風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年08月

8月31日(金)の御言葉 「あなたたちも寄留者も主の前に区別はない」

「会衆は、あなたたちも寄留者も同一の規則に従う。これは代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちも寄留者も主の前に区別はない。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、同一の指示、同一の法に従わねばならない。」 民数記15章15,16節


 15章には、「献げ物に関する補則」などが記されていますが、11~14章の民の反抗や16章のコラによる反逆という記事に挟まれて、多少違和感を感じさせられる書き方になっています。しかしながら、なぜこの記述がここに入れられているのか、という観点でよく読めば、いくつかのことに気づかされます。

 先ず、「わたしが与える土地にあなたたちが行って住むとき」(2節)、「わたしが導き入れる土地にあなたたちが入り、そこから得た糧を食べるようになるとき」(18,19節)という表現が示すように、この補則が実行されるのは、今ではありません。カナンの地に定住するようになってからのことです。

 というのも、「穀物の献げ物」(4節)や「ぶどう酒の献げ物」(5節)、「輪型のパン」という献納物(20節)などは、約束の地に入り、そこに定住して農耕の生活が出来るようになることが前提の話だからですです。そのように、約束の地に入らなければ実行出来ない規則がここに記されているということは、決して無意味なことではありません。

 イスラエルの民は、不信仰と不従順によって神を怒らせました。14章22,23節に、「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない」と言われていました。

 けれども、神はそれで、イスラエルの民を滅ぼし尽くされるというわけではありません。彼らの子孫が約束の地に入り、穀物やぶどうの収穫を得て神に感謝する生活をすることが出来るということを、この規則によって約束しているのです。

 また、牛や羊、山羊などの献げ物と、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物をセットでささげるように規定されていますが(3節以下、9節以下、24節以下)、これは、レビ記23章に記されている三大祝祭日や、民数記6章のナジル人の誓願のときに特別にささげられるものでした。3節の、「特別の誓願を果たすため、あるいは随意の献げ物をささげるとき、または祝日に云々」というのは、それを示しているものです。

 しかし、8節で、「和解の献げ物」として、また、22節以下、過失で律法を守らなかった共同体の献げ物としても、それらをささげるようにと、レビ記3章以下の規定が改定されています。その上、「土地で生まれた者」(13節)、即ち、イスラエルの民は勿論のことですが、「あなたたちのもとに寄留する者や何代にもわたってあなたたちのもとに住んでいる人」(14節)、つまり、異邦人や奴隷という非ユダヤ人も同様だと言われています。

 出エジプト記12章43節以下の過越祭の規定で、寄留者や奴隷も、割礼を受けたなら、過越の犠牲を食べることが出来るとされていました。今回は、献げ物です。献げ物をささげるのは、神の幕屋です。幕屋は、宿営の中心におかれています。つまり、寄留者や奴隷の身分の者も、献げ物において、その中心に招かれているわけです。

 そして、冒頭の言葉(15,16節)のとおり、イスラエルの民も寄留者も区別なく、同一の規則に従えと言われています。即ち、主の御言葉に従うことにおいて、主の御前に、イスラエルの民も異邦人寄留者も、同様に見なされるということです。というのも、人はすべて、主なる神によって創造されたものであり、すべては主のものだからです。

 イザヤ書56章には、「異邦人の救い」が約束されており、そこに、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(同7節、マルコ11章17節)と記されています。すべての民が主を信頼し、主に祈りをささげ、そして、徹底的に主に聴き従うことを、主が求めておられるわけです。

 すべての者を救って下さる主の恵みに感謝し、その導きに従って日々歩ませて頂きましょう。
 
 主よ、私たちは先に救いの恵みに与った者として、全家族の救いを祈ります。友の救いを願います。日々の生活を通して、主の証しが出来るよう、聖霊の満たしと導きを求めます。主がこの祈りを聞いて下さることを信じて、感謝します。アーメン







8月30日(木)の御言葉 「向きを変え、荒れ野に向けて出発」

「しかし、今はアマレク人とカナン人があの平野に住んでいるから、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。」 民数記14章25節


 パランの荒れ野、カデシュ・バルネアから、神様が下さろうとしているカナンの土地を偵察したところ、そこは本当に豊かな土地でした(13章23,27節)。けれども、先住民はとても強そうで(同28,29節)、斥候たちは、戦っても自分たちに勝ち目はないと考え、カナンの地に向かっていくことに反対しました(同31節以下)。

 この悪い情報を聞いたイスラエルの民は、エジプトか、この荒れ野で死ぬ方がまだましだ。カナンの地に行けば、自分たちは殺され、妻子は奪われてしまう。そうなる前に、エジプトに引き返そう、と言います(2~4節)。このとき、イスラエルの民にとって、エジプトの国を出たことは、神の自分たちに対する悪意としか思えなくなっていたのです。

 それを聞いた神は、もう勘弁ならない、すぐにも疫病でイスラエルを打ち滅ぼしてしまうと言われますが(11,12節)、モーセの、「神は、与えると誓った地に民を導き入れることが出来なかったため、荒れ野で殺したのだ、と人々は言うでしょう。今、わが主の大いなる力を現わしてください」(13節以下、16,17節)という執り成しの言葉を聞いて、いったん振り上げた拳をおろされます。その時に語られたのが、冒頭の言葉(25節)です。

