風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2013年07月

7月31日(水)の御言葉 ヨブ記30章

「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。」 ヨブ記30章20節

 前章より、ヨブの嘆きは続きます。かつては、「嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物であった」(29章25節)ヨブでしたが、今は若者らの物笑いの種、嘲りの的にされています(1,9節)。

 その若者のことを、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず、何の気力も残っていないような者らだった。・・・愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(1節以下、8節)と言います。

 そのような若者から、はやし歌の種、嘲りの言葉を浴びる身となり、忌み嫌われ、唾されるという屈辱を味わわされることになれば、誰がそれに耐えられるでしょう。間断なくヨブを襲っている病苦もさることながら、かつて自分が見下していた者らから辱められることは(11節)、耐え難い苦しみをヨブに与えていることでしょう。

 ヨブは、その苦しみを神に訴えて来ました。かつて、神との間に親しい交わりがあり、神がヨブと共におられて、あらゆる苦しみから守って下さっていたのに、冒頭の言葉(20節)のとおり、今は、ヨブがどんなに叫んでも、お答えになりません。全く無視されています(20節)。それはまるで、ヨブの親しい友であられた神が、一転してヨブの冷酷な敵となられたかのようです(21節)。

 ヨブには神のこのような心変わりの理由が分からず、叫び続け、嘆き続けて来たのです。以前は苦しみから逃れるために神に死を願ったヨブでしたが、今は、この苦しみによってヨブを死に至らせようとしているのは、神御自身だとさえ考えるようになっています(23節)。

 しかしヨブは、このままで終わりたくはないのです。だから、諦めきれずに神に向かって叫ぶのです。24節で、「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか」と問い、続く25節で、「わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか」と反問しています。

 これらの言葉で、不完全な人間でさえそうするのであれば、まして主なる神は、嘆き求め、苦境にある自分に手を差し伸べ、救って下さるはずだ、それなのに、未だそれが実現していないと、神を非難するヨブの思いが示されています。だから、もう主なる神に頼らない、主を呼び求めることはやめるというのではありません。未だ、神の答えが得られず、神が自分に目を留めておられないと思うからこそ、ヨブは嘆き、神に訴えるのです。

 ここに、「ヤベツの祈り」の祝福が見えて来ます。ヤベツの祈りとは、「ヤベツがイスラエルの神に、『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた」と、歴代誌上4章10節に記されているものです。

 ヤベツは、母の苦しみを背負って生まれて来ました(同9節)。なぜ、母が苦しみの中でヤベツを産んだのか、その苦しみとはどのようなものであったのか、正確なところは分かりません。

 しかし、ヤベツは神に向かって「わたしを祝福して下さい」と願い、「苦しみを遠ざけて下さい」と求めました。きっと、来る日も来る日も、神の恵みと憐れみを祈ったことだろうと思います。そしてそれは、もともとヤベツの母親が祈っていた祈りかも知れません。そして、ヤベツがその祈りを引き継いだのです。その祈りが神に聞き入れられました。

 この諦めない祈り、神に信頼してやまない信仰心が、兄弟たちの尊敬を集めることになったのだと思います(同9節)。

 主イエスも、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられました(ルカ福音書18章1節以下)。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる逆風の中で、しかし、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」者とされます(イザヤ書40章31節)。

 ヤベツの信仰に倣い、日々死者の中から復活された主イエスの恵みによって強められ、御言葉に従って歩み、信仰をもって祈りをささげましょう。


 主よ、あなたが私と共にいて私を助け、恐れるなと言い、救いの御手で私を支え、たじろぐなと語って下さることを感謝します。私たちを大いに祝福して下さい。御名の栄光を拝することが出来ますように。 アーメン




7月30日(火)の御言葉 ヨブ記29章

「神との親しい交わりがわたしの家にあり、わたしは繁栄の日々を送っていた。あのころ、全能者はわたしと共におられ、わたしの子らはわたしの周りにいた。」 ヨブ記29章4,5節


 ここにきてヨブは、「どうか、過ぎた年月を返してくれ」と、嘆きの言葉を語り始めます(2節)。それは、かつては神の栄光が、ヨブを守り導いていたからです。その栄光のゆえに、暗黒の中でさえも歩くことが出来ました(3節)。冒頭の言葉のとおり、神と親しく交わることが出来、そのために彼の家は豊かにされていました(4節)。神が共におられ、子どもたちが彼を楽しませていました(5節)。

 神の祝福ゆえに、町中の尊敬と栄誉を受けていました(7節以下)。それは、与えられた豊かな恵みを私せず、身寄りのない子らを助け、助けを求める人を守り(12節)、正義を衣とし、公平を冠としていたからです(14節)。そうして、そのような祝福の中で、生涯を全う出来ると考えていたのです(18節以下)。

