風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2013年08月

8月21日(水)の御言葉 第二コリント書5章

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 第二コリント書5章17節

 16節で、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と、パウロは語っています。これは、11節の、「内面ではなく、外面を誇っている人々」という言葉に対応して、外側の見えるところに従って判断しようとはしませんという意味でしょう。外側の見えるところ、その人の家柄、学歴、職歴、賞罰、立ち居振る舞い、身柄、格好、装束などで人を判断しないということです。

 それはまた、自分自身の学識、知識、経験などに従って、相手を判断しようともしないという意味でもあるでしょう。これらはしかし、「言うは易し、行うは難し」でしょう。多くの場合、常識的な判断、知識や経験の基づく判断をしているからです。

 そのように判断しないというのであれば、どのように判断するというのでしょうか。それは、私たちに与えられた霊において判断するということでしょう(5節参照)。霊において判断するというのは、キリストがその人を見て判断するように、と言い換えてもいいでしょう。それはまた、神の目で見てということでもよいでしょう。

 サムエル記上16章7節に、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という御言葉があります。これは、神が少年ダビデを、サウルに次ぐイスラエル第二代の王として選び出されるときに、語られた言葉です。預言者サムエルは、エッサイの長男エリアブこそ主の前に油を注がれる者だと思ったのですが、神の選びは違ったのです。

 預言者サムエルのような、「神の人」と呼ばれる人物でも、「人は目に映ることを見るが」と言われているとすれば、いったい誰が、霊において判断することが出来るというのでしょうか、キリストがその人を見て判断するように、神の目で見るように、その人を見ることが出来るでしょうか。これまた、言うことは容易いことですが、実行するのははなはだ難しいことです。

 なぜパウロは、このように語っているのでしょうか。それは、パウロがかつて、肉に従ってキリストを判断していたのです。それは、キリストが神の律法に背き、神を冒涜しているという判断でした。それで、キリストに従う者たちを厳しく取り締まり、教会を迫害したのです。しかし、彼の心に神の光が与えられたとき、目が開かれて十字架につけられたキリストの、神の栄光に輝く姿を見ることが出来ました。

 人は、パウロを月足らずで生まれた者であるとか(第一コリント15章8節)、正気ではないとか(13節)、パウロの語る福音は覆いが掛かっていてはっきりしない(4章3節)というような非難を浴びせるかもしれませんが、神は迫害者であったパウロを憐れみ、恵みによって復活のキリストに出会わせ、御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えられ、そして、使徒としてお立てになったのです。

 すなわち、冒頭の言葉(17節)の通り、パウロはキリストを信じ、「キリストと結ばれ」て(エン・クリストウ in Christ)、新しく創造された者となったのです。それは、パウロにとって、驚くべき恵み(Amazing Grace)だったのではないでしょうか。

 迫害者であったパウロに対してそのような恵みが与えられたということは、誰にでも、その恵みが与えられるということでしょう。ということは、神は既に、キリストの十字架の御業において、すべての人のあらゆる罪をお赦しになられたのです(15節)。

 そうであるならば、誰でもが、キリストにあって、キリストに結ばれて、新しく創造された者とされます。キリストがすべての人のために贖いの供え物となられたのであり、すべての人がその命の代価によって買い取られ、神のものとされた、かけがえのない大切な存在ということです。

 新しくされたことによって、古い罪の問題はすっかり解決したということではありません。20節に、「神と和解させていただきなさい」と語られています。これは、未信者に向かって語られた言葉ではありません。コリントの信徒たちに向けて語りかけている言葉です。つまり、私たちは日々、常に、神と和解させて頂く必要があるということです。

 なお、「和解させていただきなさい」に用いられているのは、不定過去(第二アオリスト)時制のカタッラゲイテという動詞ですが、書簡の中で用いられる場合には、現在形のように読まれるべきでしょう。キリストを信じている者たちが絶えず神を仰ぎ、つねに神と和解させていただきなさいという勧めです。

 しかも、「和解させていただく」というのは、受身形が用いられています。まさに、神との和解は、神によって与えられるものなのです。だから18節で、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」というのです。

 すべての人に神との和解が賜物として与えられているという事実に基づき、それを受け入れた者たちは、キリストの使者として、和解の言葉を携え、すべての人々にそれを分かち与える任務が授けられているというのです(18,19節)。 

 互いにキリストに結ばれて新しく創造された者同士、愛し合い、助け合い、支え合い、祈り合いつつ、主に委ねられた務めのため、共に励んで参りましょう。


 主よ、あなたは私たちのすべてをご存知で、深く愛し憐れみ、救いの恵みをお与え下さいました。今、キリストと結ばれて新しく創造された者として頂いたことを、感謝します。しかし、自力でこの状態を保つことは出来ません。絶えず御言葉に留まり、御霊の導きに与らせて下さい。 アーメン





8月12日(月)の御言葉 ヨブ記42章

「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。」 ヨブ記42章8節


 ヨブが神に求めていたこと、彼が神に問いかけていたことについては、神は何一つ答えられはしませんでした。かえって、嵐を通して(38章1節)、ヨブが及び得ない深遠な知恵を通して、「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは」と言われ(3節、38章2節)、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(4節、38章3節、40章7節)と問い返されています。