 イスラエルの民がいるカデシュから、カナンの地はもう目と鼻の先です。そこまで来たのに、「回れ右、前に進め」という号令がかかりました。目指すのは約束の地ではなくて、荒れ野です。イスラエルの民を疫病で直ちに打ち滅ぼされはしませんでしたが、神に言い逆らった者は荒れ野で死に絶え、約束の地に入ることは出来ないと言われました(26節以下、35節)。

 神は、神を否む罪を決して蔑ろにはなさいません。神に従って約束の地に進むより、荒れ野で死んだ方がましだと、自ら語ったとおりになるのです(2節)。子どもたちも、親が神に反抗した罪の呪いを負って、40年の荒れ野の生活を余儀なくされました(34節)。神を否む者は、父祖の罪が子孫に三代、四代までも問われるのです(18節、出エジプト20章5節)。

 イスラエルの民が約束の地に入れなくなったのは、彼らが御言葉に信頼出来なかったからです。斥候の言葉を聞いて、御言葉に従うのは無理だ、問題が大きすぎる、と考えたのです。そのとき、神が小さく、あるいは、神の姿が全く見えなくなっていたのです。

 ただ、エフネの子カレブは違いました。彼は、目前の問題よりも、神の方が大きいと考えたのです。御言葉は必ず実現すると信じることの出来た者はなんと幸いでしょうか。カレブは、ヌンの子ヨシュアと共に約束の地に入ることを許されました。多数決のルールに従えば、12人中10人が反対したのですから、行かないという結論になるわけですが、肝心なのは、神の御心はどうなのか、ということです。

 荒れ野に向けて出発せよと言われていますが、荒れ野という場所が問題なのではありません。神が共におられるなら、たとえ嵐が来ようが、飲み水、食べ物がなかろうが、それが問題ではありません。神のもとにすべての問題の解決があるからです。彼らはカデシュ、その名は「聖所」という意味の場所にいました。まことの神を仰ぐなら、荒れ野でありましても、そこは神を礼拝するところとなるのです。

 荒れ野は私たちを試します。私たちが誰を頼りにしているのか、何を信頼しているのかを試します。あなたが信頼しているのは物ですか、人ですか、自分自身ですか。それとも神ですか、主イエスですか。荒れ野は、私たちが徹底的に神を信じ、その御言葉を信頼して従うことが出来るようにように訓練してくれる場所なのです。

 また、荒れ野は、裁きの場所、滅びの場所というだけではありません。明日を約束する道でもあります。子どもたちは約束の地カナンに導き入れられ、その土地を知るようになる、と約束されています(31節)。明日を信じて踏み出しましょう。明日を約束する主イエスを信じましょう。


 主よ、現実に振り回され、目に覆いが掛かってあなたが見えなくなる私たちの不信仰、不従順をお赦し下さい。いつも御顔を仰ぎ、御言葉を拝聴させて下さい。私たちを試みに遭わせず、悪しき者からお救い下さい。御言葉に信頼を置き、希望をもって前進することが出来ますように。 アーメン









8月29日(水)の御言葉 「カナンの土地を偵察させなさい」

「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」 民数記13章2節


 冒頭の言葉(2節)は、主なる神がモーセに命じられた言葉です。ようやく、約束の地が手の届くところに来ました。パランの荒れ野から、偵察隊をカナンの地に派遣します。モーセは、各部族の長を選び出しました。

 そこに挙げられた名のうち、エフネの子カレブ(6節)とヌンの子ホシェア(8節)以外は、最初で最後の登場です。それは、偵察から戻って、その土地について悪い情報を流し、共同体全体がモーセに不平を言うように仕向けたため、40年間荒れ野を彷徨い、約束の地に入れなくなってしまったからです。そのため、神は悪い情報を流した者を疫病で打ってしまわれたのです(14章36,37節参照)。

 モーセは偵察隊に、「その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否か」と命じました(17節以下)。

 けれどもそれは、主成る神が約束の地の情報を得たいからということではありません。むしろ、各部族の長に、約束の地の豊かさ、乳と蜜の流れる所を直接見て欲しい、ということだったのです。彼らは、ツィンの荒れ野からネゲブ、ヘブロン、エシュコルの谷、これらはイスラエル南方の地名です。そこから更に北方のレボ・ハマトに近いレホブまでを40日にわたって偵察しました。

 「ネゲブ」とは、「乾いている」という意味で、国の南方を示すときに用いられます。「ヘブロン」は、「連合」という意味で、以前は「キリアト・アルバ(四つの町)」と呼ばれていました(創世記23章2節)。町が形成されるほど、水が豊富にあるということになるでしょう。ダビデがここでユダ族の王となり(サムエル記下2章1節以下)、その後、全イスラエルの王となりました(同5章1節以下)。

 「エシュコル」とは「房」を意味する名で(24節)、土地の豊かさに因んでつけられものでしょう。ユダヤ南方の乾いたところから北上するにつれて、豊かな実りのある地が表れてくるということです。