 何がいけなかったのでしょうか。どこで神の祝福を失ってしまったのでしょうか。ヨブには全く理解が出来ません。ヨブは、もう一度、神との親しい交わりを回復したいのです。神が共におられたあの頃の生活に戻りたいのです。神はどこにおられるのでしょうか。どうすれば、神との交わりを取り戻せるのでしょうか。それが分らずに、ヨブは神に向かって嘆き、苦境を訴えて来ました。

 これはしかし、サタンが主に、「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)と語り、さらに、「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」(2章5節)と告げたとおりの結果を示しています。ヨブは自分に与えられている主の恵みを、自分のよい振る舞いに対する報酬のように思っていたのかも知れません。因果応報の理屈の中にはまり込んでいるのです。

 しかし、ようやくその糸口を見つけたようです。それがどこに行き着くのか、本当に暗闇に光が差し込むように希望が見えるのか、まだ判然としないものの、これまでの、「わたしの生まれた日は消え失せよ」(3章3節)、「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」(同11節)という、自らの運命を呪う思いから、一歩前進しました。

 それは、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」という神の御言葉が、ヨブに示されたからではないでしょうか(28章28節)。ということは、神との親しい交わりを回復されること、神が共におられて家族の交わりが祝福されていた日々の戻って来ることを願う思いは、神ご自身によってヨブに与えられたものと考えることが出来ます。

 これまでも何度か引用させて頂いた、「わたしたちのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)の御言葉のとおり、ヨブは友らとの論争の中で、調停者、仲裁者を望み(9章33節)、天に自分の証人、弁護者、執り成す方を認め(16章19,20節)、そして、「わたしを贖う方は生きておられ」る(19章25節)と語っていました。それは、ひとえに神の導きといってよいでしょう。

 しかしそれは、力づくでヨブの思いを変えさせたということではありません。神はヨブから遠く離れておられたのではないのです。ヨブとの交わりを控えておられたのでもないでしょう。彼が苦しみ、呻く声を側近くで聞いておられたに違いありません。

 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)と言われています。無理矢理腕を引っ張って立ち上がらせるというのではなく、時を待って、起き上がる力を授けて下さるのです。また神は、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」お方です(同30編6節)。

 迷子になって迷子センターに保護されていた子どもが、迎えに来たお母さんの顔を見るなり、大声で泣き、寂しかったこと悲しかったことを訴えます。自分のすべてをしっかりと受けとめてくれる存在がそこにあるからこそ、泣くことが出来ます。涙が溢れるのです。喜びの朝を迎えさせて下さる神がおられるから、辛い夜に涙するのです。そして、主はその涙を、悲しみをすべて受けとめて下さるのです。

 神は、ヨブがこの苦しみによって消耗してしまわないように守り、もう一度、ヨブを信仰へと立ち帰らせようとして導いておられるのです。信仰こそ、神を喜ばせるものだからです。自分の感覚ではなく、神の御言葉に信頼し、自分の考えではなく、神の御心を悟るように、心に働きかけて下さるのです。

 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。御国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。主の御心を悟り、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン!



7月29日(月)の御言葉 ヨブ記28章

「神は知恵を見、それを測り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別。』」 ヨブ記28章27,28節


 人は、地の底から金や銀、銅などの鉱石、また高価な宝石を見つけ、掘り出すことが出来ます。5節の、「下は火のように沸き返っている」という文言について、これは地下のマグマのことを指していると考えてよいでしょう。地下から掘り出された鉱石を高温で溶かして、そこから貴重な金属などを取り出します。それらの金属や宝石を含む鉱石が、地下深くの高温高圧の中で形成されるわけです。

 ダビデ、ソロモンの時代に、既に金や銀という貴金属のほか、青銅という合金を造ったり、鉄を製造する技術があったことが分っていますので、今から三千年も前の人々が持っていた知識、技術の高さに驚かされてしまいます。どんなに強い肉食鳥獣でも手に入れられないものを(7,8節)、人は見出し、採り出す技術を開発して来ました(9節以下)。

 それにも拘らず、人は知恵を見つけ、それを手に入れることが出来ないと言います(12節以下)。知恵の在処、そこへ至る道を知っているのは神だけだというのです(23節)。ここに知恵と呼ばれているのは、風や水の源、雨の降る時や稲妻が走る道についてのもののようですが(25,26節)、今日、それはある程度、科学的に説明がつくようになりました。

 ただ、「風を計って送り出し、水を計って与え」というのは、そのメカニズムを知っているということではなく、自然をコントロールしているということでしょう。自然を治める知恵となると、現代の科学でもまだまだと言わざるを得ません。雷を集めて蓄電したり、台風をコントロールして発電機のタービンを回すことが出来たりすれば、温室効果ガス(二酸化炭素)の排出を抑える画期的なエネルギーになるのですが。

