風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年07月

7月23日(月)の御言葉 「和解の献げ物」

「献げ物を和解の献げ物とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。」 レビ記3章1節


 焼き尽くす献げ物(1章)、、穀物の献げ物(2章)に続いて、3番目は、「和解の献げ物」です。

 「和解の献げ物」とは原文で「シェラミーム」と記されていて、これは複数形です。単数形は「シェレム」で、これは「シャローム」と関係の深い言葉です。その語源は、「完全、傷のないこと、調和」という意味です。つまり、和解の献げ物は、神との平和的な交わりを得、また、それを強めるためのものだということです。口語訳聖書はこれを、「酬恩祭」と訳していました。神の恩に報いるいけにえということでしょう。

 ここに「シェレム」の複数形が用いられているのは、7章11節以下の「和解の献げ物の施行細則」に規定されているように、和解の献げ物には、「感謝の献げ物」として献げる場合や、「満願の献げ物」、「随意の献げ物」として献げる場合などがあるということを示しているのでしょう。

 また、和解という出来事は一生に一度のことではありません。何度も過ちを犯します。その度ごとに和解が必要であり、そのための献げ物となれば、複数にならざるを得ません。そしてまた、神と人との間だけでなく、人と人との間の平和と調和も保たれるように、ということも示していることでしょう。

 「シェラミーム」の前に、「ゼバハ(生贄)」という言葉があります。「ゼバハ」は動物を屠ることを指しています。動物の命が神にささげられることで、神との関係、隣人との関係が回復する、整えられる、強められるということです。文字通り、動物が人のために犠牲となったわけです。

 奉納者が生贄の頭に手を置くこと(2節)、その血を取って祭壇に注ぎかけること、その後、祭壇で献げ物を燃やしてささげること(3節以下)、その煙が宥めの香りとなる(5節)というのは、「焼き尽くす献げ物」とあまり違いはありません(1章3節以下)。

 違いは、「焼き尽くす献げ物」は文字通り、動物をすべて焼いて献げるのに対し、「和解の献げ物」で燃やされるのは、「内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉」(3~5節)です。17節に、「脂肪と血は決して食べてはならない」とあるとおり、これらは神のものなのです。

 また、生贄となった動物の胸の肉と右後ろ肢は、祭司に与えられます(7章28節以下)。そして、残りの肉は、奉納した人のものとなります。即ち、和解の献げ物の生贄が、神と祭司と奉納者の三者で分かち合われ、そこで食されるのです。血を祭壇に塗り、肉は食べると言えば、過越の食事のようです(出エジプト記12章)。過越の小羊は屠られて、その血が家の鴨居と柱に塗られ(同7節)、肉は焼いて食べます(同8節)。

 神と人、その間を執り成す祭司が一つの生贄を分け合って食することで、「同じ釜の飯を食う」というような親密な関係を築くことが出来るわけです。使徒パウロが「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」(第一コリント書10章18節)と言っているのも、このことです。

 ところで、預言者たちは、献げ物について痛切に批判しています。たとえばイザヤ書1章11節に、「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」と記します。それは、献げ物が真実な、信仰の心をもってなされていない、献げ物を伴う神礼拝が、形式化、形骸化しているという批判です。

 詩編の記者が、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51編19節)と詠っているとおり、何よりも先ず主の御前に謙り、恵みをお与え下さる主を心を込めてたたえ、喜び歌いましょう。「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(第二コリント書5章18節)。その使命を忠実に果たして参りましょう。


 主よ、あなたは私たちを救うために独り子を犠牲とされました。そして、私たちに御子を信じる信仰を与え、神の子として下さいました。その保証として、神の霊が授けられ、あなたに向かい、アッバ父よ、と呼ぶことが許されています。御霊の導きとその力により、委ねられた和解の務めを全うすることが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン






7月22日(日)の御言葉 「契約の塩を献げ物から絶やすな」

「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」 レビ記2章13節


 2章では、「穀物の献げ物」について規定されています。1節によれば、「上等の小麦粉を献げ物としなさい」というのですから、小麦や大麦を収穫してそのままというのではなく、粉に挽いてから献げるわけです。「それにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ」ます。ここに献げる量などは記されておりませんが、穀物の収穫に対する感謝を込めて献げられることを考えると、あまり少量ではなかったでしょう。

 そして、小麦粉にオリーブ油を注いだのは、これでパンや菓子を作るためでしょう。また、小麦粉の上に載せられた乳香は、決して安価なものではないため、献げ物をする者(奉献者)にとって、穀物を献げる以上に犠牲を伴うものであったと思います。

 上等の小麦粉をささげるだけでなく、それをかまどや鉄板で焼いたもの、鍋で蒸したものをささげることもあります(4,5,7節)。そのときに、「酵母を使わずに」(4,5節)焼きます。11節にも、「主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない」と記されています。

 酵母を入れないということについては、エジプト脱出の際に、急いで出立しなければならず、道中の食料を用意する暇もなかったため、酵母を入れずにパン菓子を焼いたことを記念して(出エジプト記12章39節)、過越の祭りに続く除酵祭を行う(同13章3節以下)ということを思わせます。

 また、酵母による発酵が腐れと見なされていたようです。そしてそれは、私たちの生活の中にいつの間にか忍び込んで来る罪の力を示しているとも考えられます。これは主イエスが、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)と言われたことにも通じています。