 偵察隊が見たのは、確かに乳と蜜の流れるところでした。彼らはそこでぶどうを取りましたが、「一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ」(23節)と記されていて、そのぶどうの房の大きさから、実りの豊かさを示しています。彼らは、パランの荒れ野のカデシュに戻り、その旨を報告をします(27節)。

 それで、約束の地に向かって出発ということにはなりませんでした。というのは、「その土地の住民は強く、町という町は城壁で囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけ」たからです(28節)。アナク人とは、「首が長い者」という言葉から派生した「巨人」を意味するものです。ダビデと戦ったペリシテ人戦士ゴリアトは、背丈が6アンマ半(約3メートル)もあり、アナク人の子孫と考えられます(サムエル記上17章4節)。

 偵察隊が出した結論は、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々より強い」(31節)というものでした。そうして、非常に悪い情報を流します(32,33節)。しかし、この情報は事実に基づいていません。初めは、「そこは乳と蜜の流れるところでした」と報告したのに、「そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ」(32節)と評しているからです。同様に、「我々が見た民は皆、巨人だった」というのも、誇張が過ぎます。

 これは、神を怒らせ、あるいは悲しませるものです。神は、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地」(2節)と言っておられました。その土地について悪い情報を流すということは、神が下さるものは悪いものだということであり、また、その土地を手に入れることは出来ないということだからです。つまり彼らは、神の言葉は信じられない、と言っているわけです。

 確かに、目に見える現実と神の御言葉、どちらを信じ、どちらを取るかと言われて、常に御言葉に立つのは易しくないでしょう。けれども、カレブはそれをしました。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」と言います(30節)。主なる神とその御言葉への信仰が、そう語らせたのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われる主イエスを信頼し、御言葉の光の内を歩ませていただきましょう。

 主よ、信じます。不信仰の私をお助け下さい。私は自分の中に、希望や平安の根拠を持ちません。主こそ、希望の源であり、平安の源であられます。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせて下さい。 アーメン



8月28日(火)の御言葉 「主はモーセを通してのみ語られるというのか」

「彼らは更に言った。『主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか』。主はこれを聞かれた。」 民数記12章2節


 モーセに対する非難が、思わぬところから飛び出しました。それは、彼の身内、姉のミリアム、兄のアロンです。

 彼らは先ず、「モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し」ています(1節)。クシュとは、南エジプト、今のエチオピアのことと考えられています。モーセがミディアン人の祭司エトロの娘ツィポラを娶ったことが、出エジプト記2章21節に記されています。クシュ人とはツィポラのことと考える学者もあるようですが、ミディアン人をクシュ人とは呼ばないでしょう。

 同18章2節の「モーセが先に帰していた妻のツィポラ」という表現をモーセの離婚と考え、クシュ人と再婚したという解釈もありますが、その真偽は不明です。しかし、今ここに来て、なぜミリアムとアロンは、モーセを非難しているのでしょうか。

 冒頭の言葉(2節)で、彼らは「主はモーセを通してのみ語られるのか」と言い、自分たちも御言葉の取次ぎが出来るはずだと語っています。これは、彼らがモーセの指導者としてのあり方を問うているわけです。ということは、モーセの妻がミディアン人であれクシュ人であれ、異邦人の女性を妻としているモーセがイスラエルの民の指導者として相応しいのか、と非難していることになるでしょう。

 出エジプト記2章4節以下で、男児殺害の命令が出されている中、姉ミリアムは弟モーセのために見張りを務め、エジプトの王女に実の母親を乳母として紹介するなど、モーセの生い立ちに一役買いました。また、同15章20節には、「アロンの姉である女預言者ミリアム」と記されており、イスラエルの民の指導的な立場にいたことが分かります。

 また、アロンは、モーセが民の指導者として神に召された際、「自分は口が重い者だから、誰か他の人を遣わしてください」と固辞して主が憤られ、あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。・・彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」(同4章14節以下)と言われました。

 モーセがイスラエルの指導者として相応しいのかと彼らが非難したということは、自分たちが指導者としての地位を確保するという狙いがあるものと思われます。ミリアムは長女であり、末弟モーセに対して、嫉妬にも似た思いを持っていたのかも知れません。それは、ミリアムの弟アロンも同じことでしょう。

 その非難に対して、モーセは何も答えていません。しかし、彼らの非難を主が聞かれました。そして、二人を呼び出され、語られます。確かに、モーセによらず、彼らも直接に神の言葉を聞くことが出来るわけです。しかしながら、彼らが聞いたのは、神の裁きの言葉でした。「あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか」と主は言われ(8節)、彼らに対して憤り、去って行かれました(9節)。

 モーセが彼らよりも優れた指導者であるかどうか、彼らよりも能力のある指導者であるかどうか、それが問題なのではありません。誰がモーセを指導者として立てたのか、それが問題なのです。自分でその立場に立ったわけではありません。ミリアムを預言者として、アロンを祭司として立てたのは、主なる神です。同様に、モーセを立てたのも、主なる神なのです。つまり、モーセを非難することは、神を非難することです。

