風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2013年04月

4月30日(火)の御言葉 歴代誌下7章

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。」 歴代誌下7章14節


 ソロモンが祈り終わると、天から火が降って祭壇のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちました(1節)。エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者たちと戦ったときのような光景が展開しました(列王記上18章38節)。これは、ソロモンの祈りを聞き届けたというしるしです。神殿に神の栄光が満ち、それを見たイスラエルの民は、敷石の上に顔を伏せて礼拝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美しました(3節)。

 そして、ソロモンはすべての民と共に牛2万2千頭、羊12万匹を献げて神殿を奉献しました(4,5節)。その量があまりに多かったので、祭壇だけでは供え尽くすことが出来ず、神殿の庭の中央部を聖別して、そこで献げ物をささげました(7節)。そのとき、ソロモンはレボ・ハマトからエジプトの川に至るまで(イスラエルの最大版図)の全会衆と共に仮庵祭を執り行いました(8節以下)。

 神殿と王宮が完成し、奉献の儀式と仮庵祭をなし終えた夜、主がソロモンに顕現され、「あなたの祈りを聞き届けた」と言われました(11,12節)。そして、神が天を閉ざして雨が降らなくするとき、いなごに大地を食い荒らさせるとき、民に疫病を送り込むとき(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、民がひざまずいて祈り、神の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、神が祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒すという約束が語られています。

 確かにそれは、ソロモンが6章19節以下で祈り求めた祈りの答えです。大旱魃で飢饉となったり、イナゴの大発生で農作物が食い荒らされたり、また、疫病が流行したとき、それらがすべて、人の罪のゆえだとは考えません。現在頻発している大地震も、また各地を襲うゲリラ豪雨も、それらがみな神の裁きだとは思いません。

 しかし、イスラエルの民の背きに神が天変地異を起こされた時、そこで民がひざまずいて祈り、御顔を求めて神に立ち帰るなら、神がその祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒して下さるということは、神は絶えず私たちが祈ること、御顔を慕い求めること、神のもとに立ち帰ることを要求しておられるということであり、神はその祈りを聞き届けようと思っておられるということです。

 新約においても、「求めなさい」(マタイ7章7節)、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ5章17節)、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)と命じられているとおりです。

 私たちの前に困難がおかれると、自分の限界を知ります。そこで謙遜を学ぶでしょう。どうして良いか分からずに神を呼ぶでしょう。そこに祈りがあります。神の御声を聴くでしょう。そこに恵みがあります。困難に遭遇することはいやなものですが、神の御前に謙って祈り、主の恵みを味わうために困難が与えられたというのであれば、そして、それをそのように受け止めることが出来るのであれば、何と幸いでしょう。

 使徒言行録17章26~27節に、「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と記されています。

 季節を決めるということは、人生にはバラ色の春というような状況もあれば、夏の暑さ、冬の厳しい寒さを味わうようなときもあるし、すべてが枯れ果てるような晩秋もあるということでしょう。居住地の境界をお決めになったということは、どこに行っても良い、何をしても良いというのではなく、行けない場所がある、出来ないことがある。勿論、すべてを所有することなどは出来ない。そこで自分の限界を知るということではないでしょうか。

 四季それぞれにある苦しみから祈りに導かれることもあれば、四季の恵みを味わって神に感謝することもあるでしょう。春だから、素晴らしいとは言えない人がいるでしょう。一方、冬の厳しさを素晴らしいという人もいます。いずれの人も、神の前に出ることが出来ます。御顔を慕い求めるとき、誰もが神を見出すことが出来る、と言われています。それが最も素晴らしいことでしょう。

 主よ、あなたが私たちを祈りに導こうとしておられることを感謝します。私たちの祈りを聞き届けて下さるという約束を感謝します。絶えず、主の御声に耳を傾け、導きに従って歩ませて下さい。傲慢にならないよう、柔和と謙遜を学ばせて下さい。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!



4月29日(月)の御言葉 歴代誌下6章

「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなたご自身も御力を示す神の箱も。あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。」 歴代誌下6章41節


 14節以下に、ソロモンの祈りが記されています。この祈りの中でソロモンが先ず願っているのは、ダビデの家を堅く立て、王位に就く者が絶えないようにということです(15,16節)。神殿の建てられたエルサレムが、契約の箱の安置される場所となったことで(5,6節)、神とイスラエルの関係、そしてダビデの家との関係も、安定的なものとなることを期待しているわけです。

 その上で、新築なった神殿に御目を注ぎ(20節)、そこで御前に捧げるソロモンの叫びと祈り(19節)、イスラエルの民の祈り求めに耳を傾けて下さい(21節)と願います。さらに22節以下で、民が罪を犯した結果、災いを被ったとき、神殿に向かって祈る祈りに耳を傾け、その罪を赦して下さい、と願っています。

 聖書でいう罪とは、必ずしも犯罪を指してはいません。原語は、「的を外す、目的を見失う」という意味の言葉です。神に正しく向いていない心から、悪しき思い、悪しき行動が出て来るというわけです。

