「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。」 ヨブ記30章20節
前章より、ヨブの嘆きは続きます。かつては、「嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物であった」(29章25節)ヨブでしたが、今は若者らの物笑いの種、嘲りの的にされています(1,9節)。
その若者のことを、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず、何の気力も残っていないような者らだった。・・・愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(1節以下、8節)と言います。
そのような若者から、はやし歌の種、嘲りの言葉を浴びる身となり、忌み嫌われ、唾されるという屈辱を味わわされることになれば、誰がそれに耐えられるでしょう。間断なくヨブを襲っている病苦もさることながら、かつて自分が見下していた者らから辱められることは(11節)、耐え難い苦しみをヨブに与えていることでしょう。
ヨブは、その苦しみを神に訴えて来ました。かつて、神との間に親しい交わりがあり、神がヨブと共におられて、あらゆる苦しみから守って下さっていたのに、冒頭の言葉(20節)のとおり、今は、ヨブがどんなに叫んでも、お答えになりません。全く無視されています(20節)。それはまるで、ヨブの親しい友であられた神が、一転してヨブの冷酷な敵となられたかのようです(21節)。
ヨブには神のこのような心変わりの理由が分からず、叫び続け、嘆き続けて来たのです。以前は苦しみから逃れるために神に死を願ったヨブでしたが、今は、この苦しみによってヨブを死に至らせようとしているのは、神御自身だとさえ考えるようになっています(23節)。
しかしヨブは、このままで終わりたくはないのです。だから、諦めきれずに神に向かって叫ぶのです。24節で、「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか」と問い、続く25節で、「わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか」と反問しています。
これらの言葉で、不完全な人間でさえそうするのであれば、まして主なる神は、嘆き求め、苦境にある自分に手を差し伸べ、救って下さるはずだ、それなのに、未だそれが実現していないと、神を非難するヨブの思いが示されています。だから、もう主なる神に頼らない、主を呼び求めることはやめるというのではありません。未だ、神の答えが得られず、神が自分に目を留めておられないと思うからこそ、ヨブは嘆き、神に訴えるのです。
ここに、「ヤベツの祈り」の祝福が見えて来ます。ヤベツの祈りとは、「ヤベツがイスラエルの神に、『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた」と、歴代誌上4章10節に記されているものです。
ヤベツは、母の苦しみを背負って生まれて来ました(同9節)。なぜ、母が苦しみの中でヤベツを産んだのか、その苦しみとはどのようなものであったのか、正確なところは分かりません。
しかし、ヤベツは神に向かって「わたしを祝福して下さい」と願い、「苦しみを遠ざけて下さい」と求めました。きっと、来る日も来る日も、神の恵みと憐れみを祈ったことだろうと思います。そしてそれは、もともとヤベツの母親が祈っていた祈りかも知れません。そして、ヤベツがその祈りを引き継いだのです。その祈りが神に聞き入れられました。
この諦めない祈り、神に信頼してやまない信仰心が、兄弟たちの尊敬を集めることになったのだと思います(同9節)。
主イエスも、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられました(ルカ福音書18章1節以下)。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる逆風の中で、しかし、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」者とされます(イザヤ書40章31節)。
ヤベツの信仰に倣い、日々死者の中から復活された主イエスの恵みによって強められ、御言葉に従って歩み、信仰をもって祈りをささげましょう。
主よ、あなたが私と共にいて私を助け、恐れるなと言い、救いの御手で私を支え、たじろぐなと語って下さることを感謝します。私たちを大いに祝福して下さい。御名の栄光を拝することが出来ますように。 アーメン