」ということではないのです。

 私たちに目を注ぎ、私たちの祈りに耳を傾けられる主イエスは、まさしく、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いられず、かえって、その呪いを祝福に変え、赦しと救いをもたらして下さいました。それが、ペトロの味わった恵みの経験でした。三度知らないと裏切ったペトロのために、信仰がなくならないように祈り、その罪を十字架で赦し、救いの道、命の道を開かれました。
 
 その主に、どのような姿をお見せしましょうか。どのような言葉で主に祈りましょうか。悪をもって悪に報いず、侮辱に対して侮辱を返さず、祝福を祈りましょう。そのとき、罪と死の力を打ち破り、勝利された主の祝福、命の恵みを相続することが出来るのです(7,9節)。

 主よ、私たちはあなたの恵みを味わいました。呪われるべき者が祝福に与りました。今あなたは私たちがあなたの祝福を受けて、呪う者から祝福する者へ変えようとしておられます。あなたの御言葉を信じ、聖霊の力を受けて隣人に善を行い、祝福を祈る恵みを味わわせて下さい。 アーメン






 

10月30日(水)の御言葉  第一ペトロ書2章

「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」 第一ペトロ書2章10節

 真理を受け入れて、魂を清め、変わることのない神の生ける御言葉によって新たに生まれたクリスチャンに、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と勧めます(2節)。「霊の乳」とは、ロゴスの乳つまり、御言葉の乳という意味です。「混じりけのない」とは、人間の知恵などではない神の御言葉そのものということです。

 「御言葉の乳」という乳、ミルクがあるわけではありません。乳飲み子が乳を飲んで成長するように、神の御言葉の恵みを受けて成長しなさいということです。主イエスのもとで三年間、まさに混じりけのない霊の乳を受けて育ったペトロならではの表現だと思います。

 どこに行けば、その混じりけのない霊の乳を手に入れることが出来るのでしょうか。ペトロは4節で、「主のもとに来なさい」と言いました。「主」とはキリストのことです。キリストのもとに来るとは、主イエスを信じる者が「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるように」することです(5節)。「霊的な家」とは教会を指しています。教会に集い、そこで語られる神の御言葉を聞くことです。

 その霊的な家のかなめ、隅の親石という大黒柱を支える土台の石が、私たちの主イエス・キリストです。そして、各自はその家の1ブロックです。でもその一つ一つのブロックは生きています。死んだ石ではなく、「生きた石」。命の温もりが伝わる、心が通じ合う集いなのです。

 生きた石によって造り上げられる霊的な家では、各自が聖なる祭司として、神に喜ばれるいけにえを献げます(5節参照)。9節にも、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と記されています。私たちが選ばれたのは、祭司としての務めを果たすため、神に喜ばれるいけにえを献げるためだと読むことが出来ます。

 冒頭の言葉(10節)にあるとおり、私たちは、かつては神の民ではありませんでした。本来、「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と語られたのは、イスラエルの人々です(出エジプト記19章6節)。

 冒頭の言葉の中に二重かぎ括弧(『 』)があります。これは、引用文であることを表します。どこからの引用かというと、ホセア書2章1,25節からの引用なのです。これが、神の民でなかった者を神の民とするという根拠になっているわけですが、ホセア書を読めば分かるとおり、これも、イスラエルのことを指しています。

 神に背いて自分勝手に他の神々を拝むイスラエルに対して、もはや「あなたたちはわたしの民ではなく(ロ・アンミ)、わたしはあなたたちの神ではない」(ホセア1章8節)と言われたのですが、しかし、神が苦しむイスラエルを顧みて、その憐れみのゆえにもう一度、「あなたはアンミ(わたしの民)」と言うということでした(同2章25節)。

 しかし、ここではその言葉を引用しつつ、これは小アジアにいる異邦人クリスチャンのこと、そして公同書簡という意味合いから、この手紙を読むすべての読者に対して語られていることだ、と言っているのです。私たちは、神に敵対して歩んでいる者でした。そのままでは、神の怒りに触れ、裁かれるべき存在でしたが(エフェソ書2章3節)、冒頭の言葉のとおり、今は神の憐れみを受けて、神の民としていただいたのです。