 罪を犯した者が神殿で祈るということは、悔い改めるということです。「悔い改め」とは、方向転換を意味する言葉です。正しい方向に向き直るのです。旧約聖書では、「立ち帰る」という言葉が用いられています(申命記30章2節、イザヤ30章15節など)。神への不服従の状態から神に立ち帰ることを表しています。

 冒頭の言葉(41節)に、「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください」と語られています。安息所とはどこのことでしょうか。「あなたご自身も御力を示す神の契約の箱も(安息所にお入り下さい)」と言われていて、契約の箱はソロモンの建てた神殿の内陣(至聖所)に運び込まれたところですから(5章7節)、その場所を「神の安息所」と呼んでいると考えられます。

 安息所といえば、安息する場所ということでしょうけれども、これは、神殿を神の安息される場所とするということではないでしょう。人と共にあって、神は安息されるのでしょうか。ソロモン自身が、「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるのでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることが出来ません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(18節)と言っているとおりです。

 安息という言葉で、これまで民と共に移動し続けて来た契約の箱が、永久にエルサレムの神殿に安置されることを願っているわけです。そしてそれは、神に安息を差し上げる場所ではなく、むしろ、神がそこにご臨在下さることで、ダビデの家が永遠に堅く立てられているようにということであり、神の宮が、イスラエルの民が平安を頂く場所、神の安息に与らせていただく場所となるようにということです。

 というのは、私たちが神の安息を受けるにふさわしい義人だからではなく、神の安息を頂かなければ生きることが出来ない罪人だからです。

 主イエスは、嵐の船の中でも眠っておられました。波風を恐れ、死を恐れる弟子たちのために主は波風を鎮め、ご自身の平安を弟子たちに分け与えて下さいました(マルコ4章35節以下)。父なる神に信頼する心に平安があります。神の愛が恐れを締め出します。主は今、私たちの心を聖霊の宮としてお住まい下さっています。主に信頼する者に平安と喜びを下さいます。

 パウロとシラスがフィリピで伝道していたとき、一人の女奴隷を悪霊から解放したことがもとで、その主人から訴えられ、彼らはむち打たれ、牢に入れられるという踏んだり蹴ったりの目に遭わされました(使徒言行録16章16節以下)。彼らがその夜、賛美と祈りをささげていると、他の囚人たちはそれに聞き入っていました。それは、囚人たちが欲しかった平安、喜びがパウロたちにあったからでしょう。

 何故パウロたちはむち打たれ、投獄されるという目に遭いながら、神を賛美することが出来たのでしょうか。彼らの心に聖霊を通して神の愛が注がれ、恐れも不安もなく、主イエスの平安と喜びが心に満ちていたからでしょう。

 ソロモンは、神が神の安息所にお入り下されば、救いの衣をまとい、幸せに浸って喜び祝うでしょうと言いました。私たちも今日、「神なる主よ、あなたの安息所にお入り下さい」と、主に祈ります。それによって主の慈しみに行き、幸せに浸って喜び祝う者とならせていただきましょう。

 主よ、立ち上がって聖霊の宮である私たちの心に、そこをあなたの安息所としてお入り下さい。私たちは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生き、幸福に浸って喜び祝います。私たちにお与え下さった御霊を通して、常に神の愛が心に注がれているからです。 アーメン!




4月28日(日)の御言葉 歴代誌下5章

「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。」 歴代誌下5章13節


 7年の歳月をかけて建設して来た神殿がいよいよ完成しました。ソロモンは、神殿にあらゆる祭具を運び込み、宝物庫に納めました(1節)。そして、主の契約の箱を神殿に担ぎ上るため、イスラエルの長老、部族長、諸家系の首長を招集します(2節)。

 第七の月の祭り、即ち仮庵祭(レビ記23章34節)にすべてのイスラエル人がエルサレムに集まったとき(3節)、レビ人は契約の箱と臨在の幕屋のすべての祭具、機材を担ぎ上り(4,5節)、契約の箱を神殿の内陣、至聖所のケルビムの翼の下に安置しました(7節)。その際、数え切れないほどのいけにえが献げられました(6節)。

 そして、レビ人の詠唱者全員が120人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立ち(12節)、冒頭の言葉(13節)のとおり声を合わせて「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美しました。4000人の詠唱者たちによる賛美は、それは素晴らしいものだったろうと想像します(歴代誌上23章5節参照)。そして、彼らが主の御名をほめ讃えると、雲が主の神殿に満ちたと記されています。

 雲は、神の臨在を現わしています。ですから、14節では、「その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである」と言われています。

 イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、雲の柱で彼らを導かれました(出エジプト13章21,22節)。それは、進むべき道を示す道標としての役割と共に、日中の日照りから民を守る日傘の役割を果たすためでもあったでしょう。

