「献げ物を和解の献げ物とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。」 レビ記3章1節
焼き尽くす献げ物(1章)、、穀物の献げ物(2章)に続いて、3番目は、「和解の献げ物」です。
「和解の献げ物」とは原文で「シェラミーム」と記されていて、これは複数形です。単数形は「シェレム」で、これは「シャローム」と関係の深い言葉です。その語源は、「完全、傷のないこと、調和」という意味です。つまり、和解の献げ物は、神との平和的な交わりを得、また、それを強めるためのものだということです。口語訳聖書はこれを、「酬恩祭」と訳していました。神の恩に報いるいけにえということでしょう。
ここに「シェレム」の複数形が用いられているのは、7章11節以下の「和解の献げ物の施行細則」に規定されているように、和解の献げ物には、「感謝の献げ物」として献げる場合や、「満願の献げ物」、「随意の献げ物」として献げる場合などがあるということを示しているのでしょう。
また、和解という出来事は一生に一度のことではありません。何度も過ちを犯します。その度ごとに和解が必要であり、そのための献げ物となれば、複数にならざるを得ません。そしてまた、神と人との間だけでなく、人と人との間の平和と調和も保たれるように、ということも示していることでしょう。
「シェラミーム」の前に、「ゼバハ(生贄)」という言葉があります。「ゼバハ」は動物を屠ることを指しています。動物の命が神にささげられることで、神との関係、隣人との関係が回復する、整えられる、強められるということです。文字通り、動物が人のために犠牲となったわけです。
奉納者が生贄の頭に手を置くこと(2節)、その血を取って祭壇に注ぎかけること、その後、祭壇で献げ物を燃やしてささげること(3節以下)、その煙が宥めの香りとなる(5節)というのは、「焼き尽くす献げ物」とあまり違いはありません(1章3節以下)。
違いは、「焼き尽くす献げ物」は文字通り、動物をすべて焼いて献げるのに対し、「和解の献げ物」で燃やされるのは、「内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉」(3~5節)です。17節に、「脂肪と血は決して食べてはならない」とあるとおり、これらは神のものなのです。
また、生贄となった動物の胸の肉と右後ろ肢は、祭司に与えられます(7章28節以下)。そして、残りの肉は、奉納した人のものとなります。即ち、和解の献げ物の生贄が、神と祭司と奉納者の三者で分かち合われ、そこで食されるのです。血を祭壇に塗り、肉は食べると言えば、過越の食事のようです(出エジプト記12章)。過越の小羊は屠られて、その血が家の鴨居と柱に塗られ(同7節)、肉は焼いて食べます(同8節)。
神と人、その間を執り成す祭司が一つの生贄を分け合って食することで、「同じ釜の飯を食う」というような親密な関係を築くことが出来るわけです。使徒パウロが「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」(第一コリント書10章18節)と言っているのも、このことです。
ところで、預言者たちは、献げ物について痛切に批判しています。たとえばイザヤ書1章11節に、「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」と記します。それは、献げ物が真実な、信仰の心をもってなされていない、献げ物を伴う神礼拝が、形式化、形骸化しているという批判です。
詩編の記者が、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51編19節)と詠っているとおり、何よりも先ず主の御前に謙り、恵みをお与え下さる主を心を込めてたたえ、喜び歌いましょう。「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(第二コリント書5章18節)。その使命を忠実に果たして参りましょう。
主よ、あなたは私たちを救うために独り子を犠牲とされました。そして、私たちに御子を信じる信仰を与え、神の子として下さいました。その保証として、神の霊が授けられ、あなたに向かい、アッバ父よ、と呼ぶことが許されています。御霊の導きとその力により、委ねられた和解の務めを全うすることが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン