風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年07月

7月31日(火)の御言葉 「わたしは聖なるものであるから」

「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」 レビ記11章45節


 11章から15章までには、種々の汚れの清めに関する規定が記されています。11章には、清い動物と汚れた動物、食べてよい動物と、食べられない、触れてはならない動物とが列挙されています。考えてみれば、すべての動物は、神が御心のままにお造りになったものです(創世記1章20節以下)。そこに、清い動物と汚れた動物という区別がなされるというのは、少々不思議な思いがします。

 「ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするもの」だけが、食べてもよい清い動物だというのは(2,3節)、何を根拠にこのように言われるのでしょうか。これに従えば、豚も鯨も食べられません。馬もダメですね。また、水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるもの以外はすべて汚らわしいものだ(10節)と言われるのは、なぜでしょうか。これでは、海老や蟹、タコ、イカ、貝類なども食べられません。

 勿論、ここに記されているのは科学的、医学衛生的な区別ではありません。極めて宗教的な区別です。神は、イスラエルの民が御言葉に聴き従うどうかを試しておられるのです。

 44節に、「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」と言われています。イスラエルの民は、他の民と区別され、神の民とされたのです。聖なる者でない異国の民は、何を食べてもかまわないのですが、神の民とされたならば、その規定に従いなさいということなのです。

 その意味で、冒頭の言葉(45節)は象徴的です。ここに、「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である」と言われています。主がイスラエルの神となるためには、イスラエルの民をエジプトの国から脱出させる必要があったという表現です。

 そして、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と言われているということは、イスラエルの民が奴隷として仕えていた「エジプトの国」が、汚れたものを食べ、汚れたものに触れる、汚らわしい国として言い表されていることになります。

 イスラエルはエジプトの奴隷の苦しみから解放されたのですが、それは、彼らが何をしても自由、好き勝手して過ごしてもよいというものではありません。彼らは、「聖なる者となるべく呼び出されたのです。エジプトの文化、風習に倣わないこと、神の御言葉に従うことが、「聖なる者」、神の民となることなのです。

 勿論それは、当然のことながら、イスラエルの民を規則でがんじがらめにするためではありません。イスラエルが規則のためにあるのではなく、規則がイスラエルの民のためにあるのであり、民が規則に聴き従うことによって、主にあって真の自由を得るためなのです。

 主イエスが、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章31,32節)と言われているとおりです。

 後に、使徒ペトロがヤッファの革なめし職人シモンの家にいたとき、一つの幻を見、神の声を聞きました(使徒言行録10章9節以下)。それは、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入った入れ物が天から下りて来て、それを屠って食べよと語りかけるというものです(同11~13節)。

 その声に対してペトロが、「清くないもの、汚れた者は何一つ食べたことがありません」と答えると(同14節)、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました(同15節)。

 神は、清くないもの、汚れたものを清めることが出来ます。それはまさにイスラエルのことであり、そして、私のことです。私たちは、独り子キリストの贖いにより、罪清められ、新しくされました(ローマ書4章25節、6章4節など)。そして、神の御言葉に従って生きるように、絶えず招かれています。御言葉に従って生きることこそ、聖なる者となることなのです(ヨハネ17章17節、使徒言行録20章36節参照)。

 主よ、あなたの御言葉は正しく、御業はすべて真実です。御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られました。主が仰せになると、そのようになり、主がお命じになると、そのように立ち現れます。瞬間瞬間、私たちに、「聖なる者となれ」とお命じ下さい。その通りになるからです。 アーメン







7月30日(月)の御言葉 「主が聖なることを示し」

「モーセがアロンに、『「わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を表わそう」と主が言われたとおりだ』と言うと、アロンは黙した。」 レビ記10章3節


 アロンの子ナダブとアビフが、規定に違反した炭火で香をたいたので(1節)、主の御前から火が出て二人を焼き殺してしまいました(2節)。「規定に反した炭火」の詳細は不明ですが、「香炉を取って炭火を入れ」ということから、別の場所から持ち込んだ炭火だったのかも知れません。

 そして、「その上に香をたいて」というのですから、香壇ではなく、香炉の上で香を焚いたということで、これは確かに規定違反です(出エジプト記30章1節以下参照)。もしかすると、その香炉を聖所外に持ち出して、自分の楽しみのためにも用いたのかも知れません(同37,38節参照)。

 七日間の任職式を終え、モーセが命じたとおりに務めを果たしていたアロンの子らが、なぜそのような振る舞いに及び、神の裁きを受けるような羽目に陥らなければならなかったのでしょうか。理由は思い当たりません。