 9節に「蜜の類」という言葉もあります。これは、蜂蜜ではなく、果汁のことではないかとする解釈もあるようですが、いずれにせよ、それは発酵するものですから、酵母と並べて言及されているわけです。

 ただ、12節には、「それらのものは、初物の献げ物として主にささげてもよい」と記されています。これは、神が罪に充ちた人間の献げ物でも、喜んで受け入れて下さる証拠と考えられます。

 2,9節の「しるし」(アズカーラー)は、語源がヘブライ語の「覚える、思い起こす」(ザーカル)という言葉ですから、神の救いの御業を絶えず思い起こして感謝のしるしとして献げると解することが出来ます。酵母を使わずにパン菓子を焼いて神に献げるとき、民はいつも、エジプトから救い出して下さった神の愛と恵みを思い出すわけです。それはまた、神が奉献者を覚えて下さるための献げ物という意味でもあると思われます。

 冒頭の言葉(13節)で、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」と言われています。塩は味の変わらないものですから、「あなたの神との契約の塩」という言い方も、神との間の変わらない契約関係を示すものと言ってよいでしょう。

 また、塩は調味料としてだけでなく、防腐の役割も果たします。預言者エリシャが、水質の悪い水源に塩を投げ込んで、「この水を清めた」と言ったのは、塩の清める働きを言っているのです(列王記下2章19節以下)。

 主イエスが、「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われたのは、私たちがその役割を果たすことを主が期待しておられるということです。けれどもそれは、私たちに塩としての清めの力があるということではありません。「あなたがたは地の塩である」と言われる主イエスご自身がその力を有しておられ、主に信頼し、御言葉に従う者を通して、その力を発揮させようとしておられるのです。

 その意味で、塩は、主なる神に対する信頼、信仰の心ということも出来ます。感謝の献げ物をするときに、主を信頼する信仰の心を添えるということです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブライ書11章6節)。絶えず新しい心で、感謝と喜びをもって主に従いましょう。

 主よ、冷たくも熱くもない、生温い信仰を悔い改めます。いつもあなたを私たちの心の王座に迎えます。私の内に入り、絶えず共に食する恵みに与らせて下さい。信仰をもってあなたに賜物を献げ、時間を献げ、そして奉仕を献げささげます。御業のために用いて下さり、地の塩としての使命を全うさせて下さい。 アーメン





7月21日(土)の御言葉 「焼き尽くす献げ物とする場合には無傷の雄をささげる」

「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き」 レビ記1章3節


 今日から、レビ記を読み始めます。レビ記には、神の民が守るべきいけにえの献げ方や儀式の様々な規定などが記されています。それが正しく行われるように指導する責任が祭司・レビ人にあったということで、「レビ記」と命名されたのです。

 元来、ヘブライ語聖書では、冒頭の言葉を書名とします。レビ記冒頭には、「ヴァ・イクラ」と記されています。「ヴァ・イクラ」とは、「そして(主がモーセを)呼ばれた」という意味です。神の言葉を聞くべき場所に呼び出して、そこで御言葉を告げられたのです。つまり、この書は、主なる神がモーセを呼んで告げられた、神の御言葉を記したものなのです。

 「教会」の原語(ギリシア語)は「エクレシア」、ヘブライ語でいえば「カーハール」で、いずれも、「呼び出された者の集い」という意味の言葉です。私たちは神に呼び出されて集まり、神の御言葉を聞きます。それこそまさに、レビ記1章1節に語られている状況です。

 まず、1章から7章まで、献げ物の規定が語られます。神に献げ物をするというのは、私たちが神を神として崇め、礼拝することです。エジプトからイスラエルを救い出されたのは、イスラエルをご自分の民とされるためです。先ず献げ物について命じておられるということは、神がイスラエルとの正しい関係を求めておられるのです。

 聖書に、「義」(ヘブライ語:ツェデク、ギリシア語:ディカイオシュネー)という言葉があります。これは、正しい行動というより、正しい関係を意味する言葉です。ルカ福音書18章14節に、「義とされて家に帰ったのは、この人であって」という言葉があります。「義とされて」は、「神との関係が正しいとされたのは」という意味であり、さらに、「神の救いに与ったのは」と読むことも出来そうな表現です。

 もともと、神がイスラエルを御自分の民として選ばれたのは、一方的な神の憐れみのゆえでした。神に義とされ、その救いに与らせて頂くのも、神の深い憐れみによることです。

 献げ物のリストの筆頭は、「焼き尽くす献げ物」です(1章)。この献げ物は文字通り、献げ物のすべてを祭壇の上で焼いて神に献げるのです。これは、私たちの信仰生活の基本を教えています。クリスチャンは、教会にいるときだけ、信仰生活をしているのではありません。私たちの生活のすべてに神様が関わっておられます。私たちはその神様の御前で生活をしているのです。

 かつて、イスラエルの民の宿営の中に幕屋を設け、そこにお住まいになられた神は、今、私たちの心に聖霊として宿っておられます。私たちは聖霊の宮、神殿なのだと、パウロは言いました(第一コリント6章19節など)。いつも共におられ、共に歩んで下さる主の御前に、すべてのものを献げる。すべてのものを主に献げてお従いするのだということが、焼き尽くす献げ物を通して、私たちに教えられているわけです。

 焼き尽くす献げ物として、牛や羊、山羊などの家畜や鳩が献げられます。家畜は大切なものです。百匹の羊のうち一匹でもいなくなれば、羊飼いは一匹を見つけるまで野山を捜し回る、と主イエスはたとえ話の中で語られました(ルカ福音書15章4節以下)。そんな大切な家畜の、それも、冒頭の言葉(3節)のとおり、傷のない雄の家畜を献げるのです。

 奉納者は、その献げ物を臨在の幕屋の入り口に引いて行きます。そこに、いけにえを神に献げるための祭壇が置かれていたのです(5節)。そして4節に、「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」と記されています。これは、献げられた牛が、その人の罪を担って死ぬということであり、その行為は、まさに自分自身を犠牲にするのに等しいものだということを表しているのです。

 献げ物の血が祭壇の四隅に流されて祭壇が清められ、献げ物が神に受け入れられます。神はこの献げ物を受けて、私たちのあらゆる背きの罪を赦し、義として下さるのです。

 新約聖書の時代、神は、私たちの背きの罪を赦し、私たちを神の子として受け入れるために、ご自分の独り子を贖いの供え物とされました。かけがえのない御子イエスの血が、十字架という祭壇で流されました。この贖いの血によって汚れが取り除かれ、私たちは神に受け入れられる者となりました。ここに神の愛があります。まことの愛のあるところに義が表されるのです。これが、神によって与えられた新しい約束、新約の恵みなのです。

 主よ、私たちを神の民とするために、ご自身の独り子を贖いの供え物として十字架につけられました。その御愛のゆえに、御名を崇め、感謝を致します。主に愛され、生かされた者として、主を愛し、主に従います。日々、恵みの光のうちを歩ませて下さい。 アーメン






7月20日(金)の御言葉 「主の栄光が幕屋に満ちていた」

「モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」 出エジプト記40章35節


 主はモーセに、「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい」と言われました(2節)。イスラエルの民がエジプトを脱出したのが、正月14日の夜中でした(12章6,18節、29節以下)。それから三ケ月目にシナイの荒れ野に到着し、シナイ山に向かって宿営しました(19章1,2節)。その山で十戒を受け(20章)、主と契約を結びました(24章)。

 それから、神が民と共に住むための聖なる所、即ち幕屋作りが命じられ(25章以下)、その実行のために必要なものが集められ(35章)、そして、すべての準備が完了しました(39章32節)。

 こうして、エジプト脱出から一年が経過しました。これから、絶えず神が臨在の幕屋にあって民の内に住まわれ、常に共に歩んで下さるという新しい生活が、新年の元日を期に始められるわけです。

 至聖所から順に作業を進めます。先ず幕屋を建て(2節)、掟の箱を置き、垂れ幕を掛け(3節)、机とその付属品、燭台、香をたく金の祭壇を置き、幕屋の入り口に幕を掛けます(4,5節)。これで、聖所、至聖所が出来ました。

 それから、幕屋の入り口の前に祭壇を据え(6節)、祭壇と入り口の間に洗盤を据えます(7節)。周囲に庭を設け、入り口に幕を掛けます(8節)。幕屋とその中のすべての祭具、祭壇と祭具、洗盤と台に油を注いで聖別します(9~11節)。これで、臨在の幕屋全体が整いました。

 次に、アロンと子らを水で清め(12節)、アロンに祭服を着せ、油を注いで聖別し(13節)、子らにも衣服を着せ(14節)、油を注いで祭司とします(15節)。

 モーセはこれらのことを、主に命じられた通りに行いました(16節)。17節以下、仕事の様子が記録され、その都度、「主がモーセに命じられたとおりであった」(19,21,23,25,27,29,32節)と計7回、記されます。「7」という完全数をもって、その仕事が主の命令に忠実に、完全に従っていることを示しています。

 臨在の幕屋が完成したとき、「雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」(34節)と記されています。先に、宿営の外に設けられた仮設の臨在の幕屋では、モーセは、降って来られた主と、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」語り合ったのですが(33章17節)、幕屋が完成したこの日、冒頭の言葉(35節)のとおり、栄光が幕屋に満ちていたため、モーセは幕屋に入ることが出来ませんでした。

 ここに示されるのは、勿論、神の権威です。神の権威の前に、たといモーセであっても、そのまま近づくことは出来ません。主の許しなしに、近づくことは出来ないのです(19章13節、24章12節参照)。

 それはまた、臨在の幕屋は何よりも、神が臨在されるために設けられました。神が神として崇められる、礼拝のための施設であって、民の都合で設けられたものではないということも示しています。願い事があり、あるいは解決困難な問題があるときだけ、苦しいときの神頼みとばかり、幕屋に詣でるというものではないのです。

 だから、主の臨在によって神の栄光が満ち溢れているとき、モーセがその中に入ることさえ出来ませんでした。神は何かをして人に仕えてもらう必要など、何一つとしてないのです。主はその御力をもって幕屋を満たしておられるのであり、その力によって、イスラエルの民を祝福して下さっているのです。

