風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年09月

9月30日(日)の御言葉 「あなたはかたくなな民である。」

「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。」 申命記9章6節


 新共同訳聖書は、申命記9章に、「かたくなな民」という小見出しをつけています。「聞け、イスラエルよ」(1節)で始まる9章は、6章4節の言い回しを思わせますが、冒頭の言葉(6節)で、「あなたはかたくなな民である」と断じています。

 13節にも、主の言葉で、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である」と記されています。しかしながら、かたくなな民であるから、ひどい目にあわせるぞというような内容ではありません。自分たちが頑なな民であることを悟り、神の御前に謙りなさいというのが、著者の意図するところでしょう。

 それは、「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい」(6節)と言われているところからも、窺うことが出来ます。このように言われるということは、カナンの地に入り、そこを占領出来たとき、自分たちが正しい者であったから、善い者であったから、神がこの良い土地をお与え下さったのだと自惚れる者が出て来るということを、予見しているわけです。

 そして、その自惚れは、神が恵みとしてお与え下さったものを、当然自分たちに与えられるべき報酬のように看做してしまうことでしょう。ひいては、自分たちが手に入れたものはすべて、自分たちが苦労して勝ち取ったものだと、一切の栄光を横取りしてしまうかもしれません。

 というのも、イスラエルの民はエジプトを脱出して以来、主に背いて何度も神を怒らせ続けていたためで、そのことが7節以下に数々記されています。

 「かたくな」とは、「自分の考えや態度を守って、いくら他人が説得しても、それに従おうとしない様子」と国語辞典に記されていました。そうであるならば、「かたくなな民」と断じられるイスラエルの民が、約束の地に入ってから謙遜になり、神の御言葉に聴き従うようになると期待するのは、かなり難しいことではないでしょうか。

 それはあたかも、カナンの地にアナクの子孫がいて、イスラエルの民が約束の地に入って来るのを阻もうとしているのに似て、「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」と言わざるを得ないように(2節)、誰がイスラエルの民を回心させることが出来ようかといったところでしょう。

 イスラエルの民は、かつてカデシュからカナンの地を探ったとき、そこにアナク人を見かけ(民数記13章28節)、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(同31節)と結論しました。神はそれを思い出させるかのように、「あなたは今日、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている」と言われました(1節)。

 けれどもそれは、追い払うのは不可能だと言われたというのではありません。自分たちの手で打ち勝つことは出来ないだろうけれども、「今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい」(3節)と言われるのです。

 神がアナク人を滅ぼされるのは、「この国の民が神に逆らうから」(4,5節)であり、イスラエルの民がカナンの地を獲得することが出来るのは、神がその地を与えると約束しておられたからです(28節参照、創世記12章1節以下)。つまり、神ご自身のイスラエルの民を思うご真実が、民の頑なさに勝っているわけです。彼らは神に背き続けて、その地を追い払われたこともありますが、徹底的に捨てられてしまうことはありませんでした。

 そのことについて、パウロが、「イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお蔭で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。・・・神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ11章28,29,32節以下)と記しています。

 主の御前に謙りましょう。神が高めて下さいます。あらゆる恵みの源である神が信仰に立つ私たちを強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さるからです(1ペトロ5章6,10節)。

 主よ、あなたは私の愚かさ、頑なさをご存知です。にも拘らず、私が弱かったとき、罪人であったとき、敵対していたときに、独り子キリストが贖いの供え物として死なれ、愛を示されました。和解の恵みに与りました。感謝をもって御前に進み、朝毎に御言葉を頂きます。私を試みに遭わせず、悪しきものからお救い下さい。 アーメン






9月29日(土)の御言葉 「主の口から出るすべての言葉によって生きる」

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」 申命記8章3節

 神は、イスラエルの民を荒れ野に導いて、その苦難の中で様々なことを学ばせ、味わわせ、そしてそこで、神の民となるための備え、訓練、試練を受けさせられました(2節)。冒頭の言葉(3節)に、「人はパンだけで生きるのではなく」と言われています。

 主イエスが公生涯の初めに悪魔の試みに遭われました(マタイ福音書4章1節以下)。主イエスが受けられた三つの試みの最初のものが、石をパンに変えて食べたらどうかという試練でした。この悪魔の言葉に対して、「よろしい、やってみせよう。私が神の子であることを証明する」とは言われませんでした。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と言われたのです(同4節)。