 ただ、9節に、「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである」と記されているところを見ると、二人が酒に酔って務めに就き、規定に反する不適切な振る舞いをしてしまって、それで神の裁きを受けたのではないかと思われます。

 そもそも飲酒を禁ずる律法は存在しませんが、酒に酔って、規定に違反する振る舞いに及び、それで、二人が神に撃たれることになってしまいました。そこで、幕屋の務めに入る前の飲酒だけは、ここに禁じられたわけです。
 
 8節に、「主はアロンに仰せになった」とあり、モーセを介さずに神がアロンに直接語りかけておられます。こうしたケースは極めて稀です。それほどに、この違反が重大な問題だということでしょう。そして、その責任の一端が大祭司であり、また二人の親であるアロンにあるということでしょう。

 ここ数年、飲酒運転による痛ましい交通死亡事故が続発しています。罰則が強化され、社会的な制裁も受けることになりましたが、しかし、悲しむべきことに飲酒運転は殆ど減っていません。取り締まる側の警察官にも、飲酒で検挙される人が出る始末です。我々人間の弱さ、愚かさの象徴ともいうべき出来事です。

 ところで、冒頭の言葉(3節)で、モーセがアロンに、「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう」」と主が言われたとおりだった」と言い、また6節では、「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、さらに共同体全体に神の怒りが及ぶであろう」と言われています。

 「髪をほどいたり、衣服を裂いたり」というのは、悲しみを表わす表現です。二人の子らは、神に背いたため、その裁きを受けて撃ち殺され、それで、神が聖なることを示されたのだから、肉親の死を悼み、悲しんでいることを示す行為として、髪をほどいたり、衣服を裂くような真似をするなと言われているのです。

 しかしながら、どんな理由であっても、肉親の死を悼み、悲しむことを禁ずるというのは尋常なことではないでしょう。罪を犯して裁かれたとはいえ、子は子です。悼むな、悲しむなと命じられたからといって、なかなか「ハイ、そうですか」とそれを受け入れることが出来るものではありません。ところが、冒頭の言葉(3節)には、「アロンは黙した」と記されています。

 故榎本保郎先生の「旧約聖書一日一章」に、「信仰とは神の御前にもだすことである」と言われています。そして、「二人の息子を失ったとき、張り裂けんばかりの悲しみにおおわれたことであろう。文句も言いたかったであろう。言いわけもしたかったであろう。そんな神から逃げ出したいとも思ったことであろう。しかし、彼は黙していたのである」と説いておられます。

 つまり、アロンはその悲しみ、苦しみの中、主の御前に黙することで、主が聖であることを表わし、おのが信仰を示しているわけです。

 詩編62編1,2節に、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」と言われています。神が自分の悲しみ、苦しみをご存知だという信頼に生きていればこその言葉です。確かに、神は子を失う悲しみ、苦しみをご存知です。独り子を私たちの罪の贖いのため、十字架に犠牲とされるからです。そのお方に、私たちの救いはあるのです。

 主よ、大切な務めを自分の弱さ、愚かさで台無しにしてしまうような私です。あなたの憐れみなしに生きることは出来ません。命ある限り、あなたを讃え、手を高く上げ、御名によって祈ります。 アーメン








7月29日(日)の御言葉 「主の御前から炎が出て」

「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全体は喜びの声を上げ、ひれ伏した。」 レビ記9章24節


 9章には、「アロンによる献げ物の初執行」の様子が記されています。

 七日間の任職の儀式が終わった後、八日目に、モーセはアロンにとその子ら、及びイスラエルの長老たちを招集しました(1節)。そして、アロンには、「無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい」と命じます(2節)。

 また、イスラエルの民には、「雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい」(3,4節)と告げました。

 祭司となったアロンの最初の務めは、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を、自分たちのために献げることでした(8,12節参照)。それから、イスラエルの民が携えて来る献げ物を主の御前に献げるのです(15節以下参照)。

 アロンは、モーセに命じられたとおりにします(10,21節)。献げ物をささげる儀式の初めと終わりに、そのように記すことを通して、アロンがいかに徹底して命令に従ったかということを示しており、そこに、アロンが真心尽くして主に仕えている様子を窺うことが出来ます。

 献げ物をささげ終えたアロンは、手を上げて民を祝福した後、祭壇を降ります(22節)。そして、モーセと共に臨在の幕屋に入ります(23節)。それは、主の御前にパンを供え、香壇で香をたき、祈りをささげるためでしょう(同30章6節以下、40章22節以下)。

 それからもう一度出て来て民を祝福すると、主の栄光が民に現れました(23節)。「主の栄光」(23節)とは、出エジプト記24章16,17節、40章34節以下の記事から、雲の中で輝く火、あるいは光と考えられます。それは、主なる神がそこに御臨在下さっていることを、明らかに示すものです。

 そして、冒頭の言葉(24節)のとおり、主の御前から炎が出て、祭壇の上の献げ物を焼き尽くしてしまいました(24節)。それは、神がその献げ物を受け入れて下さったということです。それは、そのとき初めて献げ物に火がつけられたということではありません。アロンが祭壇で献げ物を燃やし始めたのですが、焼き尽くすのには時間がかかります。その献げ物が主の火によって焼き尽くされたのです。

 確かに民は、神の栄光を見ました。そして、神が彼らの献げ物を喜び受け入れて下さったことを知り、喜びの声を上げて主の御前にひれ伏し、礼拝します(24節)。神が献げ物を受け入れて下さったということは、献げ物にこめられた民の心、思いを受け入れて下さったということであり、これから民と神との真の交わりが開かれていくのです。

 ここで、「喜びの声を上げて」(ラーナン)は、「叫び声を上げて」という言葉で、必ずしもそれは、喜びを意味するものではありません。確かに、献げ物が受け入れられたのは、嬉しいことでしょう。喜びの叫びといって良いものだと思われます。

 しかし、すべてを焼き尽くす火は、神の裁きを連想させます。主の栄光を見たことも、民を恐れさせたことでしょう(出エジプト記20章18節以下)。ですから、喜びの感情と共に、畏怖の念がイスラエルの民の心を支配していたということになるのではないでしょうか。

 これは、一晩中漁をして一匹も取れなかったのに(ルカ福音書5章5節)、主イエスの御言葉に従うと二艘の船が沈みそうになるほど大量の魚が漁れたとき(同6節)、ペトロが主イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(同8節)と言った心境に似ていると思います。聖なる神の圧倒的な御力の前に、自分の罪を自覚せざるを得なかったのです。

 しかしながら、神は民を裁くために、ご自身の栄光を現わされたのではありません。罪を贖う献げ物が献げられたからです。そしてそれは、主のご命令でした(6節参照)。即ち、主ご自身が交わりの道を開かれたのです。ひれ伏したペトロに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたように(ルカ5章10節)、イスラエルは、神の民としての使命に生きるのです。

 主よ、あなたは御子イエスを贖いの供え物とされて、私たちの罪を赦し、憚ることなく御前に近づくことを許されました。ペトロがすべてを捨てて主イエスに従ったように、私たちも自分の十字架を担って日々その御足跡に踏み従うことが出来ますように。御心を行うために、すべてのよいものが備えて下さいますように。 アーメン







7月28日(土)の御言葉 「今日執り行ったこと」

「今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主のご命令によるのである。」 レビ記8章34節


 8章には、「祭司の聖別の任職式」について、記されています。これは、出エジプト記28,29章で主が命じておられたことを、ここで実行し、あらためて、祭司の規定として書き記しているということです。

 まず、アロンを水で清め(6節)、祭司の衣服を着せ(7節以下)、聖別の油で幕屋、祭壇、祭具、洗盤を清め(10,11節)、その油をアロンの頭に注いで聖別します(12節)。続いて、アロンの子らにも祭服を着せます(13節)。

 それから、アロンとその子らのための贖罪の献げ物として雄牛一頭をささげ(14節以下)、次に、焼き尽くす献げ物として雄羊をささげます(18節以下)。更に、任職の献げ物として一匹の雄羊をささげます(22節以下)。そして、聖別の油と祭壇の血を取って、アロンと子ら、彼らの祭服に振りまきます(30節)。この儀式を7日間にわたり、毎日行います(33節以下)。

 この一連の儀式を見て示されることは、神がアロンとその子らを選び、代々この一族から祭司が立てられるようにされたのは、彼らが特別な存在、即ち祭司として選ばれるだけの価値ある立派な人々だったからというのではないということです。そうではなく、彼らも神の前に出るためには、ここまで徹底的に清められなければならない罪人、私たちと同様に汚れた存在だったわけです。

 そもそも、アロンの父祖レビは、その父ヤコブから、「シメオントレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。・・彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」(創世記49章5節以下)と、呪われた存在です。

