風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年08月

8月21日(火)の御言葉 「呪いをくだす水」 

「この呪いをくだす水がお前の体内に入るや、お前の腹は膨れ、お前の腰はやせ衰えるであろう.女は、『アーメン、アーメン』と言わなければならない。」 民数記5章22節


 11節以下の段落は、読み易いものではないでしょう。女性はむしろ、不快に感じるのではないでしょうか。ここには、「姦淫の疑惑を持たれた妻の判決法」が記されています。何がそう感じさせるのかと言えば、これが、妻が姦淫を犯したのではないかという夫の疑念、嫉妬心に応じる法であって、確たる証拠がないときに用いられるものだからです。

 しかも、夫が妻に対して抱いた疑念には応じていますが、逆はありません。そうしたところに、当時の女性が置かれていた立場の弱さ、危うさを見て取ることが出来ます。

 14節に、「嫉妬にかられて」と2度記されていますが、原文は、「嫉妬の霊が来て」という言葉です。この言い方は、夫が自分で妻に疑いを抱いたというのではなくて、霊が嫉妬をもたらして、その念が去らないという表現でしょう。霊の導きだから良いとか、霊の導きなら仕方ないと言いたいのではありません。疑り深いとか嫉妬心が強いということではなく、それは、神によって取り扱われるべきことであるということです。

 そこで、夫は妻を祭司のところに連れて行き、献げ物をするのです。その献げ物について、「これは嫉妬した場合の献げ物、すなわち罪の判定のための献げ物である」(15節)と言われています。「罪の判定のための献げ物」について、原文は、「不正を思い出させる記憶の献げ物」という表現が用いられています。

 神がその罪に目を留め、正しく裁いて下さいという思いを込めてささげられるもので、「大麦の粉十分の一エファを、オリーブ油を注がず、乳香も載せずに」ささげます。通常、穀物の献げ物にはオリーブ油を注いだり、乳香を載せてささげます(レビ記2章参照)。それをしないのは、贖罪の献げ物と同様にみなされているわけです(同5章11節)。

 祭司はまず、女性を聖所の前に連れて行きます(16節)。それから、聖所の容器に入っていた水を土の器に注ぎ、そこに幕屋の塵を取って入れます(17節)。それは、「呪いをくだす苦い水」(18節)です。女性に「嫉妬した場合の献げ物」を持たせます。

 続いて、「心迷い、身を汚したこともない」と誓わせ、もしその誓いのとおりなら呪いを免れ、誓いに反して罪を犯していれば、「主がお前の腰を衰えさせ、民の中で主がお前を呪いの誓いどおりになさるように」と言います(19節以下)。その呪いの言葉を聴きながら、冒頭の言葉(22節)のとおり、女性は、「アーメン、アーメン」と言わなければなりません。

 それから、祭司は呪いの言葉を巻物に書き、そのインク文字を呪いをくだす苦い水に溶かします(23節)。そして、女性の手にある献げ物を一つかみ、祭壇で燃やします。そうして、その水を女性に飲ませます(26節)。

 科学的合理性がある方法とは思えませんが、呪いの言葉どおり、「腹は膨れ、腰はやせ衰える」という事態になれば、有罪と判定され、害を受けなければ、無罪となります。つまり、罪の判定を人がするのではなく、神に委ねるというのが、この規則なのです。

 ただ、呪いによる害を被らないとしても、聖所の容器に入っている水に幕屋の塵をとって入れたものが、健康上無害とは言えないでしょう。無実の女性がお腹を下すなどの健康被害を受けると、有罪とされてしまうのでしょうか。こうしたところが、何とも割り切れない思いにさせるのです。

 この規則に則って実際に罪が判定されたという記事はありませんが、しかし、この規定が設けられたということは、聖なる民の間に性的な乱れがあったということです。当然、姦淫は一人で出来ることではありません。相手があります。双方が裁かれなければなりません。そうして、家庭を破壊し、家族に悲しみをもたらす汚れが取り除かれこと、またこの規定によって姦淫の罪が未然に防がれることを期待しているわけです。

 ですから、夫の嫉妬心、猜疑心で、この方法を乱用すべきではありません。それも、夫婦の関係を破壊するものだからです。そのようなことを繰返し強要する夫に仕え、従っていきたいと考える妻はいないでしょう。痛くない腹を探られるのは、気持ちの良いものではありません。お互いに、相手に対する尊敬の心や信頼の心、何よりも愛し合う愛の心を持たなければなりません。

 私たちはお互いに弱い存在、助けを必要としている存在です。神に守られながら、互いに助け合い、支え合って参りましょう。


 神様、私たちの人生には、様々な荒れ野があります。家庭が荒れ野になってしまうこともあります。もう一度、道を造り直せるように、心を通わせることが出来るように、出来ればそのような事態に陥らないように、守り、助けて下さい。互いに愛し合い、赦し合い、高め合う関係を築かせて下さい。 アーメン