 それによって、神がヨブを裁かれているのです。しかしそれは、ヨブの求めに対する神の答えでもあったのです。ヨブは、神について耳にはしていました。しかし、今は、神を仰ぎ見ることが許されました(5節)。そのときの神のまなざしは、厳しくて、鋭くて、とても直視することが出来るようなものではなかったでしょう。ただひたすら、塵と灰の上にひれ伏し、自分を無にして悔い改めるほかはありません(6節)。

 神は、ヨブとお語りになった後、テマン人エリファズを召して、「わたしはお前とお前の二人に友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」と言われました(7節)。ここで、神はヨブを「わたしの僕」と呼ばれています。そして、エリファズたちが、神について正しく語らなかったったと言われます。ということは、ヨブは正しく語っていたと認められているわけです。

 この評価は、当然のことながら、エリファズたちと議論していたときのヨブの意見が、すべて正しいということではありません。正しくなかったからこそ、ヨブは神の前に悔い改めたわけです(2節以下、40章4節以下)。神の告げられたヨブの正しさとは、ヨブが神と出会って深く神を知り、悔い改めたということであり、謙ったヨブに神が義を賜ったということでしょう。

 一方、エリファズと二人の友人たちが神に責められるのは、彼らがヨブとの議論の中で問題を神に訴え、ヨブを御手に委ねようとせず、むしろ、神に代わってヨブを断罪し、因果応報の教理に固執し続けたからです。神から離れて自分の正しさに固執し、神の方が謝っていると主張し続けていたヨブがそうであったように、「神の僕」と言われるヨブを神に代わって裁いていたエリファズたちも、神の前に立って裁かれるべきものだったのです。

 神はエリファズたちに、「今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう」と言われました(8節)。

 ここで、いけにえをささげるように言われるということは、神はエリファズたちにも、既に赦しを与えることにしているのです。そして、そのために、彼らが神の罰を受けていると断罪したヨブの助けを借りよというのです。

 これは、ヨブに対しても、自分を敵視し、見下ろした態度をとっていたエリファズたちのために執り成しの祈りをして、彼らが神の恵みを受ける手伝いをせよと言われているわけです。エリファズたちは忠実にそのことを実行し、そして主は、ヨブの祈りを受入れられました。ヨブに加え、エリファズたちも神の前に真実の悔い改めをすることが出来たのです。

 冒頭の言葉(10節)で、「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し」と言われています。神の前に悔い改めたヨブは、さらに友のために執り成し、祝福を祈るように導かれました。

 感情的には、自分を苦しめ、絶交状態になった友らのために祈るのは、困難だったでしょう。むしろ、「神よ、彼らを裁き、滅ぼして下さい」と祈りたかったのではないでしょうか。

 しかし、ヨブはその導きに従順に従いました。それこそ、ヨブの悔い改めが真実であったしるしです。そのとき、彼には、財産を2倍にされるという祝福が与えられたのです。13節に記されている子らの数は、1章2節と同数ですが、やがて天に召されるときが来れば、そこで2倍の子らに囲まれることになるわけです。

 ここに改めて、神の恵みに与る鍵は、神の御前に御言葉に従順であること、また、人に対して、互いに赦し、互いに祝福する、愛の心で交わることと示されます。

 主よ、愚かな私たちを憐れんでください。聖霊を通して私たちの心に御愛を注ぎ与えてください。主の御旨がこの地上でも行われますように。神の恵みと慈しみが、常に豊かにありますように。 アーメン



8月11日(日)の御言葉 ヨブ記41章

「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。」 ヨブ記41章25節


 神はヨブに対し、大地や海、天体などの大自然について(38章1節以下)、また、雌獅子や烏などの動物について(38章39節以下)、その理解を尋ねたのに続き、ベヘモット(40章15節以下)とレビヤタン(同25節以下)について、問いかけました。41章には、引き続きレビヤタンを描写する表現が列挙されています。

 口語訳聖書では、ベヘモットもレビヤタンも実在の動物と考えて、ベヘモットを「河馬」、レビヤタンを「わに」と翻訳していましたが、新共同訳は原語の音をそのままカタカナ表記にして、陸と海の怪獣のような表現にしています。新改訳はその折衷案のように、ベヘモットは「河馬」、レビヤタンはそのままのカタカナ表記にしています。

 解釈は様々でしょうが、既に39章に実在の動物は取り上げられていますから、こちらは、新共同訳聖書のように、陸と海の怪獣という神話的な表現と考える方がよいのかも知れません。

 創世記3章に、蛇が善悪の知識の木の実をとって食べるように女性を唆し、神に背かせたと記されています。実在の蛇が人間のようにものを言うはずがありませんから、それは、悪魔サタンが蛇の姿を借りて人間を誘惑したのだと解釈されます。レビヤタンは、イザヤ書27章1節では蛇、海にいる竜とあり、まさに悪魔的な存在をさしていると考えることも出来ます。

 人は、自分の力で悪魔に立ち向かうことが出来るでしょうか。1節で、「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ」と言われ、17節には、「彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」と記されています。さらに、冒頭の言葉(25節)でははっきりと、「この地上に、彼を支配する者はいない」と断言されています。