 そうすると、彼らが選ばれたのは、神がイスラエルだけを特別に愛し、アロンとその一族に特権的な使命を与えるためではなく、どんな人にも神の恵みが与えられ、どんな人も神の御業のために召され、用いられることを示すためということになります。

 そうして、この恵みが私たちにも開かれたのです。であれば、私たちがその任に就くためにも、このような清めの儀式が必要ということでしょう。神の御子キリストが十字架で私たちの罪のための贖いの供え物となられたということが、私たちの罪の重大さを示すと共に、神が私たちを召され、私たちを御業のために用いて下さるという御心が示されています。私たちは、主イエスを信じ、その御言葉に従うことで、神の御心に応答するのです。

 ところで、任職の儀式に7日間を要するというのは、神が7日間で天地を創造されたように、神が罪人をご自分の祭司として「創造」するためということではないでしょうか。また、完全数の「7」で、彼らが日々徹底的に神の御言葉に聴き従うことが求められているのです。

 冒頭の言葉(34節)に、「今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主のご命令によるのである」と記されています。あらためてこのように言われなくても、この儀式が罪を贖うため、そして祭司として立てられるためであることは、繰り返し述べられています。

 この箇所がなくても、即ち、33節と35節を直接つないでも、意味は通じます。敢えてこの文章が書き加えられたとすると、この言葉の強調点は、「今日執り行った」というところにあるようです。

 即ち、私たちが神に従うのは、いつも、「今日」であるということです。そして、「今日」従うかどうかが、私たちの行き方を決め、一生を決め、はたまた永遠に影響を与えるということです。これはパウロが、「今や、恵みのとき、今こそ、救いの日」(第二コリント書6章2節)で語られた「今」と同じ意味でしょう。私たちは、「今」、主に従うように召されており、信じ従う私たちに「今」恵み、救いが与えられるのです。

 「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御子の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑なにしてはならない」(詩編95編7,8節、ヘブライ書7,8節)。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ福音書1章45節)。「わたしは主のはしため(しもべ)です。お言葉どおり、この身になりますように」(同1章38節)。


 主よ、あなたを信じます。御言葉を信じます。あなたがお建てになった教会を信じます。キリストがその頭であり、教会はキリストの体だからです。私もその体の一部に加えられました。この体で神の栄光を表わします。ご用のために用いて下さい。 アーメン





7月27日(金)の御言葉 「主の御前に奉納物とする」

「彼は燃やして主にささげる物を自分の手にささげ持つ。すなわち胸の肉に脂肪を載せてささげる。奉納する胸の肉は主の御前に奉納物とする。」 レビ記7章30節


 11節以下に、「和解の献げ物の施行細則」が記されています。これは、3章に記されていた「和解の献げ物」の細則ということになります。

 和解の献げ物は、「感謝の献げ物」として(12節以下)、また、「満願の献げ物」、「随意の献げ物」として(16節以下)、ささげられます。「満願」とは、神に願い事をして、その願いがかなったときにささげると約束する献げ物のことです。「随意」とは、文字通り、思いのままに自発的にささげる献げ物です。

 和解の献げ物は、3章で学んだとおり、献げ物のいけにえが、神と祭司と奉納者の三者で分かち合われ、そこで食されます。神は脂肪と血をとられます。3章11節には、脂肪のことを、「これが燃やして主にささげる食物である」と記されていました。祭司は胸と右後ろ肢をとり、残りの肉は奉献者が食べます。

 種々の献げ物の中で、奉献者が食べることが出来るのは、和解の献げ物だけです。これは、神と人が食事を共にして交わるという、喜びに満ちた意味があり、「和解の献げ物」という名前も、そうした内容からとられたものと考えられています。

 ヨハネ黙示録3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と記されています。

 主イエスを迎え入れる者と食事を共にするという約束が語られているのですが、それはまさに、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった主イエスを信じ、受け入れると、主との間に「同じ釜の飯を食う」という親密な交わりが開かれることを示しています。

 17節に、「しかしこの残りの肉は三日目には焼き捨てねばならない」とありますが、これは、動物の死体は三日目には腐敗が始まると考えられていたからです。三日目にその肉を食べたなら、それは「神への献げ物とみなされず、不浄なものとなる」と規定されています(18節)。

 これは、考えてみれば非常に意味深長な言葉です。というのは、主イエスは、十字架に贖いの死を遂げられてから三日目、まさに「不浄なものとなる」、腐敗が始まるとされていたその日に、死を打ち破って、甦らされているからです。