 つまり、悪魔の試みに対して、冒頭の言葉(3節)を引用することで、神の御言葉に従って生きることを示されたのです。ここで、「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、色々な論議を呼び起こします。パンを食べるから生きているのか、と問われたら、いや、そうではない、私はもっと高尚な存在だ、と言うでしょう。精神的なこと、霊的なことを考え、味わいながら生きているのだと。だから神の言葉を聞くというわけですね。

 けれども、それではパンはいらないのか、食べなくてもよいのか、とまた問われるのです。「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありますが、「腹が減っては戦は出来ぬ」という言葉もありますね。パンではなく、主の口から出る言葉で生きるなんて偉そうに言ってるけれど、結局パンがなければ生きられないんじゃないか、という批判も聞こえてきそうです。

 このような考え方の背景には、パンは体のため、命のため。神の言葉は精神的なこと、霊的なことだから、体のためのパンよりも次元が高い、というような考えがあるでしょう。そこで、どちらが大事なのかという二者択一の問題として考えたり、また或いは、体のためにはパン、魂のためには神の言葉、両方必要だと考えたりします。しかし、ここで語られているのは、そのような問題なのでしょうか。

 私たちが現在置かれている環境は、主イエスがそのときに置かれていた状況とはまるっきり違います。今日、我が国では飢え死にしそうな人は、殆どいません。むしろ、食べ物が溢れ、腐らせて処分に困るくらいたくさん持っています。ダイエット商品が次々に発売されます。そういう生活をしている私たちにとって、この試練はどんな意味を持っているのでしょうか。もう既にパンで満腹になったから、あとは神の言葉を聞こうということでしょうか。

 ヘブライ語原典で、「主の口から出るすべての言葉」という言葉に、「言葉」という言葉はありません。直訳すれば、「主の口から出たすべて」となります。「言葉」は翻訳者が付け加えたのです。主の口から出るものだから、「言葉」だろうと考えたのでしょう。しかし、言葉だけではなく、「主の口から出るすべて」です。

 ヘブライ語の「言葉(ダーバール)」の複数形は「出来事(ドゥバリーム)」と訳されると、前に学びましたが、主が語られた言葉は行為となり、出来事となります。主が口を開かれたら、イスラエルの民のためのマナになりました。あるときはウズラが飛んできました。あるときは、水が湧き出ました。神は、言葉だけを下さったのではなく、生きるために必要なすべてのものを、御口を開いてお与え下さったのです。

 イスラエルの民は、それを荒れ野で日毎に経験したのです。神が生きておられるということを、この荒れ野で経験したのです。飢えた経験を通して、渇いた経験を通して、苦しみの経験を通して、主と交わり、主の口から出るすべてのものを味わうようにされたのでした。

 私たちも、この世の荒れ野状態の中で、嵐の中で、主がお与え下さるマナを味わっているでしょうか。生ける水を飲んでいるでしょうか。本当に神様との深い交わりに進みたい、本当にその恵みを味わいたい。

 どんな境遇にいても、そこが、神様が私たちに最善のものを与えようとして導いている場所であること、聖霊が私たちを導いて、神様との深い交わりに進ませようとしておられるということを、信じられる者は本当に幸いです。それを味わうことが出来る者は幸いです。神様は私たちをその幸いに導こうとしておられるのです。


 主よ、あなたは私たちに災いではなく。将来と希望、平安を与えようとしておられます。生き甲斐のある豊かな生涯を送らせようとしておられます。日々、命の御言葉を聴き、その導きに従って歩ませて下さい。特に、台風17,18号の進路にあたる地域の方々に、主の守りと導きが豊かにありますように。 アーメン







9月28日(金)の御言葉 「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」 申命記7章6節


 主なる神は、約束の地に入った時、七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を自分たちの前から追い払えと命じられます(1節)。それは、容易いことではありません。むしろ、不可能に近いことでしょう。ユダヤの民よりも、数と力において勝っている民だと言われるからです。

 自分たちの数や力が劣っているとなれば、どのようにしてその民を追い出すことが出来るのでしょう。ただ、追い払えと言われる主を信じ、その命令に従うとき、主の助けによってそれが可能になります。私たちは無力でも、主なる神は全能のお方だからです。

 神はイスラエルの民を、ご自身のものとしてお選びになりました。主は彼らを、冒頭の言葉(6節)のとおり、「主の聖なる民」と呼ばれ、また、「ご自分の宝の民」と言われます。勿論、主なる神はイスラエルだけを作られたのではなく、全世界のあらゆる種族、部族、民族を作られたのです。けれども、主はその中からイスラエルを選び出して、ご自身の「宝」(セグッラー)とされました。