 かつて神は、善悪の知識の木の実を取って食べてはならないと、人に命じられました(創世記2章17節)。しかし、人はその命令に背き、神のように賢くなれるという蛇の唆しに乗って、木の実を食べてしまいます(同3章5,6節)。その結果はというと、木の実を食べて神のように賢くなれたわけではありません。自分が裸であることを知って、腰を覆うものを造って身につけ、主なる神を恐れて身を隠さなければならなくなりました(同7,8節)。

 即ち、神の保護、神との親しい交わりという恵みを失い、自分で自分を守らなければならなくなったのです。また、人が罪を犯した結果、地は呪われて、額に汗して食物を得、また、苦しんで子をもうけなければならなくなったのです(同16,19節)。

 神はここで、人の到達出来ないような高遠な知恵を独り占めして、一人悦に入っておられるようなお方ではありません。冒頭の言葉(28節)で、「主を畏れ敬うこと、それが知恵」であると、神ご自身の言葉として語られています。

 つまり、「善悪を知る知識の木の実を食べてはならない」というのは、神の御言葉に従い、神を畏れ敬うことであって、自分の欲しいままにそれを手に入れようとして神に背き、その恵みを失うのは、まったく愚かなことだということです。

 その意味で、ここに語られていることは、27章で、「死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない」と、ヨブが神に向かって語っていることを告発します。

 神の知恵は計り知れず、人間がその知恵に到達することは出来ないと認めるならば、自分は正しく歩んで来たのに災難に遭うのは納得いかないと神を非難して、自分の理屈の中に神を閉じ込めることは出来ないと知るべきです。

 箴言1章7節にも、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉がありますが、ヨブが見出したのは真の知恵の持ち主なる神を畏れ敬うということであり、彼はそれを学問的に学んだのではなく、苦難を通して今ここに獲得しようとしているのです。

 神のなさることに無意味なものはなく、自分にとってそう思うことが難しくても常に最善であること、最善以下をなさることはないと信じましょう。その御言葉に耳を傾け、御顔を慕い求めましょう。


 主よ、あなたはすべての者を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込められました。神の富と知恵と知識のなんと深いことでしょう。誰が神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせるでしょうか。すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン


7月28日(日)の御言葉 ヨブ記27章

「全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることが出来るだろうか。」 ヨブ記27章10節


 ビルダドの、「どうして、人が神の前に正しくありえよう」(25章4節)という主張に反論して、ヨブは、「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じることはない」と語りきり(5,6節)、その勢いで、「わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」と(7節)、友人らを断罪しました。

 ヨブの潔白を神が認めて下さるということになれば、ヨブに無実の罪を着せようとした友らが審かれるということになるので、ヨブは13節で、「神に逆らう者が神から受ける分、暴虐な者が全能者から与えられる嗣業は次のとおり」と語り、これまで自分に向けて語られて来た、神に逆らう者の被る罰を、14節以下に列挙します(20章29節参照)。ここに、他者を裁く者はその裁きで裁き返され、呪う者は呪い返されるという構図が完成します。

 しかしながら、そのように友らを裁き、罪に定めることは、新たな敵意を産まないでしょうか。それによって裁きと呪いの連鎖を断ち切ることが出来るでしょうか。

 友らが沈黙したのは、ヨブの反論に白旗を掲げたということではないでしょう。むしろ彼らは、ヨブがおのが罪を認めて神の前に悔い改め、そうして平安を取り戻させようとしているのに、当のヨブが身の潔白を主張し続け、かえって自分たちに噛みついてくるので、説得を諦めたと同時に、ヨブとの友情も解消しようと考えていたのではないでしょうか。

 また、相手の武器を使ってやり返すということは、どういうことでしょう。彼らの語る因果応報の論理がヨブにとって何の助けにも慰めにもなり得ず、ただ空しいことを繰り返しているだけだったのなら(12節)、自分がそれをすることも、空しいことではないのでしょうか。しかも、ヨブの苦しみは、それによって解消したりはしないのです。

 ヨブは以前、「わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください」と、神に訴えていました(13章21節)。ということは、22節で、「神は彼に襲いかかり、許さない。御手から逃れようと彼はあがく」と語っているのは、まさにそのときのヨブの状態そのものです。

 まさか、ヨブはここで、自分が神に逆らう者だったと認めているわけではないでしょう。とすれば、自分の正しさに固執して譲らないというヨブは、神に逆らう者に下される罰と同じ苦しみを、今現在、自分が味わうようにされているというこの事実を、どのように考えているのでしょうか。

 自分の正しさに固執して、その自分に対する神の仕打ちに、神の義を疑っているヨブが、他者の罪に対する義なる神の処罰を語るというのは、明らかに矛盾です。冒頭の言葉(10節)のとおり、「全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることが出来るだろうか」と語っているヨブに、今、全能者による喜びがあるのでしょうか。神に呼び求めて、その声が神に届いているという確信、それに基づく平安があるのでしょうか。