 だから、そのとき、「ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなって」しまいました(10節)。アロンが罰を免れたのは、そのときミリアムが主導的な立場にいたからでしょう。そして、アロンはモーセに執り成しを頼みます(11,12節)。それによってアロンも、モーセの神の立場を認めていることになります。

 ここで初めてモーセが口を開き、「神よ、どうか彼女をいやしてください」と助けを求めて叫びます(13節)。叫ぶというところに、その祈りの真剣さを見ることが出来ます。自分を非難した姉の助けを真剣に祈るところに、3節で、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と言われたその面目が表れています。

 それは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われた主イエスの御言葉に従う正しい態度でした。


 主よ、御子イエスの軛を負い、その柔和と謙遜を学ばせて下さい。そしてモーセのごとく、自分を非難する者に対し、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を祈る者とならせて下さい。私たちをして御心を行う者とならせたまえ。 アーメン








8月27日(月)の御言葉 「主の耳に達するほど激しく不満を言った」

「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を焼き尽くそうとした。」 民数記11章1節


 シナイ山のふもとからおよそ1年ぶりで旅立ったイスラエルの民は(10章11節)、次にパランの荒れ野に留まります(同12節)。兵役に就く男だけでも60万、老若男女合わせて200万を越えるであろう人々が、シナイ山のふもとの荒涼たる荒れ野で1年を過ごしたということ自体、奇跡以外の何ものでもありません。それが出来たのは、神が必要な水や食物などを与えられたからです。

 ところが、冒頭の言葉(1節)にあるように、民は神への不満を爆発させました。それが、どんな不満であったのか、そこに記されてはいませんが、4節で、「他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った」というのですから、空腹や喉の渇きから来たものだったのではないかと推測されます。

 そもそも、エジプトのゴシェンの地からカナンまで、300kmもない程度、どんなにゆっくりでも一ヶ月あれば到着出来る距離です。それを、荒れ野で既に一年以上過ごしています。ようやく旅立ったと思ったら、次の宿営地もまた荒れ野。乳と蜜の流れる約束の地に近づいているという実感がありません。むしろ、本当にそこに行き着くのかという、指導者モーセや主なる神に対する不信の思いから発せられた不満なのかも知れません。

 そこで彼らは、恩知らずにも、自分たちが奴隷として酷使されていたエジプトの方がましだったと言い始めます(5節)。即ち、「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」というのです。それは、彼らの食物が、マナしかないという状況だったからです。

 しかしそれは、神が天から降らせたパンでした(出エジプト16章4節)。イスラエルの民は、それを集めさえすればよかったのです。しかも安息日の前日には二日分が与えられ、安息日には集めに行かなくてもよいという、配慮の行き届いた給食でした。

 感謝と喜びをもって主に従うべきイスラエルの民が、その恩を忘れて不平を言うのに対して、主は激しく憤られました。ここで、「憤る」は、「鼻が熱くなる」という表現です。鼻が熱くなって、荒い鼻息と共に火を噴出したということでしょうか。主の火が燃え上がって、宿営を焼き尽くそうとします。

 旧約聖書において、火は神の臨在のしるしであり(出エジプト3章2節以下、13章21,22節)、また罪に対する憤り、神の裁きを表わします(レビ記10章2節、申命記4章24節)。そして、火は清める神の力をも示します(イザヤ6章7節、マラキ3章2,3節)。罪を裁いて焼き払い、汚れたものを清めるのです。

 それを見た民は、慌ててモーセに助けを求めます。神への執り成しを願ったのです。民はかつて、食べ物がない、飲み水がないとモーセに不平をぶつけたことがありますが(出エジプト記15~17章)、しかし、彼らはモーセが神の人であると認めていたわけです。そして、モーセが主に祈ると、火は鎮まりました。神がモーセの祈りを聞かれたのです。

 この経験で、民がすっかり神の前に謙り、その恵みに感謝して不平不満がなくなったというわけではありません。彼らは、この後も相変わらず不満を鳴らし、モーセたちを非難するのです(12章2節以下、14章1節以下、16章、17章6節以下、20章2節以下など)。神への恐れが、根本的な不満の解消にはつながらなかったわけです。そのような不従順の結果、彼らは、約束の地に入ることが出来なくなってしまいました。

 ヘブライ書4章1,2節には、「だから、神の安息に与る約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったからです」と記されています。

 イスラエルの民のみならず、私たちも、数々の約束の言葉を、神の恵みとして頂いています。神の御言葉が、それを聴いた人々と、信仰によって結びつかったということにならないよう、心して恵みの御手の下に留まり、感謝と喜びをもって御言葉の導きに従いましょう。


 主よ、「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」にならないように、絶えず憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づかせて下さい。怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐことが出来ますように。 アーメン







8月26日(日)の御言葉 「ラッパを吹くのは祭司であるアロンの子らの役目」

「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目であって、それはあなたたちが代々にわたって守るべき不変の定めである。」 民数記10章8節


 主はモーセに銀のラッパを2本作らせます(2節)。それは、音色の違うもの、つまり長さや大きさの違うラッパだったと思います。音色が違っていなければ、二つとも吹かれているのか、一つだけなのか、区別が出来ません(3,4章参照)。二つとも吹かれれば民全体を招集、一つだけだと指導者が召集されるということですから(3,4節)、区別がつかなければ、混乱してしまいます。