 ところで、冒頭の言葉(30節)は、口語訳では、「主の火祭は手ずからこれを携えてこなければならない。すなわちその脂肪と胸とを携えてきて、その胸を主の前に揺り動かして揺祭としなければならない」と訳されていました。「その胸を主の前に揺り動かして揺祭とする」という言葉が、新共同訳で「奉納する胸の肉は主の御前に奉納物とする」という訳に変わっています。

 即ち、「揺り動かす」を「奉納」、「揺祭」を「奉納物」と変えているわけです。原文には、「揺り動かす」(ヌーフ)という言葉が用いられています。欽定訳聖書(KJV、NKJ)は「揺祭」と訳せる訳語(wave offering)を採用しています。

 以前は、「揺り動かす」というのを、前後に揺らすものと考えられていました。しかし、最近では、神に献上するという意味を表わすために、上に差し上げる動作を表わすものと解釈されるようになって来ました。それで、「奉納する」という訳語が採用されるようになったというわけです。

 「主の御前に奉納物とする」と言われている「胸の肉」は、31節を見ると、「アロンとその子らのものとなる」とされています。主にささげられたものが、祭司たちに下げ渡されるということになります。民の、神への感謝の献げ物が、祭司たちの生活を支える謝儀として、神から与えられているわけです。

 それを受けた祭司たちは、お与え下さった神に感謝すると共に、ささげた民に対して感謝するでしょう。こうして、神と民と祭司の間に、和解による感謝と喜びが巡ることになります。


 主よ、今日の御言葉から、あなたから頂いた恵みを証しをすることが、今日、感謝の献げ物を主の御前に奉納することではないかと教えられました。どうか私たちを聖霊に満たして下さい。聖霊の力を受けて、主の恵みを証しするものとして下さい。福音が前進しますように。主への感謝と喜びが広げられますように。 アーメン







7月26日(木)の御言葉 「焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る」

「アロンとその子らに告げてこう言いなさい。贖罪の献げ物についての指示は次のとおりである。贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る。これは神聖なものである。」 レビ記6章18節


 6章には、「各種の献げ物の施行細則」が記されています。18節以下には、贖罪の献げ物についての指示があります。それは、冒頭の言葉(18節)の通り、「贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場で主の御前に屠る。これは神聖なものである」と規定され、続いて、「この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる」と命じられています(19節)。

 「神聖なもの」とは、それが神のものであるということです(18節)。そして、民のために執り成しを行う祭司は、神の代理として献げ物を受け取り、血と脂肪のすべてを神に献げた後、肉は祭司のものとなり、臨在の幕屋の庭で食べます(19節)。

 贖罪の献げ物をささげるのは、犯した罪を神に赦していただくためです。4章20節に、「祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される」と記されていました。その献げ物は、決して安価なものではありません。そのことで、犯された罪がいかに重大な違反と考られているのかということが、はっきり示されます。

 ですから、この御言葉を実行するということは、自分の犯した罪を、主なる神に対する重大な違反と認めるということであり、神の御前で公に謝罪の意思を表わすことになります。それにより、神が彼らの罪を赦して下さるというわけです。

 幼稚園の子どもたちをみていて、つくづく羨ましいなあと思わされるのは、今どんなに激しくケンカしていても、「ごめんね」、「いいよ」というと、後はまたうち解けて遊べることです。ケンカの直後は、絶対赦さないとかって言ってても、そして、本当に口を利かないということもありますが、いつの間にか、仲良く遊んでいます。ケンカしたことも、もうすっかり忘れてしまっているようです。ここが、子どもの素晴らしいところです。

 大人なら、なかなかこうは行きません。それこそ、二度と口を利かない絶交状態になってしまうことだってあるでしょう。英語の単語で一番難しいのは、「forgive(赦す)」という言葉だと聞いたことがあります。確かに日本語でも、「ゆるす」というのはたった三つの平仮名ですが、赦せない相手にそれを言うのは、とても難しいものになってしまいます。

 ところで、「贖罪の献げ物をささげるように」という指示は、主がモーセに告げられたものです。贖罪の献げ物をささげると、その人の罪が赦されるでしょう。罪を赦されるのは、神です。そして、贖罪の献げ物をせよと命じておられるのも、神です。つまり、神はこのような規定をイスラエルの民に与えることで、人の罪を赦す意志のあることを表明しておられるわけです。その意味では、既にその人の罪を赦しておられるといってもよいでしょう。

 マルコ2章7節に、律法学者の言葉で、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と記されています。人の背きの罪をお赦しになれるのは、確かに神おひとりだけです。