 創世記4章5節で神がカインに、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と言われましたが、カインはサタンによる罪の誘惑に勝てず、弟アベルを殺してしまいました。聖書に記された最初の殺人事件で、しかもそれは、兄弟殺しという悲惨なものでした。

 ところで、ここで何故神は、レビヤタンを話題にしておられるのでしょうか。それは、神がレビヤタンを支配しておられること、御自分の思いのままにレビヤタンを用いることが出来るということを示しておられるのです。まさしく、人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(3節)と言われるとおりです。

 ヨブは、サタンによってさんざん苦しめられました。そして、三人の友らと言い争い、自らの義を強く主張するあまり、神が間違っているとさえ、考えてしまいました。感情的になったヨブは、自分の内なるレビヤタンを治めることが出来なかったのです。

 主なる神は、ヨブの内にある高ぶりの芽、自己中心の苦い根があることを知らせるため(ヘブライ12章15節参照)、サタンを用いてヨブを試みることを許し(1章12節、2章6節)、改めて神の御前に謙り、主に信頼して聴き従って来るように導かれたわけです。

 主なる神は、御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされました。御子は、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られましたが、三日目に甦られました。その死と復活によって、罪と死の支配に打ち勝ち、罪に死んでいた私たちを命の支配のうちに移して下さいました。私たちの罪は赦され、神の子として生きることが出来るのです。それは、一方的な神の恵みであり、憐れみです。

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ書5章8~10節)。

 十字架の主を仰いでその御顔を拝し、御口をもって語られる御言葉一つ一つに真剣に耳を傾けましょう。常に私たちと共にいて、私たちのために執り成し、慰め励まして下さる主イエスの御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、私たちは自分一人で立っているのではありません。常に主が共にいて、私たちを立たせて下さっています。御前に謙り、主により頼みつつ、御言葉に聴き従って歩ませて下さい。主の御心を行わせて下さい。全世界に主イエスの平和がありますように。 アーメン




8月10日(土)の御言葉 ヨブ記40章

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」 ヨブ記40章6節


 「神を責め立てる者よ、答えるがよい」と言われる主なる神に(2節)、ヨブは、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」と答えました(4,5節)。

 ここに、神よりも自分の方が正しいと主張する傲慢、ゆえに神は自分をこの苦しみから解放すべきだという自己中心的な思いは、完全に打ち砕かれました。ヨブの心は、神を畏れる思いで完全に満たされていることでしょう。

 すると神は、冒頭の言葉(6節)のとおり、再び、「嵐の中から」ヨブに語りかけられました(38章1節参照)。嵐の中で語りかける神のイメージは、モーセがシナイ山で十戒を受けた時、山全体が雷雲に包まれ、雷鳴がとどろいて、宿営していた民が震え上がったときのことを思い起こさせます(出エジプト19章参照)。

 また、ソロモンが神殿の奉献式において賛美を捧げたとき、そこに雲が満ちたことがあります(歴代誌下5章13節)。雲は、神の臨在のしるしでした。その雲が雷雲であれば、それは神の臨在を示しているだけでなく、許可なく神に近づくことを許さないというしるしでしょう。

 そのうえ、その雲が「嵐」をもたらすものならば、どうなるのでしょうか。嵐は、ヨブの長男の家を倒壊させて子どもたちのすべての命を奪いました(1章19節)。ヨブにとってそれは、大きな苦しみであり、また悲しみです。嵐が今、ヨブに立ち向かっているということは、ヨブに対する神の裁きと考えてもよいでしょう。

 ヨブは苦しみをもたらした神に訴えて、答えを求めていたわけですが、耐え難い苦難を通して、神がヨブに語りかけられていた、否、神が語りかけておられることに今ようやく気がついたと読むことも出来そうです(36章15節参照)。

 ヨブは、自分の正しさを神が認めてくれるようにと求めるあまり、むしろ、神から遠く離れることになってしまったことに気づかされたのです。そして、自分に厳しく迫り、問われる神の裁きにより、主が神であられること、また自分が神の被造物であるということを、再認識させられました。それはしかし、もう一度神の恵みに目を開かせることだったのです。

 モーセがシナイ山で十戒を授かったとき、山全体が激しく震え、モーセの語りかけに雷鳴をもって答えられるという恐るべき光景が展開されていたわけですが、モーセはそこで神と親しく語らい、40日40夜を飲まず食わずで過ごしました。飲食を忘れるほど、いえ、神と親しく交わることは、モーセにとって、私たちの理解を超えた、真の食べ物であり、飲み物だったのです(ヨハネ4章32,34節、6章53節以下、55節)。

 詩編34編18,19節に、「主は助けを求める人の叫びを聴き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」と詠われています。直接語りかけられた神の御前に、己の傲慢を思い知らされ、自己中心の罪を示されて謙っているヨブにとって、神の御言葉は厳しくありますが、しかしそれは、ヨブの目を開いて謙らせ、悔い改めて、再び神との親密な交わりに導くものとなったわけです。

 2000年前のペンテコステの日、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」ということ(使徒言行録2章2節)、そして、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」という出来事があり(同4節)、ペトロの説教を通して3000人もの入信者を獲得して(同41節)、エルサレムに教会が誕生致しました。

