「王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。『若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ』。兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた。」 サムエル記下18章5節
ダビデ軍の戦いの用意が整いました。ダビデは軍を三つに分け、ヨアブ、アビシャイ、イタイを部隊長に任じます(2節)。ダビデは、兵士たちの要求によって町に留まり(3,4節)、出陣して行くヨアブらに冒頭の言葉(5節)の通り、「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ」と命じました。
つまり、ダビデがこの戦いで最も気にかけていたのは、息子アブサロムの命だったわけです。そのことは、戦わずしてエルサレムの王宮を明け渡したところにも表れていました(15章14節)。ダビデが出陣しようとしたのも、アブサロムを何とか保護したかったからなのでしょう。
ここで、ダビデは息子を「若者」と呼びましたが、アブサロムは決して成人前の若者などではありません。既に息子三人に娘一人を持つ40歳の壮年です(14章27節、15章7節)※1。
しかも、謀反を起こして父親を王の座から追放し、自ら王として振る舞っている男です。そのような人物を生かしておくことは、必ず、将来に禍根を残すことになるでしょう。ダビデの命が常に狙われることになりますし、謀反を働いた張本人を赦すことは、王の沽券に関わる問題だからです。
つまり、軍の司令官ヨアブにとっては、王ダビデを守り、国の安泰を図るためには、どうしても謀反人アブサロムは殺さなけれぱならない相手なのです。だから、ダビデの命令にも拘わらず、頭髪を薮に絡ませていたアブサロムを見つけたとき、迷わず殺せと命じ(10節)、兵がそれを拒みむと、自ら手を下してしてしまいます(14節)。
やがて、アブサロム戦死の報をがダビデのもとに届くと(32節)、ダビデは悲嘆にくれます(19章1節:口語訳は18章33節)。ダビデにとって、アブサロムは謀反を起こした憎むべき者であり、王位継承者として期待した長男アムノンを殺して、しばらく顔も見たくないと思った相手ではあります。
しかしながら、確かにダビデにとって愛すべき息子でもあります。ここに、ダビデは国王としての顔ではなく、一人の父親として立っています。彼の目に息子アブサロムは、危険な反逆者ではありますが、未だ若者と見え、右も左もわきまえない若者故の反逆と考えていたのです。
主イエスは、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを如っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と語られました(マタイ福昔書7章11節)。自分の子どもに対する父親の愛がそうであるならば、独り子イエスに対する天の父なる神の心は、何と複雑なものだったことでしょう。悪い者を救うために、その独り子を犠牲になさったのです。
聖なる神にとって、「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェソ2章3節)であった私たち悪しき者の罪を、そのままに放置したり、裁きなしに赦したりすることは出来ません。そこで、私たちを愛し救うために、私たちのすべての罪の呪いを独り子に負わせたのです。
そして、その罪を徹底的に裁かれました。それは、十字架の苦しみを味わわせ、黄泉にまで落とさなければなりませんでした(使徒2章27,31節)。主イエスが十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれたとき(マルコ15章34節)、父なる神はそれをどのようにお聞きになられたのでしょう。父の呻き嘆く声が聞こえるようです。
私たちはこの神の愛により、恵みによって救われました(エフェソ2章8節)。罪が赦されました(コロサイ1章14節)。神の子とされました(ヨハネ1章12節)。聖霊の導きによって、幼子が父親を呼ぷように、主なる神に向かって「アッバ(お父ちゃん)」と呼ぷことが許されたのです(ローマ8章15節)。主にあって、永遠の命に生きる者として下さったのです(第一ヨハネ5章11節)。
感謝をもって主を仰ぎ、今日も主の御言葉に耳を傾け、御旨に従って参りましょう。
主よ、私たちは罪人の頭ですが、憐れみによって神の子とされ、御愛のうちに生かされています。その恵みを心から感謝致します。御名が崇められますように。日々主と共に歩み、委ねられた使命のために励むことが出釆ますように。御言葉に目と耳がはっきりと開かれますように。 アーメン
註1・・18節に、「アブサロムは…跡継ぎの息子がなく、名が絶えると思った…」とあり、14章27節と矛盾します。諸説あるようですが、三人の子があったけれども、何らかの理由で早く息子たちが亡くなり、石塚を立てていたと考えるのが、一番自然ではないかと思われます。