 ヨブが自分の潔白を主張してはばからず、自分の正しさに固執しているとき、むしろ彼の心は神から離れ、誰の力も借りず、一人で神の御前に立っている状態なのではないでしょうか。そのために、自分の義を自分の逃れの岩、砦の塔としているわけです。だから、彼の心の有様は今、喜びや平安とは縁のない孤独な状態になってしまっているのです。

 ところで、私たちはどうでしょう。私たちは何に依り頼み、何に固執しているのでしょうか。いつの間にか、恵みの神を離れ、自分で自分を守るのに必死になってはいないでしょうか。まるで、嵐の海に浮かぶ舟の中で枕して眠っている主イエスをたたき起こし、私たちが溺れ死んでもかまわないのですかと、取り乱して叫んでいたペトロのように(マルコ4章38節)、喜びを失い、平安を失い、希望を失ってはいないでしょうか。

 私たちはあらためて主イエスを拠り所とし、常に主イエスを呼び求め、主イエスの平安に与らせていただきましょう。


 主よ、どんなときにも思い煩うことなく、何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているところを打ち明けます。あらゆる人知を越えるあなたの平和で、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守って下さい。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン




7月27日(土)の御言葉 ヨブ記26章

「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」 ヨブ記26章14節

 26章は、ビルダドの三度目の発言に対するヨブの応答です。

 25章のビルダドの言葉があまりにも短かったことと、本章5節以下の段落のテーマがビルダドの主張に添ったものであるために、5~14節はビルダドの主張であると考えて、25章6節以下につなげて解釈する学者も少なからずいるようです。ことの真偽はよく分りませんが、主なる神は、聖書を現在のかたちで私たちに伝え、読ませておられるのですから、聖書どおりに受け取っていきたいと思います。

 神の前に虫けらのような存在にすぎない人間が、自分の義を主張し、神の義を疑うとは何事か(25章4,6節)とビルダドに非難されたヨブは、2,3節で、「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え、どんな策を多くの人に授けたというのか」と反論します。

 つまり、ヨブにとっては、ビルダドの言葉は、どんな助けや救い、忠告、策にもなっていないと、皮肉をこめて語っているわけです。また、4節で、「誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか」と問うているのは、あなたは神に代って語っているつもりなのかということでしょう。

 5節以下に森羅万象の知識を披瀝しながら、その結論として、冒頭の言葉(14節)のとおり、「これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」と言います。あらゆる知力や感覚を総動員しても、神について見聞きし、知り得ることはごく一部、ほんの僅かなことだということです。

 しかしながら、ヨブの最初の語り口から想像すると、この言葉には、「まるで神様のことを何でも知っているかのように、偉そうに言うな」という、ビルダドに対する思いが込められているようです。

 とはいえ、この言葉の意味を、ヨブ自身、本当に理解して語っているのでしょうか。もしヨブが本気で、「私は神について、殆ど何も知らない」と思っているのであれば、「神様の憐れみ深いご計画を何らわきまえもしないで、自分はなんと愚かなことを神に向かって語っていたことか」と考えているという表現になるでしょう。

 そうであれば、「神の義を疑うとは何事か」というビルダドの言葉に対して、「アーメン、本当にそのとおりです」と、謙って答えることも出来たはずです。

 そして、これまでも教えられて来たように、これはヨブ一人の問題ではありません。ヨブの三人の友らも同様ですし、そして、かく言う私も同じことです。人の非難の言葉に素直に耳を傾けるというのは、決して易しいことではありません。自分を守るため、逆に相手を非難する言葉を口にします。その声は相手よりも大きく、その口調は相手よりも厳しくなることでしょう。

 しかし、主イエスは、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることはない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。・・・あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」と言われました(ルカ6章37,38節)。

 誰かに忠告を与えようと思っているときなど、ヨブが語った、「誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか」という言葉を、自分自身に向かって語ってみましょう。

 神の息吹が私たちを通して吹くようにして頂きたいのです。力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらす神の愛の言葉、慰めの言葉を取り次がせて頂くことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。私たちが神について知っていることは僅かで、神の御言葉の力強い轟きに較べれば、私たちの言葉は囁きにもなりません。

 謙遜に、神の導きを祈り求めましょう。神に用いられる器として頂くために、主の導きに従順に、喜びと感謝をもって従う者となりましょう。

 主よ、私たちはふつつかな僕です。私たちの語るべき言葉、為すべき業を教えて下さい。その導きに従順に、喜びと感謝をもって従うことが出来ますように。御名が崇められ、この地に御心が行われますように。 アーメン