8月13日(月)の御言葉 「純粋の油で常夜灯をともす」

「イスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせ、」 レビ記24章2節


 24章の最初の段落には、「常夜灯」についての規定が記されています。常夜灯については、、出エジプト記27章20,21節にも、同様の規定がありました。

 常夜灯をともす純金の燭台は、聖所の中の至聖所に向かって左側、即ち幕屋内の南に配置されていました(出エジプト記40章24節)。「常夜灯」という名前のとおり、「夕暮れから朝まで」(3節)、幕屋の中を照らさせます。聖所では朝に夕に、主の御前に礼拝がささげられます。聖所に置かれている香の祭壇は祈りを、パンの机は神の御言葉を、そして燭台は神への賛美を象徴しているようです。

 特に、常夜灯がともされるのは、神が天地創造の初めに、「光あれ」と言われて、光が造られたこと(創世記1章3節)、それゆえ、「神は光であり、神には闇が全くないということ」(第一ヨハネ1章5節)を象徴しています。

 このことは、詩編の記者が、「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう」(27編1節)と言い、また、「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」(80編4節)と求めているところにも示されています。神が光を輝かせているとき、人は勝利を与えられて喜びと平安の中におり、その光が見えないとき、恐れと不安で神を呼び求めるわけです。

 そのことについてパウロが、「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(第二コリント4章4節)と言い、そして、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(同4章6節)と記しています。

 私たちの体をご自身の神殿としてその内に住まわれる神が(第一コリント6章19節、第二コリント6章16節)、私たちの内に「光」に象徴される主イエスへの信仰をお与え下さったことを教えているのです。

 これは、パウロ自身の体験に基づいているようです。というのは、キリストを信じる以前のパウロは、主イエスに神の栄光を見ることが出来ませんでした。そのために、キリストの福音を恥として、教会を迫害しました。しかしながら、神はパウロを憐れんで復活のキリストと出会わせ(使徒言行録9章)、パウロの内に、キリストを信じる信仰をお与えになったのです(同9章18節)。

 そして、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5章8節)と言います。これは、「わたしは世の光である」(ヨハネ福音書8章12節)と言われた主イエスが、私たちに、「あなたがたは世の光である」、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ福音書5章14,16節)と語られたことと通じています。

 私たちは、自分自身が光ではありませんが、まことの世の光なる主イエスを信じ、その主イエスを証しすることで、光の子として歩み、世の光としての使命を果たします。「世の光となれ」と言われても、なれるはずもありませんが、主は、「世の光である」と言われたので、聖霊の導きを祈り願いつつ、私たちのありのままで光なる主イエスを指し示すのです。

 常夜灯をともすのに、「オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ」なさい、と言われます。「純粋の油」とは、オリーブの実を砕いてざるに入れ、自然に流れ出た油のことだそうです。実を押し潰し、搾り出した油とは区別しています。

 これは、主イエスを証しするときに、内側から神に促され、力を受けて語ることと、私たちが自分の知恵や力、経験で語ろうとすることとを区別しているかのようです。それは、、「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」(使徒言行録1章8節)と言われているとおり、聖霊の力と導きが不可欠だからです。

 聖霊に満たされよと命じられる主の御心を受け(エフェソ書5章18節)、「天の父は求める者に聖霊をくださる」との約束を信じて(ルカ福音書11章13節)、聖霊の満たしを求めて祈りましょう。霊に満たされて、心からの賛美をささげ(エフェソ5章19節)、聖霊の力をもって主イエスを証ししましょう。


 主よ、私たちと共におられ、私たちを絶えず正しい道に導いて下さることを感謝します。主の恵み、神の愛を証しする者として整え、用いて下さい。そのために、聖霊に満たし、その力を与えて下さい。世の人々にキリストの光を輝かせることが出来ますように。 アーメン








8月12日(日)の御言葉 「彼らを仮庵に住まわせたわたしは主である」

「これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」 レビ記23章43節


 2節に、「あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に招集すべき主の祝日は、次のとおりである」とあります。原文は少々難解で、新共同訳聖書はこの節の最後の、「モーアダーイ(わたしの祝日)」という単語を訳出していません。直訳すれば、「これらは、あなたたちが彼ら(イスラエルの子ら)を聖なる集会に召集すべき主(ヤハウェ)の祝日であり、わたしの祝日である」となるでしょうか。

 イスラエルの民が「安息日」(3節以下)、「過越祭」(5節以下)、「七週祭」(15節以下)、「贖罪日」(26節以下)、「仮庵祭」(33節以下)を主の祝日として守るとき、彼らはそれを、「聖なる集会」としなければなりませんでした。つまり、聖い神のために区別された集いなのです。だからこそ、これらを「わたしの祝日」と主なる神が呼ばれるのです。

 もともと、「過越祭」は大麦、「七週祭」は小麦、「仮庵祭」は葡萄という、農業の収穫を祝う祭でした。それが、イスラエルの救いの物語と結びつき、「過越祭」は文字通り、イスラエルがエジプトから解放された「過越」の出来事(出エジプト記12章参照)を記念する祝いとなりました。

 そして、キリストが十字架につけられ、三日目に甦られたのが過越祭のときであったので(マルコ福音書14章12節、15章6節)、私たちは今日、これを「イースター(キリストの復活祭)」として祝います。また、キリストが甦られたのが週の初めの日、即ち日曜日だったので、それを記念して、毎週日曜日を礼拝の日としています。その意味では、毎週イースターを祝っているわけです。