 また、イスラエルに3年半に及ぶ干魃が起こって地が渇ききっていたとき、エリヤの祈りに答えて手のひらほどの小さい雲を与え、やがて空が厚い雲に覆われて激しい雨を降らせました(列王記上17~18章)。それにより、雨を降らせて地に豊かな実りを与えるのは、バアルではなく、主なる神であるということを、主ご自身が力強く証明されたわけです。

 主イエスが十字架の死と復活を予告された6日後、数名の弟子を連れて高い山に登られました(マタイ16章21節以下、17章1節以下参照)。そこで主イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合います。モーセとエリヤは、旧約聖書の代表的指導者ですから、そこに、旧約聖書の代表者と新約聖書で証しされている主イエスとの会談が成立しているのです。

 ペトロがその光景に感激し、ここにいるのは素晴らしいことです。主イエス、モーセ、エリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと言い始めます(同17章4節)。その時、光り輝く雲が彼らを覆いました。神殿に雲が満ちたのと同様、主イエスとモーセ、エリヤが会談していたその山に、父なる神が臨まれたのです。さながら、シナイ山に主が下られたときのようです(出エジプト記19章18節)。

 そして、神の声が聞こえます。それは、主イエスが神の愛する子、神の心に適う者であるから、に聞けという声
でした(マタイ17章5節)。光り輝く雲に覆われて視界が遮られた今、見えるものにとらわれず、モーセやエリヤという偉大な先祖に信頼するのでもなく、雲の中から語りかける神の言葉で、神の独り子なる主イエスに聴き従うようにと示されたわけです。

 主は、賛美を住まいとされるお方です(詩編22編4節:新改訳)。イスラエルの賛美を受けて聖所に雲が満ちたのは、聖所で主がその賛美を受けとめられたということです。私たちも絶えず聖霊に満たされて唇の実を主にささげ、主を心の中心にお迎えしましょう。

 そして、静かに語りかけられる主の御声に耳を傾けましょう。神は求める者に聖霊を下さいます(ルカ11章13節)。聖霊によって真理を悟り、聖霊の力を受けてキリストの証人となります。先ず神の国と神の義とを求め、すべての必要を満たしていただきましょう。日々、主とその御言葉に信頼して参りましょう。

 主よ、私たちの心を聖霊で満たし、絶えず唇の実、賛美のいけにえを主に献げさせて下さい。インマヌエルの主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン!





4月27日(土)の御言葉 歴代誌下4章

「ソロモンは青銅の祭壇を造ったが、その長さは二十アンマ、幅は二十アンマ、高さは十アンマであった。」 歴代誌4章1節


 冒頭の言葉(1節)に、並行の列王記にはなかった祭壇の記述があります。その大きさは、縦横20アンマ(9メートル)、高さ10アンマ(4.5メートル)というとても大きなものでした。かつて、荒れ野で神がモーセに命じて造らせた祭壇が、縦横5アンマ(2.3メートル)、高さ3アンマ(1.3メートル)ですから(出エジプト27章1節)、1辺の長さが4倍、面積は16倍、体積ではおよそ50倍にもなります。

 ソロモンは、神殿の奉献式に際し、牛2万2千頭、羊12万匹を献げました(7章5節)。ソロモンの時代、国力が増大し、非常に多くの献げ物を捧げることが出来るようになったわけです。そのために、このような大きな祭壇が必要になったと考えられます。

 その偉容を見て、シェバの女王は感嘆の声を挙げ、神を賛美致しました(9章、列王記上10章参照)。以後、イスラエルとシェバとの間に活発な交易がなされたことだと思いますが、大事なのは人を驚かせたり感激させることではありません。当然のことながら、神に喜んでいただくことです。

 ソロモンの父ダビデは、「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いて下さいました」(詩編40編7節)、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)と詠っています。

 これは、いけにえを献げる必要はないと言っているのではなくて、どのような心で献げるかということを語っているのです。悔い改め、謙って御前にすすむならば、「そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす献げ物も、あなた(神)に喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛が献げられるでしょう」(同51編21節)といっているのです。

 その背後には、ダビデ自身が繰り返し味わった、神の恵みと憐れみがあります。そもそも、ダビデは自分の罪を自分で償いきれるものでないことを知っていました。バト・シェバとの姦淫も、その罪を隠すための夫ウリヤ殺しも、神の御前に決して赦されざる罪です。しかし、神はダビデを憐れみ、その罪を赦されました。

 その恵みに応えたいというダビデの心があります。だから、息子ソロモンにも、「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」と命じていたのです(歴代誌上28章9節)。

 祭壇の横には、鋳物の「海」(2節以下)や洗盤が造られました(6節以下)。「海」は直径10アンマ(ソロモンの時代は5.2メートル)、深さ5アンマ(2.6メートル)という大きさです。円筒形であれば55000リットル、半球形では37000リットルという容積になります。しかし5節に、「容量は優に3千バトとあった」と記されていて、1バトが約23リットルだとすると、69000リットルということで、計算が合いません。