 神の栄光が表されるというのは、神が神として崇められ、人が神の民としてその恵みに与り、栄光を拝することが出来るということでしょう。

 その意味では、アロンやモーセの働きというのは、そこに神が臨在され、主の栄光が満ちるためのものであるということ、また、主の栄光の故に何も出来なくなり、神がご自身の栄光を現されるための奉仕であるということ、と言ってよいでしょう。

 勿論、神は機械仕掛けではないので、何かをすれば必ず幕屋に臨在が満ちるというものではありません。あるいは、罪深い私たちには、そこに神が臨在され、神の栄光が満ちていても、それに気づくことが出来ないかも知れません。神は霊であり、人の目には見えないからです。

 ただ、臨在を信じて主を仰ぎ臨み、御言葉に従順に歩めばよいのです。その信仰の姿勢を主が喜んで下さることでしょう。絶えず主の御名を賛美し、主を仰ぎ望みましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、御子の十字架によって贖いを成し遂げ、罪の呪いから解放し、救いの恵みに与らせ、神の子として下さったことを心から感謝し、御名をほめたたえます。どうぞ私たちの心にあなたの臨在を表わしてください。そのために、どうぞ私の心を清めて下さい。御言葉と御霊によって満たして下さい。 アーメン





7月19日(木)の御言葉 「臨在の幕屋の作業はすべて完了した」

「幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った。」 出エジプト記39章32節


 39章には、アロンの祭服、即ちエフォド(2節以下)、胸当て(8節以下)、上着(22節以下)、その他の衣服(27節以下)が主に命じられたとおりに造られたと報じられ、ここにいよいよ、神がイスラエルの民の内に住まわれるための聖なる所、幕屋建設の準備作業が完了しました(32節)。

 冒頭の言葉(32節)で、この幕屋のことを、「臨在の幕屋」と呼んでいます。「モーエイド」を「臨在」と訳すのは新共同訳聖書だけで、口語訳、新改訳は「会見の幕屋」と訳しています。「定める」(ヤーアド)という言葉から、「会合、例祭、定めのとき、季節」という意味で用いられ、神と会う場所ということから、神顕現の場、臨在の幕屋という訳語が選ばれたのでしょう。

 「臨在の幕屋」という言葉は、27章21節に最初に出て、以後、時々用いられていました(28章43節、29章10,11,30,32,42,44節など)。

 ただ、33章7節以下の段落に「臨在の幕屋」という小見出しが付けられていますが、これは、25章以下で建設が命じられた本来の幕屋のことではありません。本来の幕屋は、宿営の中央に置かれ、この幕屋を中心に、東西南北にそれぞれ3部族ずつ分かれて宿営します(民数記2章参照)。

 一方、33章では、既存の天幕の一つがとられて宿営の外の、宿営から遠く離れたところに張られました(同7節)。これは、主に命じられた幕屋が完成するまでの仮設の幕屋というべきものであり、また、イスラエルの民が金の子牛像を造ってその地を汚し、神の怒りを買っているので、宿営の中にその天幕を設置することが出来なかったということでしょう。

 しかしながら、この天幕が設けられ、そこにモーセが入ると、入り口に雲の柱が降りて来て、幕屋の前に立ちました(同9節)。即ち、見える形で神がその幕屋に降臨されたわけです。それは、神が民の罪を赦されたことを示していると受け取ってもよいでしょう。だからこそ、この後、本来の幕屋作りが実行に移されたわけです。

 ただ、違いもあります。本来の幕屋で奉仕するのは、アロンの家系の者ですが、33章ではモーセと並んでヨシュアも奉仕しています。ヨシュアはエフライム族です(民数記13章8,16節)。また、アロンは年に一度、贖罪日に香の祭壇で香をたいてから至聖所に入りますが(レビ記16章、ヘブライ書9章7節)、33章では、民の必要が生じたときはいつでも、モーセは幕屋に向かいました。

 そして何より、モーセは主と、友と語り合うがごとく、顔と顔を合わせて親密に語り合いました。それは、モーセが神と民の仲保者として、特別な任務を担っていたからです。

 主イエスは、エルサレムの神殿の崩壊を予告され(マルコ福音書13章1節以下)、十字架で息を引き取られたとき、神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が、上から下まで真二つに裂けました。それによって、聖所で働く祭司たちは皆、そして、聖所の入り口に立った人々も、至聖所の中を見ることが出来るようになりました。憚ることなく、神に近づくことが出来るようになったのです。

 ヨハネ福音書15章15,16節に、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」と言われています。

 主イエスから「友」と呼んでいただける親密な関係に招き入れられた者は、「何でも願いなさい、与えられます」、と言われた時、おのが欲求を満たすためではなく、神の御心をわきまえ知るが故に、御心がなされるように、そしてまた、隣人に仕えるために執り成しの祈りをささげます。主イエスを信じるすべての者が、主に選ばれた祭司としての務めを担い、それを忠実に、感謝をもって果たすのです。


 主よ、御子イエスは私たちを「友」という親しい関係に導き入れて下さいました。それは、私たちに主の御心を悟らせ、主の御業に励み、実を結ぶものとならせるためです。心の一新によって造りかえられ、御旨を悟り、何が神に喜ばれ、完全なことであるか、わきまえることが出来ますように。 アーメン