 「激しい風」は、聖霊の到来を表わしており、そして、それまで権力の前に怯えていた使徒たちに神の力を与え、宣教の働きが著しく伸展しました。「霊」は、ギリシア語(プネウマ)でもヘブライ語(ルーアッハ)でも、「風」とも訳される単語です。聖霊が激しく信徒たちの上に働きかけたということになります。

 十字架の前にひざまずき、約束の聖霊に満たされ、喜びをもって従順に主に従う者としていただきましょう。

 主よ、御前に謙り、絶えず御声に耳を傾けます。聖霊の助けと導きを求めます。上からの力に与り、頂いている恵み、平安、喜びを周りの人々と分かち合うことが出来ますように。主の恵みと導きが私たちと共に常に豊かにありますように。 アーメン




8月9日(金)の御言葉 ヨブ記39章

「神が(駝鳥に)知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。」 ヨブ記39章17節
 
 39章では、神はヨブの目を、地上の動物たちに向けさせます。山羊(1節a)や鹿(1節b以下)、野ろば(5節以下)、野牛(9節以下)、駝鳥(13節以下)、馬(19節以下)、鷹(26節)、鷲(27節以下)など、ここに描かれている動物たちの生態について、私は殆ど何も知りません。これらが科学的に正確な描写であるのかどうかも分かりません。神が造られた動物で、その名を知っている動物でも、分からないことだらけです。

 ここにあげられている動物の中で、駝鳥の評価が最も低いようです。鳥なのにコウノトリのように空は飛べませんし(13節)、卵は産みっぱなし(14,15節)、雛を守ろうともしない(16節)というように、ひどい言われようです。そして、その理由は、冒頭の言葉(17節)のとおり、神が駝鳥に知恵、分別を与えなかったからだと書かれております。

 それでも神は、駝鳥を見捨てて滅びるにまかせておられるわけではありません。種が絶滅することのないように、駝鳥にも神の特別な配慮があるのです。駝鳥は強靱な脚力で、馬やその乗り手(人間)をあざ笑うかのような走りが出来ます。

 人間は、神のかたちに創造されており(創世記1章26節以下)、被造物の中の最高傑作だと言われます。だからといって、ここで評価の最も低い駝鳥を、自分の思い通りに動かすことなど、容易に出来るものではありません。

 神は何故、駝鳥のような鳥を創られたのでしょう。それは、神にしか分かりません。誰もその御経綸を悟ることは出来ません。神に代わることは出来ないのです。

 最近話題の鳥インフルエンザ対策の一つとして注目されているのが、駝鳥の卵を使って鳥インフルエンザウイルス(H7N9型)の抗体を作るというものです。ウイルスを不活化する抗体をダチョウの卵から精製することに、京都府立大学生命環境科学研究科の塚本康浩教授のグループが成功し、中国や台湾などで、6月中旬から実用販売されているそうです。

 それは、抗体を吹き付けたマスクや、顔や手に吹き付ける抗体入りスプレーで、インフルエンザウイルスから感染力を奪い、インフルエンザ感染を完全に防御することが出来るそうです。評判がよくて、売り切れ状態が続いているとも聞きました。

 何でも、駝鳥は傷の治りがきわめて早く、灼熱の砂漠で生きながら寿命が60年もあります。その驚異的な生命力に着目した塚本教授は、「すさまじい免疫力の持ち主で、抗体を作る力も強い」と見て研究し、卵から大量の抗体を取り出す技術を開発しました。

 5年ほど前に流行した新型インフルエンザの時に販売された抗体入りマスクが注目を浴びましたが、
駝鳥の卵は病原体への抵抗力が強く、その上、鶏の卵の20~25倍の大きさがあり、卵1個からマスク8万枚分の抗体がとれるそうです。また、卵1個の抗体からインフルエンザ検査薬が2万人分作れるとも報道されています。

 駝鳥は年間100個近い卵を産むそうで、しかも前述の通り、駝鳥の寿命は60年以上、産卵期間も40年ほどあることから、同質の抗体を長期間にわたって安定供給出来ることも強みということでした。また、肉は高タンパク低脂肪で健康志向で需要が高まり、世界各地に飼育農場が増加しているそうです。

 勿論、鳥インフルエンザ対策やメタボ対策という、人間の健康保持のために、神が駝鳥を創造されたわけではないでしょう。とはいえ、駝鳥のお蔭で私たち人間の命が守られるというのは、確かなことです。

 いずれにせよ、神が造られた被造物の多様さ、しかも、その一つ一つに注がれた配慮の細やかさには、目を見張るばかりです。

 神がヨブに創造の神秘を語られるのは、被造物一つ一つに込められている神の深い御心に気づかせるためでしょう。そして、それによって、ヨブの上にも神の特別な配慮があることを気づかせるためだったのではないでしょうか。

 主イエスが、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりも張るかにまさっている」(マタイ福音書10章29~31節)と言われました(1アサリオン=16分の1デナリオン≒300円)。

 ルカ12章6節では「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と言われており、4羽買うと1羽おまけでついてくるという雀について、神が航空管制官よろしく、地に落ちることがないように目を留めておられるのです。

 慈しみ深い神に信頼し、すべてをその御手に委ねることの出来る者は幸いです。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と言われているとおりです。
 