 どういう形をしていたというのでしょうか。もっとも、列王記上7章26節には、「その容量は2千バトもあった」とされていて、この方が正確なのではないかと思われます。

 「海」は、祭司が身を清めるために用いられます。洗盤は、神の幕屋では、祭司が身を清めるための器でしたが、ソロモンの神殿では、いけにえの用具などを洗い清めます(6節)。祭司は、祭壇で贖いの供え物をささげ、海で身を清めた後、神殿に入り、神を礼拝するのです。これは、今日のバプテスマを象徴しているといってよいでしょう。

 主イエスが私たちのために贖いの供え物となって下さった今、私たちが祭壇にいけにえを供える必要はなくなりました。主なる神は、十字架を祭壇として、そこに御子イエスをいけにえとささげられたのです。だから、私たちのために贖いの業を成し遂げて下さった主イエスを信じて義とされます(ローマ書3章22節など)。義とは、神との関係が正しくなるということです。

 また、バプテスマは、キリストと共に葬られてその死に与る者となり、新しい命に生きるためです(同6章4節など)。バプテスマの恵みに与った者は、信頼しきって、神に近づこうではありませんか(ヘブライ書10章22節)。それは、霊と真理をもって神を礼拝することです。

 主よ、私たちのために御子イエスが十字架で肉を裂き、血を流して下さいました。心は清められ、良心の咎めはなくなり、体は清い水で洗われています。主を信じ、真心から神に近づきます。主の愛により、互いに善い業に励むことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン




4月26日(金)の御言葉 歴代誌下3章

「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」 歴代誌下3章1節


 冒頭の言葉(1節)のとおり、ソロモンが主の神殿の建築を始めました。それは、その治世の第4年2月2日のことです(2節)。

 古い尺度のアンマは約52センチということなので、神殿は、奥行き31.2メートル、間口10.4メートルという大きさです(3節)。高さは、列王記6章2節によれば、15.6メートルです。4節には、前廊の高さが62.4メートルになっており、前廊の部分だけ、塔のようになっていたということでしょう。

 神殿の内部は、9メートル四方の部屋三つに区切られています(4,8節、列王記上6章3,4節)。最初の部屋が前廊(4節)、それから外陣とも呼ばれる聖所(拝殿)、そして、内陣とも呼ばれる至聖所です(8節)。

 内部には糸杉が貼り付けられ、それを金で覆い、そこにナツメヤシと網目模様の浮き彫りが施され(5節)、さらに宝石で飾られました(6節)。また、壁にはケルビムの浮き彫りがつけられました(7節)。至聖所には、2体のケルビムが置かれました(10節)。

 聖所と至聖所を分けるのは、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で作られる垂れ幕で、そこにもケルビムの縫い取りが施されました(14節)。神殿入り口には、ヤキンとボアズという名の青銅製の2本の柱を立てました。民はこの柱の間を通って、前廊に入ることになります。

 ところで、神殿が建てられたのはエルサレムのモリヤ山で、そこはかつて、エブス人オルナンの麦打ち場があったと、1節に記されています。かつて、ダビデが民の数を数えようとして神の怒りを招き(歴代上21章1節以下)、疫病で7万もの死者が出ました(同14節)。民を打つ天使がエルサレムの町に襲いかかろうとしたとき、神が天使にストップをかけました(同15節)。天使はそのとき、この麦打ち場の傍らにいました。

 一方、神はダビデに、オルナンの麦打ち場に祭壇を築かせ(同18節)、ダビデはそこでいけにえをささげます(同26節)。その祈りが聞かれ、疫病はやみました(同27節))。神が天使をストップさせた背後に、このダビデの祈りがあったというわけです。

 それも、神の導きでした。民の苦しみを見て自らの罪を深く悔いているダビデに、祭壇を築くこと、つまり神の御前にいけにえをささげて祈ることを命じられたのです。神は、そのダビデの心を見、また、疫病に苦しむ民の呻きを聞かれて、災いを思い返されたのです。ダビデはその場所に神殿を築くことにしました(歴代上22章1節)。

 ダビデがこの神殿を見ることは出来ませんでしたが、かつてダビデが神の前に罪を犯し、裁きがなされた場所、そして、そのための執り成しがなされ、犠牲が捧げられた場所に神殿が建てられたということを、この記事を通して繰り返し思い起こすことで、神の憐れみをその都度新たに味わうことが出来ます。こうして、罪の増すところ、主の恵みもまたいや増すのです(ローマ5章20節)。

 また、モリヤ山と言えば、かつてアブラハムが神に命じられて、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として神にささげようとした場所です(創世記22章1節以下、2節)。それは、神がアブラハムの信仰を試されたのでした(同12節参照)。そして、神はイサクの代わりに雄羊を用意しておられ、それをいけにえとしました(同13節)。

 アブラハムは、神がいつも自分を見守っていて下さること、必要を満たして下さることを知り、そこを「ヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)」と名付けました(同14節)。神に従う者のために、神は豊かな祝福をもって答えて下さるということです。

 そして何より重要なことは、神殿を建てられたその場所は、やがてキリストの十字架が建てられる場所になったのです。キリストこそ、ダビデの罪を赦し、アブラハムに甦りの命を証しするためにささげられる神の小羊です。絶えず十字架の主を見上げ、憐れみの主の御声に従って歩ませていただきましょう。
 