 そのような、民を招集するラッパとは別に、出陣ラッパもありました。それは、旅立ちのとき(5節)、また敵を迎え撃つときに吹かれました(9節)。召集ラッパと出陣ラッパの吹き方はどんなものであったのか、色々説がありますが、概ね、召集には長く1回、出陣には短く数回吹き鳴らされたということのようです。

 パウロが、「ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(第一コリント14章8節)と言っていることから、ラッパの吹き方やその音色について、当時の人々は訓練されて、よく理解していたのであろうと思われます。また、パウロは民を招集するためのラッパを、最後のときの合図に用いられるとも記しています。

 第一コリント15章51節以下では、そのラッパが鳴ると、主にあって召された者は復活して朽ちない者とされ、そのときまで生きている者は、一瞬にして栄光の姿に変えられると言い、第一テサロニケ4章16節以下でも、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られ、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、生き残っている者は空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられると言っています。

 即ち、そのラッパは単なる合図なのではなく、神の権威がそこに表わされていると見ることが出来ます。だから、冒頭の言葉(8節)にあるように、「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目」であり、「代々にわたって守るべき不変の定め」なのです。祭司たちは、神の御旨を知って民を集め、あるいは、旅立ちのラッパを吹きます。また、敵を迎え撃つ備えをさせます。

 特に、敵を迎え撃つ出陣ラッパは、主なる神に助けを求めるものでもありました。出陣ラッパが吹かれると、「主の御前に覚えられて、敵から救われるであろう」と言われています(9節)。主ご自身が立ち上がって下さり、イスラエルのために戦って勝利をお与え下さるというのです(歴代誌下13章12,14節)。

 「主の御前に覚えられる」という表現について、出陣のときだけでなく、祝日や毎月一日にささげる献げ物に向かってラッパを吹くと、神が覚えられるとも言われます(10節)。そうしなければ、神が覚えて下さらない、忘れておしまいになるというのでしょうか。なぜそうなのか明言されていませんが、それは、イスラエルの民を子ども扱いはしておられないということでしょう。

 民の必要については、求められる前から神はご存知です(マタイ6章8節)。敵に襲われたとき、助けを必要としているでしょう。しかし、出陣ラッパが吹かれ、助けが求められるまで、神は待っておられるのです。

 今ひとつは、私たちは本来、神に覚えて頂く資格も権利も持ち合わせていないということではないでしょうか。勿論神は、絶えず私たちに心を留めておられるでしょう。覚えていて下さるでしょう。むしろ、私たちの方が神を忘れ、その教えに背いてきたのです。調子のよい時には神を忘れ、自分勝手に歩んでいて、上手く行かなくなると、「私たちを覚えて下さらないのですか」と訴えるというのは、あまりに虫のよい話ではありませんか。

 その意味で、ラッパは神への祈りであり、祭司が民に代わって神の御前に謙り、その憐れみを求めて吹くのです。神はその、打ち砕かれ悔いる心を求めておられるのです(詩編51編19節)。私たちも、家族、同胞のため、その救いを求めて、恵み、導きを求めて祈りましょう。賛美のいけにえをささげましょう(ヘブライ書13章15節)。


 主よ、御言葉を感謝します。私たち、日本の同胞を顧みて下さい。台風や集中豪雨、また、震災や原発事故で罹災された方々、命を亡くされ、あるいは家を失われた方、生活が破壊された方、避難生活の中で命をすり減らしておられる方々を憐れんで下さい。助け合う心を導いて下さい。御心が地の上に行われますように。私たちを用いて下さい。 アーメン






8月25日(土)の御言葉 「雲は掟の天幕である幕屋を覆った」

「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。」 民数記9章15節


 冒頭の言葉(15節)に、「雲は掟の天幕である幕屋を覆った」とあります。この雲は、先ず、神がイスラエルを導いているということを示す徴です。イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、神は雲を使って導かれました。出エジプト記13章に、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き」(同21節)とありました。雲が柱のように立ち、その雲の柱が動いて民を導いたというように書かれております。

 また、神がそこにおられるという徴です。神が確かにおられるという証拠なのです。モーセがシナイ山の上で神様とお会いしたとき、神がそこに降って来られると、雲が山全体を覆ったと書かれております(出エジプト19章9,16,17節)。また、幕屋が完成したとき、雲が幕屋を覆い、主の栄光がそこに満ちました(同40章34節)。冒頭の言葉はそのときのことを語っているわけです。ですから、雲は、神がそこにおられるという徴なのです。

 第三に、雲は覆い包むもの、隠すものです。雲は、神の姿を隠します。神が見えないというより、清い神を見て打たれることから、わたしたちを守ると言ってよいでしょう。一方、雲が私たちを覆ったらどうなるでしょうか。何も見えなくなります。高い山に登ると、実際に雲の中に入ることがあります。そうすると、まわり一面真っ白になります。霧というか、濃い水蒸気というか。ほとんど視界が利かない状態になります。