 私たちが祭司として献げる、神に喜ばれるいけにえとは、まず何よりも、私たちを憐れみ、愛して下さる神への感謝、主の御名をほめ讃える賛美です。また、裁かれるべき私たちが神の憐れみを受けて神の民とされたということは、すべての人が神の恵みによって神の民となることが出来るのです。

 このよき知らせ、福音が私たちの周りに、そして、地の果てにまで、告げ知らされなければなりません(使徒言行録1章8節参照)。ここに、福音宣教の務めがあります。そして、私たちの隣り人、家族や友人たちが主の福音を受け入れるように祈る、執り成しの祈りの務めです。

 主よ、私たちに絶えず、混じりけのない霊の乳をお与え下さい。それによって成長させて下さい。そして、あなたに選ばれた者として、祭司の務めを果たすことが出来ますように。霊の知恵と力を授けて下さい。 アーメン



 


10月29日(火)の御言葉  第一ペトロ書1章

「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」 第一ペトロ書1章22節

 本書の著者は使徒のシモン・ペトロですが(1節)、実際に筆をとって記したのはシルワノです(5章12節)。それも、口述筆記ではなく、内容をシルワノに告げて執筆を依頼し、それをペトロの名で発信したものと推定されます。となれば、執筆の時期はペトロが殉教したとされる紀元64年ごろ、場所はローマということになるでしょう(5章13節にバビロンとあるのは、ローマのことと考えられます)。

 あて先は、小アジアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たちとなっており(1節)、その意味では、公同書簡という言い方は当てはまらないことになりますが、その内容において、パウロ書簡よりも広範囲で、普遍的な内容を取り扱っていて、公同書簡の範疇に入れられていると考えられます。

 冒頭の言葉(22節)で、「真理を受け入れて」と言われますが、直訳すると、真理の従順においてという言葉です。口語訳では、「真理に従うことによって」と訳されています。主イエスこそ真理なるお方ですから(ヨハネ福音書14章6節)、真理を受け入れるとは、主イエスに従うこと、と考えることが出来ます。

 さらに、「従順」は「フポアコエー」という言葉ですが、フポ(下へ→従う)とアコエー(聞く)の合成語です。つまり、聞き従うという言葉なのです。主イエスの言葉を聞いて従うことを従順というわけで、聞いても従わないのは不従順、それは、主イエスの言葉を聞いたことにならない、ということです。

 ところで、著者のペトロはいつ真理を受け入れたのでしょうか。人間をとる漁師にしようと招かれて従ったときでしょうか(マルコ福音書1章16節など)。「あなたは、メシアです」と信仰を言い表したときでしょうか(同8章29節など)。それとも、復活された主イエスにお会いしたときでしょうか(ルカ福音書24章34節、第一コリント書15章5節)。

 その時々に、彼は主イエスに従って、真理を受け入れたのだと思います。しかし、最初からすべての真理を受け入れたわけではありません。「あなたこそメシア」、とペトロが信仰を言い表した直後の出来事で、主イエスから「サタン、引き下がれ」と叱責されています(マルコ福音書8章33節など)。ペトロがサタンだという意味ではありませんが、無知、無理解のゆえに主イエスの働きを妨げようとして、叱られたわけです。

 そして決定的なのは、主イエスがカイアファの官邸で裁かれているとき、主イエスのことを三度、「知らない」と否定したことです(マルコ福音書14章66節以下など)。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同31節)と豪語したペトロですが、自分の言ったことを守れませんでした。

 そのようなペトロの無理解、不従順にも拘らず、主イエスは真実な愛でペトロを守り導かれました。その真実に触れたという意味では、十字架で亡くなられた主イエスが復活してペトロとお会いになったとき、その深い真理を悟らせていただいたことでしょう。

 主イエスの生前、最後の晩餐のときまで、使徒たちは誰が一番偉いかと議論しあっていました(ルカ福音書22章24節以下)。しかし彼はここに、「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです」と語ります。主イエスの死で罪贖われ、清められたペトロは、神の愛を知りました。