 注解書によれば、このセグッラーという言葉は経済用語で、金や銀といった非常に高価な財産、まさに、「宝」を指すものだそうです。また、「主の聖なる民」とは、主がご自分のために他から区別した、とっておきの民ということです。

 そう言うと、さぞ優れた民族なのだろうと思われますが、その特別さは、イスラエルの民の特質などによるものではありません。聖書は彼らが選ばれた理由について、「主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と記しています(7,8節)。

 つまり、神がエジプトで奴隷の苦しみにあったイスラエルに目を留め、その力ある御手をもって救い出して下さるのでなければ、民の数が多くはなく、むしろ貧弱と評されたイスラエルにとって、自力でエジプトを脱出することなど、到底適わないことだったわけです。

 ということは、初めに述べたように、約束の地から、彼らより数も多く、力も強い七つの民を自力で追い出すことは出来ないでしょう。けれども、エジプトの手からイスラエルを救い出された神は、七つの民を打ち破り、イスラエルの前から追い払うことがお出来になるのです。

 そのように、数も少なく貧弱な民が、どうして「主の聖なる民」、また「宝の民」と言われるのでしょう。そのことについて、出エジプト記19章5,6節に答えを見ることが出来ると思います。そこに、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されています。

 主との契約とは、イスラエルをエジプトから救い出して下さった主をおのが神とし、イスラエルは主の民となるというものです。そして、主を神とし、主の民となるとは、主の御声に聞き従い、その掟と法を守り行うことでした(5章1節、6章1節以下)。主の掟と法を守り行うことによって「宝」とされ、神が王として治める王国の「祭司」の務めを果たすために区別された民だということです。

 宝石などが「宝」であるのは、その希少性と純粋な美しさにあるでしょう。純度99.99パーセント以上の金を純金と言います。現段階で、不純物を一切含まない純度100パーセントの純金を作ることは、未だ出来てはいないようです。

 七つの民を追い払うというのは、文字通りそれを実行するというより、イスラエルの民がその心の内より一切の不純物を取り除き、純度100パーセントの全き心で主の御言葉に耳を傾け、その契約を守るということでしょう。そのとき、彼らは主にとって、まさに宝の民となるわけです。

 言い換えれば、イスラエルの民が主によって与えられた戒め、また祭司としての使命を「宝」として受け止め、大切に守ることが求められているのです。そしてそれは、人が独りでよく行うことの出来るものではありませんから、常に主の御声に耳を傾け、導きと助けを願って祈り求めることです。そのとき、主は私たちの心を聖霊で満たし(ルカ11章13節)、聖霊を通して神の愛を豊かに注いで下さいます(ローマ書5章5節参照)。

 主に信頼し、すべてを御手に委ね、授けられた使命に喜びと感謝をもって励み仕えて参りましょう。


 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存じです。しかし、神の力はその弱さの中で十分に働くということを知っています。主よ、あなたに御心を行う知恵と力、信仰を与えて下さい。私たちの心からあらゆる不純物を取り除きを聖霊で満たし、愛と平和に溢れさせて下さい。 アーメン







9月27日(木)の御言葉 「あなたたちの神、主を試してはならない」

「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」 申命記6章16節


 6章4~9節は、旧約聖書中、最もよく知られている箇所の一つです。今も、信心深いユダヤ人は、これらの御言葉を、文字通り徹底的に実行しようとしています。これらの御言葉を記した巻紙を小さな容器(「聖句箱」という)に入れ、額に結びつけています。また、家の門柱には、それと似た別の容器(「メズーザー」と呼ばれる)を取り付けています。そして、子どもたちに律法教育をしっかりと授けます。

 5節の、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という御言葉は、キリスト教会でもよく知られています。それは、主イエスが律法の専門家から、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、申命記6章5節のこの御言葉が、最も重要な第一の掟であるとお答えになったからです(マタイ22章34節以下)。

 ユダヤ人のように、8,9節を厳格に実行することを、主が望んでおられるのかというと、それはそうではないのでしょう。新約聖書において、聖句箱やメズーザーが話題になったことは一度もないからです。

 ただ、腕や額、門や柱に書き記すというのは、単にそうすればよいということではなくて、いつも神の御言葉が目につくところにあるというほどに、主の御言葉が私たちに生活の中に息づき、常に神が神として崇められ、注意深くその御言葉を聴く心の姿勢が求められているのです。

 勿論、順調な日々ばかりではありません。逆風にさらされているようなときもあります。そんなとき、私たちの心はどうなっているでしょう。じっと主を信頼し、御言葉に耳を傾け続けることが出来るでしょうか。

