「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」 サムエル記上18章1節
ゴリアトを倒したダビデはその日、サウルに召し抱えられることになりました(2節)。ダビデは出陣するたびに勝利を収め、武功をあげるので、サウルはダビデを戦士の長に任命しました(5節)。それが、すべての兵士やサウルの家臣に喜ばれたと記されています。
若いダビデが戦士の長に取り立てられて、それを兵士や家臣たちが妬んだというのではなく、すべてのものが喜んだということは、ダビデの勇敢さや戦術の巧みさなどを、彼らが認めていたということでしょう。また、ペリシテの勇士ゴリアトを倒した者に、サウルが大金を与え、王女も下さり、その父の家には特典を与えると言われていましたので(17章25節)、ダビデが王家の一員となることを歓迎している、と見ることも出来ます。
女たちもダビデを喜び迎え(6節)、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌い交わします(7節)。こうして、ダビデはすべての人々から愛されるようになりました。
しかし、ただ一人サウル王は、そのようにダビデが讃えられるのを聞いて腹を立て、悔しがります(8節)。王の心はダビデへの嫉妬の念で満たされてしまいました(9節)。そして、ダビデを殺そうとします。
聖書はそれを悪霊の仕業と表現していますが(10,11節)、地位の高い者が自分の地位を危うくする者を憎み、退けようとするのは世の常です。ということは、地位の高い者が、武功のある忠臣に嫉妬心や猜疑心を抱いて退けようとしたり、時には殺してしまうように仕向けるという手を、悪霊はよく用いるということでしょう。だから、一介の羊飼いから自分が取り立てたダビデに対して、サウルが本気で殺意を抱いているのです。
裏返せば、それはサウルがダビデを恐れているということです(12,15節)。主がダビデと共にいて戦いに出れば連戦連勝(14節)、そして人望も厚く、人気は上がる一方となれば(15,16節)、主の霊が離れた自分から、王の地位が奪われるのも時間の問題と、サウルは考えていたのかも知れません。
そこで、自ら手を下すことなく、ダビデを亡き者とするために、敵ペリシテの手を借りる手立てを考えます(17節)。それは、娘ミカルの婿として迎えることを条件に、ペリシテ人の陽皮百枚を結納金代わりに差し出すようにということです(25節)。それで、返り討ちにしてもらおうと考えたわけです。
しかし、ダビデはすぐに行動し、要求された倍の200人分の陽皮を持ち帰りました(27節)。サウルは、主がダビデと共におられることを、改めて思い知らされます(28節)。また、自分の娘ミカルまでもダビデを愛しているということで、ますます恐れ、ダビデに敵意を抱くようになりました(29節)。
その中で、ヨナタンの態度は注目に値します。ダビデの登場で一番不利な立場になるのが、王子ヨナタンです。王位を継ぐ最短距離にいる自分が、その地位を赤の他人に奪われるのです。年齢も、ヨナタンの方が10歳以上も上ではないかと考える注解者がいます。しかし、それらのことは、ヨナタンにとってどうでもよいことでした。彼は冒頭の言葉(1節)の通り、誰よりもダビデに惹かれ、自分自身のようにダビデを愛したのです。
3節に、「彼と契約を結び」とあります。それは、王子と羊飼いが対等の立場にいるということを示します。このことは、ダビデが望んで出来ることではありませんから、ヨナタンがダビデを大切に思っているということの、何よりの証拠です。
そして、自分の着ていた上着をダビデに着せ、また装束を剣、弓、帯に至るまで、すべて与えます(4節)。これはまるで、「乞食王子」物語よろしく、この日、ヨナタンがダビデとその立場を取り替えたことを象徴するかのような出来事です。
今日、主イエスは私たち人類を深く愛され、一方、私たちはその愛に相応しい者でもないのに、私たちのためにご自身を十字架に贖いの供え物とされ、私たちを罪の呪いから解放して下さいました。それは、ご自分を信じる者に神の子となる資格をお与えになるためでした(ヨハネ1章12節)。これは、全く一方的に与えられた恵みなのです。
主よ、この年も豊かな恵みの内を歩ませて下さり、心から感謝致します。新しい年も、私たちが神の子とされるためにどれほどの愛を賜っているか、いつも覚えさせて下さい。そのことによって愛を知った私たちが、感謝をもって互いに愛し合い、赦し合い、助け合う神の家族として、主と共に歩むことが出来ますように。 アーメン