 「七週祭」は、後に、シナイ山で十戒を授与された(出エジプト記20章)ことを祝う祭りとなりました。七週祭は、ギリシア語で「ペンテコステ(五旬祭)」と言います。この日、約束の聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちの宣教により、3千人もの人々が一度にクリスチャンとなり、エルサレムに教会が誕生しました(使徒言行録1章4,5,8節、2章1~42節)。教会では、この「ペンテコステ」を聖霊降臨日、また教会の誕生日として祝います。

 そして、「仮庵祭」は、ぶどうの収穫のために雇った人々に簡素な小屋が提供されるのを、シナイの荒れ野を旅したときの幕屋に見立て、40年の旅路を共に歩み、その必要を満たされた主を記念するのです。冒頭の言葉(42節)は、そのことを説明しているのです。

 これは、今日の「収穫感謝祭」であり、また勤労感謝の日ということにもなりますね。一週間をわざわざ仮小屋で過ごすことによって、かつての荒れ野の生活を振り返ると共に、人生はいわば「旅」であり、今与えられているものすべてが、神によって預けられているものに過ぎない、やがてそれをすべて神に返すべきときがやって来るということを、繰り返し思い起こすのです。

 仮庵祭の最後に、大祭司が大きな金のひしゃくを頭に乗せてシロアムの池で水を汲み、神殿の祭壇にそれを注ぐという儀式を行っていたそうです。それによって、神が収穫のために雨を降らせて下さった感謝をささげると共に、次の収穫のために雨が再び与えられることを祈願したのです。

 主イエスが、「(仮庵の)祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」(ヨハネ福音書7章37節)、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同37,38節)と言われたのは、雨の恵みを与えるのはご自分だと宣言されたのです。

 旧約聖書のアハブの時代、イスラエルに旱魃が起こり(列王記上17章)、その後、エリアとバアルの預言者との対決があります(同18章)。エリアが主に祈って、天から主の火が降ったとき、それを見たすべての民が、「主こそ神です」といったということです(同18章38,39節)。その後、旱魃が終りを告げ、激しい雨が降ります(同41節以下)。雨を降らせるのはバアル(雷の神)ではなく、主なる神であることが示された出来事です。

 主イエスが、「生きた水が川となって流れ出るようになる」といわれたこと、その恵みとは、雨の水に象徴的に示されている、人に命を与える「霊」であると説明されています(同39節)。私たちの人生の旅路に伴なり、その必要を満たして下さる方、私たちを神の宮としてうちに住み、真理を悟らせ、賛美をお与え下さリ、祈りに導かれる聖霊なる神に、心から感謝しましょう。

 主よ、私たちは聖霊の働きによってイエスを主と信じ、救いの恵みに与りました。今、聖霊の働きによって御言葉の真理を教えられています。絶えず御霊に満たされ、その力に与り、神の愛と恵みを、いつでも、どこでも、誰にでも、証しすることが出来ますように。 アーメン







8月11日(土)の御言葉 「奴隷も祭司の食物を食べることができる」

「祭司が金を出して買い取った奴隷はそれを食べることができる。また、家で生まれた奴隷も祭司の食物を食べることができる。」 レビ記22章11節


 22章には、「聖なる献げ物について」の規定が記されています。イスラエルの人々が主の前に奉納するいけにえは、神に献げられた物ですから、「聖なる献げ物」と呼ばれています。神のために特に区別された、とっておきのものということです。ゆえに、神に許可された者のほか、それに触れたり、また食べたりすることが出来る者はいません(2,3節)。

 10節に、「一般の人はだれも聖なる献げ物を食べてはならない。祭司のもとに滞在している者や雇い人も食べてはならない」とあります。6~7章の規定では、聖なる献げ物を食べることが出来るのは、祭司の家系につながる男子、つまり、祭司の務めを果たす者たちだけで(6章11,22節など)、たとえ家族といえども、女性や子どもには許されていなかったのです。

 しかし、冒頭の言葉(11節)を見ると、金で買われた奴隷、その家で生まれた奴隷は、食べることが許されています。そして12~13節では、祭司の娘もそれを食べることが出来たようです。このように、ここでは聖なる献げ物を食べることが出来る者の範囲が、祭司の家族、その家の者と、すこし拡げられています。

 祭司でなくても、その家の者であれば、その食事に共に与ることが出来るというのは、聖書に一貫して流れている恵みの世界です。恵みとは、神が権利のない者にお与えになるものであり、受ける資格のない者がそれに与ることです。神の恵みは、決して、自分で働いて獲得した報酬などではありません。

 救いは、主イエスを信じる者に与えられる神の恵みですが(エフェソ書2章8,9節)、使徒言行録16章31節によれば、その恵みが信じる者だけでなく、その家族にまで及ぶと語られています。冒頭の言葉では、金で買い取られた奴隷、その家で生まれた奴隷も、祭司の家族の一員と認められています。ここに、神の愛があります。