 主よ、御子イエスの贖いのゆえに感謝します。私たちはキリストのものとされ、主は私たちの体を、神が遣わされた聖霊の宿る神殿とされました。この体で、神の栄光を表わすことが出来ますように。絶えず主の十字架を仰ぎ、御言葉に従って歩ませて下さい。 アーメン


4月25日(木)の御言葉 歴代誌下2章

「この方のために神殿を建てる力が誰にありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくためのものでしかありません。」 歴代誌下2章5節

 いよいよ、ソロモン王が神殿と王宮の建築に取りかかります(1章18節)。既に父ダビデの代にダビデの町に王宮が建てられていますが(歴代誌上14章、15章1節、17章1節)、イスラエルの名を知らしめる豪華壮麗な宮殿が、神殿と共に必要だと考えたのでしょう。

 まず、荷役の労働者7万人、石を切り出す労働者8万人、その監督3600人を動員します(1節)。その上で、隣国ティルスの王フラムに使節を送り(2節)、「金、銀、青銅、鉄、深紅の織物、緋の織物、青の織物を扱う熟練した者で、種々の彫刻にたけた者を一人こちらに送ってください」と求めます(6節)。

 また、「レバノンからレバノン杉、糸杉、白檀の木材を送ってください。わたしは、あなたの家臣たちがレバノンの山林の伐採のことをよくわきまえていることを知っています。わたしの家臣をあなたの家臣と共に働かせ、大量の木材を準備させていただけないでしょうか」と願います(7節)。

 その際、「わたしはわが神なる主の御名のために神殿を建て、これを主のために聖別して、その御前に香草の香をたき、絶えずパンを備え、・・・焼き尽くす献げ物をささげ、このことがイスラエルにおいていつまでも守られるようにしようとしています。わたしが建てようとしている神殿は大いなるものです。わたしたちの神はすべての神々にまさる大いなる方だからです」と、その心意気を示します(4節)。

 ただ、冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、この方のために神殿を建てる力がだれにありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくものでしかありません」と続けて、神の御前に謙遜を示します。

 けれども、だからといって、香を炊くスペースさえ取ればよいなどというのではなく、すべての神々にまさるお方に相応しく、「輝かしく偉容を誇る神殿を建てようとしているのです」と言います(8節)。ただ、どんなに意匠を凝らして人々が目を見張るような神殿を建てようとしても、神がそこにお住まいになるような建物を建てることは、人間には不可能だと語っているのです。

 ここに、ソロモンの信仰が表れています。それは素晴らしいものです。実に、神が喜ばれるのは建物ではなく、神を畏れてなされる礼拝です。神殿の大きさや立派さ、そこでなされる礼拝の形式などが大事なのではありません。輝かしく威容を誇る神殿を建てさえすれば、イスラエルは安泰ということにはなりません。神は大量のいけにえなどではなく、私たちの謙った心を求めておられるのです。

 とはいっても、形式は構わない、ということにもなりません。真心から神を畏れて御前に進めば、真の神を礼拝するに相応しい姿勢、そしてそれを表現する形が現れてくるはずだからです。ここにソロモンは、自分たちに出来る最上のものを神に献げたいと言っているのです。ソロモンは、自分に与えられた知恵と識見、さらに、合わせて授けられた富と財宝、名誉のすべてをもって神に仕え、それに相応しい礼拝をしようとしているのです。

 フラムはその願いに対し、「主は御自分の民を愛して、あなたをその王とされた」と言い(10節)、「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように」と賛美をささげます(11節)。

 パウロが、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを創られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えて下さるのは、この神だからです」(使徒言行録17章23~25節)と語りました。

 天地万物を造り、その御手の内にすべてのものを支えておられる神は、私たちを愛し、私たちとの交わりを喜んで下さるお方です。ゆえに、罪人の私を選び、独り子の命で贖い、私たちに「アバ父よ」と呼ぶ霊を授けて、私たちが神の子であることを明らかにして下さったのです。

 計り知れない神のご愛に心から感謝し、御名をほめ讃えましょう。私たちの日々の祈りが、神の御前に芳しい香りとして常に立ち上るように、そのために自分を空しくし、絶えず聖霊に満たしていただきましょう。

 聖霊様、あなたに相応しくないものを心の中から締め出し、あなたを通して与えられる神の愛で満たして下さい。主の御声を聴き、御旨に従って歩ませて下さい。すべてを主に委ねます。 アーメン




4月24日(水)の御言葉 歴代誌下1章

「彼らはエジプトに上り、戦車を一両銀六百シェケル、馬を一頭百五十シェケルで輸入した。同じように、それらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。」 歴代誌下1章17節


 ダビデ王の死後、息子ソロモンが王となりました(歴代誌上29章28節、23章1節参照))。歴代誌下1~9章にソロモンの業績が記されています。1章がソロモンの知恵のこと、2~4章が神殿建築、5~7章は神殿奉献の祈りと主の応答、8章が諸事業、9章にシェバの女王の来訪とソロモンの富という内容になっています。