 主よ、御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。その威光をたたえます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何者なのでしょう。心を尽くして感謝し、その御愛を語り伝えます。今日は、長崎に原爆が投下されたことを記念する日です。全世界に主イエスの平和が豊かにありますように。 アーメン




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8月8日(木)の御言葉 ヨブ記38章

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」 ヨブ記38章2節


 1節に、「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と記されています。主なる神が、雷鳴や山鳴りの中からモーセに語られ(出エジプト記19章16節以下)、激しい風と火の後エリヤに語られたように(列王記上19章11節以下)、嵐の中から、ヨブにお答えになりました。即ち、このとき、嵐が主の顕現されたしるしでした。

 ヨブは、このときをどれだけ待ち侘びたことでしょう。ようやく、直接に神と語り合える、念願のときが巡って来たのです。けれども、その出会いは、ヨブが望んでいたようには展開しませんでした。ヨブは、なぜ自分が苦難を味わわなければならなかったのか、神の不当なやり方を問いつめるつもりでした。神から何を言われても、自分の正当性を徹底して主張するつもりだったのです(13章22,23節、14章15節、31章35節以下など)。

 しかし、神はこのようなヨブの問いに対して、全くお答えにはなりませんでした。むしろ、冒頭の言葉(2節)のとおり、ヨブに、「お前は何者か」と問います。ヨブは、神を被告席に立たせて、原告、あるいは検察官として、神のなさった仕打ちの不当性を訴えるつもりだったようですが、逆にヨブが被告席に座らされ、神の質問に答えさせられます。

 神は、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)といって質問を始められます。しかし、神の創造の御業の秘密を、どうして人が知ることが出来るでしょう。このような質問に、どうすれば答えることが出来るでしょうか。それは到底不可能です。

 神はこれまでのヨブの弁論を、冒頭の言葉(2節)のとおり、「言葉を重ねて神の経綸を暗くする」行為であると断じています。ヨブが不当な仕打ちだと考えている苦難について、「神の経綸」、つまり神の深い計画、天地万物を統べ治める神の方策の中でなされた行為だったというのです。

 そして、それが不当なものとしか捉えられないのは、天地万物を創造された神の知恵に対するヨブの理解力が欠けているからなのです。それにも拘わらず、それを神の責任、神の判断の誤りだと考えるのは、神の御旨を全く理解出来ないヨブの思い上がり、知恵の暗さだということなのです。

 このように、ヨブの高ぶりともいうべき罪を指弾される神の御言葉を読みながら、初めは、「嵐の中から」語りかける神のきわめて厳しい表情を思い浮かべていました。そして勿論、それだけ厳しい内容をもっていると思います。しかし、何度も読むうちに、なんだか、優しいおじいさんが可愛い孫に笑顔を見せながら語りかけているような、そんな慈しみを感じてきました。

 もしも神がヨブを断罪するつもりであれば、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えて見よ」(3節)と仰るまでもなく、たとえば、あのウザを一瞬に打たれたように(サムエル記下6章7節参照)、ヨブを打たれたことでしょう。

 しかしながら、神はここでヨブに、神の御前に謙ること、悔い改めることを求められたのだと思います。そして、ヨブの誤った自信、自分を義とする思いを砕き、さらに深く神に依り頼む信仰の心を、ヨブに授けて下さろうとしているのです。

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ書1章26,27節)と、パウロが記しています。

 神の深い計画を人がすべて知ることが出来るはずもありませんが、それは、神が御自分の創造された世界、そこに住む私たちを愛されるがゆえのものです。だから、計画が明らかになるときが来るのです。その最も大切な栄光に満ちた計画が、神が私たちの内に御子キリストを住まわせるという計画でした。

 私たちの方からいえば、それは、私たちがキリストを信じて受け入れるということです。私たちは、キリストを信じる信仰によって義とされ、すべての罪が赦され、永遠の命が授けられ、神の子となる特権が与えられました。

 主に信頼し、その御言葉に聴き従いましょう。


 主よ、あなたに喜ばれる信仰の器となることが出来るように、私たちを御言葉と御霊によって整えて下さい。主の恵みと平安が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン



8月7日(水)の御言葉 ヨブ記37章

「神は驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知りえない大きな業を成し遂げられる。」 ヨブ記37章5節


 37章まで、エリフの言葉が続いています。36章27節以下に秋の描写があり、本章1節以下には冬、そして14節以下には夏の描写がなされています。そうして、そのような自然の情景の中に込められている神の御業、神の御心を、エリフは示そうとしています。

 その最後の勧告の言葉は、「全能者を見だすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。ひとの知恵はすべて顧みるに値しない」(23,24節)というものでした。確かに、人がその知恵で神を見出すことは出来ません。自分の力で神のもとに行くことも出来ません。どんなときにも神を待ち望み、その御声に耳を傾けるより他ないのです。

 しかし、私たちは、自分に都合のよいことは神の恵みとして受け取りますが、不都合なことを同様に考えることは困難です。ヨブは当初、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言っていました(1章21節)。しかし、幸いを受けたのだから不幸も頂こうとは、なかなか言えるものではありません。

 6節以下で大雪、大雨などの自然現象も、神の御心によって司られていると教えられますが、台風の被害や地震による災害などをどのように考えればよいのでしょうか。自分や家族が天災などによって被害を受けたときに、これを神様の賜物と考えることは大変困難なことです。