 私たちは、まことの大祭司なるイエス・キリストの贖いによって買い取られた主イエスの奴隷です(ヘブライ書4章14節以下、10章10節、第一コリント書6章20節、7章22,23節など)。主イエスを信じると、主イエスが私たちの家に入って来られ、一緒に食卓を囲むことが許されました(黙示録3章20節参照)。神の家族、家の者とされたのです。

 私たちが食べることの許された聖なる献げ物とは、実に、主イエスの肉と血です。主イエスは、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と言われました(ヨハネ6章55~56節)。

 勿論、本当にイエス様の肉を食べ、血を飲むことではありません。主イエスの肉を食べ、血を飲むとは、神の御子、主イエスの命に与ることです。主は私たちのために十字架にかかってご自身の肉体を裂かれ、血を流されました。それによって私たちの罪を赦し、私たちに神の子どもとなる特権、力をお与え下さいました(同1章12節)。

 命に与るとは、イエス様を自分の救い主、人生の主として心に受け入れること、そして主と親しく語らい、交わることです。私たちに、神の御子イエス・キリストの命を頂き、主と親しく語らい、交わることが許されたのです。なんと幸いなことでしょうか。私たちは、日毎に主と親しく交わり、日々の糧を受けるように招かれています。是非、毎日1章ずつ聖書を読んでみて下さい。そして、「神様」と祈ってみて下さい。

 この食卓は本当に豊かです。かつて、カナンの女性が娘の病気の癒しを主イエスに願った折り、「資格のない者に与えられる神の恵み」について、主人の食卓から落ちるパンくずを小犬が食べると語りました(マタイ15章21節以下)。主人たちと一緒に食卓について食事をする資格のない小犬にすぎない自分だけれども、食卓から落ちるパンくずで十分おなかを満たすことが出来る、それほど豊かな食卓だと言っているのです。

 主イエスは、神の恵みの豊かさ、憐れみ深さをそのように信じているカナンの女性の信仰を喜ばれました。確かに主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがありません。私たちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、私たちに必要なものをすべて満たして下さいます。そして、神は更にこの恵みの世界を広げようとしておられるのです。

 主よ、この町に神の恵みを伝えるよう、百年前、先達に伝道の働きを命じられました。今日まで、それを守り続けて来られたのも、神の恵みでした。百周年を祈念する会堂を建て、思いも新たに、主に仕えて参ります。更に恵みの世界を広げることが出来るよう、日々聖霊に満たし、伝道の力、証しの力を与えて下さい。御名が崇められますように。 アーメン






2012年度社会部夏期研修


南九州バプテスト地方連合社会部の研修会が、8月6日(月)~7日(火)、田川で行われました。今回は、炭鉱労働、強制連行、部落解放運動の足跡を訪ねるフィールドワーク、そして、田川市石炭・歴史博物館の見学並びに、ユネスコ世界記憶遺産に認定された山本作辺得兵衛さんの作品鑑賞という、盛りだくさんの内容です。

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とても暑い中、田川市営霊園に入ります。入り口に、「三井田川鉱共同墓地」という碑が立っていました。炭鉱で亡くなられた方々の共同墓地が、閉山後、田川市に譲渡されて、市営霊園となっているわけです。

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その中に、「在日」の方のものと思われる墓石があります。なかには、何の変哲もない石がありました。これは、「ボタ」(石炭にならなかった石)です。「在日」の方の証言で、これが墓石だということが分かったそうです。しかし、正式にお墓として登録してあるようなものではないらしく、いつの間にか石が脇に転がされて、他人の新しく立派なお墓が建てられてしまったというようなケースもあるようです。

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ここに、翔魂之碑が建てられ、朝鮮半島から強制的に連行され、炭鉱労働に従事させられた人々のことが記録されています。

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移動途中、下伊田西地区というところを通りました。ここは、かつて三井六鉱炭鉱住宅があった場所です。写真は、説明を受けなければ、これがボタ山だと気づくことは出来ないでしょう。閉山後、およそ半世紀を経過して、草も生えないと言われていたボタ山が、木の生い茂る山になっています。
下伊田地区というのは、同和地区とされるところですが、ここは、いわゆる家畜の屠殺にかかわる仕事をしていた人々ではなく、炭鉱で働くために余所から移り住んで来た人々で、地の人々から「余所者」として差別されたということだそうです。つまり、昭和の時代になって出来た同和地区なのです。

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浄土真宗大谷派・法光寺住職が、市内に散在していた「在日」の遺骨を集め、供養して来られました。
そこに、朝鮮総連が供養塔「寂光」碑を建てました。

添田町の「筑豊」塾に、芝竹夫先生を訪ねました。芝先生は、長年「在日」問題に取り組み、また、同和地区の子どもたちと向き合って来られました。
「筑豊」塾は、そのような「筑豊」の問題を考えるための、自宅の一角に開いた塾の建物です。
残念ながら、写真は撮れませんでした。

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夜、田川の同和教育推進協議会のメンバーと一緒に、ホルモン鍋をつつきました。とても美味しかったです。
また、有意義な交わりが出来ました。

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二日目、田川市石炭・歴史博物館に行きました。ここに、縦坑の櫓が保存されていました。