7月26日(金)の御言葉 ヨブ記25章

「どうして、人が神の前に正しくあり得よう。どうして、女から生まれた者が清くあり得よう。」 ヨブ記25章4節

 25章は、シュア人ビルダドの、ヨブに対する三度目の発言です。ヨブの三人の友人がヨブに語る意見は、この章で終わりです。ツォファルが三度目に発言することはありません。もはや語り疲れたのでしょうか。自分たちの意見に従おうとしないヨブの頑なな態度に閉口してしまったのでしょうか。そう思わざるを得ないほどに、今回のビルダドの言葉はずいぶん短いものですし、しかも、これまで語ってきたことを繰り返すだけです。

 冒頭の言葉(4節)で、「どうして、人が神の前に正しくあり得よう」という文言は、ヨブ記の中で繰り返される大事な主題の一つです。先ず、エリファズが二度語っています(4章17節、15章14節)。神に自分の無実を訴えるヨブの言葉に対して、そう語られているわけです。

 一方、ヨブ自身も、ビルダドが、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(8章3節)などと語る言葉を引き受けて、「それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか」(9章2節)と語っていました。

 ビルダドは、ヨブが神より自分の方が正しいと主張しているといって非難しているわけで、それに対してヨブは、「神の裁きは間違っている、私は正しい」と主張したくても出来ないという意味で、「神より正しいと主張できる人間があろうか」と言っているのです(同14,15節参照)。ということは、ビルダドの非難はあたっている、必ずしも間違ってはいない、ということになります。

 ただ、「人がどうして神の前に正しくあり得よう」という言葉は、ヨブばかりでなく、エリファズ、ビルダド、ツォファルらにも、そして、今ヨブ記を読んでいる私たちにもあてはまります。いったい誰がヨブに石を投げることが出来るでしょうか。そんな資格のある者はいません。皆同じ罪人なのです。

 パウロが、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」と指摘しているとおりです(ローマ書3章9~12節)。

 その意味では、ビルダドは自分で自分に有罪の宣告をしているわけです。

 私たちは、自分で自分を義とすることは出来ませんけれども、しかし、最後の審判の時、主イエスが私たちの右にお立ち下さり、神の御前で私たちのために弁護者として私たちの無罪を主張して下さいます。それはちょうど、サタンに向かって、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(1章8節)と語られた神の言葉のようなものではないでしょうか。

 なぜ、神の前に正しくあり得ないと言われる人間が、「無垢な正しい人」と評価されているのでしょうか。神は、ヨブが自分の義を盾に、神は間違っていると主張し始める前だったので、そう評価されたというわけではないでしょう。サタンの試みに遭えば、無垢ではいられなくなるということを、神はよくよくご存じだったのではないでしょうか。

 それにも拘わらず、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と賞されるのは、それこそ、主イエスの贖いの業、救いの恵みゆえです。主イエスがご自分の十字架の死によって、私たちを訴えて不利に陥れる証書を、その規程もろとも破棄してしまわれたからです(コロサイ書2章14節)。

 私たちの罪の代価がキリストの十字架を通して支払われたので、私たちは晴れて無罪放免、主に結ばれて、罪なき者として生きることが出来るようにされたわけです。

 このような神の恵みを無駄にせず、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせ、心から父なる神に感謝しつつ、委ねられた使命を果たすべく、その御業に励みましょう。

 主よ、主に敵対して歩んでいた罪人の私のために、御子が贖いの業を成し遂げて下さったこと、その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。御名が崇められますように。和解の御業が前進しますように。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン





7月25日(木)の御言葉 ヨブ記24章

「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。」 ヨブ記24章12節


 因果応報の論理と、それがあてはまらない現実とのギャップで、ヨブは苦しんで来ました。1節の、「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」という言葉も、その苦しみを言い表わしたものです。

 そして、そうしたことが、自分の周りでも起こっていることに気がつきました。「人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る。乏しい人々は道から押しのけられ、この地の貧しい人々は身を隠す」(2~4節)と語っています。

 富める支配者たちに虐げられる貧しい人々、特に弱い立場にいるやもめや孤児たちは奴隷のように扱われ、重労働を課せられながら、食べ物も十分に与えられません(5節以下)。「父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる」(9節)とさえ言います。貧しい者を虐げながら豊かにしている支配者たちと、彼らに苦しめられている貧しい人々、どちらが神に背いている者でしょうか。答えは明らかです。

 そして、冒頭の言葉(12節)が語り出されます。ここでヨブは、「神はその惨状に心を留めてくださらない」と、今、自分が最も苦しんでいる状況を告げています。

 18節以下、「大水に遭えば彼はたちまち消え去る。この地で彼の嗣業は呪われ、そのぶどう畑に向かう人もいなくなる」という言葉から始めて、そのような神に背く者たちに与えられる神の報いが列挙され、「だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えゆくものと共に倒され、麦の穂のように刈り取られるのだ」と結ばれます(24節)。