7月18日(水)の御言葉 「聖所のあらゆる仕事に用いられた金の総額」

「仕事、すなわち聖所のあらゆる仕事に用いられた金の総額は、奉納物の金が聖所のシェケルで29キカル730シェケル」 出エジプト記38章24節


 「祭壇」(1節以下)、「幕屋を囲む庭」(9節以下)の作業で幕屋建設の準備が整いました。それは、27章に命じられているとおりのものでした。そこでモーセは、祭司アロンの子イタマルを監督として、レビ人に幕屋建設の記録を作るよう命じます(21節)。

 そして24節以下に、聖所の仕事に用いられた金属材料の総額が記されています。木材のほか種々の糸、布、毛皮なども用いられているのに(35章4節以下)、なぜ金属材料の総額だけなのか、その理由は不明です。

 冒頭の言葉(24節)に、「金が聖所のシェケルで29キカル730シェケル」とあります。「聖所のシェケル」の重量は詳しく分かりません。通常のシェケルは約11.4グラム、キカルは約34.2キロです。聖所のシェケルは、それを上回るものではないかと思いますが、通常の度量衡で計算すると、金の総量はおよそ1トンになります。

 同様の計算で銀は3.4トン、青銅は2.4トンになります。現在の価格で、金は1キロ約428万円、銀は7.6万円、青銅は470円弱程度ですから、金の総額は約42億8千万円、銀は約2億5千8百万円、銅は約113万円となります。総計45億4千万円ほどということになります。

 ソロモンが神殿を建てたとき、ダビデが蓄えていた金が3000キカル、即ち約102.6トン、家系の長が寄贈したのが、金5000キカル1万ダリク、即ち171.1トンでした。合わせて273.7トンとなり、金額にして1兆1714億円にも上ります。あまりにも高額なので、それがどれほどの価値なのか、想像を超えてしまっています。

 臨在の幕屋に用いられた貴金属の総額は、ソロモンが建てた神殿のおよそ250分の1の金額とはいうものの、1年前まで奴隷の生活をしていたイスラエルの民が、幕屋建設のために45億円もの献げ物をしたのです。手持ちの資金、貴金属類があったとは思えません。これは民がエジプトを脱出する際、エジプトの民から好意を得て、金銀の装飾品や衣類を手に入れたものでしょう(12章35,36節)。

 ということは、幕屋を建てるために、神がエジプトの民にイスラエルに対する好意を持たせられたということになりますね。つまり、神のなさることに手抜かりも、無駄なこともないということでしょう。そういえば、主イエス誕生の折、ヘロデの難を避けるため、ヨセフは幼子とその母を連れてエジプトに逃げました(マタイ2章13節以下)。そのとき、東方の学者たちが贈り物として献げた黄金、乳香、没薬が役立ったことでしょう。

 そしてまた、五つのパンと二匹の魚で5000人の腹を満たすことが出来たように(マルコ6章30節以下など)、神が民の献げ物を祝されたので、幕屋建設の必要が満たされ、その総額を計算すると、貴金属だけでも34億円という、大変大きな金額になっていた、ということかも知れません。

 35章で見たとおり、民は神の御言葉によって心動かされ、進んで献げ物をささげました。そして、献げ物が必要以上の量になったので、それ以上献げ物をしなくて良いという命令まで出されました。

 また、幕屋建設の現場指揮官ベツァルエルはユダ族出身、補佐官オホリアブはダン族出身と、22,23節に記されています。ユダは約束の地の最南部、ダンは最北部を嗣業の地とした部族です。つまり、北から南までのあらゆる人々が、幕屋建築に従事し、その賜物をささげたのです。

 このようにして、神に心動かされて幕屋建設を進めたイスラエルの民の真心を考えると、栄耀栄華を極めたソロモンが建てた神殿よりも、臨在の幕屋のほうが、はるかに美しく着飾っているということにもなりそうです(マタイ6章29節参照)。 

 主を畏れ、御言葉に真実に耳を傾け、徹底的にそれに従おうとする心こそ、神がおのが民に求めておられるもの、神に喜ばれるいけにえです。そのようないけにえをささげることこそ、霊と真理をもって神を礼拝することなのです(ヨハネ4章24節)。

 主よ、私たちの心を探って下さい。御前に相応しくない思いを取り除いて下さい。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さり、私たちを、霊とまことをもって主を礼拝する、真の礼拝者とならせて下さい。一人一人が主の手足となって、主の体なる教会を建て上げることが出来ますように。 アーメン






7月17日(火)の御言葉 「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った」

「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ。」 出エジプト記37章1節


 37章には、掟の箱(1節以下)、贖いの座(6節以下)、机(10節以下)、燭台(17節以下)、そして香をたく祭壇(25節以下)を造ったという記事が記されています。ここで、香をたく祭壇については30章1~5節、それ以外のものは25章10~39節の記事の、「作りなさい」という言葉を「作った」と書き換えただけで、後は丸写しといった書き方になっています。

 たとえば、冒頭の言葉(1節)でいえば、25章10節において、「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ」と命じられていました。

 つまり、25~30章と、36~39章は、作るものの順序に多少の前後移動はあるものの、命令されたことを、すべてそのまま忠実に実行したという表現になっています。その意味では、同じ言葉がほぼ文字通り繰り返されるという、少々あくびの出るような表現の仕方になっているわけです。