 さらに、聖霊の力を受けて復活の福音を語ったとき、神に対する畏れと共に、信者たちが皆一つになってすべての物を共有にする愛の交わりが開かれました(使徒言行録2章43節以下)。神の愛をもって互いに愛し合うことを学んだのです(ヨハネ福音書13章34,35節)。

 私たちも、主イエスを信じてその御言葉に従い、清い心で互いに深く愛し合うことが出来るように、御霊の力を頂いて福音宣教に励むことが出来るように、御言葉と御霊の導きを祈ります。

 主よ、あなたの御言葉は永遠に変わることがない、と記されており、私たちのあなたの御言葉を聞いて新たに生まれた者となりました。天に蓄えられている栄光の富を受け継ぐ者として下さったことを、心から感謝致します。どんなときにも主を仰ぎ、その御言葉に従うことが出来ますように。生きた言葉によって魂を清め、互いに深く愛し合うことが出来ますように。 アーメン



 

10月28日(月)の御言葉  ヤコブ書5章

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」 ヤコブ書5章13節

 ヤコブは、手紙の最後に祈りの勧めを記しています。まず、苦しんでいる人は祈れ、と言われます。「苦しむ(カコペテオウ)」という言葉は、ここ以外では第二テモテ書に2度用いられており、それは福音宣教に伴う苦しみです(2章9節、4章5節)。

 ここでも、10節の「主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」という言葉から、宣教に伴う苦しみを辛抱し、耐え忍ぶことと示されて、それをじっと我慢しなさいというのではなくて、神に祈りなさいと勧めているわけです。

 続いて、喜んでいる人は賛美せよ、と言われます。「喜ぶ(エウトゥメオウ)」という言葉は、ここ以外では使徒言行録に2度用いられていて、いずれも、嵐の海で意気消沈している人に向けて、「元気を出しなさい」と訳されて用いられています(27章22,25節)。元気が出る源は神です。ですから、喜んでいる人とは、神によって元気にされた人ということになります。どんなことにも神の導きがあり、支えがあるという信仰が込められた表現です。

 ところで、「トゥモオウ」と言えば、腹を立てるという意味です。それに「よい(good)」という意味の「エウ」という接頭辞がくっつくと、元気が出る、喜ぶという言葉になるというのは、面白いですね。

 元に戻って、今日の御言葉では、福音宣教のゆえに苦しんでいた人が、祈りを通して神の慰めと励ましを受け、喜んで神を賛美するといった様子を思い描くことが出来ます。その意味では、賛美は神への感謝の祈りとも言えます。

 使徒言行録16章25節に、「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、他の囚人たちはこれに聞き入っていた」とあります。パウロとシラスの二人は、フィリピの町で福音宣教をしていました(同16章12節以下)。そして、占いの霊に取りつかれた女性が二人についてきて邪魔をするので、その霊を追い出しました。すると、占いが出来なくなってしまったということで、その女性を使っていた主人たちが二人を訴え、それで町の高官たちに鞭打たれ、投獄されたのでした(同16章16節以下)。

 まさに二人は福音宣教のために苦しみを受けて、祈りをささげ、賛美の歌をうたっていました。それはしかし、町の高官たちや二人を訴えた女性の主人たちを呪う祈りや歌ではありませんでした。真夜中にもかかわらず、囚人たちが二人の賛美と祈りに聞き入っていたというのですから、慰めと励ましに満ちた祈り、賛美だったに違いありません。

 二人はまだ牢の中にいて、鞭打たれた背中の傷がうずいて眠れないという状況だったと思います。けれども、二人の心には、ねたみや怒りがあったのではありません。主への感謝と喜びがあったのです。あるいは、自分たちが不当に取り扱われているという憤りがあったのかも知れませんが、しかし、祈りの中で、賛美の中で神に触れられて、怒り(トゥモス)が勇気、喜び(エウトゥモス)に変えられたのではないでしょうか。

 福音宣教の苦しみは、御言葉に従う苦しみと考えることも出来るでしょう。人間関係の辛さの中で、仕えること、愛し合うことが勧められ、頭では理解しても、心も行動も伴わないことがあります。祈ってみましょう。共に主を賛美しましょう。主の導きを忍耐して待ちましょう。怒りを喜びに、元気に変えて下さる主の導きを。