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高さ45メートルの煙突が2本、立っています。縦坑のエレベーターを動かすため、石炭を燃やして発電していました。そのための煙突です。
炭坑節で、「あんまり煙突が高いので」と歌われているのは、この煙突のことです。「三池炭鉱の上に出た」ではなく、「三井炭鉱(伊田の縦坑)の上に出た」というのが、本来の歌詞だったそうです。三井鉱山田川鉱は1964年に閉山し、炭鉱労働者が三池に移されることになって、それで、「三井炭鉱・伊田の縦坑」が「三池炭鉱」と変えられて歌われ、それが全国に広まったという説明でした。博物館の前に、「炭坑節発祥の地」の碑が立っていました。

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博物館の後ろの丘の上に、韓国民団が建てた韓国人徴用犠牲者慰霊碑があります。

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碑の前には木槿(ムクゲ)が植えられ、ちょうど白い花を咲かせていました。木槿は、韓国では無窮花(ムグンファ)といい、韓国の国花となっています。小さな枝からでも根を下ろし、花は毎朝のように咲き替り、初夏から秋にかけて咲き続けるという、逞しい木です。日本の植民地支配の時代、主権を奪われた朝鮮半島の人民が、この花を、不屈の根性を示す自分たちの象徴としたそうです。

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博物館、石炭公園で、ボランティア・ガイドの方に三井鉱山田川鉱についての説明を受けました。博物館2階に、ユネスコ世界記憶遺産に認定された山本作兵衛さんの炭鉱労働を記録した絵が展示されていました。几帳面に描かれた記録画で、戦前、戦中、戦後の炭鉱労働を、労働者自らの経験に基づいて描いた絵ということで、記憶遺産に認定されたそうです。

見学終了をもって、今回の研修会・フィールドワークは終わりました。よく準備された研修で、有意義な学びをさせて頂くことが出来ました。会を準備された連合社会部主事の城野先生、田川同推協の先生方に心から感謝致します。


8月10日(金)の御言葉 「聖所を汚してはならない」

「ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。」 レビ記21章23節


 21章には、「祭司の汚れ」について記してあります。

 1節に、「親族の遺体に触れて身を汚してはならない」とありますが、これは、葬儀に参列することを禁ずる戒めです。死や遺体が、人に汚れをもたらす最大の要因と考えられていたようです(エゼキエル44章25節、民数記19章11節以下)。ただし、父母や息子、娘、兄弟など近親の葬儀は、例外として許されました(2,3節)。

 5節の、「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたり」というのは、哀悼の意を表す異教の習慣だったようです。このことは、申命記14章1節において、祭司だけでなく、一般の人々についても禁じられています。

 しかし、「聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者」(10節)、即ち選ばれた大祭司だけは、「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」(11節)と定められています。民の代表として聖所で仕える者が、汚れによって職務が全う出来なくなることを禁止し、どんなときでも自らを清く保つという模範を示すことが求められたのです。

 神の定めといえば、守るほかないのかもしれませんが、人の命を限りあるものとし、その死を悼む思いを人の感情の中に作られたのも神であれば、葬儀を行い、哀悼の意を表すことを禁ずるというのは、なかなか腑に落ちるものではありません。

 主イエスが、ベタニアで兄弟ラザロの死を悼んでマリアが泣いているのを御覧になって激しく心を揺さぶられ、ご自身も涙を流されました(ヨハネ福音書11章35節)。その後、ラザロを生き返らせて、御自分が人に命をお与えになるメシアであることを示されます(同38節以下)。主イエスにとって、死は、触れてはならない汚れというのではなく、最後に神の力によって打ち破られるべき敵なのです。

 17節以下には、先天性のものか後天性のものかを問わず、障害のある者は誰も、祭司職に就くことを禁ずる規則が記されています。献げ物が「無傷」のものでなければならないように(1章3節など)、それを神にささげる祭司も無傷でなければならないと考えるわけです。

 冒頭の言葉(23節)は、障害を「汚れ」と考えていることを示しており、それゆえ、聖所の中に入り、祭壇に近づいて神を礼拝する場所を汚してはならない、というわけです。「障害」について、18節以下に10ほどのケースが挙げられていますが、後期ユダヤ教においては、これを142にも拡大したと言われます。

 サムエル記下5章6節以下の記事において、ダビデの命を憎む者として、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」と言われるようになったとされていることも(同8節)、この流れの中にあると思います。ただ、ここにあるのは、まさに障害者に対する不当な偏見、差別です。

 このような規定があるので、「生まれつき目の見えない人」を見かけたときに(ヨハネ福音書9章1節)、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(同2節)という質問が、弟子たちの口から出て来るのです。

 それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)とお答えになられました。

 弟子たちは、障害の原因が誰の罪かと尋ねたのですが、主イエスは、その障害が罪から生じたという考えを明確に否定して、神がその人に障害をお与えになった真の目的を示されたのです。即ち、生まれつき目が見えないというその障害は、神の業が現れるためにその人に与えられた神の賜物だと言われたわけです。