 ただ、4章に示されていた贖罪の献げ物は、「誤って主の戒めに違反し、禁じられていることをして」(同2節)しまう罪の贖いであって、たとえば、故意に、殺意をもって人をあやめる罪などは、その対象から外れています。それをすることは、「殺すなかれ」(出エジプト記20章13節)という十戒に背くという意味で、神を冒涜する罪ともなります。そのような罪を犯した者に対して、それを贖う方法はないということだったのです。

 ところが、神の憐れみは、この規定を超えています。想定外の罪をさえ赦されます。ご自身の独り子が十字架で殺されました。法的には、無実の罪でしょう。主イエスを裁く法廷は、その認識を持っていました(マルコ福音書14章55節以下、15章10節)。

 しかしながら、主イエスはその裁きを甘んじて受けた上、十字架で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と執り成されました。自分を殺そうとしている者たちを赦し、その上で、これは過ちだ、自分が何をしようとしているのか、知らずにしていることなんだ、だから、ご自身を贖罪の献げ物とするので、それをもって彼らの過失の罪を赦して下さい、と嘆願しておられるのです。

 このような神の計り知れない憐れみによって、私たちも救いに導かれ、神の子とされる恵みに与りました。主に心から感謝と賛美をおささげします。

 主よ、あなたの深い愛と憐れみに心から感謝し、御名をほめたたえます。独り子が贖いの献げ物としてご自身を犠牲にされなければならないほど、私の背きの罪は重いものでした。その私のために御子が犠牲を払って下さり、その命をもって生かされたのですから、御用のために用いて下さい。宣教の御業が前進しますように。 アーメン







7月25日(水)の御言葉 「貧しくて手が届かない場合」

「貧しくて二羽の山鳩にも二羽の家鳩にも手が届かない場合は、犯した罪のために献げ物として小麦粉十分の一エファを携えて行き、贖罪の献げ物とする。」 レビ記5章11節


 「贖罪の献げ物をささげるべき罪として、4章27節以下に、「一般の人のだれかが誤って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたとき」とありました。

 続いて、5章1節に、「見たり、聞いたりした事実を証言し得るのに、呪いの声を聞きながらも、なおそれを告げずにいる者」(1節)、「悪いことについてであれ、善いことについてであれ、どのような事柄についてであっても、軽はずみな誓いが立てられるようなことに関して、軽はずみな誓いを立てたならば、それを知るようになったとき、責めを負う」(4節)、と規定されます。

 また、「汚れた野獣、家畜、は虫類の死骸など汚れたものに気づかずに触れるならば」(2節)、「いかなる種類の汚れであれ、人体から生じる汚れに気づかずに触れるならば、それを知るようになったとき責めを負う」(3節)といわれます。

 上記のとおり、隣人のために証言することを拒否すること(1節)や、軽はずみな誓いを立てること(4節)と、それと気づかずに汚れたものに触れること(2,3節)とでは、罪の重さが違うのではとも思います。1節は、隣人に対する悪意に基づく故意とも言える罪であり、2,3節は、汚れに気づかずに触れたという、不可抗力的な過失、そして、4節は、善悪をわきまえずに軽はずみに誓いを立てたという罪ですが、全く同等に取り扱われています。

 誰に対してなされたものか、故意か不注意か、いずれも問題にされていないということは、隣人に対し、また神に対して、常に真実な態度、姿勢が求められ、不注意でいることは赦されないということです。これはしかし、気をつけていても過ち、失敗を犯す私たちには、大変厳しいものではないでしょうか。

 この罪の代償として、雌羊または雌山羊を献げよと言われます(6節)。この代償の大きさに、人の犯すどんな罪であれ過ちであれ、いかに重大な問題と受け止めておられるかが示されています。

 しかしながら、家庭の経済的な事情で羊や山羊をささげることが出来ない人は、二羽の山鳩とまたは二羽の家鳩を献げよと言われ(7節)、それも出来ない人は、冒頭の言葉(11節)のとおり、小麦粉十分の一エファを携えて来なさいと言われています。小麦粉十分の一エファは約2.3リットルで、これは一人が一日に食べる平均的な量だということです。貧しい者にとっては、それも大変ということはあるかも知れません。

 いずれにしても、ここに示されているのは、罪を贖う献げ物なしに、罪が赦されることはあり得ないということです。もしも罪が赦されず、神の裁きを受けなければならないとなると、「罪が支払う報酬は死」(ローマ書6章23節)ということで、自分の命で償わなければならない、ということになります。