 イスラエルの民はそんなとき、神に不平を言い、呟きました。時には強く反発し、こんな荒れ野で死にたくない、約束の地を目指すより、エジプトに帰った方がよいと言い出しました。

 冒頭の、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」という言葉(16節)は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山を目指してレフィディムに宿営していたとき、飲み水がなくて不平を言ったときの出来事を指しています(出エジプト記17章1節以下)。

 そのときモーセが民に、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言っています(同2節)。それは、同7節にあるように、イスラエルの民が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、主を試したからでした。

 水が与えられれば、主がおられるしるし、与えられなければ、主はおられないのだということでしょう。それも、水が与えられなければ、モーセを石で打ち殺すぞといっているような、大変緊迫した状態です。つまり、モーセが神を騙ってこんな荒れ野に連れて来て、自分たちに水も与えず殺そうとしているのではないか、と詰め寄ったわけです。

 そのとき主は、モーセに杖で石を打てと命じ、そこから水が出るようにされました。その場所をモーセは、「マサ(試し)とメリバ(争い)と名付け」ました(7節)。このように名付けられたことで、民の不信仰が重大視されていることが分かります。それは、苦難のときに神は自分たちを救って下さるかどうか、神を試すということ、あるいは、どこまで神は自分たちの不信仰、不従順を許されるのかと、神の忍耐を試すようなことでしょう。

 いずれにせよ、神の愛を疑い、試すということは、イスラエルの民は、神を愛し、信頼する心を持っていないということです。もしも神の民が、神への信頼を失い、その恵みの御業を忘れ去るなら、彼らはやがて、神に忘れられ、その恵みを失うことになるでしょう。バビロン捕囚が起こったのは、まさしく彼らの不信仰、不従順の故だったのです(15節、4章26節以下)。

 日々主の御言葉に耳を傾け、その教えを心に留め、主の目にかなう正しいことを行いましょう。主が幸いをさずけて下さるからです。

 主よ、あなたこそ私たちの神です。全身全霊をもってあなたを愛します。あなたに信頼し、御言葉に聴き従います。すべてを明け渡します。委ねます。どうか私たちを試みに遭わせず、悪しき者からお救い下さい。御名が崇められますように。 アーメン





9月26日(水)の御言葉 「彼らも子孫もとこしえに幸いを得るように」

「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守る心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。」 申命記5章29節


 5章には、「十戒」が記されています。これは、出エジプト記20章にも記されています。シナイ山で受けた戒めを、今ここにもう一度、記しているわけです。それは、約束の地に向かって進軍しようとしているイスラエルの民に、神との契約を結ばせるためでした(3節)。

 イスラエルの民は、ホレブにおいて神と契約を結んでいました(2節)。しかし、そのときの民は神に背き、御言葉に従おうとしなかったため、約束の地を見ることなく、荒れ野で死んでしまいました(1章35節、民数記14章35節、26章64節)。その子らが同じ轍を踏むことがないように、改めて十戒を語り聴かせているのです。

 4章44節以下に、「律法のまえがき」が記されています。その中に、この十戒を教えた場所について、「ヨルダン川の東で、ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンの領土にあるベト・ペオルの前に広がる谷」(同46節)と告げています。3章27,29節との関連から、ベト・ペオルは、モーセが約束の地を眺めたピスガ=ネボ山に近く、今日、ネボ山の北、シティムの南東4キロのキルベト・エ・シーク・ジャーイルが、それであろうと考えられています。

 主なる神は、かつてホレブの山に降られたのと同様、ペオルの山(民数記23章28節参照)に降り、火の中から民に語られました(4,5,22,23節)。「火と雲と密雲の中から」(22節)、「山は火に包まれて燃え上がり、・・暗闇からとどろく声を聞いたとき」(23節)、それは本当に恐ろしい光景だったことでしょう。

 民は神を畏れ、「これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます」といい(25節)、「どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください」とモーセに求め、「我々はそれを聞いて実行します」と約束しました(27節)。

 これらの言葉を主が聞かれ、冒頭の言葉(29節)をモーセに告げられました。彼らの信仰を祝福して下さったのです。私たちも、主が語られたとおり、初心を忘れず信仰に固く立ち、真理の言葉に従って命の道をまっすぐに歩み、常に主の恵みと慈しみに与ることが出来るようにと祈ります。

