「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」 サムエル記上8章5節
長い間、ペリシテ人に苦しめられていたイスラエルの人々は、預言者サムエルの指導のもと、しばらく平和を享受していました。しかし、やがてサムエルも年老いました。そこでイスラエルのために、息子たちを「裁きを行う者」、即ち士師に任じました(1節)。長男ヨエル、次男アビヤは、ベエル・シェバで裁きを行います(2節)。
ヨエルとは、「主は神である」という意味、アビヤとは、「私の父は主である」という意味の名前です。信仰深い名前を頂いた二人ですが、彼らは父サムエルとは違い、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げるようなことをしました(3節)。
私たちは、危機を覚えているときには、互いに力を合わせ、思いを一つにすることが出来るのに、危機が去ると気が弛み、利己的になるという弱さを持っています。祭司エリの息子たちの非道な振る舞いのために多くの民が苦しめられたことを既に忘れたかのように、サムエルの子らも、父の心を悲しませる振る舞いに手を染めていました。このままでは、再び、多くの民に苦しみが及ぶことになってしまいます。
そこで、イスラエルの長老たちがこぞってラマのサムエルのもとを訪ね(4節)、冒頭の言葉(5節)のとおり、他の国々のように、王を立てるように求めました。王が立つことで部族間に統一が生まれ、強い国を作ることが出来ると考えているのでしょう。
長老が全員集まって、「今こそ」と求めているのは、これまでにもサムエルにそう要求していたことを示しています。また、特にサムエルの子らがこのような体たらくでは、将来がまったく覚束ないので、必ず自分たちの求めを入れてくれるように、と迫っているのです。
サムエル自身は、王を立てることをよしとしていませんでした。6節には、「サムエルの目には悪と映った」と言われています。それは、イスラエルの民が、神を信頼しようというのではなく、王に依り頼もうとしているからです。
確かに、指導者の存在は、決して小さいものではありません。そして、これまでも、よい指導者が立つときには国が安定しました。しかし、士師は世襲ではありませんでしたし、常駐してもいませんでした。ですから、継続的によい指導者が立てられる仕組みとして、王制を敷くようにと、サムエルに求めているわけです。
しかしながら、聖書が絶えず問題にしているのは、王がいないとか、組織がしっかりしていないというようなことではありません。彼らが主なる神の御言葉に耳を傾けず、絶えずその導きに従って歩もうとしないで、異教の神々にひかれ、偶像礼拝に陥ってしまうことです。そして、それによって神の怒りを招いているということです。
7,8節に、神ご自身が、「彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることと言えば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」と仰っています。
そもそも、国の制度や組織は万能ではありませんし、不完全な人間が完璧な国家を作ることなど、不可能です。にもかかわらず、目に見えない神に依り頼むよりも、目に見えるものにその確かさを求めようとするところに、私たちの罪があります。
教会も同じです。人や組織、活動に頼むではなく、主イエスこそ私たちの真の指導者であり、神であることを認め、信頼していくとき、そこに主の御業がなされ、神の栄光が現れるのです。サムエルが絶えず神に聴き、神と交わり、神に従って歩んだように、私たちも主を信じ、御言葉を慕い求めて歩ませていただきましょう。
主よ、あなたは、私たちが何よりも先ず求めるべきものは、神の国と神の義であると教えて下さいました。主との関係が正されると、豊かな恵みを見ることが出来るからです。主は、求める者に良いものを下さると約束されています。神との関係が正され、主なる神が私たちの内に住まわれ、共に歩んで下さること以上に、良いものはありません。そうして、御言葉に約束されている恵みが常に豊かに開かれますように。 アーメン