 即ち、目の見えない人にとって、その障害が、神から遠ざけられる、まさに文字通りの「障害」なのではないこと、むしろ、神が彼に目を留め、彼を通して神の御業が表わされるための賜物なのです。それは、ヨハネの記事においては、主イエスが彼に近づいてその目に触れ、シロアムの池に遣わしてその目を癒されるという形で表わされました。

 その意味で、目の不自由な方々が、「目が見えないことは不自由はあるが、決して不幸ではない。むしろ、神を知ることが出来たので、目が見えなくてよかった」と言われることは、晴眼者の私には味わうことの出来ない神の恵みを証しして下さっているのです。

 真理に目が開かれ、真理によって自由にされるため、主の御言葉に耳を傾け、御言葉に留まるものになりたいと思います(ヨハネ8章31,32節参照)。

 主よ、御子イエスを遣わして、文字に縛られて人を裁き、不自由にする心から、私たちを解放して下さったことを感謝します。あなたが創造されたものはすべて、はなはだ善いものであることを、いつも教えて下さい。表されようとしている神の御業を見落とし、見逃すことがありませんように。 アーメン






8月9日(木)の御言葉 「わたしのものとするため諸国の民から区別した」

「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」  レビ記20章26節


 主なる神は冒頭の言葉(26節)で、イスラエルの民をご自分のものとするために諸国の民から区別した、と言われました。だから、聖なる者となり、自分を清く保つために、汚れた動物などを食べたり、それに触れたりしてはならない、清いものと汚れたものとをはっきり区別せよというのです(25節)。

 これは、諸国の民から区別される前のイスラエルは、決して特別な存在ではなかったということです。区別される前から特別な存在であれば、わざわざ、「諸国の民から区別した」という必要はありません。つまり、イスラエルは清い民であったから選ばれ、特別視されたというわけではないのです。であれば、彼らが選ばれた理由は、彼らの側にあるのではなく、一方的な神の恩寵、恵みと憐れみによる選別と言ってよいのでしょう。

 そうすると、一つのことが気になります。それは23節で、「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない」と言われていることです。イスラエルが特別な存在ではなかったということは、当時のイスラエルと他の諸国の民の風習に、大きな違いはなかったことでしょう。であれば、他の国々の風習に習わない道を歩むというのは、決して容易いことではなかったのではないでしょうか。

 22節で、「あなたたちはわたしのすべての掟と法を忠実に守りなさい」と告げ、そして25節で、「あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない」と命じています。神の教えに従って、清いものとそうでないものとを区別し、汚れたものから離れた生活をせよというわけです。

 しかしながら、イスラエルの民は、神の御言葉に忠実に歩むことが出来ませんでした。むしろ、御言葉に背き続ける道を歩みます。繰返し預言者が遣わされ、背きの罪を離れるよう警告しますが(列王記上17章、列王記下17章など参照)、結局、神に導き入れて頂いた約束の地カナンから、叩き出されるようなことになってしまうのです。人は、神の御言葉を離れて、おのが道を清く保つことは出来ないということです。

 そこで示されるのが、詩編51編のダビデの詩です。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(4節)と願った後、12節で、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と求めました。
自力で清い道を歩むことが出来ません。だから、罪咎が清められるだけでは、また同じことを繰り返してしまいます。

 たとえが不適切かも知れませんが、放漫経営のために倒産寸前の会社の債権をすべて肩代わりしてくれる人がいて、それで倒産を免れても、経営陣が刷新されなければ、結局また倒産に追い込まれてしまう結果となるでしょう。

 そこで、経営陣を刷新し、新しい方法で会社を再建して下さいと願うのです。それが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」という祈りなのです。これは、実に虫のいい祈りでしょう。しかしながら、それ以外に、罪人が清い生活に戻り、その歩みを保つ道はないということなのです。

 このことについて、預言者エレミヤがエレミヤ書31章31~34節で、「新しい契約」について告げた後、32章39,40節で、「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」と預言しています。

 この預言は、神の御子イエスが十字架で血を流されることによって、成就しました(ヘブライ書9章15節以下)。キリストの血潮により、罪が清められたのです。また、第二コリント書3章18節に、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。聖霊の力で新たに造り替えられるのです。

 主の御前に謙り、御言葉に従って歩むことが出来るように、主に信頼し、絶えず「憐れみと祈りの霊」(ゼカリヤ書12章10節)を注いで頂きましょう。

 主よ、渇いている者に命の水の泉から価なしに飲ませて下さる恵みを感謝致します。求める者には、聖霊をお与え下さいます。聖霊に満たされ、力を受けてキリストの証し人となることが出来ますように。今日は長崎の日、核の惨状をこれ以上繰り返すことがありませんように。 アーメン








8月8日(水)の御言葉 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 レビ記19章18節


 2節に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とあります。これは、神聖法集(17~26章)のテーマであると共に、レビ記の中で繰り返し語られる大きなテーマです。

 「神は愛なり」(第一ヨハネ4章8節)と言われるように、主なる神は愛なるお方、慈しみ深く憐れみに富むお方でもあるのですが(歴代誌上16章34節など参照)、しかし、イザヤが預言者として召されるとき、セラフィムが互いに呼び交わし、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と唱えたことも、よく知られています(イザヤ書6章3節)。