 ここで、ベト・ペオルとは、イスラエルの民がモアブの神バアル・ペオルを拝んだところではないかとも言われます(民数記25章3,5,18節)。ベト・ペオルとは、「ペオルの家」という意味で、ペオルの神殿があったと思われます。そうであれば、まさに民の父らが異教の神を拝む罪を犯して神を怒らせたその場所で、自分たちをエジプトの国、奴隷の家から導き出した主なる神を、おのが神として忠実に従うように、改めて命じているわけです。

 それは、主イエスが、フィリポ・カイサリアという、ヘロデ大王がローマ皇帝の像を安置する大理石の神殿を建てた町で、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられ(マタイ16章15節)、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、神の子です」と答えた(同16節)という出来事を思い起こさせます。

 それは、ローマ皇帝を神とするのではなく、主イエスこそ我が神とするというのです。主イエスはペトロの信仰告白を喜ばれ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。キリストはご自身を信じる者たちと新しい契約を結ばれ、その信仰を土台とするご自分の教会を築かれるのです。

 フィリポ・カイサリアは、ヨルダン川の水源地、ヘルモン山の雪解け水が泉となって湧き出すところです。主イエスを信じる者は、その腹から生きた水が川となって流れ出ると、ヨハネ7章36節に記されています。主イエスを信じる信仰が、そのところから川となって流れ出し、全地を潤すという象徴的な場所でもあります。

 そして、ベト・ペオルは、そのヨルダン川が死海に注ぎ込む河口の東に位置しています。そこにいる民が主イエスを信じる信仰に固く立つならば、彼らから流れ出た生きた水が死の海を清め、命に溢れるところとなることでしょう。

 主よ、あなたは私たちを罪の縄目から解放し、永遠の御国に入る導きに与らせて下さいました。その恵みに感謝し、日々御言葉に耳を傾けます。その導きに従って歩みます。主の御業に励む者として下さい。 アーメン






9月25日(火)の御言葉 「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい」

「イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」 申命記4章1節  

 4章は、28章まで続く、モーセが語り教えた「掟と法」(1節)の序文という役割を果たしています。

 アルノン川からヘルモン山に至る、ヨルダン川東部全域を占領したイスラエルの民は、すぐにも約束の地に進軍して行こうとしています。しかし、モーセはヨルダンを渡ることが出来ません(3章27節)。そこで、イスラエルの民が約束の地において守るべき「掟と法」を、ここに語り聞かせているのです。

 4章を読んで気がつくのは、「主は火の中からあなたたちに語りかけられた」という言葉が何度も繰り返されていることです(12,15,33,36節)。これは、エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイの荒れ野にいて、シナイ山に降られた主が民に語りかけたときのことと言われています(11,15節、出エジプト記19章18節)。

 火は一般に、調理、暖房、灯火、金属の精錬などに用いられますが、ときに破壊や裁きのためにも用いられます(創世記19章24節、出エジプト記32章20節、レビ記20章14節、申命記9章3節など)。特に、神の幕屋では、祭壇でいけにえを献げ、香を炊くために欠かせません。

 アロンが祭司として最初に献げ物を献げたとき、「主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くし」(レビ記9章24節)ました。それは、祭壇のいけにえを神が受け取られたしるしであり、祭壇の火は本来神から出たものということを示しているわけです。祭壇の火は絶やさず燃やし続けるようにという規定があるのは、そのためかも知れません(同6章5,6節)。

 火の中にご自分を顕され、火の中から語りかけられた神の教えは、イスラエルの民に「知恵と良識」を与えるものでした(6節)。その知恵の内容は、いつ呼び求めても、神が近くにおられるということであり(7節)、また、その神から正しい掟と法が与えられているということでした(8節)。つまり、主なる神と深い交わりがあるということ、それゆえ、正しい教えを聞くことが出来るということです。

 火の中から語りかけられたという言葉に続いて、「声のほかには何の形も見なかった」と言われています(12,15節)。そこで、神の形を見てはいないのだから、どんな形であれ、神の像を造ってはならないと、16節以下で命じられています。これが、十戒の第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章4節)の根拠といって良いのでしょう。

 さらに、神とイスラエルの民とは、神の御声を通して信仰の交わり、その関係を結んでいるということです。御声は、文字ではありません。読めば分かるという、自分の主体的な営みではありません。声を出されるお方(神)がおられ、その御声を聞く者(イスラエルの民)がいて、「御声を聞く」ということになるわけです。その意味で、「聞く」というのは、受動的な営為ということになります。

 そして、7節の「いつ呼び求めても、近くにおられる神」とは、神が近くにおられて、民の呼び求める声を聞いて下さるということですから、声を聞くということが双方向でなされることになります。また、「近くにおられる」とは、その関係の近さ、深さを示しています。