 ところがヨブは、「だが、そうなっていないのだから、誰が、わたしをうそつきと呼び、わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか」(25節)と語ります。つまり、冒頭の言葉(12節)の通り、ヨブには、神は背く者らの悪行を心に留めず、貧しい者たちを虐げている状態をそのままに放置しておられるとしか思えないのです。神は何時、背く者たちに報いを与え、義を行われるのでしょうか。これが、ヨブを悩ませている質問です。

 神は正しい者にはよい報いを与え、悪い者には悪い報いを与えるはずだ、ヨブが災いに遭っているのは、ヨブが神に背く罪を犯したためだという、友らが語る因果応報の論理に苦しめられているヨブですが、自分はこのような災難に遭わなければならない悪を行ったことはない、自分は無実だと訴えているということは、彼自身も未だに因果応報の論理の中で、自分の義に依り頼んでいるわけです。

 そしてそれが、彼を苦しめます。自分の義は、今、自分自身をその苦しみから救ってはくれないからです。神に、その義に注目してくれるように求めても、答えられていません。何か別の理屈があるのかと、ヨブ自身も考えてもいるのだろうと思いますが、未だ納得のいく結論には至っていません。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」と、主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)において語られました(同5章6節)。ここに語られている「義」とは、神との関係を示しています。私たちと神との間に正しい関係が造られる時、それを「義」というのです。義兄弟という言葉でいう「義」がそれです。義兄弟は本当の兄弟ではありませんが、兄弟の関係となったということです。

 「神の義」、即ち神との正しい関係を、人間が自ら造り出すことが出来ません。むしろ、人間は神の前に罪を犯し、義を損なって来たのです。そこで、「義に飢え渇く」とは、神との正しい関係を強く求めることです。主イエスは、義に飢え渇く者は、神がそれを満たして下さると約束されました。

 それは、神御自身が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そして、そのことのために、独り子イエス・キリストをお遣わしになりました。キリストが御自分の命をもって私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子とし、永遠の命に与らせて下さったのです。

 それはまだ、ヨブの目には隠されています。しかし、必ず時は満たされるのです。神の国は来るのです(マルコ福音書1章15節)。

 主よ、ヨブの拠り所は神を礼拝する自分の正しさで、豊かな財産、家族を有していることがその証拠と考えていました。それらが失われた時、神への信頼が揺るがされ、今、神との関係を飢え渇く思いで求め始めました。義に飢え渇く者は幸いと語られた主の御言葉を感謝します。御心がこの地に成りますように。全世界に主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン



7月24日(水)の御言葉 ヨブ記23章

「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って、離れたことはない。」 ヨブ記23章11節


 「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」(22章21節)と語ったエリファズに対して、ヨブは、冒頭の言葉(11節)のとおり、「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない」と答えます。

 そして、そのことは神もご存知のはずだということ(10節)、自分はそのことを神にお会いして直接訴え、理解して頂きたいこと(4,5節)、しかし、どこに行けばその方を見出せるのか分からず(3節)、捜しているのにどこへ行っても見つけられないことを訴えます(8,9節)。

 ヨブの苦しみ、嘆きは今日も続いているのです(2節)。体全体を覆うひどい皮膚病に加え、あまりの変わり様に驚いた友らから、無実の罪で責められる苦しみを味わっており(4章以下)、そして、神がその苦しみから逃れさせて下さらないだけでなく、むしろヨブを苦しませる側におられるように思われるということで、すっかり混乱させられているのです。

 何とかヨブに罪を認めさせ、悔い改めて神と和解させようと躍起になっている友らと、自分は神に従って歩んで来たので、悔い改めるべき罪はない、仮にあったとしても、これまでの懲らしめで賠償はとうに済んでいるという立場を崩さないヨブ。友らの言葉を聞きながら、ヨブはその程度のことなら自分も知っていると語り(13章2節)、しかし、彼らが語る理屈では、自分の現在の状況を正しく分析し、その苦しみから解放することは出来ないと嘆いているわけです。

 そう考えてみると、このヨブとヨブの三人の友らとのやりとりは、ヨブがそれまで信じて来た旧来の因果応報的な信条と、自分を苦しめている現実とのギャップに苦しんでいるヨブ自身の心の葛藤が投射されているものと言ってもよいのではないでしょうか。

 そしてもう一つは、ヨブが真に拠り所としているのは主なる神なのか、それとも神に「従って歩み、その道を守って、離れたことはない」という自分の正しさなのかということです。神を見出そうとして見つけることが出来ないのは、ヨブが自分の正しさを神に認めさせようとするその自信が、彼の目を曇らせているように思われます。

 マタイ19章16節以下で、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年に対して、主イエスは、「命を得たいのなら、掟を守りなさい」と答えられました。そういうことはみな守って来ましたという若者に、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。

 勿論、持ち物をすべて売り払わなければ、永遠の命に与ることが出来ないというわけではありません。誰に対してもそれを要求されるというようなことはありません。主イエスはそのことを通して、永遠の命とは、神を絶対的に信頼し、主イエスと共に歩むことだと教えておられるのです。