 主は、罪に染まない聖い神であられます。けれども、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と唱えられる方は、御自分を聖く保つため、天の彼方に孤高を貫かれるというのではありません。神の清さは、愛の中に、愛を通して表わされます。

 そのことが、父と母を敬うこと(3節)、あるいは、貧しい者や寄留者を配慮することなどを通して(9節以下)、表わされています。また、「隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(13節以下)とも言われます。

 イスラエルの民をご自分の民として選ばれたのは、恵みと憐れみによって選ばれたイスラエルの民が、聖なる者としてその範を垂れることにより、すべての民に神の恵みと憐れみが表されるためだったのです。そうして、罪を憎まれる聖い神は、私たちを愛して、御子キリストを贖いの供え物とされ、罪の呪いから解放して下さいました。この神の御愛のゆえに、私たちが聖なる者として歩むように、求められるのです。

 ペトロが、「聖なる生活をしよう」という段落の中で(第一ペトロ1章13節以下)、「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(同22節)と告げているのも、聖さが愛を通して表わされることを示しています。

 19章を通じて、「聖なる者となれ」と示されているところに、冒頭の言葉(18節)で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉が記されているのも、同じ消息です。

 主イエスが、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねられて(マルコ福音書12章28節)、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました(同29節以下)

 ここで、「隣人を自分のように愛しなさい」とは、口語訳の「自分を愛するように、隣り人を愛しなさい」という、自分を愛する自己愛を土台として、隣人を愛しなさいと命じているのではありません。岩波訳では、「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう」と訳しています。

 私たちを愛して下さる主イエスは、「人の子には枕するところもない」と言われていました(マタイ福音書8章20節)。それは、家を所有出来ない貧しさと共に、自分のことを考えている暇もないということを示しています。パウロがそれを、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ書2章6,7節)と記しています。

 まさしく主イエスは、御自分のことは顧みず、私たちのことをご自分と置き換え考えて下さり、救いの御業を完成して下さったのです。主の恵みと導きに感謝し、主に愛されている者として、隣人を自分のように愛する者とならせて下さいと、祈り求めて参りましょう。

 主よ、あなたの恵みと慈しみは、永久に絶えることがありません。その深い憐れみにより、私たちは御救いに与リました。神の子とされたことを感謝し、絶えず主の愛と導きに応える信仰の歩みが出来ますように。御心が、この地になされますように。 アーメン



8月7日(火)の御言葉 「子をモレク神にささげてあなたの神の名を汚すな」

「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」 レビ記18章21節


 3節に、「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない」と言われ、その風習とは、6節以下を見れば、近親相姦をはじめ、乱れた性的な関係のことであることが分かります。

 新共同訳聖書は、18章に「いとうべき性関係」という小見出しをつけています。イスラエルの民には、かつて奴隷とされていたエジプトや、これから獲得することになる約束の地とその周辺に住む異国民らの、乱れた風習に染まず、神に選ばれた聖なる民として生きることが求められているのです。

 25節に、「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである」とあり、イスラエルの民がカナンの地に定住出来るのは、先住民がその罪によって地を汚して罰を受け、追い出されたためだというわけです。ということは、彼らがエジプトやカナンの民の風習に従って歩めば、彼らも罰を受けて追い出されてしまうということになります(28節以下)。

 この規定の中で、冒頭の言葉(21節)だけは、性行為と直接関係がないように見えます。モレク神に子どもをささげるなというのは、偶像礼拝禁止条項です。それがここに入れられているのは、偶像礼拝が神との関係の乱れということで、乱れた性的関係との類似ということも出来るでしょうけれども、そうであるなら、カナンの代表的なバアルやアシェラの礼拝が取り上げられるべきです。

 「モレク」というのは、ヘブライ語の「王」(メレク)という言葉に、「恥ずべきもの」(ボーシェス)の母音をつけて発音したもので、「恥ずべき王」という意味になるかと思われます。これは、列王記上11章7節では、アンモン人の神とされており、同33節ではミルコムとも呼ばれています。あるいは、それが正しい呼び名なのかもしれません。

 モレクの神殿は、エルサレムの南西ベン・ヒノムの谷トフェトに築かれました(エレミヤ書7章31節)。それは、ソロモンにより、異教徒の妻たちのために建てられたのです(列王記上11章5,8節)。ここは、エルサレムの町のごみやガラクタを焼却処分するところで、その火が消えることはなかったことから、ヒンノムの谷(ゲイ・ヒンノム)=ゲヘナとして知られるようになり、やがて、ゲヘナの火といえば、神の永遠の裁きの象徴となったのです。

 この火の中に、自分の子どもを投げ込んで、モレク神にささげるという祭儀が行われていました。大切な子どもをささげることで、なんとしても願い事を神に叶えてもらうという目的があったのです。その祭儀禁止がここに記されているのは、子殺しの忌まわしさもありますが、さらに、乱れた性的関係によって産み出された子、あるいは中絶した胎児をいけにえとするというものであったからかも知れません。