 冒頭の言葉(1節)で、「わたしの教える掟と法を忠実に行いなさい」という言葉を、原文に即して忠実に訳すならば、「聞け。わたしが教える掟と法を、行うために」という言葉になります。「聞け」(シェマー)は2人称単数・命令形の動詞です。神の教えを実行するために、注意深く聞きなさいということです。聞く信仰が求められているわけです。

 パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章16節)と言っているのは、このことだと思います。今、私たちに語りかけられる神の御声に耳を傾けましょう。神に聴いて従う者となりましょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせて下さり、有り難うございます。常に近くにおられる生ける神の御言葉を聴くことが出来ますように。聴いた御言葉に信仰をもって従うことが出来ますように。信仰はキリストの言葉を聴くことによって始まるからです。御旨を行う者とならせて下さい。 アーメン







9月24日(月)の御言葉 「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡せ」

「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。」 申命記3章26節


 ヘシュボンの王シホンが打ち破られたことで、バシャンの王オグは全軍を率い、エドレイでイスラエルを迎撃しようとしました。バシャンは、ギレアドからヘルモン山に至るガリラヤ湖東部の地を指します。約束の地に入るのに、ギレアドからバシャンに上って行く必要はないように思われます(1節)。

 そのためか、シホンの時のように、予め領地通過の許可を求める使者を送るなどのことがありません。恐らく、バシャンもアモリ人の王国だったので、撃ち払えということだったのでしょう。また、バシャンの王オグは、ヘシュボンを滅ぼしたイスラエルを見過ごしには出来なかったのでしょう。

 しかし、バシャンはイスラエルの前に完全に打ち破られ(3節)、その結果、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東部地域がイスラエルの手に渡ることになりました(8節)。モーセはその地を、求めに従ってルベンとガド、そしてマナセの子孫ヤイルに与えました(12節以下、民数記32章33節以下)。

 その後、ヨルダン川を渡って約束の地を獲得するよう、進軍の命令を与えた(18節以下)モーセは、主の前に祈りました(23節)。その祈りは、24,25節に記されています。そこにおいてモーセは、「あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました」と言います(24節)。

 今神は、イスラエルを解放し、約束の地を与えるという約束を、実行し始められた。当然、その結末を知りたい、約束が実現しているところを見たいと思うでしょう。だから、「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」と祈り願ったわけです(25節)。

 このように祈っているということは、当然、モーセ自身、ヨルダン川を渡って約束の地に入れるとは考えていないということになります。それは、1章34節以下で、モーセは良い土地に入ることは出来ないと言われていたからです(同37節)。

 ただし、その理由は、民数記20章1節以下の「メリバの水」の出来事におけるモーセの過ちの故ということではないようです。「主は、あなたたち(イスラエルの民)のゆえにわたし(モーセ)に向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった」(26節)と記されていて、つまり、イスラエルの民との連帯責任というか、監督責任のために約束の地には入れないようになったということでしょう。

 そうであれば尚更、約束の地を見たかったでしょう。そもそも、モーセが自ら願ってイスラエルの指導者になったわけではありませんでした。主に命じられ、民を約束の地に導き入れるために40年苦労し続けて、ようやくそれが叶うところまで来たのです。斥候たちが見て来た良い地(民数記13章参照)に足を踏み入れてみたかったでしょう。そこで生活してみたかったことでしょう。それが出来ないというのは、どんなに残念なことでしょうか。

 「あなたたちのゆえに」ということは、何か責任転嫁の言葉のように思われますが、しかしながら、神はそれをお咎めにはならなかったようです。イスラエルの民に対して、「わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない」と言われていましたが(1章35節)、モーセには、冒頭の言葉(26節)のとおり、ピスガの頂上から約束の地を見渡すことが許されているからです。

 ピスガについて、34章1節に、「ネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った」と記されています。ネボ山は、ヨルダン川東方のアバリム山脈の峰の一つで、ヨルダン川河口から東19キロメートルに位置する標高802メートルのジェベル・エン・ネバと同定されています。

 ここからイスラエルの全地を見渡すことは、事実上不可能です。けれども、神がそこでモーセに、イスラエル全地を見渡すことが出来るようにして下さったわけです。人には出来ないことも、神に出来ないことはありません(マタイ19章26節ほか)。

 モーセは、神が開示して下さった約束の地を見渡しながら、4章以下に「掟と法」を語り告げます。約束の地に生きる術を、荒れ野から神の言葉として語るのです(マタイ3章3節ほか)。