 主よ、パウロとシラスは、二人だったから、祈ることが出来ました。ふたりだったので、賛美することが出来たのだと思います。同じ苦しみを味わう友がいて、互いに励まし合い、慰め合うことが出来たら、何と幸いでしょう。そして、主もまたそこに共にいて苦しみを分け合い、慰め、励まし、勇気と喜びをお与え下さる方であることを、知ることが出来ますように。 アーメン





10月27日(日)の御言葉  ヤコブ書4章

「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めて下さいます。」 ヤコブ書4章10節

 1節で、お互いの間に戦いや争いが起こる原因を問い、それは内部で争い合う欲望だと言います。欲望について、1章14,15節に、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と記されていました。また、3章16節には、「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです」と語られています。

 2節には、「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します」と記されます。創世記4章1節以下に、兄カインが弟アベルを襲って殺す記事があります。カインがそのような罪を犯した原因は、弟への妬みであり、自分の献げ物が顧みられなかったことへの怒りでした。カインは神の前に顔を上げることが出来なかったと言われます(同4章5,6節)。混乱して、神と平静に語ることが出来なかったのです。

 これは、妬みや怒りといった感情が祈りの障害になることを示します。だから、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と言われるのです(2,3節)。

 8節で、「神に近づきなさい」と言います。神に近づくとき、私たちのうちに聖い真理の光が当てられます。神の神聖さの前に立つとき、だれもが自分の罪、汚れを思います。

 イザヤも、セラフィムの賛美と共に神殿の敷居が揺れ動いて神殿が煙に満たされたという光景を目撃したとき(イザヤ書6章2~4節)、彼は恐れて、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と言いました(同6章5節)。神の臨在を感じたとき、彼は、到底聖なる神の前に立つことなど出来ない、と感じたのです。しかし、神のほうから近づき、イザヤを清められました(同6章6,7節)。

 ヤコブは、手を清めなさい、心を清めなさいと言います(8節)。どうすれば、手を清め、心を清めることが出来るのでしょうか。冒頭の言葉のとおり、主の前にへりくだることです。主の前にへりくだるとは、神を畏れ、その御言葉に聴き従うことです。私たちは今、日毎に御言葉を聞き、静かに御言葉を瞑想することを教えられています。

 そのことで最近、興味深い文章を読みました。それは、ヨーロッパの修道士たちは聖書を暗記することを「瞑想」と呼んでいたというのです。つまり、御言葉が自分自身のものとなるまで繰り返し頭の中で唱え、また何度も声に出し、そうして憶えるようにするわけですが、これが瞑想(Meditation)の本来的な意味だというわけです。

 3,4世紀、修道士たちは瞑想をして1500ページにも及ぶ聖書の文章を一言一句違わずに暗記したそうです。それも、年配者が口で話したことを、若い修道士が口真似で習ったということです。というのも、印刷技術のない時代、聖書は書き写すほかありませんでしたし、紙はとても高価で、簡単に手に入れることが出来なかったためです。

 私たちが御言葉を口ずさむとき、「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り繰れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と詩編1編3節にあります。イザヤの唇が祭壇の火で清められたように、私たちの口と心を御言葉で清め、それによって神の平安を頂きます。言なる主キリスト(ヨハネ福音書1章1節以下)が、私たちの心にお住まい下さるからです。

 パウロが、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という申命記30章14節の御言葉を引用しながら、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」と言っています(ローマ書10章8節)。ここに言われている「御言葉」も、私たちに救いをもたらした神の御子キリストのことを指しているといってよいでしょう。だから、「天に上る」ことも、「底なしの淵に下る」ことも、必要ないのです(同6,7節)。

 今日も、主の御前に謙り、御口から出る一つ一つの言葉の前に耳を傾け、それを繰返し口ずさみ、豊かに心に蓄えて、上からの養いに与らせていただきましょう。

 主よ、私はあなたの前に滅びるしかない者です。しかし、キリストの贖いのゆえに、御前にあって生きることが出来る者として頂きました。絶えず神に近づき、悔い改めて福音に生きることが出来ますように。あなたが御前に謙る者を高く引き上げて下さると約束していて下さるからです。 アーメン


