「アラム軍が逃げるのを見ると、アンモン人も、アビシャイの前から逃げ出し、町の中に入った。ヨアブはアンモン人をそのままにして引き揚げ、エルサレムに帰った。」 サムエル記下10章14節
アンモンの王ナハシュが亡くなったという報せに、ダビデは生前の関係から使節を遣わして哀悼の意を表そうとしました(1,2節)。ダビデの姿勢は、相手に対する誠実さで一貫しています。ただ、アンモンの王ナハシュは、サウル王の時、ギレアドのヤベシュに攻め上って来て、サウルに打ち負かされています(サムエル記上11章1節以下)。その後、ダビデと友好関係にあったことを示す記事は、見あたりません。
あるいは、ダビデがサウルに追われて逃亡生活を余儀なくされていたとき、両親をモアブの王に託していたことがありますが(同22章1節以下、3,4節)、同様に、アンモンの人々がダビデに親切にするということがあったのかも知れません。
ところが、ナハシュの息子ハヌンの重臣たちは、ダビデの遣わした弔問使節をスパイと断じ(3節)、彼らのひげを半分そり落とし、衣服も半分切り落とすという侮辱を加えて追い返しました(4節)。国を代表して弔問にやって来た使節に対し、そのような仕打ちをするのは、愚かとしか言いようがありません。
当然のことながら、それはダビデの怒りを買います。ダビデの憤りを知らされたアンモンでは、戦いの用意を始めます。そこで先ず、ベト・レホブおよびツォバのアラム人に歩兵2万、マアカの王には兵1千、トブには1万2千の兵と、合計3万3千の兵を傭兵として派遣するよう、それぞれ要請しました(6節)。
ということは、自分たちだけでは、イスラエルと戦えないと考えたわけです。それが適切な判断ということなのでしょうが、そうであるならば、徒らにダビデの派遣した使節を侮辱して、戦争の火種を播くような愚かな振る舞いに及ぶべきではなかったのです。
アンモンの都ラバの城門まで押し寄せて来たイスラエル軍に対して、アンモンの王ハヌンは、城内から戦いを仕掛けるアンモン軍と、野に配置したアラム連合軍でイスラエルを挟撃する作戦でした(8節)。ところが、この連合軍が当てになりません。ヨアブ率いるイスラエルの精鋭部隊を見ると、早々と戦線を離脱してしまいました(13節)。請われてやっては来たけれども、命を懸けるほどの義理はないということだったのでしょうか。
すると、冒頭の言葉(14節)のとおり、連合軍が逃げたのを知って、アンモンも戦意を失い、城内に逃げ込んでしまいました。こうして、ほとんど刃を交わすこともなく、イスラエルが勝利を獲得したのです。神が味方して下さる戦いは、勝ち得て余りがあるというのは、このようなことを言うのでしょう(口語訳ローマ書8章37節、新改訳は「圧倒的な勝利者となる」、新共同訳は「輝かしい勝利を収める」)。
ところが、戦う前に敵前逃亡して面目丸つぶれのアラム連合軍は、ツォバのハダドエゼル王の指揮の下、遠くアラム・ナハライム軍も動員して連合軍を再編し、雪辱のためガリラヤ湖東方50キロほどのところにあるヘラムまで押し寄せて来ました(15,16節)。それに対し、今度は、ダビデ自身が全軍を率いてアラム軍を迎え撃ちます(17節)。
この戦いで、アラム連合軍は、戦車7百、騎兵4万、そして軍の司令官ショバクも失うことになりました(18節)。アラム諸国は、払わなくてもよかった犠牲を払い、そして、イスラエルに隷属させられてしまうのです(19節)。
ここであらためて、14節に記されているイスラエル軍の司令官ヨアブのとった行動には驚かされます。彼は、勢いにまかせてアンモンの都ラバに攻め込んだというのではありません。彼らは町に逃げ込んだアンモン人をそのままにして引き揚げ、エルサレムに帰るのです。
戦利品も獲らずに引き揚げたのは、無血の勝利によって、イスラエルの面目がたったということなのでしょう。そもそも、これはイスラエルが望んだ戦いではありません。故ナハシュ王への弔問から始まったことでした。
私たちは今日、右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい(マタイ5章39節)、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(同44節)と教えられています。出来るかと尋ねられて、「はい」と答えるのは容易いことではありません。むしろ、右の頬を打たれたら、相手の左の頬をイヤというほど殴り返してしまうでしょうし、自分を傷つける敵は、愛せないからこそ「敵」なのです。
十字架の上で身をもってそれを実行された主イエスを仰ぎ、ただ聖霊の助けと導きを祈るのみです。
主よ、今も戦火にある国々を覚えて下さい。テロとの戦いと称して起された戦争は、好ましい終結の時を迎えてはいません。アラブの春が、むしろテロを拡大させています。一刻も早く戦闘が終結し、全世界に平和が訪れますように。平和の源であられる神の御心がこの地に行われ、その喜びが隅々にまで広げられますように。 アーメン