 主よ、あなたの御言葉こそ、私たちの道の光、私たちの歩む道を照らす灯火です。仰せの通り、私たちの足取りを確かなものとして下さい。私たちの目を開き、御業を清かに拝させて下さい。御名が崇められますように。 アーメン


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9月23日(日)の御言葉 「主が彼の心を頑なにし、強情にした」

「しかし、ヘシュボンの王シホンは、我々が通過することを許さなかった。あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。それは今日、彼をあなたの手に渡すためであった。」 申命記2章30節


 2章でモーセは、カデシュ・バルネアからゼレド川、アルノン川を越えてアモリ人の地に至り、ヘシュボンの王シホンと戦ったところを語っています。ゼレド川は、死海南端に流れ込む川で、死海南部に住むエサウの子孫(エドム人)と、死海東部に住むロトの子孫=モアブ人との国境線になっています。また、アルノン川は、ヨルダン川の支流で、モアブの地と、アモリ人、アンモン人の地の国境線となっています。

 神は、ヤコブの兄エサウの子孫のエドムの地、アブラハムの甥ロトの子孫のモアブとアンモンの地は、領地として与えない、戦いを挑んではならないと言われました(4,9,18節)。エドムやモアブ、アンモンは、イスラエルの神を拝むわけではありません。しかし、彼らにその領地を与えたのは、イスラエルの神であって、エドムやモアブ、アンモンの人々が拝んでいる神々ではないということが、明確に述べられています(5,9,18節)。

 興味深いことに、エサウやロトの子孫は、神に従わなくてもその領地が与えられていますが、神を信頼せず、その御言葉に従わなかったイスラエルの民は、約束の地に入ることを許されませんでした(14,15節)。イスラエル人だから特別な恵みが与えられ、そうでない民には祝福を与えないということではないわけです。

 神の恵みは、一方的な選びによって与えられますが、それは、すべての人々に恵みが与えられるという徴です。イスラエルは、神の恵みを証しするという使命を果たすために、神に選ばれたのであり、そのために恵みに与っているのです。

 エドムやモアブ、アンモンの地は与えないと言われた神ですが、アルノン川の北に住むアモリ人の国は、あなたの手に渡したので、戦いを挑み、占領を開始せよと命ぜられます(24節)。エサウやロトは、イスラエルとは親戚関係にありますが、アモリ人はそうでないので、パレスティナから追放されるべき存在だということなのでしょうか。

 とはいえ、アモリ人とて、神によって作られた人、民族です。彼らにも住むべき場所があり、生きていく道、生活をしていく権利を持っています。モーセも、先ず友好使節を送り(26節)、「領内を通過させて下さい。右にも左にもそれることなく、公道だけを通ります。食物は金を払いますから、売って食べさせ、水も金を払いますから、飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです」と伝えさせました。

 初めからけんか腰、宣戦布告ということではなかったのです。イスラエルに与えると言われた嗣業の地は、ヨルダン川が東境であり、アモリ人の地を取る必要はなかったからです。ですから、ヘシュボンの王シホンが、「それならどうぞ」と答えていれば、イスラエルと友好関係を保ち、ヨルダン川東部の地に住み続けることも出来たのかも知れません。

 しかしながら、シホンは全く頑迷になって、冒頭の言葉(30節)の通り、イスラエルの通過を許さず、その上、イスラエルを迎え撃つために全軍を招集しました(32節、民数記21章23節)。そして、イスラエルはシホンの全軍を打ち破り、男も女も子どもも一人残らず滅ぼし尽くし、すべての町を占領しました(33,34節)。 

 異邦人の習慣や異教の教えを持ち込ませないために、7章1節以下で、「七つの民を滅ぼせ」と命ぜられることの先取りとして、男も女も、子どもでさえも、一人残らず滅ぼし尽くすということが行われました。滅ぼし尽くすことを「聖絶」(へーレム)と言いますが、それは、焼き尽くす献げ物のように、すべてを神に捧げ尽くす行為といっても良いでしょう。

 あらためて、冒頭の言葉で、「あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にした」というのは、シホンの意志とは関係なく、突然頑固になったというようなことではないでしょう。そうではなく、シホンの強情さがイスラエルのために利用され、ヨルダン川東岸の地も嗣業の地に加えられたということだと思います(出エジプト記7章3節なども参照)。万事を益とされる神は、シホンの頑迷さでさえもお用いになることが出来るのです。