 

10月26日(土)の御言葉  ヤコブ書3章

「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」 ヤコブ書3章17節

 13節以下で、「知恵」について教えています。ここには、2種類の知恵が取り上げられます。それは、「地上のもの、この世のもの、悪魔から出た」知恵(15節)と、「上から出た知恵」(17節)です。

 地上の知恵は、ねたみ深い、利己的、自慢、真理に逆らう、うそ、混乱、あらゆる悪い行い、偏見、偽善などの特徴があります(14,16節)。一方、上から出た知恵は、柔和な行い、立派な生き方、純真、温和、優しい、従順、憐れみ、良い実などの特徴を示します(17節)。

 ここで著者は、どのような知恵を持っているかということを論述しているのではなく、その知恵が何を産み出したか、どのような業を行っているかを示そうとしています。その業によって、それを行っている者、あるいはその集団、特に教会が、神に従う群れであるのか、神に逆らう群れであるのかが明示されるというわけです。

 ことに、神に従う群れの特徴は、平和を実現しようとするところに示されます(18節)。神は、そのために必要な知恵を、上からその人々に授けて下さっているのです。それに対して、悪魔はおのが知恵を自慢させ、ねたみや争いを群れの中に引き起こさせます。真理に逆らう様々な考えによって争いが生じ、混乱に陥ります。

 どんなに自分たちが論理的に正しいと証明する知恵を持っていても、それによって対立を深め、争い合うならば、神の喜ばれるところを行うことは出来ません。物事を正しく理解し、判断する能力は大切です。しかし、その知恵を相手を裁き、非難するための道具としてしか用いることが出来ないのであれば、それは、上からの知恵を持っていないことを示しているということになります。

 そして、「上から出た知恵」という表現が示しているように、だれも、自らその知恵を持ち合わせてはいないのです。そのことに気づいたならば、1章5節で、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と言われているとおり、神に願い求めましょう。そうすれば、約束どおり、お与え下さいます。

 主は、私たちが混乱していたり、分裂の危機に陥ることを望んではおられません。私たちを良いもので満たそうとされる神様です。まことの知恵とは、神に対する従順ということが出来ます。神を畏れることが、知恵の初めだからです(箴言1章7節)。

 神の御言葉に喜んで従うとき、その人の心を神の平和が支配します。神の平和に支配された心で働くと、その人を通して周りの人々に神の平和が広げられていきます。御言葉と御霊の働きによって心を耕しましょう。よく耕された畑は、良い実を実らせます(マルコ福音書4章8節)。

 別の言い方で言えば、堅固な家を築くために御言葉を土台とすることです。御言葉に聞き従おうとする態度を、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて建てた人に似ていると、教えています(ルカ福音書6章47,48節)。

 今、心に平安がない人、悩みや苦しみ、混乱の中にいる人は、御言葉を求めて祈りましょう。日毎に「私の聞くべき御言葉を示して下さい」と神に願いましょう。御言葉を通して、上からの知恵と平安を頂きましょう。

 主よ、絶えずあなたの恵みの御言葉を与えて下さい。御言葉に聴き従って歩むことが出来ますように。そのことを通して、私たちの心をあなたの平和が支配しますように。あなたの平安をもって、私たちの周りの人々との人間関係を平和にしてください。アーメン




10月25日(金)の御言葉  ヤコブ書2章

「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」 ヤコブ書2章14節

 宗教改革者M.ルターは、ヤコブ書を「藁(わら)の書」と呼びました。それは、ヤコブが、この手紙を通じて、行いの伴わない信仰は、死んだも同然のものと主張しているからです。ルターは、「人は行いによらず、信仰によって義とされる」(ガラテヤ2章16節など)とパウロの説いた福音によって戒律を守り行うことから解放され、救いの喜びを味わっていたので、ヤコブの手紙では、その福音が不当に非難されていると考えたわけです。