 そのとき青年は、主イエスの言葉に従うことが出来ませんでした。「悲しみながら立ち去った」と記されています(同22節)。そしてそれは、「たくさんの財産を持っていたからである」と、その理由が述べられています。

 青年は、掟を行うのに熱心であり、そのことに誇りを持っていたことでしょう。彼がたくさんの財産を持っているのは、神に祝福されているしるしと考えられていたでしょう。青年が主イエスの言葉に従うことが出来なかったのは、主イエスに従って永遠の命を得ることよりも、自分の持ち物の方が大事だったわけです。

 ただ、私はその青年を笑えません。全財産を売り払って貧しい人に施すことが永遠の命に与る条件だと言われて、実行出来る人がどれほどあるでしょうか。勿論、永遠の命を買おうと思えば、それは全財産を差し出しても無理です。命はお金で買えません。即ち、私たちが為した「善いこと」の報酬として命永遠のを手に入れることは不可能だということです。

 それは、ただ主イエスを信じる信仰により、恵みとして与えられるのです(ヨハネ3章36節、エフェソ2章8,9節)。恵みの主に信頼して、歩み出しましょう。


 主よ、私たちの目を開き、常に主の御顔を仰がせて下さい。私たちの耳を開き、御言葉に耳を傾けさせて下さい。何よりも私たちを愛し、恵みをお与え下さる主に信頼し、主に従って歩ませて下さい。主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン





7月23日(火)の御言葉 ヨブ記22章

「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。」 ヨブ記22章21節


 22章から、ヨブと友らの三回目の議論(22~26章)が始まります。これで、友らとのやりとりは終わりです。ただし、ツォファルは発言していません。それに代わり、ヨブの最終弁論というべき主張が27章以下に記されます。

 エリファズの意見は、何とか励ましを与えようとするものから、ヨブを責めるものに変わって来ました。しかし、冒頭の言葉(21節)のように、最後にもう一度落ち着いた言葉遣いで、「神に従い、神と和解しなさい」と勧めています。そして、「そうすれば、あなたは幸せになるだろう」と言います。ヨブのように神と争い、対立していては、幸せになれないぞということです。

 「従う」と訳されている言葉には、「親しくする」という意味があり、口語訳では「あなたは神と和らいで」と訳されています。通常、「仕える」、「役に立つ」、「世話をする」、「利益となる」という意味から、忠実な僕として従う行為を示します。

 「和解」には「報酬」という意味もあり、その意味を出せば、「さあ、あなたは神と親しくしてよい報酬を得なさい」という訳になります。神に逆らって苦しむよりも、神と親しくして恵みを得よと勧めているわけですが、これで思い出すのは、サタンが神に語った、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」という言葉です(1章9節)。

 そうすると、エリファズの勧めは、利益があるから神を敬うというサタンの言葉に沿ったものであることになります。つまり、エリファズの関心は、神との関係というよりも、もっぱら自分の幸福、利益ということになっているのではないか、と思われます。そしてそれは、私自身の問題でもあります。

 確かに、神を求める者にはよいものを下さる、と主イエスも言われました(マタイ7章11節)。主イエスを信じる者には、神の子とする資格が与えられ(ヨハネ1章12節)、罪が赦され(コロサイ2章13節)、永遠の命が与えられ(ヨハネ5章24節)、天の御国に本籍を持つ者とされます(フィリピ3章20節)。

 そして、聖霊が授けられます(ルカ11章13節)。聖霊は、キリストに代る「別の弁護者」として父なる神から遣わされた(ヨハネ14章16節)「真理の霊」(同17節)です。聖霊は、「神の霊」とも「キリストの霊」とも呼ばれます(ローマ8章9節)。即ち、求める者に与えられるよいものとは、三位一体なる神御自身なのです。

 ヨハネが、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(第一ヨハネ1章3節)と言っていますが、その交わりを保証し、可能にしているのが聖霊の働きなのです。

 パウロは、かつて自分にとって利益だと思っていたものを、キリストを知るあまりのすばらしさのゆえに、すべて損失と見なすようになったと言っています(フィリピ3章7,8節)。利益を得るためにキリストとの関係を正すというのではなく、キリストとの関係が正しくなることが、最大の利益なのです。

 その意味で、エリファズ自身は、自分が語っているとおり、「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置く」(24節)ことが出来るでしょうか。全能者こそが黄金、最高の銀なのだから、一切のものを塵芥として捨て去るということが出来ますか。私なら出来ると、誰が言えるでしょう。

 確かに、お金を持っている人が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい、と主イエスが言われているとおりです(マタイ19章24節)。しかし、自分や家族の命が脅かされたとき、持てるすべてのものを差し出しても、命を助けて欲しいと考えるでしょう。真に大切なものが何かを知らされるからです。