 神はあるとき、私たちを本当に何も見えない世界に導かれます。その何も見えない状態、何も出来ないような状況で、何をするか。見ることを奪われたら、私たちはどうするでしょうか。必然的に、当然のことながら、耳を澄まします。真剣に耳で聞くという世界が開かれます。心を澄まして、聞くことに集中します。

 イエス・キリストが、これから贖いの死を遂げるために十字架に向かって歩み始めるということを公表し始められてすぐ、三人の代表的な弟子たちを連れて高い山に登られました(マルコ9章2節以下)。主イエスが山に登って行かれると、次第に光り輝く栄光のお姿に変わり、そうして、いつの間にか、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っています。

 そのとき、何が語り合われていたのかは詳らかではありませんが、そこに居合わせたペトロは、「ここに小屋を三つ建てましょう」と言います。いつまでもここに留まりましょうということです。大変興奮していて、自分でも何を言っているのか分からないという有様でした(ルカ9章2節以下)。

 ペトロがそう言っていると、雲が彼らを覆いました。何も見えなくなったのです。もう何も見えなくなったので、わけが分からなくなったのでしょうか。そうではなく、もっとはっきりと分かりました。彼らはそこで神の声をはっきり聞いたのです。

 イエス・キリストが神の子、神の愛する子どもだから、この人に聞きなさい。大切なことを聞きなさい。イエス・キリストから聞きなさい。何も見えなくてもよい。ただ、イエス・キリストから聞きなさい。そういう、信仰の最も大切な核心に触れる門戸がそのとき、ペトロたちに対して開かれたわけです。

 15節以下の段落で、「イスラエルの人々は主の命令によって旅立った」と三度記され、同様に三度、「主の命令によって宿営した」と言われています。主の御声を聞いて移動し、御声を聞いて停泊する。すべて主のご命令の通りにした。三度記すことで、繰返しそのようにした、命令の度にそうしたということを示しています。

 イスラエルの民は、確かにこの荒れ野の生活の中で、主の御声に聞き従うように、訓練されていきました。自分たちを守るものが何もないところで、御言葉に聞き従うことを学び、そして、神の御言葉は必ず実現するという恵みを味わったのです。

 私たちも同じように、主から呼ばれたら立ち上がり、行くべきところへ行き、留まるべきところに留まる。そして、なせと言われることを行う。それが、今私たちの導かれている信仰であり、神の恵みの世界なのです。

 主よ、御声をはっきりと聴くことが出来るように、御顔を仰ぐことが出来るように、私たちの信仰を整え、訓練して下さい。共におられ、内におられる真理の御霊の導きに従い、主の御言葉を守ることが出来ますように。 アーメン







8月24日(金)の御言葉 「レビ人をすべての長子の身代わりとして」

「わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。」 民数記8章18節


 8章には、「レビ人の清めの儀式」についての記述がなされています。レビ人は、祭司に仕え、臨在の幕屋での奉仕や神の箱の運搬などの務めに当たります。レビは、ヤコブ=イスラエルの三男でした(創世記29章34節)。

 レビが選ばれたのは、兄弟たちの中で取り立てて宗教的な人物だったからではありません。むしろ、それとはほど遠い存在でした。妹ディナがシケムの人々に乱暴されたことを知ったとき、二男シメオンとレビが、シケムの人々を殺し、町中を略奪するという事件を起しています。

 父ヤコブは、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」と祈っています(創世記49章5節以下)。わが子の祝福ではなく、呪いを祈っているわけです。

 そういうレビの子孫にモーセとアロンがいて、レビ一族が神の幕屋で神に仕える仕事をする者とされたというのは、全く思いがけないことでした。それは、一方的な神の恵みでしょう。なぜ、最愛の子ヨセフや末っ子ベニヤミンの一族ではなかったのでしょうか。それは誰にも分かりませんね。

 既に引退して帰国されていた米国人女性宣教師が来日された際、福岡にいた私のもとを訪ねて下さいました。彼女に、「私が牧師になると思っていたか」と尋ねると、彼女ははっきり、「いいえ」と答えてくれました。誰が牧師になると思っていたかと改めて尋ねると、長男と4男の名前を挙げました。

 その見方は、決して奇妙なものではないでしょう。誰もが、そう考えていたのかも知れません。私自身、子どもの頃、自分が牧師になるとは想像もしていませんでした。長男と4男は、今後どうなるかは分かりませんが、現在、二人とも牧師ではありません。人の見る外面的な能力や資質などと、神の選びとは、必ずしも一致しないという典型的な例ではないかと思います。

 神は17節で、「イスラエルの人々の内に生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのものである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしは彼らを聖別して、わたしのものとした」と語られていました。

 過越の時、エジプトの国の初子は、神の使いに打たれて死んだのに対し、イスラエルの長子は、その死を免れました(出エジプト記12章1節以下、29節)。その身代わりとして、小羊が屠られたのです(同3節以下)。つまり、イスラエルの長子は、羊の命をもって贖われ、神のものとなったというわけです(同13章2節、第一コリント書7章22,23節参照)。