 しかしながら、時折、苦難を恵みと考えることが出来た人々に出会います。水野源三さんもそうです。星野富弘さんや三浦綾子さんも、そうした人々の中の一人です。私たちの目には神様の御姿は見えませんが、このような人々がその苦しみの中で神を信じて変えられたという話を伺うと、確かに神がおられるのではないかと思います。

 なぜ、彼らがそのように苦しまなければならなかったのか、その原因はよく分かりませんが、源三さんの詩集や、富弘さんの詩画集などで多くの人々に感動を与え、慰めや励ましとなっていることを考えると、冒頭の御言葉(5節)のように、神が苦しみの中にあった彼らに、「驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知りえない大きな業を成し遂げる」という目的のためだったのだと、確かに思います。

 現代のヨブ、水野源三さんが神様に対して心を開くようになるのは、しかし、一朝一夕のことではありませんでした。源三さんのことを知った一人の牧師が、一冊の聖書を置いていったのが、そのきっかけです。源三さんが12歳の時です。

 その頃、源三さんを自分たちの宗教に勧誘しようとする訪問者が後を絶たず、それにウンザリさせられていたので、家族も最初は拒絶していたといいます。しかし、誠実に訪問し、家族の話に耳を傾け、福音を語る牧師に、それまでとは違うものを感じて、源三さんのお母さんが牧師に、源三さんの話し相手になってくれるよう、頼まれたそうです。

 源三さんを信仰に導いたのは、坂城栄光教会を築かれた宮尾隆邦という牧師ですが、当時、小学校の分校教師をしながら伝道しておられました。長野県の田舎の町はずれのあばら屋に住み、大変苦労をしながら伝道されていたそうです。それは、宮尾先生に、郷里伝道という使命が与えられていたからこその働きでした。

 その上、源三さんと出会ったときには既に進行性筋萎縮症を発症しておられ、杖をつきながら源三さんを訪ねて来ておられたそうです。聖書を置いて行った宮尾先生は体の不自由な人だと、母親から聞かされた源三さんは、初め、暗い人かと思っていたので、先生の朗らかな笑い声に驚いたそうです。

 宮尾先生の誠実なお人柄とその信仰、そして何より、宮尾先生を通して大きな業を成し遂げようとされる神ご自身の御業によって、源三さんは13歳でクリスチャンとなられたのです。

 私たちが信仰に導かれたのも、神が驚くべき御声をとどろかせ、私たちの知りえない大きな業をなして下さったからであり、また同様に、私たちを通して御声をとどろかせ、私たちの知りえない大きな業をなそうとするためなのです。

 主よ、どうぞ私たちを主の貴い御用のために用いて下さい。用いられる器となるために整えて下さい。そのための試練を耐え忍ばせて下さい。知恵と力を授けて下さい。 アーメン!




8月6日(火)の御言葉 ヨブ記36章

「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」 ヨブ記36章15節


 エリフは更に言葉を重ね(1,2節)、「遠くまで及ぶわたしの考えを述べて、わたしの造り主が正しいということを示そう」(3節)と言います。「遠くまで及ぶわたしの考え」は、自分の知識や思索の広さを示す表現で、神の導きによって、遠く神にまで及ぶほどに広い知識を持っているので、そこから、神の正しさについて、ヨブに告げ知らせようということでしょう。

 口語訳、新改訳は「遠くからわが知識をとり」、「遠くから私の意見を持って来て」という訳文で、神様からその知識を得たという解釈を示しています。原文は、口語訳などのように、「遠くから」と訳すほうが正しいように見えます。岩波訳は、「はるか昔からのもの」と訳し、「遠くから」を先祖から受け継がれてきた知恵という解釈になっています。

 そして、4節に、「まことにわたしの言うことに偽りはない。完全な知識を持つ方をあなたに示そう」と告げています。つまり、エリフが神に代わって、完全な知識をお持ちのお方についてヨブに披瀝し、神の正しさを証明しようというわけです。これはしかし、傲慢のそしりを免れることは、少々難しいのではないでしょうか。

 「まことに神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」(26節)と自ら言いながら、どのようにして神に代わって、「完全な知識をお持ちの方」をヨブに示すことが出来るというのでしょう。これでは、いつの間にかエリフの言葉は、ヨブや三人の友らに神の御言葉を告げるところから大きく外れ、自分の方がヨブや三人の友らよりも広く豊富な知識を持っていると誇るというものに、成り下がってしまっています。

 その中で、冒頭の言葉(15節)は大変意味深いものです。貧しい人、苦悩の中にいる人を救い出すのは神ご自身であって、貧苦や苦悩がその人を救うのではありません。しかし、神は貧苦を通してその人を救い、苦悩によって耳を開いて下さると言っているのです。つまり、貧苦や苦悩をとおして神が指し示され、それが神の恵みに与らせる手段となるというわけです。

 エリフは、自ら苦しみを通して神の恵みを味わったことがあるのでしょうか。苦悩を経験すれば、誰もが自動的に神と出会い、その恵みを味わうことが出来るというわけではありません。「神を無視する心を持つ者は、鎖につながれていても怒りに燃え、助けを求めようとしない」(13節)と言われている通りだと思います。卑屈になって殻に閉じこもる人もいるでしょう。周りに八つ当たりする人もいるでしょう。

 しかし、貧苦や苦悩は、自分の限界を教えてくれます。それによって謙遜を学びます。そしてそこから大切なことを学ぶことが出来るようになります。

 詩編119編で、「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(71節)、「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」(107節)、「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです」(143節)と語られているように、苦難が神の御言葉に心を向けさせ、それが慰めとなり、励ましとなっているのです。

 神の言葉が貧苦と苦悩の中にいる人を慰めるのは、御子イエス・キリストを十字架につけることよって、神ご自身が自ら苦悩を味わわれたからです。

       「苦しまなかったら」
    もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。
    もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現れなかった。
    多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。

 これは、瞬きの詩人といわれた水野源三さんの詩です(水野源三『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター刊より)。水野源三さんは、小学校4年生のときに患った赤痢の高熱が原因で脳膜炎を起し、首から下の神経が麻痺して、体を動かすことも、声を出すことも出来なくなりました。そんな源三さんが、お母さんと二人三脚で編み出した自分の表現法、それが瞬きでつづる詩です。

 源三さんはこうした苦しみを通して神と出会い、その結果、出会いの糸口となった苦難を神から賜った恵みと考えるようになられたのです。いつも私たちを最善に導かれる主を信頼することの出来る方は、本当に幸いです。

 68年前の今日、広島に投下された爆弾で被爆した方々やそのご家族の苦しみ、未だに被爆者として国に認定されていない方があるという報道に触れ、そのやりきれなさはどれほどだろうかと思います。心から主の慰めと平安を祈り、そして、これ以上被爆者を生まないよう、核の管理の徹底を願いたいと思います。

 主よ、あなたは憐れな人を守り、弱り果てた人を救って下さいます。私たちの魂を死から、私たちの目を涙から、私たちの足を滅ぼそうとする者から助け出して下さいました。68年前に投下された原爆による被爆に苦しむ方々に主の恵みと平安が豊かにありますように。すべての人々に神の愛が伝えられますように。御国が来ますように。 アーメン




8月5日(月)の御言葉 ヨブ記35章

「どこにいますのか、わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は。」 ヨブ記35章10,11節

 エリフは言葉を続け(1節)、再度、「神はわたしを正しいとして下さるはずだ」(2節)というヨブの発言を問題にして、「あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれほどのことだろうか」(6節)、「あなたが正しくあったとしても、それで神に何かを与えることになり、神があなたの手から何かを受け取ることになるだろうか」(7節)と語ります。

 つまり、ヨブの正しい振る舞いで神を益することは出来ない、それによってよい報いを期待するのは間違っているという論法です。これは、これまでのヨブや三人の友らと異なり、よいことをすればよい報いが、悪いことをすれば悪い報いがあるという因果応報の論理とは異なる考え方です。

 「抑圧が激しくなれば人は叫びを上げ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める」(9節)とは、時の権力などによる抑圧で人々は叫び声を上げるという一般論を述べ、そして、冒頭の言葉(10,11節)のとおり、「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神、夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と」と述べて、謙遜に神に助けを求める者がいないと評します。

 叫び声を上げ、助けを求めてそれが答えられないのは、そのように謙って神を尋ね求めないからで、それは、「悪者が高慢にふるまう」ことだと結論づけています(12節)。ヨブの苦しみの原因が何であれ、ヨブに求められる姿勢は、自分はこのような苦しみに遭う理由がわからないというのではなく、「わたしの造り主なる神はどこにおられますか」と、謙遜に尋ね求めることだというのです

 そして、「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」と言います(14節)。ヨブが空しく口を開き、愚かなことを言い続けられるのは、神が裁きの時が来るのを待っておられるからで(15,16節)、ただ沈黙しておられるわけではないということです。

 あらためて、エリフは冒頭の言葉で神を、「わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方」と紹介しています。ヨブは、自分の被った災難から解放されないことについて、神の義を問題にしていますが、神は創造された天と地、地の獣や空の鳥を通して、つまり、どのようなことからでも、その意味と目的を学び、真理を悟ることが出来ると、エリフは考えているのです。

 エリフの言葉は、聞くべきものであると思いますが、しかし、苦しみの中にいるヨブの心に、彼の言葉がどのように響くでしょうか。慰めとなり、励ましとなるでしょうか。因果応報の論理で責め立てられて、強く反発したように、よい行いをしたからと言って、よい報いを期待することは出来ないというエリフの言葉に、それでは、どうすればこの苦しみから逃れられるのか、と反論してくるのではないでしょうか。

 エリフ自身が語っているように、ヨブの訴えは神の御前にあります(14節)。神はどんな言葉も受け止めて下さいます。しかし、未だ怒りの時が来ていないので、神が聞き過ごしておられるということではないでしょう(15節参照)。神はその訴えを無視しておられるのではなく、むしろヨブの傍らに寄り添い、思う存分語らせて、そのすべての思い、願いに静かに耳を傾けて下さっているのです。

 改めて、冒頭の言葉(10節)で神について、「夜、歌を与える方」と語られています。なぜ夜に歌が与えられるのでしょうか。それは、夜、神の恵みを味わうからでしょう。勿論、夜になればいつでも自動的に恵みを味わうなどということではありません。苦しみ、悩みで眠れない夜を過ごすことがあります。そうしたとき、深く孤独を味わうものです。けれども、そのときに神に出会う経験をするのです。そして、そこで嘆きが歌に変えられるのです。

 フィリピ伝道の初めに無実の罪でむち打たれ、投獄されたパウロとシラスが、「真夜中ごろ」、「賛美の歌をうたって」、神に祈りました(使徒言行録16章25節)。それは、まさに神の導きだったわけです。

 神は、私たちの苦しい、辛い状況を、遠く離れたところから見下ろしておられるお方ではなく、私たちに傍らに来て、私たちに代わってそれを背負い、私たちを癒して下さるお方なのです。

 教会員のS兄が、かつては障害者に産んだ親を恨みに思っていたけれども、今では、そのような体が与えられたことを神に感謝していると言います。その障害のゆえに、神を信じる者となりました。彼は、神のまなざしを通して自分の現実を見たとき、そこに神の恵みがたたえられていることを知ったのです。

 主よ、あなたはエリフが語るとおり、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるお方です。私たちの嘆きを踊りに変え、荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。悲しむ者に深い慰めをお与えくださる主の恵みと平和が、全世界に豊かにありますように。 アーメン




 

8月4日(日)の御言葉 ヨブ記34章

「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。」 ヨブ記34章21節


 エリフは、ヨブの応答を待たず、言葉を続けます。そして、その主張は次第にヒートアップし、「わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。わたしは正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた」と、自分の義を主張して神を非難しているとし(5,6節)、「ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(7,8節)と、強く断罪し始めます。

 けれども、少々興奮しすぎで、ヨブを誤解しているようです。9節に、「神に喜ばれようとしても、何の益もない」とヨブが語っているといって非難する言葉があります。21章15節に、「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるか」という言葉が記されていますが、それは、神に逆らう者らの発言として告げており、続く16節に、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」と述べて、それは自分の考えではないと明言しています。

 ただ、そのように神に逆らう者が財産を手にしていて、主を求めて正しく歩んで来た自分がすべてを失い、苦しい目に遭うのはなぜかと、ヨブは訴えているのですが、だからといって、神に従っても益がないから、神に逆らう道を歩もうなどとは思わないというのです。

 相手の言葉を正しく聞き、理解していなければ、エリフの主張が理論的に正しいものであったとしても、ヨブを納得させ、あるいは慰め、あるいは励ますことなど、出来るものではないでしょう。感情丸出しで語るあまり、馬脚を現わしてしまっています。この時、エリフが神の霊によってのみ語ってはいないということを自ら暴露してしまったわけです。

 これでは、ヨブの三人の友らと何ら違いはないということになってしまいます。とは言いながら、私たちもエリフや三人の友らと同じ立場にいたとき、傍らに座り、静かにヨブの言葉に耳を傾け、慰めの言葉を語り続けることが出来るかと問われると、心許ないですね。いつも、自分の枠の中で考えて、相手の立ち場に立って考えることが難しい私たちです。

 そして、冒頭の言葉(21節)のとおり、エリフは、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」と語ります。22節との関連で、これは、隠れて悪を行っても神が見ているという警告です。私も小さい頃から、お天道様が見ているよ、お見通しだよと、周囲の人から何度言われたか分りません。それほどよい子でなかったからです。

 けれども、神のまなざしには、いわゆる悪を見逃さないという側面があることを否定はしませんが、しかし、私たちに注がれている神のまなざしは、何か悪事を働いているのではないか、変なことを考えているのではないかと、私たちの罪を暴こうとするものではありません。

 むしろ、神は私たちが悪い者であること、善いことを考えない者であることを、先刻ご承知です。神はノアの洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われています(創世記8章21節)。私たちをお裁きになるつもりなら、そのために見張っている必要もないわけです。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章3節)ているというのは、イスラエルの民であれ、私たちであれ、私たちの側に神様を喜ばせるよいものがあって、それで、「価高く、貴く」という評価になるわけではありません。神は私たちを愛をもって見つめておられるので、私たちが何者であっても、「価高く、貴い」者として見ていただけるわけです。

 そして、罪の呪い、裁きにおののく私たちに、「恐れるな」と語りかけられました。そして、私たちの罪の贖いのため、代償としてご自分の独り子を差し出されたのです。そのようにして私たちの罪を赦し、永遠の命の恵みに入れて下さる主は、私たちを助けて足がよろめかないようにし、眠ることなく、まどろむことなく、私たちを見守っていて下さるのです(詩編121編3,4節)。

 私たちを愛してやまない主なる神が、私たちの歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ていて下さるというのは、何と幸いなことでしょうか。心安らぐことでしょうか。絶えず主に信頼し、感謝と喜びをもって主の御声に耳を傾けましょう。御霊の導きに従いましょう。

 天地を創られた主よ、あなたが私の歩みに目を注ぎ、その一歩一歩を見ていて下さることを、心から感謝致します。私の足がよろめかないように、滑らないように、見守っていて下さい。すべての災いを遠ざけて、私の魂を見守って下さいますように。全世界に主の平和と恵みに満ち溢れますように。 アーメン






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