 ヨブは苦しみの中で神を求め、自分の弁護者、また自分を贖う方を見出しました。そしてこれから、その方との交わりが開かれるのです。その意味では、神はヨブが、自分の祝福された環境や豊かな資産などによって立つのではなく、神に従い、その御言葉によって立つために、すべてのものを失うという試練を味わわせておられるわけです。そこに目が開かれるための苦難だったのです。

 何よりも先ず、神ご自身を求め、その御言葉に聴き従いましょう。

 主よ、絶えず御側におらせて下さい。あなたは私の心と思いのすべてをご存じです。御言葉により、御霊によって清めて下さい。私の心の王座に就き、私を御心を行う者として整え、御業のために用いて下さい。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン




7月22日(月)の御言葉 ヨブ記21章

「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。」 ヨブ記21章2節


 21章は、ツォファルの2回目の発言に対するヨブの応答の言葉です。これで、友らとの2回目のやりとり(15~21章)が終ります。

 これまでヨブは、三人の友らの主張を聞いてきて、それが古くからの知恵の言葉、格言と言われるようなものであることを知っていたし、認めてもいました。しかし、ヨブはそれらの言葉に満足できませんでした。ヨブの苦しみを解決する知恵が、そこに含まれていなかったからです。

 ヨブの苦しみの原因が、実際に神への反逆の結果であるなら、また、ヨブが犯した罪に対する神の裁きということであるなら、ヨブはここまで苦しむことはなかったことでしょう。指摘されたとおり、「私が悪うございました」と頭を下げればよいことでしょう。

 しかしながら、ヨブには、言われるような神への反逆を企てた覚えもなければ、罪を犯した覚えもなかったので、なぜ、自分が神に反逆したということで責められなければならないのか、これほどの苦しみを受けなければならない罪とは、どんなものなのか、全く見当もつかなかったのです。

 ですから、これは神の誤解か、はたまた悪意のようにしか思えなかったのです。ところが、そのようなことを言えば、三人の友から、それこそヨブの高ぶりの罪の証しだと、責め立てられることになるわけです。

 ヨブは、繰り返し神に訴え続ける中で、天に自分の無実を証しする人、神の御前で弁護して下さる方がおられること(16章19節)、ヨブを贖う方が生きておられ、墓の上でとこしえにヨブの無実を証しして下さることを知りました(19章25節)。この苦しみの中でヨブの訴えを黙って聞いておられるお方の存在に気づいたのです。

 ヨブは、ツォファルに対する二度目の弁論の冒頭、「わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」と懇願しています(2節)。ここで、あらためて詩篇133編1節の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という御言葉を思います。

 最初に、ヨブの苦しむ姿を見て三人が七日七晩ヨブと共に座したように、ヨブの苦しみの訴えをまず聞いて、それをじっと受け止めてくれるとき、ヨブは兄弟、家族を見出すのです。そこにヨブを贖う方が共に座しておられ、まさに神の家族がそこにいるのです。本当にそれを知り、味わうことが出来たならば、それはなんという恵み、なんという喜びか、ということになりますね。

 ヨブはしかし、「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ」と言った後、「我慢して、わたしに話をさせてくれ。わたしが話してから、嘲笑うがいい」と語っていますし(3節)、「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか」とも言います(4節)。

 ということは、友らはまだ、ヨブの訴えを受け入れてくれようとはしていない、受け止めてくれていると思えないということです。だから、文句を言いたいのは人間ではなく、神に対してなのだから、黙って聞いていて欲しいというわけです。

 ともかく、ヨブを困惑させているのは、現実の世界は、因果応報が成り立っているようには見えないこと、即ち、「神に逆らう者が生き永らえ」(7節)、「子孫は彼らを囲んで確かに続き」(8節)、「その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない」(9節)ということです。そうすると、自分に加えられている苦しみはいったい何のためか、どう考えたらよいのか、ますます分らなくなってしまいます。

 ヨブに対して、どのように語れば、彼を慰めることが出来るでしょうか。まさしく、彼の傍らにともに座し、その言葉にじっと耳を傾けるほかないでしょう。主も、傍らで黙してその言葉を聞き、受けとめ続けていて下さいます。

 私たちもまず主の前に座り、心にあるままを主に打ち明けましょう。共に座して下さる主の慰めと平安にあずかりましょう。主の恵みを頂いた者は、うずくまり、座り込んでいる方々の傍らに座す者とならせていただきましょう。共に主の業に与らせていただきましょう。

 主よ、世の中には、不条理としか思えないような出来事で苦しめられている人々が多くあります。突然の災害に見舞われた人もそうでしょう。住んでいる地域が戦場になったというイラクやアフガン、パレスティナなどの人々もそうでしょう。主よ、どうか彼らの言葉を聞いて下さい。その祈りに応えて下さい。全世界にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン





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