 第一ヨハネ書1章9節に、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」とあります。「自分の罪を公に言い表すなら」、罪赦され、清められるのです。

 そして、同7節に、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とありました。つまり、神の御子イエスが贖罪の献げ物となって下さったことが分かります。人の罪の代価を払うために、神が罪も汚れもない独り子を十字架に犠牲とされたわけです。

 よって、「責めを負うときには、彼はその罪を犯したことを告白し、犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる」(5,6節)という規定に基づいて、自分の罪を主の御前に告白すると、御子キリストが贖罪の献げ物となって下さったので、それによって、私たちの罪が赦されるのです。

 これは、考えることも出来ないような恵みではないでしょうか。神はご自分に対する罪過を自ら引き受け、その代償として独り子の命を犠牲とされたのです。それほどに神が私たちを大切に思っていて下さるということです。わが子よりも私たちを大切にするという心情は、私たちの理解を超えています。あり得ないことです。ただ、私たちの罪が赦され、神との和解が実現するためには、それしかなかったのです。

 主が私たちのために血を流されたことを覚え、絶えず感謝をもって御前に進み、右にも左にもそれることがないように、真直ぐ主の御足跡に従って歩みましょう。

 主よ、屠られた小羊こそ、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるに相応しい方です。玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。 アーメン







南九州バプテスト大会 アルバム

☆連合研修会 伝道部、教会音楽部

02
伝道部研修 講師 南圭生牧師(天草中央教会)

04
教会音楽部研修 講師 麦野達一牧師(伊集院教会・教会音楽部主事)


☆南九州バプテスト大会

●開会礼拝

11
司会 馬渡健太郎牧師(枕崎伝道所)

12
賛美指揮 教会音楽部主事 麦野達一牧師

14
説教 原田攝生牧師(大牟田教会・連合会長)

13
小羊会の活動紹介 小羊会リーダー 森川邦子姉(宮崎教会)


●各会の時間

23
壮年会

21
女性会

22
青年会

24
少年少女会

27
小羊会

25
小羊会コーヒーワーク


●講演

32
講演1 東日本大震災復興支援の現場から見る 「主の絆」
     講師 金子千嘉世牧師(宮崎丸山町教会・日本バプテスト連盟副理事長)

41
分科会① 金子先生を囲んで


36
講演2 「主にある絆」-原子力発電所があるということ-
     講師 徳渕敬尚牧師(児湯教会・連盟公害問題委員)

42
分科会② 徳渕先生を囲んで


●朝の祈り会

43
奨励 宮西宏明牧師(東熊本教会)


●連合臨時総会

51
議長団(左から)  書記 吉村姉  議長 蓮池牧師  副議長 斉藤姉

52
報告 連合事務局 マウマウタン牧師(国分教会)

53
決算報告 前連合会計 川内活也牧師(川内教会)


●派遣礼拝

15
司会 蓮池昭雄牧師(宮崎教会)

16
説教 保田井建牧師(東熊本教会)



ほかにも紹介すべき方がおられたのですが、写真を撮り損ねました。ご容赦下さい。

多くの方々のご来会を感謝致します。
大会のためにご協力下さった連合役員、大牟田・熊本ブロック教役者会の先生方、ブロックに属する教会・伝道所の皆様、会場の大牟田教会の皆様に心から感謝致します。





南九州バプテスト大会

7月23日(月)~24日(火)、大牟田バプテスト教会で南九州バプテスト大会が開催されました。

大会参加者は、中学生以上が90名、小羊会(小学生/幼稚園年長児)が16名、世話役9名、託児で教師2名と子ども3名、全部合わせて120名でした。

プログラムは、初日23日(月)、開会礼拝に続いて、各会の時間、夕食を挟んで講演1、
二日目24日(火)、祈り会、臨時総会、講演2、昼食を挟んで分科会、そして派遣礼拝です。

小羊会は別プログラムで、初日に金子先生のメッセージ、二日目は大牟田動物園まで遠足、残りの時間は、ブローチの製作やコーヒーワークを行い、収益をタイ/ルワンダの子どもたちや、東日本大震災復興支援のために献げました。