 そう考えると、モレク祭儀がここに入れられているわけが分かります。そして、この祭儀は、祝福されるべき正常な夫婦関係を蔑ろにし、その上、人に命をお与えになる神を冒涜するという、恐るべき罪であることが分かります。

 そして何と、ユダの王アハズ(列王記下16章3節)、同じく王マナセ(同21章6節)もこれを行っており、この罪によって繰返しその地が汚された結果、イスラエルの民は、この地から追い出され、亡国とバビロン捕囚という憂き目を味わわなければならなくなったわけです。

 改めて、イスラエルが自分の知恵や力で神の民となることは出来ません。人が自分でエデンの園を作り出すことは出来ないのです。イスラエルが神の民として選ばれたのは、ただ神の憐れみです(申命記7章6節以下参照)。

 エゼキエル書36章25,26節)で神が、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と宣言されています。

 これは、エレミヤが、「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と語った「新しい契約」預言(エレミヤ書31章31節以下、33節)と同じ内容の言葉でしょう。

 それはまた、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。・・・御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(詩編51編12,14節)と求めた祈り願いに対する主の応答ともいうべきものです。

 主なる神は、求めるものに得させ、捜すものに見出させ、門を叩くものには開いてくださるよいお方だからです(マタイ7章7節以下)。

 主よ、何よりも先ず、神の国と神の義を求める者とならせて下さい。絶えず御言葉を通して清められ、新しい霊で満たして下さい。心から、霊と真実をもって主を礼拝することが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン






8月6日(月)の御言葉 「主の幕屋の前で献げ物として」

「それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。」 レビ記17章4節


 17~26章は、レビ記の第二部といった構成になっており、新共同訳聖書にあるように、「神聖法集」と呼ばれています。このような呼び名がつけられるということは、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19章2節)というのが、第二部全体の主題であるということです。

 17章1節以下の段落には、「献げ物をささげる場所」という小見出しが付けられています。3節以下を読むと、牛や羊、山羊を屠る場合は、常に献げ物として主にささげなければならないかのように見えます。

 しかしながら、5節の、「それゆえ、従来イスラエルの人々が野外で屠っていたいけにえは云々」という言葉や、7節の、「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」という言葉から、この段落にある家畜の屠殺が、単に食用に供するものなどでなく、いけにえとしてささげるためのものであるということが分かります。

 主の幕屋以外での家畜の屠殺を禁ずる規定があるということは、主の幕屋以外の場所で家畜を屠り、献げ物をささげるということが行われていたということになります。しかも、「山羊の魔神」と呼ばれるような異教の神にいけにえをささげていたということであるならば、それは明確に、十戒の第一、第二の戒め(出エジプト記20章3~5節)に背く罪です。

 ここで、「山羊の魔神」と訳されているのは、「雄山羊」(サーイール)の複数形です。淫行を行った雄山羊に献げ物をするという表現から、これは、雄山羊の形をした異教の神々のことを指しているようです。

 歴史家ヨセフスの著書に、エジプトに山羊やその他の家畜を拝む慣わしのあったことが記されているそうです。祭司アロンが金の子牛像を造って神として拝ませたことがあったように(出エジプト記32章)、雄山羊の形をした偶像を拝むということがなされていたのでしょう。

 主の幕屋以外での献げ物を禁じることで、神を礼拝する場所は主の幕屋だけということになり、それによって、異教の偶像にいけにえをささげて、それを拝むのを止めさせようとしているわけです。特に、冒頭の、「主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者とみなされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる」という言葉(4節)で、それがいかに重大な罪であるかを示しています。

 その意味では、当然、どこで家畜を屠るのかということではなく、何のために家畜を屠るのか、それを献げ物とする場合、誰に対して献げ物をしようとしているのか、誰を礼拝しようとしているのかが問われています。そして、イスラエルの民は、そのような規定が設けられる必要があるほど、十戒に背き、異教の神礼拝に熱心になっていわけです。

 サマリアの女が主イエスに、「わたしどもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と言った時(ヨハネ4章20節)、主イエスは、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と答えられました(同21,23節)。

 サマリアの女は、ゲリジム山とシオンの山、どちらで神を礼拝すべきなのかと問うたわけですが、主イエスは、神礼拝に必要なのは場所ではない、どのように神を礼拝するのかということが重要だと教えられたのです。それを、続く、「なぜなら、父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」という言葉で強調しておられます(同24節)。

 それは、私たちを新しく生まれさせる聖霊の働きを通し、真理なる主イエスを信じる信仰によって、神を礼拝することです。その意味では、聖霊と主イエスと父なる神、三位一体の神を礼拝することが、まことの礼拝ということになりますね。

 日ごと夜ごと、私たちの心という臨在の幕屋で、私たちと共にいて下さる主イエスを仰ぎ、聖霊に満たされて詩編と賛歌と霊の歌により、感謝して心から神をほめたたえる賛美のいけにえを献げましょう。

 主よ、霊によるあらゆる知恵と理解によって御心を悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、主をますます深く知ることが出来ますように。神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶことが出来ますように。特に、広島の日の今日、二度と世界で被爆者を出さない決意が出来ますように。 アーメン






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