「イスラエルの王は、約四百人の預言者を招集し、『わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか』と問うた。彼らは、『攻め上って下さい。主は、王の手にこれをお渡しになります』と答えた。」 列王記上22章6節
ユダの王ヨシャファトがアハブ王を訪ねて来たとき、アハブが家臣に(2節)、ラモト・ギレアドをアラムの手から奪い返そうと言い(3節)、ヨシャファトに「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」と、援軍を要請します(4節)。
それを聞いたヨシャファトは、「わたしはあなたと一体」と、すぐに承諾します(4節)。歴代誌下18章1節に、「アハブとも姻戚関係を結んだ」とありますから、アハブから嫁を貰っていたのでしょうか。詳細は不明ですが、北イスラエルと南ユダの間には、友好関係が成立していたわけです。
ただ、ラモト・ギレアドに攻め上るにあたり、ヨシャファトはアハブに、先ず主の託宣を求めるようにと要求します(5節)。そこで、冒頭の言葉(6節)のとおり、アハブは預言者400人を集め、託宣を求めます。彼らは王に、「攻め上ってください。主は、王の手にこれらをお渡しになります」と答えました。
ヨシャファトはしかし、それに満足せず、「このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と、アハブに尋ねます(7節)。ヨシャファトは、主の目に適う正しい道を歩んでいたので(43節)、主の御声を聴きたかったのです。
アハブに呼び出された主の預言者ミカヤも、「攻め上って勝利を得てください」(15節)と言います。しかし、アハブが、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と念を押すと(16節)、「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのを見た」と告げます(17節)。
ということは、アハブがこの戦いで命を落とすということです。さらに、ミカヤは400人の預言者を「あなたのすべての預言者」と呼び(23節)、即ちそれは、アハブの御用預言者だということですが、彼らは、アハブをラモト・ギレアドで倒すために偽りを語らせる霊に唆されていると言います(19節以下)。つまり、彼らは主の預言者ではないというのです。
アハブはミカヤを、自分に幸運を告げないと言いますが(8,18節)、神が幸運を告げられれば幸運を、災いを下すと言われれば災いを語るのが、真の預言者というものです。どんなに王が喜ぶからといっても、幸運しか告げないというのであれば(13節)、それは確かに、「御用預言者」と言わざるを得ません。そしてそれでは、王の気分をよくする以上の効果を期待することは出来ないのです。
アハブはヨシャファトに援軍を頼む前に、先ず主に問うべきだったのです。幸運しか告げない御用預言者ではなく、かつて、エリヤの言葉を聞いて謙り、悔い改めたように(21章27節以下)、真実を語る主の預言者に耳を傾け、その御言葉に忠実に従うべきだったのです。
そうしないので、ミカヤは主の命令に従って、アハブに災いを告げざるを得ないのです。とはいえ、主なる神はアハブを滅ぼしてしまわれたいわけではありません。謙って主に聴き従うことを求め、その信仰によってアハブに幸いを授けたいと思っておられるのです。
アハブは、ヨシャファトを伴って、ラモト・ギレアドに攻め上ります。アハブは、ヨシャファトがイスラエルの王であるかのように偽装して、戦場に赴きました(30節)。ミカヤの預言が気になっていたわけです。そして、ヨシャファトは、この戦いに乗り気でなかったのではないでしょうか。
結局、ヨシャファトは役不足で偽装がばれて戦死を免れましたが(32節)、変装していたアハブは、流れ弾とでもいうような、何気なく引かれた弓矢で射貫かれて深手を負ってしまい(34節)、帰らぬ人となりました(35節)。
かくてミカヤは、イスラエル人が羊飼いのいない羊のように山々に散るのを見ることになりました。それは、主イエスが真の王になるまで続くのです。私たちにとって、真のよい羊飼いは、主イエスのほかにはおられないからです(ヨハネ10章11節)。よい羊飼いは、羊のために命を捨てられます。それは、羊に命を豊かに得させるためです(同10章10節)。主の与え尽くす愛にとどまり、主の豊かな命に生かされましょう。
主よ、あなたの御愛に感謝いたします。私たちの心が、主の愛と平安で絶えず満ち溢れますように。すべての民が主の御声に耳を傾け、一人の羊飼いに導かれる一つの群れとなることが出来ますように。御国を来たらせて下さい。御心がこの地になされますように。 アーメン