 それを制度化して、長子が生まれる度に小羊の血をもって贖うことにしてもよかったのかも知れませんが、主なる神は、イスラエルのすべての初子の身代わりにレビ人を選んでご自分のものとされることにされました。それも、彼らを屠って祭壇にささげるというのではなく、生きて、神と民に仕える者とされたのです。

 レビという名は、「結ぶ」という意味を持っています。創世記29章34節に、ヤコブの妻レアが三番目に産んだ男の子を、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう」と言って、「レビ」と名付けたことが記されています。その名のゆえに、主がお選びになったのかも知れません。名前のとおり、レビの子孫は、神とイスラエルの民の間に立って、両者を結びつける働きをするわけです。

 ただ、神に選ばれさえすれば、それですぐにその働きを始めることが出来るというわけではありません。神は、「イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい」(6節)と言われました。そのために先ず、「罪の清めの水をふりかけ、身体全体の毛をそらせ、衣服を水洗いさせ」ます(7節)。それから、雄牛二頭とオリーブ油を混ぜた小麦粉を献げ物としてささげ、贖いの儀式を行います(8節以下、12節)。

 そうして、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し(13節)、イスラエルの人々から区別すると、彼らは主のものとなります(14節)。こうして初めて、臨在の幕屋に入って、作業に従事することが出来るのです(15節)。

 あらためて、冒頭の言葉で「レビ人」とは、私たちクリスチャンのこと、イスラエルとはすべての人々と読みましょう。それは使徒ペトロが、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言っているとおり、そしてそれが、プロテスタントで語られている「万人祭司」ということだからです。

 私たちが選ばれたのは、それを誇るためではなく、すべての人々に神の恵みを報せ、またすべての人々に仕えて執り成し、祈りをささげるためです。絶えず主の前に進み、御言葉と祈りをもって主と交わり、その使命に励む者とならせていただきましょう。
 
 主よ、私たちはあなたに選ばれる取り柄など持ち合わせていません。ただ、その恵みに感謝し、喜びをもってお仕えするのみです。私たちは不束な僕ですが、御業のために用いて下さい。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地になりますように。 アーメン








8月23日(木)の御言葉 「臨在の幕屋で、神が語りかけられる声を聴く」

「モーセは神と語るために臨在の幕屋に入った。掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から、神が語りかけられる声を聞いた。神はモーセに語りかけられた。」 民数記7章89節


 7章は、臨在の幕屋が完成した時点(出エジプト記40章、レビ記8章10,11節)に時計を戻し、まず幕屋と祭壇、その祭具に油を注いで聖別したと記されています(1節)。荒れ野の生活といえども、否、荒れ野の生活だからこそ、神と交わるために、まず清められなければならないのです。

 それから、献げ物がささげられます。それは、①運搬用牛車と雄牛(3節)、②聖所で使う器、それには油を混ぜた小麦や香が盛ってありました(13,14節など)。こうして、礼拝の奉仕に必要なものがまず整えられます。そして、③犠牲の動物がささげられます(15~17節など)。

 ここで、②と③は、12部族が全く同じものをささげています。だから、最初の部族の献げ物を書いて、後の部族については、「以下同文」と言えば、それですむはずです。しかしながら、わざわざ同じことを繰返し記しているのは、すべての民が神の御前に平等であること、また、彼らにとって献げ物をするのは喜びであり、その喜びが12回重ねられて、大変大きな喜びとなっていることを示しています。

 「献げ物」(コルバン)とは、元来「近づく、進み出る」(カーラブ)という意味の言葉です。即ち、神に近づくため献げ物をするのです。イスラエルの民は、幕屋にあって自分たちと共に歩んで下さる神に近づくことを喜びとして、多くの献げ物をしたということです。

 そうして、冒頭の言葉(89節)のとおり、神と語らうためにモーセが臨在の幕屋に入りました。そのとき、神が「掟の箱の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から」、語りかけられました。「贖いの座」(カポーレト)とは、「覆う」(キッペル)という意味の動詞から派生した言葉です。私たちの罪を神が覆って下さり、神との関係が正しく整えられたということです。

 詩編32編1節に、「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」とありますが、生け贄の血が流されることなしに、背きを赦され、罪を覆っていただくことは出来ません(ヘブライ書9章22節、レビ記17章11節)。

 「ケルビム」は、翼を持った半人半獣の神話的存在です。神が乗られ(サムエル記下22章11節)、また、その上に座す(列王記下19章15節)という記述があります。つまり、贖いの座のケルビムは、神の臨在を示していると考えられます。献げ物をもって近づく民に、神がご自身を現し、語りかけられました。そこに、親密な深い交わりが開かれたのです。

 私たちは、イエス・キリストを通して、神との新しい契約の関係に入りました。私たちには目に見える契約の箱はありません。臨在の幕屋も、目には見えません。しかし、それらのものは必要ないのです。それは、神は私たちの心に住み、石の板ではなく、私たちの心に契約の言葉を刻み込んで下さったからです(エレミヤ書31章33節、エゼキエル書36章26節も参照)。

 また、御子イエスご自身が贖いの供え物となって下いました。十字架がその祭壇です。キリストが十字架で息を引き取られたときに神殿の幕が真っ二つに裂けて、私たちが神に近づく道が開かれました(ヘブライ書10章19~22節)。はばかることなく神に近づくことが出来るようになったのです。