 王となったソロモンは、全会衆と共にギブオンに下り、神の臨在の幕屋の青銅の祭壇で、一千頭の焼き尽くす献げ物をささげました(3節以下)。それは、ソロモンにとって、神を礼拝することがイスラエルの王としての最も重要な務めであるということを示しています。

 ギブオンは、エルサレム北西およそ10kmにある町です。神の箱がペリシテに奪われて以来、シロの町に置かれていた臨在の幕屋がギブオンに移されていたようです(サムエル記上1章以下、4章、列王記上3章4節)。とはいえ、このとき既に、神の箱はエルサレムに設置された神の幕屋の中に置かれていたはずですが(歴代誌上15章1節以下)、ギブオンの臨在の幕屋との関係はよく分かりません。

 その夜、神がソロモンに現れて、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました(7節)。それに対してソロモンは、「今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。そうでなければ、誰が、あなたのこの大いなる民を裁くことができましょうか」といって、上からの知恵と識見を求めています(10節、列王記上3章6節以下、9節)。

 神はその答えを喜ばれて、知恵と識見だけではなく、ソロモンが求めなかった富と財宝、名誉も加えて与えられました(12節、列王記上3章13節以下では「富と栄光、長寿)。これは、第一に神の国と神の義を求める者には、必要なものもみな添えて与えられると、主イエスが教えられたとおりのことです(マタイ福音書6章33節)。

 与えられた知恵と富で先ずソロモンがなしたことは、戦車千四百と騎兵一万二千を集め、戦車隊の町々と王のもとに配置すること(14節)、また、銀や金、レバノン杉を大量に供給したこと(15節)、戦車と馬をエジプトのクエから買い入れたことです(16節)。そして、冒頭の言葉(17節)のとおり、戦車一両銀六百シェケル、馬一頭百五十シェケルで輸入して、それを近隣諸国に輸出しました。

 つまり、国の安全を強化すると共に、商売をして蓄財を行ったわけです。この後、彼はそのような知恵と富を総動員して、壮麗な神殿と豪華な宮殿を建設します(1章18節以下)。そして、彼の知恵と富は、世界中をうならせます(9章参照)。

 ただ、そのようなことをするために、知恵と識見、それに加えて富や財宝、名誉が与えられたのでしょうか。彼はその知恵と識見をもって、イスラエルの民をどこへ導こうとしているのでしょう。残念ながら、民に対してどのような政治を行ったのか、彼がこの後、どのように神に聴き、神に従ったのか、殆ど何も記されていません。

 列王記を学んだときにも何度か開きましたが、申命記17章14節以下に、「王に関する規定」が記されています。そこに、「王は馬を増やしてはならない」(同16節)とありますし、また、「銀や金を大量に蓄えてはならない」(同17節)とも記されています。それらは確かに、国を守るのに力になるものでしょう。しかし神は、それに頼らず、神に頼れと言われるのです。

 誰よりも知恵のあるはずのソロモンですから、このような規定のあることは、知っていたのではないでしょうか。にも拘わらず、それに全く耳を傾けていないような振る舞いをしているというのは、ソロモンの高ぶりというものでしょう。そして、知恵のあるソロモンに、道を説く者がいなかったのでしょう。だから、道を正すことが出来なかったのです。

 しかし、真の知恵は、主を畏れること、その教えに聴き従うこと(箴言1章7節参照)、馬に頼らず、主に頼ることです。「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう」とダビデは詠いました(詩編34編12節)。御前に謙り、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと思います。

 ♪主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ、その人は水路の側に植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても、栄える。♪(ミクタム プレイズ&ワーシップ 21番[詩編1編2~3節]) アーメン


4月23日(火)の御言葉 歴代誌上29章

「わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと定めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください。」 歴代誌上29章19節

 「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」(28章9節)とダビデは息子ソロモンに命じていましたが、それが人間の力で出来るものではないことを、ダビデはよく知っていました。冒頭の言葉(19節)でダビデは、全き心をソロモンに与えて下さるようにと、神に祈っています。

 ダビデは、主の神殿を建築するために、出来る限りの備えをしました(2節以下)。それは、金100トン、銀240トンという莫大なものです(7節)。小国イスラエルで戦いに明け暮れていたダビデが、これだけの貴金属を持っていたというのも驚くべきことですが、しかし、それを献げたということは、持てるものをすべて神殿建築に献げたということでしょう。まさに、全き心と喜びの魂をもって神に仕える姿勢を、ここに示したのです。

 それを見たイスラエル諸部族の長たちも、精一杯の献げ物を献げました(6節以下)。それは、金五千キカルは170トンで、ダビデのものと合わせて270トン、今の金額にして1兆円を超えます。銀は580トン、約460億円、青銅600トン、鉄3400トン、これらを用いれば、絢爛豪華な神殿が建てられることでしょう。

 しかし、肝要なのは豪華な神殿を建てることではありません。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」とあるように(サムエル記上15章22節)、神殿を建てようとする者の神に聞き従う姿勢、その神殿で礼拝をささげようとする者の心が重要なのです。

 ダビデは、既にそのことを悟っておりました。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したに過ぎません」と言います(14節)。

 さらに、「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民に過ぎず、移住者に過ぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」と告げています(15節)。

 神の恵みなしに、充実した歩みをなすことなど出来ないということでしょう。だからダビデは息子ソロモンに、全身全霊をもって礼拝をささげることを命じ、それが出来るようにと神に祈っているのです。

 実に難しいのは、その心を保ち続けることです。今はそのつもりでも、次の瞬間、別のことを考えています。この後、壮麗な神殿が建てられますが、ソロモンはやがて、全き心で神に仕えることが出来なくなります。

 神から非常に豊かな知恵と洞察力、海辺の砂浜のような広い心が授けられましたが(列王上5章9節)、それがあだになったかのような結果になりました。というのは、エジプトのファラオの娘の他、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女性を愛し(同11章1節)、700人の王妃に300人の側室がいて(同3節)、彼らのゆえに心惑わされて、異教の礼拝が行われるのを許してしまうのです(同8節)。

 主は二度もソロモンに現れて、他の神々に従わないよう戒められましたが、彼はそれを聞こうとしませんでした(同10節)。ソロモンが父ダビデのように主を畏れ、主からその罪が指摘されて、すぐに悔い改めをする人物であれば、国が南北に分裂し、アッシリア、バビロンによって滅ぼされるのを避けることが出来たかも知れません。

 しかし、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と言われていことから(箴言1章7節)、ソロモンはそのとき、神の前に無知な者となっていたのです。

 人はどうすれば、心を清く保つことが出来るでしょうか。それは、御言葉に耳を傾け、その導きに従うほかありません(詩篇119編9節)。また、聖書は「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と命じており(フィリピ4章6節)、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束しています(同4章7節)。

 ダビデのように、心を込めて祈る者にならせていただきましょう。主にお仕えする心と考えを、神の平和で守っていただきましょう。


 主よ、心を尽くしてあなたを慕い求めます。御言葉から迷い出ないようにして下さい。インマヌエルの主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン



4月22日(月)の御言葉 歴代誌上28章

「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたを永久に拒み続けられる。」 歴代誌上28章9節


 28章には、「ダビデによる神殿建築の宣言」が記されています。このことについては、既に22章で一度取り上げられていました。これは、同じようなことが二度行われたというのではないでしょう。


 歴代誌が書き記されたのは、バビロン捕囚から解放された後のことで(歴代誌下36章参照)、最初の読者は、バビロンから帰って来たイスラエルの民です。彼らには、破壊された神殿を建て直す使命が与えられました(エズラ記1章3節、3章8節以下)。

 しかし、それは容易い仕事ではありませんでした。様々な妨害もあり、工事の中断を余儀なくされたこともあります(同4章)。そういう民を励ますために、繰り返しソロモンによる神殿建築の出来事が想起され、ダビデの言葉を通して、神殿を建てるための留意事項を確認しているわけです。


 冒頭の言葉(9節)は、留意すべき中心的なポイントについて、ダビデがソロモンに語っているものです。神は、私たちの姿かたちではなく、その内面を、心の奥底まで見ておられます。心を見るという言葉は、先にダビデを王として選ばれるときに、神が預言者サムエルに告げたものでした(サムエル記上16章7節)。

 しかしながら、完全に神の要求に応えることが出来る内面の持ち主がいるでしょうか。今はそのつもりでも、いつでもそのような心で居続けることが出来るでしょうか。


 ほかの誰もが裏切っても、自分だけは絶対に裏切らない、主を知らないなどとは言わないと豪語したペトロ(マルコ14章29,31節など)。それは彼の本心だったと思いますが、しかし、彼の思いに背き、主イエスが告げられたとおり、三度も主イエスを否む結果となってしまったのです(同66節以下)。


 今このようにその子ソロモンに語っているダビデ自身も、全き心で神に仕えることが出来たかと問われれば、もちろん否と言わざるを得ません。少なくとも彼は、神の御前に罪を犯して預言者ナタンにそれを指摘され、その罪のために幼子を死なせるという経験をしたのです(サムエル記下12章)。


 しかしながら、私たちは自分の弱さを知り、その弱さの中に働かれる神に信頼することが許されているのです。弱さを持っていることが問題ではありません。一度罪を犯せば、それでもうお仕舞というのではありません。弱さを知らされたとき、それを認めて、主を呼び求めればよいのです。神の助け、神の赦しなしに、一人で立つことが出来る者はいないのです。


 ダビデは、「わたしは絶えず主に相対しています」と詩編16編8節で詠っていますが、それは、ダビデがいつも主の前に立っていた、主を自分の前に置いた、主の前を離れたことはないというのではありません。ダビデが道を外れても、主の方がいつもダビデの前に立たれた、主がダビデを見ていて下さった、主がダビデを憐れみ、いつも主に守られていたというのが、その心でしょう。