 それならば、36~39章全体を、39章42節の「イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った」という、その一文で済ませてもよかったのではないかとさえ思ってしまいます。ただ、このような書き方で明らかになるのは、イスラエルの人々が、神の命令に対していかに細部に至るまで忠実に従ったか、従順であったかということでしょう。

 面白いことにと言ってよいかどうか分かりませんが、25章以下の幕屋作りの命令と、36章以下の幕屋作りの実行という記事の間に、民が金の子牛を造って神を怒らせ(32章)、モーセも契約の板を砕いてしまいますが(同19節)、民が悔い改めて(33章)、掟の板が再授与される(34章)という物語が記されています。神が民に聖なる所を造らせ、民の間に宿られるという御心は、民の背きにも拘らず、実行されるということです。

 それに続いて幕屋作りが語られるということで、民が神の御前にどれほど真剣に悔い改めたのか、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」(24章7節)と約束したことを、言葉だけでなく徹底的に従う態度で示すという表現になっているわけです。

 つまり、ここに示されるような従順こそ、神がイスラエルの民の中に住まわれるための「聖なる所」造りに欠かせない、信仰の姿勢なのです。そうした主への信仰の姿勢が、心動かされた人々の進んで携えてきた献納物となり、あるいは奉仕となってすべての必要を満たし、そして、幕屋作りを完成させます。

 そう考えれば、民が今ここで掟の箱、贖いの座、机などを造っているのですが、彼らは今、神に自分たちの信仰を示しているのであり、それによって神を礼拝しているのです。そして、そのような礼拝を可能にしたのは、神の憐れみです。

 そのことを言い表すためだと思いますが、幕屋作りを指示した後の31章12節以下と、幕屋作りを実行する直前の35章1節以下に、「安息日を守れ」という命令があります。神に背いた記事(32,33章)が「安息日を守れ」という命令で囲い込まれているという言い方も出来ます。

 主と共に安息せよという命令を受けながら、それに背いた民に、神はあらためて安息を命じ、そして以前と何も変化がなかったかのように、神の指示どおりに幕屋作りが始まっていくのです。ここに、神の赦しと憐れみが表わされ、それによって、民が神の命令に忠実に従うという信仰の表明が出来たわけです。

 このことは、パウロが、「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ書12章1節)と語っている言葉にも通じます。

 「自分の体」という言葉に示される、おのおの生活をそのまま神への「いけにえ」として献げよと命じ、それが私たちのなすべき、理に適った礼拝だというのは、私たちが常に主を仰ぎ、御言葉を信じてその導きに従うことを、神が求めておられるということです。そして、「神の憐れみによって勧める」という言葉で、私たちの礼拝は、神の憐れみによって成り立っているということを、明示しているのです。

 主よ、あなたを讃えます。あなたは私を励まし、夜ごと私を諭して下さいます。絶えず主に相対し、揺らぐことがありません。主の恵みと憐れみによって私の心は喜び、魂は躍ります。身体は安心して憩います。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びを頂きます。感謝あるのみです。 アーメン





7月16日(月)の御言葉 「必要以上のものを携えて来る」

「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上のものを携えて来ます。」 出エジプト記36章5節


 主なる神は、ユダ族のフルの子ベツァルエルを呼び出して、神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、あらゆる細工に意匠を凝らし、すべての細かい工芸に従事させ、さらに、人を教える力をお与えになりました(35章30節以下)。また、ダン族のアヒサマクの子オホリアブに、知恵の心を満たし、すべての工芸に従事させ、彫刻し、衣装を考案する者、あらゆる種類の工芸に従事する者とされました(同34節以下)。

 ベツァルエルとオホリアブ、この二人の指示で、「聖所」、即ち臨在の幕屋作りが始まります。モーセはさらに、主から心に知恵を授けられたすべての人を召集します(2節)。彼らも、「心動かされた者」と言われていますから、招集がかかったとき、いやいやではなく、神の召しだからと、進んでその呼び出しに応えたのです。

 モーセは、イスラエルの民が幕屋建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物を、幕屋作りに従事する人々に手渡しました(3節)。いよいよ、仕事の始まりです。そこで、問題が起こりました。仕事に携わっていた人々が仕事場を離れて(4節)、モーセに訴えます。しかしながら、それは、不平不満ではありませんでした。むしろ、嬉しい悲鳴です。

 というのは、イスラエルの民が次から次へと献納物を携えて来るので、その対応に追われますし、何より、冒頭の言葉(5節)にあるとおり、既に必要以上の量が集まって来ているのです(5,7節)。それを聞いて、モーセは早速、「聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」と、民に伝えました(6節)。

 思えば、この幕屋作りは、主なる神がイスラエルの民の中に住まわれるというご自身の御心によって始められたことです(25章8節)。ことの実現に向けて、ある人には知恵を、ある人には技術を、またある人には労働力、またある人は資材といったかたちで、必要なものがそれぞれに分け与えられていたということです。

 19節に、「雄羊の皮で天幕の覆いを作り、更にその上をじゅごんの皮の覆いでおおった」とあります。牧羊を生業としていたヤコブの子ら(創世記47章3,4節)=イスラエルの民が、羊の皮を手に入れるのは、それほど困難なことではなかったかと思うのですが、しかし、天幕全体を覆うためのじゅごんの皮を手に入れるというのは、決して容易いことではなかったでしょう。