 思うに任せない現実に道が閉ざされるとき、そのこともプラスとしたもう主を信じ、すべてを御手に委ねて感謝し、御名をほめ讃えましょう。

 主よ、私の中には、あなたを悲しませるものが随分たくさんあります。御言葉によって清めて下さい。御霊の力ですべて追い払って下さい。常に主を拝し、主に信頼する心にして下さい。アーメン








9月22日(土)の御言葉 「これらの言葉を告げた」

「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザバブがあるスフに近いアラバにおいてであった。」 申命記1章1節


 今日から、申命記の学びに入ります。「申命記(Deuteronomy)」という名前は、70人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)の申命記17章18節に出てくる「デウテロノミオン(第二の律法)」という単語から来ています。もとのヘブライ語は「ミシュネ」(第二の、二倍の、写し)で、口語訳や新共同訳聖書では、文脈から「律法の写し」と翻訳しています。

 「申」という漢字には、「重ねる、繰返す」という意味があり、申命記とは、命令が繰り返されている書物ということになります。つまり、申命記は、シナイ山で与えられたものとは別の(第二の)律法ではなく、同じ律法が、約束の地を前にして、もう一度モーセの口を通して語られている(律法の写し)というわけです。

 申命記の原題は、ハッドゥバリームと言います。冒頭に「これらの言葉」(1節)と訳されている言葉です。「ハ」は定冠詞 the 、「ドゥバリーム」は「ダーバール」という単語の複数形で、意味は「言葉」 word です。定冠詞つきの「言葉」 the words で、「神の御言葉」ということになります。申命記は、モーセの口を通して語られた、神の御言葉の書なのです。

 さらに、「ドゥバリーム」は、「行動」 acts、「出来事」 events,things という意味にもなります。つまり、語られた言葉がそのまま行動、出来事になるというのです。それは、語られた言葉が、力ある神の言葉、真実な言葉だからです。

 神は、その口でお語りになられたことを、御手をもって実行されます(列王上8章20節、24節)。「光あれ」と神が言われると、光が出来ました(創世記1章3節)。

 そして神は、ご自身の愛を私たちに伝えるために、主イエスをお遣わしになりました。そのことについて、ヨハネによる福音書1章14節には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記してあります。

 ここで「言(ことば)」に、「葉」をつけていないのは、「言(こと)」が「事(こと)」に通じ、神の言葉が現実のものとなるということを、その文字で伝えようとしているのです。そうして、主イエスこそ、神の愛を伝えるための神の言葉であり、神の愛の言葉が姿を取って現れたのが、主イエスなのです。

 それは、逆に言えば、私たちが通常用いる「言葉」は、「葉」を茂らせているけれども、「事」に通じていない、実を結ばない、空しいものになっていないかという問いかけでもあります。これは、主イエスがエルサレムに入城される前、葉ばかり繁らせて、実のなかったいちじくを呪われ、根元から枯れてしまうという出来事を思い起こさせます(マルコ11章12節以下、20節以下)。

 柏井宣夫先生が著書「真実の言葉を求めて」の序文に、「話すとは、沈黙を破って言葉を発することである。しかし、言いっぱなしということもある。語るとは、時に『だます』という意味にもなる。これは、言葉が不十分な道具である以上に、言葉を使う人間の側に問題がある」と述べておられますが、考えさせられる言葉です。

 言葉の真実さということで思い起こすのは、「一切誓いを立ててはならない」(マタイ5章34節)と言われた主イエスの言葉です。「誓い」は、神に対して、ある行為の実行を決意し、約束することです。神と約束するのですから、誠実に履行すべきなのは言うまでもありません。

 それを主イエスが、「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、「誓う」と言わなければ、有言不実行でもよいということではありません。日頃から、言行が一致していれば、特に「誓い」も「保証」もいらないでしょう。主イエスは、「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のです(第一ペトロ書2章22節)。確かに、主イエスこそ誓いも保証も必要とされない、真実なお方でした(第二テモテ書2章13節)。

 絶えず真実をもって語りかけて下さる主イエスの御言葉に耳を傾け、キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿るようにし、何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主イエスの御名によって行い、感謝して心から神をほめたたえましょう(コロサイ書3章16,17節)。

 主よ、私がいかに不真実な人間であるか、あなたが一番よくご存知です。しかるに、あなたは私に対して、絶えず真実を語り、真実を示し続けておられます。その計り知れない愛と恵みのゆえに、心から感謝し、御名をほめたたえます。私は今、真実な方の内に、御子イエス・キリストの内にいるのです。ハレルヤ!アーメン







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