 ただ、ヤコブがそのように言うのには、理由がありました。それは、行いによらず、信仰によって義とされる、救われるということならば、信仰を持ちさえすれば、後は何をやっても自由なんだと、パウロの教えを誤解する人々がいて、教会の風紀を乱したのです。しかも、教会の有力なメンバーがその考えに支配されて、パウロの指導にも従わないという事態に陥ったこともあったのです。

 しかし、パウロも、主イエスを信じさえすれば、何をしてもかまわない、あるいは何もしなくてもよい、と教えたわけではありません。ガラテヤ5章6節では、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と説いています。

 律法を杓子定規に守ることで救われるのではなく、キリスト・イエスに結ばれることが重要なこと、それは、主イエスを信じる信仰で救われると説き、そして、主を信じる者は、愛の実践を通して救いの喜びを周囲の人々に示し、信仰の実を結ぶと考えているわけです。

 だから、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(第一コリント書15章10節)と語るのです。

 さらに、「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同15章58節)と教えています。

 ヤコブはこうした点を踏まえつつ、聞く者に誤解を与えないように、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(14節)と問いかけて、行いの伴う信仰について、はっきりと主張しているのです。ヤコブの語る「行い」とは、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」(1章25節)ことです。

 それは、主イエスが、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章31,32節)と言われたことを指しているといってもよいでしょう。

 そのことで、ヤコブは、実生活の中で何度も経験している事例を取り上げ、信仰のともがらがその日の食べる者にも事欠いているときに、その窮乏に何一つ応えず、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と説教するだけなら、それは何の助けにもならないと言います(15,16節)。

 それは、信仰から、あの「善いサマリア人」のような(ルカ福音書10章30節以下)、隣人に対する憐れみの行為が生まれて来ないのなら、確かに、そんな同情に意味があるとは言えないということです。

 この事例に基づいて、冒頭の言葉(17節)のとおり、信仰それ自体には何ら疑わしい点が見出されなくても、もしもそれが何の業も産み出さないのであれば、それは、死んだも同然の信仰、信仰の亡骸というべきものだという結論を導き出します。言い換えれば、キリスト教の教理を正しく理解することは大切なことだけれども、それが生活に活かされないのであれば、そのような理解を得ているのは無意味だということです。

 誰も、その行いによって救いを獲得することは出来ません。救いは、恵みとして与えられるものです。ただ、生活で神の恵みを無にする振る舞い、それを台無しにするような行いに及ぶなら、信仰に生きている者ということは出来ないでしょう。

 ローマ書1章7節に、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」とあります。神を信じるからこそ、そして、その救いの恵みに与っているからこそ、神に従って生きることが出来るのです。 

 主よ、日々主の御言葉に心を留め、その教えを口ずさみ、恵みを互いに分かち合って、信仰の交わりを深めることが出来ますように。主に従って生きる人々に、恵みと慈しみがいよいよ豊かに注がれますように。 アーメン




10月24日(木)の御言葉  ヤコブ書1章

「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠を戴くからです。」 ヤコブ書1章12節

 ヤコブの手紙の著者は、ゼベダイの子ヤコブではなく、主イエスの弟、肉親のヤコブであると考えられています。ヤコブは、主イエスの生前にクリスチャンになったのではありません。彼が信仰に入ったきっかけは、復活された主イエスにお会いしたことです(第一コリント書15章7節)。後に、ゼベダイの子ヤコブが殉教した後、選ばれて教会の使徒となりました(使徒言行録12章2,17節)。

 この手紙は、最初(1章)と最後(5章)に「試練(誘惑)と忍耐」についての教えがあり、これがこの手紙の大きなテーマであることが分かります。

 12節に、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と記されていますが、この忍耐というのは、何もせず、じっと我慢の子でいるという感じではありません。13節に「誘惑」(ペイラゾウ〔動詞〕)という言葉が出て来ますが、12節の「試練」(ペイラスモス〔名詞〕)と同根の言葉です。そして、神は人を誘惑されない(13節)、人を誘惑するのは、その人自身の欲望である(14節)、欲望が罪を行わせ、そして死に至らせる(15節)、と言われています。

