「会衆は、あなたたちも寄留者も同一の規則に従う。これは代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちも寄留者も主の前に区別はない。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、同一の指示、同一の法に従わねばならない。」 民数記15章15,16節
15章には、「献げ物に関する補則」などが記されていますが、11~14章の民の反抗や16章のコラによる反逆という記事に挟まれて、多少違和感を感じさせられる書き方になっています。しかしながら、なぜこの記述がここに入れられているのか、という観点でよく読めば、いくつかのことに気づかされます。
先ず、「わたしが与える土地にあなたたちが行って住むとき」(2節)、「わたしが導き入れる土地にあなたたちが入り、そこから得た糧を食べるようになるとき」(18,19節)という表現が示すように、この補則が実行されるのは、今ではありません。カナンの地に定住するようになってからのことです。
というのも、「穀物の献げ物」(4節)や「ぶどう酒の献げ物」(5節)、「輪型のパン」という献納物(20節)などは、約束の地に入り、そこに定住して農耕の生活が出来るようになることが前提の話だからですです。そのように、約束の地に入らなければ実行出来ない規則がここに記されているということは、決して無意味なことではありません。
イスラエルの民は、不信仰と不従順によって神を怒らせました。14章22,23節に、「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない」と言われていました。
けれども、神はそれで、イスラエルの民を滅ぼし尽くされるというわけではありません。彼らの子孫が約束の地に入り、穀物やぶどうの収穫を得て神に感謝する生活をすることが出来るということを、この規則によって約束しているのです。
また、牛や羊、山羊などの献げ物と、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物をセットでささげるように規定されていますが(3節以下、9節以下、24節以下)、これは、レビ記23章に記されている三大祝祭日や、民数記6章のナジル人の誓願のときに特別にささげられるものでした。3節の、「特別の誓願を果たすため、あるいは随意の献げ物をささげるとき、または祝日に云々」というのは、それを示しているものです。
しかし、8節で、「和解の献げ物」として、また、22節以下、過失で律法を守らなかった共同体の献げ物としても、それらをささげるようにと、レビ記3章以下の規定が改定されています。その上、「土地で生まれた者」(13節)、即ち、イスラエルの民は勿論のことですが、「あなたたちのもとに寄留する者や何代にもわたってあなたたちのもとに住んでいる人」(14節)、つまり、異邦人や奴隷という非ユダヤ人も同様だと言われています。
出エジプト記12章43節以下の過越祭の規定で、寄留者や奴隷も、割礼を受けたなら、過越の犠牲を食べることが出来るとされていました。今回は、献げ物です。献げ物をささげるのは、神の幕屋です。幕屋は、宿営の中心におかれています。つまり、寄留者や奴隷の身分の者も、献げ物において、その中心に招かれているわけです。
そして、冒頭の言葉(15,16節)のとおり、イスラエルの民も寄留者も区別なく、同一の規則に従えと言われています。即ち、主の御言葉に従うことにおいて、主の御前に、イスラエルの民も異邦人寄留者も、同様に見なされるということです。というのも、人はすべて、主なる神によって創造されたものであり、すべては主のものだからです。
イザヤ書56章には、「異邦人の救い」が約束されており、そこに、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(同7節、マルコ11章17節)と記されています。すべての民が主を信頼し、主に祈りをささげ、そして、徹底的に主に聴き従うことを、主が求めておられるわけです。
すべての者を救って下さる主の恵みに感謝し、その導きに従って日々歩ませて頂きましょう。
主よ、私たちは先に救いの恵みに与った者として、全家族の救いを祈ります。友の救いを願います。日々の生活を通して、主の証しが出来るよう、聖霊の満たしと導きを求めます。主がこの祈りを聞いて下さることを信じて、感謝します。アーメン