 430年間エジプトで奴隷生活をし、そして今、シナイの荒れ野を旅しているイスラエルの民が、いつどのようにして、それらのものを手に入れたのでしょうか。エジプト脱出の折にエジプト人から貰い受けたのでしょうか(12章35,36節)。そうかも知れません。詳細は全く不明ですが、その必要のために神がお与えになった賜物であることに違いはありません。

 勿論、天幕作りのために必要なすべてのものを、一人で持っている人はいません。一人の力でこの働きを完成することも出来ません。皆が力を合わせ、思いを一つにしなければ出来ないことです。それは、民が主の方を向いているということです。主の御言葉に聴き従うということです。主に心動かされて、民が自ら進んで行うときに、必要が満たされて更に余るということになるのです。ここに、主の業、主の導きを見ることが出来ます。

 あるいは、私たちがささげることが出来るのは、五つのパンと二匹の魚かもしれません。それでは、男だけでも五千人いるという大群衆の前に、焼け石に水といいますか、子どもだましといいますか、何の役にも立たたないだろうと思うかも知れません(ヨハネ福音書6章9,10節)。

 けれども、主イエスはその献げ物を必要としておられたのです。主イエスはそれをとって神に感謝の祈りをささげ、人々に分け与えられました(同11節)。すると、すべての人々の腹が満たされ(同12節)、残ったパン屑は、12の籠を満たしたのです(同13節)。

 主に心を向けましょう。御言葉を聴きましょう。御霊の導きを祈り求めましょう。主にあって心動かされ、進んで御旨を行うことの出来る者としていただきましょう。

 主よ、イスラエルの民の内にお住まい下さるために、必要の一切が備えられたことを知りました。そして、民はそれを喜んで、進んで献げました。御旨に従って行ったとき、すべてが満たされました。私たちの内におられる聖霊を通して、私たちにも、従う喜び、献げる喜び、そして、御業に与る恵みを味わわせて下さい。 アーメン





7月15日(日)の御言葉 「心動かされ、進んで心からする者」

「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。」 出エジプト記35章21節


 主が、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」と言われ(25章8節)、その造り方が25章10節以下に記されています。途中、所謂「金の子牛」事件もありましたが(33章)、いよいよ、具体的に建設に取りかかるときが来ました。そこでまず行われるのが、建築に必要な資材を集めることです。

 モーセは主の命じられた言葉として(4節)、各自、「持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい」と告げますが(5節以下)、そこに一言、非常に重要な言葉を添えています。それは、「すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」(5節)という言葉です。

 つまり、必要な資材・物資の総量を民全体で頭割りにするというやり方ではないのです。これは、モーセの言葉を聞いた者たちが各々心を主に向け、主からの促しを受けたということではないでしょうか。主と語らい、神の御言葉を聞いたモーセの顔が光り輝いたように、主の御言葉を聞いた者たちの心が、主のために働こう、献げようと動かされたのです。

 第二コリント書4章6節に、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と記されています。イスラエルの民がモーセの顔の肌が光を放っているのを見、それが神の栄光であると畏れ、ひれ伏す思いになったのは(34章29節以下)、神がイスラエルの民に働きかけて、モーセの顔に輝く神の栄光を悟る光をお与えになったからでしょう。

 そして、神の栄光を悟る光を授けたのは、「主の霊の働き」です(第二コリント書3章18節)。だからこそ、持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来るようモーセが告げたとき、「これは主が命じられた言葉である」(4節)と言われなかったとしても、確かにこれは、私に向かって主が命じられた言葉だとイスラエルの民は悟った。それを悟る光をモーセの顔に見たということです。

 それゆえ彼らは、冒頭の言葉(21節)のとおり、その主の命令に心動かされて立ち上がり、自ら進んで献納物を携えて来ました。また、進んで奉仕の仕事に従事したのです(25,26節)。

 35章中、「進んで」という言葉が4回(5,21,22,29節)、そして、「心動かされて」という言葉も2回(21,26節)出て来ます。繰返しそのように語られているということは、主のために聖なる所を造るという働き、キリストの体なる教会を立て上げる働きのためには、どうしても、神の御言葉に促されて、心動かされてするという、御言葉への応答、信仰による自発的な献げ物が必要なのです。

 そしてまた、その働きは、一人では出来ません。一人の献げ物で聖なる所を造り上げることなど、出来はしません。モーセという偉大な宗教指導者が献身しさえすれば、完成することが出来るというものではないのです。だからこそ、御言葉が共同体全体に向かって告げられたのです(4節)。即ち、神は、私たちひとりひとりの持ち物、賜物、才能、能力に期待しておられるのです。そして、ひとりひとりに語りかけておられるのです。

 各自が神の御言葉に促されるため、そこで心動かされるために、聖霊の助けが必要です。聖霊が私たちにすべてのことを教え、主の語られたことを思い起こさせて下さるからです(ヨハネ14章26節)。また聖霊は、真理の霊とも呼ばれ、私たちを導いて、真理をことごとく悟らせるという働きをするからです(同16章13節)。