 そのとき私たちは何を携えて神の御前に出ましょうか。イスラエルの民が喜びをもって献げ物をしたように、喜びをもって賛美のいけにえ、唇の実をささげましょう(同13章15節)。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」という言葉もあります(ネヘミヤ記8章10節)。私たちが喜んで主を賛美するとき、主ご自身がそれを喜ばれて栄光を現して下さいます。そしてそれが信仰者にとって何よりの喜びではないでしょうか。

 「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」という言葉もあります(詩編51編19節)。主の前に謙った私たちの霊、つまり私たち自身を主が求めておられるのです。それはパウロが、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と語っていることにつながります(ローマ書12章1節)。

 主なる神は、私たちがキリスト・イエスにあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝して生活することを望んでおられます(第一テサロニケ5章16~18節)。それは、主イエスが私たちと共におられるからこそ開かれる、恵みの生活なのです。

 主よ、あなたは御子キリストをお遣わし下さり、贖いの御業を成し遂げて下さいました。その深い憐れみのゆえに心から感謝致します。御子という貴い代価をもって贖い取られた私たちの身体です。ご自身の栄光のために、この地に御旨が行われるために、その器としてお用い下さい。そのために、日々、御言葉を聞かせて下さい。御国が来ますように。 アーメン







8月22日(水)の御言葉 「ナジル人の誓願期間中」

「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。」 民数記6章5節


 冒頭の言葉(5節)に、「ナジル人」とあります。「ナジル人」とは、「聖別する、ささげる、離れる」(ナーザル)という言葉に由来し、「聖別された人、献げられた者」という意味になります。2節には、「男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となる」と言われています。即ち、このナジル人の規定は、主に献身しようとする男女に平等に適用されるわけです。

 「特別の誓願」について、先ず、「ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ブドウ液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない」(3,4節)と言われます。それは、ナジル人である期間中、飲酒などに代表される世の快楽から、決別することを意味しているのでしょう。

 アモス書2章12節に、「しかし、おまえたちはナジル人に酒を飲ませ、預言者に、預言するなと命じた」とあります。アモスが預言者として働いていたのは、ヤロブアム2世の時代です。アモスの言葉は、王ヤロブアム2世のみならず、北イスラエルの民がいかに神に反逆していたかを示しています。

 第二に、冒頭の言葉(5節)のとおり、「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない」とあります。イスラエルの民は、「もみあげをそり落としたり、ひげの両端をそってはならない」(レビ記19章27節)と命じられていましたが、祭司には、「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」と規定されていて(同21章5節)、ナジル人は祭司と同様に扱われていることになります。

 「頭にかみそりを当てない」という言葉は、母の胎内にいるときからナジル人として神にささげられていた士師サムソンが、恋人のデリラに騙されて長い髪が剃られ、力を失ってしまったという記事を思い出します(士師記13章以下、16章19節)。髪を剃られただけで力を失ってしまうなんて、まるで笑い話のようです。

 しかし、同16章20節には、「主が彼を離れられた」とあります。つまり、士師サムソンの怪力は、神がナジル人として献身しているがゆえに与えられていたもので、彼自身のものではなかったこと、それゆえ、ナジル人の誓願がいかに重大なものであったかという証拠でしょう。

 第三に、「主に献身している期間中、死体に近づいてはならない。父母、兄弟姉妹が死んだときも、彼らに触れて汚れを受けてはならない」(6,7節)と記されています。もしも、死者に触れて、献身のしるしである髪を汚したなら、頭をそって清めの儀式を行い、もう一度はじめから誓願をやり直します(9節以下)。最初の誓願期間が無効になったからです(12節)。

 ここで、一般の祭司は、「父母、息子、娘、兄弟、および同居している未婚の姉妹の場合」、その遺体に触れること、彼らを葬る儀式を行うことは許されていました(レビ記21章2節)。父母や兄弟姉妹でも触れるなと言われるのは、「聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ」た大祭司に等しい規定になっており(レビ記21章10,11節)、ナジル人になるというのは、それほどに重大な献身の出来事だということを示しています。

 主イエスから「わたしに従いなさい」と招かれて、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と願った人に対して(ルカ福音書9章59節)、主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われました(同60節)。ここに、主イエスの弟子となることは、ナジル人の誓願のような覚悟を必要としていることを見ることが出来ます。

 主イエスは、「ナザレ人」と言われます(ルカ18章37節など)。それは、ナザレの出身を意味するものですが(マタイ福音書2章23節)、それとは別に、「ナジル人」との関連を考える注解者もいます。確かに主イエスも、生まれる前から、神に聖別された存在だったからです。そしてそれは、私たちのために自らを十字架に贖いの供え物としてささげるための献身でした。

 私たちも主イエスの恵みによって救われた者として、主を畏れ、主に従うことを通して、聖霊の力により、神の国の恵みを広く証しして行きたいと思います。

 主よ、御言葉と聖霊をもって私たちを清めて下さい。常に喜びをもって、主の福音を告げ報せ、その恵みを証しすることが出来ますように。 アーメン









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