 だから、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(同8節)と言い、続けて、「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」(同9節)と語っているのです。「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(同23編3節)、「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(同4節)というのも、同じような消息を示しているのではないでしょうか。ここに、主によって罪赦され、解放された者の喜びがあります。


 パウロも、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と語っています(第二コリント12章9~10節)。弱さを知ってさらに主を求め、主の力、主の栄光を表していただきましょう。


 主よ、私のために主イエスが十字架にかかり、身代わりに死んで下さいました。その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。私のからだは、御子の命をもって贖われました。私はあなたのものです。御業のために用いて下さい。今日も主の導きが豊かにありますように。 アーメン!







4月21日(日)の御言葉 歴代誌上27章

「家系の長、千人隊と百人隊の長、役人たちは、王に仕えて、一年中どの月も、月ごとに交代する各組のあらゆる事柄に当たった。一組に二万四千人いた。」  歴代誌上27章1節


 27章1節以下の段落には、神殿建設の準備から一旦離れて、イスラエルを守る「軍隊の組織」について記されています。それは、各部族がそれぞれ、自分たちの嗣業の地を守るというのではなく、王の指揮のもとに一つとなって国を守る軍隊組織です。軍隊には12の組があり(2~15節)、冒頭の言葉(1節)のとおり、一組に2万4千人いて、各組で一ヶ月づつ、国の警護を担当するようになっています。

 ここで、2万4千人ずつ12組ということは、全部で28万8千人いるということになりますが、民数記1章、26章やサムエル記下24章にある記述から考えても、これが戦争に出ることの出来るイスラエルの子らの総数とは、考えられません(23節、民数記1章46節、26章51節、サムエル記下24章9節参照)。

 2万4千という数は、完全数12の倍数に完全数10の3乗をかけ合わせた、完全の上にも完全で、これ以上大きな数字はない、すべての者を数えたという表現でしょう。その数の兵士を12組集めたというのですから、国を守り、神殿を守る完全な軍隊であるといっているわけです。

 しかし、真にイスラエルの国を守るのは、兵の数やその組織ではありません。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない」(詩編33編16,17節)と言われます。また、「主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(同127編1節)とも詠われています。

 24節に、「数え始めたために御怒りがイスラエルに臨み」と記されているのは、サムエル記下24章、歴代誌上21章に記されている、ダビデによる人口調査を思わせますが、ここでは、ダビデが数えようとしなかった20歳以下の者を、ツェルヤの子ヨアブが数えようとしたと言っています。ヨアブが自らそのようなことをしたという並行記事はありません。

 ところで、兵役に就くのは20歳以上の者ですから(民数記1章3節参照)、ヨアブは、神に許されていない者たちを兵に加えるために、その意に反して彼らを数えようとしたということになります。その心は、目に見えるものに依り頼もうとする行為と考えられ、真に国を守っておられる神に信頼していないことを表わしています。それらのことが、神の怒りを招いたわけです。

 今日の私たちの戦いの相手は、血肉、すなわち人間ではなく、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものです(エフェソ6章10節以下)。そのために、神の武具で武装せよ、と言われます(同11,13節)。両の手に持つのは、信仰という盾と(同16節)、霊の剣、即ち神の言葉です(同17節)。主イエスの御言葉を信じることが、サタン悪魔に対抗する神の武器なのです。

 悪魔の策略は、神に対する信頼を損なわせ、人と人とを分裂させるというものです。アダムとエバは、蛇にそそのかされて神に背き、その責任を転嫁して、お互いの信頼関係を失ってしまいました(創世記3章)。国が内輪で争えば、その国は成り立ちませんし、家が内輪で争えば、その家も成り立ちません(マルコ3章24,25節)。

 マタイ12章28節では、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われています。神の国をもたらされる主イエスは、神の霊によって悪霊を追い出され、神の国を私たちのところにもたらされるのです。

 私たちの頭であられる主イエスが、私たちをご自身の体として一つに結び、神の御支配のもとにおいて下さいます。神の支配のもとには、悪魔、悪霊が存在する余地はありません。そこには神の霊が満ちています。神の武具で身を整え、キリストの十字架において示された神の愛によって一つとされ、聖霊に満たされて祈り、賛美するのです。

 一年中どの月も、どの日も。主の御旨を悟り、その導きに従って歩む私たちに、主は勝利の冠をお与え下さるでしょう。その栄冠を主にお献げ出来るよう、日毎に主の御前に進ませていただきましょう。主との親しい交わりに入れていただきましょう。主に用いられるものとしていただきましょう。

 主よ、あなたが私たちの味方であられるとき、私たちに敵対出来るものはありません。私たちには圧倒的な勝利が約束されています。見えるものに依り頼み、持ち物を誇ろうとする弱さ、愚かさをすて、主とその御言葉に信頼します。主の守りと導きが常に豊かにありますように。 アーメン





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