「この呪いをくだす水がお前の体内に入るや、お前の腹は膨れ、お前の腰はやせ衰えるであろう.女は、『アーメン、アーメン』と言わなければならない。」 民数記5章22節
11節以下の段落は、読み易いものではないでしょう。女性はむしろ、不快に感じるのではないでしょうか。ここには、「姦淫の疑惑を持たれた妻の判決法」が記されています。何がそう感じさせるのかと言えば、これが、妻が姦淫を犯したのではないかという夫の疑念、嫉妬心に応じる法であって、確たる証拠がないときに用いられるものだからです。
しかも、夫が妻に対して抱いた疑念には応じていますが、逆はありません。そうしたところに、当時の女性が置かれていた立場の弱さ、危うさを見て取ることが出来ます。
14節に、「嫉妬にかられて」と2度記されていますが、原文は、「嫉妬の霊が来て」という言葉です。この言い方は、夫が自分で妻に疑いを抱いたというのではなくて、霊が嫉妬をもたらして、その念が去らないという表現でしょう。霊の導きだから良いとか、霊の導きなら仕方ないと言いたいのではありません。疑り深いとか嫉妬心が強いということではなく、それは、神によって取り扱われるべきことであるということです。
そこで、夫は妻を祭司のところに連れて行き、献げ物をするのです。その献げ物について、「これは嫉妬した場合の献げ物、すなわち罪の判定のための献げ物である」(15節)と言われています。「罪の判定のための献げ物」について、原文は、「不正を思い出させる記憶の献げ物」という表現が用いられています。
神がその罪に目を留め、正しく裁いて下さいという思いを込めてささげられるもので、「大麦の粉十分の一エファを、オリーブ油を注がず、乳香も載せずに」ささげます。通常、穀物の献げ物にはオリーブ油を注いだり、乳香を載せてささげます(レビ記2章参照)。それをしないのは、贖罪の献げ物と同様にみなされているわけです(同5章11節)。
祭司はまず、女性を聖所の前に連れて行きます(16節)。それから、聖所の容器に入っていた水を土の器に注ぎ、そこに幕屋の塵を取って入れます(17節)。それは、「呪いをくだす苦い水」(18節)です。女性に「嫉妬した場合の献げ物」を持たせます。
続いて、「心迷い、身を汚したこともない」と誓わせ、もしその誓いのとおりなら呪いを免れ、誓いに反して罪を犯していれば、「主がお前の腰を衰えさせ、民の中で主がお前を呪いの誓いどおりになさるように」と言います(19節以下)。その呪いの言葉を聴きながら、冒頭の言葉(22節)のとおり、女性は、「アーメン、アーメン」と言わなければなりません。
それから、祭司は呪いの言葉を巻物に書き、そのインク文字を呪いをくだす苦い水に溶かします(23節)。そして、女性の手にある献げ物を一つかみ、祭壇で燃やします。そうして、その水を女性に飲ませます(26節)。
科学的合理性がある方法とは思えませんが、呪いの言葉どおり、「腹は膨れ、腰はやせ衰える」という事態になれば、有罪と判定され、害を受けなければ、無罪となります。つまり、罪の判定を人がするのではなく、神に委ねるというのが、この規則なのです。
ただ、呪いによる害を被らないとしても、聖所の容器に入っている水に幕屋の塵をとって入れたものが、健康上無害とは言えないでしょう。無実の女性がお腹を下すなどの健康被害を受けると、有罪とされてしまうのでしょうか。こうしたところが、何とも割り切れない思いにさせるのです。
この規則に則って実際に罪が判定されたという記事はありませんが、しかし、この規定が設けられたということは、聖なる民の間に性的な乱れがあったということです。当然、姦淫は一人で出来ることではありません。相手があります。双方が裁かれなければなりません。そうして、家庭を破壊し、家族に悲しみをもたらす汚れが取り除かれこと、またこの規定によって姦淫の罪が未然に防がれることを期待しているわけです。
ですから、夫の嫉妬心、猜疑心で、この方法を乱用すべきではありません。それも、夫婦の関係を破壊するものだからです。そのようなことを繰返し強要する夫に仕え、従っていきたいと考える妻はいないでしょう。痛くない腹を探られるのは、気持ちの良いものではありません。お互いに、相手に対する尊敬の心や信頼の心、何よりも愛し合う愛の心を持たなければなりません。
私たちはお互いに弱い存在、助けを必要としている存在です。神に守られながら、互いに助け合い、支え合って参りましょう。
神様、私たちの人生には、様々な荒れ野があります。家庭が荒れ野になってしまうこともあります。もう一度、道を造り直せるように、心を通わせることが出来るように、出来ればそのような事態に陥らないように、守り、助けて下さい。互いに愛し合い、赦し合い、高め合う関係を築かせて下さい。 アーメン