 私たちは、5年前の2007年9月の総会において、新会堂建築を全会一致で決定しました。それ以来、建築献金を呼びかけつつ、どのような会堂を建てるのか、皆思い思いに意見、要望を出しました。いろいろな機会を設けて話し合い、検討の時を持ち、2009年12月に基本設計案を承認、翌年2月に建築会社を選定するための実施設計が完成、3月末には建築会社を選定し、契約を結びました。

 その間、聖書の御言葉から、会堂を建てる意味や目的を学び、また、御旨に適う会堂建築が出来るよう、時間を定めて毎日祈りました。その結果、2010年5月に着工、半年後の11月末に竣工、クリスマスを新しい会堂で迎えることが出来ました。すべての必要が予定を越えて与えられ、思いにまさる会堂を建てることが出来ました。すべてが神の賜物であり、恵みです。今も、主の導きに感謝しています。

 主よ、私たちは取るに足りない土の器ですが、あなたの御言葉を聞き、この身をお献げしました。御名のために用いて下さい。御子キリストが私たちの頭です。聖霊によって全体に調和を与え、真のキリストの体なる教会を建て上げさせて下さいますように。 アーメン






7月14日(土)の御言葉 「顔の肌が光を放っている」

「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。」 出エジプト記34章29節


 冒頭の言葉(29節)に、「モーセの顔の肌が光を放っている」とあります。それは、肌の色ツヤがよいとか、興奮して顔が真っ赤になっているというようなレベルではありません。電球のように、光を放っているというのです。なぜ、モーセの顔の肌が光を放つようになったのか、詳細は不明ですが、とにもかくにも、神と語り合っている間に、自分の顔が光を放つようになっていたのです。

 モーセは、40日40夜、山で主なる神の語られる言葉を聞き、神と交わりました(28節)。因みに、24章18節にも、40日40夜、山にいたと記されており、金の子牛の像を造った事件を挟んで、40日間を二度、合計80日、山で主と語り合ったことになります。

 山で神と話し合っている間、モーセは、パンも食べず、水も飲みませんでした(28節)。そのときのモーセにとっては、食事をすることよりも、神様と語り合うことの方がずっと大切で、そうすることが、大きな喜びだったことでしょう。

 そして、神様が語られる御言葉は、ただの言葉ではなかったのでしょう。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と、ヨハネ福音書1章4節に記されています。また、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、マタイ福音書4章4節にあります。神の御言葉こそ、人を生かす命のパンなのです。

 主イエスは、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と言われました(ヨハネ福音書6章55~56節)。これは勿論、実際にイエス様の肉を食べ、血を飲むことではありません。主イエスの肉を食べ、血を飲むとは、イエス様の命を頂くことです。

 主イエスは、私たちのために十字架にかかってご自身の肉体を裂かれ、血を流されました。それによって私たちの罪を赦し、私たちに神の子どもとなる特権、力をお与え下さいました。イエス様を自分の救い主、人生の主として心に受け入れること、そして主と親しく語らい、交わることです。モーセは確かに、まことの食物、まことの飲み物なる神の御言葉を神から頂いたのです。

 モーセは、自分の顔が光を放っていることを知りませんでした。人々が自分を恐れている様子から、その理由が、自分の顔の光であることを悟ったようです。そして、山で神様が語られたことをすべて人々に語り聞かせ、それが終わったとき、モーセは顔に覆いをかけました。

 モーセはなぜ、顔に覆いをかけたのでしょうか。神の語られたことをイスラエルの民に告げるとき、モーセの顔は輝いていました。そして、語り終わると、顔に覆いをかけたのです。つまり、神と交わった後、イスラエルの民に御言葉を語るとき、モーセの顔は光を放っていて、御言葉を語り終えると、顔覆いをかけるというのですから、その光は、神の御言葉がイスラエルの人々に告げ知らされるときにだけ、見られることになります。

 即ち、御言葉を知らせる時に、神はモーセの顔に神の栄光の輝きをお与えになっているのです。ということは、その光によって、モーセの語る言葉は、神の御言葉なのだということを示しているわけです。顔の光が神の栄光、御言葉の力を表すしるしであるなら、御言葉を語り終わった後に顔に覆いをかけたのは、それを自分の栄誉、自分の誇りにしてはならないと、モーセが考えていたからではないでしょうか。

 私たちが神の御言葉を聴いて、示される主の恵みを分かち合うとき、自分には分からなくても、私たちの顔も神の栄光を映して光り輝いて来るのです。パウロは、「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」と第二コリント書3章16,18節に記しています。

 神の前を離れ、御言葉から離れると、顔に、心に覆いがかかります。しかし、主の方に向き直れば、覆いが取り去られ、御霊の働きによって主の栄光を映し出す者に造り替えられます。真理の御霊が私たちと共におられて(ヨハネ福音書14章17節)、主の御言葉を思い起こさせ(同26節)、また真理を悟らせ(16章13節)、御子に栄光をお与えになります(同14節)。

 主イエスは、「あなたがたは世の光である」と言われました(マタイ5章14節)。御言葉に従い、恵みを分かち合って、神の栄光を映す光を放つ者にならせて頂きましょう。

 主よ、キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿るようにして下さい。御言葉の命と光を与え、その栄光を証しするものとして下さい。周囲を明るく照らす世の光としての使命を果たすことが出来ますように。 アーメン







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