「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。」 歴代誌下7章14節
ソロモンが祈り終わると、天から火が降って祭壇のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちました(1節)。エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者たちと戦ったときのような光景が展開しました(列王記上18章38節)。これは、ソロモンの祈りを聞き届けたというしるしです。神殿に神の栄光が満ち、それを見たイスラエルの民は、敷石の上に顔を伏せて礼拝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美しました(3節)。
そして、ソロモンはすべての民と共に牛2万2千頭、羊12万匹を献げて神殿を奉献しました(4,5節)。その量があまりに多かったので、祭壇だけでは供え尽くすことが出来ず、神殿の庭の中央部を聖別して、そこで献げ物をささげました(7節)。そのとき、ソロモンはレボ・ハマトからエジプトの川に至るまで(イスラエルの最大版図)の全会衆と共に仮庵祭を執り行いました(8節以下)。
神殿と王宮が完成し、奉献の儀式と仮庵祭をなし終えた夜、主がソロモンに顕現され、「あなたの祈りを聞き届けた」と言われました(11,12節)。そして、神が天を閉ざして雨が降らなくするとき、いなごに大地を食い荒らさせるとき、民に疫病を送り込むとき(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、民がひざまずいて祈り、神の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、神が祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒すという約束が語られています。
確かにそれは、ソロモンが6章19節以下で祈り求めた祈りの答えです。大旱魃で飢饉となったり、イナゴの大発生で農作物が食い荒らされたり、また、疫病が流行したとき、それらがすべて、人の罪のゆえだとは考えません。現在頻発している大地震も、また各地を襲うゲリラ豪雨も、それらがみな神の裁きだとは思いません。
しかし、イスラエルの民の背きに神が天変地異を起こされた時、そこで民がひざまずいて祈り、御顔を求めて神に立ち帰るなら、神がその祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒して下さるということは、神は絶えず私たちが祈ること、御顔を慕い求めること、神のもとに立ち帰ることを要求しておられるということであり、神はその祈りを聞き届けようと思っておられるということです。
新約においても、「求めなさい」(マタイ7章7節)、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ5章17節)、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)と命じられているとおりです。
私たちの前に困難がおかれると、自分の限界を知ります。そこで謙遜を学ぶでしょう。どうして良いか分からずに神を呼ぶでしょう。そこに祈りがあります。神の御声を聴くでしょう。そこに恵みがあります。困難に遭遇することはいやなものですが、神の御前に謙って祈り、主の恵みを味わうために困難が与えられたというのであれば、そして、それをそのように受け止めることが出来るのであれば、何と幸いでしょう。
使徒言行録17章26~27節に、「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と記されています。
季節を決めるということは、人生にはバラ色の春というような状況もあれば、夏の暑さ、冬の厳しい寒さを味わうようなときもあるし、すべてが枯れ果てるような晩秋もあるということでしょう。居住地の境界をお決めになったということは、どこに行っても良い、何をしても良いというのではなく、行けない場所がある、出来ないことがある。勿論、すべてを所有することなどは出来ない。そこで自分の限界を知るということではないでしょうか。
四季それぞれにある苦しみから祈りに導かれることもあれば、四季の恵みを味わって神に感謝することもあるでしょう。春だから、素晴らしいとは言えない人がいるでしょう。一方、冬の厳しさを素晴らしいという人もいます。いずれの人も、神の前に出ることが出来ます。御顔を慕い求めるとき、誰もが神を見出すことが出来る、と言われています。それが最も素晴らしいことでしょう。
主よ、あなたが私たちを祈りに導こうとしておられることを感謝します。私たちの祈りを聞き届けて下さるという約束を感謝します。絶えず、主の御声に耳を傾け、導きに従って歩ませて下さい。傲慢にならないよう、柔和と謙遜を学ばせて下さい。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!