大会で語られた礼拝説教、講演の動画をYouTubeにアップしました。
よろしかったら、それぞれご覧下さい。

①開会礼拝 原田攝生連合会長(大牟田教会)
 「和解の献げ物」 レビ記3章1節


②講演1 金子千嘉世牧師/連盟副理事長・東日本大震災復興支援委員(宮崎丸山町教会)
 「東日本大震災復興支援の現場から 『主にある絆』」


③講演2 徳渕敬尚牧師/連盟公害問題委員/連合教育部主事(児湯教会)
 「『主にある絆』 -原子力発電所があるということ-」


④派遣礼拝 保田井建牧師(東熊本教会)
 「主にある絆」 ヨハネ福音書15章7~11節




7月24日(火)の御言葉 「油注がれた祭司が罪を犯したために」

「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。」 レビ記4章3節


 四番目は、「贖罪の献げ物」です。2節に、「これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である」と記されており、故意に犯した罪と区別されていることに注意する必要があります。

 故意に罪を犯した者については、「主を冒涜する者であり、その人は民の中から断たれる。彼は主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う」(民数記15章30,31節)と言われており、その罪を赦し贖うための規定は、旧約聖書には存在しません。

 「過って」(シェガーガー)犯された罪とは、道から迷い出た羊の不注意による失敗といった意味です。その愚かさの故にたびたび失敗し、迷い出てしまいます。今度こそはと思いながら、指導者に迷惑をかけるということがあります。自分でもとの道に戻れないからです。

 パウロがそのことについて、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ書7章19,20節)と語っています。

 とはいえ、悪いのは自分の中に住んでいる罪で、自分自身の責任ではないと言って、裁きを免れることは、勿論出来ません。その罪を住まわせているのが、私の弱さ、愚かさなのです。私たちは神を畏れなければなりません。神を畏れることこそ、知恵の始まりだからです(箴言1章7節)。

 最初に、冒頭の言葉(3節)の通り、「油注がれた祭司」の罪が取り上げられます。「油注がれた」ということは、大祭司として聖別されたということです(出エジプト記29章7節)。大祭司には、その権威とともに、大きな責任が課せられています。そのような人物の不注意の影響は、彼一人に止まりません。職務を適切に果たさなければ、その責めが民にも及んでしまいます(3節)。

 「(自分の犯した)罪」は、ヘブライ語で「ハッタース」と言います。これは、「的を外す、道を外れる」という意味です。民を正しく導くべき祭司が道を外れて迷い出れば、当然、後に続く民も、道を踏み外すことになります。その影響は甚大です。彼は、その過失の故に、「無傷の若い雄牛を主にささげ」なければなりません。

 注解書に、「それは多くの農民にとって、一年分の収入に相当する代償であった」と記されていました。責任ある祭司の過失、不注意は、それほどに重いものであるということです。

 使徒ペトロが、「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげなさい」(第一ペトロ書2章5節)と記しています。かつて、アロンの子孫だけが祭司として立てられていましたが、今や血筋によらず、能力によらず、ただ主イエスを信じる信仰によって、すべての信徒が聖なる祭司とされるのです。

 そして、私たちが献げるいけにえは、屠られた動物ではありません。神がご自分の独り子を贖いの供え物とされたので、私たちは、贖いの供え物を神に献げる必要がなくなったのです(ヘブライ書10章10,12,18節)。

 ペトロの言う、「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは、私たち自身のことであり(ローマ書12章1節)、また、私たちの「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」です(詩編51編19節)。

 主は私たちを、御子の命という代価によって贖い出して下さいました(第一コリント書6章20節)。ゆえに私たちは、主イエスを通して恵みをお与え下さる神に賛美のいけにえ、御名を讃える唇の実を献げ(ヘブライ書13章15節)、また、隣人に対する善い行いと施しを、忘れず行います(同16節)。

 私たちが隣人に施すことの出来るもっとも善いものとは、主イエスを信じる信仰であり、それを証しする神の国の福音でしょう。私たちが毎日聖書を読み、祈ること、教会の諸集会を忠実に守ること、感謝と賛美の日々を送ることは、見える形でなされる証しです。

 人に躓きを与えるような愚かで弱い私たちの生活で、神の愛と恵みを証しすることが出来れば、どんなに幸いなことでしょうか。主は私たちの体、日々の生活を通して、その栄光を現わして下さいます(第一コリント書6章20節)。その恵みに与ることが出来るよう、共に祈りましょう。

 主よ、あなたは私たちを選び、聖なる祭司とされました。自分の知恵や力で、聖なる祭司としての務めを全うすることなど出来ません。必要な知恵や力、賜物を授けて下さい。御名の栄光のために、私たちを用いて下さい。宣教の働きが前進し、豊かな実を結ぶことが出来ますように。 アーメン







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