 それに対して、神は良いものを下さる(17節)、私たちクリスチャンは真理の言葉によって新しく生まれた者だ(18節)と言われています。

 つまり、おのが欲に引かれて罪を犯す誘惑に陥り、死に至るのではなく、神の真理の御言葉によって試練≒誘惑に打ち勝ち、約束されている命の冠をいただきなさいというわけです。
 
 そのために、御言葉を行う人になりましょう(22節)。「自分を欺く」(パラロギゾマイ)という言葉がありますが、直訳的には、「ロゴスに逆らう」という言葉でしょう。御言葉に従わないのは、自らを欺き、誘惑に陥ることというわけです。聞くだけで行わない者は、忘れてしまいます(24節)。知恵に欠けた者となるのです(5節)。それは、聞いていないのと同じことなのです。

 神の御言葉、ヤコブを新しく生まれ変わらせた主イエスの福音は、神の義を実現し、魂を救うことが出来ます(21節)。この福音の中心的な言葉は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)です。

 そして、この独り子キリストが語られた最も大切な戒めは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(即ち、聖書の教え)は、この二つの掟に基づいている」(マタイ福音書22章37~40節)というものです。

 だからヤコブは、救いと愛を説かれた主イエスの御言葉を聞くこと、それが私たちを罪悪から遠ざからせ、人の魂を救うのだと説いているのです。

 主よ、いつも御言葉の恵みに与り、主と共にある平安と喜びで満たして下さい。その恵みを隣人と分かち合う力と知恵を授けて下さい。 アーメン




10月23日(水)の御言葉  ヘブライ書13章

10月23日(水) 「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神ご自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」 ヘブライ書13章5節

 新共同訳聖書は、13章に「神に喜ばれる奉仕」という小見出しをつけていますが、4~6節は、性欲と金銭欲の問題を取り上げています。性の問題、金銭の問題を正しく管理しなければ、神に喜ばれないということです。

 特に、性の問題に関して、「神は、淫らな者や姦淫をする者を裁かれるのです」と語られていることは(4節)、性的な混乱がいかに重大な問題であるかということを表しています。「みだらな者や姦淫をする者」は、「夫婦の関係を汚している」と考えているわけです。

 10章22節に、「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています」と語られているように、神の家を支配する偉大な祭司キリスト・イエスの血によって私たちの心と体が清められています。ですから、不品行や姦淫は、たんに夫婦の問題などではなくて、キリストの贖いの業を汚す行為であるということになります。

 だからこそ、「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」と言われるのであり(10章26節、6章4~8節)、神の裁きを免れないわけです。

 金銭欲の問題も、それに負けず劣らずの大きな問題です。二つの御言葉を旧約聖書から引用していることからも、それを言うことが出来るでしょう。

 ここで、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」という勧めと、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」という申命記31章6節の御言葉は、どのように結びついているのでしょうか。

 「神が決して離れず、捨てない」という約束に対する信頼の心と、「金銭に執着する生活」が対比されていると考えればよいでしょう。つまり、神への信頼に立っていれば、金銭に執着する生活にはならないということです。金銭に執着するということは、自分の生活の基盤を「金銭」という、目に見える、手で触れられる、形あるものの上に据えたいと考えているということです。

 形あるもので生活を保証したいと思うならば、より多くのものを手に入れたいとも思うでしょう。それが、「金銭に執着する」ということになるわけで、だから、「金銭のよくは、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」と言われるわけですし(第一テモテ書6章10節)、そして、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と言われるわけです(コロサイ書3章5節)。

 それに対して、神が私たちの手をしっかり握っていて放さない、神は私たちを愛していて下さる、ということに信頼を置いているならば、詩編の記者が語るとおり、あらゆる不安や恐れから解放されて、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」ということが出来るでしょう。

 勿論、私たちは小さい存在です。「いつも」、「完全に」、主を信頼するというところに立ち切れません。大風が吹けば、足元が揺らぎます。心はすぐに恐れと不安に満たされます。「神様、助けて下さい」、と叫び声を挙げます。

 けれども、私が神の手をつかんでいるのではなくて、神が私の手を握っていて下さるのです。怯えて泣いている私の傍らにいて、背をさすり、頭をなで、「平安あれ」と声をかけて下さるのです。その御手に触れ、その御声を聴きながら、日々を歩ませていただいているのです。

 そして、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。主を仰ぎ、御言葉に信頼して、今日も平安と喜びをもって歩ませていただきましょう。

 主よ、昨日も今日も、永遠に変わることのない方が、深い愛と恵みをもって私たち救い、永遠の御国に導いて下さることを心から感謝します。絶えず主を仰ぎ、その御声に耳を傾け、導きに従って歩みます。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。 アーメン



10月22日(火)の御言葉  ヘブライ書12章

「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」 ヘブライ書12章24節

 22節に、「あなたがたが近づいたのは」という言葉があり、そのあとに9つの名詞が列挙されています。「近づいた」(プロセルコマイ)という言葉は、現在完了形で記されているので、キリストを信じて、神に近づけられて以来、ずっと傍らにいる、遠くに離れてはいないということを表しています。

 18節以下に描写されているのは、モーセが十戒を授かるときに登ったシナイ山の光景です(出エジプト記19章16節以下)。恐ろしさのあまり、誰も山に近づくことが出来ず、モーセですら恐れを覚えたと記されています(21節)。物音、地響きなどが恐ろしかったということでしょうが、それに近づくことが「死」を意味したということは(20節)、その情景はすなわち、神の裁き、罪の呪いを表しているということが出来ます。

 一方、私たちが近づいているのは、「シオンの山」、即ち、神の都エルサレムです(22節)。もちろん、「すべての人の審判者である神」(23節)に近づくことが、恐ろしくないはずはありません。私たちは決して「完全なもの」、間違いや過ちを犯さない「正しい人」ではないからです。

 しかしながら、私たちの近づいた神の都エルサレムで行われるのは、私たちの断罪などではありません。そうではなく、私たちを神の国に歓迎する宴会、「無数の天使たちの祝いの集まり」(22節)、そして、「天に登録されている長子たちの集会」(23節)が催されるのです。

  「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト記4章22節)と、神が語っておられます。ヘブライ書の著者は、御子キリストが現れた今、キリストを信じてその救いにあずかった私たちすべてが、新しいイスラエルの民、神の家であると語っています(2章10節以下、3章6、14節、9章23節以下など)。私たちは、イエス・キリストを信じて、神との間に新しい契約を結んだ新しいイスラエルの民とされたわけです(8章10節以下)。

 神との新しい契約を結ぶために、御子キリストが仲介者となられ、ご自身を贖いの供え物として、「契約の血」を流されました。それを24節で、「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」と言っているわけです。

 「アベルの血」とは、創世記4章で、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(同10節)と主が言われた、兄カインによって殺害された弟アベルの流した血のことを指しています。

 そして、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とは、キリストが十字架で流された血のことを指します。カインによって流されたアベルの血よりも、十字架で私たちの罪の贖いのために流されたキリストの血のほうが、立派に語っていると言われているわけです。

 アベルの血は、何を語っているのでしょうか。そして、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」と言われるキリストの血は、何を語っているというのでしょうか。

 創世記4章の記事によれば、アベルの血がカインの呪いを語っていると読めます。しかし、「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」(ヘブライ書11章4節)という言葉からすると、本書の著者は、アベルの血も立派に語っていると言いたいのです。そしてそれは恐らく、カインの赦しを願っての叫びと考えているわけです。

 そして、キリストの血の方が立派に語っているというのは、キリストは、ご自分を十字架に磔にしたローマ兵や総督ピラト、十字架につけることを要求した祭司長たちや群集たちだけではなく、あらゆる世代の全人類の罪の赦しを宣言し、それによって、すべての罪から私たちを清めて下さったからです。

 だから、いつでも大胆に神の恵みの座に近づくことが出来ます。「感謝の念をもって、恐れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(28節)。ハレルヤ!

 主よ、私たちを新しい契約の恵みに迎え入れて下さり、有難うございます。弟アベルが願った罪の贖いと赦しを、キリストがご自身を犠牲にして実現して下さいました。恵みに与った者として、いつも主の御傍にあり、その御声に聴き従うことが出来ますように。 アーメン





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